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あの娘のワンピース



あの娘のワンピース



 ベランダから東の方角を眺める。同じような建売住宅の屋根がたくさん並んでいる。家族でこの家に引っ越してきた時には雑木林だったのに、ここ数年で全て屋根に変わっていった。ほとんど同じような屋根の中にデザイナー建築の個性的な建物が、ほんの一件だけ混ざっている。デザイナー建築とまではいかないまでも、他の家とは少しだけ雰囲気を変えたのだろうと思える家も少しある。学校のクラスみたいだと思う。みんな一緒の中に一人だけ個性的な人、はみ出るのは怖いけど少しだけ個性を主張したい人が数人。自分はどこに属していたのだろうか。どこでもないような気がする。当然デザイナー建築ではない、けど、みんなと一緒でもない、個性を主張するほどの勇気もない。存在していないというのが正解のように思える。由美がいなくなってからは、とりわけそんな感じだったと思う。春に卒業なので、教室に行くのもあと数回。その数回だって行かなくたって卒業はできる。ならば、もう行くのは、やめることにした。もともと存在していないのと同じなのだったら、私が欠席していても誰もなんとも思わないから。もし由美がいてくれたら、唯一、気にかけてくれたかもしれないけれど。担任だってきっと気にしない。卒業証書は郵送してくるだろう。春からは東京に行く。

東京の用賀というところにある会社に就職が決まっていた。とりあえずは、先に上京している兄の部屋に間借りすることになっていたので、部屋探しや引っ越しという上京に伴う厄介な物事は、なにもする必要はない。ただ少し長めの旅行に行くような準備で十分だった。

「配属先が決まるまでだから」と私がお願いすると

「別に部屋は空いてるから、ずっといてもいいよ」と心配性の兄は言った。

「お兄ちゃんだって、色々あるでしょ、彼女さんとか」

「そんなの、いないから大丈夫」と兄は半笑いで答えた。

「でも、とりあえず連休明けには出て行くよ」そう告げて電話を切った。それを聞いていた母は

「お兄ちゃん、なんだって?元気にしてた?」と兄の様子を気にしていた。

「彼女もいないから、ずっといてもいいって」と答えると

「まだ由美ちゃんのことがあるからなのかねぇ」と独り言のように呟いて、私を見た。

「知らないよ、そんなこと」と私は冷たく答える。

母はそれ以上何も言わずに、もう寝るね、と言って二階に上がっていってしまった。私がこの家を出ていってしまうと、母はひとりぼっちになってしまう。だからこっちで就職したほうがいいとずっと思っていた。でも、母は「私は大丈夫、一人の方が好きなことできるし、のんびりさせてもらうから。お友達もたくさんいるしね」と明るく私の上京を後押ししてくれて、兄も当然のことながら「お袋の面倒は、俺が見るから大丈夫、長男だし」と言って私の心配は不要だと言った。それは私のことを思って二人が言ってくれているだとわかっていても、どこかで存在意義みたいなものを否定されていると思ってしまう。クラスに存在していないのとおなじように。



 兄のマンションは、東京の自由が丘にある。どうやら随分とお洒落で高級な街として知られているようで、入社式の日に隣になった同期に「いまは自由が丘の兄のマンションにいる」と言ったら「お金持ち?」と聞かれて驚いた。奈々美というその同期は、後々私の兄と付き合うことになるのだけれど、今思えばこの時から狙っていたのかもしれない。卒業して会社に入ってしまえば、クラスで存在すらもしていなかった自分は、もう過去のもので新しい自分に生まれ変わったと思えるだろうと、そんな都合のいいことを考えていた。配属先は、神奈川県の武蔵小杉というタワーマンションが乱立する人気の街だった。兄にそう告げて部屋を探そうとしたら

「何言ってんの?コスギなんて近いんだから、ここから通えよ」と言われ、初めて兄のマンションとコスギの位置関係を把握した。東京じゃなくて神奈川だと言われ、すっかり遠いんだろうなと思い込んでいたのだ。仕事はオフィス用品を専門に扱う会社のいわゆるオペレーター業務で、お客様からの注文や問い合わせに対応するという単純なものだった。顧客は一般ユーザーではないので変なクレーマーも存在せず、平和な職場だった。注文のほとんどは、インターネットで対応していて、電話で対応するオペレーター業務は、そのうちなくなるのではないかと既に社内では噂されていた。そんなところに新卒で私が入ってきたものだから、周りのみんなは必要以上に気を使ってくれているみたいで、優しいを通り越して、労ってくれているような感じがした。同期の奈々美は、都内のIT系の専門学校を出ていたのでオペレーターではなく、システム管理の部署に配属になっていた。そのシステム部も同じコスギのオフィスにあって、同期は私たち二人だけだったので、よく一緒にランチをした。私たちは、タワーマンションの開発に取り残されたような古い住宅街の一軒家を改装したカフェがお気に入りだった。そこなら同じ会社の人とも会うこともなく、気兼ねなく会社の愚痴も言い合えたし、プライベートな話題も話せた。奈々美は、彼に浮気をされて、どう仕返しをしたらいいかを私にずっと相談していた。「ただ別れるだけじゃ、気がすまない」と相手に鉄拳を食らわす手段を色々と説明してくるのだけれど、正直、まともに男性と交際した経験がない私には的確なアドバイスが出来るわけもなく、ただ「いいね、それ、いいね」と無責任に同意するだけだった。「結局、お金もらった」とある日、奈々美は言って彼への制裁は終了したと宣言した。と同時に、私の兄へのアプローチが始まった。最初は「沙耶のうちに遊びに行かせてよ」という話だったと思う。つまり兄のマンションなのだけれど、目的が兄だとはもちろん気づかなかったし、彼と別れたばかりの奈々美がもう次にアプローチし始めるなんて想像もしていなかった。

「もしかしてお兄さんもいる?」と奈々美はうちに来る約束の日の朝に聞いてきた。

「いると思う」と答える。兄の会社は、週の半分は在宅勤務が認められていて、その日は在宅勤務の日だった。

「ラッキー、じゃあ会えるね」

「兄に会いたいの?」

「会いたい、沙耶に似てる?」

「まぁ、子供の頃は似てるって言われたけど」

「沙耶に似てるってことは、イケメン」

「そうなの?」

「沙耶、可愛いじゃん、こう、シュッと整ってるし」

「まじめに言ってる?はじめて言われた、可愛いなんて」

「可愛いよー、そのへんのアイドルとかより、坂道グループに入っててもいいくらい」

「ないよ、言い過ぎ」

「だって、あれだよ、消滅しかかってるオペレーター業務は、沙耶が救った、って。あの娘が入ったからやっぱりあの部署は残そう、って話になったみたいよ」

「なにそれ?どういう意味?」

「可愛い娘が電話対応するとクレーム減るんだって。私みたいなガサツなやつだと逆に火に油を注ぐことになるけど」

「電話じゃ、顔とか見えないよ」

「そうだけど、噂よ、噂になるってことは、そう思われてるんだから、可愛いって」

「わかんないけど」

定時に奈々美と二人でそそくさと退社した。その様子を見ていた上司は「何?合コンとか?」というセクハラまがいの発言をして周りから「課長、それアウトです」とたしなめられ、その場で謝罪の言葉を口にしていた。正直、私たちはそんなやりとりはどうでもよくて、日々それ以上のなんとかハラスメントという目に散々あっているのだから。ただ男たちがそれに気づいていないだけで。とりあえず急いで買い出しに行く為に、着替えを済ませオフィスを出た。

「せっかくだから成城石井とかにする?」と奈々美が言うので

「なにそれ?」と切り返した。私は成城石井というのがスーパーマーケットの名前だとは知らなかった。

「知らないの?ちょっと高級なスーパーだよ、自由が丘にあるじゃん」

「知らない、そうなんだ」

「沙耶はいつもどこで買い物してるの?」

「駅前のスーパー、なんだっけな、名前」

「そっか、でも、今日は、成城石井ね。お兄さんもいるし」

ということで、奈々美と二人で成城石井で買い物をする。確かに私がいつも行っているスーパーとは値段が違った。お肉なんかもずいぶん高級な感じがしたけれども、果たして自分にその味の違いがわかるのか自信はない。奈々美は、料理が得意だというので、その日のメニューはお任せした。「お邪魔させてもらうんだから、腕を振るうわ」と数日前から張り切っていた。それは、単に兄に料理上手なところをアピールしたかったのだろうと、今になってわかる。

「すごいね、奈々美さん」と兄は上機嫌だ。

「がんばりました」と奈々美もワインの酔いが回っていて、少し舌ったらずで答える。私はそんな二人を素面で見ている。あまりお酒が飲めるわけではないので、こういうホームパーティーでも少し蚊帳の外になってしまう。お酒がなくても酔っている人たちと同じテンションで盛り上がれる人をいつも尊敬する。

「沙耶は、会社ではどんな感じ?」と兄は奈々美に質問をする。それは、クラスではどんな感じ?と高校生の時に、由美に質問をしていたのと全く同じ感じで。あの時、由美はなんと答えていたのだろう。そんなに昔のことではないのに思い出せない。酔っている奈々美は、

「大人気ですよ、おじさん達は、沙耶ちゃん可愛いって」と答える。

「そうなんだぁ、へぇ」と兄も酔っていて適当な返事をして、私を見る。

「そう、沙耶は実は可愛いいんだ」と兄。

「そう、沙耶は可愛い」と奈々美も繰り返す。酔っ払いの戯言だ。その後、奈々美は兄とラインの交換をして「いつでも呼んでください。飛んできますから」とさりげなく、というのとは程遠い感じで猛アピールをして、兄も「毎日でも来て欲しいよ」と軽く受け答えをしていた。「今度は中華とかかなぁ」と奈々美は兄に枝垂れかかって言い、酔い潰れて寝てしまった。結局、奈々美は私の部屋に泊まっていって、翌朝二人で出社した。洋服は、あまり会社に来ていったことのないものから奈々美に選んでもらって貸してあげた。「クリーニングして返すね」と奈々美は言ってくれたけれども、なかなか返してくれなかった。実際、そのワンピースは、私よりも奈々美の方が似合っていた。奈々美は、それをずいぶん気に入ってくれたようで、二回目にうちにご飯を作りに来た時に、そのワンピースを着てきたのだった。

「沙耶、これ着て来ちゃった」と奈々美は、おどけてみせた。兄はその奈々美のワンピースをしばらく見つめて、こう言った

「それ、沙耶も同じの持ってるね」と。そのワンピースは、兄が私にプレゼントしてくれたものだったから。その時には、既に奈々美が

「これ、沙耶に貸してもらったんです。私のが似合うって沙耶も言うから、着て来ちゃいました」と口走っていた。兄は

「そっかぁ、確かに奈々美さん、似合ってるよ」と言って、それが私へのプレゼントだったことには触れなかった。私も、兄になんと言ったらいいのか、その場では思いつかなかったので、とりあえずは何事もなかったように振る舞うことにしておいて、後で謝ろうと考えた。でも、元はと言えば、そのワンピースは、本当は兄が由美にプレゼントするつもりで買ったものだということを私は知っていた。兄は、私がそのことを知らないと思っているけれども。由美にプレゼントするはずだったワンピースを奈々美が来ていたせいかはわからないけれども、その日以降、兄は奈々美と付き合うことにしたと、私に宣言した。私は、ワンピースのことには触れずに

「そっかぁ、奈々美、お兄ちゃんのこと最初から狙ってたからね、仲良くしてね」とさらりと答えてみた。兄と奈々美がまだ結婚するとかではないのだけれど、私と奈々美との距離感は確実に前とは変化した。ただ単に近くなったとか深くなったとか逆に気を使うようになってしまったとかではなく、そのどれにも当てはまらないなんとも言えない距離ができた。義理の姉妹になるかもしない、という親密度と言ったらいいのか、不思議な感覚だった。

 当然、奈々美がうちに来る頻度は高くなった。奈々美にしてみれば、もう、沙耶のうちに行く、ではなく康孝さんのところに行く、というのが正解なのだろうけれど。さすがに、私がいるので、兄の部屋に泊まっていくということまではなく、泊まるとしても私の部屋に女子二人で狭いシングルベッドで寝た。

「別に、お兄ちゃんの部屋でもいいよ、私は」と一度、奈々美に言ってみたら

「嫌だよ、さすがに照れる」といつものキャラからは想像出来ない少女のような照れ方をしたので、少し意外だった。時々、週末に私が母の様子を見に実家に帰っている時に奈々美は泊まりにきているようだったけれども。母には一応、兄と奈々美のことは報告しておいた。

「お兄ちゃん、彼女出来たんだよ、私の同期」と。母は

「その娘は、沙耶と同い年?」

「そうだよ、なんで?」

「じゃあ、由美ちゃんとも一緒ね」と母はまた由美のことを口にした。

「お母さんは、なんで、そんなに由美のこと言うの?」

「だって、お兄ちゃん」

「お兄ちゃん、もう、大丈夫だよ、由美のことは、たぶん」

「そうなの」と母は釈然としない顔をして、何かを言おうとして言葉を飲み込んだ。ワンピースのことを母にも言おうか迷ったけれどやめておいた。

実家から兄のマンションに戻ると、私の部屋のベッドの上に奈々美の化粧ポーチと、あのワンピースが畳んで置かれていた。奈々美が泊まりにきているのかと思い兄に尋ねてみた。

「奈々美いるの?」

「もうさっき帰ったよ」と兄。

「じゃあ、忘れたのかなぁ」

「何を?」

「ベッドの上に化粧ポーチとワンピースがあるの」

「そっかぁ、明日持っていってあげてよ、会社に」

「うん、それはいいけど」

「けど、なに?」

「お兄ちゃん、あのワンピース、ごめんね、プレゼントだったのに」

「あぁ、いいよ、別に。奈々美さんに似合ってたし」

「でも、あれ」

「なに?」

「いや、なんでもない」やっぱり由美のことは言えなかった。兄は、奈々美に由美の面影を追い求めているのだろうかと聞いてみたいのだけれど、それは言ってはいけないことのようにも思って、ただ兄の横顔を見つめていた。




 中学校の時、部活帰りに、ほとんど毎日、由美はうちに寄っていった。共働きの両親が不在の家には帰りたくないというのが表向きの理由だったけれども、本当は兄に会いにきていたことを私は気づいていた。中学三年の私たちにとって大学生の兄は頼もしい存在だった。地元にある唯一の国立大学に兄は進学していた。高校でトップクラスの成績でないと入れないその大学に兄はストレートで入った。うちのリビングで由美と私はスナック菓子を頬張りながらテレビを見たりアイドル誌を見たりして、他愛もないおしゃべりをした。兄もその時間に家にいるときは、私たちに混ざっておしゃべりをした。由美は私と二人きりの時より兄がいるときの方が楽しそうにおしゃべりをした。兄はそのことに気づいていなかったけれど、私には、はっきりと由美の気持ちが手に取るようにわかった。

「由美は、お兄ちゃんが好きでしょ?」と私が言うと由美は

「なんか、そうみたい、どうしよう」と否定せずに真顔になった。

「高校に入ったら、告白したら?」と私が言うと

「そんなに待てない」と由美は身を乗り出して来た。

「じゃあ、どうする?」

「どうしよう」と言ったまま黙り込んでしまった翌日に、由美は手紙を書いて来た。兄へのラブレターだった。何をどんな風に書いたのかは、未だに知らないけれども兄と由美は付き合うことになった。その後、由美は兄の彼女としてうちに出入りした。母は由美のことが大好きで実の娘の私よりも由美のこと方が好きなのではないかと思えるほど可愛がった。その理由は、由美が施設から貰われた養子であったことにあるのだと知ったのは、由美がいなくなってしまった後でのことだった。私たちが高校二年になると兄は大学を卒業し、東京で就職をした。兄と由美は遠距離でも交際を続けた。兄が東京に行って一年が過ぎた春の終わり頃に由美は、兄に会いに東京に一人で向かった。高校三年になったゴールデンウィークだった。夜行バスに乗った由美は、兄に会うことなく私たちの前からいなくなってしまった。その時、兄は、由美のためにワンピースを買っていて、行き場のなくなったそれは、私の元へやって来ていたのだった。「これ、沙耶に似合うかと思って」と兄は言っていたけれども。当然、私も兄も、由美の不在を受け入れることができずにいるのは間違いがなかった。あえて由美のことを口にしないで過ごしていることがその証拠で、一度口に出してしまったら、私たちのいまの生活がどうなってしまうのか怖くて仕方がないのだった。逆に母だけは、あえて由美の名前を口に出して現実を受け入れようとしているようだったけれど、私と兄と同じようにショックを受けていることは間違いがないと思えた。兄がわざわざ家賃の高い広いマンションを借りているのも、もともとは由美がいつ来ても大丈夫なようにと考えてのことだった。そこに、私が転がり込み、今度は奈々美が住み着こうとしている。




 深夜に喉が渇いて、キッチンに行くと兄がリビングのソファに座ってパソコンを開いていた。驚いた私は思わず声を上げてしまった。そういうときは本当に「キャー!」というのだった。兄は冷静に

「あぁ、ごめんごめん、驚かしちゃったね」と暗がりから言った。

「何してるの?」

「沙耶は?」と逆に聞かれて

「喉が乾いちゃって」と答え、冷蔵庫を開けながら兄のパソコンの画面を遠くから覗き見ようと試みた。わずかに見えたのは、何かの動画だった。その距離では、はっきりとは見えなかったので

「お兄ちゃん、何見てるの?」と聞いてみた。

「ちょっとね」と言ってパソコンを閉じた兄の目に薄っすらと涙のようなものが見えたような気がしたのだけれど、暗過ぎてはっきりとはわからなかった。翌日、兄の不在の時にこっそりパソコンを開いてみた。時々借りていたのでログインパスワードは知っていた。操作の履歴を開くと昨夜は動画ファイルが再生されていた。見てはいけないという思いは、好奇心に抗うことは出来ずに、私はそのファイルを再生していた。由美が校庭を走っていた。高校の校庭を息を切らして走っていた。その後ろを私が付いて走っているのも少し写っている。でも、カメラは由美を捉えて続けている。おそらくフォームの確認のために誰かに動画を撮らせたもののようだった。最後に由美がカメラの近くまで戻ってきて、息を切らせながら「ありがとう」と言ったところで動画は終わっていた。僅か一分足らずの動画だった。兄はこの動画を誰からもらったのだろうか。同じ陸上部の誰かが撮っていたことは間違いはない。私でもなく由美でもないとなると、あと陸上部の同級生の女子は、久美と美砂だけだ。その二人のどちらかだろうか。兄は、いつもこの動画を見ているのだろうか。由美が突然いなくなってしまった日からずっと。それとも、時々思い出した時に、という程度なのだろうか。それでも、深夜の暗がりの中で涙を流していた兄がいた。その兄に妹の私は、何が出来るのだろうか。わからない。わからないし、私だって由美のことを、もう大丈夫だなんて言えないのに。


 昼休み、いつものカフェに奈々美と行く。

「このワンピース、あげる」と忘れていった化粧ポーチと一緒にワンピースを渡す。

「えっ、なんで?いいの?くれるの?」

「うん、奈々美のが似合ってたし、あんまり着ないから」

「ありがとう、嬉しい」と奈々美は本当に嬉しそうだ。

「康孝さんも似合ってるって言ってくれてたし。でも、なんで沙耶は着ないの?これ?気に入って買ったんでしょ?」

「うん、なんとなく。奈々美が着た方がいいの、それは」本当のことは言えない。それを着て、由美の代わりになってあげてとは。

「変なの。じゃあ、遠慮なくもらうよ」

一時間しかない昼休みは、あっという間に終わってしまう。私は奈々美のことをほとんど知らなかったので、いろいろと聞いてみたいと思っていた。中学や高校時代の奈々美はどんなだったのか、どんな恋をしてきたのか。知っているのは、浮気をした元彼からお金を取った、という直近の話だけだし。今さらだけど、それだけを聞くと、兄の彼女として受け入れるべきではないような気もするし。

「奈々美は、高校とか部活何してたの?」

「陸上だよ、中距離」

「えっ、私も」

「ほんと?珍しいくない?」

「うん、そうなのかな?」

「あんな地味なの、なんでやってたんだろうって、思うけど、思わない?」

「思う。けど、友達がいたから楽しかったよ、私は」

「私も。おんなじだね。部活の友達って、続くよね。いまだに会うよ、時々、私は」

「そっかぁ、いいなぁ」と私は由美のことを思い出して呟いていた。

「沙耶は、もう会わないか、東京に出てきちゃったしね」

そういう理由ではないんだけど、と心の中で呟き「うん、そうだね」と答えていた。もう、会社に戻らないといけない時間になっていたので、急いでカフェを出た。奈々美は、小走りで私の前を行く。奈々美も由美と同じように高校のグラウンドを走っていたのだと思うと、なんとなくその後ろ姿が由美に似ているような気もするのだった。その夜、兄に尋ねてみた。

「奈々美、陸上部だったんだって。知ってた?」と。

「あぁ、そう言ってた、中距離だって」

「私と一緒」

「由美も」

「えっ?」兄の口から由美の名前が出たのは、いつ以来だろう。

「お兄ちゃん、奈々美のこと、好きなの?」

「何?その質問」

「別に。なんとなく、もう、由美のことは大丈夫なのかなぁ、って」

「沙耶は?大丈夫なのか?」

「大丈夫、って、わかんない」

「俺も同じだよ、大丈夫か、って聞かれてもね、大丈夫、ってなんだ、って」

「うん。わかる。ごめんなさい、変なこと聞いて」

「奈々美さんのことは、好きだよ」兄はそう言ってから、少し悲しそうな目をしたように思えた。なんで、由美だけがいなくなってしまったのと、私は誰かに叫びたい衝動に駆られて、強く目を瞑った。


 母から入院したと連絡が来たのは、週末に奈々美が遊びに来ていて帰った直後だった。

「あのねー、私、入院したから」とまるで人ごとのように母は言った。家の階段で足を踏み外し、手をついた拍子に手首の骨にヒビが入ったという。身体全体を打ち付けたので、念のため検査をするという。

「だからね、お見舞いとかいいから」と言っていたが、だったらわざわざ連絡なんてしてこないだろうと思い、月曜日から有給をもらって実家に帰った。兄も行きたいと言っていたけれど、ちょうど海外からの来客があって会社を休めないからと私一人で帰った。

「家の階段でも、危ないんだわね」とまだ人ごとのようなことを母は私の顔を見るなり言った。

「あれじゃない、歳だよ、足腰が弱ってんの」と私はわざとからかうように言った。

「お兄ちゃんは?」と聞かれ、仕事で来れないと言うと

「そうじゃなくて、新しい彼女とどう?って聞いてんの」とベッドのリクライニングをあげて身を乗り出してきた。そんなに兄の交際のことが気になるのだろうか。私には、そんな質問をしたこともないのに。

「仲良くしてるよ、奈々美ね」

「奈々美ちゃんね。会ってみたいわ、私」

「わざわざここまで連れてくるとしたら、結婚とかの挨拶じゃない」

「じゃあ、私が行こうかしら、お兄ちゃんのとこに」

「お兄ちゃんのとこ、って、私もいるよ」

「あっ、そうね。二人のとこに」

「言っておくよ、お母さんが会いたいって言ってるって」とその話は終わりにした。母が奈々美とあったら、由美のことを口走らないか心配だ。事前に口止めをしたところで信用ならない。しかし、いずれは奈々美にも由美のことを知ってもらわなくてはならないとも思う。それがどのタイミングなのかは、今はまだわからないけれど。その時には、少なくとも兄が

「もう大丈夫」と思っていなくてはならない。同じように私も。

一泊で帰る予定で会社に届けを出そうとしたら、会社から逆に、もう少しいてあげなさいと言われてしまって三泊することになっていた。もし奈々美が知ったら恐らく「ほら、可愛がられてるからだよ」と言うに違いない。母の病院にずっといてもやることがないので、地元の街をぶらぶらすることにした。懐かしい通学路をたどって高校まで歩いた。私が存在していなかったと思っていたクラスのある校舎を見上げた時、こんなに小さかったかと思った。小学校の校舎とかならそういう感覚はわかるけれども、高校の校舎なのに。記憶にあるものよりかなり狭い校庭のトラックを走ってみた。一周がこんなにも短かっただろうか。こんなに小さな世界で、私たちは毎日を過ごしていた。由美と毎日走っていた。そして、由美はこの小さな世界しか知らないまま、いなくなってしまった。そのことを思うと、やはり、やりきれない思いがした。そして、なぜだかきちんと説明がつかないのだけれど、ここに奈々美と来てみたいと思った。そして、この校庭の小さなトラックを一緒に走りたいと思った。奈々美は、なんで?と言うだろう。その時に由美の話をしよう。その時なら、ちゃんと話ができる気がした。そうしようと心に決めた。


 奈々美だけを実家に連れて行く口実が見つからないまま、ひと月くらいが過ぎてしまった。母はすぐに退院して、いまは手首のリハビリに通っていて「もうちょっと良くなったらそっちに行くから」と宣言していた。奈々美を連れて行くのが先か母が来るのが先か微妙な感じになってしまっていた。もっともらしい口実なんて、やはりどこかで嘘だとバレてしまいそうだったので、奈々美には単にお願いすることにした。

「理由は、行ったらちゃんと話すから一緒に実家に行って欲しい」と。奈々美は怪訝そうな顔をしたけれど、渋々承諾してくれた。母に奈々美と二人で遊びに行くからと伝えたら、なんでお兄ちゃんは来ないの?と当然聞き返された。お兄ちゃんは、仕事が忙しいからと適当に答えて、電話を強引に切った。私はとにかく、あの校庭のトラックを奈々美と走らなくてはならないんだ、と取り憑かれたように思っていた。そして、そのことは兄には内緒にしておきたかったので、奈々美にそう伝えたら

「もうなんだかわからないから、言う通りにするよ」とすんなり聞き入れてくれた。土日の休みに有給を一日付けて二泊三日で奈々美と私の実家に帰った。母は、女三人では絶対に食べきれない大量のご馳走を作って待ち構えていた。

「奈々美ちゃんね、よろしくね、康孝をね」とまるで奈々美が結婚の挨拶に来たかのように対応した。

「お母さん、今回はそういう話じゃないから。ただ羽を伸ばしに来ただけだから」と私がとりなしたのに、奈々美は

「いえ、こちらこそ」と、まともに返していた。


 翌日、奈々美を連れて高校まで歩いた。

「ここが通学路」と私。

「よくある普通の住宅街」と奈々美。

「私には思い出の道」

「なに?好きな男子を待ち伏せしたり?」

「しない」

「じゃあ、どんな思い出?」

「もう、着くよ、高校」と私は奈々美の質問をスルーして言った。

「ねぇ、沙耶。私、ここ知ってるよ」

「えっ、なんで?」

「それは言えないけど、この校庭をね、女の子が走ってるの見たことある」

「女の子って?」

「知らない子」

「もしかして、お兄ちゃんの」

「沙耶、知ってるの?」

「うん、知ってるっていうか、見たことある。奈々美はなんで?」

「前にお泊まりした時、康孝さんが夜中に見ていたの。見ていたというか、パソコンを膝の上に置いたまま寝落ちしてたんだけど。その時、流しっぱなしになってた。その動画が」

「そっかぁ」

「誰なの?あの女の子」

「うん、ちょっと、奈々美、走らない?校庭」

「なんで?」

「なんでも。陸上部だったんでしょ?久しぶりに走ろうよ、ねっ」

「いいよぉ、こんな靴だし」

「いいじゃん、行こっ」

私は強引に奈々美の背中を押して校庭のトラックまで連れて行った。渋々走り出した奈々美の後ろに付いて私も走る。奈々美は時折振り向いて、微笑む。まんざらでもないような表情に、私はなんだか嬉しくなる。

「二周目に入ったら、教えてあげる」

「何を?」

「女の子のこと」

「なにそれ、早く教えてよ、いま」

奈々美は、ほとんど後ろ向きになって走りながら私に詰め寄る。

「もうちょっとで二周目だよ、前向いて」

奈々美は素直に前に向き直り、走り出す。私は奈々美の背中に向かって由美のことを話し始めた。

「由美、って言うの、あの子。私の同級生。中学からずっと一緒。でもね、もう、会えないの」奈々美は前を向いたままだ。私は続けて話す。

「それでね、お兄ちゃんの彼女」流石にここで奈々美は振り向いて私を見つめる。

「でも、もう、いないから」

「いない、ってなに?」前を向いたまま奈々美は質問を返す。

「死んじゃったの」

奈々美は、走り続ける。黙って走り続ける。奈々美の後を私も付いて行く。奈々美の表情が見えない。どんな顔をしているんだろうと、左右に揺れる長い髪を見つめる。奈々美は、三周目を走り終えたところで、肩で息をしながら歩き始めた。

「なに?その話、どうして?どういうことなの?」奈々美は少し泣いているみたいだった。私は、高校三年の春に由美がバスの事故にあったこと、それは兄に会いに行く途中だったことを丁寧に奈々美に伝えた。でも、そうやって起こってしまった事象を伝えることはできても、兄や私や母が抱えてしまった、どうしようもない気持ちを奈々美に伝える言葉は見つからなかった。寂しいとか悲しいとか悔しいとか、そういう言葉を並べてみても、どれも何かが足りない気がした。

「だって、まだ、最近のことじゃん、なんで?みんな大丈夫なの?」

「大丈夫じゃ、ないよ、たぶん」

「私も、大丈夫じゃない。知らない子の話に思えないし」

「うん、でもね、大丈夫にならなくちゃいけない、って思ってるよ、みんな」

「私、どうしよう」奈々美は、明らかに動揺しているように見えた。それが何によるものなのか私には、はっきりとはわからなかった。兄とのことでもあるだろうし、私たち家族全員のことかもしれないし、自分と同じ年齢の子が死んだ、という受け入れがたい事実を聞かされたせいかもしれないし、その全部かもしれなかった。私は話してしまってから、奈々美に何を伝えたかったのだろうと、自己嫌悪に陥った。別に奈々美は知らなくてもいいことだったのかもしれない、私が勝手に巻き込んでしまって、それで、私たちが大丈夫になれるとでも思ったのだろうか。奈々美が何かを解決してくれるとでも。奈々美に話したことで、辛い思いを共有する人間を一人増やしてしまっただけだと思った。


 高校から実家に帰る途中、奈々美は

「やっぱり康孝さんは、由美さんのこと忘れられないよね」と呟いた。

「でも、奈々美は奈々美だし」と私は答える。

「何の答えにもなってないよ、それ」

「そうかなぁ」

「なんか、おんなじ陸上部だし、思い出させちゃうし、絶対、由美さんのこと考えるよね、普通」

「奈々美のこと好きだって言ってたよ」

「何それ?聞いたの?」

「うん、聞いた」

「変な兄妹」と奈々美は少しだけ笑ってくれた。

 その日の晩御飯は、前の日に母が作り過ぎたご馳走の残りを食べた。残り物でも十分お腹は満たされ、奈々美と母はワインを二人で一本空けて上機嫌だった。奈々美が

「お母さんも由美さんのことよく知ってるんですか?」と尋ねた時、母は「そうね、まぁ、それなりに」と曖昧な答えをした。私にはいつも由美のことばかり話題にするのに、奈々美の前では母は母なりに気をつかっていたのだと思う。

「私、由美さんに似てますか?」と奈々美が母に言った時には、さすがにドキリとしたが、その質問にも母は

「似てないんじゃない、奈々美ちゃんの方が美人さんだよ」と笑って答えていた。

「それ、由美に失礼じゃない」と私も話題に乗っかって、三人で笑い合って、その晩はもう由美の話にはならなかった。


 翌朝、朝寝坊していたら兄からの電話で起こされた。

「沙耶、いまどこ?」

「どこ、って、旅行」

「高校行かなかった?」

兄が何を言っているのか起き抜けの頭ではよく理解できず。

「高校なんて、ちゃんと卒業したよ」とトンチンカンな答えをしていた。

「ちがうよ、昨日、沙耶を見たって、坂木から電話があったんだけど、お袋のとこにいるのか?」坂木とは、兄の幼馴染で、地元で大きな建築会社をやっている家の息子だった。なんだ、バレちゃうんだ、と思い、嘘をつくのは止めることにした。

「バレちゃった」

「奈々美さんも一緒?」と兄。

「一緒だよ」

「高校も一緒に行ったのか?」

「うん、行って、走った、一緒に」

「なんで?」

「なんでって、そうしたかったから」

話していると、隣で奈々美が起きた様子だった。

「誰?」と声を出さず口元だけを動かしている。私も

「お兄ちゃん」と口だけを動かした。

「あっ、ごめん、奈々美が呼んでるから、一旦切るね、掛け直す」と言って無理やり電話を切った。

「なに?バレてた?」と心配顔の奈々美。

「うん、バレた」

「あれー、なんで?大丈夫?」

「坂木さんていうお兄ちゃんの幼馴染に目撃されてた。高校で走ってたとこ」

「そんな情報、筒抜けなの?」

「田舎はそんなもの」

「どうする?」

「別に、正直に話すよ、もう」

「兄妹のことだから、私はわかんないけど。連れてこられただけだし、私は」と奈々美は布団をたたんで着替えを始めた。

「奈々美も共犯よ」と私がからかうと

「なんでよ!」と奈々美はムキになる。

「うそ。大丈夫、奈々美は悪くないから。後で電話しとくよ」と言ってみたけれど、兄に、奈々美をここに連れてきた理由をきちんと説明できる自信はなかった。

 帰りは、由美が乗ったのと同じ路線の高速バスで帰った。夜行ではなかったから、全く同じというわけではなかったけれど、ただそうしてみたかった。当然、奈々美もそのことに気づいていて

「葬いの旅行なの?」と訊かれたので

「ちがうよ、このバスが一番便利なだけ」と答えておいた。バスの中で時間はたっぷりあったので、私は思っていたことを少しずつ話してみた。

「奈々美にはね、知っておいて欲しかったの、由美のこと。でもね、いつ、何から、どう話したらいいか、ずっとわからなかった。お兄ちゃんとこの先もずっと仲良くしてもらうには、知っていてもらわないといけないと私が勝手に思ってたんだけど。もしかしたら、知らないままでいることもできたかもしれないけどね」

「知ってよかった。けど、」

「けど、なに?」

「私に何かできる?みんなを慰めたり、辛さを分かち合ったりとかは、表面上はできるかもしれないけど、本当の意味で、康孝さんや沙耶やお母さんの痛みなんてわからないと思うの」

「うん、そうかも。でも、私たちには、奈々美が必要なんだって思う。私たち、なんて言うとお兄ちゃんから横取りしちゃう感じだけどね。お兄ちゃんが奈々美のことを必要としているのと同じように、私にもお母さんにも奈々美が必要なんじゃないかって」

「仲原家の救世主ね、私」と奈々美は冗談めかして言う。

「冗談抜きで、そうかも」

「やめて、荷が重い」と奈々美は、それでも少し嬉しそうだった。

「最初ね、由美さんの話を聞いた時、私はその人の代わりじゃない、って正直頭にきて、悔しかったの。わかる?私は由美ではなく奈々美なの、って」

「わかるよ」

「でもね、同い年の女の子が、あんな風に事故で死んじゃうんだなって、思うと、なんだかわからないけど、それも悔しくて。もし由美さんがいま元気に生きていたら、私は沙耶や康孝さんにも会わない人生だったんだろうな、とか考えてみたり、あるいは由美さんと康孝さんを取り合う恋敵になっていたのかなぁ、とかも考えたり、もう、なんだか変な想像ばっかり頭に浮かんできて」

「うん」

「でもね、私が必要とされている場所であることには間違いないって少し思えて来ていて。そしたら、沙耶が、私を必要なんだって言ってくれたから、あぁ、間違い無いんだって思えて。わかる?言ってること?なんだか変なこと言ってる?」

「大丈夫、わかるよ、わかる」と答えたけれど、奈々美は頬に手を当てたまま考え込んでしまった。そのうち二人ともウトウトと眠りに落ちてしまい、終点の東京駅に着くアナウンスで目が覚めた。

「なんか疲れたね」と私が言うと、奈々美も

「うん」と答えて大きな伸びをした。その伸びをする仕草が、由美に似ていると思った。

「明日からまた会社だね」

「だねー」

「月曜朝礼もあるね」

「あるねー」なんていうどうでもいい会話をしながら、私鉄に乗り換えてそれぞれの家に帰った。


 マンションに着くと兄はいなかった。在宅勤務の日ではないから、残業だろうかと考えながら部屋の中を見渡す。いつもと変わりのない部屋。ソファテーブルの上に兄のノートブックが置き去りにされ、電源のランプが息をしているように、ゆっくりと点滅を繰り返している。由美に会いたいと思いパスワードを入れ、兄のページにログインする。動画ファイルを再生して、高校生の由美が走ってる姿をじっと見つめる。繰り返し再生しているとだんだんと由美が奈々美に見えてくる。「私は奈々美じゃなくて由美だよ」と画面の中の女の子が言っている気がして、ファイルを閉じ、パソコンをスリープ状態に戻す。私の中の由美が、なんとなく色彩を失いかけてきているような気がして、淋しくなる。同時にさっき「私は由美ではなくて奈々美なの」と言っていた奈々美の顔がはっきりと思い浮かんできた。

 兄は奈々美と母のところへ行ったことについて何も言わなかった。ただ「お袋、元気だった?」と聞いただけで。奈々美にも何も聞かないつもりなのだろうか。私から、奈々美に由美について話したことを報告した方がいいのだろうかとも思って、兄が在宅勤務の日に声をかけた。

「ねぇ、お兄ちゃん、この前、奈々美に話したよ、由美のこと」そう言うと、一瞬間があってから

「ありがとう」と言った。

「奈々美、なんか言ってた?」

「うん」

「なんて?」

「由美さんのこと、聞きました、って」

「それだけ?」

「私は大丈夫だから、って」

「そっかぁ」

「お兄ちゃんは?」

「何?」

「大丈夫になった?」

「なったよ、おかげさまで」と少しだけ笑っていた。奈々美とどんな話をしたのかは、奈々美に聞くことにしようと思う。でも、間違いなく、兄が大丈夫と言えるようになったのは奈々美のおかげなのだと思った。翌日、由美に兄が大丈夫、って言っていたと報告しようと思い、ノートブックを開いた。いつもあるデスクトップに動画ファイルが見つからなかった。色々探してみたけれども、どこにもなかった。唯一、動いている由美に会える動画だったのに。こっそり見ていたことがバレてもいいと思い、帰宅した兄に聞いてみた。

「あの動画、捨てたの?」

「由美の?見てたんだ」

「うん、ごめん、こっそり」

「削除した」

「なんで?唯一の動画なのに」

「もう大丈夫だから」と兄は私の目を見てはっきりと言った。


 兄の運転する車で、実家に向かう。後部座席に私と奈々美が乗って。この前、奈々美と二人で行った時から、季節はがらりと変わり夏の日差しが窓から入り込み、私の右腕を容赦なく照らしている。奈々美は、あのワンピースを着て、それに合わせて買ったという、つばの広い綺麗な帽子を持ってきていた。

「避暑地に行くイメージ」と奈々美は言っていたけれど、私の実家のある街は単なる地方都市で、決して避暑地ではない。この前、一度行っているのに、なぜそんなイメージを抱いているのかわからない。

「うちの実家、避暑地じゃないけど?」と言うと

「気持ちの問題」とだけ言って、取り合ってくれなかった。兄も、それに合わせたのか白い半袖シャツに薄いブルーの短パンを履いて、奈々美のと同じ色合いのハットを持ってきていた。私だけが、Tシャツに生地が薄手のデニムだった。奈々美に

「沙耶、今日なんか、aikoみたい」と言われて、確かにと自分でも思い、夏の星座にぶら下がって、という歌が思い浮かんだ。平日だったので想定していた時間よりも早く実家についた。母は

「早く着くならそういってよー」とバタバタと散らかった部屋を片付けはじめた。

「別に、私たちと奈々美だから、いいよ、散らかってても」と私が言うと

「何言ってんの、大事なお嫁さんをお迎えするのに。沙耶、手伝って!」と大きな声でまくし立てた。奈々美と兄はペアルックよろしく、遠巻きに私たちのやり取りをニヤニヤしながら眺めていた。それは、なんとも幸せな瞬間だと、私は片付けをしながら感じていた。

 母は晩御飯の用意をすると言ってエプロンを二つ持ってきて

「沙耶も手伝って」と一つを私に渡した。

「この前作りすぎたんだから、ほどほどにね」と言うと

「お兄ちゃんがいるんだから、たくさん作んなきゃ」と張り切っている。

「俺も昔みたいには食べないよ、もう学生とかじゃないんだから」とリビングから兄の声が聞こえる。

「とか言って食べるのよ、康孝は」と母は取り合わない。まぁ、好きにさせればいいかと、母の言うとおりに手伝いをした。結果、やはり明らかに作りすぎだと思える量のご馳走が並んだ。

「わぁー、すごい」と奈々美は喜んでいる。この前二日続けて同じものを食べさせられたことを忘れているのか、と私は思う。母はエプロンを外し席に着いた。

「さっ、康孝、どうぞ」

「えっ?」

「紹介して、きちんと。ね、奈々美さん」

そう言われて奈々美も背筋を伸ばす。

「えーと、奈々美さん、です。結婚しようと思ってます。で、母の早苗です」

「早苗です、よろしくね」と母。

「はい」と奈々美。

そこで、一同沈黙。

「なに?これ?」と私は耐えきれずに口を開いた。

「こういうのって、難しいわね、あと何言うの、普通」と母が兄に尋ねる。

「さぁ、知らない。以上でいいんじゃない?ね?」と兄は奈々美の顔を覗き込む。奈々美は何かを言おうとしていたように私には見えたのだけれど、母の「冷めちゃうから、食べましょ」という一言で、とりあえず宴が始まった。母と奈々美は、この前と同じようにワインを一本空けていて、ビール党の兄は飲み終わった缶を潰してテーブルの端に積み上げていた。あまりお酒の飲めない私は奈々美と母の飲んでいるワインを少しだけもらって、なんとか酔っているみんなのテンションに追いつこうとしたのだけれど、到底追いつける感じがしなかった。もう、お腹いっぱいになっていたのだけれどテーブルの上にはまだ沢山のご馳走が残っていた。

「ほら、作りすぎ」と兄が言う。

「明日また食べればいいのよ、腐るものじゃないから、ね」母は奈々美に同意を求める。

「はい、そうしましょう」と奈々美は素直に答えて、残り物を綺麗に盛り付け直し始めた。酔っているのかと思っていたけれど、その手つきを見る限りほとんど素面のようだった。盛り付けをしながら奈々美は

「本当は、私の代わりに由美さんがこの席にいたかもしれないんですよね」と言った。私たち家族は顔を見合わせた。

「奈々美、由美のことは、もう大丈夫なんだって。だから、そんなこと」と兄がすぐに言葉をかけた。

「違うの。私、由美さんの代わりが嫌だとか言ってるんじゃないの。こうしてね、みんなに囲まれていると、由美さんも、こんな気持ちだったのかなぁ、って思って、なんだかすごく近くに由美さんがいて、それで見守ってくれているような気がするの。会ったこともないのに、由美さんのことならなんでもわかるような気になる、っていうか。だから、その由美さんの分まで私が生きて行かなくちゃいけないんだな、って」

「奈々美は、奈々美なんだから、由美のことはいいんだよ」と兄が言う。

「よくないよ、由美さんのことを知らないことにしてこれから康孝さんと一緒になるのは嫌なの。康孝さんだって、もう大丈夫、って言うけど全然そんなことないはずだし。康孝さんの中に由美さんがいてもいい、っていうか、いつでも由美さんのことも思ってて欲しい、っていうか。もう私の中にも由美さんがいて、一緒に笑ったり泣いたりしている感覚なの。いまいるこの場所には、由美さんもいて私もいるっていうか」兄も、もう黙って聞いている。

「ねぇ、このワンピース、由美さんのでしょ?」と奈々美が兄と私に尋ねる。

「いいの、誤解しないで、怒ってるんじゃないから。沙耶のワンピースじゃないよね?沙耶が自分で買ったりなんかしてないよね?沙耶のクローゼットには、こんな色の服は、一つもないよね。それに、いつだったか、私、ピンクとか女の子の色は似合わないから、選ばない、って言っていたし。でも、これ可愛い薄いピンクだよ。私、これと同じ色、知ってるの。あの動画の女の子、この色のタオルもってて、長い髪を束ねていたカチューシャもこの色だった。あの子が由美さんで康孝さんの彼女だったんだよって沙耶に聞いた時に、もしかしてこのワンピースは由美さんのなのかな、って思ったの。あるいは、康孝さんが由美さんにプレゼントしたものなのかな、って。どう?あってる?康孝さんは、私に似合ってる、って言っていたけど、それは私じゃなくて、本当は由美さんを見ていたんだろうな、って思ったけど、それでも康孝さんに褒められて私は嬉しかった。沙耶は私が必要なんだって言うし、康孝さんも私のことが好きだって言ってくれるし、正直、どうして、って二人のことがわからなくなっていた時もあったけど。でも、不思議とね、このワンピースを着ると落ち着くっていうか、私は私なんだから、って思えてね。それは多分、由美さんが一緒にいてくれて見守ってくれているからなんだろうなって。由美さんが座っていたかもしれないこの場所に、由美さんが着るはずだったワンピースを着て、私はここにいる。そのことは、とても幸せなことなんだと思ってるの、今は」そこまで話すと奈々美は立ち上がり、私たち家族に

「だから、よろしくお願いします」と言って深く頭を下げた。それを見た母も立ち上がろうとしたのだけれど、思いのほか酔いが回っていたみたいで、見事に椅子から転げ落ちるように転倒した。兄が慌てて抱え起こして、どこか怪我をしていないか聞いているのに、母は兄の質問は無視して

「こちらこそ、よろしくお願いします」と奈々美よりさらに深く頭を下げていた。


 兄の運転する車は、由美が兄に会うために東京に向かっていたのと同じ高速道路を走った。どこかで事故現場を通過したのだろうけれど、私には、それがどこだったのか、はっきりとはわからなかった。兄は何度も訪れていたはずなので、正確にわかって走りすぎたのだろうけれど。奈々美は、その高速道路を走っている間、ずっと目を閉じていた。窓から入り込む夏の日差しを受けているピンク色のワンピースは、奈々美が息をするリズムで静かに上下している。奈々美は今、由美と何かを話しているのだろうかと私は思った。もう、奈々美は私たち以上に由美のことをわかっているような気がする。私も兄も、由美のいた場所にどうやっても立つことはできないのだけれど、今、奈々美はそこに立っているのだ。そこから見える景色は、由美が見ていたかもしれないと奈々美は今でも思っているのかもしれないけれど、それは違うと私は思う。奈々美が見る景色は奈々美だけのもので、由美が見たかもしれない景色は、あくまで由美の景色の筈だと。今、奈々美の眼に映る、その景色はどんななんだろうか。目を開けたら聞いてみよう。ピンク色のワンピースに降り注ぐ夏の日差しのようにキラキラとしていたらいい。




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あとがき


春が来る少し前に、春のことを思い浮かべて書き始めました。

主人公たちは、少し辛い経験をしていますが

春から夏にかけての季節が、

彼らを前に推し進めているように思います。

この季節は、そういう力があると

なんとなく感じますね。



cafeイカニカ

平井康二





by ikanika | 2019-04-27 22:07 | Comments(0)

『青い月と、嘘つき』




青い月と、嘘つき

                       





 雨音が聞こえる。枯葉が詰まっている二階の雨樋から一階の屋根に規則的に水が滴り落ちる。時折、休符を挟み、変拍子のようなリズムになるのが真帆の集中を妨げる。雨樋に枯葉が詰まっているのはわかっているのだけれど、二階の雨樋なんてどうやって掃除をしたらいいのかわからない。そういう業者がいるのだろうか、いたとしても他に色々と修繕を勧められて面倒なことになりそうだと思い、わざわざ探すことまではせずにいる。雨の度に、尚樹がいたら掃除をしてくれただろうか、と想像しては、その考えを振り払うように頭を左右に大袈裟に振る。もう締め切りまで時間がないのに、まだ一番のAメロまでしか書けていない。サビに「青い月」と「うそつき」という二つの言葉を入れ込んで欲しいという指示を受けているので、それに辻褄が合うような歌い出しのストーリーにしなくてはならない。それが想像以上に手間取っている原因だった。アイドルグループの楽曲は、いつもは受けないのだけれど、作詞家デビューしたての頃に相当にお世話になったディレクターからの依頼だったので断りきれずに受けてしまった。斉木というそのディレクターは、五年ぶりくらいにメールをしてきて「今は、アニメとアイドルグループをやらないと食っていけない」と、ほとんど全ての音楽業界関係者が口にしそうな理由で、本当にやりたい「良質なポップス」の仕事とは別に、時々、単発でアイドルの仕事を受けているのだと言っていた。急なタイアップが決まった楽曲だから時間がないと泣きついてきた上に、サビの歌詞の指定までくっついてきたのだった。「ドラマの主題歌で、青い月とうそつき、がストーリーの軸になっているんです」と言うのだけれど、全く話の内容が想像できなかった。

「じゃあ、脚本を読ませてくれれば、書けそうです」と伝えると、脚本はまだ完成していないと言う。「とはいえ、ラブストーリーですよ」と斉木は乱暴な一言でその話題を終わりにした。要は、主演のアイドルのスケジュールの都合で脚本の完成を待たずに、主題歌を先に録音しなくてはならないというのが現実のようで、すでに曲は完成していて、作曲家が自分で仮歌を歌ったデモテープも送ってきていた。

「この仮歌って、YTさんですよね?」

「はい、そうです。ストック曲を無理言っていただきました。なので、仮歌の歌詞は無視して下さい。それは、YTさんが元々入れていた歌詞なので」

と斉木は言っていたのだけれど、仮の歌詞にしては、完成度が高く、ほぼ完成していると言えなくもない状態だった。YTさんは、自らもシンガーソングライターとして人気のアーティストで、おそらくこの楽曲もいずれはご本人が発表する予定で制作していたものではないかと推測出来た。真帆はYTさんのファンでもあったので、その完成している歌詞を聴きながら新たな歌詞を嵌めていく作業はきわめてやりづらかった。加えて「青い月」と「うそつき」という指定までありながら脚本はない。YTさんの元の歌詞のサビは

「さよならを言えたなら

 君は今も

 夏の日差しの中で

 微笑んでいる」

だった。「さよならを言えたなら」の部分を、そのまま「青い月とうそつき」とちょうど文字数的には歌えるのだけれど、全体の歌詞をそのサビから完成させていっていいのだろうか。「青い月」と「うそつき」というキーワードがもつ意味合いは、やはり脚本がないとわからない。加えて元々の仮歌の歌詞が邪魔をして、デモテープを聴きながらの作業が非常にやりづらかった。

「歌詞付きじゃなくて、ラララとかで歌ったのとか、楽器でメロディ弾いたデモテープとかない?言葉が邪魔して書きづらいわ」と斉木に言ってみたものの

「YTさんもご存知の通り忙しい方なので、これしか今は」という返事だった。

「最悪、僕がラララで歌い直すとかは出来ますけど。カラオケはあるので」

「それは、要らないわ。斉木くんの声聴きながら歌詞は書けない」

「ですよね」

と斉木は引き下がった。どうしてそうなったのか今となっては思い出せないのだけれど、昔、半年くらい斉木と付き合っていた時期があった。作詞家になりたてで、まだ世間知らずだったとしか説明のしようがないのだけれど、必死にヒット曲を作ろうとしていた斉木に惹かれていたのかもしれなかった。同じ目標を抱く同志として。しかし業界には甘い誘惑が山ほど散りばめられていて、若い斉木は、歌手デビュー予備軍の可愛らしい少女と真帆を二股にかけていたので、真帆の方から、あっさりと別れを告げた。しかし、その後、斉木はディレクターとしての才覚をメキメキとあらわして、確実にヒット曲を生み出すディレクターへと成長していった。男女の関係は終わったものの、斉木とは何曲も作品を作って、その多くは真帆の代表作となるくらいにヒットし、いまの安定した作詞家としての立ち位置を獲得する土台となったのだった。なので、いまだにヒット曲を生み出し続ける斉木には一目置いていて、感謝もしている。ただひとりの男としては、認めていない。

 雨は更に激しくなり、雨樋からは、ポタポタという雫ではなく、もう水道を捻ったようにずっと水が流れ落ちている。変拍子の雫よりはその方が集中できたのか、気がつくと一気に二番の歌詞まで書き上がった。あとは、サビの繰り返しを少し考えれば完成しそうだった。時計を見ると深夜二時半を回っていた。尚樹はいま何をしているのだろうかと、ぼんやり考える。メールをしてみようかとスマートフォンに手を伸ばして、やっぱりやめようと液晶画面を伏せる。

「どこに行っても、作詞家だったら仕事はできるんじゃない?東京じゃなくても」という尚樹に

「だめなの、ここじゃないと」と冷たく言い放ってしまったのは自分だった。本当は、東京じゃないとだめな理由なんてなかったはずなのに。尚樹は、特に理由を問い詰めることはしなかった。問い詰めてくれれば、もっともな理由を考えたりしたかもしれない。自分を正当化するための。その後に、尚樹は

「じゃあ、しばらくは離れて暮らすことになるね」と言った。

真帆は「うん」とだけ答え「本当は東京じゃなくても大丈夫」だと、「ついていく」とは言えなかった。大学の研究室に努める尚樹から、風力発電の現地調査で北海道に行くことになったと告げられたのは、今から一年くらい前のある夜だった。最初は、出張で行くことになったのだと勝手に思っていた真帆は「いつから?」と軽く返事を返した。

「たぶん、正式には四月の新年度からだけど、準備とかで三月の中くらいからは、ほぼ行ったきりかなぁ」という尚樹の言葉で、出張ではないのだと気付いて驚いたのだった。

「えっ?転勤ってこと?」

「まぁ、普通の会社で言うと、そんなところ。研究室だから、長期の現地調査って感じ」

「でも、引っ越すんでしょ?どのくらい?」

「全てが順調に行けば二年。やってみないとわからないことも多いから、約束はされてないんだけど。二年で見通しが立たなかったからプロジェクト自体が見直されると思う」

「どこに住むの?」

「これから探すけど、風車の建てられる所は基本周りには何もない場所だから、そこに通うということは結構田舎だと思う」

「北海道でしょ?寒いでしょ?」

「それはそうだろうね」

「大丈夫?」

「大丈夫、って、大丈夫だよ。こっちに比べれば多少は不便だろうけど、日本だしね。電気もガスも水道もちゃんとあるよ」

「そうね」

真帆は、出張だと勘違いして対応してしまったバツの悪さも手伝って、なんだか変な質問ばかりしている自分に気づいていた。本当は、二人の関係はどうなるのだろうかということがいちばん気になっているのだけれど、そういう話題は尚樹の口からは一度も出てこなかった。暗黙の了解として、尚樹の中には何か決定事項があるかのように。だとしたら、何が暗黙の了解なのだろうか。真帆は、尚樹に訊いてみたいと思っているだけれど、どう切り出したらいいのかわからない。自分自身がどうするつもりなのか、どうしたいのかがはっきりとしていないからだった。尚樹とは恋人として付き合ってはいるけれども、同棲をしているわけでもなく、結婚の約束をしているわけでもない。お互いになんとなくこのままの関係を続けて行けば何かしらの着地点に到達するのだろうというくらいにしか、将来のことは考えていなかった。こうして目の前に、尚樹の北海道への転勤という現実を突きつけられて、なにかを決断しろと言われても、なにをどう考えたらいいのか、そう簡単に頭が回るわけはなかった。その夜は、二人の今後についての話題にはならずに、何日か後に、尚樹が北海道で住む物件探しに行くという話になった時に

「真帆はどうする?」と尚樹がようやく訊いてきた。

「どうって?」

「向こうで部屋を探すにしても、一人で住むのと二人とでは変わってくるから」

「わたし?」

という反応に対して尚樹が言ったのが

「どこに行っても、作詞家だったら仕事はできるんじゃない?東京じゃなくても」という言葉だった。いま考えると、どこにあんな風にきっぱりと冷たく「だめなの、ここじゃないと」と答える必要があったのかわからない。「東京じゃなくても仕事はできるんじゃない?」という尚樹の意見はもっともだし、日本中どこにいってもメールは繋がるし、その環境さえあれば真帆の仕事はできる。なのに、東京じゃないとだめだと言った自分はなにを考えてのことだったのだろうか。その結果がいまの状態だった。尚樹はひとり北海道へ行き、真帆はそれと同時に住み慣れた都心のマンションを引き払い、何年か前まで母親が住んでいた世田谷の住宅地にある古い一軒家に住み始めた。どうして駅から遠くて古い一軒家などに引っ越すのかと友達の多くは理解を示さなかったけれど、真帆はもう都心のマンションからの夜景や地下鉄の利便性や二十四時間いつでも歩ける明るい繁華街などには用がないと感じていたし、母親の住んでいた家を空き家にしておくのは、もう限界に来ていた。家は人が住まなくなると、どんどん朽ちて行くというのは本当で、世田谷のその一軒家は、そろそろひとり娘である自分が引き受けて住み始めないといけない状態だった。尚樹の転勤とは関係なく引っ越しはしようと決めていた。マンションを引き払うタイミングと尚樹の転勤が重なったのだから一緒に北海道へ行くという選択肢も当然あって、女友達の何人かには「結婚のタイミングなんじゃない?」と真剣に北海道行きを勧められたりもしたが、当初の計画通り一軒家への引っ越しを決行した。築四十年近いその家は、父が他界した十年程前から、ずっと母が一人で住んでいて、真帆は年末年始やお盆に母の様子を見に訪ねる程度で、寝泊りをしたことはなかった。元々はカメラマンをしていた父がアトリエを兼ねた事務所として使っていたその家には、母も余程の用事がない限り足を踏み入れたことは無かった。仕事場に母や私が顔を出すことを極端に嫌がっていた父が、遺言にこの家を母に譲り、守って欲しいと書き残した理由は、真帆には知らされていなかった。父の遺言通りに約十年暮らした母もさすがに歳をとり、一軒家を維持管理して暮らすことが難しくなり、二年くらい前から介護施設に移っていた。ひと月に一度だけ、真帆が空気の入れ替えをしたり簡単な掃除をして、父の残した一軒家を維持してきた。それでも庭には雑草が我が物顔で生い茂り、家の水回りからは異臭がしてきたりと、主人を失った家はもう限界に達していた。母は施設に移った後も「お父さんの家は大丈夫?」としきりに気にしていて、真帆はその度に、月に一度は見に行っているから大丈夫だと答えていた。でも、本当は大丈夫だと言い切れる状態ではなかった。「真帆ちゃんがひとりで住むには広すぎるし、物騒かもしれないけど、出来たら住んで欲しいの。空き家にしておくとすぐにだめになってしまうでしょ」と母に言われると、いつも後ろめたくなるのだった。「一緒に住んでくれるいい人でもいれば話は別なんだけどね」とさりげなくプレッシャーをかけてくることもあった。尚樹に「一緒に暮らそうよ」と冗談めかして言ってみたこともあるにはあるのだけれど、そのまま冗談だと受け取られてしまったようで、まともには請け合ってはくれなかった。婚約もしていない交際相手の女の父が残した古い一軒家に、好んで住もうという男なんてそうそういるわけがなかった。駅からは遠く、かなりリフォームをしないと快適には暮らすことは望めなかったのだから。リノベーションが趣味だとかいうのならば話はちがったのだろうけど、尚樹はそういうタイプではなかった。ひとりで住み始めた当初は、やはりマンションとは違って戸締りが気になって落ち着いて寝ることもできなかったのだけれど、いまでは、隣りの部屋の物音や上階の住人の足音などにも悩まされずに過ごすことができる夜が一番好きな時間になっていた。加えて、その時間帯に作詞をすると信じられないほど捗る上に、この家に来てから書いた作品は、今のところ確実にヒット曲になっていた。その理由がこの家にあるのか、ただキャリアを積んだ為にヒットの確率の高い仕事の話が来るようになったということによるものなのかは、今のところ判断が難しい。ただ父がカメラマンとして成功をしたのは、この家が影響していたのではないかと真帆はなんとなく感じていた。それはここに住んでみて肌で感じることで、言葉で説明するのは難しかった。母もここに住んで、そのことを感じていて自分に住むように勧めたのかはわからないが、父がこの家を守ることにこだわったのには何かしらの理由があったことは間違いないと思えた。

 その夜のうちに、斉木からの依頼の歌詞は書き上がり、完成原稿をメールで送って、とりあえずはベッドに入った。時間はもう明け方の四時を少し過ぎていた。尚樹が起きているとは思わなかったが、頭が冴えて眠れなかったので、新しい歌詞が書き終わったことと、雨樋が詰まっていることなど、どうでもいい話題を書いて、おやすみなさい、とメールを送った。尚樹が北海道に行ってから一年が過ぎているのだけれど、東京に帰ってきたのは僅か二回だけだった。お互いに気まぐれなメールを送りあって、なんとなく近況を把握して、それでなんとか繋がっている気持ちになっている。二人の間に何か特別な約束が交わされて北海道に行ったわけではないので、終わってしまったらそれはそういう関係だったのだと思うことにしていたのだけれど、未だにそういう終わりは見えては来ていない。真帆は時間が出来たら、尚樹がどんなところで生活をしているのか見に行こうとは思っているのだけれど、尚樹からも積極的な誘いがないので、先延ばしにしているうちに一年が過ぎてしまった。あと一年したら帰ってくるかもしれないと考えると敢えて行く必要もないかとも考え始めている。

 メールの着信音で目が醒める。時間を見ると九時半だった。新着メールは二通あり、斉木と尚樹からだった。ほぼ同じ時刻に送ってきたようで、二通が仲良く並んでいた。先に斉木のメールを開くと、「ありがとうございます。さすがです。すぐにレコーディングに入ります。日程の都合がつくようでしたら歌入れの時に立ち会ってくれませんか?万が一、ドラマチームから修正の依頼があったらその場で直していただきたいので。なにせ時間がないので、すいません!」とあった。その場で直せという乱暴なリクエストにも対応しなくてはならないほど切羽詰まっている斉木の姿が想像できたので「スケジュールが決まったら連絡下さい。お邪魔します!」と返しておいた。尚樹からのメールは、珍しく少しだけ長文だった。




「新しい歌詞、聴けるのを楽しみにしてるよ。その枠のドラマならこっちでも見れるから。アイドルって大変なんだね。世田谷の家の住み心地はどう?古い家は、味わいがあっていいけど、維持するのはなかなか大変だよね。雨樋、僕がいたら枯葉ぐらいなら取れたかな?でも、ハシゴに登って二階の屋根は、ちょっと怖いなぁ、無理か。僕がこっちで借りた家も古い一軒家です。平屋の。田舎なので賃貸マンションなんて無くてね。だから相当寒い。薪ストーブと灯油のストーブの両方を使ってしのいでいます。寒さというのは慣れるもので、寒ければ着込めばいいのでね。そんな家だから都心のマンション暮らしをしていた真帆には耐えられないだろうなって思っていたけど、世田谷の家に住んでだいぶ免疫ができたようだから、今年の夏はこっちに遊びに来てみたら?冬はさすがにつらいから。予定通りに行けばもう来年の春には戻ってしまうからね。では、これから出勤してきます。


尚樹」


 はじめて尚樹から北海道への誘いがあった。平屋の一軒家に住んでいることも、はじめて知った。てっきりワンルームマンションとかに住んでいるのだと思っていたので意外だった。田舎の平原にポツリと建っている平屋の画が思い浮かぶ。自分がそこにいることを想像してなんだかワクワクしている。すぐに返事を書こうとして、踏みとどまる。夏の予定などいまから決まっているものはなく、行こうと決めれば行けるのだけれど、一年以上も経ってから尚樹が誘ってきたことに少し違和感をおぼえた。メールにあるように、古い一軒家に対しての免疫、というようなことが理由なのだろうかと。そこまで自分が都市生活者然として、尚樹の前で振舞っていたつもりはなかったけれども、尚樹の目にはそんな風に映っていたということなのだろうか。やはり「だめなの、ここじゃないと」という言葉がそれを後押ししたのだろうか。確かに作詞家なんていうと、いわゆるギョーカイ人という風にみられがちだけれど、真帆自身は、パッとしない文学少女が気まぐれで作詞をしたら、運良くヒット曲になった、という感覚で、アーティストやアイドルとの派手な交友関係があるわけでもなく、地味な裏方稼業だと思っている。お互いの仕事をどこまで理解しているかというと、正直、真帆も尚樹の仕事のことをよく知らない。一度「研究室って、ずっと毎日研究しているの?」と聞いたことがある。尚樹は笑いながら「ある意味そうだよ」と言ったきり詳しくは説明してくれなかった。そして突然の北海道行きだ。現地調査とは一体何をしているのだろうか。風車の建設と言われれば簡単に想像出来るのだけれど、尚樹の仕事は建築業ではないことは確かだから、つくっているわけではないだろう。ではなんだ?やはり、行ってこの目で見て確かめるしかないのだろう。尚樹にも自分が真夜中に暗い部屋でパソコンに向かって歌詞を書いている姿を見てもらわないと、いかに地味な作業かということがわからないのと同じように。真帆は、この夏に北海道の尚樹のところに行こうと決めた。


 斉木からの依頼で書いたアイドルのドラマ主題歌は無事に完成し、ドラマの放送も始まった。どうやらドラマ不調の昨今の中では久しぶりに高視聴率を出したようで、初回放送日の翌日のウェブニュースで随分と話題になっていた。主題歌の発売はドラマがある程度進んでからという焦らし戦略(と斉木が言っていた)を取るようで、この先一月後くらいのようだった。斉木からは、興奮した様子でメールがあり「ドラマがこの調子なら、主題歌は久々にミリオンですよー!」と書いていた。ありがたい話ではあるけれども、あの歌詞は、なんだか自分の作品のような感じがしないというのが真帆の正直な気持ちだった。「青い月とうそつき」なんて自分から出てくる言葉ではない。それでも一時的に経済的には潤ってくれるのは確実なので、それで世田谷の家の修繕ができるかな、などと考えてもいた。尚樹からも「ドラマ見たよ」とメールが届いた。「ああいうアイドルの歌も書けるんだね、真帆は」と書いていたけれども、尚樹が自分の他の作品を読んでいるとは思えなかったので、そこに深い意味はないのだろうと思って、簡単に「ありがとう」という返事を送り返した。あまりにあっさりした返信だったせいか、すぐにまたメールが来て、今度は「夏の予定はどう?」と尋ねてきた。どう返事をしたらいいのか少し考えようと思い、返信をする前に一時間近く半身浴をした。尚樹はパソコンの前で返事を待っているのだろうか、と想像してみたけれど、北海道の古い一軒家でパソコンの前にじっと座っている尚樹の画が上手くイメージできなかった。とりあえず今夜は、夏に行くつもりだ、ということだけは伝えておこうと思いお風呂からあがって返事をした。

「尚樹がどんなところに暮らしているのか見てみたいので、夏に行きます。楽しみにしてます」

とだけ。すぐに尚樹から返信が来たので、やはりパソコンの前でまっていたのだろうか。

「そう、よかった。詳しい予定が見えたら、また教えて」と。髪を乾かしながら、さらに返信をしようかどうか考える。

「りょうかい。おやすみ」と送った。尚樹からは返信は無かった。もう寝てしまったのだろうかと思いながら、真帆も眠りについた。



 梅雨の季節になり、何日も雨樋から途切れなく雨水が滴り、リズムを刻んでいる。夜の静けさの中では、その音が街中に響き渡っているように感じる。世田谷の家に住み始めてから真帆は、夜に部屋で言葉を紡ぐようになった。都心のマンションにいた時は、家の近くに作詞のための場所をいくつか探してあって、わざわざそこまで行って書いていた。静かなカフェだったり、図書館の隅だったり、天気のいい日は公園のベンチだったり。マンションの部屋では言葉が出てこなかった。タワーマンションというのは、住人の存在より建物の方が主役という感じがして、住まいに対しての親密さという感覚は皆無だったのだけれど、世田谷の一軒家は、なにかと不便ではあるけれども、家が自分の暮らしを包み込んでくれているような安心感のようなものがあった。それが詞を書くことに作用しているのは間違いなかった。とりわけ夜の家は、真帆に淀みなく言葉を与えてくれた。斉木がオーダーしてきたような、あまり手がけたことのないアイドルの歌詞で難航しそうだと思えたものも、気が付くとみんなが満足してくれる形に仕上がっていた。その後、斉木からは先のドラマ主題歌を含むアルバムを制作するということで、追加で三曲、歌詞のオーダーが来ていた。締め切りまで、まだ少し時間があるので手をつけていないのだけれど、夜の世田谷の家で書き出せばすぐに出来あがる気がしている。真帆は今、父が暗室として使っていた六畳くらいの部屋を作詞のための書斎として使っている。時々、父がここで写真を現像して、その出来栄えに一喜一憂している姿を想像してみる。その姿は、書き上げた歌詞を読み返して、OKが出るのかどうか思い悩んでいる自分と重なってくる。この部屋で完成したものが、この部屋を出て他人の目に触れ、耳に届いて、初めてその真価が定まる。その一連のプロセスを父娘が同じように辿っている。そのことが、不思議であり、嬉しくも感じる。この家がそういう時間をもたらしてくれているのだった。では、母はここに暮らしていた時、どんな風に過ごしていたのだろうか。仕事はしていなかったはずだし、これといった趣味があったという記憶もないし、友達を家に招くといった社交的な性格でもなかった。ひとりこの家で十年間何をしていたのだろうか。今度、施設に行った時にそれとなく訊いてみたいと思うのだけれど、最近になって急に認知症の症状が現れて、どこまでこの家での暮らしのことを話すことが出来るのか、という不安は日に日に増して来ていた。この家を出たことと、認知症の発症が関係しているのかどうかはわからないけれども、ここにいたら、まだ元気なままの母だったような気もする。恐らく父の存在をどこかに感じながら、一人暮らしであっても満ち足りた日々だったのではないだろうかと想像できた。リビングには天井まである造り付けのキャビネットがあって、その中には父が撮ってきた写真のネガや紙焼き、自らの写真集などがきれいに整理され保管されている。父が亡くなった後、ここに住むことになった母がコツコツと整理をしたものだった。「このキャビネットを開ければお父さんの全てがわかるようにするの」と真帆がたまに顔を出すと整理の進行具合を報告するように母は嬉しそうにキャビネットを開けてみせた。中には裸体の女性が被写体となっているものもあって、それを母はどんな気持ちで整理をしたのかと訊いてみたことがあった。母は「別にどうもこうもないわよ。お仕事なんだから。私の裸を撮りたいっていった時はキッパリと断ったけどね」と懐かしむように、それら見知らぬ女性達の裸体写真をめくっていた。

「じゃあ、お母さんはお父さんに撮ってもらったことはないの?裸じゃなくて」と尋ねると

「あるわよ、でも」と母は言い淀んだ。

「でも?」

「でも、それが見当たらないの。この家にあるはずなんだけどね。ほかにしまっておく場所なんてないはずだから。家には持ち帰らない主義だったしね」

「一枚も?」

「一枚もないわよ」

「そうなんだぁ。一枚もないのはおかしいよね。どこかちがうところにしまってあるんじゃない?お母さんの写真だけ」

「そうなのかね。真帆ちゃんも今度探してみてくれる?私が見落としているだけかもしれないから」

こんな会話をしたのはもう何年も前になるのだけれど、やはり未だに母の写真は一枚も見つかっていない。真帆が住むために父の暗室をリフォームしたり、他の部屋も一通りきれいに手を入れたのだけれど、その時にも母に関するものは何も出てこなかった。この家にある父の持ち物からは、まるで母が存在していなかったというようにその気配は完璧に消されていたのだった。

 梅雨の晴れ間の暖かい日に、母に会いに施設に行った。町田駅からバスで二十分ほど揺られると雑木林に囲まれたその施設の名のついたバス停に着く。そこからさらに車一台がやっと通れる山道を歩いて十分程登ると入り口の門に到着する。周囲には文字通り何もない雑木林が連なっていて、東京都とは思えない景色が広がっている。母が、ここがいいと決めた理由は「お父さんが撮った写真の中で私が一番好きなのがあってね、それがここに似た風景なの」ということだった。でも父が撮ったその風景がどこなのかは知らないという。母が父の写真について何か言うことは基本的になかったので、たぶん、母は父にその写真が一番好きだということも言わなかったに違いない。だから場所を知ることもなかったのだろう。娘が見ても、母は父の全てが大好きで、その作品にも無条件に魅了されているように思っていたので、母の口から、父が撮った写真の中で一番好きなもの、という言葉が出てきたことに少し驚いた。いま考えれば、好きなものにも順位があって当然なのだけれど。陽気が良いせいか、その日の母は上機嫌で、真帆が顔を見せずにいた期間にあった出来事を楽しそうに報告をしてくれた。そのどれもが日常のほんの些細な出来事ばかりで、この施設の中がいまの母の世界の全てなのだからそれは当然のことだと思いながらも、なんだか申し訳ないような気分になった。どういう話の流れからか、母が

「あの学者さんとはうまくいっているの?」と訊いてきた。母は尚樹のことを「学者さん」という。大学の研究室にいる人だと紹介したせいなのだけれど、正確には学者ではない、と今さら説明するのも面倒なのでそのままにしている。そういえば尚樹のことを最近ほとんど母に話していなかった。母が何をどこまで知っているのかわからなかったので、ざっくりと「尚樹さんは、いま北海道よ」とだけ言ってみた。

「あら、出張?」

「ちがうの、一年くらい前から、ずっと」

「転勤?」

「まぁ、そんな感じ」

「淋しいわね、真帆ちゃん」

「大丈夫よ、メールとかもあるし、今年は夏に会いに行ってこようかと」

「あら、そう、北海道行ってくるの?」

「うん」

「お父さんもよく行っていたのよ、北海道、知ってる?」

「そうなの?いつ頃の話?」

「亡くなる何年か前からよ、あなたは知らないわよね、その頃は。なんかね、撮りたい場所があるからって、小さな家を建ててね。お父さんは、北海道の小屋って言っていたけど。てっきり世田谷の家に居るかと思って連絡したらね、全然捕まらない時があってね。そしたら突然北海道のお土産を持って帰ってきたの。北海道に小屋を建てたって」

「それ、どこにあるの?」

「なんか聞いたんだけど、覚えてないわ、北海道の地名って難しいじゃない。何もないところだよってお父さんは言っていたけど」

「そう」

「学者さんは、どこなの?北海道の」

「釧路の方っていってたけど、釧路からは彼が車で連れて行ってくれるっていうから、その先は知らない。彼の居るところも何もないみたい」

「気をつけて行ってきなさいよ」と母は言った。父の言う、北海道の小屋はどこにあるのだろうか。母が思い出さない限り、その存在は無かったものになってしまう。場所さえわかれば、この夏に尚樹を訪ねた時に、ついでに寄ってこようと真帆は考えていた。

 母の記憶はこの日を境にどんどん曖昧になってしまい、父が本当に北海道に頻繁に行っていたのかさえも怪しいと思えてきた。もし本当に何かを撮影しに行っていたとすると、世田谷の家のキャビネットにそれらしき写真が残っているはずだと思い、探してみることにした。比較的新しくて、北海道で撮ったと思われる写真を。「何もないところだよ」という父の言葉だけが手掛かりだった。父の眼を通して切り取られた北海道の景色がどんな姿をしているのだろうか。膨大な量の残された写真の中から、それを探し出す作業は途方も無い労力を要するものだった。夜中に作詞の仕事をして昼間はどこへも出かけず父の写真を探す日々が続いた。それらしきものを見つけては、母に見てもらおうと施設を訪ねたのだけれど、私を私と認識してくれない日があったり「北海道のお父さんにいつ会いに行くの?」などと言い出すこともあったりと、認知症は急速に進行しているように思えた。母の記憶が頼りにならなくなってしまったので、もはや写真を探し出すのは不可能かと諦めかけていたら「KOYA」と記された風景写真のファイルが出てきた。遠くまで広がる何もない風景をどこかの窓から写したと思われる無数の写真がファイルに収められていた。間違いなくそれは、母の言っていた北海道の小屋から見える景色だと思われた。いまの施設のある場所に似ていると思われる写真も何枚かあり、母が一番好きだと言っていたものは、この中のどれかだろうと思われた。ファイルを持って母を訪ねたのだけれど、その日の母は写真を一枚一枚丁寧に見て「きれいね、きれいね」と繰り返し言うばかりで、それが父の撮った北海道の小屋からの景色だとは認識してはいないようだった。自分が一番好きだと言っていた写真がその中にあることも。帰り際に「きれない写真をありがとう」と言った母は、私が誰なのかもわかっていなかったかもしれない。帰りのバスで真帆は涙が溢れるのを止めることができなかった。もう一度、父のことが大好きな母の姿を見たいと思った。そして、一番好きだと言っていた父の写真にある北海道の景色を実際に見せたいと思った。

 尚樹のところには八月の一週目に行くことにして航空券の手配をした。お盆の時期は外したのだけれど、すでに夏休みに入っているので多くの便が満席になっていて、暗くなってから到着する便しか取れなかった。そのことを尚樹にメールをすると、車で迎えに来てくれるとすぐに返信をしてきた。加えて、その日から一週間休暇を取ったので、行きたいところがあったらどこへでも、と。真帆は、父の「KOYA」というファイルを持っていって、そこに写っている場所と似たような場所に連れて行ってもらおうと思った。


北海道に行く前に、すでに依頼を受けている仕事は片付けておくことにした。締め切りが帰ってきてからで大丈夫なものも含めて、とりあえず全て提出して、頭の中の作詞というスイッチをオフにして出かけたかった。いま受けているのは全部で五曲あり、うち三曲は斉木からのアイドル曲で、残りの二曲は、三年くらい前から一緒に詞を仕上げている女性シンガーソングライターAさんのものだった。その彼女は、デビューして二十年くらいのベテランというか、すでに人気を不動のものにしていて、真帆に作詞の依頼が来た時は正直何かの間違いではないかと思った。彼女は自ら歌い曲も書くのだけれどデビュー以来、歌詞は大御所の作詞家が手がけていた。その役割分担は、彼女のアーティストとしての色合いを特徴づけていて、支持の基盤となっていると思われた。マネージャーと伴に作詞の依頼に現れた彼女は「これからは、出来れば自分の言葉で歌いたい」と言い、作詞の依頼ではないのか、と頭の中に沢山のクエスチョンマークが浮かんで来た真帆は「はい?」と上ずった返事をしてマネージャーと本人の顔を交互に見たのだった。様子を察したマネージャーが、慌てて「補足して説明させていただきます」と、身体をテーブルの上に乗り出して来て話し始めた。

「基本、Aは自分で歌詞を書きたいと思っているので、まずは本人が書きます。しかし、Aは自分が作曲家やシンガーとしての能力ほど、作詞家としの技量はないと認識しています。なので、いままでも作詞家の皆さんにお願いしてきたのですが。しかし、これから先はそこの部分を変えていきたいと思っています。これは大きな掛けです。リスクを伴います。もしかしたらいままでのファンが離れて行く可能性もあります。歌詞が変わるというのは世界観が変わってきますから。でも、さらに十年二十年とこの先も歌い続けたいと思った時に、やはりその部分を変えていかないといけないのではないかと、僕らは考えています。今回は、そうするためにお力を貸していただきたいのです」

「はい、でも、ご本人が書くんですよね?歌詞は」

「そこなんですが、簡単に言うと、真帆さんとの共作という形になるというか、本人と一緒に仕上げていただきたいのです」

「つまり、なんでしょう、はい、どうやってですか?」と真帆は思いもよらない提案に具体的なイメージが湧いてこなかった。するとAさんご本人が口を開いた。

「例えばですけど、まずは最初に私が書きます。歌いたいテーマというかキーになる想いや感覚を言葉にします。それを真帆さんに投げますので、手直しをして欲しいんです。私から出て来る語彙は、すこし子供っぽいように自分では感じていて、それがどうなのかなぁ、って思っていて。真帆さんにお願いしたいと思ったのは、文学的な匂いを真帆さんの歌詞に感じているからなんです。今まで書かれた作品をほぼ全部読ませてもらっています。それで、ぜひ真帆さんとやりたいとわたしからマネージャーに頼みました」

「ありがとうございます。うれしいですけど、私で出来るんでしょうか?やったことないです、共作とか」

「僕らもはじめての試みです。誤解されてはいけないので明確にしておきますが、ゴーストライターということではありません。きちんと二人の名前でクレジットさせていただきます。それから一番重要なことなので最初にご提案させていただきますが、著作権に関してですが、少しでも真帆さんに関わってもらった作品に関しては、作詞部分をきっちり折半ということにさせていただきたいと思っています」

「はい、そのあたりは私もあんまり詳しくないんで、なんとも」

「作品によっては、Aが書いた歌詞にあまり真帆さんが手を加えないケースもあるかもしれませんし、その逆もありえます。真帆さんが手直しをした言葉でほとんど歌われたりとか。厳密にどう分配するべきかをきめるのは極めて難しい問題なんですが」

「大丈夫です、私からしてみればAさんとご一緒できるだけで、大変光栄なことなので」

「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」とAさんは深々と頭を下げた。こんな有名な人にそんな風にされて真帆はどうしたらよいのか戸惑ってしまった。とりあえず、試しに実際に作業をしてみて、お互いに継続してやっていけるかを判断しましょうか、ということになり、お試しの共作をはじめてみたのだった。土台というかキーとなるテーマがあらかじめAさんから提示されるので、それに対して色付けというか肉付けをしていく作業は、真帆にとっては、ゼロからの産みの苦しみを伴わない楽しいものだった。Aさんもマネージャーさんも、真帆が紡ぐ言葉に毎回いつも感動してくれた。真帆自身は、文学を目指して挫折した結果がいまの自分だと思っていたので、自分の言葉を文学的だと評されるのには、なんとなく居心地の悪さも感じるのだけれど、Aさんにそれを求められて、正直嬉しかった。お試しの共作作業は思いのほか楽しく順調に進み、その後も継続してやっていくことで話がまとまり、今年ですでに三年目に突入し、形になった曲は三十を超えていた。いま手元にあるのは、何度かAさんとキャッチボールをして、真帆が最後の仕上げをする段階のものが二曲預けられていた。この後にAさんがスタジオで歌ってみて、歌いやすさや音の響きを考慮してAさんが手を入れることが稀にあるのだけれど、そこはすでに真帆の手を離れた段階なので、今あるものを最終確認して送り返せば作業は終了するのだった。大抵、この段階まで来ているものは真帆が手を加えることはほとんどないので、後回しにして、まずは先に斉木から預かっているアイドルの曲から取り掛かることにした。三曲のうち一曲は、先のシングル曲の続きというか姉妹曲というような位置付けにして、アルバムの一曲目にしたいという依頼があったので、それから書き上げた。残りの二曲は、斉木曰く「真帆さんテイストでご自由に」と言われていたのだけれど、とくに自分のテイストなんて意識したことはないので、どうしたものかと逆に難航しそうだった。二曲とも敢えて何も考えずに、真夜中に世田谷の家の書斎でパソコンに向かってみた。一時間くらいは、何も言葉が出てこなくて、もう駄目かなと思っていたら、スルスルと歌い出しから言葉が流れ出て三十分くらいで二曲とも仕上がってしまった。読み返してみると特に直したい箇所も見当たらなかったので、それで完成とした。

 北海道行きまで一週間となった夜に、Aさんとの曲に取り掛かった。二曲とも、直す必要がある箇所はないといえばない状態なのだけれど、真帆は一箇所だけ修正案を書き加えた。Aさんが「気づかなかった」と書いた箇所を「気がつけなかった」としてみてはどうかと。一文字増えるので音符を一つ増やすとか、歌い方をかえるとかしないといけなくなるのだろうけれど、真帆は、なんとなくその方が気持ちが良いと思ってそう提案した。一応、Aさんへの伝言も書き加えておいた。「歌いづらかったらそのままでもいいです。でも、できたらお願いします」と。こういう些細な提案に対して、最終的にどちらで歌われて来るのかを待つのも実は楽しみなのだった。過去にも似たような直しの提案をしたことがあって、その時は三文字増やしてしまったのだけれど、見事にメロディにはまっていて、さすがプロだなぁと感動したことを覚えている。一応、これで抱えていた仕事は全て終えて、尚樹のいる北海道へ向かうことができるようになった。それ以降、仕事の依頼が来ても北海道から帰って来るまでは保留にしておくことにして、一旦、作詞のスイッチをオフにした。

 一週間という長い期間、世田谷の家を空けるのは初めてだった。戸締りやガス栓などを入念にチェックして、新聞の配達も止めておくことにした。父の大切な写真があるので、不在だと分かる形跡はできる限り無くしておいた方が安全だと思ってのことだった。自分一人の家だったらここまで気を使うことはなかったのだろうが、世田谷の家は、真帆が一人で住んでいると言えども自分だけのものではないという感覚だった。

 夜の羽田空港は、閑散としていて物悲しい雰囲気だったけれど、飛行機の座席は旅行客とビジネスマンとで満席状態で賑わっていた。予定通りこれから離陸すると尚樹にメールをして、座席に深く身を沈め目を閉じた。尚樹が暮らしている家はどんな感じなのだろうとか、父の北海道の小屋の様子を勝手に妄想したりしているうちに眠っていた。リクライニングを戻すようにと客室乗務員に促されて目が覚める。眼下には街の灯りが煌めいていた。どこの街なのかはわからないのだけれど、尚樹の暮らす土地に来たのだと思うとわずかに胸の奥が熱くなったような気がした。最終便の到着を待っていた空港は、ほとんどの売店はしまっていて、バスの案内カウンターだけに明かりが灯り、最終バスの出発を告げる乗務員の声がロビーに響き渡っていた。真帆は尚樹の姿を探してロビーを見渡したのだけれど、それらしき姿を見つけることが出来なかった。携帯に何か連絡が入っていないか確認したが、離陸を知らせた真帆のメールに「了解、気をつけて」と返信があっただけで、それ以降のメールはなかった。電話をしてみたがすぐに留守電に切り替わり、とっさに残したメッセージは「着きました、真帆です」という、味気のない一言になってしまった。飛行機から降りた乗客は、ほとんどがバスに乗り込み、それ以外の人達も迎えの車に乗り込み、真帆だけがロビーに取り残された。様子を察した警備員が近づいてきて「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。迎えが来るはずなので、しばらく待たせてほしいと告げたら、これから施錠の確認に空港施設を一回りして、戻って来るまでなら良いという返事だったのだけれど、さらに警備員は「とは言え、さほど広くはない空港なのですぐに一回り出来ちゃうんだけどね」と愛想のいい笑顔を見せた。

「もし、それまでに迎えが来なかったらどうなるんですか?」と尋ねると、しばらく考え込み

「毛布ぐらいなら貸せるけどね、朝のバスが来るまでここにいるしかないかな」

と同情の眼差しを真帆に向けて「とりあえず一回りして来るよ」と去って行ってしまった。一人取り残されて、ガラス越しに外を見つめたが弱々しい光の街灯が数本見えるだけで、その先は深い闇が広がっていた。空から見た煌めく夜景の街はどこだったのだろうか、と心細くなり、携帯の画面をじっと見つめ尚樹から連絡が来るように念じてみた。そんなことをしてもメールが届いたり電話が来たりするわけはないとわかっていても、そうすることしか出来なかった。警備員は、言った通りすぐに一回りして戻ってきてしまった。

「ね、すぐでしょ」と愛想のいい年配のおじさんは、冗談めかして言った。もしかしたら、自分を不安にさせないためにおどけて見せているのだろうかと思うと、なんだか急に親近感が湧いてきて

「警備員さんは、どうやって帰るんですか?」と尋ねてみた。

「かあちゃんが迎えにくる」と言って帽子を取って頭を乱暴にかいた。

「帽子が苦手でね、こう、髪の毛がね、ピタッてなっちゃうでしょ、それが嫌なんだよ、この仕事で一番嫌なのはそれだね」と言って待合室の椅子に座って

「お嬢さんも座ったら、とりあえず」と席を勧めてくれた。

尚樹からは何も連絡がないので、しばらく警備員さんと時間を潰すつもりで話を始めた。

「ここの人じゃないね?東京?」

「はい、知り合いがこっちに仕事で来ていて」

「そう、こっちになんの仕事があるの?」

「風車の仕事です」

「フウシャね」

「風力発電の風車です」

「あぁ、知っているよ、風車、なんかデカいの作ってるよね」

「有名なんですか?」

「村をあげて誘致してるからね、みんな必死だよ。発電所が出来たら潤うからね」

「そうなんですね」

「なんにもない村だからね、いつも風が吹くだけで」

「風が吹くだけの村ですか」

「そう」

ガラス越しに灯りが走り、車のブレーキの音がした。

「おっ、来たんじゃないか?お迎え」と警備員さんは立ち上がって帽子を被った。自動ドアが開き、尚樹が走って入って来て、警備員さんに頭を深々と下げて

「ごめんないお待たせして」と大きな声で言った。私より先に警備員に謝るの?と思っていたら「なんだ尚樹くんかぁ」と警備員さんはまた帽子を取って頭をかいた。

「知り合い?」と真帆が久しぶりの再会で初めて発したのはそんな言葉だった。

「そう、箕輪さん。えっと、真帆さんです」と警備員さんに紹介される。さん付けで呼ばれたのは初めてだったので、なんだか不思議な感じがした。警備員さんは、改めて真帆に挨拶をして

「フィアンセか?」と尚樹に尋ねる。

「今時フィアンセってあまり聞かないですよ」

「じゃあなんだ?」

「えーと、カノジョとか」

「一緒だろ、結局。女っ気が無いと思ってたら、ちゃっかりいたんだ、尚樹」

「まぁ、一応」と尚樹はちらりと真帆を見た。

「これから小屋まで帰るのか?」

「はい、そのつもりです」

「気をつけなよ、暗いから」と警備員さんも真帆を見た。

「ありがとうございました」と真帆は警備員さんに頭を下げて、尚樹の脇に立った。まだ尚樹から一言も話しかけられていないと思いながら。「じゃあ行こうか」と尚樹は、真帆の荷物を持って、自動ドアの方へ歩き出した。警備員さんは、真帆に敬礼をしておどけて見せた。思わず、噴き出していると、尚樹が振り返り「どうしたの?」と訝しむ。

「別に」と言って、真帆は尚樹の腕にしがみつき寒空の下へと駆け出した。


 真帆が助手席に座ると

「ごめんね、待たせて。携帯も充電が切れてしまって。箕輪さんがいるから大丈夫だとは思ってたんだけどね」とようやく尚樹が話しかけてきた。

「やっと話しかけてくれた」

「なんか、照れ臭いね、久しぶりだと」

「子供みたい」

「確かに」

「警備員さん、いい人ね。あの人がいてくれて救われたわ。あのままロビーで一人取り残されてたら、尚樹を一生恨んだわ」

「ごめん、ごめん、ほんとに」

「冗談よ、大丈夫。どれくらいかかるの?車で」

「だいたい一時間半、飛ばせば一時間」

「安全運転でお願い」

「了解、着いたら起こすから寝ててもいいよ、真っ暗だから、景色とかないし」

「うん、飛行機でずっと寝てたから大丈夫」

「じゃあ、おしゃべりしよう」

「いいわよ。箕輪さんについて教えて」

「興味が湧いた?あの人に?」

「うん湧いた」

「あの人はね、ああ見えて大地主でね、風車の土地も今僕が住んでる家も箕輪さんのもの。警備員の仕事なんかしなくてもいいのに、空港にいるといろんな人に会えてたのしいから、って、ああして朝から夜までずっといる」

「でも、風車の話をしたら、あぁ、知ってる、って、他人事みたいに言ってたわよ、ただ風が吹くだけの村だって」

「箕輪さんにとっては、どうでもいいんだよ。鼻息荒く誘致したがってるのは村だから、どちらかというと自分の土地に巨大な風車なんか建てられて邪魔くさいとか思ってるくらいなんじゃないかな、たぶん。でも、ほったらかしにしていた海沿いの土地だから、お好きにどうぞ、って感じだったよ。最初に風車の建設の話をしに言った時から。だから、二束三文で土地を借りれた。ラッキーだよ、それでどんどん話が進んで、いまこうして僕も駆り出されている。風車を立てるのにうってつけの場所だとしても地主さんとか自治体とかいろいろと利権が絡むとなかなか話が進まないみたいなんだけど、ここは箕輪さんがいたからスムーズに話が進んだ」

「そうなんだ。じゃあ尚樹たちにとっては神様ね」

「僕はそうでもないけど、風量発電所が作られたら潤う人はたくさんいるから、そういう人にとってはそうかもね。箕輪さんがヘソを曲げたら全部パーだからね」

「そんな風には見えないね、警備員の服着てると」

「普段でも、気のいいおじさんだよ。一部には、ものすごく怖がっている人もいるみたいだけど」

助手席のシートに揺られて尚樹の声を聞いていると、飛行機であれだけ熟睡したのに、だんだんと眠気が襲ってきた。

「やっぱりちょっと眠くなってきちゃった」

と真帆は打ち明けてすぐに眠ってしまった。肩を叩かれて、起こされる。ついさっきも客室乗務員に起こされたばかりだ。もう飛行機からは降りたはずなのに誰だ、と寝ぼけた頭が考える。「真帆、真帆」と呼ぶ声に「だれ?」とぶっきらぼうに答える。「着いたよ、真帆」と言われてようやく尚樹の車に乗っていたことを思い出した。あたりは闇に包まれ、車のルームライト以外に光は見当たらなかった。どこに尚樹の家があるのかさえもわからない闇が広がっていた。慣れた足取りで尚樹は闇に向かって歩き出し、しばらくすると家の灯りがついた。小さな窓から漏れる光で真帆もようやく歩き出すことが出来た。尚樹の家は小さな平屋で、がらんとした長方形の空間が広がっていた。一番奥にベッドがあり、窓際に小さな机が置かれただけで生活感というものがほとんど感じられなかった。唯一この部屋を個性的にしているのが屋根裏へ続いていると思われる梯子が部屋の真ん中に造り付けになっていることだった。しかし梯子は梯子としては機能していなくて、尚樹のものと思われるシャツやタオルが掛けられていた。机と反対側の壁に薪ストーブがあった。尚樹は、薪ストーブのまえに椅子を二つ置いて「とりあえずここに座って」と言って、梯子にかけられたシャツやとタオルを几帳面に畳んでベッド脇の小さな棚にしまった。尚樹は、あんな風に几帳面に洗濯物を畳むんだと真帆ははじめて知った。

「疲れたでしょ、もう遅いからシャワーを浴びたら寝たほうがいいね、真帆はベッドを使って。僕はこの寝袋で大丈夫だから」と尚樹は言って洗面所の明かりをつけに立ち上がった。

「尚樹もベッドで寝ようよ」と言ってみた。

「シングルだから狭いよ、二人とも寝不足になるよ。いまの季節は床で寝袋も気持ちがいいから」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「じゃあ、今夜は言う通りにするわ、ありがとう」と順番にシャワーを浴びて、おやすみを言って電気を消すと闇が二人を包んだ。目を開けていても閉じていても同じ闇だった。少しずつ慣れてくると、小さな窓からの青い月明かりで部屋の中の様子が薄っすらと見えてきた。尚樹はもう寝息を立てて眠っている。真帆もその寝息を聞きながら眠りに落ちた。

 ガリガリガリと尚樹は、東京にいた時と同じように手動のミルでコーヒー豆を挽く。その音で真帆は目覚める。

「おはよう、よく寝てたね。息をしていないかと思ってさっき口に手を当ててみたよ」

「そんなに?」

「あぁ」

「なんか、ここ、空気というか酸素が濃い感じ、東京に比べて」

「真帆らしい表現だね」

「変かな?」

「いや、褒めてるんだ。さすが作詞家だよ」

「からかってる風にしか聞こえないけど」

 洗面所で顔を洗って歯を磨き、パジャマがわりのスウェットのまま尚樹の机で朝食を食べる。久しぶりに飲む尚樹のコーヒーは、東京にいた時と何も変わっていないように思ったので、

「豆は前と一緒なの?」と訊いてみた。

「まさか。わざわざ東京から取り寄せたりしないよ。こんな田舎町でも焙煎屋はあってね、車で走ればわけないところに」

「そうなんだ」

「逆に、東京とからかも注文がくるみたいだよ」

「なんか不思議ね」

窓に目をやると遠くに三本の白い塔が建っていた。昨夜は暗くて周りの景色は一切見えなかったので気がつかなかったけれども、周囲の自然とは異質な白さだった。

「あの白いのはなに?」

「風車」

「羽根は?」

「こらからあの先端に取り付けるんだ」

「じゃあ、あそこに通っているの?」

「そう。こうみると近いようだけど車でないといけない距離だよ。それくらいあの塔は大きいんだ」

「なんか、怖い。暴力的な感じがするわ」

「暴力的か、確かに」

「ねぇ、この梯子は屋根裏部屋に行くため?」

「そうだと思うけど、あそこの鍵はかかったままで、開けたことはないよ」

「そうなの?」

「箕輪さんも、鍵は持ってないって言うから、別に使わないからずっとあのまま。多分、何か物置とかに使ってたんじゃないかな。他に収納がないから、この部屋には」

「梯子は外さないの?」

「取り外しはできない感じでしっかりついているみたいだから。物干しとかに使えるしね」

「もともとはだれが住んでいたの?ここ」

「なんか、画家とかアーティストの人がアトリエにしてたみたい。ここの景色が気に入って箕輪さんに頼み込んで、土地だけ借りて自分で建てたとかいう話しだったと思う。箕輪さん、ああいう人だから、説明も適当で、よくわからないんだ、僕も。ところでさぁ、どこか行きたいところある?」

「うん」真帆はスーツケースからファイルを取り出し、母が一番好きだと言っていた写真のページを開いて尚樹に見せた。

「この写真の場所に行きたいの」

「どこなの?ここ」

「わからない。尚樹、どこかでこんな風景みたことない?北海道には間違いないの」

「こんな感じの景色はどこにでもあると言えばあるし、わからないなぁ。なにか他に情報はないの?」

「無いわ。父が撮った写真でね、母が一番好きなものなの」

「お父さんは撮影旅行とかで来たのかなぁ?」

「違うの、なんかアトリエをどこかに建てて、そこに行っていたみたいなの。父は北海道の小屋、って言っていたみたいだけど」

「箕輪さんも、ここを小屋って言っているけど」

「確かにそう言っていたわね」

「どうしようか?あてもなく探しても見つからない気がするけど」

「そうよね、北海道は広いし」

「でも。一週間あるからのんびり車でぐるっと回ることは出来るよ。ここにいても仕方ないし、走ってみる?」

「なんか楽しそうね、それも」

「じゃあ、そうしようか」

 そんな会話を経て、それからの四日間、ただあてもなく北海道の道を父の写真の風景に出会うことを願って走った。しかし取り立てて目印になるものが写り込んでいるわけではないので、似たような景色にはいくつも遭遇したが、ここだと言い切れる場所には巡り会えないまま四日後に尚樹の家に戻ってきた。

「もう明後日には帰らなくちゃ」

「そうか、早いなぁ」

「明日は、のんびりここで過ごしたい。いい?」

「真帆がそうしたいなら、いいけど」

「食材がないから、今日のうちに買い物に行かない?明日は引きこもるから」

「わかった、じゃあ、車で街まで行こうか」

「お土産も買いたい、母に。何かある?街に」

「あのコーヒー豆屋が作ってるお菓子が唯一人気かなぁ。大抵の人はそれを買って帰るよ、ここに来たら」

「なら、それにする」

 その夜は真帆が料理をして、尚樹の家で夕食を食べ、いつもより沢山お酒も飲んだ。尚樹のシングルベッドでくっついて眠った。尚樹の腕の中は暖かく安心できる場所だったけれど、真帆は横になって見上げると視界に入ってくる屋根裏部屋の中に、何かがある、という気がして深い眠りには落ちていかなかった。

 東京へ帰る日の朝、尚樹のコーヒーを飲みながら再び窓の外を見る。

「あの白い塔が建つ前は、あそこには何があったの?」

「雑木林だったはずだよ。伐採された木が塔の周りに山積みになっているから」

「そう、じゃあここから見える景色もずいぶん違ったんだろうね」

「そうだね。僕が来た時にはすでに伐採は終わっていて、あの塔はまだ建っていなかったから本当に何もない平原が広がっていた。さらにその前は、雑木林が広がっていたんだろうね。箕輪さんならその頃のことを知っているはずだけど」

「そうね」真帆は、窓の外に広がる雑木林を想像してみたけれど、白い三本の塔の印象が強すぎて、上手くイメージが湧いてこなかった。空港まで尚樹に送ってもらい出発ロビーに着くと、箕輪さんの姿があったので真帆たちは近づいて声を掛けた。

「こんにちは」

「おや、こんにちは。もうお帰り?」

「はい、帰ります。あの夜はほんとうにありがとうございました」と真帆は重ねてお礼を言った。

「また来ることがあったら、飲みに行きましょうよ、尚樹くんとね」

「是非」

その時は、またすぐに会いに来ることになるとは想像もしていなかったので、真帆は別れを惜しんでいつまでも手を振ったのだった。


 北海道から帰った翌日に、お土産を持って母に会いに行った。夏の施設は、雑木林の緑が一段と濃くなって、建物全体を葉が飲み込んでいるようだった。母は自分の部屋から出て大きなガラス張りの廊下でぼんやりと外を眺めていた。真帆が声をかけると振り向き嬉しそうに微笑んだ。自分だと分かってくれたようでほっとする。

「何してるの?ここで」

「部屋は冷房が効き過ぎて寒いから陽に当たってたの」

「温度を上げてもらえばいいじゃない」

「お願いしたわよ、でも、寒いの。それ以上あげると切ったのと同じだって言われて。でも切ったら熱中症になるからって。上手くいかないのよ」

「そう、仕方ないわね。寒かったら何か着れば良いし、熱中症は怖いものね。北海道のお土産持って来たの」

「あら、ありがとう。とりあえず部屋に行きましょう」

と母について部屋に向かった。ますます背中が痩せてきたように見えるけれど、夏だから薄着をしているせいかとも思い、何も言わずにいた。

「はい、これ、お土産」と尚樹に勧められたコーヒー豆屋のお菓子を母に渡した。

「あら、懐かしい。なんで知っているの?真帆ちゃん」

「知ってるって何を?」

「このお菓子。お父さんがいつも買って来てくれていたのよ、北海道に行った時には」

「お父さんが?」

「それで買ってきてくれたんじゃないの?」

「尚樹さんに勧められて。彼が住んでいる町では、みんなこれをお土産にするって。というか、これしかないって言っていたけど」

「学者さんね。どこそれは?北海道の」

「瑠伊別町」

「ルイベツ」

「知ってるの?」

「思い出したわ。お父さんの小屋もそこだったわ。ルイベツって言っていたわ」

「ほんとに?」

「確かそんな名前よ」

「北海道の地名ってアイヌ語を日本語に置き換えてるみたいだから似たような響きの地名は沢山あるのよ。ほんとにルイベツチョウ?」

「そんな風に言われると、自信がないけど。調べてみたらいいじゃない、真帆ちゃんが」

「調べるって。どうやって?」

「知らないわよ、そんなこと。自分で考えて」

と母をちょっと不機嫌にさせてしまった。真帆は、黙ってお茶を入れてもう一度仕切り直しのつもりで話題を変えて話し始めた。

「そこに風車を建てているの、尚樹さん。でもね、なんか広大な自然の中に突然、大きな塔みたいなのが立っていて、暴力的だったわ」

「暴力的?」母はその言葉に反応した。

「そう。人が自然の中に土足で入り込んで威張っているみたい」

「地元に昔からいる人にお父さんの写真を見せたらいいのよ」と母は真帆の風車の話題を無視して言った。

「わかるはずよ、きっと、あの写真の場所が」

「でもね、車でかなり走ったんだけど、似たような景色は沢山あるの、北海道って」

「真帆ちゃんには似たような景色かもしれないけど、地元の人は区別がつくわよ、そうじゃない?真帆ちゃんだって、都心のビルを見たら、どこのビルだか分かるでしょ?田舎の人は、ビルはビルよ。どこにいるかなんて全然わからないわよ。それと一緒」

確かに母の言うことは正しいように思えた。尚樹と私とで探したところで見つかるわけはなかったのだ。どうしてそんなことに気がつかなかったのか。それこそ箕輪さんみたいな人に写真を見せるべきだったのだ。そう思うと今すぐにでもまた飛行機に乗って箕輪さんのいる空港まで飛んで行きたくなった。しかしもうお盆を目前に控えていて飛行機のチケットなんて取れるとは思えなかった。何か方法はないかと思案していると、母が

「真帆ちゃん、何考えてるの?」と尋ねる。

「飛行機のチケットとれないかなぁ、って。もうお盆だから全部満席よね、きっと」

「そうねぇ。コネとかないの?歌手の人とか、融通効くんじゃない?そういうことできそうじゃない」という母に

「そうね」と曖昧に答える程度にしておいた。

 この日の母は冴えていた。認知症なんていうのは嘘なのではないかと疑いたくなる。自分の都合のいいように忘れてしまい、知らないふりをして、分からないと言う、そういうことなのではないかと思ってしまうくらいに。もし、ほんとうにそうだとしたら、母は何を忘れてしまいたいのだろうか、そして知らないふりをして、何を分からないことにしてしまいたいのだろうか。全く想像もつかない。真帆は実は母のことを何も知らないのではないかと目の前にいる小さくなった母を見つめた。

「そろそろ帰るね。また来るから」

と言うと、母は少し悲しそうな顔をして

「お父さんに会ったら、今度はコーヒーのお菓子じゃないお土産がいい、って伝えてくれる」と言った。

「それは私が買ってきたお土産だよ」と口にしそうになって、咄嗟にやめた。

「わかった、言っておく」と言って母の部屋を後にした。

 バスを待ちながら、本当に母の言うように業界人達のコネを使ってみようかと考える。多分、Aさんのマネージャーならすぐになんとかしてくれるのではないかと思えた。しかしAさんとは、これから先も良好な関係で仕事をしていきたいと思っているので、こんなプライベートなことで借りを作ってしまうのは違う気がした。そうなると誰だ?と考えてみると、斉木の顔が思い浮かんだ。斉木にならこれくらいの頼み事をしても借りを作るということにはならないような気がした。今、斉木は例のドラマのアイドルでミリオンセラーを出して調子に乗っている。恐らく良い思いをしているに違いない。少しくらい真帆に還元されてもバチは当たらないのではないかとも思って、斉木の携帯に電話をかけた。斉木との連絡は、普段必ずメールでしているのだけれど、こういう頼み事をメールですると、どんな答えが来るのかと返信が来るまでそわそわしてしまうし、急いでもいたので電話で即答してもらいたかった。斉木はワンコールで電話に出て

「真帆さん?嬉しいなぁ、真帆さんから電話くれるなんて、どうしました?」

と畳み掛けてくる。真帆もその勢いに圧されないように単刀直入に要件を伝えた。

「どうしてもすぐに北海道に行きたいの。斉木くん、飛行機のチケット取れる?お盆だけど」と。

「唐突ですね、何しに行くんですか?」

「理由が必要?取れるの取れないの?」

「たぶん、大丈夫だと思いますけど、真帆さんにはお世話になってますから、なんとかしますよ。真帆さんの一人分でいいんですよね?」

「そう一人」

「なんか事情がありそうで気になりますけど、あとで教えてくださいね」

「考えとく」

「とりあえず、あたって見ますから、ちょっと時間をください。連絡します」

「ありがとう。待ってる」と言って、一旦電話を切った。恐らく斉木も誰かに借りを作って頼み込んでいるのだろう。一時間も経たないうちに斉木から電話がかかってきた。

「明日の最終便だったら、取れますけど、いいですかそれで?」と言う。あまりにすぐなので一瞬考えてしまったけれど、これはすぐに行けということなんだろうと思い

「お願い、それでいいわ」と答え、また電話を切った。しばらくすると、オンラインチケットのURLがメールに届き

「これでチェックインすれば大丈夫です。良い旅を」とメッセージが書かれていた。尚樹にはなんと言おう。帰って二日後にまた来るなんて、さすがに驚くだろう。かと言って何も告げないのはさらにおかしい。簡潔に母との会話のことを伝えて、正直に話すことにした。

「東京に帰って、あのお土産を持って母に会いに行ったら、コーヒーのお菓子のことを知ってました。父がいつも買って帰っていたみたいで。もしかしたら父のアトリエというか小屋もそこにあったのではないかと思って。もう一度行って確かめたいので、あすの最終便でそっちに行きます。父の写真を箕輪さんに見てもらおうと思います。私たちにはどこも似たような景色に見えたけど、地元の人には違いがわかるはず、と母に言われて、その通りだなって思って。急な話だから迎えにきてくれたら嬉しいけど、無理なら大丈夫です。ひとりでなんとかします。空港には箕輪さんもいるし。取り急ぎ、そんなことになりましたので。真帆」

尚樹からはすぐには返信がなかった。たぶん仕事中なのだろうと思って、とりあえずまた旅の準備をした。帰りのチケットまでは手配していないので、何日分の用意をしたらいいのだろうと想像してみる。尚樹のところにいられるとしたら特段の準備はいらないし、すぐに行けなかったとしても二、三日分で大丈夫かと思い、移動しやすいようになるべく荷物は少なくすることにした。バックパックに荷物を詰め込んでいるとメールの着信音が鳴った。尚樹からだった。

「そんな偶然ってあるんだね。明日は調整がつかないから迎えにはいけないけど、明後日は休みをとったから。明日は箕輪さんの家にお世話になって。さっき連絡しておいたので。たぶん奥さんがご馳走を作って待っていてくれるはずだよ。取り急ぎ、そういう感じで。また、連絡するね。良い旅を」斉木と同じ締めの言葉だった。

 すでにお盆休みの家族連れや帰省の人々で空港のロビーは最終便の時刻と言えども、ごった返していた。わずか数日前の様子とはかなり違う。自分が普通の世の中の人々とは違う時間軸で生活していることを改めて気づかされる。斉木が用意してくれたチケットは、プレミアムシートと呼ばれるVIPが利用するもののようで、搭乗するルートから、みんなとは違う順路が用意されていた。そんなシートに自分が案内される居心地の悪さとは対照的にシートは恐ろしく広く快適だった。一時間半というフライトで利用するのは勿体無いと思った。そういうことを思ってしまうところからして極めて自分が庶民的だと思う。箕輪さんのいる空港に降り立ち、ここでも特別扱いでロビーまで案内されて、真帆は真っ先に箕輪さんの姿を探した。箕輪さんの方が、すぐに真帆の姿を見つけて駆け寄ってきた。「真帆さん、今日はプレミアムですかぁ、すごいなぁ」とニコニコしている。箕輪さんだって実はいつもプレミアムシートを利用しているのではないかと真帆は思った。

「こんばんは。急にすいません」

「尚樹くんから連絡もらってちょっとびっくりしたけど、今夜はウチでゆっくりしていってよ、かあちゃんが張り切って晩飯つくって待ってるから」

と警備の仕事など忘れているようなので

「あっ、お仕事に戻ってください。私はここで待ってますから」と真帆は言った。

「大丈夫、大丈夫、なにも起こらないよ、この町は平和だから」

と、この前のように帽子を取って頭を掻いている。

「三十分くらい待ってもらうけど。その辺に座ってて」

と箕輪さんは一応仕事に戻っていった。尚樹に無事について箕輪さんにも会えたとメールを入れておいた。それからプレミアムシートを用意してくれた斉木にもお礼のメールを入れた。箕輪さんの仕事が終わるのを待っている間に二人から返信があり、尚樹は「了解。箕輪さんにくれぐれもよろしく」とだけ、斉木は「どういたしまして。ところで帰りのチケットは大丈夫?もし必要なら言って下さい、手配しますよ」と書いてあった。尚樹には返信をするほどの内容ではないと思いそのままにして、斉木にだけ返信をした。

「そうですね、慌てていて帰りのことは考えてなかった。もしかしたらお願いするかもしれません。戻りの予定が決まったら連絡します」と。ちょうどその時、空港ロビーのテレビに真帆が歌詞を書いたドラマの予告が流れていた。レギュラー放送は終わったのだけれど、夏休みの特別編が放送されるようだった。告知では、サビの「青い月とうそつき」というフレーズが繰り返されていた。田舎の小さな空港で聞く自分の歌詞は、もう自分の言葉ではないように真帆の耳に届いてきた。箕輪さんの運転する車で、箕輪さんの家まで向かった。尚樹が大地主だと言っていたので、どんな豪邸に連れて行かれるのかと思って少し緊張していたのだけれど、案内された家はこじんまりとしたマンションだった。エレベーターを待ちながら箕輪さんが

「昔はね、このマンションも全室埋まっていたんだけどね、スチュワーデスさんがたくさんいたからね」と言う。真帆が

「CAさん」と言い直すと

「いまはそう言うんだったね」と箕輪さんは照れている。

「この前も、尚樹になんか指摘されたなぁ、なんだっけ?」

「フィアンセです」

「あっ、それだ。よく覚えてるね」

「言葉に敏感なんです、職業柄」

「真帆さん、お仕事は?」

「作詞をしてます」

「作詞って?」

「歌の歌詞です」

「へぇ、すごいねぇ」

「でも、若い人の歌だから、箕輪さんは知らないと思います」

「へぇー」と箕輪さんが言ったきり、会話が続かなくなった。いまはヒット曲と言ったって、ある一部の世代でヒットするだけで、真帆が子供だった頃のように日本国中が知っているような歌はなくなってしまった。真帆が曲名を言ったところで、箕輪さんは「へぇー」と言うくらいしかリアクションしないだろうと思って詳しくは話さなかった。

 箕輪さんの奥さんは、刺身、煮物、天ぷら、ちらし寿司、など昔、真帆の母も来客があるとよく作っていたご馳走を用意してくれていた。居間にはテレビがついていて、その真ん中にあるテーブルにまるで家族の一員のように座り、直箸でご馳走を突いた。

「どんどん食べてね、遠慮しないで。なんか娘が出来たみたいでうれしいわ、ねえ、お父さん」と箕輪さんの奥さんはニコニコしている。真帆は、箕輪さんと同じ笑顔だと思った。夫婦は長年連れ添うと似てくると言うのは本当なんだと二人を見ていると実感できた。真帆の父と母は、一緒にいる時間がほとんどなかったせいだろうか、似ていると思ったことは一度もなかった。

「あっ、特番やるのね、これ」と奥さんがテレビを見ながら言う。空港のロビーで見たあのドラマの告知が流れていた。真帆は、さっきの箕輪さんとの会話の続きのつもりで

「この歌、書いたんです」

と言ってみた。すると箕輪さんは、奥さんに真帆の仕事について説明し始めた。

「かあちゃん、真帆さんはなぁ、歌の歌詞を書いてる有名な人なんだ。いまの歌、書いたんだって、ドラマの」

「えー、じゃあ、会ったことある?主役の男の子、なんだっけ名前」

「はい、一度だけ。歌を録音するときにちょっと」

「えー、サインとか、ね、してもらった?」

「かあちゃん、真帆さんは仕事に行ってんだからサインしてもらうわけないだろ」

「そうなの、そうなのね、あー、びっくり、すごい、私、あの子、大好きなの、可愛らしい顔しててね」

と奥さんは、主演の彼の大ファンのようだった。ミリオンセラーとはこういうファンにも支持されて成し遂げられるものなのだろうと、斉木に報告する話が出来たと思った。

「で、尚樹くんがなんか写真を見てほしいとか言ってたんだけど、そのためにきたんでしょ?今回は」と箕輪さんが本題に触れてくれたので、ファイルを出して説明をさせてもらうことにした。

「かあちゃん、ちょっとテレビ消して」と箕輪さんは言って、聞く態勢になった。

「どこからお話ししたらいいのか、ちょっと混乱しているんですが、とりあえずお話しさせていただきます。私の父は写真家でした。もう亡くなって十年以上になります。母はまだ健在ですが、いまは少し認知症を患っていて施設に入っています。父は仕事を全く家庭に持ち込まない人だったので、どんな写真を撮っていたのかも、私達はよくわかっていませんでした。自宅とは別にアトリエを持っていてほとんどそこにいるか、撮影旅行に行っているかで、一緒に過ごした時間はわずかでした。でも、母は父のことが大好きでした。いまでもそうです。父の写真について母が何かを言ったことなどいままで聞いたことがなかったんです。どの写真が好きとか。でも、施設に入るってことに決めて場所を探し始めたら、母が、ここがいい、って言い出したところがあって、理由を聞いたら、父が撮った写真で一番好きなものの景色に似ているから、って。その雑木林が写っている写真がこれです。母が言うには、父は亡くなる何年か前から北海道にアトリエを作って好きな景色の写真を撮っていたようなんです。たぶん母の好きなその写真は、そのアトリエのある北海道で撮られたものなんじゃないかって。だから、もし出来たら、今度そこに母を連れて行きたいって思っていたんです。そんな時期に尚樹さんが北海道に行くことになって、私はその父の写真が撮られた場所がわかれば行ってみたいなぁって思って、この前、このファイルを持って尚樹さんと道内を車で走ったんです。でも、似たような景色はたくさんあったんですけど、はっきりと父の写真と同じ場所だと言えるところは見つかりませんでした。その話を母にしたら、地元の人に見てもらわないと違いなんてわからないんじゃない、って言われて。それと、この前、尚樹さんに勧められてコーヒー屋さんのお菓子をお土産に買って帰って母に渡したら、そのお菓子は父がいつも買ってきたものだって言われて、もしかしたら、尚樹さんがいまいるこの辺りに父もいたんじゃないかって。それを確かめたくて、この父の写真を箕輪さんにみてもらおうと、こうしてやってきたんです」ここまで一気に話した真帆に、箕輪さんはすぐに

「たぶん、間違いなくここだよ。一応、写真を見せてもらおうか」と答え、真帆の持ってきたファイルを受け取って一ページずつゆっくりめくった。

「真帆さん、ここはね、あの風車のあるところだよ」

「尚樹の?」

「そう。まだ雑木林を伐採する前のあそこだよ。毎日見ていた景色だからわかる、私には。このマンションに引っ越してくるまでは、私達もあの土地にいたんだ、ずっとね。風車を建てたいという話があって土地を貸すことにして、ここに越してきた。もうあんな広い土地を自分で管理するのにも疲れてしまっていたからね」

「じゃあ、もしかして」

「知っているよ、お父さんを」と、あまりにもあっけなく父の過去につながった。

「聞かせてください」

「突然だったよ。昼飯を家で食べていたら、訪ねてきてね。カメラマンだと言って、ここの景色を撮りたいので、許可をくれって。別にね、勝手に撮っていいよ、って言ったら、出来ればここに暮らしながら撮りたいんだって。住むとこなんてないよ、って言ったら土地を貸してくれたら自分で小屋を建てるからって。まぁ、すごい熱意だったよ。だから好きなとこに建てて良いよって。それで建てたのがあの小屋だよ、尚樹くんがいる」

「そうなんですね、なんとなく、そんな気もしてたんです、やっぱり」

「あの雑木林があんな風に伐採されてしまって、もう、あそこを見たくなくてね、このマンションに来た。自分たちで貸すって決めたんだから自業自得だけどね。もう一度、このお父さんの写真みたいな景色にもどってくれたらなぁ、って思うよ。町も風車が建ったほうが潤うから私達に土地を貸すようにしつこく言ってきてね。ひどいもんだよ、お金お金で。残念だけど、真帆さんのお母さんに見せる景色はもうなくなってしまったんだよ」

 その夜、真帆は、箕輪さんの用意してくれた布団の中で、もう一度あそこに風車のない景色を取り戻す方法がどこかにないのだろうかと考えながら眠りについた。


 翌朝、箕輪さんが空港に出勤するのと入れ替わりに尚樹が迎えにきた。

「おはようございます。昨夜はありがとうございました」と尚樹はまた、真帆に声をかける前に箕輪さんに挨拶をした。

「真帆さん、ありがとう。お父さんの写真を見せてくれて」と箕輪さんは言って出勤していった。尚樹の家に向かう車の中で、昨夜の箕輪さんとの話を報告した。

「父のあの写真はあそこだって。雑木林が伐採される前の」

「そうだったんだ」と尚樹は浮かない返事をした。

「でも、面影ないから全然分からなかったね、白い塔しかないしね。場所がわかってよかったけど、母を父の写真の場所に連れていくことはできなくなっちゃった」

「そうかなぁ」

「だって、景色が変わってしまってるし」

「もとに戻せばいいんだよ」

「どうやって?」

「この前、真帆に言われて考えたんだ」

「私、何か言った?」

「暴力的だって、あの塔が」

「あぁ、それ」

「僕は研究者だから、直接あの塔の建設に関わっているわけではないけど、暴力的だと言われてはっとした。自然エネルギーだと言って良いことばかりを見てきた気がする。でも、実際にはあそこの雑木林をすべて伐採している。もともとあった自然を壊して自然エネルギーを作ろうとしている。どこかに矛盾がある。あそこの土地は、実際風車を建てるには理想的な場所だよ、理論上は。それを数値として証明するのが僕の仕事だ。建設を推進するためのお墨付きを与えるんだ。でも、それは学術上の理屈であるだけで、本当にあそこに建てるべきかは、それだけで決めていいわけではないと、いまは思っている」

「いまさら、やめるってこと?」

「僕らが不適切な場所だと、数値で示せば白紙に戻る」

「そんなこと、出来るの?不正になるんじゃない?」

「そうだね、研究者の仕事としては、NG。もしバレたら、もうこの研究に携わることはできなくなる。場合によっては研究者としても、もうやっていけなくなるかもしれない」

「じゃあ、無理ね、そんなこと」

「それは、僕が決めることだよ。君のお母さんにあそこを元の姿に近づけて見せるために、風車建設をやめさせる、というのも立派な理由だと思うけど」

「本気で言っているの?母は認知症だし、あそこを見たって、それが父の写真の場所だとは分からない可能性もあるのよ、可能性というか、たぶん分からないわ」

「それでも見たという事実には変わりはないよ、それでも良いんじゃないかな」

「ちょっと冷静に考えて。もし、私のためとか思っているんだったら、そんなことは望んでいないわ」

「そんなことはないよ、真帆はどこかであそこを元に戻したいと思っているはずだよ。それは当然のことだと思う。僕が真帆の立場だったらそう考えるよ、きっと。暴力的なことを気がつかないうちやってしまっているのは、罪なことだよ。やめられるならやめるべきだと思う」

真帆は、尚樹の言う通り、昨夜、あそこに風車のない景色を取り戻すことを考えていた。そこで、しばらく会話は途切れ真帆は窓に流れる広大な景色をぼんやり眺めていた。父も同じ景色を見ていたに違いないと思いながら。

「それとね」と真帆は続けた。

「尚樹が住んでる家、父が建てたんだって」

「そんな気がしてた。写真があそこの景色だったら、そうだろうね。箕輪さんがアーティストって言ってたのは、お父さんのことだったんだ」

「だから、あの小屋の窓から見える景色が母の一番のお気に入りってことよ」

「ますます、あそこにお連れしないと、お母さんを」

 昼間に走ったので、この前よりもずいぶん早く尚樹の家に着きそうだった。遠くから見えた家は、真帆の好きなデレクジャーマンの本にあった小屋のような佇まいをしていた。もしかしたら父も好きで真似をしたのではないかと思えるくらい似ていた。庭の水やりをするジャーマンの写真と父の姿が重なる。似ているのは小屋だけではないように思う。真帆の記憶の中の父の姿は、いつもおしゃれで少し近寄りがたいオーラがあった。母が父をあんなに好きだった理由が、真帆は歳を重ねるとわかってきていた。尚樹の部屋は数日前にいた時と少しだけ何かが違うような気がした。

「何か変えた?」と尚樹に訊いてみたけれど「何も」とそっけない返事だったので気のせいかと思い特に深くは考えないようにした。真帆は梯子の先の屋根裏部屋の扉に目をやる。あの程度の鍵なら、なんとかすれば開けられそうだと思った。この前、私を空港まで送ってくれた帰りに買い物をしたというので、冷蔵庫には何日か分の食材が入っていた。尚樹は東京にいた頃から基本的に外食はせずに自炊をしていたので大概の料理は出来た。研究者の見習いの時期に、給料だけでは食べていくのがやっとだったので、こっそり夜のカフェでアルバイトをしていた。一人で任されていた深夜のカフェは、一通りの料理を覚えるにはうってつけだった。終電の時刻を過ぎると、そのカフェには近所の常連しかいなくなり、客は小腹が空くと尚樹にその時にある食材で何かを作ってくれというのだった。メニューにはないその夜食を常連たちは楽しみにしていて、尚樹は実験をする感覚で有りあまりの材料で創作料理を振る舞った。たまに、これは失敗かと思われる出来のものでも常連客たちは各々に改善ポイントを指摘しながら喜んで食べていた。お陰でレパートリーだけはどんどん増えていったのだった。真帆もそんな尚樹の料理のいちファンとして深夜のカフェに通うようになった。時には、ひとり奥まった席に隠れるようにして作詞をすることもあったのだけれど、大抵はカウンターに座り尚樹の料理をする動作をぼんやり眺めながら時間を過ごした。いつしかプライベートな会話もするようになり真帆は尚樹に恋をしているのだと告白をした。深夜二時に店を閉めて、尚樹は真帆のマンションに一緒に帰るようになった。その頃には真帆はすでにいくつかのヒット曲を手がけていて、尚樹が知っている曲もあった。しかし、尚樹はそんな真帆にミーハーな興味を抱くことは一切なく、ただ一人の歳上の女として見てくれていた。確実に真帆の収入の方が上回っていたのだけれど、尚樹はそれをあてにすることはなく質素な生活をしていた。「もう少し頑張れば研究者として食べていけるようになるから」と真帆には話し、実際、交際をしてから一年後くらいに正式に大学の研究室に招かれ、いまの研究者としての生活をはじめた。


「今日は尚樹が作って、ご飯」

「いいよ」

「カフェでやってたみたいに、おまかせの何でもありな感じで」

「懐かしいね、あの店。まだあるかなぁ」

「あるよ、きっとあのマスターのことだから淡々とやってそう」

「確かに。今度東京に帰ったら一緒にいってみようか」

「いいわね」

 尚樹が台所に立って手際よく料理をする姿を眺めながら真帆は赤ワインを飲んだ。一品完成しては尚樹も一旦座り、一緒に食べ、しばらくするとまた次の料理をしに台所に立つ、ということを何度か繰り返し、最後のパスタまで二時間くらいかけてだらだらと夜を過ごした。二人とも、これからのことが、まだ手をつけていない夏休みの宿題のように頭の中に居座っていて、ワインの二本目を空けるくらい飲んでいるのだけれど、酔いはさほど回ってこなかった。

「屋根裏部屋、開けてみない?」真帆は尚樹のグラスにワインを注ぎながら提案をしてみた。

「気になる?」

「うん、この前から、ちょっと」

「いいけど、鍵を壊すことになるから、一応、箕輪さんに断りを入れた方がいいかもね」

「そっかぁ」

「今日はもう遅いから、明日連絡してみるよ。たぶん良いと言うとは思うけど」

「じゃあ、そうして」

「明日は午前中だけ仕事に行かなくちゃ行けないから。昼には帰ってくるから、それから開けようか。事務所から道具箱をもってくるよ、ここには何もないから」

「わかった」


 翌朝、尚樹を送り出してから真帆は小屋の周りをぶらぶらと散策した。尚樹が雑草を抜いたと思われる形跡はあるのだけれど、庭とは呼べない何も手入れがされていない状態の乾いた土地が広がっていた。しかし、父はあのデレクジャーマンの庭のように手入れをしていたのではないかと思った。それは、世田谷の家がそうであるように、父はこまめに庭に手を入れ植物を育てて、被写体としていたからだった。おそらく、ここの庭の植物達の写真もキャビネットのどこかにあるのだろう。帰ったら探してみようと思う。北の大地で育つ植物だから他とは見分けがつくはずだ。尚樹は、予定通り正午を少し過ぎた頃、帰ってきた。

「なんかね、町役場の担当から電話があって、箕輪さんがちょっと話があるから時間をくれないかって言ってきたんだって。なにか聞いてるかって訊かれたよ」

「そう、もしかして」

「なに?」

「風車のことかなあ」

「なんか言ってたの?」

「父の写真を見て、この写真みたいな景色にもどってくれたらなぁ、って」

「それだ、きっと」

「屋根裏部屋のことは電話したの?」

「朝一でしたけど、風車のことは何も言ってなかったよ。鍵は壊しても良いって」

「そう、じゃあ、やりましょう。風車のことは箕輪さんに任せましょう。私たちがどうこうできる話でもないでしょ。そのうち連絡があるわよ、きっと」

「そうだけど」

「尚樹だって、なくなればなくしたほうが良いんでしょ?風車。一緒になってそういう方向に持っていけば、箕輪さんが本当にそうしたいと思ってたら、そうなるんでしょ?」

「確実にそうなる」

真帆の携帯が鳴る。母のいる施設からだった。いやな胸騒ぎがした。電話に出ると、施設の担当の女性が淡々と要件を話した。

「ここ数日、お母様の食欲がなくなってしまって、ほとんど食べ物を口にしなくなってしまいまして、とりあえず点滴で栄養を取ってもらっていたんですが、今朝、念のため提携の病院に検査のため移っていただきました。検査の結果が出るまでは費用はこちらで負担いたしますので、ご心配はなさらないでください。ただ検査結果次第では、そのまま入院治療を勧められることもありまして、そうなると、ご家族とのご相談でどうするかを決めさせていただくことになります。明後日には一旦検査結果が出ますので、ご足労いただきたいのですが、ご都合はいかがですか?」と。北海道にいることを伝え、飛行機のチケットが取れるかどうか確認して折り返すことにした。やはり、この前会いにいった時に、ずいぶん痩せてしまったと思ったのは、何か不調があったからなのだと思った。気づいていたのだから、ひとこと言ってあげればよかったと後悔した。しかし、もう過ぎてしまったことだ、とりあえず、すぐに帰って顔を見たいと思った。しかし、お盆の真っ只中だ、普通に飛行機のチケットが取れるとは思えなかった。斉木に頼るしかないか、とその場ですぐに電話をした。「はい、斉木トラベルです」と、斉木が冗談で電話口に出る。真帆は、こんな時に間の悪い冗談をと少しイラっとしたが、自分からのお願い事なので気持ちを抑えて冷静に要件を伝えた。

「斉木くん、お願いがあるの。やっぱりチケットお願い。すぐに帰らなくちゃならなくなって」

「そうなることを予測してちゃんと手を回してますから大丈夫ですよ」

「ありがとう」

「一旦、切りますよ。手配してすぐ連絡します。でも、何があったんです」

「母が入院」

「それは、まずいですね、すぐやります」

と斉木は真面目なトーンに切り替わり、電話を切った。その会話を聞いていた尚樹は

「さすがだね、そんな風に手を回してくれるコネがあるんだ」と驚いている。

「あまり借りは作りたくないんだけど、こういう時には役に立つのね、こういう業界のひとは」と冷静を装い、答えた。まさか電話の相手が元彼だとは言えないと思いつつ。斉木からはすぐに連絡があり、翌朝の第一便が用意出来たと言う。またプレミアムかと訊いたら、そうだと言う。一体、斉木はどんなコネを使っているのかと少し恐ろしくなる。大きな借りを作ってしまったかもしれない。施設にも明日には帰ると電話をして、母の入院先の住所を教えてもらった。

「ということで、明日朝、送ってくれる?」

「わかった、ちょうど土曜日でよかった」

「なんか、あそこ開けるの、またにしようかなぁ。気分じゃなくなっちゃった」

「そうだね、お母さんが落ち着いたらまたくればいい。あるいは、お母さんと一緒に」

「そうする。箕輪さんのこともあるし、またすぐ来ることになりそうよね」

「たぶんね」


 母は施設と同じ町田市内にある総合病院に移されていた。てっきり寝たきりで酸素マスクをつけられていたりするのかと思って覚悟をして病室に入ったら、母はベッドのリクライニングを起こし、雑誌をめくっていた。

「あら、真帆ちゃん、北海道にいたんじゃないの?」

「今朝帰ってきた、入院したって聞いたから」

「いいのに、検査よ、検査」

「何言ってんの、食べれなくなってたんでしょ?」

「食欲が無かっただけよ」

「そんなに痩せて、何もないわけないじゃない」

「そんなに怒らないでよ」

「ごめんなさい」

「北海道は、どうだったの?わかった?場所?」

 今日の母は、きちんと事情がわかっているようだった。しかし、いつどのタイミングで認知症の症状が出るのかわからないので、真帆は、手短に全てを伝えようと話をした。

「お父さんの小屋も、写真の場所も分かったから、元気になって、そこに行こう」

「そうなの?やっぱりルイベツチョウって言うところ?」

「そうよ、お母さんの言う通りだったわ。尚樹さんもいまはそこにいるのよ。だからいつ行っても大丈夫よ」

「そう。あの写真の景色があるのね」

「そうよ」と真帆は答えてみたのだけれど、本当のことを話したほうがよかったのかもしれないとすぐに後悔した。まるで、もう本当は母をあそこに連れて行くことが出来ないのだということを自分で認めてしまっているのではないかと思えたからだった。

「明日、検査結果が出るみたいだから、それで何でもなかったら、行こうよ、北海道」

「そうね」

しかし、そんな遠方への旅行を医者が許可してくれるのかはわからなかった。もし、駄目だと言われたら、母は落胆するだろうか、それとも、もう自覚をしているだろうか。母の表情からはそれはわからなかった。

「真帆ちゃん、私の骨は、あそこに撒いて欲しいの。お父さんの写真のところ」

「何言ってんの、まだ、早いよ、行くんだから、そこには」

「大変よ、こんな状態の老人と旅するなんて」

「大丈夫よ、大丈夫。お母さんが言う通り、私にはコネがあるから、歌手の人とかの。今度だってプレミアムシートっていうVIPが使う席で行ったんだから」

「そう、よかったね」と母は、雑誌を置いて布団を被って横になった。真帆は、滲んできた涙を堪えてリクライニングを戻してあげた。

「ありがとう」と母は言って、目を閉じた。

 翌日、医師が真帆に伝えたのは、予測はしていたもののつらい現実だった。胃に潰瘍があり、おそらく癌だという。年齢が年齢だけにすぐに癌が進行することは考えづらいので、癌が直接の原因ではなく、食事が取れなくなり体が衰弱して危険な状態になる可能性の方が高いという。

「北海道に連れて行くことは、可能ですか?」と訊いてみた。車椅子のまま、一応、専門の介護士か医師が同伴してなら可能だという返事だったけれど、あまり勧められないと渋い顔をされた。

「認知症もあるようですし、なかなか大変だと思いますよ、旅行というのは」と、暗にやめてほしいと言っていると真帆は受け取った。施設に戻るか病院に残るかの判断は、ご家族で決めてください、と言われて、真帆が決めなくてはならなくなった。一応、本人には追加の検査という理由であと三日は、ここにいてもらうことにして、その間に、その後のことを決めることにした。相談する相手がいるとしたら、尚樹しかいなかった。事情を電話で伝えると、いまから東京に来ると言う。この際、甘えてしまおうと思い「待ってる。世田谷の家に泊まってくれて大丈夫だから」と伝えた。その日の最終便で、尚樹は東京にやってきた。チケットは、箕輪さんに頼んで手配をしてもらったと言う。やはり、そのくらいは箕輪さんにとっては容易いことのようだった。世田谷の家に尚樹が来るのは初めてだった。これで尚樹は、父の残した二つの家に寝泊まりすることになる。

「なんか、やっぱり、同じ匂いがする」と尚樹は部屋に入ると言った。

「そう?」

「なんだろうね、うまく言えないけど、お父さんの家だって感じがする」

「私にはわからないけど。北海道の小屋とはずいぶん違うわよ、広さも、築年数も」

「そうだけどね。先にここに来ていれば、あの小屋に行ったときに、何かを感じたかもしれない」

「そんなに?」

「うん、それくらい」

もう夜も遅い時間だったけれども、母のことをどうしたら良いのか、尚樹の意見を聞きたかったので、コーヒーを入れてダイニングのテーブルに座った。

「たぶんね、北海道に一緒に行くというのは現実的ではないと思う。本人もつらいかもしれない、体力的に。でも、お母さんは、お父さんの近くにいたいんじゃないかな、最後は。病院にいても、おそらく治療という治療はしないと思うよ、年齢を考えると」

「じゃあ、どうしたらいいの?」

「もう一度、ここで暮らしてみたら」

「ここ?」

「そう、この家に。ここは僕が感じるくらい真帆のお父さんの匂いがする。とても強くね。だからお母さんも、最後はここで過ごすことが出来れば幸せなんじゃないかな。それに、真帆は、お母さんと二人で、ここで暮らしたこともないんでしょ?最後に暮らしてみたら、二人で」尚樹の言う通りだと思う。

「そうね、それがいいかもね」

「でも、真帆がひとりでお母さんの介護をして暮らすというのは仕事もあるから大変だと思う、それは大丈夫?僕がこっちにいられれば話は別だけど」

「現実的には、ヘルパーさんとかをお願いするわ。それくらいのお金はあるから平気よ」

「すぐにではないけど、僕は春を待たずに北海道から帰って来ることになると思う」

「どういうこと?」

「風車の話は、白紙になるよ。僕が不正なデータを作らなくてもね」

「箕輪さん?」

「そう。箕輪さんの話はね、風車が実稼働して発電所を建設することになったら、いまの条件を見直すと言って来たんだって。いまの土地の使用料は、あくまで実験の為という理屈でね。箕輪さんが言ってきた条件だと風力発電なんて採算が合わなくなる。土地の買取りの提案もしてきたみたいだけど、それも現実的な値段ではなかった。つまりは、やめろ、ってことなんだよ。真帆に言った通り、本気であの土地を元の景色に戻すつもりみたい」

「早くてどのくらい?あの白い塔がなくなるのは」

「箕輪さん次第だけど、撤去に掛かる日数は数日だよ。だから、決まれば早い」

「間に合うかなぁ、お母さん」

「連れて行くの?」

「せっかく箕輪さんが」

「よく考えてから、決めなよ、気持ちはわかるけど」

「うん」


 尚樹は仕事を休んで、母と暮らす為の準備を手伝ってくれた。おかげで一週間後には、世田谷の家での母娘の二人暮らしがはじまった。真帆が外出の必要がある時には介護ヘルパーさんが来てくれるようにした。とは言え、作詞家の仕事は家で出来るので、ほとんどの時間を母と二人で過ごす日々だった。世田谷の家での母は、穏やかな表情になり、認知症の症状もほとんど現れなくなり、いつも陽のあたるリビングで父の残した写真を見たりして過ごしていた。父の匂いのするこの家が、母にとっては一番心が安らぐ場所のようだった。しかし、落ち着いたとは言え、日に日に食べる量は減り、週に一度様子を見に来てくれるお医者さんに、もう少し栄養を取る必要があると指摘された。食事が取れない分、栄養を補う薬の量は増え、だんだんとベッドに横になっている時間が増えてきた。尚樹は、毎日メールや電話でこちらの様子を気づかってくれて、休みが取れると一泊であっても北海道から世田谷の家に来て母の話し相手になった。母は学者さんだと認識しているときもあれば、ヘルパーさんだと思っている時もあって、その都度、尚樹は話を合わせてくれた。風車の件の進捗具合も逐一報告をくれていたが、一旦大掛かりな風車の塔を建ててしまったために、箕輪さんや尚樹が想定していたように、全てを白紙に戻すことはそう簡単ではないようだった。仮に揉めに揉めて裁判沙汰になれば、決着までに数年かかり、塔の撤去どころか、錆びついた惨めな塔が放置されたままになる可能性もあるようだった。そうなってしまえば、母をそこへ連れて行くことなど完全に不可能になってしまう。母の病と塔の撤去は、真帆と尚樹の生活の真ん中に、自分たちの力では動かすことのできない大きな岩のように居座っていた。

 そんな状況の中、真帆への作詞の依頼は増え続けていて、断らなくてはならない件数の方が多くなっていた。そのほとんどは、斉木との仕事でミリオンセラーを出したことがきっかけで、二匹目のドジョウを狙うアイドル系の男の子の仕事だった。斉木からは、同じような作風の依頼が来たら、基本、断ってほしい、と言われていて、どの仕事を受けるか受けないかまで彼に指示される立場ではないのだけれど、なんとなく似たようなことを他でもやる気にはなれなかったので、結果、斉木の希望通り断り続けている。母の介護を理由に、斉木と直接会って打ち合わせをすることも無くなり、メールだけで済ますことが出来る今の状態は、真帆にとっては理想的だった。それでもしつこく世田谷の家に母の見舞いに来たいと斉木は言い続けている。まさか、また縁を戻そうとか考えてはいないだろうけれど、斉木をこの家にあげることはあり得ないと真帆は感じている。変な言い方だけれど、なんとなく父の家が機嫌を損ねるというような感覚が湧いてくるのだった。北海道に行く前に書き上げて斉木に送った三曲を含む例のアイドルのアルバムは、発売直後から、ずっと売れ続け、九十年代の音楽業界のバブル期のようにダブルミリオンを超えていて、どこまで売り上げを伸ばすのかという話題がニュースになっていた。ここまでくると斉木はいったいどんな気分なのだろうかと訊いてみたい気もするのだが、斉木と余計な会話をしたらしたで自分が苛立つこともわかっているので敢えて売れ行きの話は触れずにいた。一度、直接会って、きちんと飛行機のチケットのお礼もしなくてはと思っているのだけれど、仕事以外で斉木に会うのは気がすすまないので、ズルズルとそのままになってしまっているのだった。


 雪が降りはじめる前に、塔を撤去することになったと尚樹からメールが届く。「そうしないと、春まで放置することになってしまうから、箕輪さんがなんとかしろ、って言い出したみたい。久しぶりに怖い箕輪さんを見たって、こっちではうわさになっている」と。真帆にはそんな箕輪さんが全く想像できない。奥さんと同じ笑顔の箕輪さんしか思い浮かばなかった。塔が撤去されれば、尚樹もあの家を引き払うことになるというので、その前にもう一度行って、あの屋根裏部屋の中を見てみたかった。母を置いて、行けるだろうかと考える。一泊ぐらいならと思うのだけれど、この家に二人で暮らしはじめてから、泊まりで家を空けたことはなかったので、判断がつかない。病院で一泊だけ過ごしてくれれば安心かとも思ってみたが、この家を出ることに母が拒否反応を示すような気がして、それも可哀想に思えた。尚樹ひとりであの扉を開けてもらうことは可能だけれど、どうしても自分の目で確かめたかった。あそこに、何かがある、ということを。尚樹と相談して、かなりの強行スケジュールになりそうだったけれども、日帰りで北海道に行くことにした。朝の第一便で行って最終便で戻ることにし、ヘルパーさんには少し長くなるけれど、母と終日過ごしてもらうお願いをすれば、母を一人にすることはなくなる。母には単に、どうしても外で打ち合わせをしなくてはならないから、とだけ伝えた。母は、ヘルパーさんがいてくれるから大丈夫よ、とにこやかに答えていた。尚樹が休みを取れる日と飛行機チケットの手配が出来る日とヘルパーさんの予定を合わせ、日にちを決めた。

 すべての手配がスムーズに進み、翌日が出発だという日の午後、母はいつもうたた寝をしている窓際の椅子に座っていた。真帆は、いつも通りに三時にお茶を淹れ、母に声をかけた。返事がないので眠ってしまったのかと思い、そっと肩に手を置いて、母の身体がいつもより冷たいことに気づいた。すぐに救急車を呼んで、救急隊員が到着し蘇生を試みたけれども、母は戻ることなく永い眠りについた。安らかな最期だったけれども、そのあっけないほどの別れに真帆は、世田谷の家にいたのは母という幻だったのではなかったのかと思った。本当は、もうずいぶん前に母はいなくなっていて自分だけがその幻と暮らしていたのではないかと。尚樹にだけは、なんとか連絡をして、すぐに来てもらうことにした。元々、休みを取っていたので、ひとまず着の身着のままに飛んできて、その後の予定は世田谷の家から事務所に連絡をして調整をしていた。父も亡くなって十年以上経つし、母の葬儀は身内だけでひっそりと済まそうと思い、必要最小限の葬儀を世田谷の家で執り行った。真帆の仕事関係の人が数人お焼香に来て、あとは介護施設と病院の関係者だけが顔を出してくれる程度で葬儀は終わった。斉木も足を運んでくれて、始めて世田谷の家にやってきた。「こんな形でここに始めて来ることになるなんて」と通夜の席で真帆に話しかけた。傍にいた尚樹が斉木に視線を向けたのがわかったが、真帆はこんな席でわざわざお互いを紹介するのも面倒だったので「そうね、今日はありがとう」とだけ言って、会話を終わりにした。母のいなくなった世田谷の家は、真帆にとっては正直元に戻ったという感覚で、不在をさびしく思うことはなかった。冷たい娘だと思いつつも、葬儀の翌日から深夜の書斎で仕事を再開した。これで母は大好きだった父とまた一緒になれたのだと考えると、安心して仕事に取りかかれた。ただ結局、北海道のあの場所へ母を連れて行けなかったことが心残りだった。あそこに骨を撒いてほしいと言っていた母の言葉を思い出し、本当にそうしてあげようかと、母の骨壷をぼんやり眺めていた。深夜に尚樹からメールが届く。葬儀を終えて早々に北海道に帰ったので、これからのことをきちんと話せずじまいだった。真帆からも連絡をしようと考えていた。尚樹からは塔の撤去の日程と、自らの引越し予定が決まったという内容のメールだった。そのことに加えて「屋根裏部屋を開けに、もう一度ここに来たら?」とあった。日程まで決めていたのに、母がこんなことになってしまい、なんとなくあの扉を開けようとしたことと、母の死を結びつけようとしている自分がいた。尚樹が引越しをしてしまったら、もう二度とあの扉を開ける機会がなくなるかもしれないのだけれど、すぐに、もう一度開けに行く、と尚樹に返信が出来なかった。メールの返信をしないまま、翌日は、母の僅かな遺品を整理した。いつも貴重品を入れていた小さな巾着を開けると、印鑑やカード類とともに、やはり父の写真も入っていた。まだ若い頃の父の写真で首からカメラを下げて、険しい顔をしてこちらを見つめていた。他には、折り畳んだ状態の小さな封筒があり、中には何か硬い感触のものが入っていた。取り出してみると鍵だった。どこかに金庫でも隠し持っているのかと考えてみたが、世田谷の家にはそれらしきものはなかったし、封筒に何かが書かれているわけでもなかった。母の死と共にもうどこの鍵かを知ることは出来なくなってしまったので不要といえば不要なのだけれど、この巾着に入れていたということは、母は大切にしていたはずだった。真帆はその鍵を母の形見として持っておくことにして、とりあえず自分の書斎のいつも目につく棚に置いた。その他、衣類など処分しても良さそうなものは、紙袋に入れてまとめてみたが、果たして捨てることが出来るかは自信がなかった。母がいなくなっても三時にお茶を淹れる習慣はすぐにはなくならず、その日はお茶を飲みながら尚樹にメールの返信を書いた。

「本当にいろいろとありがとう。尚樹がいてくれて助かりました。

いよいよ塔が撤去されるのね、よかった。元どおりの景色に戻るのはいつ頃だろうね。ずいぶん遠い未来のことのなのかな。

屋根裏部屋のこと、気にはなるのだけれど、母がいなくなった今、実は開けなくてもいいのかなぁ、って考えたりします」とそこまで書いて、さっき棚に置いた鍵のことが頭をよぎった。もしかしたら、あれは屋根裏部屋の鍵ではないのだろうか、と。そして、尚樹へのメールの続きを書いた。

「でも、さっき、ちょっと気になるものを見つけたの。鍵を。母が貴重品を入れていた巾着の中に封筒に入った状態で。もしかしたらこれが屋根裏部屋の扉の鍵なのではないかと私は感じています。母にはもう訊くことは出来ないから、実際に持っていって鍵穴に差し込んでみないとわからないよね。だから、鍵を持ってそっち行きます。引越しもあるからそんなに時間がないと思うけど、都合のいい日を教えてくれますか?

真帆」

尚樹からすぐに返信が来て、一週間後の約束をした。それまでには、塔は撤去され何もなくなった平原が広がっていると思う、と書いていた。


 北海道は、すぐそこまで冬が近づいているようで、前に来た時とはすっかり空気が入れ替わっていて、真帆は少しだけ自分が緊張していると感じた。その緊張感をひんやりとした空気が後押しをする。一泊の予定だったので身軽にトートバッグひとつで空港に降り立った。警備員の制服を着た箕輪さんが出迎えてくれて、前と何も変わらない笑顔で「いらっしゃい」と言う。やはり、みんなが怖がる箕輪さんは想像がつかない。

「こんにちは。これから小屋に行ってきます。塔はもうないんですよね?」

「昨日で三本全部撤去されたよ、すっきりとね」

「そうですか。箕輪さん、あそこはどうするつもりですか?もしかして父の写真のように、とか?」

「そうだなぁ、元に戻る頃には、自分はもうこの世にはいないけどね、 それがいいのかなぁ」と曖昧な答えをした。

「尚樹は、そのつもりなんじゃないかって言ってましたけど」

「まぁ、まぁ、冬の間は何もできないから、じっくり考えるよ。鍵があったんだって?」

「はい、たぶんあそこの鍵だと思うんですけど。母の遺品の中に」

「何か見つかるといいね。お宝が」と箕輪さんは笑った。

「はい、ありがとうございます。尚樹が迎えに来るので、ここで待ってます」と真帆は外に視線を向け、箕輪さんは「とりあえず、またね。何か見つかったら教えてね」と手を振って仕事に戻っていった。

 尚樹の家は、薪を炊いた匂いがした。もう朝晩は寒いのでストーブが必要だという。部屋は既に引越しの準備をしている様子で、もともと物が少なかったのだけれど、さらにガランとして殺風景になっていた。わずかに残された机と椅子とベッドがここに人が生活をしているという痕跡を辛うじて残している感じだった。尚樹は、真帆が緊張しているのを読み取って、鍵の話には触れずに

「今日の晩ごはんも、僕が作るよ、美味しいワインも買ってあるから」と赤白二本のワインを掲げて見せた。この時季は、もう四時を回ると暗くなり始めるはずなので、その前に扉を開けてしまおうと真帆は覚悟を決め

「梯子を登るから、念のため押さえていてくれる」と尚樹に言った。真帆は、ゆっくり梯子を登り扉に手が届くあたりで尚樹を振り返り、「さすよ」と告げ、鍵穴に持ってきた鍵を差し込んだ。するりと鍵は奥まで刺さり、右に回すとカチッといって開錠した。真帆は「あいた」と独り言とも尚樹に告げたとも取れる小さな声を出した。観音開きの扉を開くと中は暗闇で様子は見て取れない。尚樹に懐中電灯を手渡してもらい中を照らすと、アルバムが数冊と額縁が入っていると思われる箱が整理されて並んでいた。世田谷の家のキャビネットの中と似ている、と真帆は思う。

「どう?なにかあった?」と梯子の下から尚樹が問いかける。

「アルバムと、たぶん額縁」

「降ろす?やろうか?」と尚樹が言うのでお願いして、アルバム三冊と額縁と思われる箱を三つ、屋根裏部屋から取り出した。それが全てだった。梯子を降りる尚樹を見上げると、扉の内側に茶封筒が貼り付けられているのが目に入った。

「そこに封筒が貼ってある、取って」と告げ、尚樹は封筒を持って降りてきた。アルバムの写真は、父と母と幼い自分が写っている家族写真だった。どれも今まで一度も目にしたことがなかった写真ばかりで、写っている少女が自分であって自分でないような変な気分だった。母が自分の写真が世田谷の家には一枚もないと言っていたのは、すべてここにあったからなのだろうと納得がいった。三枚の額縁は、そのアルバムの中の写真を大判に伸ばして額装したもので、父、母、真帆の三人が写っていた。その中の比較的、顔がアップで撮られた写真を見た時、真帆は、なにか違和感を感じた。初めて見る幼い自分が自分ではないと感じたのとはちがう違和感だった。しかし、何度見てもその違和感の理由はわからなかった。隣で黙って一緒に写真を見ていた尚樹に「封筒、何が入ってる?」と言われて、封筒の存在を思い出し、中身を確かめた。手紙らしきものが折られて入っている。広げてみると「真紀子さんへ」という書き出しだった。真紀子は、母の名前なのだけれど、これが父の書いたものであれば、なぜ、真紀子さん、とさん付けなのだろうかと真帆は不思議に思った。父が母を、さん付けで呼んだのを聞いたことはなかった。手紙の最後の署名を見ると、拓人、と父の名があったのでやはり父が書いた手紙らしかった。とりあえず手紙を読み進めることにした。





真紀子さんへ


これが読まれているということは、もう僕はこの世にいないということなので、なんとも不思議な気分です。まずは、とにかく僕は真紀子さんにお礼を言わなくてはならない。ありがとう、本当にありがとう。真帆がきちんと育ってくれたのは君がいてくれたからだと思っている。いくら感謝してもしきれない。ありがとう。僕ひとりでは到底女の子を育てるなんていうことは出来なかったと思う。もし真帆が母親のいない家庭で育てられていたらあんな風に立派な女性にはなれなかったんじゃないかと。すべて、君のお陰だよ。仕事を理由に僕たちはほとんど一緒には過ごさなかったけれども、真帆は君を本当の母親だと思っていてくれたことが救いだったね。君が真帆の母親がわりになりたいと言ってくれた時、正直、戸惑ったよ。僕が妻として愛したのは真里子であって、君ではないからね、いくら瓜二つの双子だと言っても。君が僕に好意を寄せてくれていたことも真里子から聞いてよく知っていたしね。そのことがさらに僕を悩ませた。君の好意を利用している自分がいるんじゃないかって。真里子があんな風に先に逝ってしまったからといって、妹である君にその代わりをしてもらうなんていうことは想像もできなかった。君が「これは、真帆ちゃんとお姉ちゃんのためだから」と言った顔を今でも覚えているよ。僕は自分のことしか頭になかった馬鹿な父親だと思った。君の本当の気持ちを汲み取れなかった。父親失格だった。だからね、僕は僕にしか出来ないことで、真帆と君を幸せにしなくちゃいけないって思ったんだ。父としては失格だけど写真家として二人が喜ぶ写真を撮り続けよう、って。君は僕の写真について何も言ってくれなかったけれど、僕は好きでいてくれていると思っていた、どう?一枚でも気に入ってくれた写真があったかな?真帆もどうなんだろうか?

それでね、この屋根裏部屋に置いてある写真だけれど、見てもらえればわかるように、僕と真里子と真帆の写真だ。真帆が生まれてから二歳半までの。あと、真里子がいなくなった後の半年くらいの写真は、君と僕と真帆だ。それ以降は、家族写真は撮らないと決めたから、そこまでの全ての写真とネガだよ。三枚だけお気に入りのものを額装してある。これらを真帆に見せるのは、あの子が嫁に行く時だと思っていた。その時には、本当のことを知らせてもいいと僕は考えていた。けれど、その時が来る前に僕は先に逝かなくちゃならないみたいだ。だから、この写真を君に預けることにする。ずるいっていわれるかもしれないけど、写真を見せるか見せないかは君に任せるよ。母親である君にね。もしかしたら、真帆はずっと君が母親だと思っていた方が幸せなのかもしれないし、失格した父親は、また間違った答えをだしてしまいそうで、君に委ねるしかないと思っている。勝手な言い分だけど、よろしくお願いします。

最後に、遺言らしいことを書かせてもらうと、世田谷の家は、君と真帆が一緒に住めるように残しておくから、よかったら使って欲しい。ずいぶん古くなってしまっていて手がかかるかもしれないけれどね。それから、僕の骨は、この北海道の家から見える景色の中に撒いてほしい。理由は、真里子もここにいるから。

最後まで読んでくれてありがとう。


真紀子さん、真帆をよろしく頼んだよ。


拓人


「なんて書いてある?」と尚樹に訊かれたのだけれど、真帆は一度読んだだけではよく理解できなかったので「ごめん、よくわかんないから、ちょっと待って。もう一度読むから」と言って、また最初から読み返した。真里子とは一体、誰のことなのだ、真帆の母とは、真紀子さんとは、本当のこと、とは。父は何をしてきたのだ、母は何をしてきたのだ、自分は誰なのだ。真帆は、混乱して、ただ涙を流した。尚樹は、そんな真帆の側で、じっと黙ったまま何も訊かずにいてくれた。涙が少し乾いてきて、手紙を尚樹に渡し、真帆は額装された一枚の写真をもう一度手に取った。最初に違和感を感じたその写真の母をじっと見つめた。真帆は、気づく。それは、母ではないと。世田谷の家で一緒に暮らした母ではない、認知症を患っていた母ではない、父のことが大好きだった母ではない、尚樹を学者さんと読んでいた母ではない、母に似た誰かだった。この女性が、父の言う真里子なのだろうか。幼い自分を抱きかかえている真里子とは、誰だ。真里子には、母の右顎にあったホクロがなかった。母は頬杖を付きながらよくそのホクロを触っていた。それ以外は、母と見間違うほど、真里子は母に似ていた。手紙を読み終わった尚樹は「大丈夫?」と尋ねる。大丈夫だ、大丈夫だと自分に言い聞かせて、尚樹の顔を見る。尚樹は、そっと頬に流れる涙を拭ってくれて、やわらかく抱きしめてくれた。その夜は、そのまま何も言葉を交わすことなくベッドで眠った。

 翌朝、薪ストーブのパチパチという音で目覚める。尚樹がストーブの前にしゃがみ込み、炎とにらめっこをしている。真帆は、窓から外の景色を眺める。白い暴力的な塔は無くなり、何もない大地が広がっていた。ここに父と真里子が眠るのだと考える。尚樹が淹れてくれたいつも通りのコーヒーを飲みながら、今日はもう東京に帰らなくてはならない、そして、父の手紙に書かれていることが事実であるのか確かめなくてはならない、と自分の気持ちを前に推し進めた。屋根裏部屋にあったアルバムと額縁は、尚樹の引っ越しの荷物と一緒に世田谷の家に送ってもらうことにして、真帆はひとり東京に戻った。その何日か後には尚樹も帰ってきて、世田谷の家で一緒に暮らすことになっていた。帰ってすぐに戸籍を調べると、父が書いていた真帆の母、真里子は真帆が二歳半の時に、父と死別していた。父はその後、再婚をすることなく独身のままだった。真帆がお母さんと呼んでいた真紀子は、戸籍上は全くの他人ということになる。母の古い友人を調べて訪ね歩き、真里子と真紀子は双子の姉妹だということも確認が取れた。尚樹が世田谷の家に越してきた夜、真帆は調べた事実を尚樹に報告をした。客観的に事実だと言えるとことがある一方、もうただ推測をするしかない事がいつくも残された。あの鍵は、いつどうやって母の手に渡ったのか、そして母はそれが何かを知っていたのか、父は母に何を伝えて逝ったのか、そして、母は真帆に何を伝えるつもりだったのか、それら全てはもう、二人に訊くことができないまま、真帆と尚樹の前に置き去りにされた。ただ言えることは、父も母も真帆のことを第一に考えて生きていたのだということと、二人とも最後まで嘘をつき続けたということだった。

 今、世田谷の家にある母の遺骨を前に、やはり最後に母は事実を伝えようとしたのではないかと思った。もしかしたら認知症と言っていたのも、この事実を知らないこと、分からないことにしてしまいたかったからなのではないかとも思えた。私が、真帆の本当の母親なのだと、それが、事実なのだということで終わらせたかったのかもしれない。しかし、最後の最後にやはり真帆自身に本当の事実を見つけてもらうように仕向けることで、自らが望んだ事実も本当の事実として残しておこうとしたのではないだろうか。

 真帆は、母の最後の願いを叶えるために、またあの地へ行くことに決めた。今はもう雪が降り積もってしまったので、春になって雪が溶け大地が顔を見せた頃に、尚樹に北海道の小屋に行く提案をすることにした。


 東京の研究室に戻ってきた尚樹は、北海道での現地調査の報告を求められ、すべてを正直に話してしまったために、研究者としての職を外され、企業で言う左遷状態になり、一ヶ月後には研究室を去ることを決めた。「もともと研究者向きじゃないよね」と以前、箕輪さんに言われたことがあると、自らの判断を正当化していたが、これから先、自分が何をしていきたいかまでは見えていないようだった。真帆は、相変わらず順調に仕事の依頼が舞い込んできていて、無職になってしまった尚樹のことも、しばらくは様子を見ることにしようという余裕もあった。斉木との仕事は、スケジュールも数もムラがあり、加えて尚樹と同居をしていることもあって斉木とのやりとりに変な気を使わなくてはならなくなり、徐々に断っていくことにした。一方、Aさんとの仕事は、真帆の文学的欲求のようなものを満たしてくれる大切なものになっていた。真帆よりも一回りくらい歳上のAさんが毎回投げてくる多くの恋愛に関するテーマやキーとなる思いに、真帆は未来の自分を重ね合わせて、その世界に入り込んで言葉を紡いだ。そうすることで、今はまだ何も形を成していない尚樹との未来も見えてくるのではないかと思ってもいた。そうして生み出された恋の歌は、多くの女性の共感を得て、Aさんの新たなスタンダードとなる世界観を作りつつあった。現実の尚樹との未来は歌の世界のようには上手くいかは、わからないのだけれど。その他の依頼は、直感で受けるか受けないかを決めた。何が売れるか売れないかを考えてもわかる世界ではないので、楽しい仕事になりそうな予感がするものだけを引き受けた。その予感が百パーセント当たるわけではないが、自分の直感に頼った結果であれば、それはそれで納得ができた。そんなスタンスを貫き、ピンと来る依頼がなく断わり続けていたら、少し時間に余裕が出来たので、息抜きを兼ねて以前から行こうと話していた尚樹が昔アルバイトをしていたカフェに二人で行ってみることにした。平日の午後の空いていると思われる時間帯を狙って行ってみたら、案の定、先客は一人だけで、マスターはカウンターの中に座って本か何かを読んでいるようだった。こんにちは、と普通に入っていった尚樹と真帆にマスターは全く気付かず「お好きな席にどうぞ」と淡々と対応した。テーブル席が空いているのに、わざわざ狭いカウンター席に着いた二人を見てマスターはようやく尚樹と真帆だと気付き「おっ、なんだよ、珍しい、どうしたの?」といつも冷静なマスターが少しだけ驚いた風に言った。

「久しぶりにいってみようか、って」

「憶えていてくれて、ありがとう。北海道じゃなかったっけ?」

「帰ってきました、この前。それで、色々あって研究室も辞めました」

「あれ、そう」

「プー太郎です、尚樹。で、私の家に住んでます」

「えっ、結婚したの?」

「してません」

「単なる居候かぁ、プー太郎で、いいねぇ。あのマンション?」

「マンションは、随分前に引っ越して、世田谷の母の家に」

「同居?」

「いえ、母は、今年亡くなって」

「そう。真帆ちゃんは、あれでしょ、ドラマ、見てたよ、あの歌、そうだよね?」

「はい。ドラマバブルです、いま」

「そうだよね、売れたもんね、がっつり。よかったよかった」

とマスターは私達との再会を喜んでくれているようだった。

「じゃあ、尚樹は、これからどうすんの?」

「まだ、何も」

「だったら、うちでやりなよ、前みたいに」

「それ、いい!」と真帆は咄嗟に声を上げて、尚樹を見た。尚樹は、どう返事をしていいのかわからないと言った表情でいたが、真帆とマスターで勝手に盛り上がり、結局、尚樹は翌週から深夜の店に立つことになった。尚樹が深夜に店に行っている間に、真帆は作詞をし、昼間は二人で世田谷の家で過ごすという生活パターンになった。それなりに満ち足りた日々が流れ、すぐに春がやってきた。真帆は、母の望みを叶えるための北海道行きの話を尚樹に伝えた。尚樹は、すぐに賛同してくれて、箕輪さんに連絡を取り、北海道の小屋を数日借りることと、母の散骨の了解を得た。北海道の家は、その後、誰も使っていないので雨風をしのぐという程度では使えるけれども、生活をするにはちょっと不便だろうと箕輪さんから言われていたので、キャンプを張るような装備を整えて行くことにした。それから母の骨の一部を骨壷から取り出して布袋に移し、機内に持ち込めるようにし、骨を粉にする作業は、北海道の家でやろうと思い箕輪さんの知人の葬儀屋さんから粉骨の道具を借りる手配をした。空港で箕輪さんに挨拶をし、粉骨の道具を受け取り、小屋へ向かった。着いたその日は簡単に小屋の掃除をし、なんとか生活できる環境を作り寝袋に入り眠った。翌日、乳鉢で母の骨を粉末になるまで砕き、風が吹く丘に向かった。粉になった母は、真帆の手からこぼれ落ち、海からの風に舞い、父と真里子に迎えられて北の大地に消えて行った。母の望んだものは、これで叶えられたのだろうか。真帆は、まだ何かやらなくてはいけないことがあるような気がしていた。

 小屋に戻り、二人で夕食の準備をした。キャンプ用の食材だったけれど、父と二人の母が近くにいると思うと家族の食卓のようにも思えてきて、真帆は満たされた気持ちだった。その家族に尚樹が加わってくれたらいいのに、と思いながら。明日、またここを離れて東京に戻る予定なのだけれど、世田谷の家に帰る必然性がどこかにあるのだろうかと、真帆は、ふと思う。そして以前、尚樹が言っていた言葉が再び思い浮かぶ。「どこに行っても、作詞家だったら仕事はできるんじゃない?東京じゃなくても」と。いま同じことを、ここで尚樹が言ったら自分はどう答えるだろうか?東京じゃなきゃだめ、と言う自分が想像できなかった。では、何を言う自分ならば想像がつくのだろうか。ずっと黙っていた尚樹が口を開く。

「こうしてまたここに来てみると、僕は風車を作りに来ていたつもりだったけれども、本当は壊すために来ていたんじゃないかって思うよ」

「どうしたの?急に」

「もし、僕じゃない他の研究者がここに送り込まれていたら、今とは全く違う景色になっていたはずだよ。その可能性は十分あった。でも、僕だった。さらに、ぼくじゃなかったら、君がここに来ることもなかったし、お父さんや真里子さんや、お母さんのことを知らないまま君は生きていくことになっていたと思う。そこには何か意味があったと思いたい」

「そうね、私が何も知らないでいたとすれば、今とはずいぶん違う人生よね」

「僕はその結果、仕事を失って君といることになった。それは、君のお父さんやお母さんが望んでいたことで、僕はその思いに導かれていたんだと思うよ。こうしてこの小屋に暮らしたり世田谷の家に居させてもらったりするとね、そういうものを感じる。家に宿る思いみたいなものなのかなぁ、うまく言えないけど」

「それで、尚樹は、どうするの?」と真帆は少し急かすような質問をしてみた。

「ここには、もう風車はないけど、僕はここでやるべきことがある気がしている。東京ではなくてね」

「私も、ちょっと似たようなことを思っていたわ。明日、世田谷の家に帰る必然性があるのかなって。それで尚樹の言葉を思い出していたの」

「何?僕の言葉って?」

「北海道に行くことになった時に、言ったでしょ、作詞の仕事はどこに行ってもできるんじゃない?って」

「真帆は、ここじゃなきゃだめだって言っていた」

「そう、今だから言うけど、あの時なんで自分がそう言ったのかよくわからなかった。本当はついていく、って言いたかったのに。でも今思うと、私は世田谷の家に住まなくてはいけなかったのかもしれないわね、それは、尚樹が言うように私も父や母に導かれていたのかも」

「もし、いま僕が同じ質問をしたら、君はなんて答える?」

「そうねぇ、ちょっとしてみて?質問を」

「わかった。作詞家の仕事は、どこにいてもできるんじゃない?」

「ここじゃなきゃだめなの」

「?、ほとんど同じ答えだよ、前と」

「でも、今度は本当にそう思っているわ。父と二人の母が眠るここで、尚樹と暮らすの」

 尚樹は少し間を置いてから

「ありがとう」と呟いた。

「違うわ、父と母の為よ」と真帆は少し意地悪に言ってみる。

「厳しいなぁ」

「嘘よ」

 小屋の外では、青い月明かりが何もない大地を照らし、強い風に白い砂埃が舞い踊っていた。







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あとがき


今回、書き始めた時に映像として頭にあったのは

カフェの近くの住宅街にある一軒家でした。

その辺りは駅からは遠いので

自由が丘の駅前の喧騒から逃れて

夜はとてもひっそりとしています。

「ここに住んでいるのはどんな人だろうか?」

そんな妄想が書き出しのきっかけです。

女性の作詞家がそこで詞を書いている、というイメージで

書き始めたら物語が動き始めて割と長いものになりました。

カフェに来ることがあったら

どの家なのか探してみるのもいいかもしれませんね。

北海道は二十代の前半に三年ほど暮らしていたので

その時のことを思い出しながら書いていましたが

実際に風車がある景色を見たというわけではありません、

悪しからず。

楽しんでいただけたら嬉しいです。


cafeイカニカ

平井康二




by ikanika | 2019-03-08 14:08 | Comments(0)

『東京で見える星の数』

8月以来の小説の掲載です。

今回は、一番最初に掲載した『二人の居場所』と同様に

女性が主人公です。

男の僕が、女性を主人公にして書くことは

ちょっとおかしなことかもしれないと思ったりするのですが、

フィクションとして書くには、なんとなく同性よりも書きやすい、

という感覚があります。

同じ男だと、自分を投影しすぎて

フィクションになり得ないケースがあったりするからかもしれません。

では、楽しんで読んでいただけると嬉しいです。


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東京で見える星の数



 朝、出かける前にベランダに干していった洗濯物を取り込む。もう夜の十時をまわっている。こんな時間まで干したままにしておくのは、良くないなといつも思うのだけれど、仕方がない。部屋干しや乾燥機で干したものは、やはり気持ちが悪い。ベランダから空を見上げる。東京でも星は見える。いつかどこかの高原で見た星空は、東京の空とは全く違った。星が多すぎると思った。白い細かい塵が、ばら撒かれているようだった。東京で見える星の数くらいがちょうどいいと、その時に感じた。すっかり都会人だな、と心の中で呟き、都会人という言葉に笑いそうになる。四国の田舎で育った自分が都会人なんてと。でも、気づけばもう東京での暮らしの方が田舎での十八年間を上回ってしまっている。まもなく自分が四十歳になるなんて信じられない、というか実感がない。四国での十八年と東京での約二十年は、全く密度が違っていて、東京での時間は薄めすぎた梅ジュースを飲み続けているような気分だ。いまからまた洗濯をして、夜の間、干しっぱなしにしても大丈夫かなと、もう一度、夜空を見る。雲はなく、まばらに星が見える。

「美優ちゃんの背中にはホクロが三つあるんだね、夏の大三角と同じ位置に」

二十代の前半に付き合っていた人は言った。夏の大三角のことを知らなかったので、この人何を言っているんだろうと思った。

「なにそれ?大三角って?」

「知らないの?ベガとアルタイルとデネブを結んで出来る三角形だよ」

「?」彼が何を言っているのかわからない私。

「俺、高校の時、天文部だったんだ。その時、好きだったバンドが天体観測っていう歌を歌ってて、それに影響されて」

「そっかぁ」

「女の子って、星座とか詳しくないの?」

「そういうもの?星占いくらいは見るけど、どうなんだろう。私は全く興味ない、星座とか」

「でも、綺麗な夏の大三角だよ」

「褒められてるのかわかんないけど、ありがとう」

そんな会話をしたことを思い出す。今、空に夏の大三角が見えるのかわからないけれど、雨は降りそうにない。さっき後輩にワインをこぼされてしまったスカートをシミにならないように洗うことにする。二十年も同じ会社にいるのに部下はいない。後輩はたくさんいるけれども。いつでもすぐに簡単にやめられるようにと、昇進試験を頑なに受けずにきたのだけれど、気づけばたくさんの部下とは呼べない後輩に囲まれている。役職は無いものの実質的に管理職に近い役回りをあてがわれているのだから、きちんと試験を受けてそれなりの役職手当をもらったほうがよかったと時々思う。でも、いつでもやめられる気楽さに満足もしている。


「美優さん、ちょっと相談があるんですけど」と声をかけられたのは、先週の木曜日だった。昼休みのランチから戻ってエントランスロビーでスマホのメールをチェックしている時で、顔を上げると新堂さんが目の前に立っていた。

「あっ、はい、どうぞ」突然声をかけられたので、少し間の抜けたような返事になってしまった。

「あっ、今じゃなくて、どっか時間くれますか?夜とか」

「夜?」

「はい」新堂さんはちょっと真面目な顔になっていたので、それがおかしくて思わず笑ってしまった。

「何かおかしかったですか?」

「いや、真面目な顔してたから、ごめんなさい」

「あっ、はい、どうですか?予定とか」

「新堂さんは?」

「僕はいつでも、合わせます」

「じゃあ、明日は?」

ということで、翌日の金曜日の夜に約束をした。場所は、新堂さんがその日のうちにメールをしてきて、自由が丘にあるこじんまりとしたビストロに八時に待ち合わせをした。相談と言っていたけれど、こういう場合はたいてい告白だと思った。恋愛の話じゃないとしたら、なんなのか、その方が想像がつかない。部署の違う新堂さんと仕事の話があるとは思えないし、何か怪しい勧誘をあの真面目そうな新堂さんがするとも思えなかった。金曜日、いつもより少し綺麗めのワンピースを選んで出勤をした。自分がなんとなく浮き足立った気分でいることが不思議だった。けれども、午前中の早い時間に新堂さんからメールが入る。

___新堂です、ごめんなさい、急な出張でこれから山梨に行くことになってしまいまして。今夜のお約束は、また改めて、ということにさせてください。戻ってきても十一時をまわってしまう感じなので。よろしくお願いします。また、ご連絡します。

またいつもの薄い梅ジュースの週末に戻ってしまった、と思った。改めて連絡が来たのは、週が明けた火曜日の朝で、その日の夜の都合を聞かれた。しかし、そういうつもりの服を選んでもいなかったし、心構えのようなものができていなかったので、特に予定があったわけではなかったけれど、とりあえず丁寧に断りの返信を送った。「明日なら大丈夫です」と最後に書いて。

 約束のお店につくと、新堂さんはすでに一番奥のテーブルに座ってスマホをいじっていた。私の姿を認めると立ち上がって、軽く頭を下げ

「どうぞ、こちらに」と向かい側の椅子を引いてくれた。

「なんか、外国の紳士みたいですね」と冗談ぽく言ってみた。

「あっ、やりすぎですか」と新堂さんは照れているようだった。

「いえ、いい感じです」と私は答えて、いつもより姿勢良く背筋を伸ばして座ってみた。相談という名目の本題に入ることなく、二時間近くが過ぎていった。料理も美味しく、新堂さんとの会話も楽しかった。声が好きだと思った。ハスキーとも違う少しくぐもった声。新堂さんは自分でも聞き取りづらいと思われていることを知っているせいか、ゆっくり話をした。その速度も心地良い。でも、このままだと本題に入ることなく終わってしまうパターンになるのではと思い、私から話を振ってみた。

「新堂さん、相談っていうのは?」と。

「はい、そうですよね、そのために時間をいただいたんですよね」と言い淀んでいる。

「大丈夫よ、なんでも言って」と背中を押す。

「はい、ありがとうございます。正直、失礼なご相談だと思っているんですが、僕の婚約者になってほしいんです」

「はい?ずいぶん唐突ね。それは相談とは言わないんじゃない?」

「いや、正確には、婚約者を演じてほしいんです」

「さらによくわかんないけど、話が。それって、よくドラマとかにある病気のお母さんの為とか、そういうやつ?」

「図星です」

「本当に?本当なの?」

「はい」

「ごめんなさい、冗談できいてみただけで」と気まずくなる。本当にお母様が病気の人に言うべきことではなかった。

「いえ、大丈夫です。もう覚悟はできているんで。それより」と新堂さんはまた言い淀む。

「それより、なに?」

「はい、今日こうして二人でお話しするまでは、そう思っていたんですけど、婚約者を演じてほしいと、でも」

「ごめんなさい、私じゃ役不足だった?」

「じゃなくて、演じてほしいんじゃなくて、本当になってほしいと」

「何に?」

「だから、婚約者に。いや、違いますね、婚約者じゃなくて、まずは彼女というか、交際相手ですよね」

「新堂さん、それ告白よ、わかってる?」

「はい、そのつもりです」嬉しい気持ちを抑えて困ったような演技をしている自分が素直じゃなくて、かわいくないなぁ、と思った。


 新堂さんのお母様は、結局、会うことなく、あっけなく亡くなってしまった。「でも、彼女が最近できたんだ、と伝えたら喜んでたから、それだけでもよかった」と新堂さんは「ありがとう」と頭を下げた。自分の両親も、彼氏が出来たと言ったら喜んでくれるだろうか、と想像する。たぶん「だったら早いところ結婚してもらえ」と父は言うだろうし、母は「じゃあ、孫の顔が見れるかしら」とプレッシャーをかけてくるに違いない。もう、そんなに簡単に産める歳でもないのに。

 新堂さんのお陰で、薄めすぎた梅ジュースは卒業し、日々はきちんと味のする梅ジュースになった。甘酸っぱいというような表現が似合うような関係ではもはやないのだけれど、それなりに恋愛関係がもたらす、なんとも言えない心のざわざわを楽しんだ。しかし、その先に結婚という二文字があるのかと言えば、それはまた違うのだった。新堂さん自身もお母様が亡くなってしまったこともあって、急いで結婚、という呪縛から解かれたようで、私に対して将来のことを話したりすることはなかった。ただ今は二人でいる時間が楽しいからそうしている、というくらいの感覚なのだろうと私は想像していた。新堂さんとの約束がない週末は家の近くのカフェで過ごした。ランチタイムを過ぎたくらいの時間を見計らって行って、一人静かに読書をしたり、カフェのマスターとおしゃべりをする時間が楽しかった。マスターは私を「美優先輩」と呼ぶ。年齢はマスターの方がたぶんひとまわり位くらい上のはずなのだけれど、以前、会社の後輩が偶然そのカフェに彼氏とランチに来ていて、その時の後輩の私に対するリスペクト感(とマスターが言っていた)がすごかった、ということで、マスターはそれ以来、美優先輩と呼ぶようになってしまった。

「男の人の結婚のタイミングって何ですか?」 とマスターに尋ねる。

「美優先輩、なに、結婚するの?」

「私が質問してるんですけど」

「さぁ、人それぞれだから」

「マスターは?」

「僕は、イメージが、湧いたっていうか、二人でいる映像が見えて、一人で気ままにやっていたその時よりも楽しそうだなぁ、って思えて。そうしようって。それ以上具体的なことは考えてなかった」

「それで奥さんもオッケーだったんですか?」

「うん。すんなり。仕事のこととか家をどうするかとか、親の事とか、いろんな面倒なことはあるんだけど、その辺は考えてもその通りに行くもんじゃないから。二人でなんとかしようって思ってれば、それなりになんとかなるもんだから。まずは、イメージ、想像力」

「想像力かぁ」

「自分の中に漠然とでもイメージがわかないと、そこに向かって行くのって難しくない?それがさぁ、多少妄想で現実と違っていても、とりあえず向かって行く先が見えてないとね。で、徐々に軌道修正して行く感じでいいというか」

「イメージ湧いてないんだろうなぁ」と私はつい呟く。

「彼氏?」

「はい」

「美優先輩は?イメージできる?」

「んーん、ちょっと、まだ、無理かなぁ」

「それも微妙だね。大丈夫?その彼で?」

「考えちゃうんですよね、いま別れて、また次、だとしたら、とか」

「これは別れるね」

「勝手に決めないで下さい」

という会話をマスターとした翌週に、新堂さんとはお別れした。わりとあっさりと。新堂さんは「わかりました、ごめんなさい、ありがとうございます」くらいしか言わなかったように思う。そのくらい薄い記憶の別れ方だった。味のない梅ジュース、という言葉が頭に浮かんだ。振り出しに戻った毎日は、それまで慣れ親しんだ世界に戻ってきたようで、なんとかロスみたいな感覚とは無縁で、しっくりと身体にすぐに馴染んでしまった。新堂さんとは部署が違うので会社で会うことはほぼ無く、交際してたことも会社の誰にも知られずに終わったので、少し薄情かと思いつつも、全てなかったこととして過ごすことが出来た。そんなタイミングで、一番可愛がっている後輩の紗季が結婚することになった。カフェのマスターが美優先輩と呼ぶきっかけを作った張本人だ。当然、式への参列を打診されたが、丁重に断った。「二次会とかなら、顔出させてもらうけど、披露宴は遠慮していい?」と。社内からは紗季と同年代の同僚と直属の上司が参列することは容易に想像できるので、そこに自分が混ざっている図は、ありえないと思った。出来れば二次会も遠慮したいのだけれど、とりあえずはそう伝えた。よく友達の結婚式の二次会で出会って結婚したとかいう馴れ初め話を耳にするけれども、これまでに出席した二次会では、そんな出会いはなかったし、自分の年齢を考えるとこれから先はさらにありえない事と思えた。もし、二次会に参加する男性陣がそういう出会いを求めているのであれば、なおさら自分は場違いだと思う。こうやってどんどん出会いのチャンスが減っていくのだろうかと考え、では、これからの自分に訪れる出会いのチャンスとは一体どんなものなんだろうかと想像すると、さすがに危機感のようなものを感じるのだった。しかし、そんなに結婚を望んでいるわけではないと思っているところに矛盾はあるのだけれど。

 

 会社の同僚と地元の友達以外に、友人と呼べる人は、唯一、史奈だけだ。東京に出てきて間もない頃、英会話くらいできた方がいいかと、さほど深い考えもなく、仕事終わりに英会話スクールに通っていた。その時に出会ったのが史奈で、かれこれ二十年の付き合いになる。英会話スクールは、わずか一年でやめてしまったけれど、史奈との付き合いは、薄く長く続いている。薄いと言っても二十年も経つとそれなりに、お互いのことはわかり合っていて、一緒にいて一番落ち着くのだった。史奈は、二十二歳で結婚し、子供はいないのだけれど、ご主人の孝典さんといつも一緒に出かけたり旅行に行ったりと仲のいい夫婦生活を送っている。たまにその二人に混ざって食事に行ったり日帰りの旅について行ったりしているのだけれど、私は孝典さんと二人きりになると、未だに少し緊張する。その緊張が何によるものなのか、わからない。孝典さんは極めて温和で優しい印象で、時折、時事ネタに毒を吐いたりして、会話に窮することもないのだけれど、私は冷静を装いながら実はいつも緊張しているのだった。その日も、三人で、史奈のうちでご飯を食べていたら

「美優がずっとひとりなら、将来は三人で暮らせばいいじゃん」といつものように史奈が冗談のつもりで言う。私は孝典さんの表情を盗み見る。いつも、これといって何かを読み取れる表情の変化はないのだけれど、ついそうしてしまう。

「ありがとう、それなら安心して独身生活を謳歌できるわ」と冗談で言ってみるものの、複雑な心境だ。

「でも、孝典さんは、おばあさんになった二人と暮らすなんて勘弁してくれ、って感じでしょ?」と言ってみたりすると

「美優ちゃんなら、いいよ、全然。なんかよくわからない男と結婚しちゃうより」と孝典さんは真顔で言う。史奈は

「孝典は、美優のことお気に入りだから」とそれに乗っかってくるのだけれど、どう切り返したらいいのか戸惑う。「ありがとうございます」とか軽く流せばいいのだろうけど、咄嗟にはそんな上手く言葉が出てこない。

「美優ちゃん、もし彼氏できたら、真っ先におしえてよ、品定めするから」と孝典さんは言う。

「なかなかいい人いないですよ、孝典さんみたいな」と冗談のつもりで言ったのだけれど、自分の鼓動が早くなってきてしまって驚いた。

「まぁね」と少し酔っている孝典さんは満面の笑みで、史奈を見る。

「もし、私が不治の病で先に逝ったら、美優、孝典をよろしくね」

「大丈夫、史奈は長生きするよ、僕が先に逝く」

私は史奈がいなくなって孝典さんと二人きりになってしまった世界を想像して、さらに鼓動が早くなり、顔まで火照ってきているように感じて「ちょっと、お手洗い借りるね」と言って席を立った。洗面所の鏡を見ながら「まさかね」と呟き、ありえない妄想をかき消す。

「そろそろ、帰ろうかな」とお手洗いから出て、すぐに言う。

「タクシー呼ぶ?」と史奈。

「お願い」

「美優ちゃん、来週さぁ、ブルーノートでジュリアホルスマンあるんだけど、行く?」

と孝典さんが言う。

「ジュリア?」

「この前、良いって言ってたピアノの女性」

「あー、あの人。行きたいです」

「じゃあ、三人でチケット取っとくよ。三日だけど、大丈夫?金曜日」

「金曜なら、全然、定時退社日なんで」

三人でライブに行くことになり、なんだか嬉しくて帰りのタクシーでは思わずニヤけていた。


「美優先輩、それヤバくない?大丈夫?」

「大丈夫ですよー、親友のご主人ですから」

「でも、間違いなく、恋だよ、恋」

「違います、好きですけど、恋とは違います!」

マスターは孝典さんのことで、私をからかう。恋だと言われれば、確かに恋に似た感じもするけれども、恋をして良い対象じゃないことくらいはわかっている。恋じゃなくて、ただ好きなだけでいい、それがいまの気分だった。孝典さんだって、私のことをお気に入りだと史奈は言っていた、それと同じだ、自分も孝典さんがお気に入りなのだ。明日の夜は、ブルーノートだ。孝典さんは、私があのピアニストが良いと言ったのを覚えていてくれた、と思うだけで嬉しい。やはり恋か?と自問して、焦る。それだけはやめようと、もう何度も言い聞かせている。

「まぁ、とりあえず、二人きりにならないといいね」

「だから、三人で行くんです」

「わかんないよ、奥さんが急用でドタキャンとか」

「ありえませんー!」マスターが冗談で言っていたことが、翌日には現実になるとはこの時は微塵も思っていなかった。


「あれっ、史奈は?」

「なんか、トラブル、遅れてくるって、間に合えば」と孝典さんはスマホを見ながら言う。

「えっ、ほんとに?」

「うん、さっきメールで」

「じゃあ、二人きり?」

「そう、でも念のため三人座れるボックスにしたよ」

「そうですね、遅れてくるかも、ですね」

私は鼓動がみるみる早くなって行くのを感じる。緊張なのか何なのか、喉が渇いてきて、早く何か飲みたかった。それぞれにビールと、あとおつまみを孝典さんが適当なものを選んで頼んでくれる。ボックス席のステージが見やすい側に私を座らせてくれて、孝典さんは少し体を捻ってステージを見る格好になる。なので、私からは少し視線をずらせば孝典さんがすぐに視界に入る。もっと言えば、孝典さんをかすめてステージを見ることも出来る。まずい、まずい、と焦る。何かがおかしい、こんな展開を望んではいない。史奈のご主人なのだ、と強く思う。早く史奈が来てくれないかと念じる。

「カンパーイ」とビールグラスを合わせる。

「久しぶりだなぁ、ブルーノート」

「そうなんですか?」

「昔は、よく来てたけど、十年くらい前は」

「史奈と?」

「いや、一人で」

「一人で?」

「ライブに集中したいから、基本一人」

「そういうものなんですね」

「音楽オタクだから。デートでここに来てるやつを軽蔑してたから」孝典さんはちょっと毒を吐く。それがおかしい。

「今は?」

「今?今、美優ちゃんと二人でいるこの感じは側から見たらデートだろうね」

「そうですか?」と私はドキドキしている。

「ボックスシートに二人だもん、口説きモードだよ、普通は」

「ですよね」もう、まずい、と思ったら、照明が暗くなり、演奏が始まるようだった。よかった、と少し落ち着く。ステージを見ているのか孝典さんの横顔を見ているのか、わからない自分がいる。演奏なんてほとんど耳に入ってこない。孝典さんは、食い入るようにステージを見ていて、演奏が盛り上がって客席が湧くと私を振り返り、楽しそうに笑っていた。私もその孝典さんに笑い返す。演奏なんて全然聞いていないのに。史奈は、まだ来ない。今夜は来ないつもりなのだろうか。このままずっと二人なのだろうか。自分がそれをどこかで望んでいるのだろうかと、思考が混乱する。頭がぼうっとしてきて、ぼんやり孝典さんの横顔を見ていたら、突然肩を叩かれて、横を見ると史奈が立っていた。席を奥にずれて今まで私が座っていた席に史奈が滑り込んだ。史奈は、孝典さんの肩を突いて、振り向いた孝典さんに手を振った。仲の良い二人だと思う。今さっきまでの自分が馬鹿に思えてくる。このままずっと二人がいいなんて思ったことが恥ずかしい。

三人でタクシーに乗って帰った。なぜか私を挟んで後部座席に三人。

「間違ったね、座る順番。僕らが先に降りちゃうから、一番奥が美優ちゃんだったね」

「そうよ、孝典が先に乗っちゃうから、変になったのよ」

「奥まで入って行くの、スカートだと大変かなぁ、て」

「真ん中も、スカートだと大変よ、ねっ、美優」

「まぁ、でも、大丈夫」と言ってスカートの裾を確認する。孝典さんの視線が気になったけれど、それは自意識過剰なのだと思い直す。意識を右隣の孝典さんではなく、左隣の史奈に集中する。鼓動が早くならないように。

「トラブルって、なんだったの?」

「よくあるクレーマーよ」

「そっか」

「閉店間際を狙ってくるのよ、そうすれば他のお客さんの目を気にしないで文句言えるでしょ」

「そういうものなんだ」

「そう、一応他人の目は気になるみたい、ああいう人でも」

「解決したの?」

「一応、今日のところはなんとか帰ってもらったけど、返金とかの判断は本社まで通すから、また明日ね、それは」

 史奈は、全国展開しているアパレルに勤めているのだけれど、一度は辞めたはずなのに人手が足りないと懇願されて、渋々向こうが必要な時期に手伝っている。キャリアは、どの店員よりもあるので、こういう神経を使う難しい対応を任されてしまうようだった。前もクレーム対応に大阪まで行っていたこともあった。右隣の孝典さんが静かなので様子を見てみると、窓に頭をもたげて眠っていた。

「孝典さん、寝てる」と史奈に告げる。

「最近、呑むとすぐ寝ちゃうの。もう四捨五入したら五十だから」

「えっ、もうそんな」

「先月、四十五になったから。私たちも、来年四十よ」

「来年?」

「あっ、再来年?」

「まぁ、どっちでも一緒かぁ」と私はもう一度、孝典さんの寝顔を眺めた。史奈が運転手さんに次の信号で止まってほしいと告げ、孝典さんを乱暴に起こして、二人は帰って行った。またタクシーに乗り込み孝典さんが座っていた奥の席に目をやるとシートの上にスマホがあった。孝典さんの忘れ物だと思い、すぐに史奈にメールをした。

「明日、美優の会社まで孝典が取りに行くって言ってるけど、いい?」と返信がくる。

「お昼休みなら。十二時に一階のロビーで」とお願いして、おやすみ、と送った。

 独立して建築事務所をやっている孝典さんは、いつもスーツではなくラフな格好をしている。史奈は、四捨五入したら五十と言っていたけれども、全くその年齢には見えない。会社のエントランスロビーで孝典さんの姿を見つけると、私は、あの人は私の待ち合わせの相手なの、とみんなに教えたいと思う。「美優さんが、誰か素敵な男性と待ち合わせをしていた」と後で噂になって欲しいと思う。当然、新堂さんの耳にも届けばいいと思う。本当は、親友のご主人なのだけれど。

「こんにちは」と孝典さん。

「わざわざすいません」

「いや、こちらこそ。お手数お掛けして。最近すぐ眠くなっちゃって、お酒飲むと」

「よく寝てましたよ」

「ランチ、一緒に行けます?ご馳走させてください」

「あっ、はい、一時には戻らないといけないので、近くなら」

「そこにイタリアンみたいのがあったんですけど、行ったことあります?」

「はい、何度か。美味しいですよ」

「じゃあ、そこでいいですか?」

「はい」と答えながら、あの店なら確実に何人か後輩社員がいるはずだと思う。そして、孝典さんと二人の私を目撃してくれて、噂をしてくれることになる、と。思った通り、退社時に

「美優さん、お昼の男性、誰ですか?」

と後輩に訊かれる。

「お友達。建築家の」とだけ答える。嘘ではない、どこにも嘘はない。ただ、親友のご主人ということを告げていないだけだ、と思う。いつも通り、ひとりの部屋に帰るだけなのだけれど、足取りが軽く、甘酸っぱい梅ジュースの味を思い出していた。

 翌朝も、いつも連んでいる後輩三人組から「昨日の男性、誰ですかぁー?」と興味津々に質問される。昨日と同じ様に「お友達。建築家の」と答える。「そうなんですかぁ」という薄いリアクションをした後輩のうちの一人が、少しテンションが上がったトーンで

「そういえば、莉奈、結婚するんですよー!」と続ける。莉奈とは、社内では少し派手目の女の子として有名な子だ。

「誰と?」と、さりげなく訊く。

「新堂さん、っていう人、知ってます?美優さん?どこの部署ですか?」

私は、耳がキーンとなって、少し気が遠くなる様な感覚に襲われる。いまこの子、なんて言った?シンドウサン?確かにそう言った。

「知ってますか?」と繰り返される。

「知ってる、確か、あっちのビルだから、調査部とかかなぁ」となんとか平静を装い答える。

「そっかぁ、じゃあ、見たことないかも、わかんないね、どんな人か」と三人の後輩達はぼんやりとしたリアクションのままエレベーターに乗り込んだ。まだ耳鳴りがしている。エレベーターのせいではない。その日は、具合が悪いと言って、午前中で早退させてもらった。仮病と言われれば、そうかもしれないが、実際、相当に具合が悪い。自分から別れを告げたはずなのに、なんでこんなにショックを受けてしまうのかわからない。まっすぐ家に帰って大丈夫だろうかと、駅に向かって歩きながら思う。孝典さんのことが頭に浮かび、スマホを取り出してみるが、さすがにまずいなと思い直し、いつものカフェに行くことにする。マスターに、新堂さんのことを話すかどうかはわからないけれど、家で一人になるよりは、いいと思った。電車に二十分ほど揺られる。耳鳴りではなく、頭の中でキーンという音が鳴っているのだと思う。カフェは、ランチタイムのお客さんの余韻が残っていて、色んな匂いが混ざったざわざわとした空気が漂っていたけれど、若い男性客がひとりいるだけで空いていた。

「あれっ、美優ちゃん?会社は?」とマスター。

「早退しました、仮病で」

「仮病?学生みたいだね」

「はい」

「でも、なんか具合悪そうだけど?ほんとに」

「はい、悪いです」このままの会話の流れだと、新堂さんのことを話すことになる。まっ、いいか、話した方がすっきりして、頭のキーンも消えるか、と思う。

「とりあえず、なんか食べる?ごはんもまだあるよ」とマスター。

「じゃあ、ごはん、お願いします」と言って、自分でも驚くくらいのため息をついてしまう。ごはんを食べている間、マスターはランチで出た食器をずっと洗っていて、何も会話をしなかった。一人でいる若い男性は、ずっと本を読んでいて、全く物音を立てない。私の咀嚼する音が妙に大きく店内に響いている様に感じて、少し恥ずかしくなる。ちょうど食べ終わったタイミングでマスターが食器を下げにくる。

「どうしてわかったんですか?食べ終わったの」

「なんとなく、気配。音とか」

「そっか。コーヒーもください」

コーヒーを持ってきたマスターに

「聞くよ、話、孝典さん?」と言われる。だったらいいのに、と思いながら

「いえ、じゃなくて、新堂さん」と答える。

「えっ、元に戻ったの?」

「全然、結婚するって、新堂さんが」

「あ、そう、で?なんで落ち込んでんの?自分から振っといて」

「わかりません、でも、頭がキーン、って」

「ショック症状?」

「みたいな。なんか、派手な若い子と」

「だからなの?」

「私とその子、全然違うし、なんで、付き合ったりしたんだろう、あの人、わけわかんない」

「うわっ、怒ってる。まぁ、縁だから、色んな人いるよ」

「にしても」やっぱり、私は怒っているみたいだった。私よりあの子の方がいいと、あの人は思ったんだと勝手に思って。そうとも限らないのに。私に振られたから、次はあの子にしたんだと思えばいいのに。でも、そんな風に思えないのは何故なんだろうか。もう、めんどくさい。

「あぁ、めんどくさい」と呟く。ひとりでいる若い男性が、ちらりと本から視線をあげたような気がして、バツが悪い。マスターになんか言って欲しくて、カウンターの向こうの顔を見る。

「めんどくさいよ、恋は」とマスター言い、男性客が今度は、はっきりと顔を上げて、私とマスターを交互に見た。

「なんか、いいっすね、カフェっぽくて」とその男性客、というか男の子と言った方が似合う彼は言う。

「カフェっぽい?」とマスター。

「よくあるじゃないですか、ドラマとかで、常連客とマスターの会話で、今みたいなの」と彼。

「確かに。で、これをきっかけに、二人は、みたいな」とマスター。

「二人って?」

「美優ちゃんと、君」

突然、名前を言われて驚く。

「私?」

「どう?年下の彼みたいなの」

「どう、って、彼が嫌でしょ、アラフォー」

「アラフォーなんですか?」

「いつくなの?」と私は彼に尋ねる。二十代の真ん中あたりかと思って。

「三十三です。今年、四」

「そうなの?もっと若いかと」

「ガキっぽいですか?」

「そういうわけじゃないけど」

「そんなに変わらないですよね?」

「いま、八だから、四つ」

「まだ、アラフォーじゃないですよ、それ」

こんな出会い方で、もし付き合うことになったら、マスターのいいネタになってしまうと思う。でも、どうなんだろうと、もう一度、彼の顔をマジマジと見てみる。痩せている、が第一印象。本を読んでいたせいか、勝手に文学青年という言葉が浮かぶ。モヤシくん。昔聴いていたFMラジオで、そんなラジオドラマがあったような。

「何読んでるの?」となんとなく聞いてみた。

「建築の本です、資格の勉強で」

「建築家志望?」

「まぁ、そんなところです。でも、なれるものなのかなぁ、って程度で、試しに読んでみているだけで」

「お友達で、建築事務所やってる人がいるけど、建築家ってなんか、かっこいいわよね」

「はい。なんかの本に書いてあったんですけど、建築家はモテるって」

「なんで?」

「クライアントの無茶な要望を汲み取って、説得して、なんとか仕上げる、っていうプロセスが恋愛と似てるから、って」

「クライアントの無茶な要望かぁ」と、その言葉にひっかかる。私は、無茶な要望を孝典さんに言っているだろうかと考える。

「何考えてんの?」とマスターに言われてハッとする。バレていると思う。そんな会話をしていると、もう新堂さんのことなんてどうでもよくなっていた。仮病で早退して、ここに来て正解だった。彼はよくここに来るのだろうか?今度、マスターに訊いてみようと思う。

「ご馳走さまでした」とモヤシくんは、席を立ちお会計を済ませて、

「では、また。お先に」と言って帰っていった。私は、本と財布とスマホだけを持ってきているその姿を見ながら、たぶん近所に住んでいるのだろうなと想像していた。

「彼、そこのマンションに住んでるみたい」とマスター。やっぱりと思い、

「よく来るんですか?」と尋ねてみる。

「平日にね」

土日にしか来ない自分とは、出会うはずがないと思う。次に平日に来れるとしたらいつになるだろうと考えていた。


「建築家の旦那さんってどう?」

「どう?って何が?」史奈は不思議そうな顔をしている。当たり前だ、質問が唐突すぎると言ってから思った。

「あっ、唐突だったね、この前ね、建築家はなぜモテる、って、話になって、それはね、クライアントの無茶な要望を汲み取って、説得して、なんとか仕上げるっていうプロセスが恋愛に似てるからだって」

「ふぅーん、そうなんだ。私、孝典さん以外にちゃんと付き合った人がいないから、わかんないかも」

「そうなの?」

「だって、二十二で結婚したから、その前は、お付き合いといってもね、学生だしね」

「そっかぁ、そうだよね」

「誰が言ってたの?それ」

「建築家志望の子」

「子、って女の子?」

「男の子、若い、モヤシみたいな」

「モヤシ?」

「そう、痩せてて、モヤシみたいに」 史奈はまた不思議そうな顔をした。

「美優って、おもしろいよね、なんか」

「そう?」

「そのモヤシくんとは、どこで出会うの?」

「カフェだけど、行きつけの」

「カフェでそんな風に出会って、お話しして、仲良くなったりするもの?」

「仲良くはなってない、まだ」

「まだ、ね」

「まだ、っていうか」

「最初の質問は、そういうことでしょ?そのモヤシくんともし結婚とかしたら、どうなんだろうとか、ちょっと考えたり」

「そんなことは、ないよ、ただ、建築家はモテるって、話で」と言いながら、史奈の言う通り、あのモヤシくんをそういう対象として考えていたのだろうかと自問してみる。わからない、そうかもしれないし、全然違うかもしれない。ただ、次、平日にあのカフェに行けるのはいつだろうと、考えはしたけれども。それだからと言って、モヤシくんとの結婚なんて。

「いいんじゃない、年下」と史奈は面白がる。

「今度、会わせてよ、そのモヤシくん」

「いいよ、別に、そういうんじゃないから」

「あっ、わかった、四人で会おうよ、孝典と」

「何言ってんの?」

「ちょうどアシスタント探してるの、孝典の事務所で、だからちょうどいいじゃん、その子、建築家志望なんでしょ?だったら孝典のところで勉強すればいいし。それに」

「それに?」

「美優に見合う男かどうか孝典に品定めさせられるし。孝典、本気なのよ。美優に中途半端な男はダメだって言ってるの」史奈は、どんどん話を進める。モヤシくんとは、まだ一度だけカフェで会話をしただけなのに。これから会えるかもわかっていないのに。それに孝典さんに品定めなんて、私は孝典さんがいいのに、いや、それは無し、だ、と頭の中でぐるぐると思考が混乱する。

「どう?ダメ?いい考えだと思うんだけど」史奈が畳み掛ける。

「わかった。考えとく」そうとでも言っておかないと、ずっとこの話になりそうだった。モヤシくんが孝典さんのアシスタントとして存在している図を想像して、さらに混乱する。そんなことになったら二人をどういう風に見ればいいのか、全く整理がつかない。でも、なんとなくそういう状況も楽しそうだと、どこかで思ってしまっていることは、否定出来なかった。アラフォーになる独身の女は、そういうものだろうかと、どこかの女性誌に質問の投稿でもしてみたくなった。憧れの年上の男性、でも、親友の旦那、それと、頼りないけど、なんとなく気になってしまう年下の男の子、が同時に私の前に現れてしまいました。私は、どうしたらいいのでしょうか?なんて。馬鹿みたいと思いつつも、ネタとしては面白がってくれるかもしれないと、どこか他人事のような感覚でいたりする。

 平日に、カフェに行くことなんて基本的にはありえないので、あの日以来、モヤシくんには会えていない。土日に何度か行ってみたものの、モヤシくんは現れなかった。マスターにさりげなく訊いてみる。

「最近、あの建築家志望の男の子、来てます?」と。

「うん、神野くんね、来てるよ。なんで?」

「いや、別に、あれから会ってないなって、思って」

「一応、本格的に建築の勉強することにしたって言ってたよ」

「資格取るんですかね、独学で」

「いや、勉強も必要なんだろうけど、なんかねぇ、実務経験が必要みたいで、どっかの建築事務所に入って勉強するのが一番いいとかで、悩んでたよ」

孝典さんのことをマスターに話すか、迷う。たぶん、マスターに孝典さんの事務所でアシスタントを探していると伝えれば、確実にモヤシくんと孝典さんが会う流れになる。それでいいのだろうか。モヤシくんのことを考えれば、そうしてあげることが正しい選択だということはわかっている。でも、自分はそうなった時に、どうしたいのかがわからない。迷って黙っていたら、マスターが

「確か、お友達の旦那さん、建築家じゃなかったっけ?」と言う。まずい、先を越されたと思う。

「あっ、はい、そうですね、史奈の旦那さん」

「美優ちゃんが恋してる人でしょ?」とマスターにまたからかわれるけれど、否定も出来ない。

「恋じゃないですから」

「その人のところで働けたりしないの?」

「さぁ、」と、とぼけてみる。マスターは変に鋭いから、いまの、さぁ、に何かを感じ取ってしまったかと思い。表情を窺う。何かを考えているように見える。

「ダメ元でさぁ、聞いてみてくれる?お友達に」

「えっ、何をですか?」

「ご主人の事務所で人を探してないかって」

「いいですけど」

「けど、なに?問題でもある?」

「いえ、ないです」

マスターに気づかれる前に、この話題を終わらせたい。

「たぶん、火曜か水曜のどっちかに神野くん来ると思うから、わかったらすぐに教えてくれる?」

「わかりました」と答えながら、火曜か水曜にくれば、彼に会えるのだと思い、どうやって会社をサボろうか、具体的に考え始めていた。家に帰りながら、とりあえず、史奈に連絡をする。

「モヤシくんに、今度会うから、アシスタントの件、訊いてみるけど、まだ探してる?」と。すぐに返信がくる。

「是非、お願い、って孝典が言ってる」と。モヤシくんに会うと言ってしまったけれど、まだ、どうやって会社をサボってカフェに行くか、決めていない。それに、火曜か水曜のどちらにモヤシくんが現れるのかもわかっていない。どうしたらいいのだろうか。とりあえず、マスターに訊くしかないか、と思い電話をする。

「はい、カフェコヨーテです」とマスター。

「あっ、美優です」

「おっ、どうも。神野くんの件?」

「はい、ちょうどアシスタントを探してるようなので、繋いで欲しいって」

「ほんとぉ、よかった、ラッキーだね、神野くん。伝えてみるよ。まとまるといいね」

「あっ、はい、いつでしたって、彼が来るの?」わかっているのに忘れたふりをして訊いてみる。

「火曜か水曜だけど、たぶん水曜」

「水曜なら、私も行けます。ちょうど代休なんで」と小さな嘘をつく。会社には、あとで何かの理由をつけて休日申請を出せばいいのだ。

「そっか、じゃあ、美優ちゃんから直接言ってもらった方がいいね」

「はい、でも、何時ですか?」

「いつも来るの二時だから、二時だと思うよ」

「わかりました。じゃあ、水曜二時に」


 水曜日、カフェに行くにしては少し綺麗めのワンピースを着て家を出る。先にモヤシくんは着いていて、マスターと話をしているのが外から見える。

「こんにちは」

「こんにちは。お久しぶりです」とモヤシくん。シャツのせいか、この前ほど痩せて見えない。モヤシくんとは呼べない感じだ。

「神野くんね、実は昨日来て、だから、ざっと話しちゃった」とマスター。

「えっ、そうなんですか?じゃあ、今日は、なんで、わざわざ?」

「美優ちゃんが来るならって」とマスターが言うと

「お話しを頂いたお礼も、ありますし、直接、お話しを聞けたらと思って」とすぐにモヤシくん、いや神野くんは少し慌てて話す。理由はなんでも、とにかく会えてよかったと思う。ざっと、史奈のことや孝典さんの事務所のことなど、自分が知っていることを神野くんに伝える。

「やっぱり、孝典さん、ってモテますか?」と神野くん。マスターが余計な事を言わなければいいけど、と思いながら、どう答えようか迷う。モテると言ってしまうのもなんだか、他人事みたいだし、そんなにモテないというのは嘘になる。答えを考えて黙っていると

「モテるみたいよ」とマスターが割って入る。

「美優ちゃんも恋しちゃうくらい」と神野くんの前では微妙な冗談を言う。ここで、ムキになったり照れたりするとおかしなことになると思い、咄嗟に

「そうね、モテるね」と軽く流した。すると神野くんは

「僕も建築家になったらモテますかね?」とまた答えに窮する質問をする。

「モテないの?神野くん、彼女とかいないの?」と一応、年上の女として、さらりと言ってみた。マスターは、黙って二人の会話の行方を見守っている。そう、いまは見守ってて、と願う。

「いないですねー、しばらく」

「そう」と訊いておきながら興味がないフリの返事をする。本題を片付けてしまおうと思い、史奈に孝典さんのスケジュールを訊いてもらい、週末の金曜日に、モヤシくんが孝典さんの事務所に行って面接を受けることになった。多分、面接と言っても形式的なもので、とりあえずは採用されるだろうと思う。だって、私の紹介なんだから。その先にどんな展開が待ち受けているのかは、今は考えないようにした。

 金曜日の夜に、史奈から「神野くん、早速、月曜から働いてもらうことになったよ」とメールがあり、土曜日の朝には、孝典さんからも「この度は、色々ありがとう」とメールが届く。日曜日にカフェに行くと、マスターから「どうなった?」と訊かれ

「明日から行くみたいです」と話していると、神野くんが現れる。

「よかった。もしかしたら居るかなって思って来てみました」となんだか上機嫌なモヤシくん。今日のTシャツはモヤシに見える。

「他に行くとこないんで」と、答えると神野くんではなく、マスターがそれに対して突っ込む

「行くとこないから、来たの?」と。

「あっ、いや、ここが好きなんで」と言ってみたものの、取ってつけたようなフォローになってしまい、マスターは「テキトーだなぁ」と呆れて笑っている。

「椎名さんのところに明日から行くことになりました、ありがとうごさいました」とモヤシくんは、立ったままで頭を下げた。

「椎名さん、かぁ、なんか新鮮。孝典さんと史奈としか呼ばないから、椎名、だったね、あの二人」

「はい、孝典さん、やっぱり、カッコよかったです、モテる大人って感じでした」とモヤシくん。当たり前よ、だって私はずっと憧れてるんだから、と心の中で思う。あの二人は、私について、モヤシくんに何か話したのだろうかと気になるけれど、どう聞き出したらいいのか上手い言葉が見つからない。

「そうよね、モテる建築家のお手本みたいな人よね」と、とりあえず答える。

「美優さんは、孝典さんのお気に入りなんですか?」

「はっ?」

「奥さんが、そう言ってました」

「あぁ、それね、いつも酔うと孝典さんがそう言うの。彼氏が出来たら品定めするから、一番に知らせるようにって言われてる」

「じゃあ、孝典さんのお目に叶うことが必要なんですね。美優さんと付き合うには」

私は、モヤシくんの顔をじっと見つめていた。そして「もしかして、私と付き合いたいの?」と心の中で、言ってみた。モヤシくんに伝わるだろうかと思いながら。

「僕、建築家目指します、本気で、孝典さんみたいな」と、神野くんは真剣に言う。もうモヤシくんとは呼べないくらい力強く。

「頑張って。孝典さんも喜ぶんじゃない」と言ってみて、さらに「そうなったら、孝典さんのお目に叶うわね」と付け加えたら、神野くんはどんな顔をするだろうかと想像してみる。実際には、そんなことは口にはしなかったけれど。


 孝典さんのところで神野くんが働いている状態を、自分でも本当のところどう思っているのかわからない。わからないというよりは、考えるのが面倒なのかもしれない、とも思う。孝典さんのことは、相変わらず素敵だと思うし、モヤシくんのこともなんとなく気になる。でも、モヤシくんに対するそれが恋愛という形をとるにはまだ何かが足りないと感じている。孝典さんを本気で好きになってはいけないということも、わかっている。私が欲しているのは、なんなのだろうか。ただふわふわと気になる男性達に囲まれて、それで気分がいいと思っているのだろうか。その先にあるはずの結婚というものを本当に欲しているのだろうか。そこまで考えて、あぁ、面倒だ、と匙を投げる。これから進むべき方向を教えてくれる道しるべがどこにもないと思う。そもそも、そんなものがあるのかさえもわからない。みんなどうしているのだろうか?私だけが見失ってしまったのだろうか。

「美優先輩、お昼行きませんか?」と後輩の紗季に声を掛けられて、びくりとする。ほとんど仕事をしないで午前中が終わってしまった。紗季は結婚後もいままでと同じように仕事をつづけていて、この前の昇進試験も受けて、見事合格していた。このままだと、後輩だけれど上司になりかねない。でも、先輩は先輩だと思い、今まで通りのスタンスで付き合っている。

「どう、結婚生活は?」と、特に興味があるわけではないのだけれど尋ねる。

「どうなんだろう、二人とも寝に帰ってるだけって感じです」

「旦那さんも忙しいの?」

「ほぼ毎日、十二時とかです。子供とか出来ちゃえば変わるんでしょうけど」

「そうかもね」と、あまり深い話にならないよう、さらりと流す。

「そういえば、莉奈、おめでたなんですって」

「そうなんだぁ」と新堂さんの子かぁと思う。

「でも、新堂さんが異動になるみたいで、このタイミングって、会社も意地悪ですよね」

「異動って、どこに?」

「名古屋です」

どこまでが本当かは、わからないけれど、社内結婚をした人間は必ず転居を伴う異動を命じられるというのが、専らの噂だった。その噂通りだ、と思う。人事部の嫌がらせだと言う人と、転居をすれば家賃は全て会社負担になるので、新婚生活を思っての計らいだと言う人とに見解は二分されている。

「でも、莉奈の実家、名古屋だから、喜んでるみたいです」

「今回は、会社の計らい、ってことね」

「でも、新堂さんは、本社から出されるから、微妙じゃないですか?」

「確かに。調査部は出世ルートだったからね」もし、自分とだったら、彼はどうなっていただろうなどと想像していた。どこか地方に行かされただろうか、それとも調査部のままで、出世ルートを進んでいっただろうかなどと。もう、どうでもいいのに。

「美優先輩、まだあのカフェに行ってます?」

「うん、時々」

「この前、旦那さんと二人で久しぶりにいったんですけど、そうしたら、偶然、元彼に会っちゃって、びっくりでしたよ」

「あのカフェで?」

「先々週くらい、一応、大学の時の同級生って、旦那さんには紹介したんですけど、嘘ではないんで。でも、なんかバレてたかも」

「別に結婚したんだから、いいんじゃないの?元彼でも」

「でも、なんとなく、微妙かなって」

「もしかして、まだ、好きだったり?」

「それは、ないです、けど、なんか自然消滅みたいな感じだったんです、だから」

「あぁ、微妙かもね」

「それで、その時、彼がお店の人と話してたんだすけど、__美優さんって、いま一人ですか?って」

「私?」

「さぁ、先輩のことかはわからないですけど、確かに、美優さん、って」

「で、マスターはなんて答えてた?」

「お店の人ですか?『今は、そうじゃない、前にめんどくさい、って言ってたときの人とは別れたみたいだから』って」

あのカフェで、めんどくさい、って言う人が私以外にもいるのだろうか、と考えてみたけれど、そんな人がいるとは思えなかった。それは、私に違いない。だとしたら、紗季の元彼って?

「その元彼、って、どんな感じ?」と言ってから、あまりにも漠然とした質問だと思った。

「どんなって、見た目ですか?」

「まぁ、とか」

「痩せてて、メガネ、見た目、文学青年っぽい」

「モヤシみたい?」

「モヤシ?」と紗季は、少し吹き出しつつ笑って、

「確かに、モヤシと言われればモヤシっぽいかも。でも、彼、空手やってたから、細マッチョなんですよ」と言う。モヤシくんが空手、とイメージが全く繋がらない。やはり、違うのだろうか。

「他に、何か話してなかった?」

「そんなに、聞き耳立ててたわけじゃないので、あとはぁ、なんか言ってたかなぁ」と紗季は思い出そうとして首に手を当てて考えている。

「建築がどうとか、言ってましたけど、細かい内容はわかりません」

「建築ね、そっか、わかった、ありがとう」

モヤシくんに間違いないだろうと思う。紗季の元彼は。

 午後、デスクに戻ってみたけれど、さらに仕事が手につかない。もう、限界だと思い、早退願いを提出して会社を出る。恐らく、みんな本当にどこか具合が悪くなったのだろうと思ったに違いない。口々に、病院行きなよ、とか明日も無理しなくていいよ、とか優しい言葉をかけてくれたから。まだ恋まで到達していないので恋の病とは呼べないと思う。では、何の病か?わからない。何に対して具合が悪いのかさえも、判然としない。とにかくカフェに向かう。あそこに行けば何らかの解決策が、転がっていそうな気がする。万が一、モヤシくんがいたとしても、それはそれで、受け入れる準備も出来ている。平日の午後三時、カフェは静かだった。私のぐちゃぐちゃの心とは対照的に、落ち着き払って整然とした空気が流れている。マスターは、カウンターの陰で本を読んでいるようだった。私の姿を認めると、立ち上がり

「いらっしゃい。また仮病?」と言う。

「もう、限界です」

「まぁ、座れば」とマスターはカウンターの目の前の席の椅子を引いてくれる。とりあえず、コーヒーを頼んで、落ち着こうと思い黙って見を閉じる。豆を挽く音、お湯を注ぐ音、そして香ばしい香りに包まれる。涙が滲んでいるのがわかる。悲しいわけではないのに。自分の不幸を嘆くほどの出来事があったわけではない。誰かに辛い思いをさせられたわけでもない。ただ、どうしたらいいのかがわからないだけなのだ。この歳にもなって、誰かに手を引いてもらわないとどこにも行くことができないのだ。怖いのだ。どういう結果が待っているのかを知るのが怖いのだ。だから、どこへも行かずにじっとしているしかない。周りのみんなは、どんどん自らの道を歩んでいって、自分一人だけが取り残されてしまった。みんな、もう、追いつけないところまで行ってしまった。その上、気づけば、今度は追い越されていくようになってしまった。可愛らしい後輩たちに。私の前に、どこかに繋がっている道はあるのだろうか。もはや、ぐるぐると同じところを回っている回廊しかないのだろうか。バタンと扉が開き、誰かが入ってくる。足音が近づいてくる。私のすぐ後ろで立ち止まっているのがわかるのだけれど、振り向くことなんてできない。そこに待ち受けているもの、それがもたらす結果を見るのが怖くて仕方がないのだ。ただ何も起こらないで通り過ぎて行ってほしい、もう私に何かの結末を見せないで欲しいと願う。

「隣、いいですか?」私に言っているのはわかっている。どうすればいい。どうぞ、って言えればいい。言えるだろうか。「美優さん」と呼ばれる声と私の「どうぞ」が重なってしまう。私の声は、届かない。いつもそんなだ。私の声や言葉や思いは、誰にも届かなかった。そんな人生だった。でも、もうそれは終わりにしたい。だから、もう一度「どうぞ」と言い直す。隣に座った彼の横顔を覗き見る。モヤシくんは「僕もコーヒーをください」とマスターに言ってから、もう一度「美優さん」と言い直す。彼も、私の「どうぞ」と重なって聞こえなかったと思ったのだろうか。

「連絡をしようと思ってたんです」

「私に?」

「はい。でも、まだ連絡先を交換してないことに今さら気づいて、とりあえずここに来てみました」

「史奈か孝典さんに聞けばわかったでしょ?」

「今は個人情報は、教えてくれませんよ。まだ、僕のことをお二人はそこまで信用していませんから。働き出して間もないので」

「それも、そうね。まだ何者かわからないものね。それで、何か話があったの?私に」

「はい、やっぱり、僕、孝典さんに負けたくないんです」

「まずは、試験に受かって建築家を名乗れるようにならないとね」

「それは当然です、じゃなくて」

「何?」神野くんの言葉を待っていていいのか迷う。私から先に伝えたい思いを伝えなくては、今までと同じ結末にしかならないのではないかと。

「神野くん、私、今日、早退してきたの、会社。なんか限界だったから。ここに来れば、もしかしたら神野くんに会えるかもしれないって思って。そうしたら、あなたが来た。こうして会えた。本当は、ショックなことがあったの。仕事が手につかないくらいに。でも、そんなことは、もうどうでもいいわ。決めたの、面倒だなんて言わないって」そこまで言って私は、もう一度神野くんの横顔を見る。この顔が見たかったんだと思う。間違いなく。

「僕に会いに来たんですか?」

「そうみたい、それも、あなたが紗季の元彼だって聞いた日に、わざわざ会いに来たの。本当なら、本当というか今までの私なら、もう面倒だって、あなたに興味がなくなっていたと思うのに」

「紗季に会ったんですか?」

「紗季は会社の後輩なのよ。まさかね、神野くんの元カノだったなんて、ふざけた冗談かと思ったけど、現実なの」神野くんは、黙っている。驚いているのか、動揺しているのかわからないけれど言葉が出てこないみたいだ。

「この前、ここで紗季に会って、すごい偶然があるんだって思ってたんですけど」

と神野くんは言ってまた黙ってしまった。

「それで、私に何か話があるんでしょ?」と私はわざと意地悪に聞いてみる。

「美優さんに、孝典さんより、僕のことを、認めてもらう、というか、孝典さんのお目に叶うように」

「落ち着いて。何を言ってるのかわからないわ」

「すいません」

「私ね、神野くんに会いたかった、気になって仕方なかった、恋をしたんだと思うの。めんどくさいなんて言いながら。あなたよりずいぶん歳上だし、人の旦那さんに憧れたり、あなたが後輩の元彼だったり、もう課題が山積みなのをわかった上で、言うわ。あなたに恋をしたの」

「はい、僕も、最初にここで話してから、ずっと、どうしたらあなたに会えるのか、そればっかり考えてました。孝典さんのお話をもらって、これで美優さんに少し近づけたと思って、でも、孝典さんのお目に叶うなんて、まだまだ無理で、あんな風には到底なれないって」

「比較する相手じゃないわ、孝典さんは。いいの、モヤシはモヤシで」

「モヤシ?」

「そう。私、あなたをモヤシくん、て呼んでたの、密かに。ひどいと思わないで。私の中では、親しみを込めてなのよ」

「こう見えて筋肉質なんですけど」

「知ってる。空手やってたんでしょう、紗季に聞いたわ」

「まさか、カフェで出会って、付き合うようになるなんて、本当にあるんですね」

「マスターの格好のネタね、ずっと言われるわ、僕が二人をくっつけたとか、ね」

「なんか、そんな気がしたんだよ、直感で」とマスターが言う。

「それは、結果論。あとからだったら、なんでも言えるわ。当事者は、もう、あれこれ考えて大変だったんだから」と言うと

「知ってる、大抵のことは報告してくれてるよ、僕に」とマスターは私をいじる。

「とにかく、一応、孝典さんに報告していいですか?」とモヤシくん。

「いいけど、なんて言うかなぁ、孝典さん。私は史奈にメールしておく」

「お願いします。明日、事務所行ったら話します」

「健闘を祈ります」と言って、飲みかけのコーヒーを啜る。たぶん、気のせいだけれど、梅ジュースのような甘酸っぱい味がした。


「なんか、この四人で飲んでるなんて、やっぱり不思議だなぁ」と孝典さんは、もうずいぶん酔っている。たぶん、そのうち寝てしまうに違いない。「喜んでるけど、内心、複雑なはずよ」と史奈はこの前のメールに書いていた。孝典さんが、そんな風に思ってくれているだけで嬉しかった。神野くんは

「お前、わかってんだろうなぁ、美優ちゃんのこと、ちゃんとしないとタダじゃ済まないからな」と冗談でも凄まれて怖かったと言っていた。今夜の孝典さんは、最初から上機嫌で、ドラマでよくある、娘の結婚の報告を聞いた父親、みたいだと思った。たぶん実家の父はこんな風には喜びはしないだろう。

「美優ちゃんは、神野くんのどこがよかったの?」と孝典さんはその夜、何回も尋ねた。その度に、なんとなく、とか、雰囲気、とか、気づいたら、とか曖昧な返事をしていたのだけれど、実際、自分でも明確な理由がわからない。本当に、なんとなく雰囲気で、というのが正しいと思う。世の中の結婚したカップルがどうなのかは知らないけれど、そういう方が多いのではないかと思えた。背中のホクロを見て、夏の大三角とか言ったり、婚約者を演じて欲しい、とか言うのは、今思えば、何かがおかしくて、そういう相手との未来を想像することは不可能だったのだ。その時は、目の前にいる相手に夢中で、冷静に何かを感じ取ったりすることができなかったのだろうけど。とは言え、まだ、神野くんと結婚すると決まったわけではない。でも、なんとなく、そんな気がしているのだ。なんとなく。


 よく、一人前の建築家になれたら、とか試験に合格したらとかいう前提条件を結婚につけてしまったりするけれども、神野くんはそういうことはひとことも口にせずに、ただ「結婚してください」と言った。そのことについて、両親や会社の同僚は、口々に、大丈夫?とか、食べていけるの?とか心配しているような口調で言ってくれるのだけれど、本当はそんなに心配なんかしてないはず、と思う。うまくいくがどうか、試しに見てみよう、という程度の関心で、他人の恋愛の破局ほど甘美なものはないと、自分自身を省みて思う。なんとなく、で始まった二人だから、正直、なんとなく終わったりするのかなぁ、と当人達も思っていたりしたのだけれど、大方の予想に反して私たちは、いつも、何をするにつけても、しっくりと行った。結婚式や披露宴をどうするかとか、住まいをどこにして幾らくらいの家賃にするか、仕事をどうするか、子供が欲しいかどうか、など、結婚生活についてまわるやっかいな判断は、今日の晩ご飯は何にする?という会話と同等のことのように扱われた。かと言って、全部が全部同じ価値観や嗜好というわけでは当然なく、私はジャズを聴くけれども、彼は音楽に興味がない。彼は、なんでもマヨネーズをつけたがるのだけれど、私は冷蔵庫に常備するものではないと思っていた。彼は帰宅するとすぐにシャワーを浴びたりお風呂に入りたがったけれど、私は寝る直前でないとお風呂に入る気がしない。そんな風に日常の生活では、お互いに些細なズレが生じていたけれども、それはそれで新たな発見をする感覚で、受け入れて楽しむことが出来た。一つ、しっくりいかなかったことは、神野くんをどう呼ぶか、ということだった。結婚したので、私の姓も神野になった。なので、神野くんと呼ぶのはおかしい、というまわりの意見を取り入れ、彼の下の名前で呼んでみることにした。夏樹くん、と。いままで一度の呼んだことのないその名前を口にすると、妙な違和感を覚えた。そのうち慣れてくるだろうと思い、呼びかける必要のない時でも意識的に、夏樹くん、おはよう、夏樹くん、ご飯だよ、夏樹くん、もう寝る?なんて言ってみていた。しかし、ダメだった。なんだか、知らない他人と暮らし始めたような気分になってしまい「やっぱりカンノクン」に戻していい?と三日後ぐらいには断念した。なので、結婚したあともカンノクン、ミユサン、とお互いを呼んでいる。さすがにモヤシくんとは呼ばない。


 カンノクンは、孝典さんの右腕として仕事をしながら、資格の為の勉強をして、建築士を目指している。美優もようやく昇進試験を受けることにして、今は一つの課を率いるようになった。あまりにも順調で、平穏な日々が三年程続いている。孝典さんと史奈とは、よく四人で出かけたり、食事をしたりして、家族のような親戚のような距離感の付き合いが続いている。どちらも、もう子供を持つつもりはないので、生活のリズムのようなものが似通っていて、一緒にいて心地よかった。いくら仲の良かった友達でも子供が生まれたりすると、やはり、生活のリズムが違ってしまい疎遠になることは、今まで何度も経験してきた。そうやって、新たな人間関係が出来上がっていくというのは、当たり前のことで、自分もようやくその当たり前の流れに乗っているのだと思える日々だった。つい最近まで、一人だけ取り残されてしまったと感じていた日々だったのに。でも、まだ、いつそんな日々に逆戻りしてしまってもおかしくはないのだと、時々思う。夜中に洗濯をして星空を見上げた夜や、ひとりカフェで時間をもてあましていた週末や、後輩達の恋愛話に無関心なフリをしていた日々に。カンノクンが隣にいる時に、ふと思うのだ。この人がいまこうして隣にいる事は、奇跡的な事なのだと。星の数ほどの男性がこの世の中にはいると、よく言うけれど、数の問題ではないと思う。僅かな数しか見えない東京の星空の下でも出会う人は出会うだろうし、満点の星空の下でも出会えない時は出会えないのだ。どこかの時点の何かの歯車が噛み合わなかったり、あるいは違う方向に回転していたら、隣には誰もいなかったのかもしれないのだ。いまの私には、もうその歯車を分解してまた最初から組み上げていくことは想像できなかった。ただ確実に淡々と、回り続けるように見守ることくらいしかできないと思った。それでも、どこかで、噛み合わなくなったり、止まってしまったりすることもあるはずなのだ。それも、よくわかっているつもりだ。「私たちだって、色々あったんだから、どう見えてるか知らないけど」と時々、史奈は言う。そんな時、孝典さんは見たことのない表情をする。情けないような、バツが悪いような、なんとも言えない苦い顔をする。たぶん孝典さんであっても、あまり人に言えないような行いをしたのだろうなと想像している。そんなことが、カンノクンにも起こるとは今は思えないが、絶対にないとも言えない。同じように私自身にも。「二人で共有してきた記憶があってね、それはもう消えないあざみたいなもので、身体の一部なんだよ、万が一、消せたとしても、消したんだっていう記憶の方がさらに濃く残るはずで。でもね、そのあざもよく見ると綺麗なはずなんだよ、二人にしか残せなかった足跡だから」と孝典さんは言う。そんな史奈と孝典さんという先輩夫婦を見ていると、自分たちもあんな風にいつまでも一緒にいたいと思う。この先、色々あったとしても、二人でいることを選んだのだから。綺麗なあざを残していきたいと。



by ikanika | 2018-12-14 21:17 | Comments(0)

『ハーグ』

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ハーグ





制服のまま砂浜に降りると、沙苗は少し考えてから靴を脱いで素足になった。凌も同じように履いていたスニーカーを脱いで乱暴に階段の隅に投げた。

「ビーサンとか、持ってればよかった」と言う沙苗に

「でも、素足も気持ちいい」と凌は答えて、沙苗の靴を持っていない方の手を引いて砂浜を走ってみた。ドラマのシーンのように、わざと。

「こういうシーン、あるよね、よく」

「あるある」

 人気のない暗い場所まで来ると二人で砂浜に座って海を眺めた。月明かりに砂まみれの沙苗の素足が照らされていた。それに気づいて沙苗は手で砂を払った。湿った砂は綺麗には払いきれずに、まだらに素足に残っていた。

「汚れちゃった」と沙苗は独り言のように呟き「ふぅ」と息を吐いた。沈黙が続いた。凌には波の音と心臓の鼓動しか聞こえなかった。ドラマならここでキスとかするんだろうな、と凌は考えていたのだけれど、実際にそういう状況になってみると、そのきっかけというか、タイミングが全く分からなかった。このまま黙って座っているだけで、いいのだろうか、何か話をした方がいいのだろうか、と頭の中でぐるぐると考えを巡らせていることしか出来なかった。月明かりが水面に揺れて、二人を照らしていた。キラキラとした青白い光を、ただ見つめているだけの時間が過ぎていった。

「夏休みが終わったら、引っ越すの」と沙苗が言う。

「引っ越すって?」

「ルーマニア」

「ルーマニア、って?」

「外国」

凌は、沙苗が何を言っているのかよく理解できなかった。ただルーマニアと聞いてオリンピックでよく活躍していた国だと思っただけで、それがどこにあるのか知らなかったし、そこに引っ越すということが上手く想像できなかった。

「知ってる、オリンピックでよく出てきてた」

「そのルーマニアに引っ越すの。夏休みの終わりに。お父さんの転勤で」

凌は、ただ黙って聞いていることしかできなかった。こういう時の言葉が見つからなかった。まだ沙苗に告白もしていないし、これからどうしたらキスができるのか、とか考えていた頭ではルーマニアに引っ越すという事実を、どこに納めたらいいのか全く見当がつかなかった。

「聞いてる?佐久間くん」

「うん、聞いてる、けど」

「私、外国に引っ越すの、だから、しばらく会えなくなるの」

「うん」

「しばらく、ってどのくらいかもわからないの。もしかしたら、ずっとかもしれないし」

「うん」

「だから、何か言ってくれないの?」

「何かって、なんで、もうすぐじゃん、夏休みなんて」と凌は、意味のない言葉をただ並べていた。

「そう、すぐ。もっと早く言いたかったけど、ごめんなさい、言えなくて」

「言えなくて、って」

凌は沙苗を責めるつもりはなかったのだけれど、そんな言葉を発していた。

「ごめんなさい」と沙苗は、もう一度言って黙って俯いてしまった。凌は、俯いている沙苗の頬に口づけをした。そして、また黙ったままの時間が二人を包み込んだ。やがて空が白み始めて、月の轍も消えて、青い海が二人の前に広がっていた。その海をずっと進んでいけば、ルーマニアという国に行けるのだろうかと凌は、ぼんやり考えていた。その十日後に、沙苗は引っ越していった。凌の家のポストには、ルーマニアの住所と思われるアルファベットの文字と、『今度、遊びに来てね』という沙苗からのメッセージが書かれた手紙が入っていた。その時の凌には、ルーマニアになんてどうやったら行けるのか、想像もできなかったけれど、あとで世界地図でルーマニアのその住所を探してみようと思ってポケットに手紙を押し込んだ。でも、その後、世界地図を広げることもなく、ただ時間だけが過ぎていった。沙苗への思いや、夜の海や、月の轍の記憶はどんどん薄れていった。






夏の終わりに、夜、車を走らせて海へ向かう。助手席の沙苗は、窓の外をぼんやり眺めていて、もうずいぶん黙ったきりだ。機嫌が悪いわけではないことは知っている。カーステレオから流れる歌に合わせて鼻歌を歌っていたくらいだから。凌は片手でハンドルを握り、カーステレオの音量を調整する。さっきまで走っていた有料道路で少しヴォリュームをあげたのだけれど、いまはそれがうるさく感じていた。沙苗が好きだと言っていた女性ヴォーカルのCDを昨日買ってみていた。今日のドライブでは、その歌声がずっと車内に流れている。恋愛の歌を様々なシチュエーションと、わかりやすい言葉の歌詞で歌っているのが女性に共感されて、最近人気なんだよ、と沙苗は評論家のような解説をしていた。

「沙苗は?共感できる、って感じ?」

「そうね、でも、他人の恋愛はあくまでも他人事だから」

「ドライだね」

「だって、もうそんな歳じゃないから」

「そういうこと?」

「そうよ、いろんな恋愛を妄想してドキドキするような歳じゃないでしょ。佐久間くんは?どうなの?」

「どうって?」

「ドキドキする?」

「したり、しなかったり」

「なにそれ?」

「だから、ケースバイケース」

「するんだ?」

「まぁ」

 沙苗は、声にすると、ふぅーん、というような仕草をして、また窓の外に視線を移した。次の信号を右折すると突然目の前に水平線が広がるのだけれど、夜なのでどうなんだろうかと考えながら、凌はハンドルを切った。

「真っ暗だね、やっぱり」

「何が?」

「海が、見えない」

「そこ、海なの?」

「そう」

「月とか出てれば、よかったのにね」

「月?」

「月明かりで、轍ができるの、海の上に」

「ワダチ?」

「そういう歌があるの、『いつかは消えゆく月の轍が漂うまで』だっけなぁ」

「この人の歌?」

「いや、違う。もっと昔聞いてたから。十代の頃」

「月の轍かぁ」

「気に入った?」

「うん、いい言葉だね」

「今度、CD探しておく、たぶんまだ持ってると思うから」

沙苗はそう言うと窓を開けた。潮の香りがする湿った空気が車内に流れ込んで来ると、遠い記憶が鮮明に蘇ってきて、凌は少しだけドキドキした。沙苗も同じように覚えているのかどうかは、窓の外を眺める横顔からは読み取れなかった。


「ちょっと砂浜に降りてみる?」と凌は沙苗に言ってみた。

「でも、私、革のパンプスよ」

「僕も革靴だけど、素足になればいいじゃん」

「学生みたい。いいよ、行ってみようっ」と沙苗は軽く同意した。海の家が解体された砂浜は閑散としていて、台風が近づいているせいで生ぬるい風が吹いていた。片手にパンプスを持って沙苗は先に砂浜に降りて行った。長い髪が強い風になびく度に片手で押さえて、何か奇声を挙げていた。凌も革靴と靴下を車の脇に置いてから砂浜に降りて行った。素足で砂浜を歩くのなんて何年ぶりだろうか、こんな感触だったろうかと記憶をたどってみる。あの時、沙苗の手を引いて走った砂浜の感触を思い出そうとしてみたけれど、その遠い記憶にはたどり着けそうになかったので諦めた。思いのほか砂に足を取られて軽快に歩けない。それが、年齢のせいなのか砂の質のせいなのかはわからなかったけれど、昔みたいに沙苗の手を引いて走るなんて出来そうになかった。先を歩く沙苗に追いついて、横に立つと、

「ちょっと月が出てきそうよ」と海の方を指差して沙苗が言う。雲が流れて、時々月明かりが漏れてくる。

「もう少し月が低いと、月の轍が出来るのにね」

「いまでも、なんとなく轍っぽく見えるよ」

「ほんとはもっと、ちゃんと道のようになるのよ。海の向こうに導くような」

「そう」と凌は答えながら、目の前に広がる海をずっと進んでいけばルーマニアに行けるのだろうかと考えていた昔のことを思い出していた。

「ねぇ、キスしたの覚えてる?」

突然の質問に凌は驚く。

「覚えてるの?沙苗」

「当たり前でしょ、忘れるわけないでしょ」

「そっかぁ」

「ドキドキ、っていうか、私、もう固まっちゃって、身動き取れなかった、あの時は」

「僕もキスした後のことは、よく覚えてない。ただ空が明るくなってきて、この海をずっと行けばルーマニアに行けるのかなぁ、って考えてた」

「そんなこと考えてたの? 変なの」

「そう、ショックで頭がおかしくなってたんだよ、たぶん」

「そのくせ、何にも連絡くれなくなったじゃない」

「残酷だよな、高校生は」

「ほんと残酷」

しばらく沈黙が続いた。雲が僅かな月明かりさえも消し去り、目の前には黒く暗い海が広がっていた。

「今日、これからどうする?」と凌は尋ねる。

沙苗は少し考えてから

「明日も、朝からミーティングだから、送って、家まで」と答える。

「そう」

「なに、その残念そうな声」

「残念そうだった?」

「うん。とりあえず現実に戻らなくちゃね、とりあえずは」

「じゃあ、車に戻ろうか」と凌は沙苗に手を差し出してみた。沙苗はなんの躊躇もなく凌の手を握って車のあるところまで手を繋いで歩いた。

「砂だらけで、もうパンプス履けないから、このままでいい?」

「いいよ、マンションの前まで行くから」

「ありがとう」と沙苗は素足のまま助手席に乗り込んだ。






「何?この砂?」

と助手席に乗り込んだ香奈が言う。

「この前、ちょっと砂浜に行って」

「誰と?」

「ロケハン。カメラマンと」

「そう」

 香奈はそれで納得したようで凌はホッとする。一回りも年下の香奈と頻繁に会うようになったのは、この半年くらいのことで、香奈は時間ができると気まぐれに連絡をしてきて、一緒に食事に行ったりしている。凌の学生時代からの友達がカフェをやっていて、そこの常連客が香奈だった。いまだに独身を謳歌している凌に、その笠間という友達は、ことある度に女性を紹介してくれるのだった。ありがたいと言えばありがたい話ではあるのだけれど、付き合うことになるような関係にまで進むことはほとんどなかった。ただ香奈だけは、紹介された最初の時からなんとなく波長が合うと言うか、一緒にいて心地よく感じたので、付き合うまではいかないのだけれど、こうして頻繁に会うようになったのだった。香奈はフリーの編集者で、美容関係が専門で様々な女性誌で仕事をしているということなのだけれど、男性には縁のない世界なので詳しい仕事内容までは凌は知らない。香奈も音楽関係の映像を作っている凌の仕事に関しては「全く別世界で、よくわからない、日本の音楽にあんまり興味ないし」と言って関心を示さなかった。音楽関係の仕事をしている凌に近づいてくる多くの女性は、大抵、少しミーハーな興味を持ってくるのだけれど、香奈はそういう素振りが全くなく、そのさっぱりしたところが良かった。しかし今日のように助手席で「何?この砂?」というのを目の当たりにすると、そこはやはり女なんだと凌は思って、少しだけ面倒な気分になった。今日も「お腹が空いたから、何か食べに行かない?」と香奈から突然連絡が来た。ちょうど都内で打ち合わせが終わったタイミングだったので、そのまま香奈を車で拾って、少し郊外のトンカツ屋に行くことにした。「ガッツリ系がいい」と香奈が言う時は、焼肉ではなく、いつも行きつけのトンカツ屋に行くことにしている。焼肉だと煙の匂いが気になるという凌に対して、香奈は女性であっても煙の匂いはさほど気にしていないようで「焼肉でもいいんだけど」と前に言っていた。でも、助手席の砂は気になるらしい。

「飲んでいい?ビール」と香奈はトンカツ屋に着くなり、凌に尋ねる。

「どうぞ」

「すいませんねぇ」と香奈はいつもの決まり文句を言う。

「いつも車だと飲めないから、つらくない?」

「大丈夫、慣れだよ。外では飲まなくても平気になる。というより、外ではもう飲みたくない」

「そういうもの?」

「そういうものだよ」

「凌くんはさぁ、結婚とかしないの?」

香奈は一回りも年上の凌を、凌くん、と呼ぶ。呼ばれた当初は、違和感があったけれど、いまはもう慣れてしまって逆にしっくりきている。いまさら、凌さんとか、佐久間さんとか呼ばれてもこそばゆい感じがする。

「する気があったら、香奈ちゃんとこうやってご飯食べたりしないよ」

「そうなの?」

「婚活するでしょ」

「うそつき。そんなことしないくせに」

「しない。そういう香奈ちゃんも僕みたいなオヤジと過ごしている場合じゃないんじゃない?」

「いいの、私は」

「なんで?」

「なんでも」

「まぁ、いいけど。僕も香奈ちゃんからの誘いがなくなるとつまんないしね」

「そんなことないでしょ」

「なんで?」

「一緒に砂浜に行く相手がいるみたいだし」

「えっ?」

「図星?ロケハンなんて下手な嘘」

「正解」

「別に隠さなくてもいいのに。凌くんがほかの女性と会ってても気にしないよ、私は。でも、助手席くらいは綺麗にしておいて」

「了解」

香奈と話していると、どっちが年上なのか時々わからなくなる。助手席の砂の話は、香奈はすっかり信じ込んでいて終わったつもりだったのだけれど、どこで嘘だとわかってしまったのか凌には全く分からなかった。そこまで演技が下手だったとは思えないし、砂で汚れている理由にも無理がないと思っていた。

「なんでわかったの?嘘だって」

「だって凌くんが、あんな風に車の中を汚したままにするなんてありえないでしょ?それもカメラマンに汚されるなんてなおさらありえない。凌くんが許すわけない。汚したままでもいいと凌くんが思える相手が汚したの。そうじゃない?」

確かにここ数日、助手席の足元の砂を見るたびに、沙苗との夜のことをぼんやり思い出していたのだった。あえてすぐに洗車をせずに今日までそのままにしていたわけではないのだけれど、無意識に沙苗の存在を感じていたいと思っていたのかもしれなかった。香奈の言う通り、沙苗には汚されても、そのままでいい、と思っていたのだろう。

「汚したままでもいいと思える相手かぁ」と凌は、香奈の言葉を繰り返してみた。

「何しんみりしてんの?」

「いや、別にしんみりなんてしてないけど」

「してるよぉ、その人どんな人?凌くんの片思いとか?初恋の人とか?」

香奈はどこまでも鋭い。

「冴えてるね」

「私が冴えてるんじゃなくて、凌くんがわかりやすいだけじゃない?」

香奈はそう言って、ロースカツを美味しそうに頬張ってからライスも山盛り口に運んだ。凌は、最近、ロースカツは脂が重いと感じていてヒレカツと海老フライの盛り合わせにした。

「海老フライ、一切れ食べる?」とまだ口をもぐもぐさせている香奈に尋ねる。声が出せないらしく、大きく三回くらい頷いてニコニコしている。香奈の皿に大きな海老フライを一切れ置くと、ようやくさっき口に入れたものが飲み込めたようで「ありがとう」と嬉しそうに言った。こういうところは、なんだかまだ子供のようで可愛いと思う。とはいえ、香奈も二十代後半のはずで、結婚やその他、将来のことを考えていないわけではないと思う。その香奈の人生を自分は弄んでいないかと、凌は時々不安に思う時がある。口では、結婚なんてまだいい、と言っていても本当のところは凌にはわからない。現に、凌の周りにも独身を謳歌していたと思っていたらある日突然結婚すると言って、家庭に入ったり、仕事の量を減らしたりする女性が少なからずいた。出会いがあればそれが自然な成り行きだと凌は思う。だから香奈のその自然な成り行きを凌が堰き止めていないかと想像してしまうのだった。

「で、どんな人?私より年上だよね?」

「もちろん」

「よかったぁ」

「同い年だよ」

「幼馴染みとか?」

「いや、高校が一緒だった」

「それから続いてるの?」

「まさか」

「だよね」

香奈の質問に、なぜ律儀に答えているのか自分でも不思議に思いつつ、もしかしたら自分は誰かに沙苗のことを聞いて欲しいと思っていたのではないかと感じていた。香奈の質問はその後も続き、先週の砂浜での出来事までをわりと詳しく説明する結果となった。





高校二年の夏に沙苗が海外に引越しをしてから、凌は一度も沙苗には会っていなかった。時折、どこで何をしているのかとぼんやり考えることはあってもSNSで消息を調べたりすることはなく、二十年以上が過ぎていった。再会は、三ヶ月前の事だった。あるアーティストのプロモーションビデオで、今の東京のビル群を一望できるどこかの屋上で撮影をしたいという話になり、凌を含めスタッフ全員でめぼしいビルというビルに撮影利用の交渉をした。大手の不動産会社や大地主が所有するビルは安全上の理由で全て断られ、話を聞いてくれたのは、自社ビルとして所有している外資系の会社とベンチャー企業の数社だった。そのうちの一つの外資系の会社の広報担当として沙苗が現れた。最初の交渉のテーブルで名刺交換をして、お互いに名前をしばらく見てから、もしかして?という同じような表情で二人は顔を見合わせた。最初に口を開いたのは沙苗だった。

「佐久間くん?」

「沙苗?」

「うん」

「沙苗だよね?日本にいたんだ」

「うん、佐久間くん、変わらないね、久しぶり」

「変わったよ、ほら、白髪だらけ」

「私、おばさんになったでしょ?」

凌の中の沙苗は、高校二年の夏の砂浜で見た横顔で止まっていたので、目の前にいる沙苗と記憶の中の沙苗とがうまく結びついていかなかった。なので、歳をとったとか、おばさんになったという認識の仕方は出来なくて、ただ一目惚れに近い感覚で、綺麗な人だと思ったのが正直な感想だった。凌のイメージする外資系のオフィスにいる美人キャリアウーマンという出で立ちで、沙苗はそこに立っていた。ハイヒールに上品なスーツ、綺麗になびくロングヘアー。凌の業界にはあまりいないタイプ。沙苗でなかったら、近づくことはないと思った。

「黙ってるってことは、そう思ったのね」

「いや、そうじゃなくて、全然」

慌てている凌を、同行したアシスタントとレコード会社の担当者は、不思議そうな顔で見つめている。「高校の同級生でね」とだけ二人に言って、すぐに仕事の本題に入りたかった。このまま二十年振りに会った沙苗と何を話せばいいのかわからなかったし、同行した二人にこれ以上慌てている自分の姿を見せたくなかった。

「とりあえず、仕事のお話をしましょうか」と沙苗は席に着き、我々三人も会議テーブルを挟んで沙苗の向かい側に座った。予算や撮影現場の安全性など厄介な交渉になるだろうと予測して、レコード会社の担当者は詳細な撮影プランを書面にして用意してきていたのだけれど、沙苗からの最初の一言でそれらは無駄な労力を割いただけになった。

「基本的には、是非うちの屋上を使って頂きたい、というのが社長の意向です。社長はもともと若い頃、自分でもバンドをやっていてイギリスでレコードデビューもしたことのある人物です。ほとんど売れなかったと、本人は申してますが。なので、自分の会社のビルで有名なアーティストのビデオ撮影が行われることを非常に喜んでいます。うちの屋上からは、スカイツリーも東京タワーも六本木ヒルズも、その他、最近建ったばかりの様々なオフィスビルのほとんどが見えます。ビルの高さとしては、さほど階数はないのですが、この辺りは高台になっているので眺めは最高です。いま屋上は、ヘリポートになっていますのでフラットで余計なものは何もない状態です。撮影もしやすいかと思います。いかがでしょうか?よろしければ今からでもご案内して屋上を見ていただくことも可能です」沙苗は、そこまで話すとニコリと微笑んで見せた。その仕草は、日本人が自然に出来る類のものではなく、海外生活が長かったが故に身についたものだと思えた。我々三人は、特に返す言葉もなく

「ありがとうございます。是非、お願いします」と、とりあえずレコード会社の担当者は言って頭を下げた。その後、三人はヘルメットを渡され沙苗の後について屋上へと上がった。想像以上のロケーションで間違いなく良い映像が撮れると凌は思った。沙苗は、スーツ姿でヘルメットを被っていても、なんとなく様になっていた。その姿にぼんやり見とれていると、アシスタントの優里ちゃんに脇腹をつつかれて

「見過ぎですよ」と小声で注意された。

「では、そろそろ」と沙苗に引率された生徒のように我々は屋上を後にして、再び会議室へと戻った。その場で、撮影候補日や時間や使用に際して必要な手続きの確認などを済ませて、その日のミーティングは終わった。アシスタントの優里ちゃんとレコード会社の担当者には先に帰ってもらい、凌はビルのエントランス脇にあるカフェで沙苗とお茶をすることにした。

「ほんと、偶然、びっくりした、こんなことってあるのね」と席に着くと沙苗は周囲にも聞こえるくらいの大きな声で言ってから

「あっ、ちょっと声大きかった」少し照れたような表情をした。

「うん、いまだに信じられない、ほんとに沙苗だよね?」

「そうよ、水上沙苗よ」と、おどけてとってみせたポーズもモデルのようだと凌は思った。

「いつから?」

「この仕事は、一年前から」

「その前は?」

「三年くらい前に日本に戻ってきて、しばらくは、ぶらぶら何もしていなかったの」

「何も?住まいは?」

「父が残してくれた家があって、そこに」

「お父さんは?」

「最後はチューリッヒで亡くなって、それで私は日本に帰りたかったから帰ってきたの。母は父の近くに居たいからってチューリッヒに残ったわ。父の遺骨も向こうに」

「そうか。なんか不思議な感じがする。こうやって沙苗と話してるのが」

「私も。今まで海外で過ごしていた時間は夢であって現実じゃなかったような感じがするわ」

「一度も戻ってこなかった?」

「うん、一度も」

「ルーマニア以外は、どこに?」

「たくさんありすぎて、もう、ほぼヨーロッパ全部って思ってくれていいわ。お陰で自分でもわからないくらい何ヶ国語も話せるようになって、いまの会社みたいに、大抵の外資系企業では重宝がられるから、仕事の心配はなくなった」

「なるほど。僕とは別世界だ」

「佐久間くんは?高校の後は?」

「大学出て、音楽専門チャンネルの会社に就職して、最初は営業だったけど、しばらくして制作部門に移動になって。別に映像の専門的な勉強とかしてなかったんだけど、いわゆるプロデューサーのアシスタントとかやって、企画とかアイデア出しとか、現場の調整とかなんでもやってるうちに、なんとなく自分で制作の現場を仕切れるようになってね。そしたら運良く人気アーティストから制作依頼が来て、その作品で賞とか取っちゃって。それで、独立していままでずっと。もう十年くらい」

「すごい、社長ってこと?」

「アシスタントがひとりだけのね」

「さっきの優里ちゃん?」

「そう」

「今回の撮影が終わったら、ご飯でも行かない?」

「いいね。是非」

そうやって沙苗とプライベートで会うようになった。週末には車で出かけるようになり、先週はあの砂浜に寄ったのだった。






「それはさぁ、凌くんの片思いのやり直しってこと?」香奈の手には大きすぎる湯呑みを両手で包み込むように持ち、両肘をテーブルにつき、少し前のめりになって言う。

「やり直しかどうかはわからないけど」

「どうしたいの?凌くんは」

「どうしたいんだろう?自分でもまだわからない」

「応援するよ、一緒になりたいとかだったら」

「ありがとう」

香奈は食後のお茶を何杯もお代わりをしたので、店員さんは最後には急須ごとテーブルに置いていった。香奈は帰り際に

「今度また海に行くなら、素足の砂は綺麗に落としてから助手席に乗るように沙苗さんに言ってね」と言って手を振り、マンションのエントランスに消えていった。その言葉に何か香奈の思いが込められているのかどうかは、凌にはわからなかった。






沙苗と会うのは大抵、水曜日の夜か週末だった。沙苗の会社は、水曜日は定時退社が義務づけられていて、割と早い時間から会うことが出来た。週末は土日のどちらかだけ会うことにしていて二日間とも一緒にいることはなかった。それは、沙苗の希望で

「わがまま言うとね、休日のどっちか一日は、ひとりで過ごしたいの」とはっきりと凌に伝えてきた。凌も週末に仕事が入ることが割と多かったので、ちょうどいいという感覚で、その申し出を快く受け入れた。いつも一緒にいたいとか言われたら凌も距離を置いたかもしれない。いまの二人には、そのくらいが適切な距離感だと沙苗は感じていると理解しているのだけれど、本当のところはわからない。今週末はどうするのか、まだ連絡を取り合っていなかったので、凌は沙苗にメールを入れた。

___週末は、どんな予定?

すぐに返事が来て、

___土曜日に佐久間くんのうちにいっていい?

とあった。断る理由はなかったのだけれど、お互いにそれぞれの家に行くのは、それが初めてになる。なんとなく今までの距離感とは違って来るような予感がしたので少し考えてから返信をした。

___いいよ。でも、女性を迎い入れるのはもうずいぶん久しぶりだから、少し緊張するなぁ。

と返した。正しくは、今の部屋に女性と二人きりになったことはなかった。沙苗が初めてだと言うと逆に気を使わせてしまうかもしれないと思ってのことだった。すると、

___なんだ、初めてじゃないんだ。残念ー。

と帰ってくる。少しおどけているのだろうと思い

___もういい大人だから(笑)。待ってるよ。

と返して、沙苗から

___じゃあ、お昼くらいに。

とあり、

___了解。

と凌が返してそのやりとりは終わった。土曜日の正午過ぎにインターホンが鳴り、沙苗が買い物袋に沢山の食材を入れて現れた。

「ずいぶん買い込んだね」

「久しぶりにスーパーで買い物したから加減がわからなくて。一つ一つがファミリーサイズみたいで、そんなに種類は買ってないんだけどね」

「なるほどね。とりあえず上がって」

と沙苗をキッチンのある二階のリビングに案内した。

「一人じゃもったいない立派な家ね」と沙苗は部屋を見回して言う。

「そうかもね、それこそファミリーで住めるよ」

「私が転がり込んでも大丈夫ね」

「沙苗にはお父さんの家があるんでしょ?」

「うん、でも、古い一軒家だから、ひとりだとちょっと怖いの」

「深沢だよね?」

「うん」

「あの辺、豪邸多いよね」

「多いけど、けっこうみんな古くなってて、住んでる人もお年寄りが増えてきて、段々と世代交代が始まってる感じ。取り壊しも多いし」

「そっかぁ」

沙苗は買ってきた食材を手際よく冷蔵庫に収めて

「ちょっと休憩」と言ってダイニングの椅子に座った。この家に沙苗と二人きりでいるのが不思議でならないのだけれど、一方で、なんとなく沙苗がこの部屋に馴染んでいるようにも感じる。

「この家、いつ建てたの?」

「独立する少し前。サラリーマンじゃないとローン組めないからね。ちょうど賞を取って調子に乗ってた頃で、その勢いで」

「勢いでもすごいよ、こんな家」

「まぁ、家賃払うこと考えたら買ってよかったと思うけど、ローンはまだまだ残ってるから」沙苗は、本棚やレコードラックを一通りチェックして

「ねぇ、佐久間くんのやった作品見せてよ」と言う。沙苗が音楽や映像に関してどういう嗜好なのか想像がつかないので何を見せたらいいのか迷う。会社員時代の作品は、それこそアイドルやビジュアル系と呼ばれるものまで多岐にわたり、独立してからも思い通りに作れたものは少なく、低予算のインディーズものや、さほど売れなかったアーティストの方が数としては圧倒的に多い。

「雑多にいろんなものをやってきたから、どんなのがいいかなぁ」と沙苗に聞いてみた。

「自信作、と失敗作を一つずつ」と即座に答えが返ってくる。

「なるほど。なんか面接官みたいだなぁ」と凌は笑いながら答える。

「あまりにも会っていない期間が長かったから、今の、というか、本当の佐久間くんのことを私は知らないと思うの。だから、知りたいの」

「僕も同じだよ。沙苗が過ごしてきたこの二十数年のことを知りたい。けど知ってしまうことが怖い気もする。僕の中では、沙苗はいつまでも夏の砂浜で俯いている少女だから」

「もう少女じゃないわよ」

「わかってる。だから、あえてあの少女と今の君を結びつける必要もないんじゃないかとも思ったりもする。いまの君は、十分魅力的だし、懐かしくて美しい思い出がなくてもいいんじゃないかって」

「ありがとう・・・」沙苗は続けて何かを言いかけたようだったのだけれど、その言葉は発せられずに、代わりに凌のスマートフォンの着信音が鳴った。液晶画面には、香奈、とある。出るかどうか迷っていると「どうぞ」と沙苗は言って席を立ち、凌に背を向ける形で本棚の方に歩いて行った。

「もしもし」と凌が出ると

「凌くん、お腹空いたー、なんか食べに行かない?」と香奈の元気な声が響く。恐らく沙苗にも聞こえるくらいの大きさだ。

「今日は、無理だな、先約があるから」

と凌が小さい声で話すと

「あっ、ごめん、初恋?」と香奈は小さな声で言った。

「そう。また今度ね」

「お邪魔しました、かんばれっ」と言って香奈はすぐに電話を切った。

「誰もいないわけないよね」と沙苗は振り向きながら凌の目を悪戯な眼差しで見つめる。

「いや、友達。若い友達」

「凌くん、って呼ばれてるの?私も凌くんにしようかしら」

「いや、それはやめようよ。いまのままで」

「でも結婚したら私も佐久間よ、そしたらもう佐久間くんて呼べなくなるし」

「えっ」

「冗談よ、そんなにびっくりしなくても」

「ほんとに、今の娘は、友達」

「大丈夫よ、怒って帰ったりしないから」と沙苗は笑って言う。結局、その日は手元にある凌が手がけたミュージックビデオ作品を全て見ることになった。凌にとっては、懐かしかったり恥ずかしかったり、自画自賛したり自慢したい作品だったりと様々な思いが湧いてくるもの達なのだけれど、沙苗には全てが初めて目にするもののはずだった。いったいどんな風に沙苗の目には映っているだろうかと、時折、横目でその表情を覗いてみるのだけれど、ただ真剣に食い入るように見ているだけで、表情にこれと言った変化は見られなかった。かれこれ二時間くらい見続けて、凌は疲れてきたのでコーヒーでも淹れようかと席を立った時、沙苗が

「ここ、知ってる」と画面を見ながら呟いた。それは、いまから十年くらい前、独立して間もない頃にアイルランドにロケに行って撮影をした作品だった。朽ちた古城の跡が残る緩やかな丘を、女性アーティストがカメラに追われて走っている場面だった。

「アイルランドだけど」

「うん、この近くに住んでた」

「住んでたの?アイルランドに?」

「時々、休日にここでピクニックしたの。お弁当とか持って」

「本当に?いつくらいの話?」

「えっと、いまから十年くらい前かなぁ」

「これもそのくらいに撮ったやつだよ」

「じゃあ、確実に、私、居たわ。三年間住んでたから」

「偶然にしては、怖いね、なんか」

「うん」

「この時は、メイキング映像も作ったから、このPVには使ってない映像もあるよ、確か。普通に街中を歩いていたり、買い物したりとか」

「いま、あるの?ここに?」

「あると思う、そこのロフトに」と凌は、リビングのさらに上の天井に近いところに作った小さなロフトスペースを指差した。

「見ていい?」と沙苗が少し真剣な眼差しで凌に訴えかけるように言う。

「じゃあ、ちょっと探してくる」と凌は、ハシゴを登りロフトに上がった。しばらく上がっていなかったので、ロフト全体にうっすらと埃が被っていた。しかし、目的のビデオ素材はすぐに見つかり、PVは止めてメイキング素材の映像を再生した。素材映像には当時の自分の姿も映っていて、驚くほどさえない服装とセンスのない帽子を被っていて驚いた。

「ダサいね、僕」

「当時は、みんなあんな感じだったんじゃない?」

「にしても、ダサい」

沙苗は、さっきよりさらに真剣に画面を見ている。何かを見落とすまいと、防犯カメラの映像をチェックするかのように。

「左下にある日付とか時間は、合ってるの?」

「合ってるよ、メイキングに日付とかもそのまま入れて、リアリティを出そうという話だったから、現地時間に合わせてるけど、なんで?」

「うん」と、沙苗は小さく返事をして、また画面を見つめ続けた。明らかに、何かが映っていないかと探しているようだった。

「何か映ってるの?」

「ハーグ」

「ハーグ?誰?」

「犬。飼っていたの、ずっと」

「犬かぁ」

「でも、いなくなっちゃって」

「それが、この日なの?」

「この前の日かも、朝、お散歩に連れて行こうかと思ったらいなくなってた」

「そう。どんな犬?」

「雑種なんだけど、白い鬣みたいのが、首の周りにあってね」

「ん?待って、なんかあったなぁ、犬の映像、どれだっけなぁ」凌は、しばらく記憶を辿り、荒いフィルムの映像に映る犬を思い出した。

「わかった。今見てるビデオじゃなくて、カメラマンがプライベートで昔の8ミリフィルムを回してて、そこに映ってたと思う、白い鬣の犬が」

「ほんとに?あるの?そのフィルム?ここに」

「それは、さすがに持ってないけど、カメラマンに聞くことは出来るよ。フィルムもまだ持ってれば借りれると思うけど」

「佐久間くん、お願い」

沙苗の真剣な表情に圧されて、その場でカメラマンに電話をした。捨ててはいないから探せばあるはずと言うので、お願いした。一週間くらい待ってほしいということだったので、連絡を貰う約束をして電話を切った。

「よかったね、多分、見つかるよ」

「ありがとう」沙苗は、その犬のことを思い出しているのか、どこか遠い目をしていた。そんなことがあって、それ以降はもう凌の作品を見続けるテンションではなくなってしまったので、二人で夕食を作ることにした。作りながら、沙苗にハーグのことを少し聞いてみた。

「ハーグは、なんでいなくなっちゃったんだろうね?」

「わからないけど、ルーマニアからずっと一緒だったの」

「ほんとに?」

「私が慣れない海外の生活で、淋しいだろうからって、父がプレゼントしてくれて。だから、アイルランドでいなくなった時はもう十五歳くらいだったのかなぁ。ずいぶんなおばあちゃん犬よ。だから、そんな遠くまで歩けるはずはないんだけど」

「そっかぁ」

「だからね、父と母は、ハーグはもう自分の最期を知って、どこか人目のつかないところでひっそりと天国に行ったんだって慰めてくれたけど。私がちゃんと様子を見ていれば、最後を看取ってあげれたんじゃないかって」

「まぁ、とにかく、カメラマンの連絡を待とうよ。フィルムが手に入ったらここで見よう」凌はそう言って、なんとか話題を変えようと話のネタを考えてみたのだけれど、互いに共通する出来事があまりにも少ないことに改めて気づいたのだった。それでも二人で夢中で料理をして食べてお酒を飲んで、ということを繰り返していると時間は自然と前に進んでいった。凌も沙苗も、それなりに料理は出来て、味の嗜好も結構相性がいいと互いに感じていた。食の好みが違うと、なかなかつらいものがあることは、二人ともそれなりに年齢を重ねているので身をもって知っている。そこが合っていることを知れたことが、その日の二人の大きな収穫だった。終電の時間もすでに過ぎていたので、沙苗は泊まっていくつもりなのだろうと凌は思っていたのだけれど、沙苗はキッチンを片付け終わると

「佐久間くん、タクシー呼んでくれる?」と言った。凌は一瞬、「泊まっていけば」と言いかけたのだけれど、沙苗の言い方があまりにも事務的だったので、踏みとどまり

「了解」とだけ答え、タクシー会社に電話をした。帰り際、沙苗は

「ハーグのことお願いね」と言ってタクシーに乗り込んだ。

「了解、おやすみ」と凌は軽く手を振り、沙苗も「おやすみなさい」と小さな声で応え、タクシーは深夜二時の街に消えていった。






「久しぶり、どうぞ」と笠間に言われる。週末を沙苗と過ごすことが多くなって、笠間のカフェにくるのは、ずいぶん久しぶりだった。

「香奈ちゃんからちょっと聞いたけど」と笠間は、さっそく沙苗の話題に入る。

「うん、どんな話になってる?」

「凌くんは初恋のやり直しをしている、って。どういうこと?それ」

「まぁ、そのままだけど」

香奈は笠間にどんな風に話をしているのだろうか。何をどこまで話しているのだろうか。想像していても仕方がないので、そのまま質問をする。

「香奈ちゃん、何をどこまで話してる?」

「さぁ、全体像を知っているわけじゃないから、どこまでかは知らないけど、この前の土曜日は、凌くんに電話したら、振られたって、ここに来たよ」そうか、あの電話の後、香奈はここに来たのか。

「そうか。すごい偶然で、高校の時に好きだった娘に会ったんだよ、二十年ぶりに。正確には二十年以上」

「だからって、なかなか親密にはならないでしょ、いまさら」

「普通は、そうかも知れないけど、今回はちょっと、ちがって」凌自身も、こんなに沙苗に惹かれることになっている今の状態を上手く受け止めきれていないので、笠間にそれを正確に伝えられるとは思えなかった。

「偶然って思えるかも知れないけど、どこかに繋がることになるきっかけが大抵は隠れているんだよ、そういう場合」

「そうなのか?」

「気がつけなかっただけでね」

会わずにきた二十数年の期間に、そういう出来事があったとは凌には思えなかった。それは、笠間が言うように、ただ気がつけなかっただけのことなのだろうか。だとしたら、いつ、なにが二人をこうして再会するように仕向けたのだろうか。

「あっ、香奈ちゃん、来たよ」と笠間がガラス窓の方に目を向ける。外から香奈が手を振っている。

「凌くん、いたんだ」

「いまさっき、来たところ」

「どう?沙苗さんとは」

「ずばり訊くね」

「他に訊き方ある?」香奈はいつでも上機嫌だ。今日もいつもと変わらず、身体全体からパワーというか何か上に向かっていくオーラのようなものを発している気がする。それはまだ二十代という年齢によるものなのか、香奈自身が持っている個性なのか、いずれにしても凌には少し羨ましいものだった。四十歳を超えた凌は、いままで自分が上機嫌で上向きだと感じたことはなかった。それなりに好きな仕事もしてきて、端から見れば順調な人生だと思われていたとしても、凌自身は、常に一番欲しいと思ったものを手にすることができずにきた人生だと感じている。それは、沙苗との関係にも当てはまる。沙苗をいつまでも手にすることが出来なかった人生。それがいままでの凌の人生だった。再会した今が、それを変える時だと感じていた。その為には、香奈のようパワーが必要なことも。

「香奈ちゃん、本当に応援してくれる?」と凌はストレートに訊いてみた。

「いきなり、なに?」

「もう沙苗と離れるわけにはいかないんだ」

「どうしたの?凌くん、大丈夫?」

「大丈夫だよ、この歳になってようやくわかった。出会ってしまったらもう仕方がない」

「ようやくかぁ」

「そう。だから香奈ちゃん、これからどうすればいい?」

「私は、沙苗さんじゃないから、知らない。彼女がどうしてほしいかなんて。でも」

「でも、なに?」

「きっとね、沙苗さん、またどっかに行っちゃうよ、早くしないと」

「それは、困る。またどこか知らない国に行ってしまって会えなくなるのは」

「だったら、とにかく急ぐことね」

なんだかわからないけれど、香奈の言うことは的を射ていると思う。ハーグの映像を待たずに沙苗と会った方がいいのだろうか。でも沙苗は今、ハーグのことで頭がいっぱいのはずで、そのことを脇に置いて、自分とのことを進めるのは違う気がした。ハーグのことと一緒に、この先のことも話をしようと思う。その日の夜、カメラマンから連絡があり、フィルムが見つかったという。ただ、いつもならオリジナルフィルムからデジタルデータに変換して保存しているのだけれど、ハーグの映像のデジタルデータが見つからないと言う。フィルムを投影すれば見れるのだけれど、あえて古い機材とそれ専用のフィルムで撮影しているので、何度も映写機にかけると破損してしまう可能性があると言う。万が一のために、映写機を凌の家に持っていって見るようにした方がいいのでは、と提案してくれた。凌には専門的なことはわからないので、カメラマンの提案通りにうちに来てもらうことにした。沙苗には、ざっと経緯を説明して、カメラマンと三人で今週末にうちで見ることになった。






「とりあえず、出来るだけ暗くして」とカメラマンの高井が映写機とスクリーンをセットしながら言う。凌はリビングの大きな窓はシャッターをしめ、小窓にはダンボールを当てて光を遮った。

「全部で二分半くらいだから。音声は無し」

と高井が言う。

「えっ、音はないんですか?」と沙苗。

「古い機材だから。無声映画ってあるでしょ?あれと一緒だと思ってくれれば」

「なるほど」

「じゃあ、いいですか?回しますよ」と高井は映写機の再生スイッチを入れた。カラカラと回転音がして、スクリーンに光が投影される。やがて、アイルランドの街中を歩く犬の姿が現れる。

「ハーグ」と言う沙苗の声がした。映像の中のハーグは、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来て、やがて止まったかと思うと、カメラを真っ直ぐに見つめて、何度も吠えていた。音声はないのだけれど、ハーグの吠える声が聞こえるようだった。吠え続けている途中でフィルムは終わった。沙苗は黙っている。高井と凌もしばらく言葉が見つからなかった。

「ハーグね、間違いなく」と沙苗が小さな声で言う。

「そうなんだ」

「何をしていたのかなぁ、ハーグ。何であんなに吠えていたのかなぁ。もう、歳だったから吠えることなんてなくなっていたのに」

「確かに、必死に吠えていたよね。何かを伝えようとしているみたいに」

「うん。高井さん、あの後、ハーグはどこへいったの?」

「はっきりとは覚えていないんだけど、歩いて来た方向に戻っていった気がするけど、何度も振り返りながら」

「この時、佐久間くんはどこにいたの?」

「高井くんのすぐ後ろから見てた」

「そっかぁ。高井さん、ありがとうございます。ハーグに会えて嬉しかったわ」

「いえ。たぶん、そんなにフィルムは痛んでいないみたいなので帰ってデジタルにしてDVDに焼いて送りますよ」

「ありがとう」と沙苗はキッチンに行って何か飲み物を用意しているようだった。高井は機材とスクリーンを手際よく片付けながら

「凌さんもDVD焼きますか?」

と尋ねる。

「お願いしようかな」

「わかりました。でも、沙苗さん、美人ですね」と高井は凌の耳元で囁いて、

「じゃあ、僕は帰りますので」とキッチンの沙苗に声をかけて、重い機材を抱え二階のリビングから一階の玄関へと階段を下り始めた。

「お茶いれてますけど」という沙苗の声に、

「ありがとうございます、大丈夫です」と言って高井は帰っていった。二人きりになると何を話したらいいのか戸惑う。沙苗は、ハーグの姿を見て、どこか心ここに在らずといった表情でお茶を飲んでいる。夕食にするには、まだ少し早い時間だし、お酒を飲む気分でもなかった。

「沙苗、また海に行かない?」

「今から?」

「うん。この前のあたりだったら一時間ちょっとで行けるから。どう?」

「そうね、この部屋にいるとずっとハーグのこと考えちゃうし。気分転換しよっか」

「じゃあ、すぐ出よう」

「うん。そういえば、ちょうど月の轍の歌のCD持って来たんだ。これ聴きながら行こっ」

沙苗が助手席に乗り込む時に、香奈の言った言葉を思い出す。「今度また海に行くなら、素足の砂は綺麗に落としてから助手席に乗るように沙苗さんに言ってね」と。今日も砂浜を素足で歩くつもりだった。そして、二人の未来について話が出来ればいいと、凌は考えていた。海が近づくにつれて、自分が緊張していることに気付いていた。何からどう話をすればいいのか、考え始めると言葉が見つからなかった。

「今日は、雲がないから月の轍が綺麗に見えるかもね」とCDに合わせて鼻歌を歌いながら沙苗がいう。

「この月の轍の曲はなんていうタイトル?」と凌は尋ねる。沙苗は、CDの裏を見ながら

「素足が誘う午後」と答え

「またビーサンないから、私たちも素足ね」と嬉しそうに言った。

この前来た時よりも海は穏やかで、夏の気配はもうどこにも無く、山の方から秋の風が流れて来ていた。砂浜に降りる手前で沙苗は立ち止まる。風になびく髪から微かに甘い香りがする。

「ねぇ、ほら、轍、綺麗よ」

目の前の海に、月の灯りが真っ直ぐな道を作っている。その灯りに導かれるように砂浜に降りる。この前のように素足になって。ひんやりとした砂の感触が確実に季節が動いた事を知らせる。沙苗は水際まで行って、時折打ち寄せる波と追いかけっこをするように走ったりしている。まるで少女のようだと凌は思う。スカートの裾を少し濡らして凌のところまで戻ってきて

「やっぱり、水、冷たいよ、夏とは違うね。ちょっと持ってて」と左手に持っていた革のパンプスを凌に渡す。沙苗が濡れたスカートの裾を絞ると水が数滴落ちた。

「結構、濡れちゃった」

「暗いからよくわからないけど」

「そのうち乾くか。ありがとう」と言ってパンプスを凌から受け取って

「あの辺に座る?」と階段になっている堤防の方に歩き出した。砂に足を取られてよろけそうになった沙苗の腕を、凌は反射的に掴み、そのまま抱き寄せた。しかし凌の腕の中に沙苗がいたのは一緒で「ありがとう」と言ってするりと腕の中からすり抜けた。凌は照れ隠しに「逃げられた」ときちんと沙苗に聞こえるように笑いながら言う。

「逃げてやった」と沙苗もおどけて見せてくれて、その場の空気は気まずくならずに済んだ。階段に座ると沙苗が話し始める。

「今の会社ね、一年契約だから、もうすぐ更新なの。続けるかやめるか決めないと」

凌は、香奈の言った通りだと思う。沙苗はまたどこかへ行ってしまうのだろうか。

「やめるつもり?」

「どうしよっか?」

「僕に訊いてる?」

「うん、佐久間くん、どうしてほしい?」突然の質問に凌は戸惑う。答えは決まっている、このまま東京にいてほしい。それだけだ。でも、それをどう伝えたらいいのか迷う。会社に残ることは、東京にいるということだけれど、やめることイコール東京を去るということにはならないと、咄嗟に思った。

「やめてもやめなくもいい。近くに居てくれれば」凌は、そのままを口にした。

「えっ、それどういうこと?」

「そのままの意味だよ」

「なんか、それ、告白にも聞こえるけど」

「そのつもりだよ。もうどこにも行かないでほしいと思っている。こうして再会したんだから。今度は後悔したくない。あの時、高校の夏に、僕は沙苗に告白するつもりだったんだ。そして、どうやってキスをしよう、なんて考えてた。まさか外国に行くなんていう話になるなんて考えてもいなかった。でも、現実は、頬にキスをして、何も言えずに別れてしまった。そして、そのまま二十年以上経ってしまって、今がある。過ぎて行ってしまった二十年は、もう仕方がない。いまさらやり直したり取り戻せたりするわけじゃないから。でも、これから先の時間は沙苗と一緒にいたいと思っている。告白以外の何物でもないね、これは」沙苗は黙ったまま聞いている。

「ごめん、ちょっと一方的に話し過ぎた」

「いいの、ありがとう、嬉しくて、言葉が見つからないだけだから。まわりくどい質問してごめんね。私も素直に、一緒にいたいって言えばよかったのにね」

月はさっきよりも水平線の近くにあって、青く煌めく轍を作っている。凌は、ようやく言えなかった思いを口にすることが出来て、身体全体がふわふわと海の上を漂っているような感覚がしていた。いまなら、あの轍の上を歩いて進んでいけそうだと。

「ずっと、考えてたんだけど」と沙苗が再び話し始める。

「うん」

「ハーグが、なんであんな風にカメラに向かって吠えていたのかって」

「うん」

「本当は、ハーグはカメラに向かって吠えていたんじゃないんじゃないかなぁ」

「どういうこと?」

「佐久間くんに向かって吠えていたの、きっと」

「僕に?」

「そう、あの時、カメラのすぐ後ろにいた佐久間くんに向かって。正直言うとね、ハーグが初めて私のところに来た時、この仔犬を佐久間くんだと思おうって決めたの。そうすればいつでも佐久間くんと一緒だって思えるから。会えなくても寂しくないと。だから毎日ハーグを佐久間くんだと思っていろんな話をしていたの。その日の些細な出来事とかをね。佐久間くんの知らない私をハーグは全部知っているってことね。そんなことを十五年もしていたらハーグは、もう佐久間くん同然だし、佐久間くんのことはなんでもわかるようになっていたんじゃないかな、きっと。そうしたら突然、佐久間くんが、いつもハーグが散歩したり遊んだりしているところに現れたの。ハーグは気づいたのよ、きっと、私が思い続けていた佐久間くんとは、この人なんだと。なんて、ありえない話だけど。それで私の目を盗んで、佐久間くんを呼びに行ったのよ。沙苗はここにいるよ、付いて来てって。なんてね」

「それで、ずっと吠えていたのか」

「妄想よ、私の。でも、いつも吠えないハーグがあんな風になるなんて、そのくらいの理由があってもおかしくないんじゃないかって」

「僕が気づいてあげていたら、あの時、沙苗に会えたのかも?」

「でも、いいわ。いまこうして一緒なんだから」

車に戻り、沙苗は助手席側のドアを開けて

「また、素足のままでいい?」と尋ねる。凌は一瞬、香奈のことを思ったのだけれど

「いいよ、そのままで」と答え、沙苗の素足に付いた砂が助手席の足元に落ちた。 






都内で打ち合わせがあって、空き時間ができたので香奈に電話をしてみた。

「珍しい」開口一番に香奈はそう言う。

「凌だけど」

「知ってる。どうしたの?」

「お茶でもどうかと思って。報告もあるし」

「あっ、わかった。なんかいい話っぽい。どこにいるの?」

「表参道」

「じゃあ、行く。私、お腹空いてるから、まい泉でもいい?」

「またトンカツ?」

「だめ?」

「いいよ、じゃあ、二時くらい?」

「了解ー、あとでねー」

と香奈は電話を切る。やはりいつも通り上向きなオーラだった。ロースカツを頬張る香奈を前に、沙苗に告白したことを伝える。詳しい会話のやりとりは省いて、事実と結果だけを簡潔に。

「やったね、おめでとー」口にライスを頬張ったまま香奈は言う。

「ありがとう。香奈ちゃんのアドバイス通り急いで良かった。ちょうど今の会社との契約の更新が迫っていたみたいで、どうしようかって言ってて」

「恩人ね、わたし」

「トンカツおごるよ」

「それだけ?」

「冗談、ちゃんとお礼するよ」

「じゃあ、考えとく。欲しいもの。私からも、相談」

「何?」

「お姉ちゃんちでね、仔犬が生まれたの、三匹。見て、可愛いでしょ」と香奈はスマホの写真を凌に見せる。白くてコロコロした仔犬が、お母さん犬のお腹のあたりで眠っている。

「誰か、貰ってくれる人いない?私も飼いたいけど、今のマンションだと無理だから。知り合いとかで、いたら、教えて。一応、ちゃんと面倒見てくれる人かどうか、お姉ちゃんが会って決めることにはなるんだけど」

凌の頭の中をハーグのことがよぎる。ハーグも沙苗のところに来た時はこんな感じの仔犬だったのだろうかと。

「その写真、送ってくれる?ちょっとあてがあるから聞いてみるよ。ちなみに犬種は何?」

「ミックスよ、雑種。ヨーロッパの方のなんとかっていうのと、柴が混ざってるとか言ってたけど、詳しく知りたい?」

「いや、大丈夫。その写真だけで」凌の心の中では、もう沙苗にプレゼントして、みんなで一緒に暮らすことに決めていた。ハーグと名付けることも、沙苗が許せばそうしようと思った。





沙苗は、会社の契約を更新せず「失業保険を貰って少しのんびりする」と連絡をしてきた。この前、砂浜で告白をして、二人のこれからが見えてきたはずなのだけれど、凌は、まだ沙苗がどこかに行ってしまうのではないかという薄っすらとした不安を抱えていた。それは、きちんと籍を入れて一緒に住み始めれば消えるものだと思えるのかと言えば、そういうものでもない気がしている。もし沙苗に、そんな不安を口にしたとしても恐らく、大丈夫よ、どこにも行かないわ、と言うことはわかっている。それでも、と凌は思う。ハーグを飼うことは、そんな不安を少し和らげてくれるのでないかと思ったりもしている。早く仔犬の写真を見せて、沙苗の喜ぶ顔が見たいと思い、夕食の誘いのメールを入れる。この先、平日は、ほぼ毎日送別会の予定があり、確実なのは今度の土日だと返信が来る。そんなには待てない、というのが本心だけれど仕方がないと思わなくてはならないと気持ちを抑える。送別会終わりの深夜に会おうと思えば会えるだろうけれど、もう少し健全な時間に話をした方がいいように思う。土曜日の昼間に約束をして、香奈には、しばらく返事を待ってもらうようにお願いをした。

「いいけど、他にも欲しいって人がいたら一匹だけ残して、先に渡しちゃうかもよ?選べなくなるけどいい?」

「それはそれで縁だから」と凌は、根拠はないのだけれど、ハーグとなる仔犬はちゃんと残ってくれる気がしていた。連日の送別会でぐったりしている沙苗が来たのは、土曜日の午後三時前だった。

「ごめんなさい、起きれなかった」

「お疲れ様、お昼は食べた?」

「何も、まだ、何かある?食べ物」

「お昼に買ったサンドウィッチなら」

「それで、いいわ。いい?貰っちゃって」

「いいよ、コーヒー淹れるよ」

「ありがとう」

沙苗は、本当に疲れているようだった。

「外資系なのに、こういうところは日本人ぽいの」

「日本人ぽい?」

「送別会を名目にしてただ飲み会したいだけ、ほとんどの人は」

「断ればいいのに」

「難しいわ、あっちを断ってこっちは行くとか出来ないし、中には本当にお世話になった人もいるしね」

「そうね、それに男どもはみんな沙苗と飲みたいんだよ、きっと」

「こんなアラフォーと?」

「アラフォーだから。いまの若い子はお酒自体飲まないでしょ?」

「そうなの、来るのはほとんどおじさん達」

「でも、もう終わったんでしょ?」

「うん、今週で終わったから。来週からはのんびりよ」

沙苗はサンドウィッチの残りをペロリと食べきって、コーヒーカップだけを持ってソファーに沈み込むように座った。たぶん話しかけなければ、そのままうたた寝をしてしまいそうだった。とりあえずカメラマンの高井からこの前のハーグのDVDが届いていたので、沙苗の分を忘れないうちにと思い渡した。

「流してくれる?そのテレビで見れる?」

「うん、いいの?」

「大丈夫よ、泣いたりしないから」と沙苗は軽く笑いながら言う。再生を始めると沙苗はすぐに寝息をたてて寝てしまった。凌は、リピート再生で何度もハーグの吠える姿を一人で繰り返し見ていた。そうすればハーグが伝えようとしていたことがわかるかもしれないと思って。無音の白黒画面の中でハーグは必死に吠えている。カメラの方をじっと見ながら。いや、そうではなくカメラの後ろの自分に向かって。でも、ハーグが伝えようとしていることは、やはり凌にはわからない。それがもし、沙苗の居場所を伝えているのならば、ハーグは僕に沙苗と会って、どうして欲しかったのだろうか。アイルランドの田舎町で、十五年ぶりに会う初恋の相手。突然、目の前に現れた沙苗に、自分は何ができただろうか?そこまで想像してみる。告げられなかった想いを口に出来ただろうか?会いたかったと抱き寄せて口づけが出来ただろうか?どれも無理だ。もし会っていたとしたら、また、想いを告げられずに、また別れを繰り返すだけだったに違いない。そうなっていたら、今の二人もなかったかもしれないと思う。会えなくて良かったのだ、あの時は。今こうして、隣には眠る沙苗がいるのだから。スマホにある仔犬の写真とテレビの中で吠えているハーグを見比べてみる。この小さな仔犬が、ハーグのように成長する姿はまだ想像できない。仔犬は、まだモコモコとした白い塊でしかない。隣で眠っていた沙苗が、いつのまにか起きていて寝ぼけたような声で言う。

「ハーグね」

「うん、吠えてるよ」

「仔犬の時のハーグ」

「これ?」

「まん丸で小さかったの。ふわふわの白い毛に覆われてて」

「沙苗、これは、ハーグじゃないよ」

「なに?」

「この犬を飼おうかと思って」

沙苗は、驚いたような顔をして沈み込んだ体を起こして、凌のスマホの写真に顔を近づける。

「ハーグそっくりよ、でも」

「そうなんだ」

「どうしたの?この仔犬たち」と尋ねる沙苗に、香奈のお姉さんが飼い主を探していることと、三匹のうち二匹は、もしかしたらもう引き取り手が決まっているかもしれないことなどを説明した。

「この仔がハーグよ」と沙苗は、右端に写っている一番小さな仔犬を指差した。

「一緒に暮らすことで、いい?」

「もちろんよ、名前もハーグよ」

「香奈に連絡してみる、すぐに」

凌は、香奈に電話をかける。

「もしもしー、凌くん?」と大きな声が聞こえる。隣の沙苗にも聞こえたようで、飲み込もうとしていたコーヒーにむせていた。凌が、一番右の子がいいんだけど、と言うと

「ほんとにー?ちょうどその子が残ってる」と香奈は驚いてさらに声が大きくなる。沙苗も隣で驚いているかと思い視線を向けると、当然だと言わんばかりの表情で頷いていた。すぐに迎えに行くことにして、翌日の日曜日に香奈と三人で香奈のお姉さんのうちに行くことになった。


 日曜日、沙苗のマンションに寄ってから香奈を迎えに行く。沙苗が香奈に会うのは初めてだったので、凌は少し緊張した。香奈のマンションのエントランスで、お互いに自己紹介をしあって、ひとしきりぎこちない会話が続いたのだけれど、香奈が

「私、凌くん、って呼んでるんですが、いいですか?」と沙苗に尋ねてから、砕けた会話の流れになっていった。

「私は、佐久間くん、なの。もともと同級生だったから。でも、結婚したら、佐久間くんは変でしょ?だから、私も、香奈ちゃんみたいに、凌くん、でいいって言ったら、嫌だって」

「なんで、嫌なの?」と香奈が凌に訊いてくる。

「なんとなく、違和感がある」

「慣れるよ。そしたらさぁ、私が、凌くん、じゃなくて、佐久間さん、にするから、沙苗さんが、凌くん、にすればいいんだよ、ね」

「わざわざ決めなくてもいいよ、そのうち自然と決まってくるもんだよ」

「そうかなぁ、ねえ、沙苗さん」と香奈は沙苗に同意を求める。

「凌くん、で統一しよっ、ねっ、香奈ちゃんは、いままで通り、私も凌くんにする。いい?」

「賛成!」と香奈。

「なんでも、いいよ、もう」と凌は二人を車に乗せる。沙苗は

「私、香奈ちゃんと話したいから後ろでいい?」と言い、香奈と二人で後部座席に座り、まるで凌が二人の選任運転手のような図柄になった。

「じゃあ、凌くん、安全運転でお願いします」と沙苗がわざとおどけて言う。

「なんか、いい感じ」と香奈も楽しそうだった。走り出すとすぐに凌のスマホからメールの着信音がした。信号待ちでメールをチェックすると、後部座席の香奈からで

___沙苗さん、すごい美人!

とだけあった。ミラー越しに香奈を見ると、いたずらそうな視線を凌に向けていた。後部座席で女性二人は、何を話しているのかは聞き取れないのだけれど、ずっとおしゃべりをしている。仲良くなってくれたようで、凌はホッとする。ナビの言う通りに三十分くらい走ると香奈のお姉さんの家に着いて、香奈以上に元気でさっぱりとしたお姉さんから、これと言った面接めいたこともなく、あっさりと仔犬を引き取り、ハーグはその日から凌のうちの家族となった。沙苗が正式に引っ越してくるまでは、ほぼ凌が世話をすることになった。日中、沙苗が用事がないときは凌の家に来て、ハーグと一緒にいてもらって凌が仕事に出ることもあるのだけれど、それ以外は、凌とハーグは常に一緒にいる。犬を飼うのが初めての凌は、沙苗にしつけの仕方を教わり、わからないことはネットで調べたりして、ハーグとの時間を楽しんで過ごしていた。ハーグとの生活が始まって二週間くらいが経った頃、沙苗がチューリッヒにいるお母さんに会いに行ってくることになった。次の仕事を始めることになると、時間が取れなくなるかもしれないから、今のうちにと言う。

「籍を入れて一緒に住む前にお母さんに報告してくるね、お父さんのお墓にも。今回は一人で行くけど、次は一緒に行こうね。お母さんも、もう歳だから、そんなにのんびりはしていられないんだけど」

「わかった、来年には行こうよ」

「うん、そう言っておく。一週間だけハーグと二人で待ってて」

「ハーグを沙苗だと思って、毎日の出来事を報告するよ」

「昔の私と一緒ね」

「十五年は無理だけど、一週間なら平気だよ」凌はそう言いながらも、沙苗がどこか遠くに行ってしまうという、いつもの不安が頭をよぎる。もし、今、沙苗がいなくなったら、凌は、沙苗が昔してきたようにハーグと毎日を過ごして、いつか会える日を待ち続けることになるのだと思う。そして、また同じように離れ離れの二十年が過ぎていく。まさかとは思いつつも、旅の準備をしている沙苗をチラチラと目で追ってしまう。

「しつこいようだけど、帰って来てね、必ず」

「大丈夫よ、大丈夫」と言う沙苗にハーグも鼻を近づけて何かを告げているようだった。

「ハーグ、凌くんを頼んだわよ」沙苗はハーグにだけ聞こえるように、そう囁いたのを凌は聞き逃さなかった。






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by ikanika | 2018-08-28 13:22 | Comments(0)

六月のふたり

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短編を一つ、掲載します。

『六月のふたり』というタイトルです。

雨にまつわる記憶の断片を紡いでいったら、

ストーリーが立ち上がってきた、という感じです。

いずれ、この二人を主人公に少し長いものを書いてみたいと

思っていますが、今回はこれで。

雨の六月に読んでもらうのが良いかと思っています。

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六月のふたり





雨の季節だった。

空気中の水分がどんどん滲み出てきているようで、

僕の学生服をしっとりと湿らせていた。

太陽が出ていなかったせいで一体それが何時くらいだったのか、よく覚えていない。

学校帰りだったから三時過ぎだったのかもしれないし、

もっと夕暮れに近かったのかもしれない。

僕は君と二人きりで何をして過ごせばいいのかわからなかったから、

ただ馬鹿みたいに歩き続けた。

立ち止まってしまったら、

もうその時間は終わってしまうような気がしていたのかもしれない。

何もない住宅地を、ただあてもなく歩いた。

だんだんと住宅もまばらになっていって、

雑木林の中を道が伸びているだけになっても、構わず歩き続けた。

雨は降っていなかったけれど、湿度の高い空気のせいで、

僕も君もしっとりと濡れているようだった。

手を繋いでみたかったけれど、そのタイミングがわからなかった。

だから、ただ並んで歩いた。

時折、車が通りかかる道だったから僕は君よりも車道側を歩いた。

そうすることで、君に気に入られようとしていたのかもしれない。

ただ、そんなことだけで。

会話という会話もできなかった。

もう別々の学校になってしまったから何を話したらいいのか思いつかなかった。

共通する話題なんて存在していなかった。

友達や先生や部活のこと、

同じ学校に進んでいたら話題はたくさんあったはずなのに、

僕が思いつくことと言ったら、

中学校時代の思い出とテレビ番組のことしかなかった。

でも、

僕はただ君と一緒に歩いている、

手を繋ごうと思えば届く距離に君がいる、

ということだけで、よかった。

だから、黙っていても、それでよかった。

君は退屈だったかもしれないけれど。

歩き続けた先に何かがあるとか、

明日からのことや、

もっと先の約束や、

更に二人の未来なんて、

そこには存在していなかった。

僕にわかっていたのは、

ただ、今、君と二人でいる、ということだけだった。

横を歩く君が時々笑っていたことを覚えているけれども、

何を話して笑ってくれたのかは覚えていない。

僕は君を本当に笑わせることができていたのだろうか。

途中、歩き疲れてしまって、公園のベンチに座った。

しっとりと湿ったベンチに。

僕ら二人以外には誰もいない寂れた公園。

雑木林とたまにしか車が通らない道に挟まれた小さな公園には、

滑り台もブランコもなく、ただベンチと広場があるだけ。

どのくらいそこに座っていたのだろうか、

ずいぶんと長い時間だったような気がする。

ベンチに座って流れていく時間は、濃密なものだった。

文字通り世界には僕と君の二人しか存在しないという時間に思えた。

それは、

つまりこの先もずっとそういう時間だけが流れていくということを意味していた。

そんなことはあるはずがないのに、僕はそう思っていた。

現実は、辺りは確実に歩き始めた時よりも暗くなってきていて、

もう、帰らなくてはいけない時間が迫ってきていた。

だから来た道をまた歩いて引き返した。

どこかに行くあてがあったわけではないから、

そうすることが正しい選択だと思った。

このまま二人でどこかに逃げてしまおうなんて、

映画のワンシーンのようなことは思いつかなかった。

今思えば、冗談でも、このままどこかに行ってしまおうよ、

なんて言えたらよかったと思うけれど。

帰り道で一台の車が僕らの脇をゆっくりと追い越していった。

見覚えのある車、父の車だった。

僕は運転席の父と目が合ったような気がした。

でも、止まらずに父の車は過ぎ去っていった。確かに父だった。

何をしていたと思っただろうか?

女の子と二人で暗くなり始めた道を歩いていた僕を見つけて、

父はどう思ったのだろうか?家に帰ったら何か言われるだろうか、と考えた。

君には、それが父の車だとは言わなかった。

ただ、なんとなく、理由はなかった。

帰り道は一歩一歩がさよならに近づいていく。だから、ゆっくり歩いた。

でも、どんどん辺りは暗くなっていって、

横を歩く君の顔もよく見えなくなっていった。

僕は、今度、いつ会える、って何度も頭の中で呟いていた。

今度、いつ、今度、いつ。

君を家の前まで送って、

そこで実際に口にしたのは、じゃあ、またね、だった。

何の約束もない、またね、という曖昧な言葉。

君はただ頷いていた。

家に帰ると父は何も言わなかった。

あの車は確実に父の車だった、そして運転席の父と目が合ったというのに。

父が何も言わなかった理由は訊かなくてもなんとなくわかったつもりでいた。

初めて、父と僕が男同士だということを感じた夜だった。

じゃあ、またね、の約束から三年が経ち、

お酒を覚えたばかりの大学生の僕は駅のコンコースで君を抱き寄せていた。

同窓会から二人で抜け出して。

いいんだよ、大丈夫、とか言いながら酔いに任せて馬鹿な若者は君に口づけをした。

三年の月日が、僕らにもたらしたものをわかろうとはせずに、

ただ体が求めるがままに。

終電に駆け込むサラリーマンに冷やかされながら。

僕はそのまま電車に乗り、君は同窓会の会場へ戻っていった。

その時、別れ際に、またね、とか、じゃあね、とか言ったのだろうか、記憶にない。

そしてまたしばらく会うことはなかった。

社会に出て大人になったつもりの僕は、

君に会っても、もう前のようには心が乱れないと思っていた。

でも、それは違った。

僕は君の前ではいつまでも雨の季節に黙って歩き続けた僕でしかなかった。

大人になった君は、僕に笑いかけながら話をして、

肩を寄せ合って記念写真におさまった。

もう昔のことは忘れたよ、とでも言っているように。

でも、僕は忘れられずに覚えている。

もう戻れない日々のことを。

さらにずいぶん大人になって、僕はやっと君の手を握った。暗い海岸で。

砂浜を君の手を引いて歩いた。僕が握った手を君は握り返した。

そうすることが当たり前のように。

朝日を見ながら話をした。

遠くに過ぎ去った昔のこと、

目の前に横たわる今のこと、

見えない未来のこと。

その出来事が現実だったのか夢だったのか、

今となっては少し記憶が曖昧になってしまっている。

それはたぶん、僕にとっては夢のような時間だったから、そんな風に今は思う。

今度、君に訊いてみたい、

僕は君の手を引いて砂浜を歩いたよね?

朝日を見ながら話をしたよね?と。

君は何と答えるだろうか。

それは夢なんじゃない?と言うだろうか。

そう言われたら、僕も、そうかもしれない、と答えるだろう。

そういうことにしておくべき事なんだと理解したふりをして。

僕は君のことがずっと好きだった。

君はそのことをよく知っていた。

でも、その先にあるものはいつも曖昧なままで、

いつまでたってもそれは変わらなかった。

たぶん、この先もずっと、そうやって、時は流れていくのだと思う。

今、もし、君に会ったら、

僕はまたその手を握り、抱き寄せるかもしれない。

どこかに繋がる未来がないとしても。

また雨の季節がやってきて、僕は君と歩いた道を思い出している。

肌にまとわりつくような湿度と、しっとりと濡れている制服の感触。

握ることができなかった君の手と公園のベンチや僕らを追い越して行った父の車を。

雨の季節は毎年訪れるけれど、

もう制服なんて捨ててしまったし、

あの雑木林や公園も宅地に開発されてなくなってしまっただろう。

父は運転免許証を返納し車も手放したと言っていた。

君は、どうしているだろうか?

変わらずにいるだろうか?

僕は変わらずに雨の季節に君を思い出している。

そして、こう呟く、今度、いつ会える、と。






また今年も雨の季節が来ました。

そうすると私はいつもあなたを思い出します。

高校生になったばかりの頃の、はじめてのデート。

あなたと何の変哲も無い住宅地を歩いたことを。

雨ではなかったけれど、湿度の高い空気は私たちの制服をしっとりと湿らせていて、

あなたの匂いがした。

別々の高校になってしまったから共通する話題がなくて困った。

だから黙って歩いていた。でも、私は楽しかった。

なんだか笑っていたように思う。

あなたが何か面白いことを話してくれたわけではないというのに。

車が通り過ぎるたびにあなたは私を歩道側に寄らせてくれた。

男らしくみせていたのかなぁ。

手を繋いでもいいと思っていたのに、そうしなかったのはなぜ?

湿度で身体中が湿っていたから、

それでもよかったのかも、って帰ってから思ったりしたけど。

歩き疲れて座った公園のベンチは、

湿っていて制服に跡がついてしまわないか心配だった。

でも、構わずに座っていた。ずっと長い間。

あなたの隣にいられることが嬉しかった。

座っている間、他には誰も来なかった。

ベンチと広場しかない寂れた公園。

世界には私たちしかいないような気持ちになった。

これからずっと二人だけの世界。

少し淋しい気持ちもしたけれど、あなたと二人なら大丈夫か、なんて思ったりして。

でも、どんどん暗くなってきてしまって、また来た道を帰ることにした。

本当は、

このままどこか知らないところへ行ってしまってもいいのに、って思ったけれど、

そんな勇気は無かった。

それに、

あなたはせっかく良い高校に入ったんだからそんなことはしないか、って思った。

でも、どうだったのかな?

同じようなことを思ってくれていたらいいのに、というのが本心だった。

帰り道、二人の横を車がゆっくり通り過ぎて行った。見覚えのある車。

あなたのお父さんだった。見つかってしまって大丈夫かってドキドキしていた。

でも、あなたは何も言わずにただ歩き続けていた。

気がついていないわけないのに。

それからしばらく会わなくなってしまったのは、

お父さんと何かあったからなの?ってずっと訊いてみたいと思っていた。

本当はどうだったの?もう、そんな昔のことを訊かれてもね。

あなたは家の前まで送ってくれて、じゃあ、またね、って言って帰っていった。

でも、ずっと会えなかった。

またね、がいつまでもやって来ない日々を過ごした。

そうやって三年が過ぎてしまった。

私は少しだけ他の人を好きになったりしたけれど、

いつもあなたのことがぼんやりと頭に浮かんできてしまった。

またね、って言っていたあなたのことが。

大学生になったあなたは、私を乱暴に抱き寄せた。

はじめての口づけは、お酒の匂いがした。

沢山の人が行き交う駅のコンコースで、恥ずかしかった。

どうして、って思ったけれど、でも、いいや、とも思った。

それでも、そこから先はまた曖昧になってしまった。

あなたは別れ際に何も約束をしなかった。

私も会いたい気持ちを伝えられなかった。

そのことをずっと後悔していた。

あなたはやっぱり違う世界に行ってしまったんだと思ったりして。

それでも、私も社会人になって少しだけ強くなった。

あなたに会っても、表面上は平気でいられるくらいに大人になった。

一緒に記念写真に写ることも出来た。

あたかも昔のことなんて忘れたような顔をして。

その写真を見るたびに、私は情けなくなった。

本当は泣いてしまいたいくらいだったのに、

馬鹿みたいにピースサインとかしている自分が嫌いだった。

しばらくして、また少し大人になった頃、あなたに会える日が来た。

あなたは、私の手を引いて、砂浜を二人で歩いた。

初めて私の手を握ってくれた。

その手を私が握り返した時に、

あなたが嬉しそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。

夜更けにいろんな話をした。

懐かしい昔のこと、

どうにもなっていない今のこと、

明るいはずの未来のこと。

でも、それは朝日が昇ると全て夢だったような気持ちになった。

今でもよくわからない、夢だったのか現実だったのか。

あなたの手の感触は覚えているけれども。

今日もまた雨が降っている。

曇り空で部屋は薄暗いから、今が何時なのか時計を見ないとよくわからない。

三時くらいかもしれないし、もうずいぶん暗いから五時過ぎみたいな気もする。

だとしたら、もうじき夕食が運ばれてくる。

あなたは今どうしているのだろう。

二人で歩いた湿度の高いあの道を思い出していたりするのだろうか?

湿ったベンチや制服の匂いや、

通り過ぎていったお父さんの車のことを覚えているのだろうか。

私は、よく覚えている。

そして、

またこの雨の季節が迎えられて嬉しい。

あなたを思い出すことができて嬉しい。

私は今、こう願っている、

もし来年も雨の季節を迎えられたら、

もう一度、あなたに会いたい、と。







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by ikanika | 2018-06-11 00:00 | Comments(0)

一人の居場所#41〜#49

ここにある散文は、

昨年の1月から今年の3月まで

カフェのお手洗いの壁に

掲出していたものです。


いくつかは、すでにこのブログに掲載している

小説のようなものの元になった文章なので

目にしたことのあるものもあるかと思います。

また今後、掲載する予定の小説の元になっている

ものも含まれていますので

いずれ小説の一部分という形で再登場すること

なるかと思います。


なんとなく“恋”という言葉を

あえて使ってみたいと思った時期なので

恋の話がいくつかありますね。


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一人の居場所 #41



きみが見ている景色を

ぼくが覗くには

きみにその場所を譲ってもらわなくてはならない

きみが見るその景色はきみだけのもの

いつもいつも譲ってもらうわけにはいかないから

想像することにする

きみの眼に映るそれを


繰り返し繰り返し想像していると

ほぼ同じ景色を見ることができるようになる

そうやってわかったことは

すぐ隣でぼくが見る景色とずいぶん違うということ

同じものを見ていても

すこし角度がちがうだけで

不思議とまったく別のものに見えてしまう


ぼくには正しく見えていたものが

きみには違って見えていた

ということは日常茶飯事

その正しさは

ぼくだけのもの

きみだけのもの


うまく想像できるようになるには

ただ繰り返すだけでいい

すこし時間がかかるかもしれないけれど


20170120









一人の居場所 #42



昼間からお酒を飲むことがあってもいいと、

その日は、そんな気分だった

特に大きな仕事が片付いたとか

何かからようやく解放されたとか

あるいは何かが上手くいったとか

そういう明確な理由があったわけではない

ただ、日差しが春に変わったな、と

だれもが感じるような日だっただけのことだ


友人のひとりは、春から希望の部署に配属になり、

また他の友人の娘さんは希望の高校に受かり、

かと思えば、

昔付き合っていた人は、ひとり海外赴任を命じられていて

自分はといえば、

この春の日に、ただカフェでお酒を飲んでいる


〝何かが上手くいってもいかなくても

春は平等に訪れ、柔らかい日差しが僕らをつつむ〟

というようなことを、

昔よく聴いていたバンドが歌っていたのをぼんやり思い出す

ワインで熱くなった頭で

その前後の歌詞を思い出そうとしたのだけれど上手く思い出せない

でも、ほんとうにそんなゆるい歌だったろうか

平等に柔らかい日差し、なんてね


すこし酔った帰り道の日差しは、確かに柔らかではあったけれど


20170217




一人の居場所 #42(2)


カフェから自宅までの帰り道に

小さな古本屋がある

いつも入口脇の百円コーナーをチラッと覗いてみるのだけれど

何も買ったことはなかった

店の奥まで足を踏み入れるには

少しの勇気が必要な空気を纏っている


昼からのワインの酔いも手伝って

その日は奥まで入っていった

白髪の老人が居眠りでもしているのだろうと

勝手に思い込んでいたせいで

レジに座っていた大学生風の男の子を見た瞬間

あっ、と声を出してしまった

でも、その男の子は手元から顔を上げることなく

ただ、あなたを認識してますよ

というような雰囲気を醸し出していた


もしかしたら、自分がお酒臭いのかもしれないと思い始めると

どんどん顔が赤くなっていくようで

本棚を物色することなど出来そうになかった

このまま出て行ってしまっても変な客だと思われそうなので

しばらくその場にただ立ち尽くしていると

「いつも百円コーナーご覧になってますよね」と

その大学生風が声を掛けてきた

ますます顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかるのだけれど

こういう時は、何も言葉が出てこない


20170331







一人の居場所 #42(3)


三ヶ月に一度、歯医者へ行く。虫歯の治療というわけではなく、

歯石を取ってもらったり、虫歯になりそうな歯はないかと調べてもらったり、

いわゆるメンテナンスだ。子供の頃から歯は丈夫で、

大人になってからは歯医者に通ったことはほとんどなかったのだけれど、

去年の正月にお餅を食べていたら歯が欠けてしまい、

仕方なく知り合いの紹介で歯医者に行き始めたら、

なんだかんだと治療を勧められて一年以上も通うことになってしまった。

歯医者曰く、もうこのくらいの年齢になると歯も劣化してしまうから仕方ないです、

と言うのだが、どうも釈然としない。自覚症状がない上に、

自分では、よく見えない場所だからなおさら懐疑的になる。

一応、医者が治療を勧める箇所の処置は終わったので

今はメンテナンスに通うだけだが、またいつ治療箇所を見つけられてしまうか

毎回ハラハラしてしまう。その歯医者の待合室で、

またあの大学生風に会ってしまった。治療を終えて処置室から出てきた彼は、

私を見つけて少しバツが悪そうな表情を一瞬見せて、

「こんにちは」と

さわやかに言い放った。私はといえば

「どうも、こんにちは。虫歯ですか?」

などと当たり前の質問をして、彼を戸惑わせてしまう。

「毎週水曜日に。通い始めたばかりで」

「そう」

「この前は、失礼しました」

「こっちこそ、私、酔っていたから。ごめんなさいね。また覗きに行くわ」

と、先日書店を訪れた際の挙動不審を詫びた。

「ありがとうございます、お待ちしてます」

「サイトウさん」と受付の女性が彼を呼んでお会計をしたので、

彼の名がサイトウという事があまりにも簡単に判明した。

「鈴本さん、どうぞ」と処置室から声がかかり、

私の名も簡単に彼に知れることになった。

お互いに軽く会釈をして、私は処置室へ入って行った。



20170505




一人の居場所 #43(1)




誰もいない真夜中の学校のプールに忍び込む夢を時々見る

水泳の苦手な僕は、優雅に泳ぐわけではなく、

ただぷかぷかと浮いているだけだ

決まって月が明るく、プールの水は透き通っていて

底のラインまで月明かりが届いている

飛び込み台に誰かが座ってスカートから伸びる細い足を

水にパタパタさせている

それは想いの届かなかった女の子で、彼女はすっかり大人になり

こっそりプールに忍び込んだ中学生の僕をたしなめる

けれども口元には微かに笑みが浮かんでいて

ただ、からかっているだけだということがわかる

「水泳の授業はサボるくせになんでプールに忍び込んでるの?」と。

「授業では、こんな風にぷかぷかしていられない。

水の中ではこうしているのが一番楽しい。

君はいつも優雅に泳いでいたね?まるで魚のようだったよ。」

「そうね、もしかしたら前世は、魚だったのかもしれないわ。

ねぇ、ひとつお願いがあるの。あなたは、絵が上手だったわよね。

私を描いてほしいの。でも、今の私ではなくてあなたと同じ中学生の私を。

よく覚えているでしょ?私のこと。その記憶の中の私でいいわ。

大人になってしまった今の私のことは忘れて。

だって、大人になるとどうしても、ずるい顔になってしまうから。

仕方のないことなの、生きていくためには。

あなたもきっと、そうなるわ、ずるい顔に。

たから、そうなる前のあなたに、そうなる前の私を描いて欲しいの。

どう、描いてくれる?」


どうして大人になったあの子が、僕にそんなことを頼むのか

事情がよくわからなくて、僕は混乱する。夢はまだ続いていく。


20170519









一人の居場所 #43(2)



夢の続き。

「もし、描いてくれたら、私はあなたに泳ぎを教える。

だって、前世は魚だったかもしれないから、

誰よりも上手く教えられるはずよ。

はっきり言って、そんな風にぷかぷかしているより、

クロールで泳いだ方が、きもちいいわよ。

そうしたら授業もサボる必要ないし、クロールをするあなたを見たら、

中学生の私はあなたを振らなかったかもしれないわ。

どう?素敵な提案じゃない?」

「君は、その絵をどうするの?」

「そうね、毎日一番眼に付く場所に飾るわ。

そして、眺めるの、もうこれ以上ずるい大人にならないようにね」

「そんなにずるいの?」

「ちょっと自分では嫌になるくらい」

「そんな風には見えないけど?」

「それが大人というものよ」

「そうなんだ。わかった、描くよ。中学生の君でいいんだね」

「ありがとう。出来上がったら教えて。クロールを教えにまたここに来るわ」

「了解。もし、クロールが出来たら君は僕と付き合ってくれるのかな?」

「それは、今の私にはわからない。中学生の私に、もう一度告白してみて」

「ずるいな、やっぱり、君は」


夢はそこで終わる。目覚めると寝室の一番眼に付く壁に

飾ってある中学生時代の妻の肖像画と目が合う。

隣で妻はまだ寝息を立てて眠っている。

僕は朝のジムに泳ぎに行く。

未だに上手く出来ないクロールの練習をしに。


20170519








一人の居場所 #44




恋の話をしようと思ったけど

それは秘密だったから

きみは誰にも何も話せない


いつも恋は秘密

秘密じゃない恋を

きみは知らない


「秘密じゃなくなった恋なんて、

気の抜けたソーダ水みたいなものだよ」

と彼は言う

「恋は秘密だから、良いんだ」と


わかるような、わからないような


でも、もう秘密は無しにして

秘密じゃない恋を味わってみたい、と

きみは思う


実際、秘密じゃなくなった恋は

泡のようにシュワシュワと消えて行き

それはもう恋とは呼べないものになった


代わりに

世の中にはソーダ水よりも

美味しいものがあることを知った


20170615








一人の居場所 #45



似顔絵を描く

きみが描いて、と言うから

その為に

じっと観察する

目や鼻の位置、くちびるの厚さ、

そんな風に見たのは

はじめてのこと


いくら観察をしても

上手く描けない

出来上がった絵は

全然きみじゃない


試しに

頭の中のイメージで描いてみる

すると

いつものきみが出来上がった


目の前にいるきみに

それを見てもらう

きみは言う

「あなたにはこういう風にみえているの?」

「いつものきみによく似ていると思うよ」

「ありがとう、出来過ぎよ」



20170819








一人の居場所 #46




「私はね、いろんな岐路があったとして、どこかの道を選んで

進んだとするじゃない、でもそれは自分で選んだように思えるけど

実は自分が選ばれただけなんじゃないかと思っているの。

自分の意思とか希望とかではなく。

あなたは、ほんとうに自分で選んできたって思える?

きっと、ここにいるのは、選ばれたからよ。選んできたんじゃなくて。

次にどの道を行くかは、自分では決められないわ。

世界はそういう風になっていると思うの。私がここにいる理由だって

正直全然わからないわ。ただ私なりに生きてきた結果として

いまはここにいるの。思うんだけど、自分では気がつかない

ほんの些細なことも、私たちは選択してきているのよ。

選んだなんていう感覚ではなく、ごく普通に日常的にやってきたことも

本当は全て選択肢があって、その中から選んでいるの。

そういう選択の蓄積に上に、今の私がいるの。

選択っていうとなんだかとても大きな決断みたいだけれど、

そういうんじゃなくて、上手く言えないけど。

そういう些細な物事を自分の意思でひとつひとつ選んできたって言える?」


「いきなり全ての選択を自分でしろって言われても難しいかもしれないけど、

少しでも自分で選んでみると、きっと何かが変わるはずだよ。

今までと全く同じということにはならないと思う」


「わかったわ。じゃあ、とりあえずひとつ選択してみるわ」


「何を?」


「それは、言えないわ。秘密にしておきたいの」


「それで、もう二つ立派な選択をしてるよ」



20171116









一人の居場所 #47




月あかりを頼りに、夜道を歩く

足元に冷気がまとわりつく

この先に安らげる場所があるはずだと

なんとか歩みを進めてみるけれども、

本当のところは、止めてしまいたい

もうその先には何もないのだと誰かが証明してくれたら

どんなに楽かと思う

その誰かが君であったら尚一層、楽になる

from M





時々、

自分の選択が正しかったのかどうか不安になります

ここに、ひとり取り残されてしまったようにも思います

私は、本当は誰かに導いて欲しいと思っているのかもしれません

歩むべき道を誰かに手を引かれて歩いて行きたいんだと

その手が、

あなただったらいいのに

fron W

                    



20171201









一人の居場所 #48




気がつけなかったことが

雨水のようにゆっくりと

君に染み込んでくる


君はただ、気づかないふりをして

乾いていくことを待つ


でも雨は降り止まず

いつまでも君に染み込み続ける


やがて君の全てが雨色に変わってしまった


今の君は

きれいな雨色だけれど

前の君が何色だったかを

君はよく覚えている


本当は

その色が一番自分に似合うということも



20180215









一人の居場所 #49




その指先に触れたいと

その声を聞いていたいと

その瞳に映っていたらいいのにと

考える


毎日が、もっと早く過ぎていけばいいのに

今が、もっと続けばいいのに

昨日を、やり直せればいいのにと

考える


知らないことがたくさんあって

知りたいことがたくさんあって

でも、

知りたくないこともたくさんあって


どうしたらよかったのか

答えが見つからなかったり

ああしたらよかった、って

後悔をしたり


きっと、それは恋だと

みんなは言う


たぶん、それは罠だと

君は思う



20180328






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by ikanika | 2018-04-20 20:17 | Comments(0)

バックシート

昨年の秋以来ですが、

小説をアップします。

秋以降、ずっと書いていて、

今回の物をふくめて三編書き上がっています。

全て大体、五万字前後の今までよりも少し長い物です。

原稿用紙で言うと、100枚から150枚くらいですね。

今までは、少しずつ連載というような形でアップしていましたが、

今回は、一回で最後まで掲載します。


「バックシート」は、

カフェを舞台に、様々な人が登場し、

それぞれの物語が綴られ、

そして、それぞれの物語が少しずつリンクしています。


少し長いので、

お時間のあるときに、

少しずつ読み進めてみてください。


カフェが舞台ですが、あくまでフィクションです。

イカニカでの出来事ではございませんので悪しからず。

ご感想などありましたら、

聞かせてくれると嬉しいです。

では。


cafeイカニカ

平井康二

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バックシート

                                           



 沙夜子は、夜勤明けの午後は必ずマスターのごはんを食べることにしている。カフェに着くと小さな声で「こんにちは」と言い、いつもの席に着き「ごはんと、コーヒーで、お願いします」とオーダーをする。いまの仕事をはじめてから、少しでも身体に良さそうなものを食べないと身体と心のバランスが取れないと感じている。カフェに行く時は、財布と、いわゆる名作と言われる純文学の文庫本だけを持参して、それをペラペラとめくりながらごはんを食べる。時間をかけて食べ終わる頃には夜勤疲れの身体と心が回復してくるのがわかる。ごはんを食べ終わってコーヒーを飲み始めると、大抵はカウンター越しにマスターとおしゃべりをする。まるで儀式のようにそれをもう五年近く続けている。マスターもその儀式に厳かに参加してくれている。今日はランチタイムが忙しかったらしく、マスターが洗い物に専念しているので、沙夜子は持って来た文庫本を開いて目を落とした。読んでいると言うよりは、ただ活字を目で追っているという感じで内容が頭に入って来ているわけではない。夜勤明けの頭にはそのくらいがちょうどよかった。最近、たまにマスターと自分との距離感を、他のお客さんが訝しんでいるような視線を感じる時があるのだけれども、沙夜子は気にしないようにしている。それは、そうすることしか今はできないのだから仕方がないと。祐未がいてくれて三人だったら、こんな風にはならないのに、と時折思ってしまうのだけれど、そんなことを考えている自分が嫌になる。マスターが洗い物の手を止めて、カウンターのすぐ向こう側に立っているのがわかっているのだけれど、沙夜子は、本から目を上げないでいる。真剣に読んでいるわけではないのだけれど。恐らくマスターは、窓際に座っている賑やかな女子学生たちの様子を見ているのだと思う。やがて、一人の男性客が入ってきて「いらっしゃいませ」と言ったマスターの顔に視線を向けてみた。少し苦笑いをして頭を軽く下げたのは、たぶん「うるさくてごめんね」という意味だと思う。沙夜子は、それくらいのマスターの心の動きは、もう手に取るようにわかる。






 午前中の会議がかなり長引いてしまって、優馬は一時半を回った頃にランチに出た。事務所から一番近いカフェは昼時を逃すと日替わりがなくなっていることがあるので、なかったからカレーにしようと決めていた。入り口の手書きのメニューを見ると、まだ日替わりはありそうだった。ドアを開けて店に入る。いつになく賑やかに感じるのは、珍しく向かいの大学の女子学生が三人いるからだとすぐにわかる。マスターと目が合うと、うるさくてごめんね、という表情だとなんとなく伝わってきたので、大丈夫の合図のつもりで右手を軽くあげてみた。マスターに意図は伝わったようで、苦笑いしながら頭を下げていた。いつもの日替わりを頼んで、女子学生から一番遠い席に着く。女子学生三人は、みんなカレーを食べていて、その中の一人がどれだけこのカレーが美味しいかということを残りの二人に熱弁をふるっていた。その女子学生は、日替わりを盛り付けているマスターに

「あたしはカレーが一番美味しいと思うんですけど」と言うのでマスターは苦笑いをしながら

「でもね、この日替わりの方がたくさん出るんだよ」と言う。

「えー?」と大げさなリアクションをして残りの二人に

「リナ、うるさい」と、たしなめられていた。それでも懲りずに

「だってこのカレー、マジおいしい」と言ってスプーンに山盛りにしたカレーを頬張っていた。マスターは、日替わりのお膳を運んできて

「あれだけ褒められるとうれしいよ」と言って笑っていた。学生達の声はとにかく大きく元気なので会話のほぼ全部が聞き取れた。どうやら女子学生達はこの春で卒業のようで、カレー好き女子が

「えー、あともう一回くらい食べにこれるかなぁ、でも、卒業しても食べに来ます」と言うとマスターは、

「いままでそういう奴に限って来たためしがないね」と学生達をからかった。案の定、女子学生は大げさなリアクションで

「なんで、そんな事言うんですかー!来ますよー!絶対、っていうか、マスター、作りに来てください、ウチの会社に」と言うと

「どこだっけ会社?」とマスターが質問を返す。

「栃木」

「無理無理。餃子があるからいいじゃん」とまたマスターはからかう。

「餃子じゃだめ、このカレーが食べたいの」

「じゃあさ、今度、作り方教えてあげるから、自分で作ればいいじゃん」とマスターが言うと、他の二人が口を揃えて

「リナ、無理ー!」と言う。

そう言われたカレー女子は、「マジムカつく」と笑いながら言い、また山盛りのカレーを頬張った。そんな風に、マスターにとっては娘くらいの世代の女子学生と会話をしているのはすごいなぁ、と思いながら会話の一部始終を聞きつつ日替わりを食べていた。

 テーブルに置いたスマホにメッセージが届く。咲季からだ。

「今日、何時くらいになる?わたしは定時にあがれるよ」とある。

まだ昼だし正直何時にあがれるかなんてわからないのだが、そのままを返信してしまうわけにはいかないので、

「まだ微妙だけど、僕も定時目指して頑張る」と返した。自分の頑張りだけで退社時間が決まるなんてことはありえないのだが。

「りょうかい、また連絡して」とすぐに返信が来る。こちらも

「りょうかい」と返す。週に何回このやり取りを咲季としているのだろうか。いっそのこと一緒に暮らしてしまった方がいいのではと考えることもあるのだけれど、まだ踏ん切りがつかない。そこになにかタイミングがあるのかと言われれば、そんなことはないということまではわかっている。でもな、と煮え切らない自分がいる。マスターが水を注ぎに来る。この人は結婚しているのだろうか、子供がいるような雰囲気ではないけれども、モテないわけがないからたぶん、一度くらいは結婚しているんだろうな、とか妄想しながらコップをもつ左手を見ると薬指にリングはなかった。なんだ結婚はしていないのか、それとも指輪をしていないだけなのかなぁ、と思ってマスターの顔を見上げると目が合ってしまった。するとマスターは

「なにか?うるさくてごめんね」と言うので

「いや、違うんです、マスター、結婚してるのかなって」

「昔、してた」とマスター。

「えっ、と言うと、いまは?」

「してない。結婚してるの?」と逆に質問される。

「いえ、まだ」と答えると

「まだ、ってことは、決めきれないとか?」

「わかります?」

「なんとなくね、そんなニュアンスに聞こえたから、合ってる?」

「はい。なんか、毎日今日何時に会える?とか、やり取りするのがもう面倒で、だったら一緒に住んだ方が楽かなとか」


「んー、微妙だな、それ」

「そうなんですか?」

「だって理由がネガティヴだし、一緒に住んだら住んだで、何時に帰ってくる?って聞かれるよ、で、それを面倒だと思ってしまう。結局一緒」

「確かに、そうですね。どうしたらいいんですかね?」

「世の中にはさ、女性から今日何時に会える?なんて聞かれたくても誰からも聞いてもらえない寂しい男子がたくさんいるわけだから、感謝しないと彼女に。聞いてくれてんだよ、会いたいから」

「まぁ、そうですけど」

「贅沢だね、嫌ならやめちゃえ、ってことがアドバイス」

「あっさりしてますね、マスター」

「煮え切らない奴はいつまでたっても煮え切らないよ、きっかけなんてないから。自分で決めない限り。それが責任だよ。お互いにだけど」

「ですよね、マスターはスパって決めました」

「決めたよ」

「どうやってですか?」

「どうもこうも方法なんてないよ。考え方でさ、なんか時々思うんだけど、一緒になるってことをさ、自分の暮らしに相手が加わるとか、所有するものが増えるみたいな足し算的な感覚で捉えている人がいるけど、全然違うと思うんだよ。混ざるの。白に黒が、黒に白がみたいに。そうすると、お互い元の色には戻らないだろ、そういうことだよ。お互いに自分の今の色じゃなくて違う色になるっていうことを受け入れないとうまくいかない。前向きに新しい色になるって思わないといけない。今の色を少しでも残したいって思ってたら絶対無理だね、そういうこと」

「ごちそーさまー」とカレー女子がマスターを呼んだので、優馬が何も返事をできないうちにマスターは、カウンターに戻ってしまった。

 斜め後ろに座っていた若い女性客の携帯電話が鳴ってその女性は電話を持って一旦外へ出て行った。テーブルには、読みかけの単行本が置かれていて、見覚えのある装丁だと思ってタイトルを確認すると池澤夏樹の『スティルライフ』だった。自分も大学の頃に読んで、冒頭の一節が好きで今でも時々チラッと読む時がある。カレー女子学生達は「絶対また来まーす」と口々に言って賑やかに帰って行った。電話をしに出た女性はまだ外で何かを話している。マスターが戻ってきて

「ということ、わかった?」と言うので

「はい、混ざるんですよね、白と黒が」

「そう、大丈夫?僕が言っても説得力ないか」とマスターは笑っている。

「大丈夫です、ありがとうございます」と言い切って、店を出た。店先で電話をしている女性の横を通り過ぎると「あの三曲から絞ろうかな」という会話が聞こえて、一瞬目が合ったような気がしたのだけれど、電話をしながら恐らくただ視線の先に自分がいたという程度の認識だろうと思ってそのまま目をそらして去ろうとすると

「すいません」と電話の女性に呼び止められた。

「間違っていたらごめんなさい、咲季の彼、ですよね?優馬くん?」

「はい」

「わたし、前の会社で咲季と一緒だった片瀬です。片瀬綾です。二回くらい一緒にライブいったり、覚えてます?」

「あっ、はい。ブルーノートとか、東京ジャズ」

「そうです、よかった」

「ここよく来るんですか?」

「はい、時々、本読んだり、静かでいいので。今日はちょっと賑やかでしたけど。優馬くんは?」

「事務所がこの近くで、いつもランチに」

「そうなんだ、で、マスターとあんな話まで」

「やっぱり聞こえてましたよね」

「はい全部。咲季とのことですよね?」

「まあ、でも、もう決めたんで」

「決めた?」

「そう、混ざるって」

「あっ、混ざるんですね」と片瀬さんは、嬉しそうに笑って

「咲季、喜びますね、きっと」と言った。

「チラッと見てしまったんですけど、『スティルライフ』ですね」

「あぁ、あれ。そうです」

「そう。あれ、僕、咲季に薦めたというか、プレゼントしたことありますよ」


「冒頭がいいですよね」

「そうなんです、冒頭がね、いいんですよね」

「関係ないんですけど、さっき学生がカレーが絶対美味しいって言ってたの、本当ですか?」

「カレー美味しいですよ、ここの。僕は野菜を取りたいから日替わりばっかりですけど」

「じゃあ、これからカレー食べて帰ります。ちょっと二日酔いなのでちょうどいいですね」

「そうですね、いいかも」

「では、咲季によろしく。あと、混ざるの、頑張ってください」

「ありがとうございます」

優馬は事務所に戻りながら、咲季に

「今日は、定時で上がるよ」とメッセージを送った。








 打ち合わせに指定された場所は、駅から十分以上歩かなくてならないカフェだった。片瀬さんの指定だから文句を言うことも出来ないので、佐谷木はグーグルマップを片手に見知らぬ住宅街を歩いて、ようやくたどり着いた。大きな大学が目の前にある小さな平屋の一軒家がカフェになっていた。なるほど、女性が好きそうな隠れ家とやらだな、と思って納得がいく。店に入ると白い髭に帽子をかぶったマスターらしき人しかいない。てっきり小柄な女性が白い服を着て出迎えてくれるものだとイメージしていたので少し戸惑う。


「お好きな席に、どうぞ」と言われて店内を見渡すと、味のあるアンティークというか古い椅子とテーブルが整然と配置されている。どの場所も居心地が良さそうで、迷っていると「おひとりですか?」とマスターに尋ねられて待ち合わせだということを告げる。

「あっ、いえ、あとひとり、二人になります、打ち合わせで」と。

「じゃあ、奥の大きいテーブルどうぞ」と薦められて店の中で一番大きなテーブルに座る。メニューと水を持ってきたマスターに

「二人でこの大きなテーブルいいんですか?」と尋ねると、

「平日だし、この時間だから大丈夫」と断言された。

「お見えになってからのオーダーでいいですよね?」と言ってマスターはカウンターに戻って行った。片瀬さんからは十分位遅れるとメッセージが届いていたので、しばらく待つことにする。片瀬さんは、この前の電話で「あの三曲から絞ろうかな」と言っていたのだけれど、本当に納得してそう言っていたのか、仕方なくそう言っていたのかが気になっている。大手通信会社のテレビCMのコンペに出すということで、三十秒の中に必要な言葉を入れ込んだ歌を三バリエーション用意してほしいという依頼だった。歌は大人気の男性俳優件歌手が歌うことが決まっていて、決まればその歌のフルバージョンを作ってシングル曲として発売するという。作家として曲を作り始めてもうじき十年になるのだけれど、ここまで大きな仕事の依頼はほんとうに数えるくらしかなく、今回はどうしても自分の作品で決めたいと思っている。いろいろと声を掛けてくれてチャンスを与えてくれる片瀬さんの為にもそう思っている。カフェの外から片瀬さんが電話で話をしている声が聞こえる。いつも忙しそうに誰かから電話がかかってきて話をしているイメージがある。しばらくして、片瀬さんは「ごめんなさい、お待たせして」と言って向かいの席に座った。

「こんにちは」とマスターが片瀬さんの水を持ってくると片瀬さんも

「こんにちは」と答える。

「何か頼んだ?」

「いえ、まだです、待ってからにしようと」

「そう。お腹空いてたら何か食べてもいいよ、美味しいから、カレーとかも」

「片瀬さん、よく来るんですか?」

「うん、来る。静かでいいのよ、仕事はかどるし、本も読める。電話を無視しても良いような雰囲気じゃない。山の中のリゾートにいるみたいな」


「確かに、そんな感じですね、学生とかは来ないんですかね、大学の前ですけど」

「とりあえず、何か頼もう」

「はい、じゃあ、カレーとコーヒーで」

「了解、わたしはケーキにしようかな」と言って、片瀬さんはマスターを呼んで「彼にカレーとコーヒーで、わたしはコーヒーとチーズケーキ」とオーダーしてくれた。どことなくいつもレコード会社とかアーティストの事務所とかで会う片瀬さんと雰囲気が違って見えるのはこの店にいるせいなのだろうかと思ったので

「片瀬さん、いつもとなんか雰囲気違いますね、ここにいるからですかね」とそのまま聞いてみた。

「たぶん、そう。そういう店なのよ。なんかね、いつもの役割みたいものからちょっとのあいだ解放されるみたいな。店のコンセプトもそんな感じのことがホームページに書いてあったわ」

「へぇ、役割からの解放か」

「そう」

「でも、今日、打ち合わせですよね、例のCMのコンペの」

「そうね、だからここにしたの」

「だから?」

「そう。今度のCMのイメージはこのカフェがベースで作られてるの」

「ここで撮るとか?」

「イメージよ。ここにある空気感があるでしょ、わかる?なんていうかな、ナチュラルとかアンティークとかシンプルとか、かと言って甘くない感じというか、ね。男性ウケもする感じ。こういうインテリアも実は結構値が張るんだけど、きちんと使い込まれて味があって、お金お金という匂いがしないとかね」

「それを曲にも反映したいと」

「正解」

「ハードル高いですね、でもやりがいありますね。良い音楽が出来上がる気がします」

「だから、佐谷木くんにやってほしいの」

「ありがとうございます」と頭を下げた。ちょうどカレーがテーブルに運ばれてきて、片瀬さんの前にはコーヒーとチーズケーキが並んだ。確かに、過不足ないシンプルな器が使われていて、組み合わせもバランスが取れている気がする。そして、美味しい。音楽もいい。春を目前に控えたこの時期にバロックギターが心地よい。カウンターの横の壁には、ジスモンチのLPが飾ってあるから、たぶん今流れているものもECMなのだろう。


「だから、いつもみたいな、ここのメロディをこうしてとか、この歌詞をこうしてとか言う話は無し。ここにいてここを感じてもらうことが目的」

「でも、あの三曲でいくんですよね?」

「そう、基本はあの三曲。でもね、ここにあの三曲がフィットしているか想像してみて。もしどこか手直ししたほうがいいと佐谷木くんが感じたら直していいわ。その判断は任せる。あの三つに絞るまでをわたしの仕事にさせて」

「いいんですか?それで」

「そうする方がいいと思うわ。提出までまだ五日あるから、またここにひとりできても良いし、今日来たイメージだけで判断しても良いしね」

「はい」カレーを食べ終わるとちょうどいいタイミングでコーヒーが運ばれて来た。しばらく店内は片瀬さんと自分の二人だけだったけれども、近所から来たと思える女性が財布と文庫本だけを手にして入って来て、迷いなくマスターの目の前のテーブルに座った。マスターは、「こんにちは」と小さな声で言い、その女性も小さな声で「ごはんと、コーヒー、でお願いします」と言って文庫本を開いた。会話という会話が交わされているわけではないのだけれど、なんとなく親密な空気が二人の間に流れていた。


「佐谷木くん、わたし次があるから行くね」

「あ、はい」

「まだ居るならゆっくりしていけば」

「そうします」

「音源は、いつものとこにアップしておいてくれれば大丈夫だから」

「わかりました。ありがとうございました」

「じゃっ、よろしく」と言って片瀬さんはカフェを出るとすぐにまた電話をはじめた。いつもの役割に戻ったというように。残りのコーヒーを飲みながら、ぼんやりしているとまたひとり女性客が入ってきて、「三人なんですけど」と言って店内を見渡した。三人が座れるスペースは、自分が座っているテーブルだけだったので、席を移ろうとするとマスターがやってきて、

「ごめんなさい、いま、ちょっと、三名様は」と言っている。あきらかにその女性は、自分に移動しろという視線を投げているのだけれど、マスターは頑なに「ごめんなさい」と繰り返し断り続け、女性は帰って行った。マスターは何事もなかったかのようにカウンターに戻って行った。マスターの目の前に座っている女性が、

「相変わらずね、怒ってたよ、あの人絶対」と言うとマスターは、

「あの人たち、ちょっとね」と言って笑っていた。

「客を選ぶカフェね」

「お客さんも自分に合うかどうかをもっとちゃんと考えるべきだと思うよ」

「また言ってる」

「一度来れば分かるじゃん」

「そこまで考えるのは極一部よ、普通は考えないの」

「そんなものかね」

「それでよく続いてるね、この店。それが不思議」

「みんな何らかの方法でお客さん選んでるじゃない、ほんとは」

「まぁ、確かにある程度は、同じ価値観とかを共有している人たちが集まってるって思うと行きやすいけどね」

「そのための一手段だよ」

「まぁ、それで潰れてないんだからいいけど。敵が増えるよ。ネットの書込みとか」

「見ないから大丈夫」

「そう言えばCMの話どうなったの?」

「やるよ。ただ撮影はスタジオに建て込み、って言うんだっけ、セット作ってそこで。だから僕はその監修みたいな感じかな」

「ギャラ出るの?」

「出る」

「たくさん?」

「たくさん。コーヒー何杯入れたらその額になるのか計算できないくらい」

「ほんとに?」

「ほんと。大企業は規模がちがうよ。驚いた」

「でも、それやったらCM見たって言う変なお客さん来ない?」

「そこは大丈夫、セットはこことは全く違うから。空気感は一緒だけど」

「そんなこと出来るんだ」

「だからギャラもらえるんだよ」

「すごいんだね、マスター」

「今さら知った?」

と、会話が続いて行くので、佐谷木はお会計をお願いするタイミングを失っていたが、マスターはそれに気づいて

「あっ、もう行かれますか?」と声をかけてくれた。

「すいません、席」

「大丈夫、っていうか、お客さんがそこに座ってくれてなかったから、あの人たちを断れなかったから、お礼を言いたいくらいだよ」とマスターが言うと

「やめなよ、お客さんに」と女性が咎める。

「あれでしょ、CMの音楽のコンペに出すんでしょ?」

「聞こえてました?」

「店の会話は全部聞こえる」

「そうなんですね」

「僕も選曲に関わるから、もし通ったらまた会えるね」とマスターは言って、さらに

「片瀬さんだから大丈夫な気がするよ、頑張って」と言ってくれた。

「あんまりそういうこと言うと、不正に取られるよ」とまた女性が咎めると

「クライアントなんてそんなに音楽の良し悪しがわかってるものじゃないから。こっち側のプロのスタッフが決めればいいものだから」

「よろしくお願いします」と佐谷木は頭を軽く下げて、さらに「カレー、美味しかったです」と言った。

「片瀬さんも、絶対カレーしか頼まないんだけど、なんでかね」とマスター言って「またね」とまるで家に遊びにきた友達を見送るように入り口で手を振ってくれた。佐谷木は、またここに来ようと思う。CMが決まっても決まらなくてもカレーを食べに





 咲季がここに一人で来るのは、はじめてのことなので正直少し緊張している。店に入ったらマスターに最初なんて挨拶すればいいのだろうかと、まずはそこからだ。いつもは優馬が「こんにちは」と言って席まで案内してくれるので咲季はマスターに軽く会釈をするだけだった。水曜日午後三時半、カフェのドアを開ける。マスターに一番近いテーブルに女性客がひとり座っているだけだ。

「こんにちは」と咲季は自然に言葉が出て来たことにほっとした。マスターが「こんにちは」と返事をするのに被さるようにその女性客も「こんにちは」と言った。お客さんではないのだろうかと訝しんでいると、マスターが

「なんで沙夜子まで、こんにちは、なの?」と笑って言う。

「どうぞ、どちらでも」

とマスターに言われて一番大きなテーブルの角に座った。その沙夜子さんは

「あっ、ごめん、店にいた頃の癖で、つい」

「ほんと自然に言ったよね、今」

「とても、自然でした」と咲季も会話に入ってみた。

「だよね、びっくりした。もう沙夜子に店まかせようかな」

「やだよ、カフェは」

「なんで?」

「だってずっと立ってるじゃん、脚パンパンになる」

「それが理由?」

「あと、料理出来ない」

「だよね、それ致命傷。あっ、咲季さん、何する?」とマスターが話しながらテーブルまで歩いてきてくれた。コーヒーとチーズケーキを頼んでから小声で「ちょっとご相談が」と言った。マスターも「了解」と咲季の小声を真似て返事をした。その感じがなんだかおかしかったので少し吹き出して笑っていると、沙夜子さんは「なんだか、楽しそう。仲間に入れてよ」と言いながら、とてもおいしそうにごはんを食べていた。優馬とここに何度か来ているけれども沙夜子さんに会うのは、はじめてだった。優馬とは土日に来ていたから平日のこの時間に沙夜子さんは現れるのだろうと勝手に想像してみた。するとマスターが、

「沙夜子はね、夜勤明けの午後に身体と心を整えにここに来てごはんを食べる人」と説明をする。沙夜子さんは

「もうちょっと、他に紹介の仕方ないの?」

「じゃあ、元アパレルのプレス、そして、アンティークショップの店長、今は介護士」

「あってるけど、ざっくり」

「あとは自己紹介して」と言ってマスターはコーヒーをドリップしに行った。しばらくしてごはんを食べ終わった沙夜子さんはコーヒーをオーダーし

「よかったら、こっち座らない?」と自分のテーブルに咲季を誘った。どうしようかと、迷っているとマスターが

「ダメ、咲季さんはちょっと僕に相談があるんだって」

「マスター、若くて可愛い子好きだから気をつけて」と沙夜子さんが言うと

「咲季さん、新婚だから。近くのデザイン事務所の優馬くん、知ってるよね?彼の奥さん」

「えー、あのイケメンデザイナー?」

「そう」

「やっぱり可愛い子選ぶね、お似合い」と沙夜子さんは、なんだか嬉しそう。

「で、新婚にして、もう相談?」

「それを、これから僕が聞くの。沙夜子は黙ってて」

「はーい」と沙夜子さんは素直に返事をして文庫本を読み始めた。沙夜子さん以外にはお客さんはいなかったので、チーズケーキとコーヒーを運んで来たマスターは、「今ならいいけど」と行って向かいの席に座った。咲季は、こんな至近距離でマスターと話をするのは、はじめてだったのでメガネの奥の目が綺麗な二重なのを発見して、まじまじと目を覗き込んでしまった。

「なんか、ついてる?顔に」とマスターに不思議がられる。

「いえ、マスター二重なんだなぁ、て」そう言うと、離れたテーブルで沙夜子さんがクスッと笑った。

「沙夜子、耳ダンボになってるよ。本に集中して」とマスターが沙夜子さんに言う。

「ちょっと無理。この広さじゃコソコソ話しても逆に気になる。わたしも混ぜて。黙ってるから。いい?咲季さん」と言ってきたので、咲季は、特に隠すようなこともないと思っていたので「はい」と答え、沙夜子さんもマスターの横に座った。するとなんだか咲季が二人に面接を受けているような絵柄になった。咲季は、優馬のことを相談したかった。どうやら優馬は今の事務所を辞めて独立して自分のデザイン事務所を作ろうとしているようで、結婚したばかりだったので、将来が不安になってしまったのだった。今の事務所にいるからと言って安定していると言えるような職業だとは思ってはいないのだけれど、独立となるとまた話は変わってくると感じていた。マスターがこの話を優馬から聞いているのかどうかは知らなかったが、優馬がプロポーズをしてくれたきっかけもマスターの言葉だったと聞いていたので、こういう大切なことを決めるにあたっては恐らくマスターになんらかの相談をしているはずだと思ってひとりでカフェを訪ねてみたのだった。咲季が本題を話し始めようとするとマスターは

「優馬くんの独立のことでしょ?」と先に言ってきた。やはりマスターには話していたんだと思い

「はい。いつから聞いていました?その話」と尋ねてみた。マスターは

「いつからかなぁ、覚えてないけど、二人が結婚してからとかの話じゃ全然なくて、本当にずっと前。優馬は、あの事務所に入った時から独立のことは考えていて、咲季さんに出会う前にも独立の相談を受けたこともある。さすがにその時はありえないって引き止めたけどね。だってまだ一人前の仕事なんて一つもやってなかった頃だから。あの事務所の社長は昔からよく知っていてね、今みたいにスタッフをたくさん抱えてやり始めたのはここ数年のことで最初は三人だった。その頃に僕は何度か仕事をしていてね。レコードジャケットのデザインをお願いしたりして、すごくいいデザインをしてくれた。元々社長も大手のデザイン会社を若くして辞めた口だから、若手が独立したがることに関しては理解があるはずだけど、最初の優馬の独立話にはさすがに怒っていたよ。あのガキ、なめてんのかって。怖かったよ。それから優馬はどんどんいい仕事をするようになった。社長に激怒されたことで何かを見つけたんだと思う。いまは優馬なしではあの会社は成り立たないと思えるくらいだから。だからこそ今なんだと思っているんだと思うよ、優馬は。社長もある程度は覚悟しているようだし。そうやってまた若手を育てて巣立っていってというのを繰り返して会社は強くなるとか言ってたけど。内心は優馬にあとをついでほしいと思っているのかもしれない。そういうタイミングで咲季さんと結婚した。咲季さんとしては結婚したと思ったら会社を辞める、という風に見えるかもしれないけど、結婚したからこそ、そうするべきだと考えたんだと思うよ、優馬は。守らなくてはならない大切な人がいる、だから。でも、咲季さんがいるからやっていける気がするという面も当然ある、一緒になってやってくれると思っているはずだよ。優馬から相談された時、今度は薦めたよ、独立を。でも条件として、きちんと咲季さんに納得してもらってからにしろともね。勤め人の奥さんとはわけが違うからね、そこを納得してもらえって。だからそのうち話があるはずだよ、優馬から。その時に咲季さんは判断してあげて。どれくらい優馬が本気か見極めてあげて。仕事は大丈夫、絶対どんどん入ってくる。二人でやる覚悟の方が大事だから」

マスターの言葉をじっと聞いていた咲季はここで口を開いた。

「よくわかっているつもりです、優馬が独立したい気持ちは。でもわたしに何かできることがあるのかわからないんです。デザインの仕事なんて全然知らない世界だし、いままで優馬の仕事について詳しく聞いたこともないし。完成した作品は見せてもらったりはありますけど、それは一般の人と同じことで。だから優馬のサポートなんて無理かなって。そのことで彼との関係がおかしくなってしまわないか心配なんです。彼、仕事となると周りが見えなくなってしまうから」

「自然とね、役割は生まれてくるよ。最初から決めている必要はない。大丈夫。とにかく咲季さんが理解してくれて、いざという時の味方だと優馬が思えていれば大丈夫だから」とマスターは言って「なっ」と沙夜子さんの顔を見た。急に振られた沙夜子さんは、「だね」と言って、わたしに向かって大きく頷いた。その感じがなんとなく頼りになるお姉さんという雰囲気で咲季の漠然とした不安は少しほどけていった。

「咲季さん、この人良いこと言ってそうだけど、当の本人はそんなに上手くやれてないからね」

「余計なこと言わないの」

「でもホントでしょ」

「そうだけどさ、咲季さんはそんな僕に相談しに来てくれたんだから、いいじゃんそこは」

「大丈夫、咲季さん?」

「はい、マスターの話が聞きたかったんで」

「ほら」と得意げなマスター。

「よかったね、マスター。可愛い子に頼られて」

「からかうな」

「あのぉ、お二人はお付き合いしているとか?」

「してない」と沙夜子さんが即答する。

「事実婚夫婦を演じたりはするけど、ね?」

「なんですか、それ?」と気になったので聞いてみると

「あれね」とマスターが説明をしてくれた。

「昔ね、三年前くらいかな、店に電話があって、ごはんの予約で、あとちょっと二人でお話ししたいことがあるって、閉店間際に行って良いかと。その人の奥さんが僕にお世話になってるからって」

「怖いよね、その感じ」と沙夜子さんが合いの手を入れる。

「ちょうどその時、沙夜子が今日みたいにあそこのテーブルにいたから、電話の内容を話したら、なんだっけ、妄想不倫、だっけ?とか言って、電話は僕にその妄想不倫をしている奥さんの旦那で、殴り込みにくるんじゃないとか言い出して、だからこの場合、妻帯者の方がいいかと思って沙夜子に事実婚の奥さん役をお願いしたの」

「妄想不倫?」

「そう、カフェに来て、マスターと不倫しているのを妄想するお客様」

「そんな人がいるんですか?」

「それは、こっちの妄想だよ」と沙夜子さんは笑って言う。

「そっか。あと、なんで事実婚なんですか?」

「?、そうだね、普通に夫婦でよかったよね、なんでそうしてんだろう」とマスター。

「えっ、なんか理由があったんじゃないの?」と沙夜子さん。

「いや、別に」

「てっきり事実婚に意味があるんだと思ってたよ、違うんだ」

「でも、マスターの場合、その方が本当っぽい。事実婚の奥さんがいる感じ」

「それって、あんまりいい男じゃないよな、結婚に踏み切れないというか、煮え切らない奴みたい」

「昔の優馬」と咲季は、自分で言ってみた。

「言っちゃった、自分で」とマスターは笑ってくれた。

「あれだね、結局、マスターと優馬くんは似てるんだね、だから、優馬くんのことよくわかるんだよ、自分のことのように」

「そういうこと」

「よかったね、事実婚じゃなくてちゃんと結婚できて」

「はい、マスターのおかげです」

「よかったね、マスター」と沙夜子さんは言ってマスターの肩を叩いた。

「で、その怖い人どうなったんですか?」と話が途中だったので聞いてみた。

「全然いい人。いい夫婦だった。全然怖くなかった。そんなオチ。奥さんが向かいの大学の先生でね」

「そう、長年一緒にいる夫婦ならではのいい話も聞けて。咲季さんにはまだまだ到底真似のできない世界だな」

「よくわからないですけど、なんとなくそのご夫婦みたいになればいいってことですよね」

「三十年かかるよ」

「想像つかないんで、とりあえず三年先にくらいを考えてもいいですか?」

「三年でも立派。わたしなんかその日暮らしだから、ね?」と沙夜子さん。

「まぁ、一緒だな、それは」とマスター。

「やっぱり、お二人、お付き合いしたほうが」

「わたしは、良いよ、毎日美味しいごはん食べれるし、どう?マスター」

「いまでも、ほぼ毎日食べてんじゃん」

「一日三食、全部よ。わたしが料理無理なの知ってるでしょ」

「でもね、気持ちだから、沙夜子のごはんもきっと美味しいよ」とマスターは沙夜子さんにちょっとだけ、今までよりも優しく言ったように咲季には聞こえた。






 佐谷木の曲で決まってくれて本当によかったと片瀬は思う。最終選考で決まらずに悔しい思いをしたことが今まで何度あったことか。佐谷木の音楽センスを買っていた片瀬は、当初、佐谷木本人をデビューさせようと思っていたのだけれど、人前でのパフォーマンスのセンスに欠けていることがわかり、早々に作家への転身を強く勧めたのは片瀬だった。しかし細かい仕事はたくさん決まるものの代表作と呼べるような大きな仕事には恵まれずにもう十年近く経ってしまっていた。佐谷木も腐らずによくやってくれていると思いつつも、いつ辞めたいと言い出してもおかしくないと、片瀬は覚悟をし始めていたのだった。今回のこのCMと、そのシングル曲で佐谷木の名は、業界内で一定の知名度を獲得することが出来て、仕事も選べるようになった。これからは、佐谷木のポテンシャルを維持するように仕事を吟味し、いかに長く活躍させられるかが片瀬の仕事の重要な役割となる。マスターにもお礼というが挨拶に行かなくてはいけないと思い、カフェに足を運んだ。ドアを開けるといつものカレーの匂いがした。カウンターに一番近い席に若い女の子がひとり「美味しいやっぱり美味しい」と言ってカレーを食べていた。片瀬は、いつもの