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揺らぐポートレイト  連載第一回



揺らぐポートレイト


誰もいない真夜中の学校のプールに

忍び込む夢を時々見る。

水泳の苦手な僕は、

優雅に泳ぐわけではなく、

ただぷかぷかと浮いているだけだ。

決まって月が明るく、

プールの水は透き通っていて

底のラインまで月明かりが届いている。

飛び込み台に誰かが座って

白いスカートから伸びる細い足を

水にパタパタさせている。

それは想いの届かなかった女の子で

彼女はすっかり大人になり

こっそりプールに忍び込んだ中学生の僕を

たしなめる。

けれども口元には微かに

笑みが浮かんでいて

ただ、からかっているだけだということが

わかる。

水泳の授業はサボるくせに

なんでプールに忍び込んでるの?と。

授業では、こんな風に

ぷかぷかしていられない。

水の中ではこうしているのが一番楽しい。

君はいつも優雅に泳いでいたね?

まるで魚のようだったよ。

そうね、もしかしたら前世は、

魚だったのかもしれないわ。

ねぇ、ひとつお願いがあるの。

あなたは、絵が上手だったわよね。

私を描いてほしいの。

でも、今の私ではなくて

あなたと同じ中学生の私を。

よく覚えているでしょ?私のこと。

その記憶の中の私でいいわ。

大人になってしまった

今の私のことは忘れて。

だって、大人になるとどうしても、

ずるい顔になってしまうから。

仕方のないことなの、生きていくためには。

あなたもきっと、そうなるわ、ずるい顔に。

だから、そうなる前のあなたに、

そうなる前の私を描いて欲しいの。

どう、描いてくれる?

どうして大人になったあの子が、

僕にそんなことを頼むのか事情がよくわからなくて、

僕は混乱する。

夢はまだ続いていく。

もし、描いてくれたら、

私はあなたに泳ぎを教える。

だって、前世は魚だったかもしれないから、

誰よりも上手く教えられるはずよ。

はっきり言って、そんな風に

ぷかぷかしているより、

クロールで泳いだ方が、きもちいいわよ。

そうしたら授業もサボる必要ないし、

クロールをするあなたを見たら、

中学生の私はあなたを

振らなかったかもしれないわ。

どう?

素敵な提案じゃない?

きみは、その絵をどうするの?

そうね、毎日一番眼につく場所に飾るわ。

そして、眺めるの、もうこれ以上

ずるい大人にならないようにね。

そんなにずるいの?

ちょっと自分では嫌になるくらい。

そんな風には見えないけど?

それが大人というものよ。

そうなんだ。わかった、描くよ。

中学生の君でいいんだね。

ありがとう。出来上がったら教えて。

クロールを教えにまたここに来るわ。

了解。

もし、クロールが出来たら

君は僕と付き合ってくれるのかな?

それは、今の私にはわからない。

中学生の私に、もう一度告白してみて。

ずるいな、やっぱり、君は。

いつも夢はそこで終わる。

 目覚めると寝室の一番眼につく壁に飾ってある中学生時代の美苗の肖像画と目が合う。隣で美苗はまだ寝息を立てて眠っている。雪仁は朝のジムに泳ぎに行く。未だに上手く出来ないクロールの練習をしに。一時間ほど泳いで朝食のパンを買って、ジムから帰ると美苗はダイニングテーブルに座ってパソコンとにらめっこをしている。眉間にシワが寄るくらい真剣な眼差しだ。

「どうしたの?」と尋ねると

「このメール 、なに? ちょっと読んで」とパソコンを雪仁の方に向ける。

メールは、こうだ。

【こんにちは。美苗さん

今月から世田谷に引っ越してきました。

目黒通りからすこし入った深沢という住所です。

多分、美苗さんの家の近くかと思います。

落ち着いたら、お茶でもしましょう。

また、こちらからご連絡します。

ご主人にもよろしくお伝え下さい。

では。】

「だれ?」

「知らない」

「アドレスは?」

「えっと、ktmhrs76でgmail」

「だれだそれ?」

「雪仁も知ってる人だよ、ご主人によろしくって」

「ktmhrsねぇ、だいたいこういうのは、母音抜きだからね、考えればわかりそうだけど」

「母音抜き?」

「そう、kだから、カキクケコからはじまる。次がtだから、タチツテト。その組み合わせ」

「そっか、でも何通りもあるよ?」

「二人とも知ってる人ってそんなにいないから、カ行ではじまる人」

「名前?苗字?」

「名前だな、たぶん。メールって海外でも使う想定だから」

「そうなの?」

「違うの?美苗は?」

「海外はあんまり考えたことない、可愛いとか、覚えやすいとか、あと、迷惑メールがこなさそう、とか?」

「そんなもんか」

「面倒だから、だれ?って返信しちゃう?」

「それはやめたほうがいいよ、なんかの勧誘とかウイルスだったら面倒になりそう」

「じゃあどうする?」

「無視無視。知り合いだったらまた連絡来るよ」

「そうね、 無視無視」

 パンとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませ、昨日の録音を部屋で聞き直す。雪仁は、この三ヶ月くらいずっと神倉紫帆というシンガーソングライターの録音をしている。雪仁が彼女の才能に惚れ込んで、録音をしようと口説き落とした全くの新人で、はたして世の中に受け入れられるのかどうかは今は未知数だ。今日は午後からその続きの録音作業なので、作業の段取りや仕上がりのイメージを確認しながら三、四回繰り返し聞いてみた。やはりスタジオで聞いていたものとは、違って聞こえるのだけれど、まだ録音は初期段階なので、これからの作業でよくなっていくだろうと期待し、現段階で出来の良し悪しの判断をするのはやめようと思う。とりあえず昨日の録音に関しては、初めてにしては上出来だと、本人には言っておこうと思う。部屋から出ると、ダイニングテーブルに座っていた美苗が顔を上げて、

「わかった」と得意げに言う。

「なにが?」

「名前、メールの」

「だれ?」

「香津海」

「カツミ?」

「そう、派遣で一緒だった」

「七瀬さん?」

「そう、七瀬香津海」

「でも、ktmhrsでしょ?七瀬さんならnnsじゃん」

「結婚したんじゃない、それで、引越してきたんだよ、深沢に。hrsさんと。」

「だれ、hrsさんて?」

「知らないけど、hrsだから、ヒロセとか?」

「ヒロセカツミ」

「そう、七瀬が広瀬になった」

「勝手な妄想だなぁ」

「でも、合ってそうじゃない?ね」

「可能性はあるけど、でも、まぁ、連絡待った方がいいよ」

「香津海だったらすぐ会いたい」

「だめ、待って」

「はーぃ」

「じゃあ、行ってくる。美苗は、きょうは?」

「あたしは、家で作業。買い物しとくから。帰りは?」

「神倉さんの録音だから早いよ。スタジオは七時までだから、遅くても八時かな」

「了解。行ってらっしゃい」

 神倉さんの録音は、予定の作業を時間通りに終えた。雪仁がアシスタント時代に立ち合っていた録音は、いつも予定時間をオーバーして、その為に合間に出前を食べることになり、それがさらに終了時間を遅くさせていた。そのやり方がどうしても理解出来なくて自分がメインで仕切れる録音作業は、必ず時間通りに作業を終えることにしている。時間内に上手く録れなかったら諦めて次の日に廻すというのが雪仁の基本的な考え方だった。その日の作業は、昨日の録音の物足りなさを十分に補うくらいの出来で、雪仁は満ち足りた気分で帰宅した。

「おかえり」と美苗の声がバスルームから聞こえる。湯船にお湯を張る為に、栓をしているところだった。

「早かったね」と美苗が言うので

「予定通りだよ」と雪仁は時計を確認しながら答える。

「そう、もうそんな時間?」

「うん、八時」

「そっか、朝からずっとパソコンみてたから、さっきソファに横になったらちょっと寝ちゃったみたい、ごめん」

「大丈夫。買い物は出来た?」

「一応。でも、駅前までは行けなかったから、そこのスーパーで。だから、いまいち充実してないかも」

「そう?十分だよ」

余程疲れていない限り、食事は雪仁が作る。夫婦の役割分担というより、積極的に料理はしたいと思っている。録音作業とは違った頭を使うので、ストレス解消になるという単純な理由によるものだ。でも、買い物は美苗に任せている。何を作るかを考えて買い物をするのは得意ではない。目の前に与えられた食材を見て何を作るかを考えるのが好きなのだ。その日は、ごくシンプルにごはんに味噌汁、生姜焼き、納豆、トウモロコシ、それにシラスと塩トマトの和え物を作って飲みながら料理をした。

「もしさ、ほんとに香津海だったら、そこのスーパーとかでばったり会うかもね」と美苗は朝の会話の続きを始める。

「わかるかね、しばらく会ってないでしょ?」

「六年くらい?」

「微妙だね」

「確かに。普通のおばさんになってたらどうしよう」

「あの子は、大丈夫そう」

「なんで?」

「なんとなく」

「雪仁の、なんとなくは、当たるからね」

「そう?」

「当たる」

「ごはん、出来たよ。テーブル片付けて」

「はーぃ」

 翌朝、雪仁はいつものように水泳をしにジムに行く。朝から泳いでいる人は、大抵、雪仁以外には二、三人というのが普段の様子なのだけれど、その日は、他には誰もいなかった。なので、プールの真ん中まで普通に泳いでいって、そこで仰向けになってぷかぷかと浮いてみた。他に泳いでいる人がいたら邪魔になるので出来ないことなのだけれど、監視の人もいなかったので思い切って浮いてみたのだ。プールの天井は、開閉式だけれど普段は閉まっていて、すりガラスで鉄の柱が恐竜の骨のように張り巡らされていた。夢で見た星空とは雲泥の差だった。けれども目を閉じると、水に浮いている感覚が心地よく、そのまま深海に吸い込まれていくように眠りに落ちそうになる。遠くで水しぶきの音がして波が雪仁にも届いて来たので、他に誰かが入ってきたのだろうと思い、まだあまり上手くないクロールで再び泳いで、プールサイドに上がった。雪仁が上がるとプールには女性が一人だけ、とても綺麗なフォームのクロールで一番端のコースを泳いでいた。あんな風に泳げたら楽しいだろうなと、雪仁はしばらくその女性のクロールに見惚れていた。

 朝ごはんのパンを買って帰ると、美苗はもう着替えと化粧を済ませて、出かける準備を整えていた。

「おかえり」

「ただいま」

「遅かったね」

「誰もいなかったから、ぷかぷか浮いてきた」

「ぷかぷか?」

「そう、プールの真ん中で」

「ふーん。怒られないの?」

「怒られる。でも、ほんとに誰もいなかったから。監視の人も」

「子供みたい」

「でも、綺麗なクロールの女性が飛び込んで来たからやめたけど」

「いたんじゃん、だれか」

「最初はいなかったよ」

「パン、ちょうだい。コーヒー入ってるから」

「クロワッサンとシナモンロール、どっちがいい?」

「雪仁は?」

「シナモンロール」

「じゃあ、クロワッサン」

「はい」

「あたしも、クロール、上手いんだよ」と美苗はクロワッサンをぱらぱらこぼしながら話す。

「知ってる」

「雪仁は、上手くなった?」

「前よりは。でも、あれはセンスだね。たぶん。今日の人みたいには無理だよ」

「そんなに綺麗だった?」

「うん、見惚れるくらい」

「顔は?」

「顔?メガネと帽子でわかんないよ」

「そっか、でもフォームが綺麗だと勝手に美人だと思ってない?」

「確かに。美人しかイメージにない」

「男はめでたいね」

「女子もイケメン想像するでしょ?」

「確かに。同じか」

残りのコーヒーを半分ずつ飲みきって、その日は二人一緒に部屋を出た。駅まで美苗を送る途中、ジムの前を通りかかると美苗が

「あれ、香津海じゃない?」

と交差点で信号待ちをする女性を見て言った。雪仁は、「そう?」としか返事が出来なかった。髪が濡れているその女性は、多分、朝、プールで綺麗なフォームのクロールで泳いでいた女性ではないかと、雪仁は思っていたのだった。車は青信号だったので、二人ともはっきりとは確認出来ないまま交差点を通過した。

「香津海だよ、あれ」

「そう?」

「でも、こんな朝早く、何してたんだろうね?」

「さぁ、なんかスポーツウェアっぽかったからジョギングとか?」

「そうね、でも髪濡れてなかった?」

「わかんない、汗かいたんじゃない」

「かなぁ」

「着いたよ」と駅前で美苗を降ろして、雪仁はスタジオに向かった。その日は、録音後のミックスダウンという作業で、一気に三曲を仕上げるスケジュールだったので、帰宅は深夜になった。美苗はすでに寝ているようで、鍵を開けて部屋に入ると静まり返っていた。暗い部屋には冷蔵庫の低いモーターの音が微かに響き、WiFiのシグナルが派手に点滅していた。明かりを点けずにソファに座り、暗さに目が慣れるのを待つ。慣れてくると、暗いままでも廊下の先の洗面室まで行きつけた。シャワーを浴び、顔を洗い、歯を磨いて美苗を起こさないように寝室に入ると目の前の肖像画と目が合う。中学生の美苗。去年の夏休みに雪仁が描いたものだ。雪仁は、美苗に中学生時代の写真を借りて、その絵を描いた。写真を借りる際に、美苗は、

「なんで?」と理由を知りたがったので、雪仁は、夢の話を美苗にした。

「昔から何度も見る夢があって、それは、僕は中学生で、真夜中のプールに浮いている。そこに、大人になった片想いの女の子が現れる。そして、私を描いてと言うんだ。代わりに、あなたにクロールを教えてあげるって。クロールが出来れば、僕は片想いじゃなくなるかも知れないと。つまり、僕はその子と付き合うことができるかもしれないんだ。だから、美苗を描かなくてはいけないんだ」そう雪仁が説明すると、美苗は

「よくわかんない、でも、あたしはその時の片想いの相手じゃないよ」

「そこが、ポイントなんだ。たとえば、本当の片想いの子を描いてしまったら、僕はその子と上手くいってしまうことになるかもしれない。現実を変えてしまうことになる。現実は、美苗と一緒だ。だから、現実が変わらないように、夢の中の出来事を追認するというか。そのために美苗を描く」

「でも、雪仁がクロールが出来なるようにならなくちゃいけないんじゃない?」

「そう、それは美苗が僕に教える」

「クロールを?」

「お願いします」

「あたしは、雪仁がクロール出来なくてもいいんだけど。実際、クロールが出来ない雪仁と一緒にいるし」

「でも、出来た方がいいでしょ?」

「まぁ、ね」

「ということで、どの写真にする?」

「まかせる、ここにあるものの中だったらどれでも雪仁が好きなやつでいいよ」

と美苗が言うので、雪仁は、美苗がプールの飛び込み台に座っている写真を選んだ。夢の中での女の子と同じように。そんな写真があるのが不思議だったので、その写真は誰が撮ったのかと美苗に尋ねてみたのだけれど、わからないという。飛び込み台に座っていたという記憶もないという。美苗の顔は日に焼けていて、女の子にしてはずいぶん黒かったけれど、とにかく良い写真だったのでそれに決めた。出来上がった絵を美苗は気に入ってくれて、毎日一番眼につく場所に飾りたいと言って、寝室に飾った。それも、夢と同じだったけれども、夢のその場面は美苗には話していなかった。(続く)


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by ikanika | 2017-08-31 13:40 | Comments(0)

「走る君を、見ていた」連載第五回(最終話)

 夏が終わり、亮二は否応なしに受験勉強に集中する日々を送ることになった。さほど教育熱心だとは思えなかった母親達もなにかに取り憑かれたように子供達の受験に関して口うるさくなっていて、亮二の母も例外ではなく、放課後に遊ぶなんてもってのほか、息抜きに部活に参加したくてもそういうことが許される空気でもなかった。一度、由梨と帰りが一緒になった時があった。部活が終わってしまって言葉を交わすことも少なくなっていたので、どこかよそよそしくなっているのが歯がゆかったけれど、亮二はこうして由梨と話をしている時間が一番好きなんだとはっきりと思えた。心なしか元気のない由梨は、やはり亮二の進学先が気になっているようで、

「どこか決まった?」

と遠慮がちに聞いてきた。

「まだ、というより、たぶん三つくらい受けると思う。滑り止め、本命、それと、記念」

「記念?」

「そう、ほぼ受かる見込みはないけど、万が一まぐれで受かるとか、一生に一度の高校受験だから記念にものすごくいいところを受けてみる、みたいな感じ」

「なにそれ?よくわかんない」

「どこか行きたいところがあるわけじゃないから。親たちがある程度喜んでくれれば」

「そうなの?私は行きたいところあるよ。陸上が出来て、あと・・・」

「あと、なに?」

「・・・。りょうくんは、自分の為に勉強してるんじゃないの?」

「俺が良い成績を取ると、親や塾の先生が喜ぶ、喜んでくれれば俺も嬉しい。だから、自分の為でもあるよ」

「そんなの、変だよ」

「由梨は、俺が成績がいいと嬉しくない?」

「嬉しくないことないけど。でも、いまはそれでもう一緒じゃなくなることになっちゃってるから」

「じゃぁ、由梨と同じ高校にするって言ったら?」

「そんな気ないのに、言わないの」

「ないことないけど」

「うそ、無理だよ。みんな悲しむよ、お母さんとか、せっかく学年一番とかになったのに、なんで勉強しない私と同じ高校にいくの?」

「由梨が、喜んでくれれば」とは言えずに、亮二はただ黙っていることしか出来なかった。

「ねぇ、高校いったらさぁ」と亮二は、言葉を探した。

「うん」

「・・・」

「なに?」

「いや、なんでもない」と亮二は言いかけた言葉を飲み込んでいた。

「変なの」

「うん」

「じゃぁ、私、こっちだから」

「うん、じゃぁ」

「勉強頑張って、ね」

「由梨も」

「私は、いいの」

亮二は勉強した結果がいまのこれか、と現実をどう受け止めていいのか、正直考えるのが嫌だった。いつかテレビで見た外国の映画では、男が好きな女の人を奪いに結婚式場に駆け込んでいた。亮二はなぜだかそのシーンがありえないと思いつつもどうしても頭から離れないのだった。

 二学期の期末テストの最終日に、由梨が『話があるから教室で待っていて』というメモを机の中に忍ばせてきた。最終日のテストは二科目だけだったので、テストが終わっても、まだお昼前だった。みんなは、思い思いに寄り道をしたり、友達の家に遊びに行ったりと、この先待っている受験のことは棚上げして浮かれていた。ほとんどのクラスメイトが帰るのを待って由梨が、

「帰ろうっ」と声をかけてきた。

「話は?」と言うと、

「帰り道で。とりあえず一階の下駄箱で待ってて」

と言われるがままに、靴に履き替えて一階で待っていた。ちょうど、陸上部の顧問の山岡先生が通りかかって、

「おう、亮二!何やってんだ?」といつも通りの滑舌がよく、いい声で聞いてきた。

「ちょっと、由梨を待ってて」

「そうか、あいつ、決まってよかったな」

「えっ、高校ですか?」

「あれ、まだ言ってないのかお前には。ごめんごめん、聞かなかったことにしてやってくれ。なんか直接話すってこの前報告に来た時に言ってたから。じゃあな。たまには後輩の顔見に練習来いよ!」

と言って、小走りで去っていった。そういうことか、と亮二は由梨に呼び出された理由を納得した。二人で校門を出て、しばらく無言でいると、

「ねぇ」と由梨から切り出してきた。

「決まったよ、高校。西校。推薦、陸上の」

「そう、良かったじゃん」

「うん」

「じゃぁ、また陸上の日々だな」

「うん」

「俺はもう、陸上はいいや。そんなに記録伸びる気がしないし。県大会で思い知ったよ。みんな背もデカイし、全然相手にならなかった」

「そうだよね、私も。でも、推薦で行けるなら、いいかなって、勉強したくないし」

「俺も、勉強したくない」

「りょうくんは、ダメだよ、みんなの期待の星なんだから、そうなんでしょ?」

「もう滑り止めのとこでもいい気がしてる。どうせ一緒じゃないんだから」

「一緒じゃないって?」

「由梨と」

「なんでそんなこと言うの、今更。変だよ最近、全然違うよ、今までと」

と、由梨は、少し涙声になっていたみたいだったけれども、亮二は由梨の顔を見る事が出来なかったので、由梨が泣いていたのかどうかは、はっきりとはわからなかった。正直、亮二も泣きたい気分だった。どうして由梨にこんな事を言ってしまうのか、自分をコントロール出来ないでいた。

「ただ、俺は、由梨と陸上したり、教室で話したりしたことが楽しかったって、思ってるだけだよ」

二人はしばらく黙ったまま歩き続けた。

「・・・冬休みが終わって、すぐ受験でしょ?」と由梨が沈黙を破る。

「うん」

「そしたらもう勉強しなくていいんでしょ?」

「うん」

「そうなったら、また、朝練しよっ?」

「朝練?」

「そう。朝、走るの。校庭」

「去年の冬、花壇の霜柱、踏んでたの覚えてる?」

「あぁ、由梨に注意された」

「でも、私も踏んでみた、今だから言うけど。気持ち良さそうだったから」

「なんだよ、人に注意しといて」

「気持ちよかった、そしたら、なんだかその一日は、ずっと、嬉しかった」

「うん」

「そういうこと、だから、大丈夫、高校一緒じゃなくても、全然」

「よくわかんないけど」

「いいの、だから、あと一息、頑張って。応援してるから、って、なにも出来ないけど」

「ありがとう」

全然大丈夫という由梨は、本当に大丈夫なのだろうか、亮二には由梨がクラスにいない高校生活を想像することはまだ出来そうになかった。

 受験の結果は、滑り止め一校のみ受かり、本命と記念の二つは、試験の最中から全く手ごたえがなく、結果を見に行く必要もないと思える程だった。両親や亮二に過剰な期待を抱いていた塾の先生は、そんな結果に終わったことをあまり気にしている風もなく、単純に喜んでくれた。亮二としては、そんなものかという思いがあったけれども、かと言って他に行くところがあるわけではないので、もう、受験のことは忘れることにした。

 由梨との約束通り、合格発表の翌日から朝練を始めた。

「おめでとう」と由梨はそれだけ言って、トラックを走りはじめた。亮二も由梨の後について走りはじめた。由梨の口からは白い息が規則正しく吐き出され、ポニーテールに掛かるところで空に消えていく。その後ろ姿を亮二は、ぼんやりと見ながら、こうやって一緒に走る冬の朝は、あと何回あるのだろうかと、卒業までの日々を数えていた。通常の時間に登校して来たクラスメイト達は、校庭を走る亮二と由梨の姿を見つけて、なんでもう卒業なのに走っているんだと怪訝そうな眼差しを向けて校舎に入っていった。陸上部の顧問の山岡先生も、

「お前ら、何やってんだ?」

と、いつものよく通るいい声で、叫んでいた。

亮二も由梨も、そんなクラスメイト達の視線や山岡先生の声は気にせずに、ただ走ることに集中した。そうすることで、これから二人に訪れる新しい日々への答えのようなものが見えてくる気がしていたからだ。その日から卒業式まで毎日、亮二と由梨は、朝練を続けた。お互い特に何を話すでもなく、ただ黙々と白い息を吐きながら走った。

 翌日に卒業式という朝、走り終わって更衣室に向かおうとすると、由梨が

「ちょっと待って。お願いがあるの」

と、小さな声で言った。亮二は振り向いて、由梨を見ると、俯いたまま、

「ボタン、先にちょうだい」とさらに小さな声で言った。

「ボタン?」

と、亮二は由梨が何を言っているのか理解出来なくて、聞き返してしまった。

「だから、第二ボタン」

「あっ、ボタンね、第二」

と亮二は馬鹿みたいに繰り返していた。

「明日になったら、だれか他の人に取られちゃうかもしれないから、今日、ちょうだい」

と、由梨は今度は亮二の目を見ながら言った。

「わかった。あとで、渡す。必ず」

と、亮二も由梨の目を見つめ、答えた。いつになく真剣な表情の由梨の眼差しに亮二は、もう明日で最後なんだという現実を否が応でも認識させられたのだった。

 卒業式当日は、あっけなく終わっていった。意中の男子の第二ボタンの争奪戦が繰り広げられ、そういうこととは無縁の輩たちは、いつまでも別れを惜しみ校庭のあちこちで、たむろしたり、子供みたいに追いかけっこのようなことをして時間をやり過ごしていた。さすがに先生達もすぐに帰れとは言い出せずにいつまでも見守るしかない様子だった。亮二は、由梨の予測通り、後輩を含む複数の女子からボタンをねだられ、第二でなくてもいいから、と結局全部のボタンを取られて情けない格好で帰ることになった。早々になくなっていた第二ボタンが、誰の元にいったのかということは、暗黙の了解で誰にも追求されなかったけれども、亮二と由梨がこの日、会話を交わしていないことに、多くのクラスメイトはなんとなく不自然さを感じていた。二人は、毎日の朝練を続けたことで、もう卒業式当日にあえて何かを伝えることはないとお互い感じていて、周囲が怪訝そうな顔をするくらい距離を置いていたのだった。それでも、帰り際に亮二と目の会った由梨は、全てのボタンがなくなった学ランを着ている姿を見て、

「ボタンもらっといてよかった」

と呟き、いつものように小さく笑った。それを側で聞いていた八百屋の田中は、

「いいなぁ、お前らは」

と、いままでなら大袈裟に冷やかしてきたはずなに、この時はやけに大人びた口調でそう言った。その感じが亮二には、もう何かが終わってしまったのだということを告げているように聞こえた。


(終わり)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


この話は、今から10年くらい前に、途中まで書いてそのままにしていたもので、

まだカフェを始めていない時のものです。

終わりをどうしようかと考え始めたら、書けなくなってしまい、ずっと放置していました。

『季節のリレー』を書いている途中で、主人公がリンクしてきて、

止まっていた物語を『季節のリレー』と並行して、

また途中から書き出しました。

中学校時代に自分が本当にこんなことを考えていたのかは

もう随分と昔のことなので記憶が曖昧ですが、

当時は自分の気持ちや想いをきちんと言葉にする術を知らなかっただけで、

今振り返ればこういうことだったのかもしれない、という感じでしょうか。


次に掲載する話は、

『季節のリレー』の最後で、タダユキが書き始めた物語です。

「揺らぐポートレイト」というタイトルです。

カフェという舞台は離れて、再三登場する、“プールに浮かぶ”話を

軸に物語が進んでいきます。

順次、アップしていきますので、また、お付き合いください。


cafeイカニカ

平井康二










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by ikanika | 2017-08-18 16:03 | Comments(0)

「走る君を、見ていた」連載第四回

 翌日から亮二は由梨に会うと、どうしてもあの涙を浮かべた顔が思い出されて、今までのように軽く言葉を交わせなくなっている自分がいることに気づいているのだけれど、意識すればするほど、由梨の前では、無口になってしまうのだった。ちょうど梅雨の季節で、校庭での練習が出来ない日が続いて、そうなるとみんなと一緒に室内の狭い廊下で基礎練習をしなくてはならない。室内の練習だとハードルの個人練習は当然不可能で、亮二は一人の世界に浸れる個人練習が出来ないというのがこんなにも苦痛だということを身にしみて感じていた。一人で黙々とハードルの練習をしながら、遠くで走る由梨を時々眺め、何を考えているというわけではない全く一人の時間が亮二にとっては至福の時間なのだった。ハードルを飛ぶ自分が呼吸する音と、他の部活の掛け声や歓声などを遠くに聞き、時折、由梨が小さく手を振る姿を見つけて、また、黙々と練習をする。そういう一連の流れに沿って過ぎていく時間が今の亮二には必要だった。室内の練習では、否が応でも近くに由梨がいて、由梨だけではなく他の部員や後輩もいて、そういう中に由梨ときちんと会話が出来ない自分を置いておくのは苦痛以外のなにものでもなかった。由梨がどう感じているのか分からないのだけれど、亮二の様子を察してか、なんとなく話しかけてくる頻度が少なくなっているように感じる。それは単なる亮二の思い過ごしか、実際にそうなのか、考えれば考えるほど、また亮二は貝のように由梨の前で黙り込んでしまうのだった。鬱陶しい梅雨の季節の間、亮二の頭も晴れることなく悶々とした日々が続いた。じきに期末試験がやってきて、約一週間、部活の練習は休みとなり、由梨と話す機会もその間は一段と少なくなってしまった。亮二は出来る限り由梨のことは頭から排除して、試験勉強に取り組み、学年トップとは言わずともクラスでは必ずトップになるという目標を自分に課し、勉強に集中にした。結果、学年二位、クラストップという成績を残し、また、一躍先生たちの注目を浴びることになった。このまま夏休みも勉強すれば、かなり良い高校へ進学できると言われたが、そんなことよりも試験が終わってまた由梨のことを考える時間が増えて、胸の痛みが疼きだしたことの方が亮二にとっては重要だった。

「すごい勉強したの?」と随分久しぶりに由梨が話しかけてきた。亮二は嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分だった。

「うん、まぁ。余計なこと考えないで・・・」

「余計なこと?」

「いや、集中して、ってことだけど」

「そう、どんどん離れていっちゃうな」

「離れるって?」

「だって、このままいったら、同じ高校には行けないし」

「・・・」

「あたしが、りょうくんに追いつくのは、絶対無理。勉強嫌いだから」

「俺だって、嫌いだよ、勉強」

「でも、一番よ、クラスで」

「点数を取るゲームみたいなもんだよ」

「ゲーム?」

「そう、終わったらどんどん忘れてく。また、時期が来たら覚えて、数字を稼ぐ」

「ふーん。それでも、あたしには無理」

「由梨は、高校どこか決めてるの?陸上続けるとか」

「たぶん、陸上はやる。それだけ。行けるとこに行くだけかな。りょうくんは?」

「兄貴が私立だから、俺もそれがいいかなって思ってる。でもどこかはまだ決めてない」

「あたしも同じ私立に潜り込めないかなぁ、推薦とかで」

「でも男子校かも」

「なんでよ、あたしが一緒の高校がいいって言ってるのに」

「冗談だよ」

「もう」

「あのさぁ、この前、ごめん」

「・・・うん、泣くつもりなんかなかったのに、涙が止まらなくなっちゃった。でも平気。りょうくんこそ、元気なかったよ、最近」

「そうか?試験だったから」

「その前からそうでしたっ」

「今は、元気だよ」

「あたしも。夏の大会、がんばろうね」

「あぁ、なんとか入賞したいね」

「一位取ってよ。あたしもがんばるから。また、一緒に表彰されよう、朝礼で」

「あれ、照れくさいんだよね」

「いいじゃん、最後だよ」

「そうだね」亮二は自分の胸の痛みのことをどう話していいのか分からないでいたのだけれど、こうして由梨と話しているうちにその痛みも自然となくなっていくのが自分でもわかった。春に、一緒のクラスになって喜んでいたのがついこの前だったのに、由梨の言うように、もう卒業後のことを考えなくてはてはいけないのかと思うと、憂鬱だった。

 夏休みの直前に市の夏の大会が開かれる。いわゆる公式大会で、この結果で県大会、そしてその先へと続いて行くことなるのだが、県大会の先まで進んだことがある先輩を知らないので、その先に何があるのかは亮二には想像出来ていない。いずれにしても、春からの練習の成果をこの大会にぶつけるので、みんな、真剣に勝負に挑む。亮二は百十メートルハードルのみの出場で、一位を目指す。由梨は八百メートルのみ。二年生の時は、三千メートルにも出場して入賞もしていたけれども、今回は、八百メートルで亮二と同じく一位を目指す。気づいたら、亮二と由梨が現在の陸上部の中心にいて、入賞も期待され、それも二人とも一位の期待をかけれらる立場になっていた。二年生と一年生の後輩部員たちは、亮二と由梨をすっかり付き合っているカップルだと思っていて何かというと、『亮二さんと由梨さんは』とか『お二人は』とかいつもセットで話題にしている。大会を一週間前に控えた金曜日の練習の時に、一年生で夏の大会に出場する佐々木という女子が下駄箱でスパイクに履き替えていた亮二と由梨のところに来て、もぞもぞしながらも話しかけて来た。

「あのぉ、先輩、すいません」

「なあに?」と由梨が答える。

「お二人は、夏の大会で最後ですよね?」と佐々木。

「そうだけど、なんで?」と亮二が答える。

「りょうくん、もうちょっと優しく言いなよ。『なんで?』じゃなくて」と由梨が亮二の口調を指摘する。

「えっ、怖かった、今の『なんで?』」

「えっ、いや、そんなでも、大丈夫です」と佐々木。

「いいのよ、はっきり言って。亮二先輩、怖いって言って」

「大丈夫って言ってんじゃん、ねぇ、大丈夫なんだよ」

「大丈夫、って言われちゃうこと自体、変だよ、大丈夫とか大丈夫じゃないとかそういう話になっちゃうことはさ、ねぇ」

「由梨、由梨、そういう誘導尋問はよくないよ、ねぇ、佐々木さん」

とまだ、佐々木が本題に入ってもいないのに亮二と由梨のキャッチボールが続くので、一年生の佐々木は、なんて言ったらいいのか戸惑ったままで、その先の質問をすることが出来ずにいた。そんな佐々木が黙ってしまったので、由梨が気遣って

「ごめん、何か話があったんだよね?」と優しく声を掛け直した。

「はい。でも、いいんです。またにします」と佐々木は蚊の鳴くような小さな声で答えた。

「ほんと?いいの?私たちに話があったんでしょ?それともりょうくんに?」

「なんだよ、それ」

「だって、りょうくん一人だと話しかけづらいもんね?」

「また、それかよ。最近話しかけてるよ、一年生に」

「おはよう、だけでしょ」

「そうでもないよ」

「あと何?」

「いろいろ」

「ほら、それだけでしょ。りょうくん、みんな怖いんだから、ねぇ、佐々木さん?」

とまた亮二と由梨のキャッチボールが始まってしまった。佐々木は、また蚊の鳴くような声で、

「お二人は、高校行っても一緒ですか?」と言った。

「?」質問の意味がわからず、亮二と由梨はお互いにしばらく見つめあった。

「一緒って、同じ高校に行くかまだわかんないし、そういうこと?」と亮二が質問を返していると、由梨が

「そうよ、私たち、ずっと一緒、ね。」と由梨が答える。

「はっ?」と亮二が言葉にならない声を発して、由梨の方を見ると、いたずらそうな目で、チラッと亮二を見てから、校庭に駆け出して行った。残された亮二と佐々木は、二人とも黙ったまま由梨の後ろ姿を眺めていた。

「練習、練習」と亮二が言って立ち上がり、佐々木を見ると、ずっと由梨の後ろ姿を見つめたまま固まっていた。亮二は、由梨が「ずっと一緒」と言った意味はどういうことなんだろうか、あのいたずらっぽい目の意味するものはなんだったのだろうかと、固まったままの一年生の佐々木のことはその場に残し、グラウンドに向かった。

 夏の市大会で、亮二と由梨は見事一位を獲得した。一学期の終業式で二人はまた壇上で並んで表彰されることになり、すっかり二人は全校公認のカップルのような見られ方をされていた。冷やかすのは八百屋の田中くらいで、他の多くは、もはや冷やかしの対象ではないと思っているらしく、由梨と亮二が二人でグラウンドで練習していても誰ももうなんの関心も示すことはなかった。市大会の次の県大会は、二人とも予選負けで、そのまま受験勉強漬けの夏休みに突入していった。三年生の練習への参加は自主的な判断に委ねられ、受験の状況次第となっていた。推薦ですでに進学先が決まったものは参加したし、入試まで勉強を続けるものは、必然的にもう退部という事になる。それでも、後輩の指導という名目で勉強の気分転換に時折練習に参加する三年生もいて、亮二も月に二、三回は参加していた。夏休みに練習で由梨にあったのは僅か一回だけで、それも台風が近づいていた日だったので午前中だけで練習は中止になってしまった。でも、なんとなく直ぐに帰る気になれず教室でダラダラと風が強くなっていく校庭を眺めながら、それぞれの受験勉強の進み具合を語り合った。亮二はまだ受験先を決めておらず、自分ではおそらくギリギリまで決まらないだろうと感じていた。両親も担任も、塾の先生も可能な限り偏差値の高いところを目指すべきだというようなことを言っていて、そうなると終わりがない。目標校が決まっていればそこに向かって成績をとれば良いのだけれど、可能な限り上、と言われてしまうと、到達点がはっきりしなくなってしまう。下手に一度、クラストップを取ってしまったが故に、周囲の期待を一身に浴びることとなってしまったのだ。亮二は、いつもテストは点を取るゲームとしか考えていなくて学力を身につけるという事とは全く違う感覚だったのだけれど、いざ進学先を決めなくてはならない状況に置かれて、もはや自分の学力に対しての周囲の誤解を修正することは困難だと感じていた。

「りょうくんは、決めたの?」と、由梨から聞かれても、

「まだ」としか答えようがなかった。

「わたし、県立だよ、私立はむり、だから」と由梨は少し淋しそうに話した。

つまりは、別々の高校に行くことになるという意味なのだけれど、自分の進学先が見えていないので、由梨には、

「そうなんだ」

ということくらいしか言えなかった。

「私立って、遠いの?」

と由梨が聞くので、

「県立の学区外のところもあるけど、家から通うよ」

と言うと、由梨は、

「よかった」

と少し安心したような表情で小さく笑った。亮二は、この由梨の笑顔を久しぶりに見て、このまま一緒の部活とクラスがずっと続いてくれればいいのにと、思った。本当は家から通う私立に行くかどうかなんていまの自分には全くわからなかった。

 夏休みもあと二日になってしまった日の夜に、亮二はこっそり家を抜け出した。受験勉強の気分転換というよりも、進学先のことと由梨のことが頭の中をぐるぐると巡っていて、どうにも落ち着かなかったからだ。向かった先は学校のプールだった。こっそり忍び込んでプールの真ん中でぷかぷかと浮きながら星でも眺めたら少しは落ち着くかな、と想像してみたのだった。プールを囲むフェンスは、男子であれば簡単に乗り越えられる高さで難なく入り込めた。月明かりを頼りに、プールサイドを歩き、音を立てないように水の中に滑り込む。クロールは苦手だったが、背泳ぎはなぜがコツを掴んでいたので、仰向けに浮かんでいることは簡単だった。月は明るかったけれども、星も月に負けないように輝いていて、水に浮かんで星空を眺めていると、夜空に吸い込まれていくような感覚になった。しばらくそうしていたら、遠くから足音が聞こえてきたので、それまで以上に音を立てないように、息をひそめて浮かんでいた。その足音の主は、どうやら犬を連れているらしく、ハァハァという犬の呼吸が近づいてきて、フェンスの近くで立ち止まったようだった。

「あれ、りょうくん?」と自分の名前を呼ぶ声に聞き覚えがあった。まさかと思って立ち上がりフェンスの外を見ると、そこには犬を連れた由梨が立っていた。

「なにしてるの、こんな時間に?」

「ぷかぷか浮かんで、星を見てた」

「見つかったら怒られるよ」

「大丈夫、こんな時間に誰も来ないよ。由梨も中に入る?」と聞くと小さく頷いたので、中から入り口の鍵を開けてあげた。由梨は、プールサイドで靴を脱ぎ、飛び込み台に座って足をぶらぶらさせて、犬は、水ぎわまで来て鼻を水につけたり、前足で水を触ってみたりして遊んでいる。

「水泳の授業はさぼるのにプールには忍び込むの?」の由梨が白いスカートから伸びる細い脚を水にパタパタさせて聞いてきた。

「授業ではこんな風に浮いていられない。怒られる。でも、水の中ではこうしているのが一番気持ちいいから」

「変なの。星見えるの?」

「うん、由梨も、寝転がれないけど上見てみなよ」

そういうと、由梨は両手を後ろについて、空を見上げた。

「ほんとだ、きれい」

亮二もまた仰向けになって水に浮かんだ。

しばらく二人で黙って星空を眺めていた。このままずっとこうしていられたらいいのにと、亮二は考えていた。

「夏休みが終わったらまた一緒だね」と由梨が言う。亮二は、由梨の言う一緒の意味がわからなかったので

「一緒って?」

と聞き返した。

「同じ教室にいつもりょうくんがいる毎日ってこと」

「部活がないのがつまんないけどね」

「うん、また一緒に走りたいね」

亮二は、トラックを走る由梨を見ながら一人で黙々とハードルを練習していたあの時間を思い出していた。由梨は、また素足を水にパタパタさせて、

「りょうくん、今度、クロール教えてあげる」と言った。

「クロールね、苦手だから。由梨は上手いよね、魚みたいに泳ぐ」

「魚って可愛くない、イルカとかのがいい」

「じゃあ、イルカ」

「じゃあ、今度ね。またこうやってこっそり忍び込んでクロールの練習ね」

「うん」と亮二は答えてみたものの、そんな時はもうやってはこないのだろうと思っていた。たぶん、由梨も同じように思っているはずだとなんとなくわかっていたのだけれど、それ以上はなにも言わずに、また星空を眺めた。そうやって、中学最後の夏休みは終わっていった。(続く)




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by ikanika | 2017-08-13 17:00 | Comments(0)

「走る君を、見ていた」連載第三回

 三学期の終わりに、来年の出場競技を決める参考のための合同記録会が開かれる。亮二の通う中学校以外にだいたい十校くらいが毎年出場し、正式な大会ではないのだが、各競技の入賞者は表彰もされる。主な目的は、自分が来年メインで出場しようと考えている競技でどのくらいの記録が出せるのかを計ることで、この大会の記録がそのまま県大会への出場を左右したりするものではない。とは言え、この大会である程度の見込みのある記録が出ないと、今から出場競技を変えたりしないといけなくなるので、それなりにきちんと取り組まないと面倒なことになる。亮二は、前から山岡先生に言われていた通りハードルへの出場を決めていて、どうなるかわからなかったリレーには、やはり一つ下の学年の高垣が出場することになった。亮二がリレーに出場しないことを知った由梨は、予想通りちょっと不機嫌に「どうして?」と誰にというわけでもなく納得できないという意思表示をしていた。その理由がなんなのか正直、亮二には依然として分からなかったが、亮二としては別にハードルで記録を出せばいいと思っているのであまり気にしないことにして大会に臨んだ。

 大会当日は、明け方までの雨が上がったばかりで湿度の高い朝を迎えた。中止なのではという心配をして山岡先生の自宅に問い合わせが殺到したらしく、朝早く連絡網で、予定通りに行われるという連絡が亮二の家にもあった。亮二の出場するハードルの予選は午後からだったので、ゆっくり起きればいいと思っていたのだが、その連絡網の電話で起こされてしまった。なので、下級生と午前中から予選のある由梨たちと同じ電車で競技場に向かうことにした。午後から行くと前日に伝えていた亮二がみんなと同じ時間にホームに現れたので、「なんでいるの?」とみんなが口を揃えて訊いてきた。亮二はなんの意図もなく正直に「連絡網で起こされたから」と答えていると、松川が意味深な顔をして「ほんとぉ?」と亮二の顔を覗き込んで来るので「ほかに何か理由があんのか?」と逆に訊き返してみた。すると松川は何か言いた気に、チラッと少し離れたところにいる由梨を見てから「別に」と言ってその会話は終わった。電車を降りたところで由梨と並んで歩く格好になった。

「りょうくん、来たじゃん、朝から。早起きはやだって言ってたのに」

「連絡網で起こされた」

「また、寝ればよかったじゃん」

「でも、後から一人で行くのもつまんないし」

「よかった」

「何が?」

「応援してもらえるから」

「予選は余裕じゃん」

「そういうんじゃないの」と言うと、由梨は早足で他の女子のところへ紛れていった。記録は、ほとんどみんな予測通りの結果に終わり、亮二も見事一位を獲得し賞状をもらい、由梨も二種目で入賞、一つは一位で大会新記録を出した。加えて今まで入賞をしたことがない長森が百メートルで三位という好記録を残し、白石小百合との別れが原動力か?と帰りの電車でみんなに冷やかされて、それを「男は、女がいない方が強くなる」とやせ我慢なのか本当にそう思っているのかよくわからならいコメントをしていた。亮二としては、白石とのことをそんな風に言えるように長森が立ち直ってくれたことが嬉しかった。翌日の朝礼で、大会の入賞者が全校生徒の前で表彰された。入賞者全員となるとさすがに人数が多かったので男女一名ずつが代表で壇上に上がり校長先生から表彰状をもらった。一位になったのは亮二と由梨だけだったので、二人が代表して壇上に上がった。先日の八百屋の田中の件があったので亮二は由梨と二人ということを今まで以上に意識してしまってなんだか恥ずかしいような、なんとも言い表せない気分で表彰式を終えた。案の定、教室に戻ると田中が、「やっぱり、亮二と由梨はいい感じだよな」というような話をみんなにしていて、亮二は聞こえてはいたのだけれど関わるのも厄介だと思って完全に無視をしていた。由梨も同じように、この前の件があってから田中の言葉にいちいち反応するのも馬鹿らしいと思い聞こえないふりを決め込んでいるようだった。

 三年生が卒業し、最高学年となった春休みの部活の練習はどことなくリラックスした毎日が過ぎていった。実質、年末から三年生は参加していなかったのだが、先輩が学校にいるのといないのとでは心の持ちようが全く違った。自分の練習に口出しをするのは、顧問の山岡先生しかいないので、マイペースで黙々と練習が出来た。ハードルをメインにしているのは亮二ひとりなので、練習の間は、自分の世界に没頭出来て、遠くから由梨が走る姿をぼんやり眺めたりしているのは、なんとも言えない心地よさがあった。

 短い春休みが終わると新学期だ。クラス替えで由梨とは違うクラスになることもあると考えると、少し憂鬱になったりもするのだが、一方で、亮二はなんとなく三年生になってもまた、由梨と同じクラスになるような気がしていて、それは、願望というよりも、どちらかと言うと確信めいたものだった。なぜかと問われても明確な理由がないのだけれど、またこの先一年間、卒業まで由梨と同じクラスで今まで通りに過ごすということが当然であるという風にしか感じられないのだった。

 始業式の当日に張り出された新しいクラスの名簿には、亮二の予測通り、E組に由梨と亮二の名前が記されていた。二年生の時と同じクラスになった女子は由梨以外に二人しかいなかったことを考えると由梨と同じクラスになったことはかなりの偶然ではあるのだけれど、亮二は特別驚きもせず、ただほっとして名簿を眺めていた。

「また同じクラスだね」と声を掛けてきた由梨も、そんなに驚いている風でもなくどちらかというと、当然だよねというような表情をして、

「今年も、よろしくね」と亮二を見上げて、いつものように微笑んで言った。

「うん、よろしく」がややぶっきらぼうに答えると

「嬉しくないの?」と由梨は真顔で聞いてきたので

「いや、嬉しい」と亮二は慌てて答えた。

「ほんと?全然そんな顔してないよ、またうるさいのと一緒かぁ、とか思ってるんでしょ。どうせ」

「そんなことないって、よかったよ、高木と一緒で」

「私は、絶対一緒になるような気がしてたの。だから、全然、驚かなかったわ。どちらかというと間違えて違うクラスになんかになってたら、先生に言おうかと思ってたくらい」

「間違えて?」

「だって、りょうくんと一緒じゃない三年生なんておかしいじゃん」

「でも、そんな個人の希望でクラスが決まるわけじゃないんじゃない?」

「じゃあ、一緒じゃなかったらどうした?」

「・・・。俺も同じクラスになるような気がしてた」

「えぇー、別に話合わせてくれなくてもいいよ。そんなこと絶対考えてないでしょ」

「マジで」

「でもさ、ヤオちゃんも一緒だよ」

「うん、うるさいからなぁ、あいつ」

「ほんと」と由梨と話していると遠くからヤオちゃんこと八百屋の田中がでかい声で「リョウジー!」と叫んで寄ってきた。

「また、一緒だよ、俺ら」と言って亮二と由梨を順番に見て、

「高木、亮二と一緒で嬉しいだろ?」とまた余計な一言を言って、由梨の心象を悪くして、三年生のスタートをきった。


 四月に入学してきた一年生たちは、部活を決めるにあたり、正式な入部の前にいつくかの部への体験入部をすることができ、陸上部にもたくさんの入部希望の新入生がやってきた。陸上部の人気の秘密はそのジャージにある。学校指定のどこのメーカーだか分からない冴えないジャージとは別に、陸上部に入るとアシックスのジャージが支給され、それを体育の授業の時でも着ることが出来るのだ。校舎から体育の授業を眺めるとアシックスのジャージはとてもオシャレでカッコよく見えて、そのジャージに惹かれて毎年かなりたくさんの体験入部の一年生がやってくる。しかし大抵が走ってばかりいる練習に一週間もすると飽きてしまい、バスケ部やサッカー部といった球技の部活へ流れていく。しかし、今年は例年よりも多く十一人の新入部員が残った。女子が四人、男子が七人という内訳だ。でも、その一年生には夏休みが終わるまではアシックスのジャージは支給されない。例年、夏休みが終わる頃には、五、六人にまで減るので、それまで残った新入部員にだけ、晴れてアシックのジャージは支給されるのだ。自分たちが三年生になってみると一年生というのはなんて幼いのだろうと亮二は思った。体も小さいし、特に男子の方が幼く見えて、足の骨なんかすぐにポキっと折れてしまいそうなくらい細かったりする。亮二が個人種目としているハードルは一年生の正式種目にはなく、二年生からの種目だったので、一年生の指導をすることはなく、黙々と一人で練習する亮二を一年生はある種、畏敬の念を抱いて見つめていた。長森や由梨は、一年生と一緒に百メートルや八百メートルの基礎練習をやったりして、指導的役割をしていたが、一年生と接する機会がほとんどない亮二は、一年生の間では、自然と別格扱いされていて、近寄りがたい存在になっていた。一年生の女子などは、亮二と言葉を交わすことは、まるでテレビに出ているアイドルタレントと話をするのと同じくらいドキドキするなどと言い出している状態になっていた(これは、由梨があとで教えてくれた)。

「りょうくん、もう少し一年生に声かけてあげたら?」と由梨は練習が終わって教室に戻ると声をかけてきた。

「なんで?」

「みんな、喜ぶと思うよ。亮二先輩と話がしたい、ってみんな思ってるもん」

「話しかけてくればいいじゃん、俺は別に避けてなんかいないよ」

「わかってないなぁ。それができないんじゃん、一年生なんだから」

「そうか?」

「決まってるじゃん、そんなの。一年生からなんて話しかけるの?先輩って怖いんだよ、ただなんとなく。それにりょうくん、無愛想だから」

「怖いか?俺」

「怖い」

「なんで?」

「だって、同じ三年の女子でもなんとなく話しかけちゃいけないみたいな空気があるって言うんだよ。一年生なんて絶対無理。ムリムリ」

「なんだよ、それ?ムリムリって」

「あたし以外の女子ともあんまり話ししないし」

「そうか?」

「別に、他の女子と仲良くしてほしいって言ってるんじゃないよ」

「じゃあ、なに?」

「だから、一年生に話しかけて、なんでもいいの。頑張ってるね、とか、おはようとかだけでも」

「なんか、偉そうだなぁ、それ」

「何言ってんの?偉いじゃん、三年だよ。それにハードルで一位でしょ?一年生にとっては雲の上の存在だよ」

「由梨だって、一位じゃん」

「あたしはいつも一緒に練習して、話してるから一年生のことがわかるの。亮二先輩と高木先輩、仲良いんですか?ってみんな訊いてくるの。それって、りょうくんのこと聞きたいからなの」

「じゃあ、教えといてよ、由梨が。俺はみんなのことを避けてるわけじゃないから、話しかけてくればいいじゃん、って言ってたよって」と亮二は少し意地悪く言った後、由梨の目を覗き込んだ。

「意地悪」と言いて由梨は泣き出しそうな顔になって俯いたまま黙り込んでしまった。亮二は、どうしたらいいのか分からなくなってしまって、とにかく近くにいて由梨の機嫌が治るのを待った。ようやく由梨が顔をあげたので、亮二はすかさず

「わかった、一年生に話しかける。明日から絶対。まずは、おはようからでいい?」

「でも、明日は朝練ないよ」と由梨。

「じゃあ、こんにちは、か?」

「変だよ、それ。りょうくんから挨拶してるみたい」

「だよね」と言った亮二を見て由梨はいつものよう笑ってくれたので、亮二はほっとして

「帰ろうよ、遅くなっちゃう」と言って二人は教室を出た。

校門の前の通りで由梨と「じゃあね」と言って別れてから、薄暗いに街灯に照らされた帰り道を歩きながら、亮二は由梨の目に浮かんだ涙を思い出しては、胸の奥の方がなんだか苦しくなってくるのをどうすることも出来なかった。(続く)



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by ikanika | 2017-08-10 21:03 | Comments(0)

「走る君を、見ていた」連載第二回

 


 二時間目が終わった休み時間に、いつものように教室の後ろのロッカーの上に座っていると、由梨が近づいてきて

「りょうくん、ちょっといい?」と言って廊下の方に出てきて欲しいという合図をした。近くにいた八百屋の田中がそれを見ていて

「高木は、なんで亮二のこと、りょうくん、って呼ぶんだ?」

と大きな声で言い始めた。

「みんなリョウジなのに、高木だけ、りょうくん、て。なんかおかしくない?」と。由梨はすぐに反論をする。

「なに言ってんの、八百屋もヤオちゃんって呼んでるじゃん、バカじゃない」

「名前じゃないじゃん、それ。俺は、田中潤っていう名前があるの」

「じゃあ、潤ちゃん、って呼べばいいの?気持ち悪い」

「うるせー」と八百屋の田中が退散してその騒ぎは終わった。確かに、亮二をりょうくんと呼ぶのは学校中で高木だけで、取り立ててそれが不自然だとか、二人はなんか怪しいなどと言われることもなく、なんとなく同じ陸上部で仲が良いんだろうというくらいにしか捉えられていないと思っていたが、今日の田中の発言が、実はみんなの気持ちを代弁していたとしたら、少し厄介だと亮二は思った。その休み時間は、田中が茶々を入れたせいで由梨と話をすることが出来ずに次の授業が始まってしまった。次の休み時間も由梨は田中に言われたことを気にしているのか、亮二のことは何もなかったかのように無視をして、結局、部活が始まるまで話をすることはなかった。いつものように更衣室で着替えて校庭に出ようと下駄箱で靴紐を結んでいると、すでにグラウンドに出ていた由梨が駆け寄ってきた。

「ちょっといい?」

「うん、さっきの続き?」

「りょうくん、吉野さんからチョコもらったら困る?」

「はぁ?」

「どうしようか悩んでるの、吉野さん。一度、りょうくんに断られたけど、バレンタインにはやっぱり、りょうくんにあげたいんだって」

「なんで由梨が聞くの?そんなこと。普通、聞くかな、そういうこと」

「りょうくんと一番話が出来るのが私だから、相談されたの。でも、もらってくれるか聞いてきてって言われたんじゃないよ。もらってくれるかなぁ、ってボソって言ってたから、聞いてあげようかと、勝手に私が」

「ひとのことはいいから、自分はどうすんの?誰かにあげるの?」

亮二は、由梨はくれるつもりなのかと聞いたつもりだったのだけれど

「わかんない。特に誰かって、いないかなぁ」というのが由梨の答えだった。亮二は「俺にくれないの?」と言おうと思ったけれど、やめておいた。

「で、吉野さんのチョコ、受け取ってくれる?」と由梨はまた聞いてくる。

「あぁ、もらわないのはかわいそうだよね。でも、お返しはしないよ」

「わかった、ありがと」

「吉野になんか言うの?」

「りょうくんに聞いたとかじゃなくて、好きだったらあげてもいいんじゃない、って感じで言おうかな」そう言って、由梨はグラウンドへ練習に戻った。亮二は面倒だな、という思いと、由梨はくれないのだろうか、という疑問とで気が重くなっていた。

  明日がバレンタインディという日の放課後の練習は、みんながなんとなく浮き足立っていた。特に長森は白石小百合と付き合い始めて、最初のバレンタインを迎えるので明日はどんな素晴らしいことが待ち受けているのかと、もう練習どころではなくなっていた。五時過ぎには吹奏楽部の練習を終えた白石小百合がいつものように校舎の脇に立って陸上部の練習が終わるのを待っていて、その姿を目にした長森は、それ以降はもう熱病の患者のようにただフラフラとランニングをしているだけでなんの練習にもなっていなかった。加えて亮二の近くに来ては、

「今日は、バレンタインイヴだよ」なんて言い出す始末で、亮二は少し意地悪く言葉を返した。

「なんだよ、そのバレンタインイヴって?バカかお前は」

「何がだよ、クリスマスの前日がクリスマスイヴなら、今日はバレンタインイヴだろ」

「なんでもいいけど、イヴだからって何かあんのか?」

「知らないけど、なんかあるんじゃないのか?小百合ちゃんもああやって待ってるし」

「待ってるのはいつもじゃん」

「亮二、教えてくれよ、イヴってなんかしなきゃいけないのか?」

「普通は、女子は手作りチョコを作んなくちゃいけないから早く帰って準備するんじゃない?」

「そうか、じゃあ、小百合ちゃんはなんで帰らないんだ?チョコ作んないのかなぁ、俺にくれるやつ」

「買って済ますんじゃない。それか、お前にはあげるつもりはないのかもよ」

「なんでだよ、付き合ってんだぜ、俺たち」

「知らないよ、そんなの自分で聞けよ。帰ってチョコ作んないの?って」

「なんだよ、亮二、冷たいなぁ。自分がもらえないからって」

「俺はもらうよ、ちゃんと」

「誰に?」

「知るか、そんなの」

亮二と長森がおしゃべりをしていると山岡先生が寄ってきて、話を聞いていたのか

「誰がチョコ作るだと?お前ら自分で作んのか?」と訳のわからないことを言って、二人の尻を軽く叩いて「ちゃんと練習しろ」と言って倉庫の方へ消えていった。長森には冗談めかして「お前にはあげるつもりはないのかもよ」と言ったが、周りの予測も同様で、長森は白石小百合からはチョコはもらえないという意見が日に日に増してきていた。その理由は、やはりあの男らしさのなくなった長森を白石小百合はもう嫌いになっていて、かと言って自分から振るのも気が引けるから、チョコをあげないという行動でその気持ちをわかってもらうという手段に出るのではないかという、かなり説得力のあるものだった。ここでチョコをあげてしまうと次は自分から振るしかなくなってしまうというのだ。一方で、あの清楚で可愛いらしい白石小百合はやはり長森を悲しませるようなことはしないという感情論的な意見も多数あり、その意見は白石小百合を天使のように遠巻きに見ている連中から出たもので、そう思いたい気持ちもわからないでもなかった。いずれにしても、長森と白石小百合が明日、どんな結末を迎えるのかは、今年のバレンタインディの最注目の話題になっていた。亮二は長森のことよりも、由梨が以前確認してきた「吉野のチョコを受け取る」という役割をどう上手くこなそうか悩み始めていた。一体、いつどうやって渡しにくるつもりなのか、明日一日のことを考えると早く終わってくれないかと憂鬱になった。

 バレンタイン当日も朝練の為、他の生徒よりも早く家を出る。駅に向かうサラリーマンに混じって亮二もいつものようにポケットに手を入れたまま家の前の一本道を歩き始めた。まっすぐ伸びた一本道の三本先の電信柱の脇に制服を着た女子が立っている。近づくと吉野だった。亮二は、無視をするもの変なので「おはよう」と軽く声を掛けた。吉野はしばらくもじもじしていたが、手に持った大きな手提げ袋を亮二に差し出した。「これ・・・」と言ったきり俯いている。亮二は、「ありがとう」と言って、返事を待ったが吉野はずっと俯いて黙ったままなので、仕方なく亮二が口を開いた。

「これ学校に持っていけないから、家に置いてくる」と言って、走って家まで戻ることにしたが、その時もまだ吉野はじっと俯いたままだった。振り向かずに家まで走って帰り、玄関も乱暴に開け、二階まで階段を駆け上がり、自分の部屋の勉強机の一番下の引き出しに吉野からのプレゼントを押し込んだ。急いで靴を履いて出ようとすると、背後で母が「何してるの?」とパジャマのまま声を掛けてきたが、いちいち相手をするもの面倒だったので「忘れ物」とだけ言って玄関から飛び出した。背後では、まだ母が「気をつけなさい」とか言っているのが僅かに亮二の耳に入ってきた。家の前の一本道に戻り吉野がいた電信柱のところを見るとすでに吉野の姿はなく、まっすぐに伸びる一本道なのでもっと先の方を歩いていないかと遠くを見たがやはり吉野の姿は見当たらなかった。どこに消えてしまったのだろうかと思ったが、朝練に遅刻しそうだったので走って学校へ向かった。学校に着くと陸上部の何人かは既にもうジャージに着替えてグラウンドに出ていたので、いつもの花壇の霜柱踏みは諦めて急いで更衣室へ飛び込み着替えを済ませ、慌てて更衣室から出ると下駄箱に由梨の姿があった。亮二に気づいた由梨は

「どうしたの?遅いじゃん、寝坊?」

「いや、違うけど」

「何かあったの?」

「いや、別に」と吉野に待ち伏せされて、とは言えずに口ごもっていると

「変なの」と言って由梨は靴紐を結んで立ち上がった。

「由梨も遅いじゃん」

「寝坊しちゃった、遅くまでチョコ作ってたから」

「チョコ、作ったんだ」

「うん、あとでね」と言ってグラウンドに駆け出していく由梨の背中を見ながら、それって俺にくれるってことだよなぁ、と考えながら亮二もグラウンドへ走っていった。長森の姿を見つけたので、昨日のバレンタインイヴをどう過ごしたのか聞こうと思って近づいてみると、なんだかいつもの元気がなく、ぼんやりしているようにも見えるが、元気がないのではなくバレンタイン当日になっていつもの熱病がさらに悪化でもしているのかと思い亮二は勢いよく顔を近づけて「どうだったバレンタインイヴ?」と意地悪く聞いてみた。すると、長森は黙ったまま一瞬、亮二の目を見ただけでほとんど無視をしてトラックを走り始めた。亮二は、何かただ事ではないと思い、心配になって長森を追いかけ、今度は本当に心配しているのだということが伝わるように「なにかあった?」と聞き直した。しばらく黙っていた長森が亮二を思いつめたように見つめ返してきた時には長森の目から大きな涙がこぼれ始めていた。それを見た亮二の方が慌ててしまい、長森の腕を掴み、トラックを走る集団から引っ張り出し校舎の脇まで連れていった。その間、長森の目からは大きな涙の粒が次々と流れ出し、話を聞き出そうにも声にならない状態で、ようやく話が出来るようになったのは、通常の登校時間になった頃だった。長森の話を要約するとだいたいこういうことになる。昨日、練習が終わり張り切ってイヴを過ごそうといつものように白石小百合と一緒に学校を出た。イヴを過ごすと言ってもいつものように白石を家の近くまで送って帰るだけなのだが、長森としては白石の口から明日のバレンタインに関して「楽しみにしてね」とか「チョコ期待しててね」みたいな甘い言葉が出てくるのではと淡い期待をしていつもの通学路を歩き始めた。いつもと白石の様子が違うのもそういう理由からだと勝手に解釈をしていた長森は、別れ際に期待とは全く正反対の言葉をもらうことになるとはその時は夢にも思っていなかったはずだ。いつもと様子が違う白石が別れ際に口ごもって言った最初の言葉は「明日、学校行かない」というものだった。一瞬、長森はどういうことだか理解が出来ずに黙っていたが、白石も黙っているので、長森はかろうじて「なんで?」と聞き返した。白石は、一言一言を噛みしめるようにゆっくりこう言った。

「明日、バレンタインでしょ。私は、長森くんにチョコをあげられないから、学校には行きたくないの。みんな私が長森くんにチョコをあげるかどうかで賭けみたいなことをしているから。だから、ごめんなさい、学校には行かないでおこうと思ったの。きちんと今日、欠席届を出したの。家の用事があるからってことで」

長森はそこまで聞いて何が起こっているのかなんとなくわかってきたのだが、起こっている事実を理解して受け入れることは全く違う次元の作業で、今、自分がどうしたらいいのか分からなくなってパニックに陥った。(長森本人がパニックだと言っていた)白石はもう一度「ごめんなさい」と言って、家の中に消えていったのだそうだ。結果から言うと、みんなの予想とは全く違う展開で、長森と白石のバレンタインはその当日を迎えることなく、長森が振られて終わった。ひとり白石の家の近くの路上に取り残された長森が、その後、無事に家まで帰ったのは奇跡で、本人はその後の記憶がないと言っていた。ただ朝練の時間にはきちんと目が覚めてこうしていつものように早朝のグラウンドに涙を流しながらもいるということなのだ。段々と登校してくる生徒が増えてきたので亮二は涙目の長森を更衣室まで連れて行き赤く腫らした目をした泣き顔が少しでも普通に戻るまで、そこでじっとさせることにした。白石小百合が学校を休んでいる事実は朝のホームルームでみんなに知れることだし、加えて長森が泣き顔をしているとなったら、大抵のクラスメイトは何が起こったかの察しがつくというものだ。出来ることならこのまま長森も家に帰って休みにしてしまった方が本人にとって、どれほど気が楽なことかと亮二は思った。事実を知っている亮二にとってもそれは同じだった。しかしそんな訳にはいかず、みんなに好奇の目に晒される一日が始まろうとしていた。

 朝練の途中で亮二と長森が姿を消したことは当然、他の陸上部員は気づいていて、ホームルーム直前に更衣室から出てきた二人を最初に見つけて好奇の目を向けたのは同じ陸上部員の松川だった。この松川は、亮二と吉野をくっつけようとして仲を取り持とうとした女子で、こういうゴシップネタに関してはとにかくお節介をいちいち焼くので亮二は基本的に無視をしている。当然、更衣室から出てきた亮二と長森のことをジロジロと見ては良からぬ想像をしていて、一時間目の休み時間には松川の勝手な想像は学年中に広まっていると覚悟しなくてはならない。どういう尾ひれがついた話になっているかまでは想像ができないが、白石小百合が休んでいる事実と亮二と長森が更衣室から出てきたという事実を上手いように結びつけて、話が膨らんでいることは間違いない。

「りょうくん、朝練どうしたの?」と最初に聞いてきたのは由梨だった。松川から何かを聞いているのか分からなかったので、「ちょっとね」と答えただけで、これ以上聞かないでくれという意思を伝えるつもりで由梨の目をじっと見つめた。由梨は一瞬何かを言おうとしたようだったが、「別に、いいけど」と言って亮二の気持ちを分かってくれたのかどうかは定かではないが、それ以上は何も聞いてこなかった。昼休みになると、方々でチョコを渡そうとしている女子と、そわそわしている男子との奇妙な駆け引きが始まっていて、亮二もご多聞にもれず、すでに二人からチョコをもらっていた。早朝の吉野の分を入れると三つになる。一方、前日に大きなダメージを受けた長森は、それから立ち直ることができずに、自分の席に座ったまま死んだように机にひれ伏して休み時間をやり過ごしていた。前日の出来事を知らなくてもその姿と白石小百合の欠席を繋ぎ合わせれば「やっぱり、振られた」という認識をされる以外に道はなく、みんな遠巻きに長森を見ていることしか出来ないでいた。あとで聞いた話だと、松川が作り上げたストーリーはこうだ。白石小百合は亮二に「長森くんにチョコはあげられないから休む。ごめんねと伝えて」と伝言を頼んだことになっていて、朝練を抜け出して更衣室でその伝言を亮二は長森に伝えたというものだ。その更衣室は修羅場になっていて、亮二と長森は殴り合い寸前だったがホームルームの時間を知らせるチャイムでお互い難を逃れた、ということも付け足されていた。

 朝から吉野の待ち伏せに遭い、長森には泣かれ、すでになんだか気疲れしてしまった亮二は、朝、由梨が「あとでね」と言っていたことも夢なのか現実だったのかよく分からなくなってしまっていた。放課後の練習まで由梨からはなんのアプローチもないので亮二は由梨からのチョコは期待しないでおこうと思うことにした。いつもの練習メニューを終えてスパイクやらウィンドブレーカーやらを抱えて更衣室に入ろうとしていると、廊下で由梨の周りに人だかりが出来ていて、なんだか賑やかになっていた。何事かと遠くから見ていると松川が寄ってきて「亮二も、貰えば。由梨の手作りチョコ」とまたお節介な感じで言ってきた。そういうことかと亮二は思い「俺はいいよ、余ったらもらう」と言って着替えを済まそうと更衣室に入った。中には長森がいて、まだ死人のように空を見ながら着替えをしていた。何か声をかけようかと迷ったが何を言っても今の長森には届かないだろうと思い黙って着替えを始めた。

「亮二、チョコもらったか?」と長森が聞いてきた。

「あぁ、一応」

「いいよな、お前は」

「良くないよ。別に」

「由梨から?」

「いや、違う」

「じゃあ、誰?」

「吉野とか」

「とかって、他にも?」

「あぁ、後輩とかだよ」

「マジかよ。でも、由梨はくれないのか、お前に?」

「知るかそんなこと。みんなに振舞ってたよ、そこで。手作りとか言って」

「お前たちさ、付き合ってんじゃないの?」

「・・・」

この直球の質問には亮二は答えられずに黙るしかなかった。付き合っていないと言えばそうだし、かと言って一番仲のいい女子は由梨であることは間違いないのだが、周りのみんながバレンタインディにチョコをあげたりするのとは、なんか違うように感じていた。

「変だよなぁ、お前ら。付き合ってもいないのにいつもあんなに仲良いし、なんでも話してる感じじゃん。俺なんか、白石と付き合ってるって言ったって、全然ろくに話も出来ないし、ついには振られるし」

「あぁ」亮二はなんて返したらいいのか言葉が見つからなかった。

「由梨も普通あげるだろ、亮二には」と長森は言い残し、先に更衣室を出ていった。「普通ね」と亮二はつぶやき、汗をかいたTシャツを脱ぎ、ワイシャツと詰襟に着替えて教室に戻った。普段はほとんど誰もいない時間なのにまだいくつかの教室には明かりがついていて、バレンタインの最後の攻防が続いていた。亮二のクラスはみんな帰ったようで明かりが消えていたので廊下側の明かりだけを点けて教室に入った。由梨もそろそろ上がってくるかな、とぼんやり考えていると、まだ陸上部のジャージのままの由梨が教室に駆け込んできた。

「なんで」と由梨はやや不満げな顔をして亮二に近づいてきた。

「何が?」と亮二もぶっきらぼうに答える。

「せっかく作ってきたのに」

「あぁ、なんか人がいっぱいいたから」

「りょうくんに食べて欲しかったんだから」と言って箱に入った手作りチョコを由梨は差し出した。箱の中には、いかにも手作り風な丸いチョコが二つ残っていて、亮二はそれをじっと見つめた。

「もらっていいの?」

「だから持ってきたの。みんなに全部食べられちゃいそうだったから、慌てて」

「そう、ありがとう。今、食べたほうがいいよね」

「うん」

「じゃあ、いただき。由梨、一個食べてよ。二個あるから」

「あたしは、作りながら散々食べたから」

「でも完成したのは食べてないでしょ?」と亮二と由梨は、ほぼ同時に一つずつチョコを口に入れた。この薄暗い教室で黙ってもぐもぐと口を動かしているお互いの顔を見ていると、なんだか急におかしくなって、二人して吹き出しそうになってしまい、必死の思いで我慢してチョコを飲み込んだ。

「美味しい?」と由梨はいつもの笑みで聞いてくる。

「うまい」

「りょうくん、吉野さんからもらった?」

「うん、もらった」

「やっぱりあげたんだ」

「朝一で」

「朝?朝練の時?」

「違う、家の近くで」

「ほんと、すごいね。吉野さん、待ってたんだ」

「あぁ、びっくりしたよ。すぐ家の近くだったから持って帰ったけど」

「それで遅れたんだ、朝練」

「そう」

「長森くん、大丈夫?」

「やばいけど、帰りは大丈夫な感じだったよ」

「りょうくんが伝言預かったってほんと?」

「全然ウソ。松川の作り話」

「そっか。でも振られちゃったんだよね」

「それは、そうだな」

「・・・着替えてくる」

「うん、ありがとう。チョコ」と亮二が言うと、由梨は手を振って階段を降りて行った。

(続く)



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by ikanika | 2017-08-07 21:06 | Comments(0)

「走る君を、見ていた」連載第一回


はじめに


今回の話は、前作「季節のリレー」の作中に登場していた小説『走る君を、見ていた』を実際に作品にしたものです。

登場人物ですが、「季節のリレー」の、マスター(岩井)、杉浦、祐実(杉浦の妻)の三人は

この『走る君を、見ていた』の中では、それぞれ順に、花井亮二、長森、高木由梨、となっています。

中学校が舞台ですが、時代は1980年代前半だと想像してください(実際自分がそうだったので)。

便利なスマホやPCなんていうものは存在しない時代を過ごしていた中学生達です。

もし、宣伝用のキャッチコピーをつけるとしたら、


ひとを好きになること

大人になっていくこと

思い通りにならなかった


という感じでしょうか(笑)

夏休みの読書として楽しんでいただけると嬉しいです。


cafeイカニカ

平井康二


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 冬の朝、校庭には薄っすらと霜が下りていて、校門から見渡すグラウンドは全体がぼんやりと白く煙っているように見える。亮二は校門を入って右手にある花壇の霜柱を右足でザクッと踏みつける。足型がひとつだけ残り、踏みつけられた霜柱が白くキラキラと光っていた。スニーカーに付いた土をコンクリートの上で落としていると同じ陸上部の由梨が

「あぁ、りょうくんだったの。昨日もやったでしょ?花壇」

と言って笑いながら声をかけてきた。

「あっ、おはよう。見てた?」

「かわいそうよ、花壇が」

「なんにも踏んでないよ。霜柱だけだよ」

「土の中に球根とか埋まってるかもしれないじゃない」

「そうなの?」

由梨は亮二の目を覗き込みながらしばらく黙っていたが、また小さく笑ってから

「行こっ、朝練遅れちゃうよ」

と言って下駄箱のある校舎の玄関まで弾むように駆けて行った。亮二も由梨のあとを追って校舎に入った。下駄箱に入っている上履きはよく冷えていて、踏みつぶされた踵は凍りついたように元へは戻らなくなっていた。ジャージに着替えて再び校庭に出ると、さっき登校して来た時よりも明るくなっていて、朝日が真横から校舎を照らしていた。校庭からは湯気のようなものが立ち昇り、同じように亮二たちの吐く息も校庭を白く曇らせていた。亮二よりも一足先に校庭に出ていた由梨は、すでにグラウンドにロープで作られた一周二百メートルのトラックを、亮二よりもたくさんの白い息を吐いて走っていた。由梨は中距離の選手なので持久走は得意なのだが、短距離、特にハードルをメイン種目にしている亮二にとっては、冬の朝練のこの持久走がどうしても嫌で仕方がない。三年生は受験間近の為、実質二年生の亮二たちがメインの選手となるので、今までのような甘えも許されないと思い、嫌々ながらも今年の朝練には休まずに参加している。そんな亮二の気分を知ってか知らずか、トラックを走っている由梨は「りょうくん、頑張って」とか言って亮二を追い抜いていく。本気になれば亮二の方が早いはずなのだが、参加することに意義があるという程度にしか考えていない朝練の持久走はゆっくり走って、時間が経つのを待っている。特に何周しなくてはいけないというような決まりごとはないので、ゆっくり走っても由梨のように早く走ってもそれは個人の判断に委ねられている。そういうところが陸上部の顧問である山岡先生の良いところで、これが必ず二十周とか言われるとみんなが途端にやる気がなくなることをよく知っていて、緩くて良いところは緩く、厳しいところは厳しくとはっきり使い分けをしていた。亮二のようにゆっくり走っていても段々と体は温かくなって、息だけではなく身体全体から白い湯気が立ち昇り、由梨なんかは風呂上がりのようにモクモクと身体中から湯気を立てて走っている。

 朝練のない生徒の登校時間になる頃に、持久走の練習も終了する。寒そうに登校してくる生徒たちに混じって、身体中から湯気を立てている自分たちは、どう見ても健康そのもので、その時だけはなんとも言えない優越感のようなものに浸ることが出来る。

「ほら、霜柱溶けちゃってる。さっきの」と由梨が花壇の足跡を指差しながら汗を拭いている。さっきキラキラしていた倒された霜柱は溶けて、そこだけ土が剥き出しになって亮二の足型がくっきりと残っていた。

「ほんとだ、いつもこうなってる?」

「うん、いつもこう。先生も気づいているはずよ。誰かが花壇に入ってるって」

「ほんと?」

「だって、こんなにくっきり跡が残ってれば、わかるよ」

「やばいね」

「それに、こんな風に溶けるってことは、普通の登校時間に踏まれたんじゃ無理だし。朝練の生徒の誰かが疑われているはずよ、私たちが」

「えっ、そう言ってたの誰か?」

「言ってないけど、そうだと思うの」

「考えすぎだよ、それ」

「知らないよ、バレても」由梨はまた小さく笑って、汗をかいたジャージを着替えに更衣室へ入っていった。

「亮二、なに話してたんだ?高木と」と同じ陸上部の長森が後ろから声をかけてきた。

「いや、別に」

「お前、今年は毎日来てるよな、朝練。去年はほどんどサボってたくせに」

「まあね、三年生もいないし、出なきゃやばいじゃん」

「そんな理由?」

「そうだよ、他に理由があるか?」

「知らないけど、高木も毎日来てんだろ?それもそういう理由か?」

「知らないよ、高木のことは」

「あっそう。着替えようぜ」と長森に促されて二人も更衣室へ向かった。

 朝練の後の午前中の授業は、体が火照って、頭もぼんやりしてしまい、全く身が入らない。だたでさえ、教室のストーブは強烈な火力で部屋全体を暖めるので、ストーブの近くの席だと熱くて仕方がない。亮二の席はストーブから真横にひとつ離れただけなので左の頬がストーブの熱でいつも火照っている。ストーブから頬の向きをずらそうとすると黒板にそっぽを向いてしまうことになるのでどうしてもそれは無理なのだ。由梨の席は、そのストーブの三つ後ろで、正面からストーブの熱を受ける形だが、いつもきちんと授業を聞いているように見える。チラチラと斜め後ろを覗いてみると、ほとんどの場合、由梨は熱心に黒板と向き合っている。たまに目が合うと。いつもの小さな笑みでちらっとこちらを見るだけで、また黒板を真剣に見つめる。亮二は、どちらかと言うと成績優秀で多少授業中にうとうとしていても大抵の先生は見逃してくれていた。別に先生に気に入られているというわけではなく、むしろ無愛想な可愛くない生徒の部類に入ると自分でも思っているくらいなのだが、テストの成績に文句のつけようがない状況がしばらく続くと先生というものは態度が一変するものなのだと、一学期に終わりに学年でトップの成績を取ってしまってからはそれが如実にわかるのだった。亮二がみんなの予想の範囲を超えて成績優秀になってしまったので、友達もそれに関してどうコメントして良いのかわからないという空気が、二学期後半になった今でも続いている。

 その日、三時間目の授業は英語で、中村先生という四十代の痩せたおばさん先生が、いつものかなりインチキな発音で教科書を読んでいた。どう聞いてもテレビで聞く英語の発音とは似ても似つかない発音だと亮二はいつも思っていて、一度そういうようなことを中村先生に言ってみたら、「あまり上手に発音してしまうと君たちがわからないから少し分かりやすくしているのよ」とややヒステリーを起こしながら答えていた。そんなことで勉強になるのだろうかと疑問に思っていたのだが、そこでそれを言ってしまうとこの先やり辛くなりそうだったので、黙って聞いていた。その日の授業でも、中村先生はインチキな発音をみんなに繰り返させていて、亮二が全く声を出していないことに気づいているようだったけれども、何もお咎めはなく平穏に授業は進んでいった。一学期の英語の期末試験で亮二は百点を取っていて、中村先生の口を完全に封じ込められる立場になっていた。大抵、一回の授業で四人がテキストを読まされることになっていて、誰に当たるかは中村先生の曖昧な記憶に委ねられている。当人は均等に当てているつもりなのだろうけれども、無意識のうちに当たりやすい生徒というものが出現していて、そのうちの一人が由梨だった。由梨は活発で陸上部のエースという認識はされていたが、勉強が好きな部類の生徒ではなく、英語も中の上くらいの成績でなんとかやり過ごしている感じだった。よく当てられることを由梨自身も認識していて、またか、という苦笑をしつつも中村先生のインチキ発音を真似てにこやかにテキスト読みをする。その由梨の発音を聞くのが亮二はいつも恥ずかしくて仕方がない。代われるものなら代わってあげたいと思うし、それが無理ならば早くその時間が終わってくれないかと思っている。由梨は校庭のトラックを、汗をかいて走っているのが似合っていて、英語のrの発音を繰り返しているのは全然似合わないと亮二は思っている。だから、そんなことを繰り返させている中村先生が憎たらしくて仕方がなかった。その日、中村先生が由梨に読ませようとしていたブロックが結構長かったので、途中から別の人に当てようと「はい、そこまでで良いです」と言って由梨を途中で制した。今日当てられるのは由梨で最後かと思っていた生徒たちはやばいと思いそわそわとして落ち着きがなくなり、中村先生と目が合わないようにみんな俯き気味で教科書に目を落としていた。

「花井くん、続きをお願い」と中村先生は亮二を指名した。亮二は由梨の読みを聞きたくなかったので、由梨がどこまで読んでいたのか全くわからず、立ち上がったのは良いが、しばらく黙って読み始めの部分を中村先生が指示するのを待っていた。意地悪な中村先生もずっと黙っていたので、教室がざわざわとし始めた時、由梨が「下から三行目」とクラス中に聞こえる声で教えてくれた。おかげで亮二はなんとか読み始めることが出来て、一箇所も間違えることなく最後まで読み終えた。中村先生は、「はい」と抑揚のない声で言い、次の授業までの宿題の指示をすると、ちょうど終わりのチャイムが鳴り、その日の英語の授業は終わった。その後の休み時間に、亮二は由梨にお礼を言おうと席の近くまで行って「ありがとう」と小さな声で言った。由梨はちらっと亮二を見て「うん」と言って俯き、机にテキストを仕舞い、亮二を見上げた。

「聞いてなかったの?私が読んでるの」

「うん、考え事してた」

「なんの?」亮二は由梨の読みを聞くと自分のこと以上に恥ずかしくなってしまうんだということを、どう伝えて良いのがわからずに、しばらく黙って考えるふりをして

「別に、いろいろ」と答えになっていない答えをした。由梨は

「答えになってないよ、それ。まっ、いいけど」と言って、いつもの笑顔で席を立ち廊下に消えていった。

 放課後の練習は、四時から六時まで毎日練習メニューが決められていて、一日休むとペースが結構乱れるので、亮二はほとんど休むことはなかった。この練習メニューは顧問である山岡先生が国体での優勝経験あり、という本格的なアスリートであったという片鱗を見せつけている。しかし本当は、それがどういうレベルものなのかは今ひとつ亮二にはピンと来ていない。オリンピックに出たとかならばもっと分かりやすいのに、と思うのだけれど、時折見せる山岡先生の走りは只者ではない雰囲気を漂わせているのは間違いなかった。練習の前半は大体みんな同じメニューでウォーミングアップを兼ねた基礎練習を全員揃って行い、後半はそれぞれの種目別に選手が集まり練習をする。ハードルを昨年の夏からメイン種目としたのは亮二だけなので、後半の種目練習は一人で黙々とこなすことになる。校庭の真ん中に作られたトラックからやや校舎よりに亮二はハードルを並べて練習をするのだが、そのさらに校舎寄りにはバレーボール部のコートが作られていてトラックとバレーコートに挟まれたようにハードルが並ぶ。バレーボール部は全員が女子なのでひとりで黙々と練習をする亮二と対照的にいつも元気いっぱいの掛け声を発していて、亮二はどうしてもその空気が好きになれず、練習場所を変えてくれないかと何度か山岡先生に打診してみたのだが、他にハードルが並べられる場所がないという理由で却下されていた。そのバレー部には、去年の夏休み前に亮二のことが好きだと告白してきた吉野がいて、一応、亮二としては付き合うつもりはないので誠実に断ったつもりでいるのだが、その後しばらく吉野が元気が無くなったとか、一人になると泣いているという噂が耳に入ってきたりしていた。その吉野のことも気になってしまうのでバレー部からは見えないところで練習をしたかったという事情もあった。亮二がハードルを使って柔軟体操をしているとトラックを集団で中距離の選手たちが走り過ぎていく。何周かに一回、その集団に目を向けると由梨がこっちを見ながら小さく手を振る。それは亮二にだけわかるような本当に小さな仕草なので亮二の後ろにいるバレー部の女子は気づいていないのだろうが、もし吉野が見ていたらと気になってしまって、由梨には申し訳ないと思いながらもきちんとしたリアクションが出来ずに無視をしているような感じになってしまう。それでも由梨は亮二が見ているのに気づくと必ず小さく手を振る。一通り種目練習が終わると最後はまた全員で軽くランニングと体操をして一日の練習メニューを終える。最後のランニングをしていると由梨が寄ってきて

「りょうくん、今日、上手く跳べてたね」と話しかけてきた。亮二も今日は何かコツを掴んだ気がして自分でも上手く跳べたと思っていたので

「うん、ありがとう」と素直にそして少し口元を緩めながら答えた。

「走りながらでもよく見えるんだ、こっち」

「うん、見える。見えなくなるのは通り過ぎてコーナーを曲がるまでだから、それ以外は見える」

「そっか、俺は、見えない。跳んでいると。よそ見してるとハードルに引っかかるしね」

「たまには見てよ、私の走り」

「見てるよ。手、振るの」

「うん」

ランニングが終わると、大きな円になっての体操なので由梨から遠く離れた格好になり、話はそこで終わった。

 練習後、校門へ向かう校舎の脇に、白石が立っている。つい最近、長森が付き合い始めた子で、吹奏楽部でフルートを吹いている。名前は小百合と言い、白石小百合なんていう名前からして既に清楚で、フルートを吹く可愛らしい子がなんで長森なんかと付き合うことになったか亮二には到底理解出来なかった。亮二に限らず、学校中の誰もが不思議なことがあるもんだと思っている。この白石小百合はこのところずっと陸上部の練習が終わるのを校舎の脇でじっと待っている。カバンを両手で持ち膝の前に下げて、赤いマフラーを口元までまきつけてまっすぐに立って待っている。その姿はまるでテレビCMに出てくる都会からやってきた可憐な転校生みたいな感じなのだ。長森は練習が終わるとニタニタとだらしない笑顔で白石に駆け寄って、「すぐに着替えてくるからね。待ってて」なんて猫なで声で言うもんだから、亮二は眩暈がしてくる。実家が水道屋の長森は、これまで一度も女子と交際したことがない上に、男兄弟の三男に生まれたものだから女子とどう接して良いのか全くわからないといって、亮二に相談をしてきたくらいなのだ。その時、まさか長森が白石小百合に交際を申し込もうとしているなんて想像もしていなくて、「お前は男ばかりの家庭で育ったんだから、そのままの調子で男らしく話せばいいんだ」と適当な返事をしておいたら、その男っぽさに白石小百合がハマってしまったのかは知らないが交際が始まっていた。しかし交際が始まると長森は男っぽさとは無縁のデレデレ状態になり、見ている方が気持ち悪くなるくらいで、亮二をはじめ周りの人間は「もう長くはない」という予測を立てている。今までいつも一緒に途中まで帰っていた長森がさっさと白石小百合のもとへ行ってしまうので、亮二は最近はひとりで帰ることになっていた。着替えが終わり教室にカバンを取りに戻ると、ちょうど由梨もカバンに教科書を入れて帰る準備をしていた。亮二は特に声も掛けずにロッカーにジャージをしまい由梨の脇を通って自分の机まで行ってカバンを手に取った。由梨がまだ席に座っているので

「まだ、帰らないの?」と声を掛けた。由梨はじっと亮二を見つめ、しばらく無言でいたが

「りょうくん、今度から、ハードルだけ?」

と小さな声で聞いてきた。「うん」と亮二は答え、由梨が次に何か言うのを待ってみたが、また黙っている。

「山岡先生から、ハードルに絞れって言われてるから。由梨は?」

「いつもと一緒」

「って、八百メートル?」

「うん」

「リレーに出れるかはわかんないしね、高垣が早かったりするじゃん、最近」

「でも、りょうくんに出て欲しいな、リレー」

「なんで?四人の中で一番遅くて出るのもなんか嫌なんだよね。足引っ張ってる感じがして」

「そんなことないよ。みんなりょうくんがいいと思ってるよ。長森くんとか」

「でも、先生が決めることだから」と亮二はリレーに関してはあまり出たくなかったので、そこでリレーの話を終えようとした。

「じゃあ、もしリレー出なかったら、大会とかハードルの時間にしか来ない?」

「そうだね、なんで?」

「別に。ただ聞いただけ」

「変なの」

「・・・・・」由梨は黙ったまま何も答えずに、カバンを持って教室を出ようとして席を立った。由梨は廊下で隣のクラスの松川と待ち合わせをしていて、二人は階段を降りていった。亮二は由梨がどうしてリレーに出て欲しいなんて言うのか分からなかった。ハードルだけじゃ駄目なのかなぁ、となんだか釈然をしないままひとりで家に帰った。(続く)


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by ikanika | 2017-08-04 21:21 | Comments(0)


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