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季節のリレー  連載第六回(最終話)

 長野へ向かう朝、東京は薄曇りで今にも雨が降ってきそうだったので、念のためスダッドレスタイヤに履き替えた。マスターは、路肩に雪はあるけど大丈夫だと言っていたのだけれど、雪に慣れた地元の人の感覚とタダユキの運転技術がマッチしているとは限らないと思ってのことだ。道中は、雨は降って来なかったけれど、ずっと曇っていて、マスターの家に近づいて来ると、遠くの山や路肩にはまだたくさんの雪が残っていた。こういう景色を想定して、マスターの影響で聞き始めたECMレコードの音源をカーステレオに用意しておいた。ECMの音が流れると、そこは長野ではなく、東欧や北欧の田舎町に迷い込んだかのような気分になった。音楽の力は凄いね、と里夏に言おうと思って助手席を見ると、気持ち良さそうに眠っていた。里夏が眠っているうちに、いつものアパートに着いた。とりあえず荷物を降ろして、マスターのカフェに向かった。扉を開けると料理のいい匂いがしていて、マスターはすでに飲み始めていた。

「おつかれさま」とマスターはいつものように淡々としている。

「マスター、お誕生日おめでとうございます」と里夏が声を掛けると、照れ臭そうに

「ありがとう」と言って、テーブルに料理を並べ始めた。大人三人とゾーイだけなので、ジャズの流れるカフェで時間はゆったり過ぎていった。ひと通り料理を食べ、空いた皿を下げようと里夏が立ち上がると、マスターは、

「まだいいよ、あとでまとめてやるから」と里夏に座るように促した。

「あれどうだった?」とマスターから聞いてきたので

「あっ、あの杉浦さんの本ですよね?」とタダユキは答えた。

「そう。タダユキも昔、ああいうの書いてたよな」

「はい、三作目に」

「似てるなぁ、って思ったよ。タダユキのを読んだ時」

「僕も、あの『走る君を、見ていた』を読ませてもらってそう思いました。大枠は違うんですけど、細部に行けば行くほど似てるかなって」

「さすが杉浦の弟子ってことかね。祐実のとこ、行ってきたんだろ?」

とマスターが切り出した。

突然、杉浦さんを杉浦と呼び奥さんの祐実さんの名前が出たので、タダユキはどうリアクションをしたらいいのか分からず、言葉が出てこなかった。ようやく出た言葉は、

「あっ、はい、祐実さん」というマスターの言葉を繰り返しただけだった。

「大丈夫だよ、そうなるだろうと思ってたから」とマスターは和かに言った。

タダユキは、ホッとして

「杉浦さんの奥さんに会って来ました。本を奥さんにも見ていただこうと。マスター、杉浦さんのこと、知っていたんですね」と会話を続けることが出来た。

「別に隠すつもりはなかったんだけどね。杉浦と俺と祐実は、中学校の同級生だよ。で、祐実は、どこまで話した?」

「奥さんは、これで全部、と仰っていたので、全部だと思います」

「祐実の言う全部がどこまでなのかわかんないけど、ほとんど聞いたわけだな」

「はい、多分ですけど。札幌での話とかも」

「こんな歳になるまで、可笑しな話だと思うだろ。俺だってそう思うよ、客観的に見ればね。でも、そんなものかなっていう風にも思ってる。祐実が話したことと、どこまで同じかわからないけど、俺も話していいかな」

「はい、お願いします」

「あのプールの中学校ね、あそこを卒業してひとりで東京に行った。男子校だったし勉強だけして退屈な毎日だったよ。時々、祐実はどうしてるかな、とか考えたりしたけど、考えたからって会えるわけじゃないし、なるべく考えないようにした。高二の夏に、久しぶりにこっちに帰って来た時に、ばったり祐実に会ってね。何を話したらいいのか全然言葉が出て来なくて、ぎこちない挨拶だけして別れた。それに、あの年代の二年間って、随分変わるだろ。だから目の前に居るのが祐実であって祐実でないような複雑な感じで。俺の中では中三で止まってるから。それ以来、大学に入ってもこっちには帰らなかった。たぶん、祐実にばったり会うのを避けていたんだと思うよ。それで、札幌ね。大学を出てレコード会社に入って、札幌に配属されたんだけど、それこそ、だれも知り合いなんかいない街だよ。まさかそこで祐実に会うなんてことは、想像していなかった。同窓会の連絡があったりさ、同級生が今何してるかってことをいちいち知らせて来る奴もいてさ、祐実と杉浦が付き合ってるってことはなんとなく知っていた。そしたら、会社に電話がかかって来た。デスクの女性が、岩井さん、お電話です、藤木さんという女性の方です、って。すぐに祐実だってわかったよ。だから、デスクの女性には、従兄弟が札幌に遊びに来ていて、とか嘘ついて、定時で上がって、祐実に会いに行ったんだ。杉浦と結婚するって報告と、この本を渡された。正直、言葉が出なかったね。何が起こってるんだか、理解できなかったよ。とりあえず、おめでとう、と言って、本読んだら感想送るね、とか言って別れたけど、何の本だかも理解していなかった。帰ってから読んだよ、一気に。変な気分だった。自分の中学校時代のことが書かれていて、それを同級生の杉浦が書いてるって。そうしたら、何日かしたら同じ本が、今度は杉浦から届いた。お気楽な手紙と共に。頭に来たとかそういうんじゃなくて、もう、何かがプツッて終わった感じがしたんだ。だから、二人には何も返事はしなかった、というか出来なかった。あとから思うとさ、多分、俺の中では、祐実とのことは中三で止まったままで、何もそこからは始まりもしないし、かと言って、終わりもしないことになっていたんだと思う。だから突然、祐実と杉浦に二人の始まりを見せられたと同時に、俺と祐実のことも二人に勝手に終わりにされてしまったと感じた。あの二人はきちんと次の季節にバトンを渡せたけど、俺は渡し損ねたんだ。バトンをどこへも渡せずに持ったまま、途方に暮れているリレー走者みたいなものだよ。受け取ったバトンを次に渡せないというのは、競技では失格だろ。本来であれば、あの物語は自分で書くべきものだったと思ったよ。ああして書くことで、終わりにしなくていけなかったんだと。でも、それを杉浦がやってしまった。それも、祐実と結婚するというお土産付きで。それ以来、俺たち三人は、会うことはなくなってしまった、というのが祐実の話だっただろ?」

「はい、何か違うんですか?」

「まぁ、とりあえずは、そういう話にしてあるけど。祐実はね、杉浦には内緒で、時々、連絡をしてきた。札幌に来たのも杉浦には内緒だったはずだ。祐実の内緒は、俺にはだいたいわかった。音楽の仕事をしていた時には、プロデューサーに俺の名前が入っているCDを見つけては、聞いたよって、連絡をしてきた。特に具体的な感想というより、ただ聞いたよってね。でも、会ったりはしていない。そうやって俺に連絡をしてきていたことは、杉浦には内緒だったはずだよ。それで、タダユキ、君だ。杉浦を師匠だという君が突然、俺の前に現れた。カフェを始めた時に、こんな風に誰でも立ち寄れる場所にいることになると、もしかしたら杉浦とか祐実に会うことになるかもな、って考えたりもしたけど、オープンして何年経ってもそんなことは起こらなかったから、もう、そういう可能性があることを忘れていた頃だった。君が現れたのは。そう来たか、って思ったよ。このサイトウという若者が俺を杉浦と祐実に引きあわせることになるのか、と。だから黙ってそうなるのを待っていた。でも、そういうことにはならずに、時が経っていって、タダユキにカフェを譲ってここに引っ込んだ。物を書きたいなんていうのは口実で、前に話した通り逃げて来た。そうしたら、しばらくして祐実から杉浦の病気のことを聞かされた。これも杉浦には内緒のはずだ。どうしてそんなことが杉浦の身に起こるのだろうと、ずっと考えたよ。タダユキも、当然知っていただろうけど、なかなか人にどう伝えていいのかわからないことだから、君は何も言わなかった、当然のことだけど。考えた末に、俺は俺で『走る君を、見ていた』を書こうって思った。それを杉浦に渡そうと。ここに来て本当に書き物をすることになった。本当の『走る君を、見ていた』を書き始めたんだ。杉浦の書いたものを元に加筆、修正するみたいな感じでね。杉浦の書いたものは、杉浦が祐実に俺とのことを取材して書かれた。それはそれで、当事者に取材してるから間違いはない。でも、祐実には祐実で、これから結婚する相手には話せないことはたくさんあった。杉浦の書いた『走る君を、見ていた』を読めばわかることだよ。それが、昔の中学校時代のことで、終わったことだとしても。まぁ、俺にとっては終わっていなかったけど。ここには、もう杉浦の実家も祐実の実家もないし、俺たちの中学時代を知る人は、ほとんどいなくなってしまった。だから集中して書くことが出来た。終わらせられなかったことを、今更だけど終わりにしようと思った。杉浦がこの世にいるうちにね。でも、間に合わなかった。杉浦は書き上がるより先に逝ってしまった。それでも一応、俺は『走る君を、見ていた』を書き上げた。もう、杉浦に読んでもらうことは出来なくなってしまったけれど。ここにその原稿がある。でも、杉浦は読まなくて逝ってよかったといまでは思ってる。こんなもの読んでしまったら、あいつの人生を、なんか、否定してしまうような気がして。祐実は決して嘘をついていたわけではないけれど、でも杉浦には話さなかったこと、話せなかったことがここには書いてあるから。そんなものを、いまさら読まされてもね。でも、俺は自分のために書かなくてはいけなかったんだと、書き上げて思った。これで、俺も終わりにできたと、遅すぎるけどね。杉浦にはもう、直接詫びることはできないけど、祐実には俺の『走る君を、見ていた』を渡して、謝りたいと思っている。きちんと、感想を送ることができなかったことを。いつまでも、二人に不要な後悔の念を抱かせ続けることになってしまったことをね」

「マスター、たぶん、祐実さんは、マスターのこと、全部、わかっていると思います。だから、大丈夫です。謝るとか、謝らないとか、そういうことは、大丈夫です、笑っていましたから」と里夏は、涙を必死にこらえて声を絞り出した。

「そう、ありがとう」とマスターはグラスに残ったワインを飲み干した。

「聞いていいですか?」とタダユキは、どうしても確認したいことがあった。

「中学校最後の夏休みの夜に、あのプールに浮いていたって、本当ですか?」

「そんなことまで聞いたのか。本当だよ。こっそり忍び込んで、ぷかぷか浮いていたら、犬を連れた祐実が現れた。彼女は飛び込み台に座って、足をぶらぶらさせながら星を見ていた。いまでも鮮明に覚えている。不思議な夜だったよ。でも、この話は、杉浦のあの本には出てこないだろ。祐実が杉浦に話さなかったからだと思うよ。二人の一番の思い出なのにね」

「僕もプールにぷかぷか浮いてる夢をよく見るって前に話したこと、覚えてます?」

「あぁ、覚えてる」

「実は去年の夏前から書き始めた物語も、そのシーンから始まっているんです。なんか思うんですけど、いま書いているプールに浮かんでいる話も、昔書いた中学校を舞台にした話も、僕の書く話はマスターの物語になっているような気がして」

「そうだね、確かにその二つはそんな気もするね、不思議と。もし、タダユキの書く話が俺の話だとしたら、俺にも里夏さんみたいな女性が現れているはず。でも、残念ながら俺の人生には現れなかった。そこは大きく違うね」とマスターは言って笑った。

「そうなんですか?」

「いまさら聞きますけど、マスターって、ずっと独身ですか?」と里夏がストレートな質問をぶつけた。

「ずっとじゃないけど。今は一人」

「じゃあ」

「その辺の話は、今日はいいかな」

「あっ、はい、、また改めて」とタダユキは、それ以上聞き出すのはやめにした。

「私も、相当気になりますけど」と里夏も身を乗り出して来たが、マスターのあまり話したくなさそうな様子を察して、気になるマスターの独身問題の話題はとりあえずその夜はおあずけになった。

里夏が「これお返しします」と『走る君を、見ていた』をマスターに差し出した。

里夏が差し出した本を見て、マスターは、

「大丈夫、二冊あるから。それは、東京に戻ったら祐実に渡してくれないかな。俺の書いた『走る君を、見ていた』と一緒に」と、里夏に自分の書いたもうひとつの『走る君を、見ていた』を手渡した。

「はい、わかりました。そうします。でも、祐実さんに渡す前にマスターの『走る君を、見ていた』読んでもいいですか?」と里夏が尋ねると

「いいよ、でも。杉浦のやつの方が、甘酸っぱくて、里夏さんは好きだと思うよ」と言ってマスターは立ち上がり、テーブルの上を片付けだした。マスターの誕生日とタダユキたちの結婚記念日は、こうして終わっていった。

帰り際にマスターはタダユキにこう言い残して帰って行った。

「プールの話、あの夜の出来事は、俺も祐実も、夢だったんじゃないかって、どこかで思ってるんだ、未だに。だからずっとふたりだけの秘密にしてた。でも、祐実はなんでタダユキには話したんだろうな」と。


 東京に戻って、タダユキは里夏より先にマスターの書いた『走る君を、見ていた』を読もうと思い、里夏にどこにあるのか尋ねた。

「本当に読んでいいのかなぁ、マスターはいいって言っていたけど」と里夏はソファに体育座りをして、タダユキを見上げる。

タダユキも、そんなことをぼんやり思っていたので、しばらく黙っていた。

「そうだよね、これは祐実さんにだけ読まれるべきものかもね」

「うん、なんかそんな気がする。読まずに、祐実さんに送ろうよ。多分、祐実さんも先に連絡して届けるとか言ってしまったら受け取ってもらえないかもしれないから。でも、祐実さんは読むべきだと思うの。マスターもそのために書いたんだし、本当に読んで欲しいと思っているはずよ、祐実さんに」

「そうするよ」

 翌日すぐに、祐実さんに二つの『走る君を、見ていた』を郵送した。杉浦さんの書いた私家版とマスターが書いたもう一つの『走る君を、見ていた』を。一週間後、丁寧なお礼状とお菓子が届いた。「とても嬉しいものをありがとう」とあったので、マスターの思いは届いたのだろうと思う。タダユキも里夏も、送ってしまってからやはりマスターの『走る君を、見ていた』の内容が気になって仕方がなく、読まずに送ってしまったことを少し後悔した。


 雨の水曜日の午後、タダユキは店のカウンターに座ってあのプールの物語が動き始めるのを待った。マスターと祐実さんが二人だけの秘密にしておいたという場面から始まる物語が、この先どうなっていくのか知りたかった。程なくして、プールに浮かぶ主人公の物語は動き始め、続きを少しだけ書くことができた。




誰もいない真夜中の学校のプールに

忍び込む夢を時々見る

水泳の苦手な僕は、

優雅に泳ぐわけではなく、

ただ、ぷかぷかと浮いているだけだ

決まって月が明るく、

プールの水は透き通っていて

底のラインまで月明かりが届いている

飛び込み台に誰かが座って

白いスカートから伸びる細い足を

水にパタパタさせている

それは想いの届かなかった女の子で

彼女はすっかり大人になり

こっそりプールに忍び込んだ中学生の僕を

たしなめる

けれども口元には微かに

笑みが浮かんでいて

ただからかっているだけだということが

わかる

水泳の授業はサボるくせに

なんでプールに忍び込んでるの?と。

授業では、こんな風に

ぷかぷかしていられない。

水の中ではこうしているのが一番楽しい。

君はいつも優雅に泳いでいたね?

まるで魚のようだったよ。

そうね、もしかしたら前世は、

魚だったのかもしれないわ。

ねぇ、ひとつお願いがあるの。

あなたは、絵が上手だったわよね。

私を描いてほしいの。

でも、今の私ではなくて

あなたと同じ中学生の私を。

よく覚えているでしょ?私のこと。

その記憶の中の私でいいわ。

大人になってしまった

今の私のことは忘れて。

だって、大人になるとどうしても、

ずるい顔になってしまうから。

仕方のないことなの、生きていくためには。

あなたもきっと、そうなるわ、ずるい顔に。

だから、そうなる前のあなたに、

そうなる前の私を描いて欲しいの。

どう、描いてくれる?


どうして大人になったあの子が、僕にそんなことを頼むのか事情がよくわからなくて、

僕は混乱する。夢はまだ続いていく。


もし、描いてくれたら、

私はあなたに泳ぎを教える。

だって、前世は魚だったかもしれないから、誰よりも上手く教えられるはずよ。

はっきり言って、そんな風に

ぷかぷかしているより、

クロールで泳いだ方が、きもちいいわよ。

そうしたら授業もサボる必要ないし、

クロールをするあなたを見たら、

中学生の私はあなたを

振らなかったかもしれないわ。

どう?素敵な提案じゃない?

きみは、その絵をどうするの?

そうね、毎日一番眼に付く場所に飾るわ。

そして、眺めるの、もうこれ以上

ずるい大人にならないようにね。

そんなにずるいの?

ちょっと自分では嫌になるくらい。

そんな風には見えないけど?

それが大人というものよ。

そうなんだ。わかった、描くよ。

中学生の君でいいんだね。

ありがとう。出来上がったら教えて。

クロールを教えにまたここに来るわ。

了解。

もし、クロールが出来たら

君は僕と付き合ってくれるのかな?

それは、今の私にはわからない。

中学生の私に、もう一度告白してみて。

ずるいな、やっぱり、君は。


いつも夢はそこで終わる。




自宅に帰り、ようやく物語が動き始めたことを里夏に伝えようと二階のリビングに上がると、里夏は、寝息を立ててソファで眠っていた。その寝顔を見ながらタダユキは「きっかけは外から来るけど、結末は自分で決めるんだよ」というマスターの言葉を思い出していた。再び物語の続きを書きはじめようと、タダユキは試しに自分の部屋の机に向かってみた。しばらくすると、物語は動き始め、タダユキ自身の言葉が流れ出した。もう、店のカウンターに座らなくても大丈夫、そして結末は自分で決めることが出来ると思えた。





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あとがき


当初は、サイトウタダユキと里夏のその後の話を書くつもりでしたが、

書き始めてみるとマスターの過去が多く語られる内容になりました。

理由は、冒頭で杉浦さんの死について書いたことに起因しています。

はじめに、で書いた通り、物語はフィクションですが、

様々なエピソードは実際にカフェや身の回りで起こった出来事が

きっかけで書かれています。

今回は、近しい人の死について自分の中で整理をしたいという気持ちが

あったことで、物語がこういう形になっていったのだと思っています。

こうして書くことで少しだけ気持ちが和らいだような気がしています。

でも、本当のところ、この世を去った人に届ける言葉はないのかもしれませんが。


今後の予定ですが、

今回の『季節のリレー』に絡んで、二つの物語を書きました。

一つは、作中に出てくる『走る君を、見ていた』。

これは、書かれている通り、中学校が舞台のお話です。

もう一つは、最後にタダユキが書き始めた、

プールに浮かんでいるシーンから始まる物語です。

タイトルはまだ未定ですが。

どちらも、完成していますので、

順次、このサイトでアップしていきます。

また、お付き合いいただけると嬉しいです。


cafeイカニカ

平井康二














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by ikanika | 2017-07-29 00:24 | Comments(0)

季節のリレー  連載第五回

 夏以来の再会の夜は、マスターの手料理と地元のお酒とであっという間に過ぎていった。

もうお酒はたくさん、という具合になってマスターはコーヒーを淹れにカウンターに立った。そして、「これ」と言って『走る君を、見ていた』を差し出した。タダユキはテーブルから立ち上がって、カウンター越しに本を受け取り、里夏に装丁を見せた。

「ありがとうございます」とタダユキは丁寧に一ページ目を開いた。冒頭の一節はこうだ。


『冬の朝、校庭には薄っすらと霜が下りていて、校門から見渡すグラウンドは全体がぼんやりと白く煙っているように見える。亮二は校門を入って右手にある花壇の霜柱を右足でザクッと踏みつける。足型がひとつだけ残り、踏みつけられた霜柱が白くキラキラと光っていた。スニーカーに付いた土をコンクリートの上で落としていると同じ陸上部の由梨が

「あぁ、りょうくんだったの。昨日もやったでしょ?花壇」

と言って小さく笑いながら声をかけてきた。』


「中学校とか、ですか?舞台は」

「そうだね」

「主人公が中学生って、杉浦さんには珍しいですね?」

「そうなんだ」

「僕が知らないだけかもしれませんが、読んだ事ないです、今まで。ありがとうございます。お借りします。ひとつだけいいですか?」

「なに?」

「この本、マスターが買ったんですか?もしかしたらプレゼントじゃないですか?誰かからの」

「いや、買ったものだよ、なんで?」

「こんなきれいな状態で保管されてるんで、もしかしたらと思って」

「プレゼントだっていうことにして、小説のネタにしていいよ」

とマスターは笑った。


東京に戻って、この本を手にした大学を出た頃のマスターを想像しながら『走る君を、見ていた』を読み進めた。物語は、中学校が舞台の青春小説で、主人公二人の淡く不器用な恋愛が描かれていてた。それは、どことなくタダユキが昔書いた中学校時代を舞台にした小説に似ていた。大きな設定は違うのだけれど、細部に行けば行くほど、タダユキの小説の中の主人公に近づいて行くように思えた。中学校を卒業するところで終わるのも同じだった。中学生の心情を大人が振り返って書くと同じようなものになるのだろうと思って、あまり深く考えずに最後まで読み終えた。マスターに返す前に、杉浦さんの奥さんにも見てもらおうと思い、連絡を取った。わざわざ申し訳ないと、電話口で何度も断られたのだけれど、これまでのお礼も兼ねて半ば強引に訪ねさせてもらうことにした。

 約束の日、里夏も仕事はないというので、二人で杉浦さんの奥さんを訪ねた。目黒の立派なお宅には、杉浦さんの書斎がまだそのままになっていて、そこらか杉浦さんが現れても不思議ではないと思わせた。奥さんは、『走る君を、見ていた』を手に取ると、しばらく無言で眺めて、タダユキたちに「わざわざありがとうございます」と深々と頭を下げた。

「これは、僕たちが昔よく行っていたカフェのマスターが持っていて、今は長野で暮らしているんですが、この夏に遊びに行った時に杉浦さんの供養を一緒にしていただきました。そうしたら、一冊だけ昔買った本があると言ってこれを見せてくれて。マスターに勧められて、装丁も素敵だったので僕もぜひ欲しい思って探し始めたんですが、全くどこにも見つからなくて、奥さんにまで問い合わせてしまったんです」

「そう」と少し間を置いてから、

「少しだけ間違いがあるわね」と奥さんは微笑みながら言った。

「僕、何か間違えました?すいません」

「違うの、そのマスターが間違えてるわ。というか、彼はそういうことにしたかったのかもしれないけど。彼は買ったんじゃなくて、プレゼントされたのよ。それに二冊持っているはず」

「えっ、どういうことですか?話がよくわからないんですけど」

「そうよね、杉浦はあなたには話してないはずだから、説明するわね。多分、彼もあなたになら話しても許してくれると思うし。彼っていうのは、あなたの言うマスターのことね」

「あ、はい、お願いします」横の里夏は、じっと奥さんを見つめたまま固まっている。

「マスターって、岩井くんでしょ。彼は中学校の同級生よ。杉浦も。三人は同じクラスだったの」

「えっ、マスターは何も言ってませんでしたよ。それにマスターは、杉浦さんことをお話ししたら、俺の一つ上か、って言ってました」

「そうね、嘘ではないわ。彼は早生まれだから。でも学年は一緒」

「それでね、この『走る君を、見ていた』は、私たちの話なの、読んだわよね?」

「はい、じゃあ、この主人公の二人は、杉浦さんと奥さんですか?」

「違うの。私と岩井くん。小説の中では、由梨と亮二かな。それで、長森というのが杉浦よ。私と岩井くんは、本当に仲が良かった。小説の中と全く一緒。私たちは、ずっと一緒なんだと思っていた。でも、まだ中学生だから、愛だの恋だのということは、正直よくわかっていなかったんだろうけど、岩井くんとはいつも一緒に居たくて、実際どの女友達よりも仲良しだった。杉浦はそんな私たちをいつも、いいなぁ、ってからかっていたわ。岩井くんと杉浦も同じ部活で、仲良しだった。小説の中の、杉浦とお嬢様の女の子とのエピソードも本当よ。なんていう名前になっていたかしら?」

「白石小百合ですか?」

「そう、そんな名前だったわね。本当の名前は、石坂百合奈ちゃんだけど。それでね、中学校を卒業すると私と岩井くんは、会わなくなってしまった、というか会えなくなってしまったの。岩井くんは勉強が出来たから東京の高校に行ってしまって、私と杉浦は、地元の同じ高校に通うことになったから。それで、岩井くんの話を杉浦とするじゃない、よくある話だけど、いつも近くにいる杉浦に気持ちが動いたのかな、交際することになってね。それから大学を出る頃までずっとそんな関係で。岩井くんは、全然地元に帰ってこなかった。東京が楽しいんだろうなって、もう会えない人になってしまったなって、私は思うことにした。その頃から、杉浦は、小説を書き始めて何か題材を探していて、ある時、君たちのことを書いていいかな、って言うの。君たち、って誰のことかわからなかったから、誰?って聞き返したら、私と岩井くんって。もちろん、実名でなければいいわ、って断る理由はないし。それで、杉浦から中学校の時の岩井くんとのエピソードを取材されて、この『走る君を、見ていた』が出来上がったというわけ。でも、どこからも出版する予定なんてないから、私家版という形で、百部くらい印刷したみたい。杉浦にとっては、とても思い入れのある作品だったから、結局どこにも版権を渡さなかったみたい。私も、なんだか嬉しかった。懐かしい思い出を記録に残してくれたみたいで。それで、岩井くんにも渡したいと思って、いろんな友達のツテを使って彼を探し出したの。そうしたら、彼は大学を卒業して入った会社の札幌営業所にいることが分かって。ちょうどその頃、杉浦と私はもう結婚の約束をしていて、結婚前に女友達三人と旅行に行こうっていう話になって。北海道にしようって、私が提案して行くことになった。もちろん、私の目的は、旅行ついでに岩井くんに会うことだったんだけど。それで、女友達二人には従兄弟が来てるからとか嘘を言って、会ったの、岩井くんに。びっくりしてたわ、何も告げずにだから。高校二年の夏休みに地元の町でちょっとだけすれ違って、ぎこちない会話をしたのが最後だったから、それ以来。私と杉浦がお付き合いをしていることは、なんとなく知っていたみたいで、結婚の報告をしたら驚いていたけど、おめでとう、と言ってくれた。それで、本を渡したの。この『走る君を、見ていた』を。そしたら更に驚いて。当然よね、自分のことが小説になっているんなんてね。ありがとう、とは言ってくれたけど、なんか複雑な表情だったとことを覚えているわ。その夜が最後ね。岩井くんに会ったのは。読んだら感想送るよ、って言って別れたけど、なにも届かなかった。もちろん私が札幌で岩井くんに会ったことは杉浦は知らないから、杉浦は杉浦で岩井くんの住所を調べて、本と手紙を送ったみたいだったけど、返事がないと言っていたわ。だから、彼は、これを二冊持っているはずよ。杉浦が送ったものと、私が札幌で渡したもの」

と言って、奥さんは手にした『走る君を、見ていた』の一番後ろのページを開いた。

「これは、杉浦が送ったものね。私のは、ここにメッセージが書いてあるの。ありがとうって」

ここまで話すと、奥さんは大きく深呼吸をして、僕ら二人を交互に見つめた。里夏は涙を浮かべていた。何の涙かはわからないけれど、涙が出てくる気持ちはタダユキにも何となくわかった。

「でもね、岩井くんがどんな気持ちでこれを読むかなんて、あの当時の私たちにはきちんと想像できていなかった。私たちは、結婚の約束をしてただ浮かれていたのよ。この本は岩井くんも喜んでくれるはず、くらいにしか考えなかった。二人とも大きな過ちを犯してしまった。杉浦はとんでもないものを書いてしまったと、私も札幌まで会いに行ってこの本を渡すなんて浅はかだったと悔やんだわ。岩井くんは、杉浦にも私にもこの本については何も言ってこなかった。それが答えなんだと私たちは思ったの。杉浦と私は結婚するということで、ひとつの季節を終えて新しい季節を迎えた気分だったけれども、岩井くんにとっては、何ひとつ終わってなんかいなかった。それを私たちが勝手にに終わらせた。そう思うの。それからは、この本のことは二人とも触れないようにした。だから、原稿も私家版もここにはないわ」

「お二人とも、ずっとマスターには会っていないんですか?」

「そうね。私は札幌で内緒で会ってからは。杉浦は、中学校を卒業してから会っていないはずよ。でも、なんとなく岩井くんが今どうしてるとかは、耳に入ってきたわ。というか私も杉浦もいつも気にしていたからだと思うんだけど。岩井くん、音楽の仕事していたでしょ、彼がプロデュースしたCDがあると杉浦はいつも買ってきて聞いていた。私にも、聞く?と言って渡してくれたけど、なんだか純粋に聞けなかった。歌詞のどこかに彼からのメッセージみたいなものが入っているんじゃないかとか、考えてしまって。そんなことあるわけないのにね。彼は、ただ仕事で音楽を作っていただけなのに、そう思って聞くとそんな風にも取れる歌詞があったりして。馬鹿みたいね。だから、彼がカフェを開いたというのもすぐに知ったわ。イカニカ。そこに行けば会えるね、なんて杉浦と話したこともあったけど、二人ともどうしても行けなかった。怖かったのかもしれないわ。だからね、サイトウさん、あなたの最初の賞を取った小説に、イカニカが出てくるでしょ?あの賞、杉浦が選考委員をしていたでしょ。だから、いつもは選考作品を先に読ませてくれることなんてなかったんだけど、あの時は、選考会議から帰ってくるなり、これ読んでみて、と言って渡されたわ。このサイトウというのはどういう人だろうね、って。でも、だからってサイトウさんに賞を、ってことではないから誤解しないでね。杉浦は、本当にあなたのことというか、作品も含めて好きだったのよ。だから弟子みたいのは面倒で嫌だねって言っていたくせに、あなただけは違ったみたい。まぁ、どこかであなたを通じて岩井くんに会うこともあるかもしれないと想像したことはあっただろうけど、それが目的ではなかったはずよ。もっとたくさんあなたには書いて欲しいと言っていたけど、書くことの難しさは杉浦自身もわかっていたから、サイトウさんが書くのをやめて岩井くんのカフェを継ぐことになった時には、さすがに、もう岩井に会いに行かないとかな、って言っていたわ。でもね、ご存知のようにその辺りから自分の身体がおかしくなってきたことに気付いたみたいで、だんだん書けなくなって、人にも会わなくなって。サイトウさんの店に行って、報告して来るって言われて驚いた。あの時は、まだ誰にも病気のことを話していなかったから、あなたが最初じゃないかしら。でも、あなたには申し訳ないけど、杉浦は、あなたに報告して来るって言っていたけど、本当は、岩井くんに報告するつもりで、あなたの店に行ったんだと私は思っているの。あなたのお店は、元々は岩井くんのお店でしょ。だから、あなたに話しながら、杉浦は岩井くんにも話していたのよ、たぶん。帰ってきて、ちゃんと話せた?って聞いたら、あぁ、話せたよ、ってそれだけ言ってベッドに入って、それ以降はほとんど寝たきりよ。一度だけ、コーヒーを飲みにあなたにお店に行ったけど、それだけ。もしかしたらばったり岩井が現れるかもね、なんて言って、出ていったんだけど、まさか、会ってないわよね?」

「はい」タダユキは小さな声でそう返事をするのが精一杯だった。

「二人とも、話しを聞いてくれてありがとう。これで全部。杉浦もいなくなってしまったし、話してしまっても、岩井くん怒らないわよね」と奥さんも少し目に涙を浮かべていた。

「また、長野に行くの?」

と、聞かれたので、本を返しに行くつもりだと、答えた。

「もし、時間があったら、まだ中学校のプールがあるか見てきて。中学校の最後の夏休みにね、夜、犬を散歩させながらプールの近くを通りかかったら、誰かが浮いているの。溺れているのかと思って近づいていったら、岩井くんだったの。何してるの?って聞いたら、星を見てるって。ぷかぷか浮きながらそう言うの。私は水着じゃなかったから飛び込み台に座って空を眺めた。本当にたくさんの星だった。その夜の景色はいまでも鮮明に思い出すわ。この話はね、杉浦にはしていないから、あの本には出てこないの。なんとなく、杉浦には話せなかった。岩井くんとの一番の思い出だから。あの夜のプールでの出来事がね」

「あのプールって?」

「もしかして、もう行ったの?」

「はい、この前。マスターに連れて行ってもらいました」

「そう。私たち、あの中学校だったのよ。もう廃校になって随分経つけど。廃校になる時に、岩井くんがどうしてもプールだけは残して欲しいと、町長にお願いしたの。岩井くんの家はもともとあの辺りの地主でね、中学校のあった土地も代々岩井くんの家の山だったから、町長も断れないわよね、それに町長、水泳選手だったからなおさらね。岩井くんの頭に私との思い出があったどうかは、わからないけど、プールは残ったの」

タダユキは、自分がよく見る夢も、今書き始めて止まっている小説も、プールに忍び込んで浮かんでいる場面から始まっているということを奥さんには言い出せず、ただ聞いていた。横に座る里夏は、さっきから静かに涙を流しながらじっとしたままだ。

「岩井くんがいまカフェにしている家は、彼の祖父が建てたものよ。素敵な洋館だったでしょ?お祖父さんが自分の趣味の部屋が欲しいと言って、部屋じゃ物足りなくなって家を建ててしまったって、岩井くんは言っていた。裕福だった、彼の家は。私の家も杉浦の家も、もうあの町にないから行くことはないけど、岩井くんの家はいまでも地主だから、いずれは、あそこに帰ると思っていたわ。もう話しすぎちゃった、ごめなさいね、今度こそ、これで全部よ、おしまいにする」

と奥さんは、なんとなく晴れやかな顔で笑って、タダユキたちを玄関先まで出てきて見送ってくれた。


「本、返しに行かないとね」というのが帰り道で里夏に言った最初の言葉だった。

「うん。でも、もう雪降っちゃったよね」

「マスターに、聞いてみるよ。春になったらで良いって」

「うん。春になったら行こうよ」

マスターには、杉浦さんの奥さんに会ったことは告げずに、春になったら本を返しに行きたいという旨のメールを入れた。すぐに、了解、待ってる、雪解けの時期が見えたら連絡する、という簡単な返信が来た。

タダユキと里夏は、杉浦さんの奥さんの話をしばらく話題にすることが出来なかった。二人とも、どこらかどう受け入れていっていいのか途方に暮れていたと思う。その冬、タダユキの物語は、真夜中のプールにぷかぷかと浮いたまま全く動き出さなかった。プールに浮いているのが自分なのかさえ曖昧になっていて、さらには飛び込み台の女の子が、想いを寄せていた子なのか、里夏なのか、さらには中学生だった杉浦さんの奥さんなのか、タダユキの頭は混乱したまま冬が終わっていった。今年は雪が少なかったから三月末には来れるようになるよ、とマスターからメールが届いたのは、三月の中頃だった。里夏のスケジュールを確認すると三月二十九日から四月三日まで滞在出来そうだったので、マスターに返信をすると、すぐにまたメールが届いた。

「二十九日は、俺の誕生日だ。よろしく!」と。実はタダユキたちもその日が結婚記念日だったのだが、そのことはマスターに伝えず

「お祝いを兼ねてお邪魔します!」と返事をした。(続く)



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by ikanika | 2017-07-26 20:38 | Comments(0)

季節のリレー  連載第四回

「里夏さん、問い詰めるね」

「だって、気になる。マスターが逃げることなんてあるのかって、ね、タダユキ」

「想像できない、確かに」

「そんなことないよ。ただね、しばらく同じ環境が続くと逃げたくなるというか」

「飽きちゃうとか?」

「いや、それとは違う。もうね、空っぽになってしまった気がしてくる。空っぽなのに、ずっとそれを続けることに耐えられなくなる。騙してる感じがして」

「自分をですか?」

「いや、お客さんとか、その時一緒に仕事している人とか、かな。カフェはね、何年か経つと自然とお客さんも入れ替わるから、こっちは同じことを丁寧にやっていれば、それでも一応は成立するんだろうけど、なんかね、一度やりきったことをまた繰り返すのが嫌でね。はじめてのお客さんにとっては、あくまでも初体験なんだろうけど、こっちは違う。またやってるって、思ってしまう。だから自分にとって新しいと思えることをいつも考える。そうやってるとどんどん消費していく。同じ量をインプット出来れば良いんだろうけど、俺にはそれができなかった。出来る人もたくさんいるんだろうけど、俺には無理だった。だからある時期が来たら空っぽになってしまったと感じた。だから、あの場所から逃げるしかなかった。充電なんていうかっこいいことじゃない。ただ逃げたかった。充電してまたやれるとも思えなかった。それで、ここに来た。ここは、誰にも会わないとこちらが決めれば、会わないで済む。アウトプットする必要はない。時々、タダユキのカフェに行って、そろそろ大丈夫かな、アウトプット出来るようになってるかな、って確認していた。けど、二年とか三年ではまだ全然駄目だった。この前行った時に、ようやく前のように出来そうな気がした。十年くらい掛かってしまったかな。ずいぶん長くここで過ごして、またアウトプットしたくなった。だからまたここでカフェをはじめて、二人に来てもらった。リハビリというかウォーミングアップというつもりで。もともと、そんなに人と会うことが得意じゃなかったはずなのに、そういう仕事ばかりをしてきた。プロデューサーだって結局は人をどう使うかというのが重要なポイントだし、カフェという場所も人ありきだしね。好きなことと出来ることの距離がみんなよりも離れていたのかもしれない。でも、やりたかったからやってこれた。時々今みたいに逃げなくてはいけなくなるけど。でも、後悔はしていない。良い選択だったと思う。それは、周りのみんなに恵まれていたから。二人もそう。みんなに感謝しかない。あと、残りの時間で何が出来るかわからないけど、いままで関わってくれたみんなに恩返しのつもりで生きていくしかないかな、って思ってる」

ここまで話すとマスターは、しばらく黙った。そして、ゾーイの頭をゆっくり撫でてコーヒーを舐めるように口にした。


 アパートに戻って、二人でもう一度マスターの話を思い返してみる。どこにも噓はないのだろうし、正直過ぎるくらいにタダユキたちにまっすぐに話をしてくれた。でも、マスターはまだ何かを伝えきれていないのではないかと、二人とも感じていた。

「畑でね、何から逃げたんですか?って聞いたら、上手くいかない恋、って冗談で言ってたけど、どう思う?」

「そう。トイレの手洗い場の『一人の居場所』は恋の話だったよ。秘密の恋の話」

「あとさ、残りの時間で何が出来るかわかんないけど、って言ってたけど、マスターまだそんな歳じゃないよね」

「うん、お酒もドクターストップだしね」

「私たち、考え過ぎ?」

「そうだよな、秘密の恋に、なんかの病気。悲劇的過ぎる。二時間ドラマの脚本みたいだ」

「タダユキだったら、そんな小説書かないね。書いたら別れる」

「なんだそれ。誓って書かないから安心して」

「もう、寝る?ゾーイも疲れてたよね」

と里夏は、タダユキに話してるのかゾーイに話してるのかわからない一言を口にしてベッドに倒れこんで、すぐに鼾をかいて寝てしまった。

 翌朝早く里夏の携帯が鳴る音で目が覚めた。電話に出た里夏は、うん、うん、という相槌を打つだけで何も言葉を発しない。かなりの時間そうしていて、最後に、

「わかった、出来るだけ早く行くようにする」と言って電話を切った。

「どうしたの?」とタダユキが聞くと、

「奈那美。前からちょっとご主人とうまくいってないって言ってたでしょ。そしたら昨夜、急に出ていってくれって言われたんだって。だからいまビジネスホテルに居て、泣いてた。ちょっと、行ってくる、いいよね?」

「あぁ、いいよ。どうせ明後日帰るつもりだったし。俺も行こうか?」

「大丈夫。タダユキはマスターと男同士で話したら」

「そうね、明後日に予定通り帰ってるから、様子を教えて」

「わかった、とりあえず駅まで送ってくれる?」

「いいよ」

「でも、コーヒーだけ飲んでから行こうかな。淹れてくれる?」

タダユキは、家から持ってきたコーヒーミルに豆を入れる。

「豆、これで終わりだ。買ってこなきゃ」というと、里夏が、

「あっ、これ、夢!」と大きな声を出したので、寝ていたゾーイもビックリして起き上がった。

「夢と一緒だよ、タダユキがコーヒー淹れてて、豆がなくなったから買いにいかなくちゃ、って言って、私は今日出て行かなくちゃならなくて、でも、泣いてないか」

「ストーブもないよ」

「そうだね。でも、ほぼ一緒。こんなアパートだった。ここにアラジンがあって、私が体育座りで泣いてたら完璧」

「完璧って、縁起でもない。早く飲んで支度した方がいいよ。鎌倉まで遠いよ」

「藤沢だよ」


 里夏が一足先に戻り、ゾーイと二人になると更にやる事がなくなったので、軽トラでマスターのカフェに行くことにした。


「マスター、あの恋の話、良いですね」とタダユキは恋の話題をマスターに振ってみる。

「タダユキに褒められると嬉しいな。自分でも、良い感じで書けたと思ってる」

「恋してるんですか?秘密の」

「俺?してないよ。あれは妄想というか、過去の経験」

「あんなこと言ったんですか?気の抜けたソーダ水、とか」

「そこは、創作、妄想」

「じゃあ、経験の部分は?」

「恋は秘密だから良い」

「マジですか?さすが、かっこいい」

「冗談半分で言ったんだよ」

「いや、違うな」

「ホントだって」

「里夏さんのその友達、どこにいる人?」

とマスターは恋の話題から話を逸らした。

「えっと、鎌倉。というか藤沢ですね」

「タダユキの家からだと、ちょっとあるね」

「一時間半くらいはかかります。マスター、前に杉浦さんの話した事ありますよね」

「あぁ、亡くなった方ね」

「明日、命日なんです」

「そうか、夏の葬儀の話してたね。なんだっけ、蝉と蕎麦屋と冷酒?だっけ」

「はい」

「じゃあ、ここで供養するか。蝉はたくさんいるから、あと蕎麦と冷酒を用意すればいいね」

「本当ですか?ありがとうございます」

「まだ去年の話だよな」

「はい。生きていれば確か五十六歳のはずです」

「俺の一つ上かぁ」

「マスターと同い年かと思ってました」

「まぁ、ここまできたら一緒みたいなもんだけど」

「本当に身体は大丈夫なんですか?」

「いまのところは、ね。心配するような事はないよ。気を付けて生活する程度で。この歳になればどこかしら壊れてくる。その程度」

「なら良いですけど。里夏も心配してて」

「ありがとう。恋するくらいだから心配ないって言っておいて」

「どこまでが冗談かわかりませんよ、それ」

マスターが蕎麦と地元の冷酒を用意してくれて、二人で杉浦さんの供養をした。マスターは杉浦さんとは面識がないのだけれど、タダユキが何度も話をしていて、歳も近かったこともあり、なんとなく他人には思えないからな、と言って一緒に盃を交わしてくれた。


 その夜、タダユキはゾーイを連れてプールに向かった。街灯などない真っ暗な山道を軽トラで走った。昼間に一度だけマスターの車で走っただけなのだけれど、道は覚えていた。この前行った時に、錆びたフェンスに穴があいている箇所を見つけていて、鍵がかかっていてもそこから入り込めそうだと思った。車をプールのすぐ脇に止めて、車のヘッドライトを点けたままフェンスの穴のある箇所を確認する。少し力を入れて穴のあいた箇所をこじ開けたら簡単に通り抜けられる程度まで広がった。車のライトを消し、ゾーイも車から降ろし、なんなく跨いで入る事が出来た。懐中電灯を一つだけ持ってきたのだけれど、月がかなり明るかったので、試しに消してみた。最初は、どこからが水なのかさえも判断がつかなかったが目が慣れてくると月明かりで十分だった。ゾーイは、やはり水際まで近寄り鼻を付けては離れて、という動作を繰り返していたが、もう深夜で眠かったのか、プールサイドで寝てしまった。タダユキは、プールの真ん中で仰向けになって、水に浮かんで星空を眺めた。クロールは上手く出来ないけれども、背泳ぎは人並みに出来るので、仰向けで浮いているのは簡単なことだった。そうやって浮いていると、身体が星空に吸い込まれていくようでもあり、深海に沈んでいくようでもある。確か、夢の中では飛び込み台に、中学校の時に想いを寄せていた女の子が、座っていた。ただその女の子は、すっかり大人になっていて白いスカートから伸びる細い脚を水につけてパタパタさせていた。そして、こう言う。

「水泳の授業はサボるくせに、なんでプールに忍び込んでるの?」と。

「授業だと、こんな風にぷかぷかしていられない。水の中ではこうしているのが一番気持ち良い」とタダユキは答える。

「ねぇ、お願いがあるの。あなたは絵が得意だったわよね。私を描いて欲しいの。中学校の時の私を。あなたの記憶の中の私でいいわ。よく覚えてるでしょ?」と彼女は続ける。

「いまの私は忘れて」と。

月明かりに照らされた飛び込み台に座る女の子の顔をよく見ると、里夏だった。

「里夏、なんでここにいるの?藤沢に着いてる頃かと」とタダユキは尋ねる。

「私は、里夏ではないわ。よく見て。あなた、クロールが出来なかったわよね。私が教えてあげるわ」と言って、飛び込み台から見事な飛び込みをしてクロールを披露した。「やっぱり、里夏じゃん」と思っていると、暗いプールサイドに上がってきたのは溺れそうになりながら必死になっているゾーイだった。水に浮かんでいるうちに夢を見ていたようだったのだが、どこからが夢だったのか判然としない。ゾーイが溺れそうになったのは現実。目の前には、びしょ濡れでハァハァと息があがっているゾーイがいる。落ち着いてくると、当然、飛び込み台に女の子が座っているところからが夢だったのだとわかってきた。タダユキがこの前から書き始めた物語でも、その女の子は、いつも見る夢と同様に中学校の時に想いを寄せていた女の子のはずだった。でも、さっきはそれが里夏に変わっていた。もしかしたらあの物語でも、女の子は本当は里夏なのだろうかと、タダユキは早く自分の店に戻って物語の続きを書きたいと思う。明日、帰ったらすぐに店に行ってみることにした。助手席にタオルをひいて濡れたゾーイを乗せてアパートに戻った。途中、マスターのカフェの前を通ったら、薄っすらと灯りが見えた。さっきプールに向かっていた時も点いていたのかは、自分が夜道の運転に必死だったせいで記憶にない。こんな時間にマスターがカフェにいるはずがないので、スタンドでも消し忘れたのだろうと思い通り過ぎたのだけれど、もし、何かの理由で居たとしたら、タダユキの車の音に気づいている筈だと思い直し、カフェに寄ってみることにした。眠っているゾーイは助手席に残し、カフェの扉を開けた。

「プールか?」とカウンターの中からマスターの声がした。

「バレてましたか」

「こんな夜中に車が走ってるなんてことは普通ないからね。どうだった、プール?」

「壊れてたフェンスの間からから忍び込んでぷかぷかして来ました。町長に怒られますか?」

「大丈夫だよ、大ごとになりそうだったら俺から説明しておく」

「すいません」

「で?」

「ぷかぷかしてたら、多分寝てしまって、夢を見たようです」

「浮きながら寝たのか?器用だね」

「たぶんですけど。いつもの夢と同じように、飛び込み台に女の子が現れて、夢と同じような話をしていたんですけど、途中からその女の子が里夏に変わって、クロールをしてたんです。あのきれいなフォームで。そして水から上がってきたらゾーイになってました」

「なんだそれ」

「いつも見るプールに浮かんでいる夢は、いま少しだけ書き始めた物語にも、登場するんです。というか、そのシーンから始まっています。物語では、飛び込み台のその女の子は確かに中学校の時に想いを寄せていた女の子で里夏ではないんですけど、もしかしたらその女の子は本当は里夏で、僕はまた里夏の物語を書き始めてしまったのかと、気になってしまって」

「そうだとして、何が問題?」

「この話は、なんとなく、哀しい結末が待っているような気がしていて」

「でも、それは、タダユキ次第じゃない」

「まぁ、はい」

「きっかけは外から来るけど、結末は自分で決めるんだよ」

「決め台詞、さすがマスター」

「からかうな」

「すいません。マスターは、こんな夜中に何してたんですか?」

「読書。君の師匠の本」

「ほんとに?」

「ほんとに。昨日のことがあったからかな、なんか呼ばれてる気がして。大学出たくらいの時に一冊だけ買って読んでた。これ。装丁が好きでずっと持ってるんだ」

「そうだったんですね」

「タダユキは読んだ、これ?」

「いえ、杉浦さんのものでも読んだものと読んでないものがあって、それは多分、読んでません。装丁も始めて見ました。タイトル何ですか?」

「『走る君を、見ていた』。今度、読んでみたら」

「はい、東京に戻ったら探してみます」

「明日は、何時に出る?」

「明日というか、もうすぐです。帰って荷物まとめたら、出ます」

「そう、気をつけてな」

「はい、アパート、ありがとうございました。オーナーさんにもよろしくお伝えください」

「また、いつでも来いよ。里夏さんと」

「はい、そうします」

マスターはもう少し本を読んでいる、というので薄暗いカフェにマスターを残し、タダユキは荷造りをしにアパートへ戻った。


 東京に帰ってから早速、杉浦さんの『走る君を、見ていた』を探してみたのだけれど、どうやっても見つからなかった。古本の業者専門のマーケットにも過去に一度だけ出品されたという記録があったのだが、それも十年くらい前のようだった。里夏にも頼んで、ライター仲間にSNSを駆使して捜索をかけたが、持っているという人は現れなかった。最後の手段で、杉浦さんの奥さんの祐実さんに問い合わせてみた。調べてみるから少し時間を下さいと、丁寧に対応してくれた。一週間くらい経った頃、奥さんから連絡が入った。奥さん曰く、『走る君を、見ていた』は、杉浦さんがまだ書き始めの頃の作品で、私家版として製作されたものだという。なので、どこかの出版社が権利を預かっているということもなく、私家版を本人が持っていたはずだと奥さんは思っていたのだけれど、書斎からは見つからず、当然、元の原稿も見当たらないという。ここまで来ると、マスターが持っているものを借りない限り読むことは出来ないということになってしまった。このことをマスターに伝える為に電話をして、今度貸して欲しいと打診してみたら、二つ返事で了解してくれた。すぐに送ると言ってくれたが、貴重な杉浦さんの私家版なので紛失してしまうと怖いと思い、近いうちに借りに行くと約束をして電話を切った。マスターに会いたいというのもあったので、里夏と一緒に、長野まで直接借りに行くことにした。

 雪が降り始めると身動きが取れなくなるからと、十月の後半に二泊の予定で長野まで車を走らせた。夏に来た時とは明らかに景色は変わっていて、見事な紅葉が楽しめた。今回も前回同様、マスターの知り合いのアパートを借りた。朝晩は、かなり冷え込むということで、アパートにはストーブが用意されていた。

「タダユキ、アラジンだよ、ストーブ」

「ほんとだ。でも、コーヒーミルも豆も持って来てないよ」

「持ってたら困るよ。私、泣きながら出て行くんでしょ。それはヤダ」

「確かに。揃いすぎだよね」

「夜はマスターのとこでごはんでしょ?」

「なんか用意してくれてるって言ってた」

「何時に?」

「六時くらいから」

「もうちょっとしたら行かなきゃね」(続く)



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by ikanika | 2017-07-19 12:45 | Comments(0)

季節のリレー  連載第三回

 八月の後半の二週間を休みにして、マスターの暮らす長野へ向かった。里夏もその間の仕事は、最小限にしてゆっくり過ごすことにした。ゾーイが一緒なのでペット同伴可の宿を探したのだけれど、さすがに二週間となると泊まれる宿が見つからなかった。マスターに相談すると、知人が持っているというアパートの部屋が空いているから貸してくれることになった。ごく一般的な2DKの間取りで、なんだか引っ越しでもしたような気分を味わえて、それはそれで良かった。宿泊代もマスターの知人ということで信じられないくらい格安で提供してくれた。家から簡単な自炊が出来る程度の道具を持参し、多少の不自由はあったが、それもまた引っ越ししたての頃の夫婦生活を思い出させてくれた。ゾーイは、キッチンの冷たい床が気に入ったようで、ほぼ一日中、そこで寝ていた。タダユキは、コーヒーだけは毎朝ちゃんと豆を挽いてドリップして飲みたかったので、家で使っているセットをそのまま持ち込んだ。豆は最初の一日分だけ持っていき、あとはマスターがお勧めの地元の焙煎屋から買うことにした。タダユキたちの乗用車だとこの辺りを走るのには何かと不便だというので、マスターが農作業をする時に使う軽トラックを貸してくれた。タダユキたちの乗用車は、アパートの駐車場の端に停めて、もっぱら軽トラで移動することになった。「軽トラなら山道も田んぼの畦道も行けるからな」とマスターが言う通り、その軽トラで買い物も散策もピクニックも、何処へでも行けた。試しにゾーイを荷台に乗せてみたが、どうもお気に召さなかったようで狭い助手席に里夏と乗ることを選んだ。

 マスターのカフェと家のある場所は、いわゆる観光地からは離れていて何かの情報でその存在を知らなければ通り掛かりで人が来るということはない。通り掛かるのは、近所の老人だけで、店のお客さんにはなり得ない。

「この辺は特に見るべきものはないから、時間を持て余したらいつでもカフェに来なよ」とマスターは言ってくれたのだが、あまり世話になってばかりでも申し訳ないと思い、里夏とゾーイとにわか田舎暮らしを楽しむことにした。カフェが休みの日にマスターからメールが届いた。

「暑いからプールに行こう!ゾーイも泳げるよ」という内容だった。こんな山の中にプールがあるとは思えなかったが、せっかくのマスターのお誘いだったのでとりあえずマスターのカフェで待ち合わせた。川遊びくらいはするかもしれないと一応水着は持って来ていたのだが、二人ともまさかプールに行くことになるとは想定していなかった。カフェに着くとすでにマスターの車が店の前に停まっていて、トランクをあけてマスターが何やら積み込みをしていた。その車のすぐ後ろに軽トラックを停めた。

「おはようございます」

「おはよう。暑いな、プール日和だよ」マスターは上機嫌だ。

「プールって、近くですか?」

「車で五分。近いよ」

「こんな山の中にあるんですね」

「雑木林に囲まれた気持ちのいいプールだ」

「こんな水着でいいですか?里夏も」

「多分、誰もいないからなんでもいいよ」

「貸し切りですか?」と里夏。

「平日だからな、自然と貸し切りかな。もともとは中学校のプールでね、学校は廃校になったんだけど、町長が元水泳の選手でね、オリンピック代表の。で、彼の希望で、プールだけ町営にして残して、ということ」

「自由ですね、町長」

「別に文句言う人もいないみたいだし、町長をやりたいという人も他にいないから。だから二十五メートルだよ、よくある学校の」

「タダユキ、好きじゃん、そういうの。前になんか言ってたよね。よく夢を見るって。プールの」

「あぁ、今も見る」

「なにそれ?」とマスターの興味を引いたようだった。

「よく見る夢で、真夜中の学校のプールに忍び込んでぷかぷか浮いてるんです」

「なるほど。夜は星も見えるし、ぷかぷかするにはうってつけだよ、そこは。とりあえず行くか」

「はい」とタダユキと里夏は声を揃えた。

「軽トラはここに置いといて、こっちの車に乗って。ゾーイは里夏さんのとこでいいよね」

「はい」とまた二人の声は揃った。

「いい返事。飲み物とつまみは持ったから。お腹空いたらカフェに戻ってくればなんかあるから」

「了解です、ありがとうございます」

「では、出発。でも、すぐ着いちゃうけどね」


 錆びたフェンスに囲まれたプールは、鬱蒼とした雑木林の中にあった。中学校の校舎は取り壊され、駐車場になっていて本当にプールだけが残された感じだ。簡易的なプレハブに一応、シャワーと更衣室があったが、男性は林の陰で着替えれば問題ない感じだ。マスターの言う通り、我々以外は誰もいなくて、誰かが来る気配も全くしない。でも、水はきちんと入れ替えられていて、透明な水がはられ、水面がキラキラと輝いている。町長自らが鍵の開け閉めと手入れをしているということで、朝九時まえと夕方五時まえには町長が現れ、鍵の開け閉めついでにひと泳ぎして帰るそうだ。ゾーイは実は水は苦手でプールサイドから鼻だけ水につけては尻込みをして、また鼻を近づけたりというのを繰り返している。前に一度、知り合いの別荘のプールで泳がせてみたのだけれど、ほとんど溺れそうになって必死でプールサイドから這い上がっていた。犬掻きがどの犬でも出来るわけではないと、タダユキはその時初めて知った。

「里夏さんのクロール上手いね。きれいなフォームしてる。町長にも褒められるよ」

「僕は出来ないんです、クロール」

「俺もだよ」

「本当ですか?」

「無理無理。息継ぎが無理だな。水入ってくるじゃん、どうやったって」

「同じです。里夏に何度か教わったんですけど、無理です」

「だよね」

「二人とも泳がないの?私だけ?ゾーイも泳げないし。マスターは?」

「クロール無理」

「あれ、タダユキと一緒。教えますよ、クロール」

「この歳で水泳教室かぁ」と笑ってマスターは持って来たクーラーボックスから自家製のレモネードを出して美味しそうに飲んでいた。

「二人はお酒飲んでいいよ。ビールもワインもあるから」

「マスターは?」

「大丈夫。これで。ドクターストップ中」

「どこか悪いんですか?」

「そういうわけじゃないけど、この歳になると色々気をつけないとな」

とマスターは曖昧な答えをしたのだけれど、タダユキは杉浦さんのことがあってから、病気の話になると必要以上に敏感になってしまうのだった。マスターと杉浦さんが同年代だということも、過敏になってしまう要因のひとつだった。

三人とも時間を見ずに思い思いに過ごしていたので何時になったのかはわからなかったのたけれど、お腹が空いてきたのでマスターのカフェまで一旦戻ることにした。車の時計は午後一時を少し回っていた。車は木陰に置いて窓を開けていたので温室状態にはなっておらず、すぐに乗って移動できた。

「カレーの作り置きがあるから、それでいい?あと、畑から適当に野菜取って来てサラダ」

「マスターのカレー、ひさしぶりだなぁ」

「イカニカのとは違うよ、もう」

「そうですよね、さすがに」

「でも、うまいよ」

「楽しみです」

カフェは、冷房が効いていて、プールで火照った身体に冷気が心地よかった。マスターは、タダユキにざっとキッチン設備の説明をして、

「俺と里夏さんで畑に行って野菜とってくるから、タダユキは米炊いといて」

と言って、里夏を手招きした。

「了解です」とタダユキが言ったのと同時に、里夏も

「はい、行きましょう」と答えたので、

二人の声が重なってしまい、マスターは一瞬、何言ったんだ?というような顔をしていた。

ゾーイも畑組に加わったので、タダユキはマスターのカフェで一人になった。その空間は、やはりマスターのイカニカの空気感がどことなく漂っていて、はじめての場所なのだけれど懐かしく感じた。トイレを借りようと手洗い場に行くと、イカニカと同じように「一人の居場所」が掛かっていた。#169とあったので、あの頃からずっと続いているのだった。



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一人の居場所 #169


恋の話をしようと思ったけど

それは秘密だったから

きみは誰にも何も話せない


いつも恋は秘密

秘密じゃない恋を

きみは知らない


「秘密じゃなくなった恋なんて、

気の抜けたソーダ水みたいなものだよ」

と彼は言う

「恋は秘密だから、良いんだ」と


わかるような、わからないような


でも、もう秘密は無しにして

秘密じゃない恋を味わってみたい、と

きみは思う


実際、秘密じゃなくなった恋は

泡のようにシュワシュワと消えて行き

それはもう恋とは呼べないものになった


代わりに

世の中にはソーダ水よりも

美味しいものがあることを知った

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マスターは、恋をしているのだろうか、と後で戻って来たら聞いてみようと思う。米を研ぎ、圧力鍋で炊き始めたらもうやることがなくなってしまった。カウンターにぼんやり座って二人の帰りを待った。



「里夏さん、どうタダユキ、書けてる?」とマスターはトマトの熟れ具合を確認しながら尋ねる。

「はい、たぶん。やっぱり古本屋にしたのが正解かと」

「よかった。まだ若いんだから、どんどん書いて欲しいな。里夏さんを射止めた時みたいにね」

「はい。私、タダユキには感謝してるんです。ああいう形でも、私の日常を壊してもらわなかったら今のこの生活は無かったと思っています。タダユキを受け入れないで排除していたら今頃どうなっていたのかなって」

「それもひとつの選択肢だから、わかんないけど。今が良いと思えるなら幸せだよ」

「マスターは?」

「ん?」

「いまの暮らし、どうですか?」

「満足してるよ。タダユキには、俺も物書きしたいから、とか言ったけど、本当はそうじゃない。逃げたんだ」

「逃げたって?」

「上手くいかない恋から」

「えっ?」

「嘘だよ」

「びっくりしたー」

「なんでよ、恋ぐらいするよ」

「いいですよ、マスターは、恋なんかしなくて。なんか違う」

「まぁ、いいけど」

「でも、逃げたって、何からですか?」

「まぁ、逃げたくなるものはいっぱいあるよ」

「誤魔化してますね、あとでタダユキと追求させてもらいますから」

「お腹空いたね」



 二人が野菜を抱えてカフェに戻るとタダユキはカウンターでうたた寝していた。里夏が肩を揺すると、ビクッとして起きた。

「あー、おかえり。寝ちゃった」

「暑かったからな、ご飯は?」

「炊けてます」

「よかった、炊かないで寝てたら、最悪だから。野菜はこれ。すぐ食べよう」

そう言って、マスターは手慣れた包丁さばきでサラダを作ってくれた。里夏は横でカレーを鍋で温めて、炊きたてのごはんにルーをたっぷりかけて準備が整った。里夏は、カレーのルーは、通常お店で出てくるものの二倍くらいないと気が済まないので、それを見ていたマスターは案の定、

「里夏さん、豪快にかけるね!」

という一言を言わずにはいられなかったようだった。やはり、カレーにはビールだな、ということで、酔いが覚めてから車で帰ればいいよ、とマスターが言うのでみんなでビールで乾杯した。みんな余程お腹が空いていたのか、黙々と一皿目を平らげ、おかわりは食べられる分だけ自分でよそいにいった。お腹が落ち着いたので、マスターがコーヒーを淹れにカウンターに立った。里夏は、さっきの続きが聞きたくて仕方がなくて、タダユキに畑でマスターと話したことを簡単に説明し、早速質問を投げかけた。

「で、何から逃げたんでしたっけ?」(続く)






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by ikanika | 2017-07-13 13:04 | Comments(0)

季節のリレー  連載第二回

 タダユキには夏の終わりの風景として、どうしてもいつも頭から離れないものがある。夜の学校のプールだ。誰もいない夜のプールに忍び込んでぷかぷかと浮いているのだ。実際にそんなことをしたわけではないのだけれど、よく夢にもその場面は登場する。夏の終わりの夜のプールは、タダユキの瞼に焼き付いた景色なのだった。この前、テレビを見ていたら、女性のJ-POPアーティストのミュージック・ビデオに夜のプールが出てきた。タダユキは釘付けになって見入った。それはタダユキの瞼に焼き付いた景色にかなり近いものだったからだ。その恋の歌はタダユキを中学校時代に引き戻すには十分すぎる歌詞の内容でもあった。普段は買わないシングル曲を衝動的に買ってしまったくらいだ。不思議なことに、その歌は何度繰り返し聴いても飽きる事がなかった。タダユキはその映像を見ながら、すぐにでもストーリーが書けると思ったのだけれど何か悲しい結末に続いて行くような予感がして考えるのをやめた。その理由がなんなのかは、未だにわからない。


 十月に朝から雪が降る。何の準備もない都会では、電車のダイヤは乱れ、車も立往生する。それでも多くの人々は必死にそれぞれの職場へと向かう。タダユキは勤め人ではないから、あっさりとカフェを臨時休業にした。この天気では、お客さんが来るとは思えないし、万が一、近所のお客さんが来て臨時休業だとしても許してもらえるだろうと思えた。突然、丸一日やることがなくなったタダユキは、試しに何かを書いてみようと思いパソコンに向かってみる。昔、古本屋のレジに座っていた頃のように、またこの町が自分に何かを書かせてくれるのではないかとじっと待った。しかし、一時間近く待ってみたけれども、何も書かせてはくれなかった。仕方なくキッチンに立ち、冷蔵庫の中にあるものでお昼ご飯を作ることにする。玉ねぎとウインナーとインゲン、それに熟れすぎたトマトがあったので、ペンネを食べることにする。ニンニクを強めに入れ、鷹の爪で辛さも加え、ウインナーとインゲンをペンネと同じくらいのサイズにカットして、フレッシュトマトとインゲン、ウインナーのペンネというものが出来上がる。こうなると赤ワインが欲しくなって、お昼ご飯だけれども、雪で何処へも行くことはできなかったので飲むことにした。一階の部屋で原稿を書いていた里夏も匂いを嗅ぎつけて、キッチンのある二階に上がって来た。「飲む?」と聞くと、里夏はしばらく考えてから「まっ、いいか」と言って自分のワイングラスを差し出した。

「原稿、終わった?」とタダユキ。

「まだだけど、大丈夫。雪で編集者も自宅待機みたいだし、半日くらいは猶予が出来たから。夜にまた書く」里夏はそう言って、ワインを口に含んで、ごくりと美味しそうに飲んだ。里夏は、ごはんもお酒も本当に美味しそうに口にする。ごはんを美味しそうに食べる口元は、まるで動物園で見たキリンのようだとタダユキはいつも思う。雪のお陰で不意に訪れた休日のような時間を、タダユキと里夏は残り物で作ったペンネと赤ワインで楽しんだ。

ゾーイは外に出たいのか、ずっとベランダに出ることの出来る窓から外を見つめている。雪は、午後になるとみぞれに変わった。さすがにまだ十月なので積もることはなく、翌日には、雪の形跡はほとんどなくなっていた。

 十二月、東京でも明け方に氷点下になった朝、タダユキはいつものようにコーヒーを淹れていた。部屋がまだ暖まっていないので普段よりもたくさんの湯気があがる。ゾーイもタダユキと一緒にもそもそと起き上がり、朝ご飯が出てくるのを足元でじっと待っている。健気なものだ。その姿を見ながらコーヒーが落ちきるのを待つ。いつもならコーヒーの匂いで里夏も起きてくるのだけれど、その朝はなかなか寝室から出てこない。遅くまで原稿でも書いていたのだろうかと、テーブルの上を見てみるがその形跡はない。コーヒーが冷めてしまうので仕方なく寝室まで起こしに行く。「コーヒー、はいったよ」と言うとすぐに「うん、ありがとう」と返事があった。すでに起きていた風な声だ。

「起きてたの?」

「うん、変な夢見て、ぼんやりしてた」

「そう、とりあえず冷めちゃうから、コーヒー」

「わかった、すぐ行く」

しばらくすると、里夏はパジャマに厚手のパーカーを羽織ってリビングに上がってきた。まだ夢の途中といったような表情でコーヒーをすする。

「夢って、どんな?」と尋ねてみる。少し間があってから、里夏は独り言のように夢を語り出した。

「朝ね、タダユキがコーヒーを入れているの。なんか、小さなアパートのキッチンで。私はストーブの前で体育座りして、コーヒーが落ちるのを待っている。アラジンみたいな炎が見えるストーブ。コーヒー豆、これでなくなったから買ってこないと、とタダユキが言うと、私は、涙を流すの。だって、その日に私はそこを出て行かなくちゃならなくて、タダユキがコーヒー豆を買ってきたってもうそれをここで飲むことはないと思ったら、涙が出てきてしまったの」

「なんで里夏は出て行かなくちゃいけないの?」

「わからない、そういうことになってる夢なの。それで、しばらく二人してストーブの前に体育座りして、コーヒーを飲んでる。私は、もうこうやってコーヒーを、朝、二人で飲むことが出来なくなるって考えると、もう耐えきれなくなって、こう言うの。『やっぱり、やめる、行くの。だから、私があとで豆買ってくる。いつものでいい?』と」

「ずいぶんあっさりやめるね、行くの」

「そうでもないのよ、夢の中ではものすごい葛藤していて、やっとそう言えた、って感じ。でも、こうやって話すとあっさりだね」

といって里夏は小さく笑った。

「たぶん、匂いがしてたから、そんな夢みたんじゃない、コーヒーの。あと、もう豆がないなぁ、って思ってて。昨日は里夏が豆挽いてたからね」

「そうかも。でも、なんで私、出て行かなくちゃならなかったんだろうね」

「それは知らないけど」

「豆、なくなったよね?」

「買いに行ける?」

「うん、行ける、いつものでいいよね?」

「うん、いいよ。夢の中と同じこと言ってるね」

部屋もようやく暖まってきて、ご飯を食べ終わったゾーイは、いつもの自分のベッドでまた眠っている。老犬になると、ご飯とトイレ以外の時間はほぼ寝て過ごすようになった。冬のこの時期は、まだ過ごしやすいようなのだけれど、夏の暑さはこたえるようで、来年の夏も元気に乗り越えてくれればいいと思う。人間の年齢だと、もう九十歳くらいになるので、いつまでこうして一緒にいられるのかと考えると、出来る限りはそばにいてあげたいと思い、今はゾーイも毎日カフェに一緒に行くようにしている。


 「春になるとさ、なんか始めたくなるね、新しいこと。もう四月になる。『四月になれば彼女は』って歌、何のこと歌ってるの?」

「さぁ、サイモンとガーファンクル。あまり聞かないからわかんないなぁ。でも、あれ、四月のことを歌ってるだけじゃなくて順番に月が進んでいくよね、リレーみたいに」

「そうなの?」

「確か、そう」

「リレーね、季節の」

「なに、それ、詩人っぽい」

「季節のリレー。谷川俊太郎」

「朝のリレー、だよ、それ」

「知ってるよ、CMでやってた、あれでしょ。タダユキは、何かないの?やりたいこと」

「特には、ないかな、今は」

「私はね、古本屋」

「里夏が?」

「違う、タダユキが」

「なんで、いまさら」

「小説書いて欲しいの。一番最初のあれ『一人の居場所』。あの時、タダユキ言ってたよね。この町が何かを書かせている。古本屋のレジに座っていると物語が動き始める。花瓶に水を注ぐよう言葉にしている、って。やっぱりタダユキにはそれが必要なんだと思って。カフェやりながら書いてるのも知ってるよ、でも、古本屋じゃないとだめなんじゃないかな、何かがまたタダユキに物語を書かせるには。どう?」

「カフェはどうする?」

「あそこ、そのまま古本屋にしちゃえば?例えばだけど。急にじゃなくても、だんだんと本が増えてって気付いたら古本屋、みたいな」

「簡単に言うなぁ」

「簡単だよ、タダユキ、まだ書きたいんでしょ、知ってるよ。マスターが言ってた、この前。それと、書くには、あと少し何かが足りない気がするって。それはたぶん環境なんじゃないかな、タダユキの場合」

「そうかもしれないし、違う何かかもしれない」

「まずはさ、環境変えてみない?古本屋にしなよ、カフェ」

「そういうことかもしれないけど、いいの?」

「いいも悪いもないでしょ、私からやりなよって言ったんだから」

「そうだけど」

「なんか書けそうなものって、どんな話?気になる」

「それは、僕にもわからない。たぶん最初の時と同じように、僕は何かに書かされるだけのような気がしている。だから、少し怖いよね、どういう話になるのか、また里夏が主人公だったりしたらね」

「怖い?大丈夫だよ、いまこうしているのもタダユキの小説があったからだよ。幸せな結末にしてくれたじゃん。今度もそうしてくれればいい」

「ありがとう」

タダユキには、今はその言葉しか出てこなかった。

 里夏の言う通り、タダユキはカフェに徐々に古本を運び込んでいった。だいたい半分くらいのスペースに古本が並ぶと古本屋だと言っても差し支えない雰囲気になった。そのタイミングでカフェのメニューを減らし、古本屋とカフェを併設するスタイルの営業形態に変えた。カフェだと座っていることはほとんどなかったのだけれど、古本屋ということになるとカウンターの中に座っていてもなんの違和感もない。むしろ座っているほうがしっくりくる。そうやってカウンターの中に座っていると、不思議となんとなく書けそうだと感じていた物語の輪郭が鮮明になってきて、実際にほんの少しだけ書き始めたのだった。物語は、何度となくタダユキの脳裏に浮かぶ真夜中のプールからはじまった。やはり、これか、とタダユキは思う。これを書かかせるつもりなのかと、少し憂鬱でもあった。いつかミュージックビデオを見てストーリーを書くのを躊躇した時のことを思い出す。あの時に感じた、悲しい結末へ続いていく予感のするこの物語は、やはり書くべきではないのではないかと思えてくる。里夏が背中を押してくれて、こうして書く環境が整ったのだけれど、タダユキはなかなかその先に進むことが出来ずにいた。


 雨の季節にマスターがふらりと現れた。

「変わったね、古本屋にしたんだ」

「はい、すいません、勝手に」

「別にいいよ、謝らなくて。もう、タダユキのカフェだから。でも、なんで、また古本屋?」

「里夏に、また書いて欲しいと言われて。その為には、環境が必要だと」

「里夏さんがか。俺が言ったからかな。書くには、なにか一つ足りない気がするって」

「確かに、マスターも言っていたと、話してましたけど。里夏は、最初の時と同じ環境が必要なんじゃないかと考えていて。僕が何かを書くんじゃなくて、僕に何かを書かせる環境が。だから古本屋です。実際、こうしてここに座ると物語が始まります。今、ほんの少しですが書いています」

「そうなんだ。良いストーリーだといいね」

「そうですね。僕にはどうすることも出来ないんですが」

「そんなこともないんじゃない。だって二作目は、結末は自分で書いたじゃん。それで今、里夏さんと一緒にいる訳だから」

「確かに、そうですが。あの物語だけですよ」

「まぁ、でも、楽しみにしてるよ、出来上がり。俺も書いているけど、タダユキみたいには書けない。だから、またカフェやって料理作ってる。ここより全然小さいけど。自分で作った野菜使って」

「そうなんですね、いいですね。またマスターのご飯食べたいですよ」

「今度、里夏さんと来てよ、遠いけど」

「はい、行きます、絶対。話は、全然違うんですけど、昔よくマスターが流していた曲で、一度タイトルを尋ねたことがあったんですが、覚えてます?ピアノとチェロだけの曲で」

「あぁ、あれね。MISHA ALPERINFROZEN TEARS

「もう一度、書いてもらえますか」

「いいよ、メモちょうだい。でも、もう買えないかもよ。なんでこれ?」

「突然頭の中で、メロディが鳴ることってありません?昔どこかで聞いたものとかが。ずっと繰り返しで」

「あるある。なんの曲かわかるまで気になっちゃうんだよね」

「それです。この時季になるとずっと鳴っているんです。ありがとうございます。すっきりしました」

「もし、夏に来れたら来なよ。森と湖は夏が気持ちいいから」

「わかりました、里夏と相談して連絡します」

マスターは、コーヒーのおかわりをゆっくり飲んでから帰っていった。(続く)



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by ikanika | 2017-07-09 21:35 | Comments(0)

季節のリレー  連載第一回

はじめに


今年の五月から、この場で短編の掲載を始めました。

少しですが、楽しんでいただいているという言葉を

耳にすることが出来て嬉しく思っています。

今日から二作目「季節のリレー」の連載を始めますので

お付き合いいただけると嬉しいです。


物語は、前作「二人の居場所」から、だいたい十年くらいが経過した

サイトウタダユキと里夏、そしてマスターを中心としたお話です。

(ですので、先に「二人の居場所」を読んでいただくと理解が深まります)

前作よりもやや長くなりましたので、一回の掲載量も多くなっています。

時間のある時に、ゆっくりお楽しみください。


ストーリーはあくまでフィクションですが、

カフェでの様々な出来事がきっかけで書かれた部分も多くあります。

ですので、実際のcafeイカニカと結びつけて、

いろんな妄想をしていただくのは自由です。

カフェを訪れていただくきっかけになれば嬉しいです。


cafeイカニカ

平井康二



S氏に捧げます。



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季節のリレー (第一回)



 タダユキは、朝、コーヒーを淹れる。里夏の分と二人分。二人ともたっぷり二杯は飲みたいので、五人分くらいの量だ。同じ豆、同じ挽き具合、同じ水、同じ温度、でも同じ味だったことは一度もない。原因は、豆にもあるし、飲む側の人にもある。豆だって農作物である以上、全く同じはありえないし、飲む側の味覚がいつも一緒なんていうこともありえない。時々、カフェに来るお客さんの中に、「豆、変わりました?」という人がいて、「いえ、同じです」と答えるのだけれど、正確に言うと「いつも違っている」のだ。いつも違っていることを受け入れて楽しむのが正しいのだ、とタダユキは思う。

 タダユキがカフェを引き継いでもう十年くらいになる。里夏と結婚してしばらくは、タダユキは小説を書きながら古本屋のレジに座っていたのだけれど、介護施設に入っていたオーナーがいよいよもう危ないということになり、古本屋は家族の希望により閉店し、裏の母屋も含めて売りに出された。残された古本の在庫から欲しいものがあったら先に持って行っていいといわれたのだが、置き場所にも限りがあるので、ほんの少しだけオーナーの形見のつもりでもらうことにした。残りは、専門の業者に引き取られ、タダユキに小説を書かせた書斎は跡形も無く、なくなってしまった。それ以降、小説を書いてはみるものの、なかなか版を重ねる作品が書けないタダユキを見かねて、イカニカのマスターはカフェの手伝いをするように誘ったのだった。はじめは、週末の手伝いだけだったのが、徐々に平日の営業を任されるようになり、さらには、夏の期間をまるまる預けられるようになり、最終的には、今のようにタダユキのカフェになったのだった。マスターは、「ちょっと、俺もタダユキみたいに物書きをしたいから、カフェを譲るよ。俺は湖のある山に引っ越すことにする」と言って、あっけなくカフェをタダユキに譲ったのだ。結果、タダユキとマスターの本業が入れ替わったような状態になった。カフェの設備はそのまま残してくれたので、タダユキは、ほぼ一銭もかからずにカフェのオーナーになった。メニューも手伝いをしながらマスターに教わったことをそのまま引き継いだ状態なので、中身はカフェイカニカそのままと言っていい。事情をよく知らないお客さんは、ただマスターのかわりにタダユキが店に立っているというくらいの認識でしかない。マスターは、今でも一年に二、三回はカフェに顔を出すのだけれども、果たして何かを書いているのかはよくわからない。もっと言ってしまえば、どうやって暮らしているのかさえもタダユキたちは知らない。たまに顔を出して話す内容と言ったら、山でイノシシを仕留めてみんなで食べたとか、今年は高原レタスの出来が遅いとか、トマトが例年より甘いだとか、ほぼ農家の人と話しているような内容で、恐らくマスターはほとんどの時間を農業に費やしているというのが正しい解釈なのだろう。その合間に何かを書いているのかもしれないが、どこかに発表したという話は聞いたことはない。そのマスターは、来ると必ずコーヒーを飲む。タダユキたち以上にコーヒー好きで、話し込むとおかわりをすることもある。マスターの時代からカフェではケメックスでコーヒーを淹れていたのでタダユキもそうしている。ハンドドリップのカフェでは、コーノ式で淹れるのがスタンダードだったから、一度なぜケメックスなのか尋ねてみたことがある。答えは明瞭で、「いつも家ではコレだから、扱い慣れてる」だった。マスターも、「時々、いつもと味が違うっていう客がいるけど、そういう奴は、自分の味覚のせいにしないで、こっちのせいにするんだよね。いつもおんなじ風に味を認識できるなんておごりだよ。体調によって味覚なんて全然かわるから。今日は、自分の好みと違うな、って思ったらまず自分を疑った方がいいよ」と言っていた。タダユキはマスターに、「今日のコーヒーどうですか?」と毎回必ず尋ねることにしている。すると毎回「美味いよ」としか答えない。恐らくマスターの中では日々のいろんな出来事を省みながら、今日感じるコーヒーの味を楽しんでいるのだろうと、タダユキはその表情を見ながら感じている。

 春のある日、タダユキがまだ作家を専業としていた時にお世話になった小説家の先輩の杉浦さんがカフェに突然現れた。タダユキが書くのをやめてからは、ほとんど連絡という連絡は取っていなかったのだけれど、何かの雑誌でこのカフェのことを見つけたと言ってわざわざ尋ねてきてくれたのだった。最後にお会いしたのがいつだったかさえも覚えていないくらいなのだが、お互いすぐに昔のように会話が出来たことが不思議だった。昔から杉浦さんは、一日に何度もコーヒーを飲むくらいのコーヒー好きで、その時もコーヒーをオーダーしてくれた。杉浦さんは、一口飲むとこう言った。

「サイトウくんのことだから、美味しいコーヒーを淹れるんだろうな」と。

実際に目の前でタダユキのコーヒーを飲んでいるのに、何を言っているのか訳がわからなかったので、曖昧な愛想笑いをしていたら、

「俺ね、味がわからなくなっちゃったんだ、薬で」と杉浦さんは言った。

昔からいろんな病気をしていた印象があったので、軽く冗談めかして、「今は何の病気ですか?」と尋ねてみた。

杉浦さんは、少し間をおいてから

「俺ね、死ぬの。だから、会いにきた」と言った。いつも冗談だか本気だかわからないことを言う癖があったので、またきつい冗談を言ってるな、と受け止めていたら、鞄から一枚の診断書を取り出し「見てみな」と言ってタダユキの右手に握らせた。

「ここ、読んで」と杉浦さんが指で示した先に、

「通常、多くの場合、余命半年から長くて二年」とあった。

「なんで?どういうことですか?」としか言葉が出て来なかった。

「その薬のせいでさ、コーヒーの味、わかんないんだよ」と言って、また一口、コーヒーを啜った。

「ずっと検査をしてたんだけど、この前ようやく結果がわかって、それがこれ。だから俺もどうしたらいいかわかんないよ。だから何も言わなくていいよ、サイトウくんは。こんなもの見せられてもリアクションに困るよな。でも、死ぬのは確実」

「はい」としか言葉が出て来ない。杉浦さんは、細かく自分の病気のことを説明してくれたのだけれど、タダユキの耳には届いてこなかった。ただ杉浦さんの言った「俺、死ぬから」という言葉だけがずっと響いていた。

「半年か二年かは、個人差があって、全然わからない。ずいぶん違うけどね、半年と二年じゃ」

「そうですよね」

「また来るよ、今日はとりあえず報告」

「ありがとうございます」

 店を出る杉浦さんの足取りは、心なしか危ういものに思えた。タダユキは杉浦さんが帰ったあと、しばらく何も手につかなかった。今の出来事は現実だったのだろうか、昼さがりに夢を見ていたのだろうかとも思ってみたけれども、目の前には杉浦さんが飲んだコーヒーカップが残されていた。誰かにこのことを話していいのか判断がつかなかった。杉浦さんは特にまだ誰にも話さないでほしいとか、そういう事は言っていなかったけれど、誰に話すにしても、冷静に事実を正確に伝えることが出来るか自信がなかった。まずは妻の里夏には話をしようと思う。二人が結婚した頃、杉浦さんはよく食事に連れていってくれた。それはタダユキの原稿料だけでは生活は大変だろうという同じ物書きの先輩としての気遣いと、若い時にいいものを食べるべきだ、という杉浦さんの考え方によるものだった。「若いうちに、美味いものの味を覚えておいた方がいい。その後の食生活が豊かになる。年取ってから贅沢する人がいるけど、それじゃ、もう遅い。そんなに食べられないし、味覚も衰えている」といつも言っていた。店を閉めて、帰りの車の中で里夏にどう話そうかと何度もリハーサルを繰り返し、里夏に話している自分を想像する。どんなトーンで話せば今のこの心境が伝わるのか、そして事実としてきちんと伝わるのかがわからなかった。杉浦さんは、動揺も悲観もせず、淡々と事実だけを報告に来てくれた。それ以上のことを里夏に伝える必要はないけれども、タダユキの気持ちも同時に伝えるべきだとも思う。それが難しくなってしまう原因でもあった。杉浦さん本人がああも淡々としていると、タダユキも感情の置き所に困ってしまう。人が死を迎えるということは、当然悲しいことではあるのだけれども、死を目前にした本人以上に悲しむのもなんか違う気がする。杉浦さんは、自分の死を受け入れる準備を整え始めたばかりという感じで、他人がその死に関して何かの感情を抱く段階にはまだ時間が必要なのではないかとタダユキは感じていた。しかし、ただ淡々と「杉浦さん、死ぬんだって」と里夏に言ったところで、頭がおかしくなったと思われるくらいに変な報告だ。かと言って、深刻なトーンで語るのも杉浦さんが淡々としていた分、憚れる。考えがまとまらないうちに家に着いてしまった。二階の灯りが点いているということは、里夏はもう帰っているということだった。タダユキは、愛犬のゾーイを抱えて二階に上がる。「おかえり」と里夏はいつものように明るいAトーンで言う。人の死を伝えるには似つかわしくないトーンだ。夕食が終わるまで話すのはやめようとタダユキは決めた。そろそろ寝ようかという時間になって

「今日さ、杉浦さんが来てね」とタダユキは切り出した。

里夏はすぐに

「あら、珍しい、元気だった?」

まぁ、当然のリアクションなのだが、

「元気じゃない」とは切り返せずに、

「実はね、なんか病気みたい」とタダユキはトーンを切り替えるように話を続けた。

里夏も何か深刻な空気を感じ取ったのか、じっくり聞く態勢になってくれた。

「診断書を見せられてね、そこに、あと半年から二年って書いてあって」

「何それ?」と里夏は即座に質問を返してきた。

「病気みたいで、杉浦さんは、俺は死ぬからって、淡々と、報告しに来た」

「治らないの?」

「詳しくは、わからないけど、とにかく、俺は死ぬからって」

 一年が過ぎ、そして夏が終わる頃、杉浦さんはこの世を去った。病気はどんどん進行していったが、その間に一度だけコーヒーを飲みに来てくれたことがある。味がわからないのに、「美味しい美味しい」と言って飲んでくれた。その感じは、イカニカのマスターが「美味いよ」とだけ言ってコーヒーを飲むあの感じをタダユキに思い出させた。あの時、杉浦さんは自らの死を受け入れていたのだろうか。最初の時に何度も口にしていた「俺は死ぬから」という言葉を一度も口にしなかった。ただ、美味しいとだけ言って帰っていった。夏の葬儀には近しい人だけが参列し、帰りにみんなで蕎麦屋に行った。

「なんか、こういう映画あったよな、真夏に黒い喪服を来て、暑い暑いって言って、汗をハンカチで拭いてる感じ。それで、蕎麦屋でざると冷酒。本当なのかね、これ」とタダユキは独り言のように呟いた。みんな黙ったまま、ただ蝉の鳴き声を聞いていた。恐らく、これからずっと、夏が来て蝉の鳴き声と蕎麦屋と冷酒に出会うたびに、杉浦さんを思い出す事になるのだろうとタダユキは思った。そうやって思い出すことが供養になるのだろうと。

 朝晩の風が秋の気配を運んできて、夏の終わりを告げる頃になると、タダユキはカフェイカニカの手洗い場に掲げてあった散文を思い出す。



『「やぁ、久しぶり。元気にしてた?」

夏休みが終わって、久しぶりに学校へ行くとき、なんとなく緊張した記憶がある。

友達はみんな、夏休み中にどことなく大人になっていた気がした。

同じ背丈だったはずの親友は、自分よりもひと回りおおきくなっていたり、

意中の女の子は、いちだんと可愛くなっていたり、

自分だけが少し、取り残されたような気分だった。

たぶんそんなことはなかったのだろうと、今となっては思うことが出来るのだけれども。

夏は、人を少しだけ成長させる。

それは、子供も大人も同じこと。

この夏は、君をどんな風に変えたんだろうか。』

 これは、マスターが気まぐれに書いていたもので、タダユキのデビュー作と同じ「一人の居場所」というタイトルが付けられていた。

「あの場所は、カフェに来たお客さんが必ず一人になる場所だから、『一人の居場所』。大した意味はないよ」と言っていた。しかし、密かにあの手洗い場で、それを読むことを楽しみにしている人もいて、一時期やめてしまったら、お客さんから再開のリクエストが寄せられたそうだ。

「だって、誰が読んでるかわからないし、読まれてるのかもわからないから」とマスターは言っていたので

「だって、一人になった時にコソって読んで欲しいからあそこに飾っているってマスター言ってましたよ。だからみんな、コソって読んでるんですよ。リアクションがわからないのは仕方ないですよ」というと、

「そうなんだけどね」とマスターは珍しく口籠もった。

夏の終わりのこの散文が、タダユキは大好きだった。単純に自分の中学校時代にあてはめていて、その頃思いを寄せていた同じ部活の女の子の事を思い出すからだった。結局、その想いは実らずに中学時代は終わったのだけれど、小説家としてデビューして三作目に、その頃のことを題材にして短編を書いたのだった。その中では、なんとなく想いが伝わって、付き合うまではいかないまでも儚い片思いで終わり、ということにはしなかった。小説の中は自由でいいなぁ、とその時つくづく感じたことを覚えている。その物語は、中学校を卒業したところで終わるのだけれど、いつか続きを書いてみたいと密かに思っている。高校、大学と小説の中の主人公は、その子と恋に落ちる設定にすべきか、曖昧な関係のまま時間が流れていくような設定にすべきかまだ悩んでいる。正直、曖昧な状態の話の方がリアリティがあるように書けると思っているのだが、果たしてそれが読者にとって面白いのかどうかは、また別の話だ。かと言って、大恋愛話が自分に書けるとも思えない。もう何年か経ったら、カフェの合間を見て書いてみようと思う。(続く)





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by ikanika | 2017-07-07 23:05 | Comments(0)


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