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六月のふたり

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短編を一つ、掲載します。

『六月のふたり』というタイトルです。

雨にまつわる記憶の断片を紡いでいったら、

ストーリーが立ち上がってきた、という感じです。

いずれ、この二人を主人公に少し長いものを書いてみたいと

思っていますが、今回はこれで。

雨の六月に読んでもらうのが良いかと思っています。

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六月のふたり





雨の季節だった。

空気中の水分がどんどん滲み出てきているようで、

僕の学生服をしっとりと湿らせていた。

太陽が出ていなかったせいで一体それが何時くらいだったのか、よく覚えていない。

学校帰りだったから三時過ぎだったのかもしれないし、

もっと夕暮れに近かったのかもしれない。

僕は君と二人きりで何をして過ごせばいいのかわからなかったから、

ただ馬鹿みたいに歩き続けた。

立ち止まってしまったら、

もうその時間は終わってしまうような気がしていたのかもしれない。

何もない住宅地を、ただあてもなく歩いた。

だんだんと住宅もまばらになっていって、

雑木林の中を道が伸びているだけになっても、構わず歩き続けた。

雨は降っていなかったけれど、湿度の高い空気のせいで、

僕も君もしっとりと濡れているようだった。

手を繋いでみたかったけれど、そのタイミングがわからなかった。

だから、ただ並んで歩いた。

時折、車が通りかかる道だったから僕は君よりも車道側を歩いた。

そうすることで、君に気に入られようとしていたのかもしれない。

ただ、そんなことだけで。

会話という会話もできなかった。

もう別々の学校になってしまったから何を話したらいいのか思いつかなかった。

共通する話題なんて存在していなかった。

友達や先生や部活のこと、

同じ学校に進んでいたら話題はたくさんあったはずなのに、

僕が思いつくことと言ったら、

中学校時代の思い出とテレビ番組のことしかなかった。

でも、

僕はただ君と一緒に歩いている、

手を繋ごうと思えば届く距離に君がいる、

ということだけで、よかった。

だから、黙っていても、それでよかった。

君は退屈だったかもしれないけれど。

歩き続けた先に何かがあるとか、

明日からのことや、

もっと先の約束や、

更に二人の未来なんて、

そこには存在していなかった。

僕にわかっていたのは、

ただ、今、君と二人でいる、ということだけだった。

横を歩く君が時々笑っていたことを覚えているけれども、

何を話して笑ってくれたのかは覚えていない。

僕は君を本当に笑わせることができていたのだろうか。

途中、歩き疲れてしまって、公園のベンチに座った。

しっとりと湿ったベンチに。

僕ら二人以外には誰もいない寂れた公園。

雑木林とたまにしか車が通らない道に挟まれた小さな公園には、

滑り台もブランコもなく、ただベンチと広場があるだけ。

どのくらいそこに座っていたのだろうか、

ずいぶんと長い時間だったような気がする。

ベンチに座って流れていく時間は、濃密なものだった。

文字通り世界には僕と君の二人しか存在しないという時間に思えた。

それは、

つまりこの先もずっとそういう時間だけが流れていくということを意味していた。

そんなことはあるはずがないのに、僕はそう思っていた。

現実は、辺りは確実に歩き始めた時よりも暗くなってきていて、

もう、帰らなくてはいけない時間が迫ってきていた。

だから来た道をまた歩いて引き返した。

どこかに行くあてがあったわけではないから、

そうすることが正しい選択だと思った。

このまま二人でどこかに逃げてしまおうなんて、

映画のワンシーンのようなことは思いつかなかった。

今思えば、冗談でも、このままどこかに行ってしまおうよ、

なんて言えたらよかったと思うけれど。

帰り道で一台の車が僕らの脇をゆっくりと追い越していった。

見覚えのある車、父の車だった。

僕は運転席の父と目が合ったような気がした。

でも、止まらずに父の車は過ぎ去っていった。確かに父だった。

何をしていたと思っただろうか?

女の子と二人で暗くなり始めた道を歩いていた僕を見つけて、

父はどう思ったのだろうか?家に帰ったら何か言われるだろうか、と考えた。

君には、それが父の車だとは言わなかった。

ただ、なんとなく、理由はなかった。

帰り道は一歩一歩がさよならに近づいていく。だから、ゆっくり歩いた。

でも、どんどん辺りは暗くなっていって、

横を歩く君の顔もよく見えなくなっていった。

僕は、今度、いつ会える、って何度も頭の中で呟いていた。

今度、いつ、今度、いつ。

君を家の前まで送って、

そこで実際に口にしたのは、じゃあ、またね、だった。

何の約束もない、またね、という曖昧な言葉。

君はただ頷いていた。

家に帰ると父は何も言わなかった。

あの車は確実に父の車だった、そして運転席の父と目が合ったというのに。

父が何も言わなかった理由は訊かなくてもなんとなくわかったつもりでいた。

初めて、父と僕が男同士だということを感じた夜だった。

じゃあ、またね、の約束から三年が経ち、

お酒を覚えたばかりの大学生の僕は駅のコンコースで君を抱き寄せていた。

同窓会から二人で抜け出して。

いいんだよ、大丈夫、とか言いながら酔いに任せて馬鹿な若者は君に口づけをした。

三年の月日が、僕らにもたらしたものをわかろうとはせずに、

ただ体が求めるがままに。

終電に駆け込むサラリーマンに冷やかされながら。

僕はそのまま電車に乗り、君は同窓会の会場へ戻っていった。

その時、別れ際に、またね、とか、じゃあね、とか言ったのだろうか、記憶にない。

そしてまたしばらく会うことはなかった。

社会に出て大人になったつもりの僕は、

君に会っても、もう前のようには心が乱れないと思っていた。

でも、それは違った。

僕は君の前ではいつまでも雨の季節に黙って歩き続けた僕でしかなかった。

大人になった君は、僕に笑いかけながら話をして、

肩を寄せ合って記念写真におさまった。

もう昔のことは忘れたよ、とでも言っているように。

でも、僕は忘れられずに覚えている。

もう戻れない日々のことを。

さらにずいぶん大人になって、僕はやっと君の手を握った。暗い海岸で。

砂浜を君の手を引いて歩いた。僕が握った手を君は握り返した。

そうすることが当たり前のように。

朝日を見ながら話をした。

遠くに過ぎ去った昔のこと、

目の前に横たわる今のこと、

見えない未来のこと。

その出来事が現実だったのか夢だったのか、

今となっては少し記憶が曖昧になってしまっている。

それはたぶん、僕にとっては夢のような時間だったから、そんな風に今は思う。

今度、君に訊いてみたい、

僕は君の手を引いて砂浜を歩いたよね?

朝日を見ながら話をしたよね?と。

君は何と答えるだろうか。

それは夢なんじゃない?と言うだろうか。

そう言われたら、僕も、そうかもしれない、と答えるだろう。

そういうことにしておくべき事なんだと理解したふりをして。

僕は君のことがずっと好きだった。

君はそのことをよく知っていた。

でも、その先にあるものはいつも曖昧なままで、

いつまでたってもそれは変わらなかった。

たぶん、この先もずっと、そうやって、時は流れていくのだと思う。

今、もし、君に会ったら、

僕はまたその手を握り、抱き寄せるかもしれない。

どこかに繋がる未来がないとしても。

また雨の季節がやってきて、僕は君と歩いた道を思い出している。

肌にまとわりつくような湿度と、しっとりと濡れている制服の感触。

握ることができなかった君の手と公園のベンチや僕らを追い越して行った父の車を。

雨の季節は毎年訪れるけれど、

もう制服なんて捨ててしまったし、

あの雑木林や公園も宅地に開発されてなくなってしまっただろう。

父は運転免許証を返納し車も手放したと言っていた。

君は、どうしているだろうか?

変わらずにいるだろうか?

僕は変わらずに雨の季節に君を思い出している。

そして、こう呟く、今度、いつ会える、と。






また今年も雨の季節が来ました。

そうすると私はいつもあなたを思い出します。

高校生になったばかりの頃の、はじめてのデート。

あなたと何の変哲も無い住宅地を歩いたことを。

雨ではなかったけれど、湿度の高い空気は私たちの制服をしっとりと湿らせていて、

あなたの匂いがした。

別々の高校になってしまったから共通する話題がなくて困った。

だから黙って歩いていた。でも、私は楽しかった。

なんだか笑っていたように思う。

あなたが何か面白いことを話してくれたわけではないというのに。

車が通り過ぎるたびにあなたは私を歩道側に寄らせてくれた。

男らしくみせていたのかなぁ。

手を繋いでもいいと思っていたのに、そうしなかったのはなぜ?

湿度で身体中が湿っていたから、

それでもよかったのかも、って帰ってから思ったりしたけど。

歩き疲れて座った公園のベンチは、

湿っていて制服に跡がついてしまわないか心配だった。

でも、構わずに座っていた。ずっと長い間。

あなたの隣にいられることが嬉しかった。

座っている間、他には誰も来なかった。

ベンチと広場しかない寂れた公園。

世界には私たちしかいないような気持ちになった。

これからずっと二人だけの世界。

少し淋しい気持ちもしたけれど、あなたと二人なら大丈夫か、なんて思ったりして。

でも、どんどん暗くなってきてしまって、また来た道を帰ることにした。

本当は、

このままどこか知らないところへ行ってしまってもいいのに、って思ったけれど、

そんな勇気は無かった。

それに、

あなたはせっかく良い高校に入ったんだからそんなことはしないか、って思った。

でも、どうだったのかな?

同じようなことを思ってくれていたらいいのに、というのが本心だった。

帰り道、二人の横を車がゆっくり通り過ぎて行った。見覚えのある車。

あなたのお父さんだった。見つかってしまって大丈夫かってドキドキしていた。

でも、あなたは何も言わずにただ歩き続けていた。

気がついていないわけないのに。

それからしばらく会わなくなってしまったのは、

お父さんと何かあったからなの?ってずっと訊いてみたいと思っていた。

本当はどうだったの?もう、そんな昔のことを訊かれてもね。

あなたは家の前まで送ってくれて、じゃあ、またね、って言って帰っていった。

でも、ずっと会えなかった。

またね、がいつまでもやって来ない日々を過ごした。

そうやって三年が過ぎてしまった。

私は少しだけ他の人を好きになったりしたけれど、

いつもあなたのことがぼんやりと頭に浮かんできてしまった。

またね、って言っていたあなたのことが。

大学生になったあなたは、私を乱暴に抱き寄せた。

はじめての口づけは、お酒の匂いがした。

沢山の人が行き交う駅のコンコースで、恥ずかしかった。

どうして、って思ったけれど、でも、いいや、とも思った。

それでも、そこから先はまた曖昧になってしまった。

あなたは別れ際に何も約束をしなかった。

私も会いたい気持ちを伝えられなかった。

そのことをずっと後悔していた。

あなたはやっぱり違う世界に行ってしまったんだと思ったりして。

それでも、私も社会人になって少しだけ強くなった。

あなたに会っても、表面上は平気でいられるくらいに大人になった。

一緒に記念写真に写ることも出来た。

あたかも昔のことなんて忘れたような顔をして。

その写真を見るたびに、私は情けなくなった。

本当は泣いてしまいたいくらいだったのに、

馬鹿みたいにピースサインとかしている自分が嫌いだった。

しばらくして、また少し大人になった頃、あなたに会える日が来た。

あなたは、私の手を引いて、砂浜を二人で歩いた。

初めて私の手を握ってくれた。

その手を私が握り返した時に、

あなたが嬉しそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。

夜更けにいろんな話をした。

懐かしい昔のこと、

どうにもなっていない今のこと、

明るいはずの未来のこと。

でも、それは朝日が昇ると全て夢だったような気持ちになった。

今でもよくわからない、夢だったのか現実だったのか。

あなたの手の感触は覚えているけれども。

今日もまた雨が降っている。

曇り空で部屋は薄暗いから、今が何時なのか時計を見ないとよくわからない。

三時くらいかもしれないし、もうずいぶん暗いから五時過ぎみたいな気もする。

だとしたら、もうじき夕食が運ばれてくる。

あなたは今どうしているのだろう。

二人で歩いた湿度の高いあの道を思い出していたりするのだろうか?

湿ったベンチや制服の匂いや、

通り過ぎていったお父さんの車のことを覚えているのだろうか。

私は、よく覚えている。

そして、

またこの雨の季節が迎えられて嬉しい。

あなたを思い出すことができて嬉しい。

私は今、こう願っている、

もし来年も雨の季節を迎えられたら、

もう一度、あなたに会いたい、と。







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by ikanika | 2018-06-11 00:00 | Comments(0)

一人の居場所#41〜#49

ここにある散文は、

昨年の1月から今年の3月まで

カフェのお手洗いの壁に

掲出していたものです。


いくつかは、すでにこのブログに掲載している

小説のようなものの元になった文章なので

目にしたことのあるものもあるかと思います。

また今後、掲載する予定の小説の元になっている

ものも含まれていますので

いずれ小説の一部分という形で再登場すること

なるかと思います。


なんとなく“恋”という言葉を

あえて使ってみたいと思った時期なので

恋の話がいくつかありますね。


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一人の居場所 #41



きみが見ている景色を

ぼくが覗くには

きみにその場所を譲ってもらわなくてはならない

きみが見るその景色はきみだけのもの

いつもいつも譲ってもらうわけにはいかないから

想像することにする

きみの眼に映るそれを


繰り返し繰り返し想像していると

ほぼ同じ景色を見ることができるようになる

そうやってわかったことは

すぐ隣でぼくが見る景色とずいぶん違うということ

同じものを見ていても

すこし角度がちがうだけで

不思議とまったく別のものに見えてしまう


ぼくには正しく見えていたものが

きみには違って見えていた

ということは日常茶飯事

その正しさは

ぼくだけのもの

きみだけのもの


うまく想像できるようになるには

ただ繰り返すだけでいい

すこし時間がかかるかもしれないけれど


20170120









一人の居場所 #42



昼間からお酒を飲むことがあってもいいと、

その日は、そんな気分だった

特に大きな仕事が片付いたとか

何かからようやく解放されたとか

あるいは何かが上手くいったとか

そういう明確な理由があったわけではない

ただ、日差しが春に変わったな、と

だれもが感じるような日だっただけのことだ


友人のひとりは、春から希望の部署に配属になり、

また他の友人の娘さんは希望の高校に受かり、

かと思えば、

昔付き合っていた人は、ひとり海外赴任を命じられていて

自分はといえば、

この春の日に、ただカフェでお酒を飲んでいる


〝何かが上手くいってもいかなくても

春は平等に訪れ、柔らかい日差しが僕らをつつむ〟

というようなことを、

昔よく聴いていたバンドが歌っていたのをぼんやり思い出す

ワインで熱くなった頭で

その前後の歌詞を思い出そうとしたのだけれど上手く思い出せない

でも、ほんとうにそんなゆるい歌だったろうか

平等に柔らかい日差し、なんてね


すこし酔った帰り道の日差しは、確かに柔らかではあったけれど


20170217




一人の居場所 #42(2)


カフェから自宅までの帰り道に

小さな古本屋がある

いつも入口脇の百円コーナーをチラッと覗いてみるのだけれど

何も買ったことはなかった

店の奥まで足を踏み入れるには

少しの勇気が必要な空気を纏っている


昼からのワインの酔いも手伝って

その日は奥まで入っていった

白髪の老人が居眠りでもしているのだろうと

勝手に思い込んでいたせいで

レジに座っていた大学生風の男の子を見た瞬間

あっ、と声を出してしまった

でも、その男の子は手元から顔を上げることなく

ただ、あなたを認識してますよ

というような雰囲気を醸し出していた


もしかしたら、自分がお酒臭いのかもしれないと思い始めると

どんどん顔が赤くなっていくようで

本棚を物色することなど出来そうになかった

このまま出て行ってしまっても変な客だと思われそうなので

しばらくその場にただ立ち尽くしていると

「いつも百円コーナーご覧になってますよね」と

その大学生風が声を掛けてきた

ますます顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかるのだけれど

こういう時は、何も言葉が出てこない


20170331







一人の居場所 #42(3)


三ヶ月に一度、歯医者へ行く。虫歯の治療というわけではなく、

歯石を取ってもらったり、虫歯になりそうな歯はないかと調べてもらったり、

いわゆるメンテナンスだ。子供の頃から歯は丈夫で、

大人になってからは歯医者に通ったことはほとんどなかったのだけれど、

去年の正月にお餅を食べていたら歯が欠けてしまい、

仕方なく知り合いの紹介で歯医者に行き始めたら、

なんだかんだと治療を勧められて一年以上も通うことになってしまった。

歯医者曰く、もうこのくらいの年齢になると歯も劣化してしまうから仕方ないです、

と言うのだが、どうも釈然としない。自覚症状がない上に、

自分では、よく見えない場所だからなおさら懐疑的になる。

一応、医者が治療を勧める箇所の処置は終わったので

今はメンテナンスに通うだけだが、またいつ治療箇所を見つけられてしまうか

毎回ハラハラしてしまう。その歯医者の待合室で、

またあの大学生風に会ってしまった。治療を終えて処置室から出てきた彼は、

私を見つけて少しバツが悪そうな表情を一瞬見せて、

「こんにちは」と

さわやかに言い放った。私はといえば

「どうも、こんにちは。虫歯ですか?」

などと当たり前の質問をして、彼を戸惑わせてしまう。

「毎週水曜日に。通い始めたばかりで」

「そう」

「この前は、失礼しました」

「こっちこそ、私、酔っていたから。ごめんなさいね。また覗きに行くわ」

と、先日書店を訪れた際の挙動不審を詫びた。

「ありがとうございます、お待ちしてます」

「サイトウさん」と受付の女性が彼を呼んでお会計をしたので、

彼の名がサイトウという事があまりにも簡単に判明した。

「鈴本さん、どうぞ」と処置室から声がかかり、

私の名も簡単に彼に知れることになった。

お互いに軽く会釈をして、私は処置室へ入って行った。



20170505




一人の居場所 #43(1)




誰もいない真夜中の学校のプールに忍び込む夢を時々見る

水泳の苦手な僕は、優雅に泳ぐわけではなく、

ただぷかぷかと浮いているだけだ

決まって月が明るく、プールの水は透き通っていて

底のラインまで月明かりが届いている

飛び込み台に誰かが座ってスカートから伸びる細い足を

水にパタパタさせている

それは想いの届かなかった女の子で、彼女はすっかり大人になり

こっそりプールに忍び込んだ中学生の僕をたしなめる

けれども口元には微かに笑みが浮かんでいて

ただ、からかっているだけだということがわかる

「水泳の授業はサボるくせになんでプールに忍び込んでるの?」と。

「授業では、こんな風にぷかぷかしていられない。

水の中ではこうしているのが一番楽しい。

君はいつも優雅に泳いでいたね?まるで魚のようだったよ。」

「そうね、もしかしたら前世は、魚だったのかもしれないわ。

ねぇ、ひとつお願いがあるの。あなたは、絵が上手だったわよね。

私を描いてほしいの。でも、今の私ではなくてあなたと同じ中学生の私を。

よく覚えているでしょ?私のこと。その記憶の中の私でいいわ。

大人になってしまった今の私のことは忘れて。

だって、大人になるとどうしても、ずるい顔になってしまうから。

仕方のないことなの、生きていくためには。

あなたもきっと、そうなるわ、ずるい顔に。

たから、そうなる前のあなたに、そうなる前の私を描いて欲しいの。

どう、描いてくれる?」


どうして大人になったあの子が、僕にそんなことを頼むのか

事情がよくわからなくて、僕は混乱する。夢はまだ続いていく。


20170519









一人の居場所 #43(2)



夢の続き。

「もし、描いてくれたら、私はあなたに泳ぎを教える。

だって、前世は魚だったかもしれないから、

誰よりも上手く教えられるはずよ。

はっきり言って、そんな風にぷかぷかしているより、

クロールで泳いだ方が、きもちいいわよ。

そうしたら授業もサボる必要ないし、クロールをするあなたを見たら、

中学生の私はあなたを振らなかったかもしれないわ。

どう?素敵な提案じゃない?」

「君は、その絵をどうするの?」

「そうね、毎日一番眼に付く場所に飾るわ。

そして、眺めるの、もうこれ以上ずるい大人にならないようにね」

「そんなにずるいの?」

「ちょっと自分では嫌になるくらい」

「そんな風には見えないけど?」

「それが大人というものよ」

「そうなんだ。わかった、描くよ。中学生の君でいいんだね」

「ありがとう。出来上がったら教えて。クロールを教えにまたここに来るわ」

「了解。もし、クロールが出来たら君は僕と付き合ってくれるのかな?」

「それは、今の私にはわからない。中学生の私に、もう一度告白してみて」

「ずるいな、やっぱり、君は」


夢はそこで終わる。目覚めると寝室の一番眼に付く壁に

飾ってある中学生時代の妻の肖像画と目が合う。

隣で妻はまだ寝息を立てて眠っている。

僕は朝のジムに泳ぎに行く。

未だに上手く出来ないクロールの練習をしに。


20170519








一人の居場所 #44




恋の話をしようと思ったけど

それは秘密だったから

きみは誰にも何も話せない


いつも恋は秘密

秘密じゃない恋を

きみは知らない


「秘密じゃなくなった恋なんて、

気の抜けたソーダ水みたいなものだよ」

と彼は言う

「恋は秘密だから、良いんだ」と


わかるような、わからないような


でも、もう秘密は無しにして

秘密じゃない恋を味わってみたい、と

きみは思う


実際、秘密じゃなくなった恋は

泡のようにシュワシュワと消えて行き

それはもう恋とは呼べないものになった


代わりに

世の中にはソーダ水よりも

美味しいものがあることを知った


20170615








一人の居場所 #45



似顔絵を描く

きみが描いて、と言うから

その為に

じっと観察する

目や鼻の位置、くちびるの厚さ、

そんな風に見たのは

はじめてのこと


いくら観察をしても

上手く描けない

出来上がった絵は

全然きみじゃない


試しに

頭の中のイメージで描いてみる

すると

いつものきみが出来上がった


目の前にいるきみに

それを見てもらう

きみは言う

「あなたにはこういう風にみえているの?」

「いつものきみによく似ていると思うよ」

「ありがとう、出来過ぎよ」



20170819








一人の居場所 #46




「私はね、いろんな岐路があったとして、どこかの道を選んで

進んだとするじゃない、でもそれは自分で選んだように思えるけど

実は自分が選ばれただけなんじゃないかと思っているの。

自分の意思とか希望とかではなく。

あなたは、ほんとうに自分で選んできたって思える?

きっと、ここにいるのは、選ばれたからよ。選んできたんじゃなくて。

次にどの道を行くかは、自分では決められないわ。

世界はそういう風になっていると思うの。私がここにいる理由だって

正直全然わからないわ。ただ私なりに生きてきた結果として

いまはここにいるの。思うんだけど、自分では気がつかない

ほんの些細なことも、私たちは選択してきているのよ。

選んだなんていう感覚ではなく、ごく普通に日常的にやってきたことも

本当は全て選択肢があって、その中から選んでいるの。

そういう選択の蓄積に上に、今の私がいるの。

選択っていうとなんだかとても大きな決断みたいだけれど、

そういうんじゃなくて、上手く言えないけど。

そういう些細な物事を自分の意思でひとつひとつ選んできたって言える?」


「いきなり全ての選択を自分でしろって言われても難しいかもしれないけど、

少しでも自分で選んでみると、きっと何かが変わるはずだよ。

今までと全く同じということにはならないと思う」


「わかったわ。じゃあ、とりあえずひとつ選択してみるわ」


「何を?」


「それは、言えないわ。秘密にしておきたいの」


「それで、もう二つ立派な選択をしてるよ」



20171116









一人の居場所 #47




月あかりを頼りに、夜道を歩く

足元に冷気がまとわりつく

この先に安らげる場所があるはずだと

なんとか歩みを進めてみるけれども、

本当のところは、止めてしまいたい

もうその先には何もないのだと誰かが証明してくれたら

どんなに楽かと思う

その誰かが君であったら尚一層、楽になる

from M





時々、

自分の選択が正しかったのかどうか不安になります

ここに、ひとり取り残されてしまったようにも思います

私は、本当は誰かに導いて欲しいと思っているのかもしれません

歩むべき道を誰かに手を引かれて歩いて行きたいんだと

その手が、

あなただったらいいのに

fron W

                    



20171201









一人の居場所 #48




気がつけなかったことが

雨水のようにゆっくりと

君に染み込んでくる


君はただ、気づかないふりをして

乾いていくことを待つ


でも雨は降り止まず

いつまでも君に染み込み続ける


やがて君の全てが雨色に変わってしまった


今の君は

きれいな雨色だけれど

前の君が何色だったかを

君はよく覚えている


本当は

その色が一番自分に似合うということも



20180215









一人の居場所 #49




その指先に触れたいと

その声を聞いていたいと

その瞳に映っていたらいいのにと

考える


毎日が、もっと早く過ぎていけばいいのに

今が、もっと続けばいいのに

昨日を、やり直せればいいのにと

考える


知らないことがたくさんあって

知りたいことがたくさんあって

でも、

知りたくないこともたくさんあって


どうしたらよかったのか

答えが見つからなかったり

ああしたらよかった、って

後悔をしたり


きっと、それは恋だと

みんなは言う


たぶん、それは罠だと

君は思う



20180328






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by ikanika | 2018-04-20 20:17 | Comments(0)

バックシート

昨年の秋以来ですが、

小説をアップします。

秋以降、ずっと書いていて、

今回の物をふくめて三編書き上がっています。

全て大体、五万字前後の今までよりも少し長い物です。

原稿用紙で言うと、100枚から150枚くらいですね。

今までは、少しずつ連載というような形でアップしていましたが、

今回は、一回で最後まで掲載します。


「バックシート」は、

カフェを舞台に、様々な人が登場し、

それぞれの物語が綴られ、

そして、それぞれの物語が少しずつリンクしています。


少し長いので、

お時間のあるときに、

少しずつ読み進めてみてください。


カフェが舞台ですが、あくまでフィクションです。

イカニカでの出来事ではございませんので悪しからず。

ご感想などありましたら、

聞かせてくれると嬉しいです。

では。


cafeイカニカ

平井康二

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バックシート

                                           



 沙夜子は、夜勤明けの午後は必ずマスターのごはんを食べることにしている。カフェに着くと小さな声で「こんにちは」と言い、いつもの席に着き「ごはんと、コーヒーで、お願いします」とオーダーをする。いまの仕事をはじめてから、少しでも身体に良さそうなものを食べないと身体と心のバランスが取れないと感じている。カフェに行く時は、財布と、いわゆる名作と言われる純文学の文庫本だけを持参して、それをペラペラとめくりながらごはんを食べる。時間をかけて食べ終わる頃には夜勤疲れの身体と心が回復してくるのがわかる。ごはんを食べ終わってコーヒーを飲み始めると、大抵はカウンター越しにマスターとおしゃべりをする。まるで儀式のようにそれをもう五年近く続けている。マスターもその儀式に厳かに参加してくれている。今日はランチタイムが忙しかったらしく、マスターが洗い物に専念しているので、沙夜子は持って来た文庫本を開いて目を落とした。読んでいると言うよりは、ただ活字を目で追っているという感じで内容が頭に入って来ているわけではない。夜勤明けの頭にはそのくらいがちょうどよかった。最近、たまにマスターと自分との距離感を、他のお客さんが訝しんでいるような視線を感じる時があるのだけれども、沙夜子は気にしないようにしている。それは、そうすることしか今はできないのだから仕方がないと。祐未がいてくれて三人だったら、こんな風にはならないのに、と時折思ってしまうのだけれど、そんなことを考えている自分が嫌になる。マスターが洗い物の手を止めて、カウンターのすぐ向こう側に立っているのがわかっているのだけれど、沙夜子は、本から目を上げないでいる。真剣に読んでいるわけではないのだけれど。恐らくマスターは、窓際に座っている賑やかな女子学生たちの様子を見ているのだと思う。やがて、一人の男性客が入ってきて「いらっしゃいませ」と言ったマスターの顔に視線を向けてみた。少し苦笑いをして頭を軽く下げたのは、たぶん「うるさくてごめんね」という意味だと思う。沙夜子は、それくらいのマスターの心の動きは、もう手に取るようにわかる。






 午前中の会議がかなり長引いてしまって、優馬は一時半を回った頃にランチに出た。事務所から一番近いカフェは昼時を逃すと日替わりがなくなっていることがあるので、なかったからカレーにしようと決めていた。入り口の手書きのメニューを見ると、まだ日替わりはありそうだった。ドアを開けて店に入る。いつになく賑やかに感じるのは、珍しく向かいの大学の女子学生が三人いるからだとすぐにわかる。マスターと目が合うと、うるさくてごめんね、という表情だとなんとなく伝わってきたので、大丈夫の合図のつもりで右手を軽くあげてみた。マスターに意図は伝わったようで、苦笑いしながら頭を下げていた。いつもの日替わりを頼んで、女子学生から一番遠い席に着く。女子学生三人は、みんなカレーを食べていて、その中の一人がどれだけこのカレーが美味しいかということを残りの二人に熱弁をふるっていた。その女子学生は、日替わりを盛り付けているマスターに

「あたしはカレーが一番美味しいと思うんですけど」と言うのでマスターは苦笑いをしながら

「でもね、この日替わりの方がたくさん出るんだよ」と言う。

「えー?」と大げさなリアクションをして残りの二人に

「リナ、うるさい」と、たしなめられていた。それでも懲りずに

「だってこのカレー、マジおいしい」と言ってスプーンに山盛りにしたカレーを頬張っていた。マスターは、日替わりのお膳を運んできて

「あれだけ褒められるとうれしいよ」と言って笑っていた。学生達の声はとにかく大きく元気なので会話のほぼ全部が聞き取れた。どうやら女子学生達はこの春で卒業のようで、カレー好き女子が

「えー、あともう一回くらい食べにこれるかなぁ、でも、卒業しても食べに来ます」と言うとマスターは、

「いままでそういう奴に限って来たためしがないね」と学生達をからかった。案の定、女子学生は大げさなリアクションで

「なんで、そんな事言うんですかー!来ますよー!絶対、っていうか、マスター、作りに来てください、ウチの会社に」と言うと

「どこだっけ会社?」とマスターが質問を返す。

「栃木」

「無理無理。餃子があるからいいじゃん」とまたマスターはからかう。

「餃子じゃだめ、このカレーが食べたいの」

「じゃあさ、今度、作り方教えてあげるから、自分で作ればいいじゃん」とマスターが言うと、他の二人が口を揃えて

「リナ、無理ー!」と言う。

そう言われたカレー女子は、「マジムカつく」と笑いながら言い、また山盛りのカレーを頬張った。そんな風に、マスターにとっては娘くらいの世代の女子学生と会話をしているのはすごいなぁ、と思いながら会話の一部始終を聞きつつ日替わりを食べていた。

 テーブルに置いたスマホにメッセージが届く。咲季からだ。

「今日、何時くらいになる?わたしは定時にあがれるよ」とある。

まだ昼だし正直何時にあがれるかなんてわからないのだが、そのままを返信してしまうわけにはいかないので、

「まだ微妙だけど、僕も定時目指して頑張る」と返した。自分の頑張りだけで退社時間が決まるなんてことはありえないのだが。

「りょうかい、また連絡して」とすぐに返信が来る。こちらも

「りょうかい」と返す。週に何回このやり取りを咲季としているのだろうか。いっそのこと一緒に暮らしてしまった方がいいのではと考えることもあるのだけれど、まだ踏ん切りがつかない。そこになにかタイミングがあるのかと言われれば、そんなことはないということまではわかっている。でもな、と煮え切らない自分がいる。マスターが水を注ぎに来る。この人は結婚しているのだろうか、子供がいるような雰囲気ではないけれども、モテないわけがないからたぶん、一度くらいは結婚しているんだろうな、とか妄想しながらコップをもつ左手を見ると薬指にリングはなかった。なんだ結婚はしていないのか、それとも指輪をしていないだけなのかなぁ、と思ってマスターの顔を見上げると目が合ってしまった。するとマスターは

「なにか?うるさくてごめんね」と言うので

「いや、違うんです、マスター、結婚してるのかなって」

「昔、してた」とマスター。

「えっ、と言うと、いまは?」

「してない。結婚してるの?」と逆に質問される。

「いえ、まだ」と答えると

「まだ、ってことは、決めきれないとか?」

「わかります?」

「なんとなくね、そんなニュアンスに聞こえたから、合ってる?」

「はい。なんか、毎日今日何時に会える?とか、やり取りするのがもう面倒で、だったら一緒に住んだ方が楽かなとか」


「んー、微妙だな、それ」

「そうなんですか?」

「だって理由がネガティヴだし、一緒に住んだら住んだで、何時に帰ってくる?って聞かれるよ、で、それを面倒だと思ってしまう。結局一緒」

「確かに、そうですね。どうしたらいいんですかね?」

「世の中にはさ、女性から今日何時に会える?なんて聞かれたくても誰からも聞いてもらえない寂しい男子がたくさんいるわけだから、感謝しないと彼女に。聞いてくれてんだよ、会いたいから」

「まぁ、そうですけど」

「贅沢だね、嫌ならやめちゃえ、ってことがアドバイス」

「あっさりしてますね、マスター」

「煮え切らない奴はいつまでたっても煮え切らないよ、きっかけなんてないから。自分で決めない限り。それが責任だよ。お互いにだけど」

「ですよね、マスターはスパって決めました」

「決めたよ」

「どうやってですか?」

「どうもこうも方法なんてないよ。考え方でさ、なんか時々思うんだけど、一緒になるってことをさ、自分の暮らしに相手が加わるとか、所有するものが増えるみたいな足し算的な感覚で捉えている人がいるけど、全然違うと思うんだよ。混ざるの。白に黒が、黒に白がみたいに。そうすると、お互い元の色には戻らないだろ、そういうことだよ。お互いに自分の今の色じゃなくて違う色になるっていうことを受け入れないとうまくいかない。前向きに新しい色になるって思わないといけない。今の色を少しでも残したいって思ってたら絶対無理だね、そういうこと」

「ごちそーさまー」とカレー女子がマスターを呼んだので、優馬が何も返事をできないうちにマスターは、カウンターに戻ってしまった。

 斜め後ろに座っていた若い女性客の携帯電話が鳴ってその女性は電話を持って一旦外へ出て行った。テーブルには、読みかけの単行本が置かれていて、見覚えのある装丁だと思ってタイトルを確認すると池澤夏樹の『スティルライフ』だった。自分も大学の頃に読んで、冒頭の一節が好きで今でも時々チラッと読む時がある。カレー女子学生達は「絶対また来まーす」と口々に言って賑やかに帰って行った。電話をしに出た女性はまだ外で何かを話している。マスターが戻ってきて

「ということ、わかった?」と言うので

「はい、混ざるんですよね、白と黒が」

「そう、大丈夫?僕が言っても説得力ないか」とマスターは笑っている。

「大丈夫です、ありがとうございます」と言い切って、店を出た。店先で電話をしている女性の横を通り過ぎると「あの三曲から絞ろうかな」という会話が聞こえて、一瞬目が合ったような気がしたのだけれど、電話をしながら恐らくただ視線の先に自分がいたという程度の認識だろうと思ってそのまま目をそらして去ろうとすると

「すいません」と電話の女性に呼び止められた。

「間違っていたらごめんなさい、咲季の彼、ですよね?優馬くん?」

「はい」

「わたし、前の会社で咲季と一緒だった片瀬です。片瀬綾です。二回くらい一緒にライブいったり、覚えてます?」

「あっ、はい。ブルーノートとか、東京ジャズ」

「そうです、よかった」

「ここよく来るんですか?」

「はい、時々、本読んだり、静かでいいので。今日はちょっと賑やかでしたけど。優馬くんは?」

「事務所がこの近くで、いつもランチに」

「そうなんだ、で、マスターとあんな話まで」

「やっぱり聞こえてましたよね」

「はい全部。咲季とのことですよね?」

「まあ、でも、もう決めたんで」

「決めた?」

「そう、混ざるって」

「あっ、混ざるんですね」と片瀬さんは、嬉しそうに笑って

「咲季、喜びますね、きっと」と言った。

「チラッと見てしまったんですけど、『スティルライフ』ですね」

「あぁ、あれ。そうです」

「そう。あれ、僕、咲季に薦めたというか、プレゼントしたことありますよ」


「冒頭がいいですよね」

「そうなんです、冒頭がね、いいんですよね」

「関係ないんですけど、さっき学生がカレーが絶対美味しいって言ってたの、本当ですか?」

「カレー美味しいですよ、ここの。僕は野菜を取りたいから日替わりばっかりですけど」

「じゃあ、これからカレー食べて帰ります。ちょっと二日酔いなのでちょうどいいですね」

「そうですね、いいかも」

「では、咲季によろしく。あと、混ざるの、頑張ってください」

「ありがとうございます」

優馬は事務所に戻りながら、咲季に

「今日は、定時で上がるよ」とメッセージを送った。








 打ち合わせに指定された場所は、駅から十分以上歩かなくてならないカフェだった。片瀬さんの指定だから文句を言うことも出来ないので、佐谷木はグーグルマップを片手に見知らぬ住宅街を歩いて、ようやくたどり着いた。大きな大学が目の前にある小さな平屋の一軒家がカフェになっていた。なるほど、女性が好きそうな隠れ家とやらだな、と思って納得がいく。店に入ると白い髭に帽子をかぶったマスターらしき人しかいない。てっきり小柄な女性が白い服を着て出迎えてくれるものだとイメージしていたので少し戸惑う。


「お好きな席に、どうぞ」と言われて店内を見渡すと、味のあるアンティークというか古い椅子とテーブルが整然と配置されている。どの場所も居心地が良さそうで、迷っていると「おひとりですか?」とマスターに尋ねられて待ち合わせだということを告げる。

「あっ、いえ、あとひとり、二人になります、打ち合わせで」と。

「じゃあ、奥の大きいテーブルどうぞ」と薦められて店の中で一番大きなテーブルに座る。メニューと水を持ってきたマスターに

「二人でこの大きなテーブルいいんですか?」と尋ねると、

「平日だし、この時間だから大丈夫」と断言された。

「お見えになってからのオーダーでいいですよね?」と言ってマスターはカウンターに戻って行った。片瀬さんからは十分位遅れるとメッセージが届いていたので、しばらく待つことにする。片瀬さんは、この前の電話で「あの三曲から絞ろうかな」と言っていたのだけれど、本当に納得してそう言っていたのか、仕方なくそう言っていたのかが気になっている。大手通信会社のテレビCMのコンペに出すということで、三十秒の中に必要な言葉を入れ込んだ歌を三バリエーション用意してほしいという依頼だった。歌は大人気の男性俳優件歌手が歌うことが決まっていて、決まればその歌のフルバージョンを作ってシングル曲として発売するという。作家として曲を作り始めてもうじき十年になるのだけれど、ここまで大きな仕事の依頼はほんとうに数えるくらしかなく、今回はどうしても自分の作品で決めたいと思っている。いろいろと声を掛けてくれてチャンスを与えてくれる片瀬さんの為にもそう思っている。カフェの外から片瀬さんが電話で話をしている声が聞こえる。いつも忙しそうに誰かから電話がかかってきて話をしているイメージがある。しばらくして、片瀬さんは「ごめんなさい、お待たせして」と言って向かいの席に座った。

「こんにちは」とマスターが片瀬さんの水を持ってくると片瀬さんも

「こんにちは」と答える。

「何か頼んだ?」

「いえ、まだです、待ってからにしようと」

「そう。お腹空いてたら何か食べてもいいよ、美味しいから、カレーとかも」

「片瀬さん、よく来るんですか?」

「うん、来る。静かでいいのよ、仕事はかどるし、本も読める。電話を無視しても良いような雰囲気じゃない。山の中のリゾートにいるみたいな」


「確かに、そんな感じですね、学生とかは来ないんですかね、大学の前ですけど」

「とりあえず、何か頼もう」

「はい、じゃあ、カレーとコーヒーで」

「了解、わたしはケーキにしようかな」と言って、片瀬さんはマスターを呼んで「彼にカレーとコーヒーで、わたしはコーヒーとチーズケーキ」とオーダーしてくれた。どことなくいつもレコード会社とかアーティストの事務所とかで会う片瀬さんと雰囲気が違って見えるのはこの店にいるせいなのだろうかと思ったので

「片瀬さん、いつもとなんか雰囲気違いますね、ここにいるからですかね」とそのまま聞いてみた。

「たぶん、そう。そういう店なのよ。なんかね、いつもの役割みたいものからちょっとのあいだ解放されるみたいな。店のコンセプトもそんな感じのことがホームページに書いてあったわ」

「へぇ、役割からの解放か」

「そう」

「でも、今日、打ち合わせですよね、例のCMのコンペの」

「そうね、だからここにしたの」

「だから?」

「そう。今度のCMのイメージはこのカフェがベースで作られてるの」

「ここで撮るとか?」

「イメージよ。ここにある空気感があるでしょ、わかる?なんていうかな、ナチュラルとかアンティークとかシンプルとか、かと言って甘くない感じというか、ね。男性ウケもする感じ。こういうインテリアも実は結構値が張るんだけど、きちんと使い込まれて味があって、お金お金という匂いがしないとかね」

「それを曲にも反映したいと」

「正解」

「ハードル高いですね、でもやりがいありますね。良い音楽が出来上がる気がします」

「だから、佐谷木くんにやってほしいの」

「ありがとうございます」と頭を下げた。ちょうどカレーがテーブルに運ばれてきて、片瀬さんの前にはコーヒーとチーズケーキが並んだ。確かに、過不足ないシンプルな器が使われていて、組み合わせもバランスが取れている気がする。そして、美味しい。音楽もいい。春を目前に控えたこの時期にバロックギターが心地よい。カウンターの横の壁には、ジスモンチのLPが飾ってあるから、たぶん今流れているものもECMなのだろう。


「だから、いつもみたいな、ここのメロディをこうしてとか、この歌詞をこうしてとか言う話は無し。ここにいてここを感じてもらうことが目的」

「でも、あの三曲でいくんですよね?」

「そう、基本はあの三曲。でもね、ここにあの三曲がフィットしているか想像してみて。もしどこか手直ししたほうがいいと佐谷木くんが感じたら直していいわ。その判断は任せる。あの三つに絞るまでをわたしの仕事にさせて」

「いいんですか?それで」

「そうする方がいいと思うわ。提出までまだ五日あるから、またここにひとりできても良いし、今日来たイメージだけで判断しても良いしね」

「はい」カレーを食べ終わるとちょうどいいタイミングでコーヒーが運ばれて来た。しばらく店内は片瀬さんと自分の二人だけだったけれども、近所から来たと思える女性が財布と文庫本だけを手にして入って来て、迷いなくマスターの目の前のテーブルに座った。マスターは、「こんにちは」と小さな声で言い、その女性も小さな声で「ごはんと、コーヒー、でお願いします」と言って文庫本を開いた。会話という会話が交わされているわけではないのだけれど、なんとなく親密な空気が二人の間に流れていた。


「佐谷木くん、わたし次があるから行くね」

「あ、はい」

「まだ居るならゆっくりしていけば」

「そうします」

「音源は、いつものとこにアップしておいてくれれば大丈夫だから」

「わかりました。ありがとうございました」

「じゃっ、よろしく」と言って片瀬さんはカフェを出るとすぐにまた電話をはじめた。いつもの役割に戻ったというように。残りのコーヒーを飲みながら、ぼんやりしているとまたひとり女性客が入ってきて、「三人なんですけど」と言って店内を見渡した。三人が座れるスペースは、自分が座っているテーブルだけだったので、席を移ろうとするとマスターがやってきて、

「ごめんなさい、いま、ちょっと、三名様は」と言っている。あきらかにその女性は、自分に移動しろという視線を投げているのだけれど、マスターは頑なに「ごめんなさい」と繰り返し断り続け、女性は帰って行った。マスターは何事もなかったかのようにカウンターに戻って行った。マスターの目の前に座っている女性が、

「相変わらずね、怒ってたよ、あの人絶対」と言うとマスターは、

「あの人たち、ちょっとね」と言って笑っていた。

「客を選ぶカフェね」

「お客さんも自分に合うかどうかをもっとちゃんと考えるべきだと思うよ」

「また言ってる」

「一度来れば分かるじゃん」

「そこまで考えるのは極一部よ、普通は考えないの」

「そんなものかね」

「それでよく続いてるね、この店。それが不思議」

「みんな何らかの方法でお客さん選んでるじゃない、ほんとは」

「まぁ、確かにある程度は、同じ価値観とかを共有している人たちが集まってるって思うと行きやすいけどね」

「そのための一手段だよ」

「まぁ、それで潰れてないんだからいいけど。敵が増えるよ。ネットの書込みとか」

「見ないから大丈夫」

「そう言えばCMの話どうなったの?」

「やるよ。ただ撮影はスタジオに建て込み、って言うんだっけ、セット作ってそこで。だから僕はその監修みたいな感じかな」

「ギャラ出るの?」

「出る」

「たくさん?」

「たくさん。コーヒー何杯入れたらその額になるのか計算できないくらい」

「ほんとに?」

「ほんと。大企業は規模がちがうよ。驚いた」

「でも、それやったらCM見たって言う変なお客さん来ない?」

「そこは大丈夫、セットはこことは全く違うから。空気感は一緒だけど」

「そんなこと出来るんだ」

「だからギャラもらえるんだよ」

「すごいんだね、マスター」

「今さら知った?」

と、会話が続いて行くので、佐谷木はお会計をお願いするタイミングを失っていたが、マスターはそれに気づいて

「あっ、もう行かれますか?」と声をかけてくれた。

「すいません、席」

「大丈夫、っていうか、お客さんがそこに座ってくれてなかったから、あの人たちを断れなかったから、お礼を言いたいくらいだよ」とマスターが言うと

「やめなよ、お客さんに」と女性が咎める。

「あれでしょ、CMの音楽のコンペに出すんでしょ?」

「聞こえてました?」

「店の会話は全部聞こえる」

「そうなんですね」

「僕も選曲に関わるから、もし通ったらまた会えるね」とマスターは言って、さらに

「片瀬さんだから大丈夫な気がするよ、頑張って」と言ってくれた。

「あんまりそういうこと言うと、不正に取られるよ」とまた女性が咎めると

「クライアントなんてそんなに音楽の良し悪しがわかってるものじゃないから。こっち側のプロのスタッフが決めればいいものだから」

「よろしくお願いします」と佐谷木は頭を軽く下げて、さらに「カレー、美味しかったです」と言った。

「片瀬さんも、絶対カレーしか頼まないんだけど、なんでかね」とマスター言って「またね」とまるで家に遊びにきた友達を見送るように入り口で手を振ってくれた。佐谷木は、またここに来ようと思う。CMが決まっても決まらなくてもカレーを食べに





 咲季がここに一人で来るのは、はじめてのことなので正直少し緊張している。店に入ったらマスターに最初なんて挨拶すればいいのだろうかと、まずはそこからだ。いつもは優馬が「こんにちは」と言って席まで案内してくれるので咲季はマスターに軽く会釈をするだけだった。水曜日午後三時半、カフェのドアを開ける。マスターに一番近いテーブルに女性客がひとり座っているだけだ。

「こんにちは」と咲季は自然に言葉が出て来たことにほっとした。マスターが「こんにちは」と返事をするのに被さるようにその女性客も「こんにちは」と言った。お客さんではないのだろうかと訝しんでいると、マスターが

「なんで沙夜子まで、こんにちは、なの?」と笑って言う。

「どうぞ、どちらでも」

とマスターに言われて一番大きなテーブルの角に座った。その沙夜子さんは

「あっ、ごめん、店にいた頃の癖で、つい」

「ほんと自然に言ったよね、今」

「とても、自然でした」と咲季も会話に入ってみた。

「だよね、びっくりした。もう沙夜子に店まかせようかな」

「やだよ、カフェは」

「なんで?」

「だってずっと立ってるじゃん、脚パンパンになる」

「それが理由?」

「あと、料理出来ない」

「だよね、それ致命傷。あっ、咲季さん、何する?」とマスターが話しながらテーブルまで歩いてきてくれた。コーヒーとチーズケーキを頼んでから小声で「ちょっとご相談が」と言った。マスターも「了解」と咲季の小声を真似て返事をした。その感じがなんだかおかしかったので少し吹き出して笑っていると、沙夜子さんは「なんだか、楽しそう。仲間に入れてよ」と言いながら、とてもおいしそうにごはんを食べていた。優馬とここに何度か来ているけれども沙夜子さんに会うのは、はじめてだった。優馬とは土日に来ていたから平日のこの時間に沙夜子さんは現れるのだろうと勝手に想像してみた。するとマスターが、

「沙夜子はね、夜勤明けの午後に身体と心を整えにここに来てごはんを食べる人」と説明をする。沙夜子さんは

「もうちょっと、他に紹介の仕方ないの?」

「じゃあ、元アパレルのプレス、そして、アンティークショップの店長、今は介護士」

「あってるけど、ざっくり」

「あとは自己紹介して」と言ってマスターはコーヒーをドリップしに行った。しばらくしてごはんを食べ終わった沙夜子さんはコーヒーをオーダーし

「よかったら、こっち座らない?」と自分のテーブルに咲季を誘った。どうしようかと、迷っているとマスターが

「ダメ、咲季さんはちょっと僕に相談があるんだって」

「マスター、若くて可愛い子好きだから気をつけて」と沙夜子さんが言うと

「咲季さん、新婚だから。近くのデザイン事務所の優馬くん、知ってるよね?彼の奥さん」

「えー、あのイケメンデザイナー?」

「そう」

「やっぱり可愛い子選ぶね、お似合い」と沙夜子さんは、なんだか嬉しそう。

「で、新婚にして、もう相談?」

「それを、これから僕が聞くの。沙夜子は黙ってて」

「はーい」と沙夜子さんは素直に返事をして文庫本を読み始めた。沙夜子さん以外にはお客さんはいなかったので、チーズケーキとコーヒーを運んで来たマスターは、「今ならいいけど」と行って向かいの席に座った。咲季は、こんな至近距離でマスターと話をするのは、はじめてだったのでメガネの奥の目が綺麗な二重なのを発見して、まじまじと目を覗き込んでしまった。

「なんか、ついてる?顔に」とマスターに不思議がられる。

「いえ、マスター二重なんだなぁ、て」そう言うと、離れたテーブルで沙夜子さんがクスッと笑った。

「沙夜子、耳ダンボになってるよ。本に集中して」とマスターが沙夜子さんに言う。

「ちょっと無理。この広さじゃコソコソ話しても逆に気になる。わたしも混ぜて。黙ってるから。いい?咲季さん」と言ってきたので、咲季は、特に隠すようなこともないと思っていたので「はい」と答え、沙夜子さんもマスターの横に座った。するとなんだか咲季が二人に面接を受けているような絵柄になった。咲季は、優馬のことを相談したかった。どうやら優馬は今の事務所を辞めて独立して自分のデザイン事務所を作ろうとしているようで、結婚したばかりだったので、将来が不安になってしまったのだった。今の事務所にいるからと言って安定していると言えるような職業だとは思ってはいないのだけれど、独立となるとまた話は変わってくると感じていた。マスターがこの話を優馬から聞いているのかどうかは知らなかったが、優馬がプロポーズをしてくれたきっかけもマスターの言葉だったと聞いていたので、こういう大切なことを決めるにあたっては恐らくマスターになんらかの相談をしているはずだと思ってひとりでカフェを訪ねてみたのだった。咲季が本題を話し始めようとするとマスターは

「優馬くんの独立のことでしょ?」と先に言ってきた。やはりマスターには話していたんだと思い

「はい。いつから聞いていました?その話」と尋ねてみた。マスターは

「いつからかなぁ、覚えてないけど、二人が結婚してからとかの話じゃ全然なくて、本当にずっと前。優馬は、あの事務所に入った時から独立のことは考えていて、咲季さんに出会う前にも独立の相談を受けたこともある。さすがにその時はありえないって引き止めたけどね。だってまだ一人前の仕事なんて一つもやってなかった頃だから。あの事務所の社長は昔からよく知っていてね、今みたいにスタッフをたくさん抱えてやり始めたのはここ数年のことで最初は三人だった。その頃に僕は何度か仕事をしていてね。レコードジャケットのデザインをお願いしたりして、すごくいいデザインをしてくれた。元々社長も大手のデザイン会社を若くして辞めた口だから、若手が独立したがることに関しては理解があるはずだけど、最初の優馬の独立話にはさすがに怒っていたよ。あのガキ、なめてんのかって。怖かったよ。それから優馬はどんどんいい仕事をするようになった。社長に激怒されたことで何かを見つけたんだと思う。いまは優馬なしではあの会社は成り立たないと思えるくらいだから。だからこそ今なんだと思っているんだと思うよ、優馬は。社長もある程度は覚悟しているようだし。そうやってまた若手を育てて巣立っていってというのを繰り返して会社は強くなるとか言ってたけど。内心は優馬にあとをついでほしいと思っているのかもしれない。そういうタイミングで咲季さんと結婚した。咲季さんとしては結婚したと思ったら会社を辞める、という風に見えるかもしれないけど、結婚したからこそ、そうするべきだと考えたんだと思うよ、優馬は。守らなくてはならない大切な人がいる、だから。でも、咲季さんがいるからやっていける気がするという面も当然ある、一緒になってやってくれると思っているはずだよ。優馬から相談された時、今度は薦めたよ、独立を。でも条件として、きちんと咲季さんに納得してもらってからにしろともね。勤め人の奥さんとはわけが違うからね、そこを納得してもらえって。だからそのうち話があるはずだよ、優馬から。その時に咲季さんは判断してあげて。どれくらい優馬が本気か見極めてあげて。仕事は大丈夫、絶対どんどん入ってくる。二人でやる覚悟の方が大事だから」

マスターの言葉をじっと聞いていた咲季はここで口を開いた。

「よくわかっているつもりです、優馬が独立したい気持ちは。でもわたしに何かできることがあるのかわからないんです。デザインの仕事なんて全然知らない世界だし、いままで優馬の仕事について詳しく聞いたこともないし。完成した作品は見せてもらったりはありますけど、それは一般の人と同じことで。だから優馬のサポートなんて無理かなって。そのことで彼との関係がおかしくなってしまわないか心配なんです。彼、仕事となると周りが見えなくなってしまうから」

「自然とね、役割は生まれてくるよ。最初から決めている必要はない。大丈夫。とにかく咲季さんが理解してくれて、いざという時の味方だと優馬が思えていれば大丈夫だから」とマスターは言って「なっ」と沙夜子さんの顔を見た。急に振られた沙夜子さんは、「だね」と言って、わたしに向かって大きく頷いた。その感じがなんとなく頼りになるお姉さんという雰囲気で咲季の漠然とした不安は少しほどけていった。

「咲季さん、この人良いこと言ってそうだけど、当の本人はそんなに上手くやれてないからね」

「余計なこと言わないの」

「でもホントでしょ」

「そうだけどさ、咲季さんはそんな僕に相談しに来てくれたんだから、いいじゃんそこは」

「大丈夫、咲季さん?」

「はい、マスターの話が聞きたかったんで」

「ほら」と得意げなマスター。

「よかったね、マスター。可愛い子に頼られて」

「からかうな」

「あのぉ、お二人はお付き合いしているとか?」

「してない」と沙夜子さんが即答する。

「事実婚夫婦を演じたりはするけど、ね?」

「なんですか、それ?」と気になったので聞いてみると

「あれね」とマスターが説明をしてくれた。

「昔ね、三年前くらいかな、店に電話があって、ごはんの予約で、あとちょっと二人でお話ししたいことがあるって、閉店間際に行って良いかと。その人の奥さんが僕にお世話になってるからって」

「怖いよね、その感じ」と沙夜子さんが合いの手を入れる。

「ちょうどその時、沙夜子が今日みたいにあそこのテーブルにいたから、電話の内容を話したら、なんだっけ、妄想不倫、だっけ?とか言って、電話は僕にその妄想不倫をしている奥さんの旦那で、殴り込みにくるんじゃないとか言い出して、だからこの場合、妻帯者の方がいいかと思って沙夜子に事実婚の奥さん役をお願いしたの」

「妄想不倫?」

「そう、カフェに来て、マスターと不倫しているのを妄想するお客様」

「そんな人がいるんですか?」

「それは、こっちの妄想だよ」と沙夜子さんは笑って言う。

「そっか。あと、なんで事実婚なんですか?」

「?、そうだね、普通に夫婦でよかったよね、なんでそうしてんだろう」とマスター。

「えっ、なんか理由があったんじゃないの?」と沙夜子さん。

「いや、別に」

「てっきり事実婚に意味があるんだと思ってたよ、違うんだ」

「でも、マスターの場合、その方が本当っぽい。事実婚の奥さんがいる感じ」

「それって、あんまりいい男じゃないよな、結婚に踏み切れないというか、煮え切らない奴みたい」

「昔の優馬」と咲季は、自分で言ってみた。

「言っちゃった、自分で」とマスターは笑ってくれた。

「あれだね、結局、マスターと優馬くんは似てるんだね、だから、優馬くんのことよくわかるんだよ、自分のことのように」

「そういうこと」

「よかったね、事実婚じゃなくてちゃんと結婚できて」

「はい、マスターのおかげです」

「よかったね、マスター」と沙夜子さんは言ってマスターの肩を叩いた。

「で、その怖い人どうなったんですか?」と話が途中だったので聞いてみた。

「全然いい人。いい夫婦だった。全然怖くなかった。そんなオチ。奥さんが向かいの大学の先生でね」

「そう、長年一緒にいる夫婦ならではのいい話も聞けて。咲季さんにはまだまだ到底真似のできない世界だな」

「よくわからないですけど、なんとなくそのご夫婦みたいになればいいってことですよね」

「三十年かかるよ」

「想像つかないんで、とりあえず三年先にくらいを考えてもいいですか?」

「三年でも立派。わたしなんかその日暮らしだから、ね?」と沙夜子さん。

「まぁ、一緒だな、それは」とマスター。

「やっぱり、お二人、お付き合いしたほうが」

「わたしは、良いよ、毎日美味しいごはん食べれるし、どう?マスター」

「いまでも、ほぼ毎日食べてんじゃん」

「一日三食、全部よ。わたしが料理無理なの知ってるでしょ」

「でもね、気持ちだから、沙夜子のごはんもきっと美味しいよ」とマスターは沙夜子さんにちょっとだけ、今までよりも優しく言ったように咲季には聞こえた。






 佐谷木の曲で決まってくれて本当によかったと片瀬は思う。最終選考で決まらずに悔しい思いをしたことが今まで何度あったことか。佐谷木の音楽センスを買っていた片瀬は、当初、佐谷木本人をデビューさせようと思っていたのだけれど、人前でのパフォーマンスのセンスに欠けていることがわかり、早々に作家への転身を強く勧めたのは片瀬だった。しかし細かい仕事はたくさん決まるものの代表作と呼べるような大きな仕事には恵まれずにもう十年近く経ってしまっていた。佐谷木も腐らずによくやってくれていると思いつつも、いつ辞めたいと言い出してもおかしくないと、片瀬は覚悟をし始めていたのだった。今回のこのCMと、そのシングル曲で佐谷木の名は、業界内で一定の知名度を獲得することが出来て、仕事も選べるようになった。これからは、佐谷木のポテンシャルを維持するように仕事を吟味し、いかに長く活躍させられるかが片瀬の仕事の重要な役割となる。マスターにもお礼というが挨拶に行かなくてはいけないと思い、カフェに足を運んだ。ドアを開けるといつものカレーの匂いがした。カウンターに一番近い席に若い女の子がひとり「美味しいやっぱり美味しい」と言ってカレーを食べていた。片瀬は、いつもの奥の席に座り、メニューと水を持ってきてくれたマスターに立ち上がって

「その節はありがとうございました。お陰様で佐谷木の曲で決まってほっとしています」と丁寧に挨拶をした。するとマスターは

「よかったですね。佐谷木くんも何度か来てくれてます。カレー食べに」

「はい、聞いてます。わたしも今日は、カレーをお願いします。あとコーヒーも」

「了解です。しばらくお待ちください」と言ってマスターは、カウンターの中に入っていった。カレーを食べていた女性は、最後の一口を頬張り、

「やっぱり、宇都宮来てくださいよ、カレー作りに」と言っていて、もしかしたらと思って顔を見ると、やはり以前学生三人でカレーを食べていたうちのひとりだった。一応、社会人になったからか前の印象よりもどことなく落ち着いていて、髪もさっぱり短くしていた。しかし話し方は相変わらずで

「ほんと来てほしー、ウチに」と繰り返していた。

「いつまでこっちにいるの」とマスターが聞くと

「研修は、五日間だから、火曜日。で、木曜からまた出社。だからまた水曜日に来ようと思えば来れる、やってる?」とほぼタメ口。

「やってるよ。水曜なら沙夜子が来るよ、多分」

「えー、あたしあの人好き、あいたい!何時に来れば会える?」とまたタメ口。

「いつもは三時くらい」

「びみょー。帰んなきゃいけない日だから。どうしよー」

「まぁ、でも百パー来るとは限らないから」

「えっ、今聞けないんですか?沙夜子さんに」と今度は敬語。沙夜子さんが絡むと敬語なのだろうかと片瀬は分析をする。やはり女の先輩は敬語ということか。マスターにはタメ口でも。マスターがカレーを運んで来て、

「リナちゃんのおかげで、この方はいつもカレーを頼んでくれるんだよ」と紹介というか話を振ってくれた。そのリナちゃんは、

「えっ、どういう意味?」と今度はタメ口。

「あっ、前にお友達三人でカレーを食べている時に、わたしはここにいて、あなたが、美味しい美味しいってずっと言っていたから、気になってしまって」

「あっ、もしかして、卒業前に来たとき?」ややタメ口。

「そんな感じだったわ、また来れるかなぁ、とか話していたから」

「ですねー、うるさかったですよね、あの時。もう来れないかもって思うとテンション上がりまくりで。でも、本当に美味しいですよね!」と元気一杯だ。片瀬には、その無邪気な元気さが羨ましく、眩しく見えた。

「あっ、どうぞ、カレー」と言って、リナちゃんはマスターのほうに向き直った。 一応気遣いは覚えたようだ。片瀬のスマホには、不在着信とメール受信の通知やラインのメッセージなどか次から次へと表示されていたが、ここにいるときは無視をすることに決めて来たので放っておいて、カレーを食べることに集中した。リナちゃんが急におとなしくなったので何をしているのかと思っていたら急に大きな声で

「夜行で帰る、だから水曜にまた来る、カレーお願いします!」

とマスターに告げた。

「了解。沙夜子も来るつもり、って返事がきた」

「やったー。久しぶり沙夜子さん。まだひとり?」

「自分で訊いたら」

「マスター、なんか知ってたり?」

「だから自分で訊いてみたら、って」

「気になるー。水曜楽しみ。マスターわたしもう行きます。これからカラオケです」

「これから?」

「はい、同期の子たちと。では、また、水曜日。お会計は?」

「カレー千二百円」

「あれ、値上げした?」

「ちょっとね」

「大丈夫、社会人なんで」と言ってリナちゃんはお会計を済ませて、帰り際に私にも「お先に失礼します」と挨拶をして帰って行った。あのくらいの年代だと、カラオケでは何を歌うんだろうと考えてみたが、見事になにも浮かんでこなかった。自分が全くカラオケには行かないのと、こういう仕事をしているのに、ヒット曲にほとんど興味がないのが原因で、果たしてそれでいいのだろうか思う。特に最近は、どんなヒット曲を聞いてもなにも感じなくなっている。以前は、だれが書いた曲なのかすぐに調べてみたり、ただ単純にやられたな、という嫉妬に似た気持ちが湧いてきたりもしたのだけれど。正直、そろそろこの仕事も限界かなと時々思う。十代から二十代の若者に受ける楽曲のディレクションは、もう感覚だけで出来る年齢を超えているのだ。統計とデータで理論武装しておかないと、仕事にならなくなってきている現実がある。だから佐谷木にあの三曲にしぼらせて、こうして採用される結果になったことに心底ホッとしている。あの三曲にしたのはデータなどの裏付けがあったわけではなく、ただ自分が感覚だけで選んだものだったからだ。もし今回、三曲とも落選していたら今後は、自分の感覚だけで作品を選ぶのはやめようとも思っていた。今回はいい結果になったけれども、次もそうなるという保証もなければ、自信もない。果たしていつまで自分はこの仕事ができるのか、漠然とした不安が頭をよぎる。今の仕事以外に自分に何か出来るとは思えないし、はたまた咲季みたいにいい男を見つけて結婚出来るなんてことも全く想像できない。せっかく佐谷木くんがいい仕事を取ったというのに、なぜこんなことを考えてしまうのだろうか。片瀬は、さっきの無邪気なリナちゃんのような時代に戻りたいと思った。何もわかっていないが故の、無敵な時代に。さっきからレコード会社のディレクターからしきりに電話がかかってきている。この頻度は、おそらく緊急なトラブルなのだろうから、そろそろ無視するのはやめておこうと思い、店の外へ出て折り返し電話をした。やはり片瀬の想像通りの厄介な問題が発生していた。佐谷木くんのCM曲のシングルリリース用のフルバージョンの歌入れをしていた大物タレントが、歌詞の一部が自分のイメージではないから変えてほしいと言っているというのだ。つまりは気に入らないと。歌詞も佐谷木くんが書いているので直させることは可能だけれども、その場合、CMありきの曲なので一応クライアントへの確認も必要になって来るのだった。おそらく大企業なので確認作業にかなりの時間がかかると思われ、大物タレントのスケジュールを考えるとリリースまでにレコーディングが間に合わないということになりそうだという。どうしたらいい?と泣きついてきたのだけれど、それは自分が考える立場ではないというのが正直ないところで、直してほしいというのなら佐谷木のケツを叩いて書かせる、というのが自分の役回りでしかないと思った。しかし、その若いディレクターは、なかなか電話を切ろうとはしなかった。話をしているうちにどうやらそのディレクターは、マスターになんとか口利きをしてほしいのだとわかってきた。私に電話をしてきた理由もそういうことだったのだ。制作スタッフのなかでマスターを一番よく知るのは自分だった。加えて、マスターは昔、デビュー間もないその大物タレントの担当ディレクターをやっていたのだった。今回は、全く違う立場での関わりであったけれども、マスターに再会したそのタレントは大いに感動し、CM撮影の現場は終始上機嫌で滞りなく進行したのだった。しかしいざレコーディングとなるといつもの面倒臭い(と若いディレクターが言っていた)こだわりが出てきて、ついには歌詞を変えろとまで言ってきたという。若いディレクターが望んでいるのは、レコーディング現場に何かの理由をつけてマスターに立ち会ってもらい、作業を円滑に進めてスケジュール通りに終わらせたいということだった。ややこしいことになったな、と思ったけれど万が一、楽曲自体が変更になったり、クライアントがヘソを曲げて企画自体がお蔵に入りしてしまったら佐谷木くんの実績にも傷がつきかねないと考え、マスターに話を通すことを了承した。

「ちょうどいまマスターのカフェにいるから話してみますけど」と言って電話を切った。ディレクターは「助かりますー、ありがとうございます。よろしくお願いします」と情けない声を出していた。カフェに戻りマスターの様子を伺うと、ランチで出た食器をせっせと洗っているようだった。他にお客さんはいなかったので、カウンター越しにマスターに声をかけた。急に呼ばれたマスターは、びっくりして振り向き

「あっ、はい、いらっしゃいませ」と反射的言った。

「すいません、私です」

「なんだ、片瀬さんか、なにか追加?」

「いえ、ちょっといいですか?いま」と言って、洗い物の途中だとはわかっていたけれども緊急だという雰囲気を醸し出しつつお願いしてみた。マスターは、なんとなくわかってくれたようで直ぐに話を聞いてくれた。片瀬は、若いディレクターが言っていたことをそのまま伝えた。変な気遣いとか回りくどい言い方をしても業界経験者のマスターには直ぐ見抜かれてしまうだろうと思ったからだ。マスターは、「うーん」と唸ってからしばらく黙って考えてからこう言った。

「いいよ、やるよ。片瀬さんと佐谷木くんの為にね。正直、もうあいつとは関わりたくないけど」と。大物タレントをあいつ、と言った。

「いつどこに行けばいいか、そのディレクターに聞いてくれる?特に事前の打ち合わせはいらないから。その若者と話すとややこしくなりそうだから、任せて下さい、とだけ伝えてくれる?」

「ありがとうございます、マスター」

「深夜のスタジオとかはやだなぁ、眠くなっちゃうから」と言ってマスターは笑いながら洗い物の続きをしにカウンターの中に戻って行った。すぐに片瀬は、ディレクターに電話をしてマスターが快諾してくれたことと、打ち合わせは必要がないこと、任せて下さいと言っていたこと、伝えスケジュールを確認した。

「マスター、いいですか?スケジュールですけど」

「はーい」とまた洗い物の手を止めて来てくれた。

「来週の水曜日の十七時に乃木坂だそうです」

「あぁ、水曜かぁ、リナちゃんくる日だね」

「そうでしたね」と答えながら、マスターの中では、大物タレントとリナちゃんは同じ扱いなんだとなんだかちょっとおかしかったというか、素敵だと思った。

「まぁ、三時に沙夜子が来るから、鍵渡して二人で適当にやってもらって、店は早じまいすればいいか、ね?」と独り言だろうと思って聞いていたら、私に同意を求めて来たので、咄嗟に

「はい、大丈夫かと思います。では、それで先方に連絡しておきます」と仕事のテンションで答えると、

「なんかできる女風な口調だね」とからかわれた。

「チーズケーキ食べる?切り損ねちゃって崩れたものだけど」とマスターはコーヒーのおかわりもサービスしてくれた。マスターみたいな上司というか先輩が常に現場にいてくれたら先々の漠然とした不安なんか感じないのになぁと、思いながらチーズケーキを一口食べる。

「はぁ、美味しい」と思わず言葉が出てしまった。

「ありがとうございます」とマスターは、少し口元を緩めて言った。






 リナは重たいスーツケースを引きずりながらカフェに向かう坂道を登っていた。坂を登りきると右手の路地から歩いて来た沙夜子さんとばったり会った。お互いにしばらく顔を見合わせまま言葉が出てこなかったのでなんだか可笑しくて笑いあってから「お久しぶりです」とリナは挨拶をした。沙夜子さんは、いつものように財布と文庫本だけを片手に、上質そうな生地の白いワンピースを来ていた。相変わらず素敵だなぁとリナは思いながら沙夜子さんと並んで歩いた。

「重そうね、それ」とスーツケースを見ながら沙夜子さんは言った。

「今日、夜行で帰るんだって?マスターが言ってた」

「はい、もう一度カレーが食べたくて」

「それだけの理由?」

「はい、おかしいですか?」

「いや、いいけど。そんなに美味しい?」

「はい、沙夜子さん、食べたことないですか?」

「あるよ、あるけど、なんかいつもごはん頼んじゃう。自分で作れない感じがするから」

「あのカレーも作れませんよ、普通には」

「そうだけどね、感じよ」

「あー、やっと着いた」とリナはスーツケースを持ち上げで入り口の階段を上がると、メニューの横に張り紙がしてあるのを見つけた。「本日の営業は、十六時までとなります」とあった。すでに三時だ。

「沙夜子さん、これ」とリナは張り紙を指差して沙夜子さんの顔を見た。

「大丈夫よ、私たちは」と沙夜子さんは、何も気にせず店に入っていった。いつもよりこの時間にしては賑わっていて、いつも座るカウンター近くの席は埋まっていたので、大テーブルの奥に二人で座った。私たちの姿を見つけたマスターは、片手だけをあげて「いま行くから」とカウンターの中から叫んでいた。女性客ばかりのおしゃべりはマスターの声もかき消されてしまうほどうるさかった。しかし、私たちが席に着くとみんな次々とお会計を済ませて出て行き、結局オーダーをする前には、同じ大テーブルに相席で座っていた女性客が一人だけ残っただけになった。

「早じまいするときに限って混むんだよね」とマスターは言いつつカウンターから出て来て「こっち来る?」といつもの席を片付けてくれた。

「ごはんとカレーを取っておいたけど、いいよね?」とマスターは言って急いで作りはじめてくれた。リナは、その背中に「外に四時までって書いてありましたけど?」と声を掛けた。

「そう、ちょっと行かなくちゃいけないところがあって、戻ってはくるけど、沙夜子と二人で食べてて。沙夜子、鍵渡しておくから、もし僕が遅くなりそうだったから鍵閉めてもらっていい」と言った。沙夜子さんは

「いいけど、どこいくの?」と尋ねる。

「乃木坂、スタジオ。ちょっとだけ顔だして帰ってくる」

「あのCM絡み?トラブル処理?」

「正解」

「ご苦労さま」と沙夜子さんはあっさりと事情を理解したようだったけれどもリナにはなんのことだかさっぱりわからなかった。マスターは私と沙夜子さんにそれぞれカレーと日替わりを出し終えたら、外看板をしまって慌てて出ていってしまった。「戻るから、沙夜子よろしくね」と言って。

 リナは、沙夜子さんと向かい合ってカレーを黙々と食べた。沙夜子さんもお財布と文庫本をテーブルの角に重ねて、ごはんを食べることに集中していた。いつもの軽妙なおしゃべりが無いので、なんか不機嫌なのかなと思ってリナは少し緊張しながら余計なおしゃべりをしないでいた。ごはんを食べ終わると沙夜子さんは自分のお膳をもってカウンターの中に入っていって

「リナちゃん、アイスコーヒー飲む?」と聞いてきた。

「マスターいなくても大丈夫なんですか?」

「アイスなら出来る。ホットは無理。冷蔵庫の状況はだいたいわかるから」

「じゃあ、お願いします」

「かしこまりましたー」と沙夜子さんは冷蔵庫と冷凍庫を交互に開け閉めして、アイスコーヒーを出してくれた。私のカレー皿も下げてくれて、席に戻ってきたので、マスターが何しに出かけたのか詳しく聞いてみた。

「あたしもそんなに詳しくはしらないけど、あの人もともとは音楽プロデューサーとかでしょ、だからいまでも時々仕事を頼まれるみたい。もっぱらトラブル処理だけど、と本人は言ってた。あの人の一言で問題が解決することもあるみたいよ」

「かっこいいですね」

「どうかな、あぁ見えて怖かったみたいよ、昔は。だからみんなをビビらせて解決したことにしてたりして」

「そうなんですかぁ」

「知らないけど、頼られてるのは確かね」

「話変わりますけど、沙夜子さんとマスターって付き合ったりしないんですか?」

「この前も誰かに聞かれた、それ、だれだっけなぁ」

「やっぱみんなそうおもってるんだ」

「あっ、思い出した。イケメンデザイナーの奥さんだ」

「だれですか?それ」

「あのさぁ、あれ知ってる、Sって言う女優さんが出てるお酒のCM、あの瓶のデザインとかやってる売れっ子のデザイナーの事務所がこの近所にあってね、その奥さんがこの前ここに来て、おんなじこと聞かれた」

「知ってます、そのCM。で、沙夜子さんなんて答えたんですか?」

「事実婚の奥さんの役ならやったことあるって」

「事実婚?」

「婚姻届は出してないけど、実質的に結婚しているような状態っていうのかな」

「そうなんですね」

「の、役だよ、役、演じたの」

「状況がさっぱりわかりません」と言うと

「ずいぶん昔の話だけど。説明すると長いからさ、洗い物しながら話すよ、一緒にやろっ、そのうちマスターも帰ってくると思うから」と沙夜子さんに言われて、なぜだか沙夜子さんと二人でカフェの洗い物をしながら、その事実婚話を説明してもらった。話の中で一番印象に残ったのは、マスターは事実婚が似合う、と言われたということ。言われれば確かに事実婚っぽい、とか考えていて、ちょうどほぼ洗い終わり食器も棚にしまいきった頃に、沙夜子さんの言う通りマスターが帰って来た。「ほら、来た」と沙夜子さんは言って中からドアの鍵を開けた。

「おかえりー」という沙夜子さんはまるでやはりマスターの奥さん(事実婚の)のようだとリナは思った。

「リナちゃんと洗い物しといたよ」

「ありがとう、悪いことしたね、コーヒーでも挿れるよ」とマスターが言うのでリナは

「アイスコーヒーもいただきました」と沙夜子さんのほうを見ながら答えた。

「やっぱり、もう沙夜子にまかせられるな」

とマスターが言うと、すかさず沙夜子さんは

「だから美味しいもの作れないって」と言って氷だけになってしまったアイスコーヒーのグラスのストローをすすった。





 佐谷木は、突然カフェのマスターから連絡があってびっくりした。本当なら片瀬さんから先に事情説明があって、その後に電話がかかってくるはずだったのが、少しだけ順番が逆になってしまったということが後でわかった。マスターと話している時にキャッチでかかってきていたのが片瀬さんからの電話だったのだ。要件は、例のCM曲の件だった。片瀬さんからも、もしかしたら少しだけ手直しをお願いするかもしれないから、すぐ取りかかれるようにこの一週間のうちに締め切りのある仕事は受けないようにすると言われていた。マスターの話は、かなり具体的で、これからスタジオで歌入れがあるのだが、場合によっては、歌詞とメロディーを一部変えるかもしれないということだった。実際に変える箇所とその内容を三パターン教えてくれて、もし、その中のどれかになっても君は大丈夫か?君の作品として世に出しても大丈夫か?ということだった。正直どの変更パターンも、佐谷木には許容範囲で、もっと言ってしまえば違いは微々たるもので、指摘されなければわからない程度話のものだった。マスターは、できる限りオリジナルのままいくつもりだけれど、と言ってから、「ありがとう、また結果はすぐ知らせるから」と電話を切った。佐谷木は、マスターが示してくれた変更パターンを再度確認しつつ、プロというのはここまで細部にわたってこだわるのかと、かなりショックを受けた。それとも、それはマスターに限ってのことなのか、現場でどういう作業が進行しているのか気になって仕方がなかった。その日の深夜に、OKテイクの仮ミックスという音源が片瀬さんから送られてきた。すぐに開いて聞いてみた。マスターが示してくれた変更パターンはどれも使われていなくて、オリジナルのまま歌われていた。後で、片瀬さんが教えてくれたことだが、大物タレントは歌詞を変えたいと言い出していたが、いざレコーディングの現場にマスターがいることを知ると、そんなことは言ってないとうような顔をして、オリジナルのままを素直に歌ったのだそうだ。いったいマスターは昔そのタレントに何をしたのだろうかと、その現場にいたスタッフ達の間ではしばらく噂になったそうだ。いずれにしても無事に佐谷木の楽曲がCMに使われてシングル曲としてリリースされた。何か環境が変わったかと言えば変わったかもしれないが、実際、多額のお金(と片瀬さんが言っていた)が振り込まれるのは半年以上先ということなので生活自体は何も変化はない。自分がテレビやCMに出ているわけでもないから街を歩いていても誰からも声をかけられることもなく、気兼ね無くコンビニで買い物も出来る。買い物をしていると店内のBGMに自分の曲が流れることもあって、レジでお金を払いながら、この曲は僕が書いたんだよ、と心の中でレジのバイトさんに話しかけてみたりする。実際にそう言ったらどんな顔をするだろうか、えーっ、すごい、か、ヤバイ、頭がおかしい奴が来た、かのどちらかだろう。たぶん後者の方が多い気がすると自分でも思うから実際には黙っている。作家というものは、そこそこ売れてもこういう環境は変わらないのだろうと思うと、なかなか良いものだと改めて思った。マスターから電話をもらって以来、カフェに行っていない。そろそろカレーが食べたいと思っているのだけれど、片瀬さんが、今度一緒に行ってお礼を言おう、と言うのでひとりで先に行くわけにはいかず、片瀬さんからの連絡待ちになっている。コンビニでもカレーを買うのを我慢する。大きな仕事が無事に終わった後に、最初に食べるカレーは、マスターのカレーであるべきだとなんとなく思うからだった。






 優馬が辞めた穴をどう埋めていこうかと、野田貴之は秘書の宅間さんともう一時間以上議論している。実際に優馬から辞表が出されたわけではないのだけれど、ほぼ百パーセント辞めるのは確実なのだった。宅間さんは、まずは求人を出す事が一番だと考えていて、野田はこれを機に事務所の仕事の内容を見直したいと考えている。自分もデザインがしたくてこの会社を作ったはずなのに、規模を大きくする方向に会社をもっていきだしたら経営者の雑務に追われ、現場から遠ざかってしまっている現状に嫌気がさしているのだ。規模を縮小するなんて経営者がやることじゃないという宅間さんの言い分ももっともなのだけれど、野田は、もう一度、自らデザインをしたいという気持ちの方が優っていると自分ではわかっている。しかし、いまのスタッフ達の生活も考えなくてはならない。だから結論が出ないのだ。カフェはランチタイムを過ぎているので、お客さんは自分たち二人の他には、女性客がひとりしかおらず、マスターも手持ち無沙汰にカウンターに座って本を読んでいる。おそらく自分たちの会話は全て聞こえているだろうと思い、野田はマスターに声をかけた。

「どうしたらいいと思う?マスター」と。

「野田さん、決めてるでしょ、結論」

「そうなんですか?」と宅間さんは怖い顔をする。

「宅間さんも、わかってるでしょ、野田さんの性格。そうしたいと思ったらもうそれだけ。だから、そうするための段取りとか、方法を具体的に決めていけばいいんじゃない」

「野田さん、どう決めてるんですか?」と宅間さんが詰め寄ってくる。仕方なく野田は

「小さくする。最初みたいに」と答えた。

「あぁ、言っちゃった」と宅間さん。

「最初、三人でやってたみたいに。僕と喜一、と宅間さん」

「いまさら三人だけで何が出来ますか?私だってもうマック使いこなす自信ないです。喜一もあんまり無理のきく身体じゃないし。野田さんできますか?デザイン」と宅間さんはいつもまっとうな事を言ってくれる。

「やりたい、それだけ。出来る範囲で。考えてるのは、今年入ったミナちゃんだけ残して、四人でやる」

「他のスタッフは?」

「知り合いに紹介するか、優馬のところに行ってもらう」

「野田さん、そこまで決めてるなら、もう優馬を呼んで話したら。あいつ奥さんのこと気にして煮え切らないでいるから。この前、咲季さんが来たんだよ、どうしたらいいでしょうって。あれからひと月くらい経つけど、なんにも言ってこないから、あいつにはちょっと、背中を押してやることが必要な気がする。ちょっとだけね。あいつの才能を生かすには」

「最後まで手がかかるな、あいつ」と野田は言ってみたが、

「野田さんも、そうだったよ、独立する時」とマスターに言われて、確かにお世話になった社長に呼び出されたことを思い出した。

「喜一には、話したんですか?」と宅間さん。

「あぁ、あいつは僕に任せるって、いつもそう」

「らしい」

「一応、もう絵だけで食っていけるから、付き合ってくれなくてもいいと言ってみたけど、やだ、って。一緒にやるって。なんかひとりで黙々と絵だけ描いてるの嫌なんだって、さびしんぼうだから、仲間に入れてほしいって」と喜一の意向を宅間さんに伝えた。 宅間さんは、黙って手元のペンをいじって何かを考えている。

「喜一くん、あの渋谷の壁画そうだよね?」とマスターが沈黙を破ってくれる。

「そう、ああいう仕事が入ると全く会社の戦力としてはあてにならないんだけどね。だからミナちゃんが要る」

「わかりました。よろしくお願いします」と宅間さんは、野田を正面から見つめそう言って、深々と頭を下げた。

「ちょっと血糖値上げたいんで甘いものたべていいですか?」と宅間さんは言い、ガトーショコラとチーズケーキのハーフ&ハーフを、野田もつられてチーズケーキを半分だけ頼んだ。マスターは、ケーキを出すと奥に座っている女性客とこちらには聞こえないくらいの小さな声で話をはじめた。どことなく親密な空気感がその二人には漂っていると野田は思った。宅間さんは、ケーキを食べながらずっと黙っている。さっき、よろしくお願いします、と言われたきり事務所の話題を持ち出していないのだけれど野田はもう少し具体的な相談を宅間さんにしたいと思っていた。しかし、なんとなく今日は、もうその話題は終わり、というような空気感が宅間さんに漂っているのだった。こういう場合、下手に話題を再開すると、宅間さんは機嫌が悪くなってしまうということを野田は経験上よく知っている。それで何度喧嘩をしてしまったかわからない。ケーキを食べて落ち着いている宅間さんをわざわざ怒らせる必要もないかと思い今日はこのままおとなしく帰ろうと思った。すると宅間さんが小さい声でボソッとと言った。

「マスターと話している人、誰ですか?」

「さぁ、知らない」

「なんか、いい感じ」と宅間さん。

「やっぱり、そう思う?」

「思う」

「だよね、今度聞いてみる」

「文庫本と財布だけもった、上質な白いワンピースね」

「了解」






 沙夜子は迷っていた。今勤めている介護施設から正式な職員として働いて欲しいと打診をされていた。パートという今の立場は、収入的には不安定だけれども、自分の時間を自由に使えるという気楽さもあって、正直、満足もしていた。施設の理事長は、とても素敵な女性でいつも母親のように沙夜子のことをあれこれ気にかけてくれていて、沙夜子も大学生の時に亡くした母親の面影を理事長に重ね合わせて見てしまうこともあった。今回の打診も理事長自らの希望だと聞かされていたので、どうにも自分一人では判断がつかなかった。こういう時の相談相手として、真っ先にいつものカフェのマスターが思い浮かぶのだけれど、いろんな人の身の上話を散々聞かされているのを知っているので、自分までもがこういう相談をして良いのだろうかと、二の足を踏んでいた。やはり、今日も近くのデザイン事務所の社長が、今後の会社のことやスタッフのことをあれこれとマスターに相談をしていた。沙夜子は、ごはんを食べ終え、コーヒーもほぼ飲み終わってしまったので、持ってきた文庫本に目を落としていた。この本は、もう何度も読んでいて、どこを開いてもストーリーの展開は分かっているので、文字を追って言葉のリズムを楽しむような読み方をしている。自分の血液の流れるリズムと言葉の持つリズムが同機してなんとも形容しがたい心地よさが生まれるのを楽しむのだ。大学に入るくらいまでは読書は苦手だと思っていたのだけれど、言葉のリズムと自分のリズムとが同機する快感を味わってからは、本を買うようになった。書店で気になったタイトルや装丁の本をランダムに手にとって書き出しの三行くらいを読めば、ほとんどの場合、自分のリズムと同機するかどうかという判断がつくのだけれど、時には三ヶ月近くそういう本に出会えないこともあって、そういう時は何度も読んでいる本を持ち出すことになる。しばらくするとマスターはデザイン事務所の社長との話を切り上げて、隣に座った。

「で、どうしたの?」とマスターは小声で聞いてきてくれた。私も小声で、理事長からのオファーの話を手短に説明した。自分の気持ちが定まらないということも。

「定まらない理由はなんだろう?」というのがマスターの一言目だった。

「いまの状態でなんとなく満足してるから」と沙夜子は答える。

「いまの状態って?」

「パートで、時間に自由がある」

「そう。でも、理事長の申し出だから悩んでるってこと?」

「そう」

「やってみてさ、違うなって思ったらまたパートに戻れば。もしかしたら、その理事長が沙夜子が正規で働いてくれることにものすごく喜んでくれてさ、なんか更に良い関係になれれば財産だし、もしかしたら正規のスタッフになったらちょっと今までとは対応が違ってくるかもしれないし、それはやってみないとわからないことだから。変な言い方だけど、あまり人を信用しないほうがいい。最終的には自分のためになるかどうかでいいよ。それは、単純に正規スタッフで安定するということや、理事長が喜んでくれることで沙夜子が幸せになれるということも含めて。誰かの為とかでスタートすると失敗する気がする」

「そうかぁ。なんか久しぶりに誰かに本当に求められてる気がして、嬉しいのはうれしいんだよ」

「わかる。あと、いまの気安い生活もずっとだと飽きるよ、きっと」

「それも、わかる。あまり構えないでやってみればいいかなぁ?」

「うん、たぶん。やっぱり理事長と合わなかったとかになったら、うち来てよ」

「出た!だから料理できないの。それとも、それ、プロポーズ?」

「かもね」

「マスターにしては、下手ね」

「確かに」

と二人でコソコソ笑っていると、デザイン事務所の社長がお会計をして帰ると言って立ち上がった。一緒にいる女性は、沙夜子と目が合うと、軽く挨拶めいた感じで少し頭を下げて先に店を出ていった。恐らく、マスターとの会話を聞いていたせいで、そんな風になったのだろうけれども、盗み聞きされたというような罰の悪さを感じるということは全くなく、どちらと言えば、後押しをしてくれているというような信頼感のようなものを沙夜子は感じた。二人が出ていったので、沙夜子はさっきの女性についてマスターに尋ねてみた。

「宅間さんっていって、野田さんの秘書。でも、もともとは彼女。立ち上げからずっと一緒にやってて、一時期は結婚するとかしないとかいう話しも出てたけど、今はあんな感じ」

「あんな感じ?」

「長年連れ添った夫婦みたい」

「確かに」

「宅間さんはすごく優秀だから、野田さんは絶対に手放さないって言ってる、だから奥さんに尻に敷かれている感じが出ちゃうんじゃないかな、二人だけだと」

「あたし、あの人好き」

「わかる気がする、なんか似てる」

「そう?」

「尻に敷きそう」

「マスターも敷かれたい口でしょ?」

「そう野田さんタイプ」






 片瀬さんからカフェに行こうと誘いがあったのは、あのCM曲がリリースされてから二ヶ月くらいが過ぎてからだった。その間に何度かコンペに提出する曲や小さなCMの仕事の連絡はあったのだけれど、事務的な連絡を手短に済ますだけで、カフェに行く話にはならなかった。佐谷木は、片瀬さんは忘れているんだろうかと思いはじめていて、そろそろ一人でマスターのカレーを食べに行ってしまおうかと考えていた時だった。「明日空いてる?」と片瀬さんはいつもの忙しい時の勢いで電話をしてきた。こういう時、佐谷木はとりあえず「空いてる」と答えることにしている。余程の予定でない限り、片瀬さんの誘いを最優先にして他の予定を調整する。そうでもしないと次に片瀬さんから誘いが来るのがいつになるかわからないからで、場合によっては二度と同じ誘いがないまま時間が流れていくことになるという経験を何度もしてきている為だ。「二時半にマスターのカフェで。カレー食べよう」と現地での待ち合わせをして電話は切れた。マスターに会うことを考えると佐谷木は少し緊張した。今までは、片瀬さんの知り合いのカフェのマスターで、昔、音楽関係の仕事をしていた人、という認識止まりだったのだけれど、この前のCMの仕事の時にもらった電話があまりにもプロフェショナルな感じだったからだ。約束の水曜日に佐谷木は五分ほど早めにカフェに入った。入れ替わりに女性が一人席を立って出ていった。佐谷木は見たことがあると思い、あっ、と小さな声をだしていた。「こんにちは」とその女性は言って佐谷木を正面から見つめた。以前会った時と同じように文庫本と財布を持っていたので、佐谷木も間違いなくここで会ったことがある人だと分かって

「こんにちは」と挨拶をした。

「CM、よく見ますよ」と言われて、佐谷木は

「どうも。マスターのお陰で」と言い、カウンターにマスターの姿を探した。その会話を聞きつけてマスターも出てきてくれて

「沙夜子、お店の常連さん」のその女性を紹介してくれた。

「とりあえず、今は。ごゆっくり、私はかえります」と沙夜子さんは佐谷木とマスターに交互に視線を投げ、帰って行った。マスターが黙ったまま沙夜子さんの後ろ姿をずっと見ているので「どうかしました?」の佐谷木は尋ねた。

「いま、とりあえず、今は、って言ってたよね?」とマスターに聞かれたので

「はい、そう言ってました」と答えた。その言葉に何の意味があるのか佐谷木にはわからなかったが、マスターは「だよね」と言って深く息を吐いた。

「どこにしますか?」と尋ねられたので

「片瀬さんと待ち合わせで」と答えると、一番大きなテーブルに案内された。オーダーはカレーと決まっているのだけれど片瀬さんが来るまでぼんやりメニューを眺める。しばらくすると店の外から片瀬さんが電話をしている声が聞こえてきた。片瀬さんは、メールやラインではなくほとんどの場合、電話で要件を済ます。「その場で解決しておかないと忘れるから」と「相手の感情がよくわからなくてモヤモヤする」というのがその理由だと前に教えてくれた。なので片瀬さんはいつも誰かと電話をしているという印象で、それもかなり強い口調とよく通る大きな声で相手を圧倒している感がある。万人が美人だと認める容姿をしているので、周りの男性たちは、一度はフラフラと寄っていくのだけれど、仕事の電話をしている片瀬さんを見ると怯んでしまって少しずつ距離を置くようになる。いつか自分もあんな風に電話でやり込められるのではという要らぬ想像が働くのだ。(これは片瀬さんに言い寄ったことがあるというレコード会社の人が言っていた)

「お待たせ」と片瀬さんは言い、向かいの席に座って、大きく息を吐いた。さっきのマスターの吐いた感じとそっくりだと佐谷木は思った。片瀬さんはまたすぐ立ち上がって「来て」と佐谷木を手招きしてマスターのいるカウンターまで行き

「マスター、お礼が遅くなってすいません。その節はありがとうございました」と頭を下げた。佐谷木も真似て頭を下げる。他にお客さんがいたら、なんとも奇妙な光景だったろうけれども幸い佐谷木と片瀬さん二人だけだった。かなり体育会系だなぁ、と頭を下げながら佐谷木は考えていた。マスターは冗談めかして「押忍!」と答えてから

「でも、よかったよね、オリジナルのままいけて。あいつの言う直しはセンスないから」とまた、例の大物シンガーをあいつと言って笑っていた。カレー二つとコーヒーも二つ頼んで席に戻ると、テーブルの上の片瀬さんのスマホの画面には何軒ものメールの受信を知らせる表示が出ていた。片瀬さんはチラッと画面を見てからスマホを裏返して「しばらく無視」と言って微笑んだ。こういう表情や仕草はやはり美人がやると様になっていて素敵だなぁと佐谷木も思ったりするのだけれど、未だに片瀬さんを目の前にするとかなり緊張するのだった。

「お腹すいたね、もう三時よ」

「はい」

「佐谷木くん、ちょっと私、考えてることがあってね、とりあえず聞いてくれる?」

「はい」

「佐谷木くんさぁ、自分で歌ってみない?裏方の方が良いって言っておきながらいまさらだけど」

「そうですね、いまさらですけど」

「なんかね、ちょっと時代も変わって来ていて、表に出なくても売れる気がするの。ネットだけとかで。私がこの仕事を始めた時とは時代がもう違うなって最近さらに感じていて、今までの方法論とか考え方ではないところで結果が出ているなって。でも、作品が良くなくちゃダメなんだけど。逆にいうと、作品が良ければ大丈夫ってこと。ビジュアルとか露出方法とかに左右されないでいけるというか」

「はい。でも、それって、作品が絶対的にというか、圧倒的に良いってことじゃないですか」

「そうよ。だからそれをやるの。圧倒的に良いやつを。やりたいでしょ?本当に音楽が好きでね、この仕事を始めたのに、いつの間にか純粋に良い音楽だけを追求する仕事じゃなくなってしまったなって思っていて。このままだったら後悔するなって、私。この前みたいな大きなタイアップの仕事も良いんだけど、やっぱり大事にすべきポイントが違うのよね、ああいうのは。だからね、佐谷木くんがどうしたいというより、私がやってほしいってことかもしれないけど」

「どうしたんですか、急に」

「急に思いついたわけじゃないの。ここしばらく、ずっと考えてたの。このままいつまでこういう仕事ができるのかなって。佐谷木くんと私、ずいぶん歳が離れてるのよ、わかってる?いつまでも若いつもりで、佐谷木くん達の世代と共通の価値判断が出来ると思ったら、それは無理なの。そこが分かってるから、どうしようかなって。今ね、佐谷木くんに勢いがあることは分かる。それは長年やって来た感覚で間違いはないの。だから今やっておくべきだなって。でもなかなかそういうタイミングで作品づくりの機会に巡り合うことも無かったりして、終わってしまう人のほうが多いの。基本はね、佐谷木くんが良いと思うものを作ってもらって良いわ。私達はそのためのお膳立てというか、交通整理みたいなことをやる」

「私達って?」

「私と、マスターよ」

「えっ、マスター?」

「そう、ここにいるマスターよ。もう頼んであるから大丈夫。大丈夫っていうか、マスターがね、私に、佐谷木くんの作品作ったらどう?って言ってくれたの。私がこの先どうしたらいいかって相談したら。それで、いろいろ考えた結果」

「マスターが何かしてくれるんですか?」

「そう。簡単に言うと、ディレクターというかプロデューサーというか。昔みたいに。どう?」

「どうもこうも、ないですけど」

「けど?」

「ちょっと怖い、っていうか、さらに緊張する、っていうか」

「さらに?」

「片瀬さんとでさえ、僕、緊張してるんですよ、だからマスターは、ちょっとヤバイなぁって」

「大丈夫よ、いまはもうただの優しいおじさんよ、音楽通の」

「誰がただのおじさん?」とマスターがカレーを持って登場した。

「佐谷木くん、よろしく。僕はただ片瀬さんに雇われた現場監督みたいなものだから、全ては片瀬社長次第だよ」

「いや、マスターのディレクション厳しいから、私の出る幕はないかと思ってます」

「とりあえず、カレー、食べて」とマスターは言ってまたカウンターの中に戻って行った。佐谷木はカレーを食べながら、あのCM曲の直し案の確認をしてきた時のマスターからの電話のことを思い出していた。あんな風に自分の時も細部にこだわって聞いてくるのかと想像すると怖くもあり、楽しみでもあった。とりあえず今あるストック曲を全部マスターに聞いてもらうことから始めることになって、その日はあまり具体的な話はぜずに終わった。帰り際に、片瀬さんはマスターに深々と頭を下げ、さらに固く握手を交わした。そんな片瀬さんは今まで見たことがなかったので、佐谷木は戸惑ったままカフェの入り口に立っていた。

「さあっ、行こう」と片瀬さんはいつものように早足で歩き出し

「なんか楽しくなってきた。佐谷木くん、よろしくね」と言って、また電話で話し始めた。佐谷木は、片瀬さんの後ろを歩きながら、何かがはじまったのだということがようやく分かってきて、少し身震いがした。






 野田社長と宅間さんと二時間近く会議室に缶詰めになっていた優馬は心底疲れ果ててカフェに入った。午後のこの時間によく見かける白いワンピースの女性がカウンターのすぐ近くの席で本を読んでいるだけで、他にお客さんは居なかった。マスターは、ひとこと「お疲れ」と言って水を出してくれた。とりあえずコーヒーを頼んで、椅子に深くもたれかかり、野田社長と宅間さんの言葉を思い返す。結局は独立に関しては了承という以上に応援してくれるようだったけれども、同時に今の会社の規模を縮小すると言って、スタッフを一部引き受けて欲しいという話まで出てきた。そうなると独立というよりも今の会社を分社化して、その一方を優馬が代表を務めるということとあまり変わらないのではないかと思えてきたのだった。咲季と二人で新たに始める会社というイメージとはかなり違ってくる。確かに、野田社長の言うような形を取ればすぐに仕事はあるわけだし安定はするので、咲季も安心するだろうけれども、優馬はなんだか面白くなかった。苦労を買って出たいなんていうわけではないが、何か大きなものに絡め取られているようで独立という言葉の持つロマンというか野望というようなワクワクする感じが無いのが物足りなく思えた。野田社長は多分マスターには会社のことを相談していて、規模を縮小する話も、優馬の処遇に関しても既に知っているはずで、今のこの疲れ果てた自分を見れば何があったかを察知しているんだろうなと思っていたら、案の定、サービスでケーキを出してくれて、

「独立の話、まとまった?」と声をかけてきてくれた。

「はい、でもなんだか独立というより分社化って感じです」

「まぁ、確かに。でも、咲季さんは安心するんじゃない、とりあえず」

「そうだと思います」

「いい話だと思うよ。野田さんの親心だからさ、わざわざリスクを背負う必要ないから」

「そうですよね、普通は。でも、独立っていうワクワク感がないというか」

「わかる、けど今は、それは要らない。徐々に自分の形にしていけばいいじゃん。なんだかんだ言っても優馬の会社になるんだから。好きなように変えていけばいい」

「はい」と優馬は返事をしてみたものの、すっきりと受け入れるには少し時間が必要だと感じていた。

 白いワンピースの女性は、さっきからずっと文庫本に目を落としたままなのだけれど、なんとなく本を無心に読んでいるという感じではなくどこか上の空でただ活字を追っているだけといった雰囲気が伝わってくる。しばらくぼんやり見ていたら、こちらの視線が気になってしまったらしく、その女性は優馬の方に視線を向けて軽く会釈をするような仕草をして、また本に目を落とした。スマホに咲季からのメッセージが表示される。「今夜は、片瀬さんとご飯に行くので、夕飯は冷蔵庫にあるカレーでね。お願いします」と。そうだった、と咲季の予定を思い出す。ずいぶん前にここで偶然会った片瀬さんのことを咲季に話をしたら、その後、二人は連絡を取り合い頻繁に会うようになって、昔、会社で同僚だった時の以上に仲良しになっていた。あの時以来、このカフェでは片瀬さんに会っていないが、咲季の話だとよく利用していると言っていた。片瀬さんはずいぶんとやり手のプロダクションの社長だと咲季から教えられていたので、少し話をしてみたいと優馬は思っていた。独立に関して不安があるわけではないのだけれど、同じように個人で事業を始めた先輩から何か有益な話が聞ければいいと考えていた。優馬も見たことのあるCMで使われている有名な歌手の歌は、片瀬さんがマネージメントをしている作家の作品だと、咲季は自慢げに説明してくれた。加えて、その歌手はここのマスターが育てたのだとも。その育てたという意味が優馬にはよくわからなかったし、話している咲季もきちんとその意味合いが分かっていた風でもなかったので、機会があったらマスターに直接尋ねてみようと思っていた。優馬は、咲季に返信をする。「了解!いまマスターのとこでお茶してる」と。すぐに咲季から

「マスターに、よろしく。今夜、片瀬さんと会います、とお伝えして」と帰ってくる。「了解」と優馬の返信で終わる。

「今日、咲季が片瀬さんと食事に行くと言ってました。マスターによろしくお伝えしてと」

「そう、今夜行くんだ」

「あの二人、妙に仲良くなって」

「もともと同僚でしょ」

「でも、会社辞めてからは会ったりはしてなかったと思います。マスター、あのCMの曲歌ってる歌手、育てたって、ほんとですか?」

「育ててないよ、ただデビュー当時の担当。最初に出会ったプロデューサーとかは、本人にとっては恩人というか怖い相手なんだろうね。向こうは右も左もわからない新人だから」

「そうなんですね」

「だからいまだに僕の言うことはよく聞くよ、あいつは」

「片瀬さんて、よく来ますか、ここに」

「そうね、来るけど、忙しくなるとパタッと見なくなる。この前久しぶりに来たけどね。それこそ、あのCM曲の作家と。今日も咲季さんと会うってことは、いまはそんなに忙しくないのかね」

「ですね。一度、片瀬さんと色々話してみたいと思ってて。独立のことで」

「あぁ、いいかもね、業種は違うけど、開業組だもんね。片瀬さん、やり手だし」

「やっぱり、やり手ですか?」

「やり手、って言うと響きが微妙だけど、熱意があってセンスがある。なんとなく上手くやれる空気感がある、彼女との仕事は。そんな感じ」

「いいですね、理想です」

「咲季さんも、それを感じて仲良くなったんじゃない。頼れる感じがね」

「そうなんですか?」

「僕はそう思う。優馬と一緒にやるために何かを得ようとしてるんじゃない、彼女なりに、ね」とマスターは、カウンター前の席で本を読んでいる女性に話を振った。女性は顔を上げて

「そうね」と優馬の目を見ながら答えた。優馬は少し緊張して

「はい」とだけ言ってマスターを見る。

「沙夜子はね、咲季さんが相談に来たときも偶然居て、一緒に話を聞いてもらってよく分かってるから大丈夫」

「あっ、沙夜子さんですね」

「優馬くん、知ってたっけ?」

「いや、咲季がマスターと一緒に話を聞いてくれた沙夜子さんという人がいて、って言っていて、あの人なんか好きだなって」

「あら、嬉しい」

「なにその、おばさん口調」とマスターが突っ込む。

「確かに、おばさんみたいだった、やばい」と沙夜子さんは少し赤くなり、照れながら笑っていた。優馬は咲季が好きだと言っていた理由がなんとなくわかる気がした。

「沙夜子、イケメンを前にするとおかしくなるからな」

「しょうがないよ、イケメンはイケメンだから。そういうマスターも若くて可愛い子の前だと変わるよ」

「そうなんですか?」

「現に、咲季さんには、すごい優しいから」

「旦那の前で、やめてくれる、沙夜子」

「ごめんー」と沙夜子さんはまた無邪気に笑い優馬を見た。

「私たち、咲季さんと優馬くんのこと、大好きだからね、親戚の伯父さん伯母さんみたいに」

「そうだね、親まで歳は離れてないから」

「ありがとうございます」と優馬はその瞬間独立の不安や迷いが和らいでいったように思えた。






 リナは試用期間を終えて、やはり東京に帰ろうと決めた。東京に何かがあるというより、写真が諦めきれないのだった。写真で食べていけるなんて夢だよ、という周囲の声に諭されて就職をしてみたけれど、日に日に写真への思いが大きくなっていく自分をもうどうすることも出来なくなっていた。何かあてがあるわけではないのだけれど、とりあえずはバイトをしながら写真を撮る日々に戻ってみようと考えていた。大学時代を過ごした自由が丘でまたアパートを探して、これからの自分の道を探ろうと思った。まずは、マスターのカレーを食べて。突然帰ったらあのマスターはなんと言うだろうかと想像してみる。自分の写真を気に入ってくれてはいたけれども、こんな風にあてもなく会社を辞めてしまった事に対しては、怒られるかなと少し不安になる。でも、仕方ない、もう辞めてしまったのだから。覚悟をきちんと伝えれば応援してくれるだろうと、自分を鼓舞してマスターに会いに行こうと思った。会社はリナが辞めたいという意思を伝えたら、試用期間を終えたばかりだったせいか、いともあっさりと「そうですか、わかりました」と理由も聞かずに受け入れた。そんなものかと、少し淋しい気もしたけれど、会社としたら試用期間を終えただけの新人のことをいちいち考えるより早いところ次の人材を探し始めた方がいいと考えるのだろうと思うとリナもすぐに気持ちの切り替えが出来た。部屋が見つかるまで、大学時代の同級生の部屋に居候をすることにして、会社の寮をすぐに出た。溝の口に住むその元同級生の美菜という子は、大学院に進んで栄養学の勉強を続けていた。実家は岡山で農家をしていて、いずれは自分も実家に戻って農業をすると決めていて、そのための勉強なのだと言っていた。自由が丘の駅前の不動産屋で、予算優先で部屋を探してもらったら偶然にもマスターのカフェの隣のアパートに空き部屋が見つかった。確かにリナの希望家賃を条件にすると駅から徒歩十五分というカフェのあるあたりになるのは頷ける事だった。不動産屋は、駅からは遠いですけど隣に人気のカフェがあるのでオススメですと言っていた。リナはあえて、カフェの常連ですとかは言わずに、駅から離れていることをネタに値段交渉をしてみたら、三千円だけ安くなった。リナにとっては駅から近いことよりカフェに近いことの方が優先事項だったのでラッキーなスタートを切れたとこの先の自由が丘生活に少し光が射したように感じた。荷物という荷物はなかったので、すぐに美菜の部屋を出てアパートに移った。引っ越しをした日は、カフェは定休日だったのでひっそりと静まり返っていた。人がいないカフェはなにか違う生き物のようにその存在を消していた。明日、お昼にマスターに会いに行こうと決めて、その日は、何もないガランとした部屋の隅で、ホームセンターで買ってきたばかりの毛布に包まって眠りについた。カーテンのない東の窓から差し込む朝日でリナは起こされる。自然のリズムと共に身体が活動し始める感覚は心地よかった。けたたましい目覚まし時計に鉛のように重たい身体を起こされていた研修期間とは雲泥の差だと思う。カフェが開くまでまだ時間があるので、一人暮らしに最低限必要なものを買いに行こうと買い物リストを書こうとしたのだけれど、今すぐにどうしても必要なものなんてないのではないかと思えてきてカメラを持ってただ散歩に出かけた。今のリナにはカメラとシャッターを押す時間があればそれだけで良かった。お昼にカフェに戻ると、混み合っていると覚悟をしていたのだけれど、まだ一組しかお客さんはいなかった。

「こんにちは」とマスターに声をかけると「また研修?」と聞かれたので

「いえ、違います」としか言葉が出てこなかった。いつも沙夜子さんが座っているカウンター近くの席に着き、カレーをオーダーする。自分の様子が変なのをマスターは見て取ったようで、とりあえずは何も尋ねてこない。そのうちに一度満席になり、一時を回ると多くのお客さんは席を立った。波が去ってマスターは、カウンターから「どうした?辞めてきたか?」と唐突に声を掛けてきた。リナはドキリとしてマスターを見上げた。

「はい。辞めました。やっぱり写真をどうしてもやりたくて、ダメでした」

「そう、まだ若いんだから、いいんじゃない。何度でもやり直せるよ、今なら」

「マスターに怒られるかもって、思ってました」

「なんで、怒んないよ。目的があるなら。何もないのにただ辞めるとかは駄目だけど」

「はい、でも、まだ、何も決まってません、これからです、全部」

「そうね、とりあえずは、食べていかないと、死んじゃうからね」とマスターは笑って言った。

「実は、隣に住むことになりました」

「隣?このアパート?」

「いえ、こっち側」

「高田さんの方ね。空いてた?」

「はい。だから、マスター、ご飯よろしくお願いします!」

「毎日ウチで食べてたら破産するよ、さすがに。自炊自炊」

「そうですよね、じゃあ、週一でカレーにします」

「わかった。あとさ、店番頼みたくなったら声掛けていい?そしたら賄いで、食べていいよ、なんでも」

「ほんとですかー?やります、店番」

「わかった。そうさせてもらうよ、こっちも助かる」

「沙夜子さん、元気ですか?」

「あぁ、相変わらず。でも、介護の施設の正規スタッフになるかで迷ってるみたい」

「会いたいなぁ、沙夜子さん」

「そのうちに、会うんじゃない、ここで」

「そうですよね。まだ夜勤は火曜日ですか?」

「そう、よく知ってるね」

「はい、前に約束した時、夜勤明けの水曜日だったので。じゃあ、今日夜勤ですね、てことは明日来ますか?沙夜子さん」

「まぁ、たぶん。何もなければ」

「私も来てみます、明日」


 沙夜子さんは、相変わらず素敵だった。リナを見るなり

「リナちゃん、ちょっと大人っぽくなったね」と言って、いつものように文庫本とお財布をテーブルの上に置き、深く息を吐いて椅子に座った。マスターに「ごはんとコーヒー、お願いします」と言い、リナをまた正面から見つめた。リナは、全てを見透かされているようなバツの悪さを感じ

「沙夜子さん、辞めちゃいました」と先に宣言した。沙夜子さんはクスッと笑い

「もともと無理だと思ってた、あんな地味な会社」と言い

「マスターになんて言われた?」と付け足した。

「やりたいことがあるならいいって」

「あら、そんなことを。まるくなったね、マスターも」

「そうなんですか?」

「今までなら、確実に説教だよ、給料は我慢料だとか言って」

「我慢料?」

「どれだけ我慢出来たかで、給料が決まるんだって、サラリーマンは」

「確かに、私なんかゼロ円。研修で辞めちゃったし」

「そうね、ゼロより、マイナスじゃない、会社としては」

「確かに」

マスターが私のカレーと沙夜子さんのごはんを持ってきてくれて

「誰が説教だと?」と笑いながら言うと、沙夜子さんは

「まるくなったって褒めてたのよ」と切り返す。やはりこの二人は、なんだかいい感じだとリナは思う。

「やっぱり、沙夜子さんとマスターは、一緒になった方がいいと思うんですけど」と思ったことをそのまま口に出してみた。二人はしばらく黙ってお互いの顔を見つめ合ったまま、どちらかが何かを言い出すのを待つような感じになった。沙夜子さんが先に

「とりあえず、食べよっ」と言うとマスターが続けて

「僕は、いつでもオッケーなんだけどね」と冗談なのか本気なのか、リナには判断のつかない微妙な言い方をする。沙夜子さんは、その発言については特に何も反応をぜずに、黙々とごはんを美味しそうに食べている。

「じゃあ、マスター、プロポーズしたんですか?」とリナはマスターをからかうつもりで言ってみた。

「ん?」と固まったマスターに沙夜子さんは、

「まだよね、ちゃんとは」

「ちゃんとじゃないのはしたんですか?」

「そうね、しょっちゅう、そんなことばっかり言ってる、最近」

「マスター、だめですよ、そのうち誰かに取られちゃいますよ、沙夜子さん」

「いいこと言うね、リナちゃん」

「この二人、怖いなぁ」とマスターは笑いながら厨房に退散して行った。すぐにまた戻ってきたマスターは

「リナちゃん、証人ね。沙夜子、僕と結婚してくれ」と言った。沙夜子さんは、ごはんを食べる箸を置いて

「ありがとうございます」とマスターを見て小さな声で答えた。その表情は、喜んでいるのか、戸惑っているのか、泣きそうになっているのか、リナには、そのどれにも見えて、ただ固まったまま二人を見ることしか出来なかった。






 優馬くんが、前向きに色々と引き受けてくれて、宅間は一安心した。もし、野田と仲違いみたいな形で独立するようなことになったら、お互いに残念な想いだけが残ってしまい、今後の仕事も上手くいかないような気がしていた。それにしても、野田は幾つになっても子供みたいにやりたい事しかやらないというスタンスを崩そうとしない。それが彼の魅力と言えば魅力なのだろうけれども、せっかく大きくした会社をまた最初の頃のような規模に戻すことにするなんて宅間には理解出来なかった。加えて自分のことは、どうするつもりなのだろうかと、モヤモヤが増すばかりだった。一度は結婚をという話にもなったけれども、あの頃はお互いにまだ若くて将来をきちんと見通せなかった。だから断ったのだった。でも、それ以降は、お互いに付かず離れずで、二人で会社を大きくしてきた。どこかに結婚のタイミングがあったかもしれないが、それに気づかずに今まできた。いや気づかず、というよりは、見ないふりをしていただけかもしれないのだが。そろそろ、と宅間は思う。今がそのタイミングなのかもしれないと。また最初の頃に戻る今が。もう、子供を持つ歳でもないし、お金をたくさん稼いで何か他人に自慢できるようなものを手に入れたいわけでもない。ただ、毎日を気心の知れた仲間たちと楽しく充実して過ごせればいいと思っている。それは、野田も同じ想いであって欲しいと思う。自分から結婚を言い出せばいいのだろうかと思うこともあるけれども、この歳の女が結婚を迫るというのは、かなりリスキーというか、イタい気もしていて、それは最終手段だと思わなくてはいけない。そんな風に考えると、野田はズルいと思えてくる。男は、あれくらいの歳で独身でも、特に世間体を考えることもなく、加えて自分の会社を持っているとなると、それなりの社会的信用も得られる。自分も、野田と同じように会社に関わってきたつもりだけれど、いま何かが残ったかというと、そんなものは何もないと感じる。ただ野田に感謝されて、信頼されていること以外は。そこに、野田の妻という立場が加わると世間体は格段と上がることは容易に想像できる。だから、自分から結婚を言い出すのが憚られるのかもしれない。あまりに安直で、誰しもが想像できる選択だから。もう、そんなことを言っている場合ではないと分かった上でも、そう思ってしまう。

あぁ、野田はズルい。「ズルい ズルい」と気がつくと手元のメモに書いている自分に気づく。もしかしたら口に出していなかったか不安になり、カウンターの中にいるマスターの様子を伺ってみたが特に変わった感じはなかったので、大丈夫だったのだろう。野田のことを昔から知っているマスターは、私たち二人のことも当然よく知っていて、結婚するとかしないとかという話になった時にも野田はマスターに相談をして結論を出したようだった。今の二人をどう見ているのか聞いてみたかったが自分の気持ちが定まっていない状況では、話しを聞いても仕方がないとも思う。他人に相談するというのは、ある程度、自分の中では結論が出ていて、その後押しをして欲しい時にするものだと宅間は思っている。今日カフェに来たのは、野田とのことを考えるためではなく母に手紙を書くためだった。もうじき誕生日を迎える母にプレゼントを贈ることにしていた。近頃はお盆や正月でさえも色々と理由をつけて両親の住むマンションに顔を出さなくなってしまっていたので、せめて誕生日プレゼントくらいは贈ることにした。確かちょうど七十歳になるはずだった。自分の母が七十歳になるということが正直実感できない。確か、祖母は七十四歳でなくなっていた。そのことはなぜが鮮明に覚えている。朝起きると家がなんだかざわざわしていて、着替えを済ませて二階の自分の部屋から居間に降りると白い布を顔にかけられた祖母が寝かせられていた。明け方に亡くなったと父が教えてくれて、まだ身体に温もりが残る祖母の手を握ったのだった。七十四という歳は、なにか大きな病を患っていなくても寿命だということで亡くなってしまう年齢なのだとその時に、はっきりと認識した。母が祖母と同じ寿命だというわけではないのだけれど、あと四年なんてあっという間に来てしまうと想像すると、なんともやるせない気分になる。自分も同じように歳をとっているということも含めて。高校を卒業してすぐに家を出て一人暮らしを始めて、それ以来、両親とは微妙な距離をはかってきたように感じている。姉夫婦は早々に結婚し三人の子供がいて、父も母もその三人の孫の世話をすることで、十分満たされたようで、自分に対してはもう結婚や孫といった話題を口にすることはなくなった。一時期、野田を紹介した頃は、少しは結婚云々という話題も出たけれども、それも自然となくなっていた。ただ母は野田のことを、とても気に入っていて未だに時々、話題に登ることがある。母は野田のことを木崎さんと呼ぶ。それは、紹介した当時やっていたテレビドラマの主人公を俳優のFが演じていて、その役柄がデザイナーで、役名が木崎だったのだ。決して野田が俳優Fに似ているわけではないのだけれど、母は勝手にその役柄のイメージで野田を認識しているようだった。正確には、ドラマの主人公は、建築デザイナーで野田はグラフィックデザイナーなのだから全く別物なのだけれど、母にとっては、デザイナーはデザイナーで、建築であろうがグラフィックであろうが違いは無いようだった。唐突に「木崎さんは最近どうなの?」と聞いてきたりするので、何に対してどうなのかよくわからないのだけれど「上手くいってるよ」という曖昧な返事で済ませている。母が、どういう意味で受け取っているのかはわからないが、余計な心配をして欲しく無いので、野田とのことはあまり深く話さないようにしている。恐らく、このプレゼントが届いたら電話をしてきて「木崎さんはどう?」とまた聞いてくるに違いないので、そろそろ母を喜ばせる返答をしたいとも思う。母のことをあれこれ考えてペンを走らせていると「宅間さん」と後ろから声を掛けられて、ビクッとして振り返ると、そこに野田が立っていた。いつからそこにいたのだろうかと思い「いま来たの?」と尋ねてみた。

「そう。打ち合わせが長引いて、ご飯食べそこねたからここでなんかたべようかと」

「そう。じゃあ、ここどうぞ」と向かいの席を進めた。

「邪魔じゃない?なんか書いてるんでしょ?」

「大丈夫、母への手紙だから」

「お母さん、何かあったの?」

「いや、誕生日だからプレゼント贈ろうかと。もう七十よ」

「そうか」

「未だににあなたのことを木崎さん、って言ってるわ」

「木崎って、確かあのドラマのせいでだったよね」

「そう。また木崎さんはどうなの?って聞かれるわ」

「どう、って?」

「母が何に対して、どう?って言ってるのか、私もいつもわからないの」

「そうなの?母娘なのに?」

「だって、高校出てから一緒には住んでないのよ。もう、わからないわ。加えて薄情な娘だから全然顔出してないし」

「ねぇ、プレゼントって何にしたの?」

「スカーフ。一応まだオシャレはしたいみたいだから」

「俺からもさ、プレゼントさせてもらっていい?」

「いいけど、何を?」

「君との結婚」

「なにそれ?」

「だから、君と俺の結婚の報告をする。お母さんに」

「それ、プロポーズのつもり?」

「そう」

「いまいちね、それ。やり直し」

「わかった、ちゃんとやる。マスター、ちょっと、証人になって」と野田はマスターを呼びつけ、プロポーズの立会いをお願いした。

「はい、野田さん、どうぞ」とマスターはからかっているのか淡々としている。

「マスター、なんか、他人事だなぁ」

「だって、他人事でしょ?」

「まぁ、いいや。行くよ、僕と結婚してくだい」と野田は片膝をついて右手を差し出した。まるで、ねるとんだ、とつい思ってしまう。そういう世代だ、自分たちは。なので、一応ねるとん風に

「よろしくお願いします」と言って野田の差し出した手を握った。マスターは「おめでとうございまーす」

と、全くとんねるず風ではなく、また淡々と言って乾いた拍手をした。なんだか可笑しくなって三人で顔を見合わせて笑い出していた。

「さっき、ズルいズルいって言ってたのが、嘘みたいな展開」とマスター。

「やっぱり、言ってました、私」

「うん、言ってた」

「何がズルいの?」と野田が呑気に聞いてきたので、

「自分だよ」と言ってみた。野田はマスターに説明を求めるような視線を向ける。

「野田さん、とにかく、おめでとうございます」

「おめでとう、でいいのか、俺?」という野田の質問をマスターは流して、

「宅間さん、お母さんも、喜びますね」と言ってくれて、野田には握手を求め、野田もそれに応じて、二人の男は硬い握手を交わしていた。宅間はようやく喜びがこみ上げてきて二人の男同士の握手を見ながら、堪えていた涙が流れてくるのをそのままにしていた。






 佐谷木とマスターの曲作りの作業はまだ始まったばかりだったけれど、佐谷木からは「刺激的で楽しくて仕方がない」というような内容のメールがもう何通も片瀬のもとに届いていた。いちいち全部に返信をするのも面倒なので、ランダムに返信を返していると「メール届いてますか?」というメールも来て、正直鬱陶しくもあるのだが、佐谷木がこれ程までに熱心に曲作りに打ち込んでくれていることを喜ばなくてはいけないと自分を戒めると同時に、マスターには感謝の気持ちでいっぱいになるのだった。ある程度、曲が形になるまでは片瀬の出番はないので、しばらく休暇でも取ろうかと、他の仕事はあえて断ってみているのだけれど、いざ休暇といっても何をしたら良いのか、どこへ行ったら良いのか、全くあてが浮かばない自分にげんなりしてしまう。連絡をとる遊び友達と呼べる相手は咲季くらいしか思い浮かばないが、咲季とはこの前会ったばかりだし、こういう時に飛んで来てくれる恋人も当然いない。これは仕事ばかりをしてきた結果で、自業自得だと自分で納得するしかないのだけれど、この先もずっとこういう人生になってしまうのかと想像すると、すぐにでも、今の仕事をやめるべきなのではないかとも考えてしまう。昔付き合っていた彼は「仕事をしている君の方が素敵だよ」となんだか理解のあるような言葉を残し、いつの間にか自分のもとを離れて、さっさと他の子と結婚をして、いまは二人の娘のパパになっている。その彼以降は、交際という交際もせずに、この歳まで来てしまった。いまさら十代、二十代の頃のように誰かに恋い焦がれるといった恋愛が出来るとも思えないが、誰かいい人がいたら結婚はしたいと、都合のいい希望はまだ持っている。そう言えばこの前、咲季が、ご主人の優馬くんが私に会いたいと言っていたことを思い出したので、時間もあることだしとりあえず連絡をしてみることにする。取り急ぎ咲季にメールをして、優馬くんの都合を聞いてみた。咲季からすぐに返信がきて

「綾さんに優馬から直接連絡させますので、アドレス教えて良いですか?」とあった。真面目な子だと、思う。自分の女友達のメルアドを自分の旦那に教えることに許可が必要な時代なのか。どちらかと言うと、咲季が他の女性の連絡先をご主人に教えるかどうかで悩む、ならわかる気もするのだけれど。すぐに優馬くんからメールが届く。二人一緒にいるのではないかと思えるくらいの速さだ。

「片瀬さん、ありがとうございます。お忙しいと思いますので、早いほうがいいですよね?明日か明後日の夜はご都合いかがですか?」とあった。別に忙しくはない、と軽く独り言のツッコミをいれつつ

「どちらでも、私は大丈夫です。優馬くん決めてください」とすぐに返した。しばらくしてから

「では、明日で、お願いします。場所は、こちらで、十九時に→」と自由が丘の駅近くのイタリアンのお店のURLにリンクしてあった。

「了解です。では、明日」とだけ返した。

これだけのやり取りをみると、デートだと言われればそうとも読み取れるが、現実は、年下の友達の旦那の相談に乗るだけだ。それでも、仕事以外で誰かと夜のレストランで会う約束をするというのは、久しぶりに味わうなんだかワクワクする感覚だった。翌日も特に予定もなく昼間は家でゴロゴロして過ごし、約束の七時より少し早く優馬くんの指定した店に着いた。雑居ビルの二階にあるこじんまりとした店で、男子二人で切り盛りしているようだった。通された席は、壁際の二人用のテーブルで、カップルが内緒話をするにはうってつけと言ったような場所だった。スマホに通知があり、優馬くんからで、十五分くらい遅れるとのことだったので、先に白の微発泡のグラスワインを飲んで待つことにした。初々しいカップルならば彼の到着まで水だけで待つのだろうけれども、そういう関係ではない。店員さんにも、その辺りの関係性を察してほしいと思ってそうした。変に気遣いされても面倒だ。優馬くんは、慌てて階段を駆け上がってきて、店内のみんなの注目を浴びて片瀬の向かいの席に着いた。こういうところが若いのだなと思ったがそれには何も触れず、ただ「こんばんは」とだけ言って

「先にちょっと飲んでるよ」と付け加えた。優馬くんは息を切らしながら

「じゃあ、僕は、ビールください」と店員に告げた。優馬くんはよく利用しているらしく、店員も「今日は早いですね」と気安く声をかけていた。

「えーと、こちら、咲季のお友達の片瀬さん。音楽プロデューサー、です、か?」と私に確認をしながら店員に紹介をした。

「まぁ、正しくは事務所をやっていてマネージメントのような感じです」と少しだけ訂正しておいた。店員は

「あっ、はい、よろしくお願いします」とだけ言って戻っていった。片瀬は

「たいていの人は、音楽プロデューサーとかマネージメントとかいっても実際なにしてるかわかんないのよね」と優馬くんの間違いはよくあることだという意味も込めて言った。

「すいません、僕もよくわかってません。で、何食べます、何か嫌いなものとかありますか?」と優馬くんはメニューと私を交互に見ている。

「まかせる、よく来てるんでしょ?好き嫌いはないから、なんでも大丈夫よ。お腹も空いてるからオススメを一通りお願い」と告げた。

「片瀬さん、独立して何年ですか?」

「いま、八年目」

「ずっと、一人で?」

「一時期、スタッフを入れてた時期も、あったけど、ほとんど一人」

「うちは、咲季も入れると三人スタッフがいることになるんですけど、大丈夫かなって」

「なにが心配?」

「人間関係というか、人を使ってとかいうのが上手くできるかなぁ、って」

「私は、全然無理だから、結局一人。そういう相談をするには不向きな相手よ」

「そうですよね、僕も基本的には、片瀬さんタイプだと自分では思っているんですけど、だから、とりあえず咲季と二人でと考えていたんですけど。咲季と二人でも上手く出来るか心配だったのに、スタッフを二人も抱えるなんて想定外です」

「でも、前の事務所で一緒にやってたスタッフでしょ?」

「そうですけど、それぞれに現場をやっていたので、僕が上に立って何かを指示したりとかいう関係性じゃなかったんで、彼らも微妙な感じかと」

「そういうのは、マスターとかに聞いたら?」

「もう聞きました」

「なんて言ってた?」

「だんだん関係性が出来てくるもんだから、大丈夫って、最初から立ち位置とか決めるとそれに縛られてギクシャクしてしまうって」

「そう考えられる余裕があればいいけどね」

「はい、余裕なんですよね、必要なのは」

「そうよ、ジタバタしない」

「でも、不安だし、ジタバタしますよね?」

「する」

「良かった、片瀬さんもそうで。それが確認出来ただけで良かったです、今日は」

こういう年下のいわゆる、社会人としての後輩と話しているとなんだか自分も一人前のような気がしてくるのだけれど、先々の漠然とした不安が無くなるわけではない。優馬くんにそういう不安の話をしても、いいのかどうか片瀬は迷う。今日ところはしっかりとした先輩ということだけで済ませた方がいいのか、もう少し弱いところもさらけ出して本当の距離感に近づけた方が良いのかと。当然、優馬くんは今日の話を咲季に報告するだろうから、咲季に伝わってもいい内容でなくてはいけない。となると、やはりしっかり者の片瀬でないといけない。咲季と同僚だった時は、たかだか二年先輩ということだったけれど、咲季は短大卒で入社して来ていて、自分は四大卒での入社だったので、年の差はそれなりにある。なので、常に咲季に対しては、姉のような感覚になるのだった。自分に妹がいないので実際の姉妹がどういう感覚なのかはわからないのだが、頼りになる姉の役を演じているような感覚なのだった。つまりは、目の前にいる優馬くんは、義理の弟的な存在ということになる。やはり自分の弱さを見せる相手ではない。料理は、ワンプレートで出てくるものが多く、その度に片瀬が取り分けた。優馬くんの分は、男性だし若いので自分の分よりもかなり多くよそっているのだけれど、あっという間に食べ終えていた。その食欲旺盛な感じは、やはり生物としての生命力のようなものを身体中から発しているようで、頼もしく感じるのだった。それは姉といより母のような視点だと自分で思って可笑しくなってしまった。

「優馬くん、よく食べるね」

「あっ、はい。最近、満腹中枢が壊れてるんじゃないかって、まわりのみんなに言われていて。いくらでも食べれてしまう感じなんです」

「いいことよ、頼もしい、なんだか」

「そうですか?大食いって、ちょっと頭悪そうじゃないですか?」

「そんなことないよ、大丈夫。咲季は料理上手なの?」

「はい、とりあえず一通りなんでも作れるみたいですけど。僕が料理をしないので、なんでもと言っても、よくあるスタンダードなものしか思い浮かんでないですけど」

「カレーとかハンバーグとか、ってこと」

「そうです、あと生姜焼きとか、唐揚げとかパスタとか」

「ファミレスみたい」

「確かに。片瀬さんは、料理は?」

「昔、イタリアンのお店でバイトしていたから、ここで出てくるようなものは大体出来るわ」

「すごい」

「クオリティは別としてね」

「でも、料理できる人って、なんかいいですよね」

「優馬くんも、そのうち作れるようになったほうがいいよ、きっと」

「そうですよね、出来たらいいなって思います。マスターとかみたいに」

「そうよ、マスターだって、最初は全然料理しなかったみたいよ。最初っていうのは、結婚したばかりの時ね」

「そうなんですね、あのぉ、聞いていいのかわからないんですけど、マスターって離婚したんですか?いまは一人って言うのは聞いたんですけど」

「亡くなっちゃったの、奥さん」

「えっ、死別、ですか?」

「そう。ずいぶん前に、病気でね」

「そうだったんですね、なんか離婚とかするのかなぁって、想像できなかったんで、マスター」

「綺麗な人だったわ、だからかな」

「はい」

「時々、カフェにいる、沙夜子さんって知ってる?」

「はい、あの、文庫本と財布だけ持って、綺麗な方」

「そう、彼女のお友達だったみたい」

「マスターと沙夜子さん、二人だとなんか、普通じゃない空気感がありますよね、なんていうか、親密なというか、上手く言えませんけど」

「たぶん、二人の間に今も奥さんがいるからじゃない、いつも三人は一緒だったって言ってた、だからね、あの二人には二人にしかわからない距離感というか、そういう繋がり方があるんだと思う」

「付き合ってるわけじゃないんですよね?」

「うん、その辺も微妙で、二人には付き合ってるとか、恋人同士とかそういう関係性は超えているというか、なんか普通の男女の尺度じゃないとこで、成立してるんだと私は思ってる」

「うーん、なるほど、というか、正直、ちゃんと想像できてないんですけど、いい感じはいい感じですよね?」

「それは、そうよ、間違いなく」

「ついでに聞きますけど、片瀬さんは?」

「私?」

「彼氏とか」

「いないわ」

「なんでですか?つくらないんですか?」

「こっちが聞きたいわ」

「すいません、だって、片瀬さん、美人ですよね、絶対、もてますよね、絶対」

「よくある言い方すると、仕事が恋人」

「出た、ほんとにいるんですかそういう人」

「目の前に。でも、それは言い訳ね、仕事と恋人は別よ、絶対。サボってるだけ、仕事だけして、そう思ってるだけ。恋人もいて、バリバリ仕事してる人なんて、たくさんいるし」

「その気になれば、すぐできそうですけど」

「ありがとう、がんばるわ」







聡樹さん

先日はありがとうございました。まさかあのタイミングでのプロポーズだとは思ってもいなかったので、正直戸惑いました。リナちゃんも、固まってたね。でも。ありがとうございます。私は、たぶん聡樹さんからのプロポーズを待っていたのだと思います。祐未とお別れしてから、私たちの間には埋めることのできない大きな穴がぽっかり空いていたと思います。そして、その穴の周りをぐるぐる回っていることくらいしかできなかった。埋める方法なんてないと思っていた。いつも三人で過ごしていたのに、祐未がいなくなって、急に聡樹さんと二人きりにさせられてしまって、どうしたらいいのか私はわからなかった。聡樹さんの中にはいつも祐未がいることはわかっていたし、祐未を失ってしまった聡樹さんに何をしてあげられるのか、いつもいつも考えていた。でも、結局何もできなかった。ただ、聡樹さんのごはんを美味しい美味しいといって食べることくらいしか。私がいると、きっと聡樹さんは、祐未を思い出すだろうし、もしかしたら私もしばらく聡樹さんの近くからいなくなったほうがいいのかな、なんて考えたりもした。でも、そんなの淋しくてできなかった。私には、祐未と聡樹さんと過ごす時間は宝物だったから。二人が乗る車の後部座席に安心していつも座っている感じ。二人には邪魔だったこともあったと思うけどね。もう東京で生きていくことを諦めようとしていたとき、二人に出会って救われたの。だから二人には感謝しかない。命の恩人。でも、祐未が先にいなくなってしまった。なぜって、神様を恨んだわ。だって、そんなのおかしいものって。聡樹さんのほうがずっと辛いのにね。いつもね、夢を見るの、祐未の夢。夢の中で、祐未はいつも泣いていて、私には背中しか見せてくれない。だから、ただ慰めることしか出来ないの、私は。もう、仕方ないの、祐未は少し早すぎたけど先に天国にいったんだよって。一人で淋しいかもしれないけど、私はもう少しここでかんばってみるから、見守っていてって。私も聡樹さんもいつも祐未のことを思ってるよって。そうすると祐未は、ゆっくり歩き出して去っていくの。でもね、何日かするとまた祐未が現れて同じように泣いている。ここ何年もそんな風だったわ。でもね、この前、聡樹さんが結婚しよう、って言ってくれた日に現れた祐未はいつもと違っていたの。私の方を向いて微笑んでいた。だから、私は、聡樹さんとの事を報告したわ。プロポーズされたんだよ、って。許してくれる?祝ってくれる?って尋ねたわ。祐未は頷いてくれたと思う、そう私には見えたわ。そしてね、ありがとう、って言ってた。言葉は聞こえないんだけど口がそう動いていた。そして、手を振って去っていった。もしかしたらだけど、祐未は、一人で天国にいることが淋しくて泣いていたんじゃなくて、聡樹さんを一人にしてしまったことに対して泣いていたんじゃないかって思ったの。だから、私は聡樹さんと一緒にならなくちゃいけないんだって、それが祐未の望んでいることなんだって思うことにしたの。だからね、これは私から二人への恩返しみたいなもの。命の恩人だから。でも、それだけじゃないの。祐未はやきもちを焼くかもしれないけど、私は、聡樹さんが好きよ。祐未よりも好きになるつもりよ。今度また祐未が夢に現れたら、それで良いって聞いてみるわ。ダメって言われても、困るけどね。私たちの中に、祐未がずっといることは、確実でしょ。祐未のことを忘れて二人で生きていくことなんて出来ないから、聡樹さんが、祐未のことを思っていても私は平気よ。平気っていうより、祐未のことを思っていて欲しいの、ずっと。時々、私もやきもちを焼くかもしれないけど、気にしないで。同じように祐未にもやきもちを焼かせるくらい聡樹さんのことを好きになるから。そうやって、やっぱり私たちは、三人で生きていくべきだと思ってる。側から見たら、ちょっと、変な関係かもしれないけどね。ねぇ、いいでしょ?


沙夜子より




沙夜子へ

メール、ありがとう。僕の考えてることが本当によくわかるんだね、驚くよ。プロポーズをしてみたものの、やっぱり僕の中にはいつも祐未がいる。それをどう君に伝えたらいいのか、わからなかった。時には君の中に祐未を見てしまっていることもあるよ、正直に言うと。でもね、今、目の前にいて心がときめくのは君であることは間違いないんだ。祐未は、もう居ないって分かっている。君の言うように、僕らの中から祐未を消し去ってしまうことは出来ない。それは、僕らが祐未のところに行くまでずっとだ。君が許してくれるなら、祐未を思いながらでも、君と一緒になりたい。君の気遣いに甘えているのは分かっているけれども、それしか今は出来そうにない。

ほんとに、それでいいかい?


聡樹





聡樹さん

だから、大丈夫よ。

私は、祐未にはなれないけど、

あなたをこの世で一番好きなんだから。

この世でね。


PS

この前、祐未が夢に現れたから

言っておいたわ。

祐未より好きになってみせるから、って。

そしたら、笑ってた。


沙夜子より






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by ikanika | 2018-03-28 14:03 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第六回(最終話)

 完成した肖像画は、七瀬さんのインテリア取材の時に渡すことになった。そうすれば、勝間さんも七瀬さんも見れるし、と柿原さん自らが言っていた。そうなると、そばかすの少女とメガネ美人の少女は、揃うことになる。美苗の絵も持っていけば三枚を同時に見ることが出来ると思ったが、美苗の絵を持っていくもっともらしい理由が見つからず、断念した。七瀬さんの豪邸の取材は結局巻頭十二ページでの扱いになったそうで、朝から撮影をはじめても、自然光があるうちにギリギリ終わるかどうかという感じだとカメラマンの勝間さんが言っていたので、雪仁と美苗は、日が暮れる頃に顔を出すことにした。七瀬さんには撮影に立ち合うと言っていたが、下見の時点でみんなかなり打ち解けていたので、わざわざ行くこともないだろうと雪仁は判断した。絵を持って七瀬さんの家を訪ねると撮影はすでに終わっていて、三人はダイニングテーブルに座って談笑していた。到着するなり、勝間さんが「早く早く!見せて」と焦って、急かしてくる。

「俺、次があってもう出ないといけないから、早く」と、柿原さん本人を差し置いて見ようとする。多分、七瀬さんの例があるので、クラス一番のカワイイ子が出来上がっているのを期待してのことだろう。しかし、まずは柿原さん本人が先に見るべきであるのは間違いないので、焦る勝間さんを制して、柿原さんに見せようとすると、

「いいですよ、勝間さんに先に見せて。本当に時間ないみたいなので」と言うので仕方なく勝間さんに最初に見せた。

「おー、いやー、カワイイ」と野太い声で勝間さんは唸った。

「雪仁さんの妄想炸裂だ」と勝間さんが言うと、柿原さんが

「そばかすあるでしょ、それ、雪仁さんの妄想なの、冴えてるでしょ」

「教えてないのに?」

「そう、もしかしてそばかすありましたって聞いてきて」

「すごいなぁ、雪仁さん。あっ、俺、もう行きます。ありがとうございました。七瀬さん、美苗さん、雪仁さん。じゃあ、麻理、後で」

と言って、急ぎ足で出ていった。

「いま勝間さん、麻理、って言ってましたよね?」と雪仁は、柿原さんに尋ねる。

「いまさら、何言ってんの雪仁。ふたりつきあってんだよ、知らなかった?」

「そうなの?みんな知ってた?」

「あたしは、すぐピンと来たよ。下見の時」と美苗が言うと、七瀬さんも「私も」と、さらっと言う。雪仁だけが今日の今日まで知らなかったことになる。

「わかってるんだと思ってた、雪仁も」

「いや、全然。他人の彼女の中学生時代を妄想してたってことか。ヤバい人だよ」

「柿原さん本人からの依頼で、彼のいる前で頼んだんだから大丈夫。でも、また自分の好みを反映させてるの?」と美苗は意地悪く言う。

「また、って、ね。妄想で描くんだからある程度は仕方ないよそれは。了承済みでしょ」

「冗談よ、いいから早く柿原さんにお見せして」

「どうぞ」と雪仁はくるりと絵を回して柿原さんに渡した。柿原さんは、しばらくニヤニヤしながら眺めた後、「カワイイ」と一言つぶやき、雪仁を見て「冴え渡る妄想」と言った。

「髪、所々薄っすら茶髪。ほんとにこんなだった。顔がハーフっぽいからって美容室のお姉さんが試しにちょっと茶色くしてみていい?似合うと思うから、って言われて、なすがままに。そしたら、なんかヤンキーみたいになっちゃって、慌てて戻してもらったの。でも、光のあたり具合で薄っすら茶色く見えたりして、先生からも問いただされたり、意地悪な男子は、ほんとうは金髪だろ、とか言ってきて。最悪な思い出」

「あっ、ごめん。そんなこととは知らずに」

「いえ、謝らなくても、全然。今となっては、懐かしい笑い話だから。そばかすも懐かしい。いったいいつ消えたのか記憶にないの」

「やっぱり、あたしも。あたしは、中学生の時はもう消えてたけど、小学生の頃の写真を見るとみごとにそばかすだらけ」と美苗と柿原さんが話をしていると、さっき席を立ってキッチンに行っていた七瀬さんが戻ってきて、

「みなさんは、お時間大丈夫ですよね?簡単ですけど、ごはん用意してあるので、食べていってください」と、キッチンから次々と料理を運んできてくれた。テーブルの上はあっという間にホームパーティーのようにご馳走が並んだ。

「香津海、さすがだわ。やっぱりいい奥さんになる」と美苗は前に来たときと同じことを言って、

「遠慮なく。柿原さんも。香津海の料理、美味しいから」とみんなにお酒を注いだ。雪仁は、女子会に一人混ざってしまったようなこういう状態を特に居づらいと思ったことはなく、逆に男ばかりの飲み会の方が、下品でつまらないと思っている。その日も、女子トークをさらりと聞き流すとこは聞き流し、七瀬さんの料理を堪能した。女子三人は、結構ワインを空けていて、美苗もいつになくお酒が進んでいるようだった。

「ちょっとお願いがあるんですが、七瀬さんのと二枚並べてみていいですか?」と雪仁はさらっと、これといった意図はないという風に言ってみた。

「そうね、雪仁画伯の展覧会ね。あたしのも持って来ればよかった。そしたら三枚揃ったのに」と美苗は少し酔っているようだった。

「いいですね」と柿原さんは、自分の絵を壁に飾ってある七瀬さんの絵の横に並べて見せた。

「どっちもかわいい」と酔った美苗が言う。

「二人ともずるくない顔になってますか?」

と雪仁は尋ねる。

「確かにそう、ずるくない顔だ」とまた美苗。

「ほんとに三枚並ぶと面白かったかも」と七瀬さんは、いつもの小さな声で言う。

「ちょっとかわってください」と柿原さんは、自分の絵を雪仁に渡して、二枚を眺めた。

「うん、ずるくない顔、いいですね、今度、美苗さんのも見せてください」と柿原さんは美苗に言葉をかけたが、ほとんど酔って寝ている状態だったので、雪仁が代わりに、

「ぜひ、どうぞ」と答えた。

「雪仁さん、ありがとうございます。家に帰って早速飾ります。何かお礼を。どうしたらいいですか?」と柿原さんが言うので

「いえ、大丈夫です。ただ楽しんで描いてるだけなので、ほんとに」と雪仁は答える。

「私もお礼、まだです、ごめんなさい」と七瀬さんもいつもの小さな声で言う。

「七瀬さんは、ごはんご馳走になってるし」と雪仁が二人の申し出を断っていると、

「雪仁、じゃあ、二人にクロール教えてもらえば」

と美苗が冗談なのか本気なのかわからないことをほぼ寝言のようにぼそっとつぶやき、

さらに「正夢ね」と、付け足した。

雪仁は、二人にクロールを教わったからと言って、現実が書き換わる訳ではないのはわかっているのだけれど、

美苗の「正夢ね」というひとことが引っかかって、じゃあ、教わろうかな、なんていう風に簡単には答えられなかった。

 帰り道、美苗はさっきの「正夢ね」という発言はもう忘れてしまっているかのようだった。

「茶髪の話、びっくりしたね」と美苗。

「ほんとに。やっぱり、浜のマリー、は居たね」

「ほんとだよ、柿原さん、本物のヤンキーだったらどうする。美容室の話も実際は金髪にしてたのを学校で注意されて、仕方なく黒くしにいったとか」

「そっちの方が、よくある話ではある」

「だよねー、どうする、私のヤンキーの過去を暴きやがったな、雪仁。覚えてろ!って、昔の舎弟とか集めてしばきにきたら」と美苗は大笑いしながら雪仁の肩をパンパン叩いてくる。ちょっと酔っているのか、かなり上機嫌だ。

雪仁は、「まさか」とつぶやき、美苗の手を握って家まで帰った。その間ずっと、「正夢ね」という美苗の声が耳から離れなかった。

 クロール美人の正体が七瀬さんと美苗とわかってからは、ジムのプールの神秘性はなくなってしまい、どこか魅力が薄れてしまったように雪仁は感じていた。もともとそんなものは存在していなかったのだからプール側からすると何も変わってはいないのだけれど。ただ雪仁の気持ちの問題でしかないのだ。今まで通り、ただクロールの練習に励めばいいのたが、どうも身が入らない。そして美苗の「正夢ね」というひとことがいつまでも気になっている。

「結局、あの二人は雪仁にお礼をすることになったの?」と朝のコーヒーを飲みながら美苗は、尋ねる。

「美苗は、あの日のこと、どこまで覚えてる?結構飲んでたけど」

「柿原さんとそばかすの話をしていた。で、何かお礼をといって、雪仁がいいです、大丈夫ですって断ってた、あたりまで」

「そのあとは?」

「なんか、手繋いで帰ったよね」

「あまりにもふらふらしてたから」

「あたし、なんか失礼なこと言ってなかった?二人に」

「いや、大丈夫だよ」

「なら、よかった。記憶なくすの怖いね、ちょっと飲みすぎたね」

美苗は、二人にクロールを教えてもらえば、と言ったことと、正夢ね、と言ったことは覚えてないようだけれど、だとしたら、それが、美苗がほんとうに言いたかったことなのかもしれないと雪仁は思った。美苗の心の内にあるものの正体を、少しだけ覗き見てしまったように感じた。

 明け方に夢を見る。いつもの夢だ。いつものプールに浮かんでいるといつものように飛び込み台に女の子が座って、白いスカートから伸びる細い足をぱたぱたさせている。でもそれは片想いの女の子ではなく、美苗だった。

「どうしたの?」と僕は聞く。

「あたしは雪仁にクロールを上手く教えられないね。いつまでたっても上手くならないのはあたしのせいね」

「ごめん、僕がちゃんと練習しないからだよ、美苗のせいじゃない」

「誰か他の人に教わる?七瀬さんとか柿原さんとか?」

「なんであの二人に?」

「だって雪仁は、二人に絵を描いたよね。代わりにクロールを教えるという約束じゃない?」

「その約束は、美苗としたからもう大丈夫」

「でもクロールは上手くならないよ、きっと。それでもいいの?」

「練習するから大丈夫、練習するから大丈夫」と言って目が覚めた。

隣で寝ていた美苗は、

「なんの練習するの?」と普通に聞いてきた。雪仁も

「クロール」と普通に答える。

「夢でも泳いでるの?熱心ね」

「僕、なんて言ってた?」

「練習するから大丈夫、練習するから大丈夫、って二回」

「それだけ?」

「うん、それだけ。どんな夢だったの?」

「えーと、とにかく練習しないとヤバイって夢」

「誰かに脅されてるとか?正夢にならないといいね」

「そうだね、脅されるのは嫌だ」

「今朝も泳ぎに行く?それとも、もう起きて朝ごはん食べる?早いけど」

「ごはんにしようかな、コーヒー淹れるよ」

「練習しなくていいの?また寝言いうよ」

「大丈夫、練習するから」と言って、雪仁はベッドから抜け出しキッチンへ向かった。


(終わり)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

あとがき


『二人の居場所』から始まった一連の短編は、ここで一旦終わります。

『二人の居場所』と『季節のリレー』はカフェが舞台として登場しますが

後半の二作『走る君を、見ていた』と『揺らぐポートレイト』は

それぞれに関連性はありますが、カフェという舞台から一度離れています。

遠い昔の中学生時代とカフェを始める前にやっていた音楽関係の仕事をしていた時代が

それぞれの舞台となっています。

結局、自分が歩んできた道から物語が生まれてきているので

読み返してみると登場人物に自分の思いをかなりの部分投影していることに

気づきます。(誰に投影しているかは、ご自由にご想像ください)


自分がどこまで何が書けるのか試してみたいという思いから

始めたことですが、今のところ、書くことが楽しいので

まだしばらくは書き続けていくような気がしています。

楽しみにしていると言って下さる皆さんには、

この場を借りて、改めてお礼を。

ありがとうございます。


次に今書いているのは、再び舞台はカフェになっています。

カフェに集う様々な人の物語を、それぞれの視点と立場から

ランダムに描いています。物語は現在進行中ですので

完成まではもう少し時間がかかるような気がしています。

書き上がりまで、しばらくお待ちください。


今回もお付き合い、ありがとうございました。


cafeイカニカ

平井康二






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by ikanika | 2017-09-16 22:50 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第五回

 美苗に来た差出人不明のメールは、やはりカメラマンの勝間博だと判明した。美苗の知り合いの編集者曰く、深沢に撮影スタジオを兼ねた古い一軒家を借りたということだった。美苗は、早速『深海』の件もあったのでメールをしたようだった。

「いきなり何年も前に貸したCD返してって言うのも微妙だから、新しいスタジオを見に行きたいってことで連絡したの。で、来週の水曜日の午後に行くことにしたんだけど、雪仁、一緒に行ける?」

「夜に打ち合わせがあるけど、午後なら大丈夫」

「よかった。じゃあ一緒に行こう。あと、香津海も誘ったから」

「行くって?」

「うん、自分と間違えられた人がどんな人か気になるって。あとスキンヘッド見たいって」

「スキンヘッド?」

「生で見たことないって。いままで自分の周りにはそういう人はいなかったって」

「実は、変わってる?七瀬さん」

「ナチュラルね」

「天然ってこと?」

「そうとも言うわ」


 翌週の水曜日、三人で勝間さんのスタジオ兼自宅を訪ねた。うちからも七瀬さんの家からも歩ける距離だったので、一旦うちに集合してから向かった。かなり古い一軒家で、玄関で呼び出しベルを鳴らすと、ドアが開いて、スキンヘッドではない勝間さんが現れた。七瀬さんは咄嗟に「スキンヘッド?」と口走り、それは勝間さんの耳にも届いた。勝間さんは、肩まで届くロン毛になっていた。

「あっ、いまロン毛です」と勝間さん。

「こんにちは。お邪魔します。久しぶりですねー」と美苗が七瀬さんのスキンヘッド発言を無視して先陣を切った。

「どうも」と雪仁、そのあとに、顔を赤らめた七瀬さんが続く。

「この廊下の先がスタジオなので、そっちのが広いのでどうぞ。住まいの方はまだ片付いてないので」と勝間さんのあとを三人でついていく。もともと相当広いお屋敷だったとみえて、スタジオは、想像以上に広く天井も高かった。

「これだけ広いとなんでも撮れそうですね、外で借りる必要ないですね」と雪仁が言うと、勝間さんは

「そうなんです、逆に貸せます。お知り合いで使ってくれる方がいたら紹介してくだい、美苗さんも」となんとなく営業モードになった。

「勝間さん、紹介しますね、七瀬香津海ちゃん」

「こんにちは」といつもに増して小さな声だ。

「こんにちは、カツマヒロシです。以前、美苗さんにお会いしたときはスキンヘッドにしていたんですけど、いまはこの通り」

「ずいぶんイメチェンですね」と美苗。

「ほんとはスキンヘッドにしたいんですけど、まわりに子どもが多くなって。仕事仲間とか、そういう年代じゃないですか、スキンヘッドだとほぼ泣かれるんです、子どもに。だからしばらくはやめようと」

「なるほど。ちゃんとした理由」と美苗は妙に納得している。

「香津海、生のスキンヘッド見たかったんですよ、ね」

「ナマ?」と勝間さん。

「はい、写真とかテレビでは見たことあるんですが、生ではなかったので」

「天然なんで、気にしないでください」と美苗がフォローすると七瀬さんは、

「すいません、先ほどは、いきなりスキンヘッドって言ってしまって。てっきりスキンヘッドの方が出てくるものと心構えをしていたので、つい」

「大丈夫です、おもしろいですね、七瀬さん」

「そうですか」と七瀬さんは、また顔を赤くしている。

「あと、勝間さんの最初のメール、名前がなかったやつ、あれ、最初は香津海からのメールだと思ってたんです。ktmって、母音抜きで、カツミとカツマも一緒でしょ。で、hrsは、勝手に広瀬さんとかと結婚したんだと妄想して、カツミヒロセだと」

「すごい、妄想力」

「でも、ありそうでしょ?」

「あるある、ちゃんと苗字と名前を反対にしてるし、僕のはそのままにしちゃってて、あとから名前苗字の順番にすればよかったっておもいましたよ」

「ほら」と雪仁。

「香津海は、偶然奥沢に住んでて、この前ばったりあそこのスーパーで会って。で、メールのこと聞いたら違うっていうから、ずっと誰だかわかんなかったんですよ」

「ごめんなさい、ほんとに、そんなことになってたなんて。てっきり署名がついてるかと思って送ってました。よくわかりましたね、僕って」

「雑誌見てたら、偶然、勝間さんの写真があって、閃いた」

「かなりの名探偵ぶりだったよ、美苗」と雪仁は言ったあと、美苗は忘れていそうなので「ミスチル」と囁いた。すると、美苗は

「あと、ミスチル」と唐突に言った。すると勝間さんは、

「シンカイ!」と合いの手のように応えた。

一番驚いたのは七瀬さんで、「すごい」と呟いていた。

「この前テレビ見てて、ミスチルの特番。そしたら『深海』借りてたこと思い出して連絡しなきゃと思ってたら美苗さんからメールがきて」

「あたしも見ました、それ。で、『深海』聞こうって思ったら無くて、雪仁に聞いたら勝間さんが借りていったと。あたしは忘れてたんですけど」

「見せてもらっていいですか?シンカイ」と七瀬さんが、小さな声で言うと、勝間さんはテーブルの引き出しからCDを取り出した。

CDを受け取った七瀬さんは、ジャケット写真をしばらくじっと見つめたまま黙っていた。

「どうしたの、香津海?」と美苗が聞くと

「なんか、イメージとちがって」

「シンカイの?」

「私のは、魚がいます」

「深海魚ね。でも本当の深海は、真っ暗だよ」と雪仁。

「それじゃあジャケットにならないでしょ。でも貸してあげる」

「あれっ、美苗さん聞かないの?」と勝間さん。

「聞くよ。でも先に香津海」

「七瀬さん、ちょっとシンカイに縁があって」と雪仁。

「シンカイに縁?」

「はい。私の大切なものが深海に沈んでいるかもしれなくて」

「うん、よくわからないけど。やっぱり不思議なこと言うね」

「詳しくは今度またね」と美苗が遮って、深海話はとりあえず終わった。

「勝間さんは、まだあのインテリア雑誌やってます?」

「はい、やってますけど、なにか?」

「香津海の家、すごいの。もし、取材先探してたら、絶対いいよ、ね」

「でも、お父さんの許可はいるよね?」

「取材ですか?」と七瀬さん。

「そう、ウチも取材してもらったインテリアの雑誌。謝礼はちょっとだったけど、記念に」

「はい、謝礼とかはいいんですけど」

「それはそうね、香津海んち、お金持ちなの」と美苗が勝間さんの顔をみる。勝間さんは、

「そんな雰囲気してます。なんか世の中との距離感が。スレてない」

「そんなことないです。ただいまはたまたま父の事業が上手くいっているというだけのことで、お金持ちの家柄とかでは全然ないんです」

「でもさ、ほんとにお父さんOKだったら受けなよ取材。あたしたちも立ち合うからさ、大丈夫」

「立ち合うの?ただ七瀬さん家に行きたいだけじゃん、美苗は」

「そうよ、何か悪い?香津海、いいよね、また行っても」

「あ、はい。いつでもどうぞ」

「言わされてる感あるけど」

「大丈夫大丈夫。勝間さんも見てみたいでしょ?一人暮らしの女の子の豪邸」

「気になりますね。一人暮らしで豪邸」

という流れで、七瀬さんはお父さんに確認したら「場所とか住人の名前が出なければOK」で、あとメイプルソープの写真は撮さないこと、という条件だった。理由は、言えないとのことだそうで、お金持ちには我々にはわからない事情があるのだろうと深くは聞かなかったが、幸いメイプルソープの写真があった壁には雪仁の絵が飾られているのだ。勝間さんのスタジオを訪ねてから三日後に、勝間さんとライターが七瀬さんの家に下見に行くことになったので、雪仁と美苗もついて行った。一度訪ねている雪仁と美苗は、エントランスから七瀬さんの棟の玄関まですたすた歩いて行ったのだが初めての二人はさすがにその豪邸加減にびっくりしていて、あちこちよそ見をしながら、かなかなやってこないので、七瀬さんの家の玄関でしばらく待っていた。勝間さんは、

「お話以上に豪邸です」

と七瀬さんに会うなり言って、あわてて同行しているライターを紹介した。ライターは、柿原さんという女性で、おそらく美苗と七瀬さんと同い年くらいのように見えた。

「おじゃまします」と美苗が先陣を切って入って行く。リビングのすぐ目につく壁には、雪仁の絵がきちんと飾られていた。またもや勝間さんとライターは、玄関からすでに圧倒されていてなかなか廊下を進んでリビングまでたどり着けない。七瀬さんはお茶を用意してくれて、雪仁たちは、とりあえずやることはないのでテーブルの奥に座って、下見の様子を見ていることにした。

「すごくいいですね。ぜひ取材をさせていただきたいのですが、どのくらいのページを割くかを一度編集部と擦り合わせをして、ご相談させてくだい。たぶん相当数のページを割く感じになると思いますが、よろしくお願いします」と柿原さんは、少し興奮気味に話した。七瀬さんは、「はい、わかりました」といつもの小さな声で答えただけだった。資料用にと部屋の写真を撮りまくっていた勝間さんが、「この絵は、七瀬さん?」の雪仁が描いた絵の正面に立ち聞いてきた。

「はい、中学生の時の私です。雪仁さんが描いてくれました」

「えっ、雪仁さんと七瀬さんて、同級生?」

「いえ、そうじゃなくて、私の中学生の頃のものは、シンカイに沈んでしまったので、雪仁さんにお願いして描いてもらったんです」

「ますますわからなくなっちゃった。説明して美苗さん」

「どこからにする、雪仁?」

「夢のこととか省いて」

「そうね。この前、香津海が家に来た時にね、雪仁が描いたあたしの中学生時代の肖像画を見てね。私のも描いて欲しいと。理由は、引越しの時に中学校時代の物を入れていたダンボールが紛失しちゃって写真とか全部なくなっちゃったんだって。で雪仁が描いた。そういうこと」

「でも、写真とかないのにどうやって描いたんですか雪仁さん」

「想像で」と雪仁。

「いや、妄想で。香津海、美人だから雪仁の妄想が炸裂した」と美苗が訂正する。

「確かにこんな子がクラスにいたらヤバイですよね」と勝間さん。

「でた。男の言うことは一緒だね。雪仁も同じこと言ってたよね」

そこまで会話に入ってこなかった柿原さんが、

「私もお願いしたら描いてもらえますか?」と言ってきた。

「えっ、柿原さんも?」

「雪仁、やっぱり絵描きだよ、音楽やめて」

「でも、どうして?」と勝間さんがみんなを代表して質問をした。

「このくらいの歳の頃の顔って、なんだか純粋でいいなって思っていて。ずるさがないというか。高校とかに入っちゃうどだんだんずるくなるんですよね。特に女子は」

「わかるわかる」と美苗。

「それで?」と雪仁は続きを促した。

「で、こういう風な絵があれば、これ以上ずるい顔にならないように、って毎日それを眺めるの」

「柿原さん、ずるい顔?」

「あの頃に比べればみんなそうだと思います」

「同感」と美苗と七瀬さんがユニゾンした。

「あれだよね、カメラ向けると顔作るあれでしょ、ちょっと待って、とか言って」とカメラマンの勝間さんが反応する。

「そうしないと、無理」と柿原さん。

「無理」と美苗と七瀬さんも口を揃える。

「需要あるね、雪仁。描きなよ。美人限定の条件もクリアーだし」

「美人限定なんですか?」

「いや、そういうわけでは」

「妄想で描くから、雪仁」

「写真があれば、それをもとに描くけど」

「いえ、妄想の方が楽しそう。妄想でお願いします」と柿原さんは、目を輝かせていた。

「なんと。そうなるとちょっとイメージの元になる個人情報が必要ですけど、大丈夫ですか?」

「はい、なんでも」

「あっ、七瀬さん、下見に来たのにこんな話になってしまって大丈夫ですか?」

「私は、全然」

「じゃあ、せっかくだから、聞かせてもらっていいですか?どこからでも、いいですが、中学校を卒業するまでの話で大丈夫です。それ以降の情報は必要ないです」

「なるほど。生まれたのは横浜です。元町とか中華街のあたりです。でも、いわゆる山手ではないです。下町です。父は植木職人で、母はパートで家の近くの鰻屋さんで働いていました、私が中学生の時は。弟が一人います。五歳下です。商店街のすぐ裏にある小さな家に住んでいました。借家というか、父の働いていた植木屋さんが持っていた家だったと思います。いつも父は仕事が終わると同じ職人仲間を家に呼んでお酒をのんでました。そういう時は、母がパートで働いていた鰻屋さんからうなぎを持って帰って来てくれるので、嬉しかった記憶があります。どちらかというと、裕福な家庭ではなかったのでそれが一番のご馳走でした。中学は陸上部です。短距離で、県大会までは行けたので頑張っていたと思います。成績は中の中、先生からも友達からも勉強については何の注目も浴びない生徒でした。いまでも時々言われるんですが、ちょっとハーフっぽい顔をしているので、ちょっとモテてたと思います。父も母も日本人なんですが。下の名前が麻理なので、マリーとか呼ばれてからかわれてました。でも、中三の夏休みに転校したんです。父の仕事の都合で。同じ横浜なんですが、港北ニュータウンという新しい街です。それまでの下町っぽい所とは全然ちがったので、馴染めませんでした。高校卒業して家を出るまで。なので、中学校の卒業アルバムは二つあります。もともといた中学校のは、写真撮影の時には転校してしまったんですが、中三の夏までいたのでもらいました。でも、写真は、欠席した子と同じで右上に丸枠です。新しい方は、ちゃんと写ってますが、一緒に写っているのが誰だかわかる人はほとんどいません。こんな感じで大丈夫ですか?」

「雪仁、こんなに聞いちゃって大丈夫なの?香津海の時はほとんど何も知らなかったじゃん、生い立ちとか」

「そうか」

「だから妄想できたんじゃない?」

「あ、でもね。大丈夫」

「なんで?」

「最初、柿原さんが言っていた、ずるくない顔、っていうのがポイントなんだよ、そう言ってた、そう言えば」

「誰が?」

「夢だよ」

「夢って?」と勝間さんが聞いてきた。

「もともとは、僕がよく見る夢の中で、中学生の頃片想いだった子が大人になって現れて、私の中学生の頃の絵を描いてって言われるんです。その子も言ってました。今の私はずるい顔だから忘れてと」

「さっき柿原さんが言ってたことと一緒だ」

「なので、大丈夫」

「もしかして今度は、柿原さんが片想いの相手ってこと?」

「そういうこと、だけど、七瀬さんの時も心配してたけど、大丈夫だった。美苗との関係には影響ないよ。ちなみに、柿原さんはクロール得意?」

「はい、得意です。中学校の時、先生からも褒められました」

「なんと、ここにもクロール美人」

「クロール美人?」

「そう、あたしも香津海もクロールが上手いの、雪仁は下手だけど」

「二人とも綺麗なフォームで泳ぐ。見分けがつかないくらい似てる」

「柿原さんも今度一緒に行こうよ、プール。で、三人でクロール比べ」

「楽しそうだな、それ」と勝間さん。

「勝間さんは、クロール出来る?」

「いや、苦手」

「ダメね、男子は」

「でも、とりあえずは、絵を」と柿原さんは話を戻した。

「そうね、雪仁、がんばれ!」

ということで雪仁は、今度はこの日初対面の柿原さんの中学生の時の肖像画を描くことになった。柿原さんは、確かにちょっとハーフっぽい美人だった。雪仁も、もしかしたらハーフかあるいはクォーターくらいかなと最初思っていた。ハーフっぽい中学生、メガネ美人の中学生くらい難しい課題だ。それこそ、資料はタレントだ、と一瞬考えたのだけれど、ずるくない顔、という点をクリアーしているか疑問だった。ハーフの子供タレントは、ちょっともうずるくなっているかもしれない。異国で大人に囲まれた華やかでドロドロした芸能界。ダメだ参考にならない、と雪仁は考えをリセットした。外国の子供をイメージした時、雪仁にはそばかすだらけの少女が浮かんでしまう。なにかそんな海外ドラマを見たせいかもしれないが、やはりそばかすは外せないと思う。

「柿原さんって、そばかすあったかな?子供の頃」

「さぁ、聞いてみたら」

「失礼じゃない?」

「今は無いから大丈夫じゃない?あたしも今はなくなったから聞かれても大丈夫」

「そう。じゃあ、聞いてみる」

柿原さんからは、こう返事が来た。

「はい、確かにありました、そばかす。それもあって、マリーとか呼ばれて外国人扱いされてからかわれたんだと思います。海外ドラマとかで出て来る子は、そばかすのイメージですものね。それで描いてもらっていいです。妄想、冴えてますね」

ということで、そばかすの少女の肖像画に取り掛かることにした。しかし、妄想が冴えてるというのはヤバくないのかと、ちょっと不安になった。

完成間近の絵を美苗に見てもらうと、

「またもや、カワイイ」

「ね、カワイイ、やっぱり」

「そばかすもいい感じ。やっぱりハーフ顔だからかなぁ。あたしのそばかすとは違う」

「美苗のそばかすは、もっと小さい時でしょ?小学生とか」

「まぁね。でもさ、これ、ちょっと髪、茶色くない?」

「バレた?ハーフをイメージするのに茶色い方がね、イメージしやすかったから」

「茶髪に制服はヤンキーだよ。浜のマリー」

「いそう、黒に塗り直すよ」

「そうした方がいい」

髪の色を塗り直し、そばかすの少女は完成した。これで、美苗と七瀬さんと柿原さんの三枚の肖像画を描いたことになる。よく日に焼けた少女とメガネ美人の少女にそばかすの少女。雪仁は、以前自分が言った言葉を思い出す「全然、普通の子。陸上部で、日に焼けてて、そばかすがあって、で、時々メガネ」。これは七瀬さんに片想いの子のことを聞かれてとっさに答えたときの言葉だ。

「三つ揃うとそういうことか」と雪仁は独り言をつぶやき、寝室にある美苗の肖像画と完成したばかりの、そばかすの少女を並べてみた。当然、二人は似ているわけもなく、ただ、柿原さんの言っていたずるくない顔という点では共通していた。七瀬さんのメガネ美人の少女も並べてみたいと思ったのだけれど、三つを並べるには、それこそ美苗が言うように絵描きになって個展でも開くしか方法はないと思って諦めた。(続く)




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by ikanika | 2017-09-12 21:49 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第四回

 絵が描き上がったので、届けに行くと七瀬さんに美苗がメールをしたら、「ありがとうございます。お礼にご飯を作ってお待ちしています」と返信が来たという。一人暮らしの女性なので、訪ねられるのは嫌がるかと思っていたのだけれど、豪邸だと勝手に思い込んでいる七瀬さんの家を訪ねることになった。当日は、まだ六月なのにもう夏の日差しが降り注ぐ日曜日で、七瀬さんの家までは歩いて行ける距離だったのでワインを持参していった。七瀬さんの家は、住宅街にある二階建の低層のマンションだった。まわりは豪邸と外国車ばかりの高級住宅地で、遠目からだと集合住宅とはわからないほど周囲の邸宅と馴染んでいた。エントランスを入ると中庭のようになっていて、そこに伸びる小径のような石畳みを一番奥まで歩いて行くと、七瀬さんの部屋のある棟に着いた。玄関は一階にあり、二階部分まで七瀬さんの部屋というか、建物だった。隣の部屋とはほとんど隣接部分は無く、ほぼ一軒家の感覚だ。

「さすがね」と美苗は独り言を呟き、七瀬さんの部屋に入っていった。家具はアンティークとモダンインテリアがバランス良く配置されていて、きちんと生活も営まれているという空気感もあり、理想的な住まいだった。

「ここに一人で?」と美苗が尋ねる。

「マンション自体は父の持ち物なので、時々両親が泊まりに来ますけど、基本一人です」

「ご両親は?」

「赤坂です」

「赤坂?港区?」

「会社と自宅を兼ねたビルがあって、そこに居ます」

「ビル?」

「はい、ビルですね。三十階くらいだったから」

雪仁も美苗も世界の違う話について行くのがやっとだった。七瀬さんの手料理は、有名料理家さんとかがつくる聞いたことのない食材や調味料を使ったプロっぽい無国籍な料理なのかな、と勝手に想像していたのだけれど、以外にも和食中心の家庭料理だった。七瀬さんの性格ゆえか、どれも丁寧に作られていて見た目も味も素晴らしかった。

「いい奥さんになるよ、香津海」と美苗は世話焼きの親戚のように七瀬さんの料理を褒めちぎっていた。

「では、本題の肖像画を」と雪仁は、鞄から絵を取り出し、七瀬さんに渡した。

「ありがとうございます。見ていいですか?」

「どうぞ、緊張するなぁ」と雪仁は、美苗と目を合わせた。

「本当に勝手にイメージさせてもらったんだけど、大丈夫?」

七瀬さんは、しばらく絵を見つめてから

「こんなにかわいくないですよ、ほんとは」

と嬉しそうに笑った。

「地味なメガネ女子だったのに」

「いや、ちがうね。実はメガネ取ると可愛いパターンの女子だったはず。想像したのはね、お金持ちのお嬢様で声が小さい、髪は長く真っ直ぐでサラサラ、シャツもソックスも見事に真っ白。成績優秀だけれど、余計なクラス委員とか係はあえてあてがわれない。あくまで七瀬さんは七瀬さんで、そこにいるだけでいい存在。当然ピアノも弾けて、運動は、球技は苦手だけれど、足は早く、体は柔らかく体操は得意。なぜなら小さい時からバレエをやっていたから。加えて、水泳が好きで、とても綺麗なフォームでクロールをする。なぜなら、別荘にプールがあるから。そして、メガネ」

「妄想しすぎですよ。家は普通のサラリーマンで、東京の町田の外れに住んでいて、父がラオス勤務になるまでずっとそこにいました。成績も普通、図書係、足は遅くて、バトミントン部、ピアノもバレエもやってません。でも、水泳は好きでした。そこだけ当たっています。地元の水泳教室に通っていて。別荘どころか社宅ですけど」

「雪仁、残念。妄想しすぎ」

「美苗だって、そんな感じだと思ってたよね?」

「うん、じゃあ、この家とか、赤坂は?」

「ラオスから帰って、しばらくしてから父が会社を起こしたんです。私が大学を卒業する頃には、なんだか家はお金持ちになっていて。父は、就職しないで自分の会社に来ればいいと言ってくれたんですが、私はその環境をすぐには受け入れられなくて、しばらく派遣とかで社会に出てみようと思って、その時に美苗さんにお会いしたんです。もともとごく普通のサラリーマン家庭だったから、いまだになんかしっくりきていません。このマンションも別荘も赤坂のビルもこの十年くらいの話です。いつどうなるかわからないと思っています」

「じゃあ、この絵、イマイチかな?」

「いや、香津海は、これくらい可愛かったはず、ぜったい」と美苗が七瀬さんが答えるより先に口を挟んだ。

「自分では、わからないんですけど」

「中学校の同級生にリサーチしてみればいいんだよ」

「あぁ、いいね、それ。楽しそう」と美苗はかなり前のめりになった。

「いいですよ、どうせ地味で覚えてないとか言われますから。雪仁さんの片想いの人は、お嬢様だったんですか?妄想したみたいな」

「全然、普通の子。陸上部で、日に焼けてて、そばかすがあって、で、時々メガネ」

「可愛い。そばかすって」

「そうなんだよ、なぜか、可愛いよね」

「キャンディキャンディ」と美苗。

「古いのよく知ってるね」

「歌えるよ、あれ。あたしもそばかすあったから、昔は。でも、大人というか中学生になったら消えてた」

「そうなの、知らなかった」

「これ、飾っていいですか?」と七瀬さんは、肖像画をもって部屋をうろうろしている。

「この写真と取り替えちゃおうかな」と七瀬さんは、モノクロの写真の飾ってある壁を指差した。

「それ、有名な人のだよね、高いんじゃない?」

「たぶん高いです。でも、なんか暗いから好きじゃないんです。父の趣味」

「そこに僕の絵は、恐縮だなぁ」

「娘の肖像画だったら、父は許すよ、ぜったい」と美苗が言い切ったので、雪仁の絵はそこに飾られることになった。外されたモノクロ写真は、後で聞いたらメイプルソープのオリジナルプリントだったそうだ。

「今度さ、どっちが綺麗か競争しようよ、クロールの」

「なんですか、それ?」

「プールでクロール美人にあったらやろうと思ってたの。速さじゃなくて、どっちのフォームが綺麗かの競技。雪仁が審判」

「雪仁さんは、美苗さん選びますよね」

「それが、なんか区別つかないみたいなの。この前、私が泳いでいるのを見てて、ずっとクロール美人かと思って見てたとか言うし。だから、同じ水着と帽子とメガネだったらぜったい見分けられないはず。やってみない?」

「おもしろそう。美苗さん身長何センチですか?」

「157」

「あっ、一緒ですね」

「雪仁、いつがいい?」

「本当にやるの?」

「やる、ね、香津海」

「はい、審判、お願いします」

 平日の陽が暮れた頃の、プールのすいている時間を狙って、クロール綺麗競争を開催した。狙い通り、誰もいないプールに三人が揃った。お揃いの水着と帽子とメガネの美苗と七瀬さんは、どこかの代表チームの選手のように見える。雪仁は、コーチのように、水着の上にジャージを着ている。

「じゃあさ、雪仁は私たちが飛び込むまで後ろを向いていて、飛び込んだ音を聞いたら振り向いて。そうすれば水の中の二人だけ見ることになる。二往復するから、最後のタッチの前でまた後ろを向いて。そしてジャッジ。いい?香津海もオッケー?」

「勝ったらどうなるの?」と七瀬さん。

「特に賞品とかは無し。名誉のみ、クロール美人として認定」と美苗。

「それだけ?」と雪仁。

「いいから、やるよ。誰か来る前に。雪仁、後ろ向いて。香津海、せーので飛び込みね」

「はい」

しばらく間があって

「せーの」と二人が声を合わせて飛び込んだ。雪仁は、振り向き二人のクロールを見つめる。二人とも呼吸を合わせて同じストロークで泳いでいく。雪仁には全く違いがわからない。どちらもとても美しいフォームだ。水面を滑るように泳ぐ姿は、二人とも確実に前世は魚だったに違いないと思わせる。二往復目で体半分くらい一コースのクロール美人が遅れる。でも、フォームは乱れずに美しいまま、最終ターンを終えた。このままでは、ほんとうに差が無いので、勝ち負けのジャッジが出来ないと思っていたら、急にプールの照明が消えて、非常灯の明かりだけになった。泳いでいた二人は、それに気づいたようだったが、最後まで泳ぎきりプールサイドに上がってきた。暗さに目が慣れていなかったので、どちらのコースから誰が上がって来たのかはわからなかった。

「停電?」

「なんか事故かなぁ」

「地震とかなかったよね?雪仁」

「うん、揺れてはいない」

「ちょっと待ってみよう」

「どうだった?あたしたち」

「区別がつかない、全く一緒。ジャッジは無理だよ」

「ほんと?」

「ほんとに。同点引き分け、二人ともクロール美人認定」

「なにそれ」

「ちなみにどっちがどっち?」

「一コースが香津海」

「そっか。まぁ、それを聞いたからってジャッジは変わらないけどね」

「なんか、釈然としない」と不満気な美苗。

「じゃあさ、今度、動画撮るから見てみなよ」

と言っていると、受付の青年が現れて状況を説明した。

「すいません、原因がまだわからないのですが、近所一帯が停電みたいです。なので、ロビーは非常用電源で明るいので移動していただけますか?」

「びしょびしょだよ、あたしたち。更衣室は?」

「ロビーだけなんです、非常用電源が繋がってるのは」

「ここでいいよ。目も慣れて来たから大丈夫。水には入らないから」

「そうですか、すいません。様子がわかったら知らせに来ますので、しばらくお待ちください」

「了解」

スマホも更衣室においてきているので、状況を調べることもできない。ただ濡れた水着のままプールサイドで待つしかなかった。

「水には入らないって言ったけど、入ってみない?雪仁も水着、着てるよね?」

「うん、この下、水着」

「真っ暗なプールなんて、なかなかは入れないよ。雪仁の夢みたいに真ん中でぷかぷか浮いてみようよ。天井も開いてるから星見えるかもよ」

「いいですね、それ」と七瀬さんも乗ってきた。

「危なくない?大丈夫」と雪仁だけが慎重だったが、真っ暗なプールにぷかぷかする誘惑には勝てなかった。

 三人でプールの真ん中に浮かんで夜空を見上げた。僅かだけれども開いた天井から星も見えた。プールの水を循環させるモーターも空調も止まっているせいで水がわずかに揺れてコースロープにあたる音しか聞こえない。三人とも黙っている。そうすることが正しいと感じていた。雪仁は、いつもの夢を思い出し、飛び込み台の方に視線を向けた。でも、そこには、飛び込み台に座ってスカートから伸びる細い脚をパタパタさせている片想いの女の子の姿はなかった。横に浮かぶ二人は眠っているように静かに漂っている。雪仁は、目を閉じてさっきの二人の綺麗なフォームのクロールを思い出していた。突然、天井の照明がつき、モーターの低い回転音が聞こえ出した。プールサイドから受付の青年が叫んでいる

「大丈夫ですか?聞こえますか?」

雪仁は、大丈夫という合図のつもりで右手を上げ、プールサイドに向かって泳ぎ出した。でも、二人のクロール美人は、その声を無視したまま漂っている。やがて館内にアナウンスが流れる。

「先程の停電の為、只今から全館の安全点検を行いますので、本日の営業は終了させていただきます。館内のお客様は、誠に申し訳ございませんが、速やかにお帰りの準備をお願い致します。詳しくはお近くのスタッフにお尋ね下さい。ご協力のほどよろしくお願い致します」

それでようやくクロール美人の二人は、泳ぎ出し、プールサイドに上がってきた。

「先に着替えて、ロビーにいるね」

「わかった。後でね」と美苗は七瀬さんと女子更衣室に入っていった。あの二人は、プールに浮かびながら何を考えていたのだろうか。ずいぶんと静かに横たわっていた。目を開けていたのか閉じていたのか、星を見ていたのか眠っていたのか、後でそれぞれにきいてみようと思う。ロビーに出ると受付の青年が寄ってきて、すいませんでした、と再度謝るので、

「君のせいじゃないからいいよ、電力会社とかそっち関係のトラブルでしょ、仕方ないよ」と言うと、

「あのお二人、クロール綺麗ですね」と言うので試しに

「どっちのが綺麗なクロールだと思う?」と聞いてみた。

「難しいですね、どちらも。差はないですよ。似てますけど、姉妹とか?」

「いや、友だち。似てた?」

「はい。顔というより、骨格ですかね」

「骨格?」

「はい、骨格が似てると腕の動きとか、泳ぎも似てくるんです」

「なんとなく理屈はわかる気がする。水泳部?」

「いえ、大学で、スポーツトレーナーの勉強をしていて」

「体育大学?」

「はい、そうです」

「あっ、来たよ、二人。君たちは骨格が似てるって、彼が」

「骨格マニア?」

「違うよ、大学で勉強してるんだって、トレーナーの。なっ?」

「はい。二人のクロールが似ているのは骨格のせいだと思います。関節の可動域とかが、ほぼ同じ感じで、だから泳ぎが極めて近いものになっています」

「ほら、専門家がそう言うんだから、僕が見分けられないのも、頷けるでしょ」

「なんか握らせた?彼に」

「いえ、なにもいただいてません」

「冗談よ。骨格が似てても、性格は似てないね」と美苗。

「そうですか?根本は近いのかなって、この前からちょっと思ってます」と七瀬さん。

「嬉しい。こんな可愛い子に似てたら、ね」

「美苗は、可愛いよ、大丈夫」

「大丈夫が余計」

「ほんと、美苗さん、可愛いです」

「二人してなに言ってんの。帰るよ」

 帰りは三人でトンカツ屋に行くことにした。トンカツと天ぷらと寿司は、外で食べるのがいい、というのが美苗と雪仁の共通の認識で、それぞれ行きつけを見つけている。トンカツ屋は、田園調布と決めている。テーブルに着いてカツが来るのを待つ間、プールに浮かんで何を考えていたか二人に聞いてみた。美苗の答えは、「目を閉じたら深海に沈んでいくような感覚で、なにもきこえなくなって、たぶん眠ってた。ミスチルの深海のジャケットの椅子に座って、雪仁の下手なクロールを見て、ちゃんと教えなきゃって思ってた。そしたら館内アナウンスが聞こえて、起きたの」だった。七瀬さんは、「私は逆で、目を閉じたら星空に吸い込まれていくような感覚で、眠ってた。風の吹く音だけが聞こえていた。そして、どこかの海を見下ろしているの。ドローンの映像みたいにね。そうしたらダンボールが漂っているのを見つけて、よく見たら【中学 カツミ】って書いてあって、引越しでなくなったものだった。拾おうとして近づこうとしたら、ダンボールに水が浸みて沈んでいってしまって、その時、館内アナウンスが聞こえて起きたの」だった。

「雪仁は?」

「僕は、星を見てから、いつもの夢のように飛び込み台に女の子が座っていないか確認して、誰もいなかったから目を閉じて二人のクロールを思い出していた。そうしたら天井の照明がついて、受付の青年が叫んでいたから、プールサイドに上がった。だから眠ってはいなかった」

「分析して。スペシャリストでしょ。プールに浮かぶ深層心理」

「分析するほどのことはないじゃん。二人ともわかりやすい」

「そう?」

「うん、まず美苗は、僕のクロールがいつまでも上達しないことが気になっている。自分がちゃんと教えていないことも。ミスチルは、たぶん昨夜、テレビで特集を見たから。『深海』が聞きたくなった?」

「だいたいあってる。『深海』を聞こうと思ったんだけど見つからなかったの、買って持ってたはずなのに。誰かに貸した記憶もないし。雪仁、知ってる?」

「確かさ、あのスキンヘッドが、聞きたいって持っていったよね?すごい昔だけど」

「ほんと?よく覚えてるね、いつ」

「あのインテリア取材のとき」

「それだ。返してもらってない」

「もう五年くらい前だよ、あの取材。それから聞いてないってこと?」

「そうね、そんなもんでしょ、ひとしきり聞いたらね。また次の新譜もあるし」

「でも、繋がったね、メールするネタが出来た」

「呼ばれたかな、ミスチルパワー」

「なんですかそれ?スキンヘッドとかシンカイとか」と七瀬さんは不思議そうに尋ねる。

「香津海かと思ったメールね、カツマヒロシっていうカメラマンじゃないかってこの前判明して、その人スキンヘッドなの。で、そのスキンヘッドが『深海』を借りていった」

「シンカイって?」

「あっ、ミスチルのアルバム、CD。香津海はミスチル聞かない?」

「はい」

「『深海』いいよ、今度貸してあげる。スキンヘッドから返してもらったら」

「七瀬さんとミスチルは、ミスマッチだなぁ」

「そんなことないよ、国民的バンドだよ、みんな聞くべきよ」

「ベスト盤とかの方がいいんじゃない」

「いや、香津海には『深海』」

「シンカイでお願いします」と七瀬さん。

「私も分析してもらえますか?」

「七瀬さんは、引越しでなくなったものがずっと気になっているんだけど、この前、僕らに話したことで、それを改めて思い出した。ラオスと日本の間だから、なんとなく海に落ちたとイメージしている。実際は海に落ちるなんてことはほとんどありえないのに。たぶん配送センターとか空港での仕分けで間違えた」

「惜しいです。ずっと気になっているのは当たってます。でも、本当に海に落ちたんです。そのダンボールに入れていた表彰状の筒が高知の砂浜で見つかって、届いたんです。何年か前に。拾った人が表彰状の名前をもとに私を探してくれて」

「なんと、すごい話」と美苗。

「だから、海なんです。他のものはたぶん海の底に沈んでしまったんですかね」

「ほら、『深海』でしよ、やっぱり」と美苗。

「ほんとだ、すごいね美苗」

「偶然。もしかして、だからシンカイって、て聞いたの?香津海」

「はい」

「すごいね、プールの深層心理。で、雪仁のは?」

「自己分析か」

「じゃあ、あたしが分析する。雪仁は、片想いの思い出をずっと大事に抱えている。寝ても覚めても。あと、あたしたちの競争の判定ができなかったことを悩んでいる」

「そのままだね、どこにも繋がらない」

「きたよ、食べよう。雪仁、カツとエビ一切れ交換しよう」

「いいよ」(続く)



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by ikanika | 2017-09-10 15:46 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第三回

 七瀬さんの顔は、やはり雪仁の記憶にはなく、しかし、紛れもなくプールで見たクロール美人は、彼女に間違いないと思いながら二人の会話を聞いていた。

「雪仁、香津海だよ、覚えてる?七瀬さん」

「うん、お久しぶりです」

「こんにちは」と七瀬さんは、また小さな声で言った。こんなに小さな声で話す子だったろうかと、記憶を辿ってみるけれども、当然何も思い出せない。

「ということで、いいよね、雪仁」と美苗が言ったのだけれど、その前の会話を全く聞いていなかったので、適当に、

「うん、いいよ」と答えてみたら、どうやらこれから七瀬さんはうちに来て一緒にご飯を食べるという話になっていたらしい。

「ネバネバ素麺だけど、いいの?」と二人に聞くと、美苗が

「素麺、大好きだって」と答えて、七瀬さんは横で頷いていた。二人は車の後部座席に座り、ずっとおしゃべりをしている。聞こえるのは美苗の声ばかりで、時折、七瀬さんの声が聞こえるのだけれど、やはり小さな声なので内容までは聞き取れない。家に着くと、とりあえずビールで再会を祝い乾杯をした。雪仁は、冷蔵庫にあるものをかき集めてつまみをつくりながら、いつまでも続く女子トークを聞くとはなしに聞いていた。ネバネバ素麺が出来上がったので雪仁も一緒にテーブルに着いた。

「いただきまーす」と、すでに散々つまみを食べているのに美苗は元気に言って、七瀬さんにも、「どうぞ食べて」とすすめ、「わたしがつくったんじゃないけどね」というお決まりの一言を付け加える。

「でね、香津海、メール送ってないって」

「そう、じゃあ、広瀬さんとも結婚してない?」

「誰ですか、広瀬さんて?」と七瀬さんは小さな声で質問した。

「メールアドレスがね、ktmhrs76だったの、でね、そのアルファベットは、母音抜きだって雪仁が言うから、ktmは、カツミで、hrsはなんだ、ってことになって、ヒロセじゃないってことになって、つまり、七瀬香津海は、結婚して広瀬香津海になったんだよって妄想してたの」と美苗が説明した。

「すごい推理ですね。でもひとつあってます。アドレス、わたしも母音抜きです。ktmnnsです」

「ほんと?すごい」

「ほら、母音抜きって、よくやるよね?」

と雪仁が七瀬さんに同意を求めると

「はい」とまた小さな声で答えた。

「そうなの。あたしは知らなかった。そういうの、雪仁から聞くまで。じゃあ、あたしは、mnkしかないよ、母音抜きしたら。飯岡美苗」

「美苗みたいな名前の場合は微妙だね」

「微妙っていうか、そこから名前推測できないよ、絶対。飯岡なんて、kだけだもん」と言うと、七瀬さんのツボにはまったようで、顔を真っ赤にして笑いをこらえていた。

「じゃあ、誰だろうねメール。もう組み合わせ考えるの無理。ktmhrsは、ヒロセカツミしか考えつかない」

「まぁ、放っておけばいいよ。あれからメール来てないんだし、七瀬さんにはこうして会えたんだから」

「そうね。香津海、半年前から奥沢なんだって。住所は奥沢だけど、駅は、九品仏?」

「そう、商店街の方です」と七瀬さん。

「ヒロセカツミは、深沢だからな。ちなみに、七瀬さん、クロール上手い?」と雪仁は試しに聞いてみる。

「クロール?水泳の?」

「そう水泳」

「はい、水泳部でした」

「もしかして、あそこのジムに行ってたり?」

「はい、通ってます」

「美苗、クロール美人だよ、七瀬さん」

「ほんと?」と美苗はネバネバ麺を頬張りながら言う。

「さっきも行ってた?」

「はい、でも泳いではいません。帽子を忘れて、更衣室に。それを取りにだけ」

「じゃあさ、先週かな、朝、泳いでた?」

「えーと、水曜日に」

「ジムまでは、歩き?スポーツウェア着ていく?あそこの交差点通るよね?」

「尋問だよ、雪仁」

「はい、スポーツウェア着て歩いて、あそこの交差点は通ります。見られてました?なんか変なことしてました?」

「いや、大丈夫。見かけただけだから」

「実在したね、クロール美人」

「なんですか?そのクロール美人って」

「雪仁、説明して」

「水曜日の朝に、僕も泳ぎにいったんだけど、他には誰もいなくて監視員もいなかったからプールの真ん中でぷかぷか浮いてみた。なんでそんなことしたかと言うと、ずいぶん前からよく見る夢があって、それは真夜中のプールで浮いている夢でね、浮いていると昔片想いだった女の子が現れて、クロールを教えてくれるという夢。だからね、真夜中じゃないけど実際に試しに浮いてみた。そしたら誰かが飛び込んできて、綺麗なフォームでクロールをしていたので、見惚れていた。その日以来、クロール美人には会えていなくて、いつかまた現れるんじゃないかと期待してプール通いをしていた。美苗も会ってみたいと、どっちのクロールが綺麗か競争したいという。でも、全然現れないから、美苗には浮いているうちに寝てしまって夢を見たんだって言われて、そう思い始めていた。クロール美人は、夢の中のまぼろしだと。でも、七瀬さんに話を聞くとそのクロールをしていたのは七瀬さんで、夢ではなかったということがいま判明したというわけ」

「でも、まぼろしだったほうが、よかったかもですね、ロマンチックで。私じゃなくて」

「いや、事実がわかってよかった。そんな異次元的な話は興味ない人間だから、七瀬さんでよかった」

「いまだに夢に出てきてしまうその片想いの人に会いたくないんですか?」

「中学生のイメージで止まってるから、会わないほうがいいよ」

「でも、会わないとずっと夢見ません?」

「だからね、あたしが片想いの人になりかわることにしたの。ね?」

「どうやって?」

「絵を描いて。肖像画。あそこの」と言って

寝室のドアを少しあけて、絵を七瀬さんに見えるようにした。

「いい絵ですね。飛び込み台。でも、絵を描くとどうしてなりかわるんですか?」

「夢の中でね、その女の子は、ぼくに自分の肖像画を描いて欲しいと言うんだ。描いてくれたら、その代わりにクロールを教えるからと。もしクロールが出来るようになったら、僕は片想いじゃなくなってその子と付き合えるかもと。だから美苗の中学生の時の肖像画を描いて美苗を片想いの相手だったことにした。わかった?」

「もし、私を描いたらどうなるの?雪仁さんの片想いの相手になってしまうのかしら?」

「もう、美苗を描いたから、それはないよ、たぶん」

「じゃあ、描いて欲しいです」

「七瀬さんを?」

「はい、いまの私じゃなくて、中学生の時の私を」

「写真とかある?」

「なにもないんです。だから描いて欲しいんです」

「なにもないって?」

「大学二年の時、一年間だけ休学して父の転勤についてラオスに行っていて、日本に戻る時に荷物を送ったら、一部荷物が紛失してしまったんです。日本のトランクルームとかに預けていけばよかったんですけど。中学生の時の写真とか、昔の記念品とかはなくなってしまって。だから中学生の自分が欲しいんです」

「そうか、そんなことが。でも、どうやって描こうか?」

「雪仁さんの想像で、いいです。片想いの人に似てしまっても」と言って小さく笑った。

その表情は、どことなく片想いの子を彷彿とさせた。

「描いてあげなよ」と美苗も言うので、とりあえずいまの七瀬さんをスケッチさせてもらい、そこから中学生の時の七瀬さんを想像することにした。完成までは、少し時間がかかるかもしれないことを了承してもらい描き上がったら連絡をすることにした。七瀬さんは、歩いて帰れるというので、マンションのエントランスまで降りて見送った。

「かわいかったね、香津海」

「七瀬さんて幾つ?美苗より若いんでしょ?」

「同じ」

「そうなの、なんで敬語なの?」

「派遣で私が先輩だったから?あと、体育会系なんじゃない、ああ見えて、水泳部でしょ」

「そういうこと」

「じゃない、上下関係はきっちりするタイプ」

「美苗とは、ちがうね」

「あたしも体育会系よ」

「でも、なんか違う」

「育ちが違う、香津海、お嬢様よ」

「そうなの?」

「長野に別荘持ってた。派遣の時、一回行ったよ。すごかった。掃除機がね、壁にあるの」

「どういうこと?」

「各部屋の壁に穴があいていて、そこに管というかパイプ?掃除機の先っぽのところを差し込むとグイーンって吸い込むの。それで、ごみは外のタンクみたいなところに回収されて、そこにごみの回収車が来る」

「なんかテレビで見たことある、それ」

「豪邸のスタンダードなのかなぁ」

「じゃない。奥沢の家も凄いのかなぁ」

「どうなんだろうね、一人暮らしって言ってたけど。で、描けるの?想像で」

「わかんない、っていうか、どうなっちゃうかね」

「いずれにしても、美人だからいいよね」

「確かに」

 翌日から七瀬さんのスケッチを眺めながら、彼女の中学生時代を想像してみるのだけれど、どういう風にイメージしたらいいのか、考え方のポイントがわからず、作業は全く進んでいない。よくテレビとかで、芸能人の卒業アルバムの写真と今現在の美人になった写真を比較して見せられたりするけれども、おそらくそういう作業を頭の中でして描いていけばいいのだろうということはわかる。しかし実際そんなことができるのかというと、たぶん無理だ。特殊メイクでも老けメイクは、かなりの歳まで可能だけれど、大人が中学生になるというのは、子役の仕事だ。なので、ネットで七瀬さんに似ている子役を探してみるが、中学生女子のサイトばかりを見ていると自分が変質者みたいに思えてきて、すぐにやめた。結局、勝手に妄想するしかないという結論に至り、手はじめに自分の中学校の卒業アルバムを開いて、そこに七瀬さんがいたとしたらというイメージトレーニングをしてみた。お金持ちのお嬢様で声が小さい、というキャラクターがクラスにいる、と考えるとかなり具体的にイメージが湧いてきた。髪は長く真っ直ぐでサラサラ、シャツもソックスも見事に真っ白だ。成績優秀だけれど、余計なクラス委員とか係はあえてあてがわれない。あくまで七瀬さんは七瀬さんで、そこにいるだけでいいのだ。当然ピアノも弾けて、運動は、球技は苦手だけれど、足は早く、体は柔らかく体操は得意。なぜなら小さい時からバレエをやっていたから。加えて、水泳が好きで、とても綺麗なフォームでクロールをする。なぜなら、別荘にプールがあるから。これだけの情報が揃えば、描けそうだけれど、相当な美人中学生が誕生することになる。大丈夫か?中学生の雪仁は、本当に七瀬さんに片想いをしてしまわないか、と心配になる。ここでさらに美苗から新たな情報がもたらされる。

「香津海からメールでね、中学生の時は、メガネをしていたんだって。目が悪くて。だから雪仁に、メガネありでお願いします、って、オッケー?」

「オッケーだけど、中学生のメガネ美人って、難問だなぁ」

「確かに。中学生の男子ってメガネしてる女子が実はメガネを取ると可愛い、とか考えないもんね」

「そうなんだよ。水泳の授業で初めてメガネをとった顔を見て、ドキっとする」

「先にさ、メガネなしで描いて、後からつければいいんじゃない?」

「絵だからね、うまくいくかね?メガネの落書きしたみたいにならないかなぁ、フィギュアとかならその手があるけど」

「そっか、イタズラ書きだね、それ」

「まぁ、でもわかった。メガネは重要ポイントだな」

「がんばれ、雪仁!」

 雪仁が自分の部屋で、七瀬さんを描いていると、美苗が突然ドアを開けて、

「カツマヒロシ」と言う。

「誰?」

「勝間博よ、カメラマンの」

「誰だっけそれ?」

「何度かさ、取材で来たじゃんウチに。あのインテリア取材の時も。スキンヘッドの」

「あぁ、スキンヘッド。が、どうしたの?」

「メールよ、あのktmhrs」

「ほんとだ」

「苗字が先だけど、あとsと最後にhがないけど、いいんだよね、これ母音抜きだよね」

「厳密な決まりはないから」

「じゃあ、絶対そうだ。ビンゴ」

「よくわかったね」

「雑誌見てたら、勝間さんの写真があって、カツマ?カツミ?同じじゃんって。そしてヒロシ、ヒロセではなく」

「探偵みたいだな、美苗」

「で、1976年生まれだから、76」

「そこまで調べた」

「ウィキで」

「個人情報ダダ漏れ」

「でも、返信しない方がいい?万が一、人違いの可能性あるかな?やっぱりヒロセカツミが実在したりとか」

「大丈夫だと思うけど。念のため、勝間さんの知り合いに聞いてみたら?アドレスと、あと最近深沢に引っ越したかとか」

「そうだね、そうする。誰か編集者の子が知ってそう」

「ちょっと見て。どう?」と描きかけの七瀬さんを美苗に見てもらった。

「カワイイ」

「カワイイよね、こんな子がクラスにいたら男子全員好きになるよ」

「でも、香津海は、本当にこんなだったかもよ」

「いいかな、こんな感じで仕上げて」

「でも、メガネはこれから?」

「そう」

「それ次第じゃない。メガネ描いたら可愛くなくなるかもよ。メガネが似合わないかもよ」

「そっか、メガネないとダメかな?」

「ダメだよ、香津海の思い出なんだから。雪仁の好みは関係ないの」

「確かに。でも、美人は大抵メガネ似合うから大丈夫か」

「まぁ、そうだけどね」

「メガネ描いたらまた見て」

「いいよ。雪仁、音楽やめたら絵描きになりなよ。あなたの中学生時代描きます、とか言って」

「美人限定でね」

「客は選べないの」(続く)


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by ikanika | 2017-09-06 19:16 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第二回

 雪仁は、三年前からフリーのレコーディングディレクターをしている。レコーディングをするアーティストの録音現場を取り仕切る仕事と言えば、なんとなく想像つくかな、と美苗に説明したことがあるのだけれど、実際どんなことをしているのかがわからない、と言われた。おそらく大多数の人がそう言うだろうと雪仁も思っているのだが、他に上手い説明が思いつかなかった。ある日テレビを見ていると、新人アーティストのレコーディング風景が映っていた。

「雪仁は、どれ?」と美苗が大きな声できくので、雪仁は立ち上がって画面の前まで行き、アーティストが入っているガラスブースの外で椅子に座って何かと指示を出している男を指差して、「こいつ」と言った。

「偉そう」

「偉いよ、現場監督だから」

「へぇ、すごいじゃん」

「いまさら知った?」

「でも、大変そう。雪仁がオッケー、とか言わないとダメなんでしょ?」

「そうだよ」

「責任とれないよ、そんなの、あたしだったら」

「だから、売れなかったら、クビ。次はない」

「こわー」

「売れればいい」

「そうだけど、売れる売れないは、雪仁だけの責任じゃないじゃん」

「まぁ、そうだけど、一番責任取らせやすい。あんな風に偉そうだから」

「偉そうにしなければいいじゃん」

「偉そうにしないと、現場が締まらない。アーティストとかミュージシャンは、時間とか予算とか関係ないから、黙ってたらいつまででもやってる。だから、僕が適当なところで終わらせる為にいる。オッケーイコール終わりってこと。信頼感のある憎まれ役」

「かわいそう」

「だよね」

「やめちゃえば」

「なんで?」

「だって、なんだか理不尽よ」

「でも、音楽も録音現場も好きだから」

「売れるといいね、神倉さん」

「神倉さんの作品は、多分、十年後も聞かれると思うよ。普通にヒットするとかしないとかいう尺度じゃないところで残っていくと思う」

「でも、ヒットしないと雪仁はクビでしょ」

「そこが微妙なとこだな、神倉さんの仕事は」

「あたしも好きよ、彼女の歌」

「ありがとう」

美苗との会話は、いつも自由だ。雪仁には、その自由さが今の自分にとって救いになっていると思っている。

 その後、ヒロセカツミことktmhrs76からはメールはなく、美苗も「香津海じゃなかったのかな」と自分の推理に自信をなくしていた。六月になると雪仁が通っているジムのプールは、天気が良い日には開閉式の天井を開けるようになる。そのタイミングで美苗も気まぐれに「あたしも泳ぎたい」と言って、ジムについてくる。しかし、雪仁は、もっぱら朝早くに泳ぎにいくので、朝が弱い美苗とはなかなか一緒に出かけられない。それでも、月に三、四回は、二人で早朝のプールに行く。

「この前、綺麗なクロールの女性がいたって言ってたよね」

「残念ながら、あれ以降、見かけない」

「今日とかいないかなぁ、いたら競争するのに」

「競争?」

「どっちが綺麗か競争。雪仁が審判」

「フェアーなジャッジが出来かねます、身内なので」

「いいよ、別に、その人の方が綺麗だと思ったらそう言って」

「いや、美苗の方が綺麗だった」

「テキトー、あたしの泳ぎ、ちゃんと見てないくせに」

「見てるよ」

「うそつき」といたずらに笑って、美苗は更衣室に入っていった。

 雪仁は、着替えを済ませ先に泳ぎはじめていた。ターンをしてコースを反対方向に戻っていると、一番端のコースに女性が飛び込み、綺麗なフォームのクロールをしていた。そのコースは、前に見たあの女性が泳いでいたコースだったので、もしかしたらと思って美苗を探しつつ端のコースの女性が泳ぎ切って上がってくるのを待った。美苗の姿が見当たらないうちに、端のコースの女性が上がってきた。よく見るとそれが美苗だった。

「雪仁、見てた?あたしの泳ぎ」

「綺麗なクロールの女性かと思った」

「綺麗なクロールの女性じゃないの?あたし」

「いや、綺麗」

「テキトー」

「本当に、綺麗なフォームだった」

「アーウィンショーよ、それじゃあ」

「夏服を着た女たち」

「競泳水着を着た女たち、だよ」

「クロールで泳ぐ女たち」

「競泳水着でクロールする女たち。どれもイマイチ。やっぱり、夏服だね」

「サマードレスの訳なんだよね、あれ」

「サマードレスの女たちじゃ、なんか、いけ好かないね」

「いけ好かないって、いいね」

「なにが?」

「なんとなく、的を得ている」

「ありがと」

そろそろ混み始める時間なので、雪仁と美苗はいつものパン屋さんに寄ってから、家に帰って朝食にすることにした。

「やっぱりいなかったね、クロール美人」

「うん」

「雪仁、本当に見たの?もしかして、ぷかぷか浮いているうちに夢でもみてたんじゃない?」

「いや、見た、夢じゃない」

「クロールトラウマで、クロール美人が出てきたんだよ」

「・・・」そう言われると雪仁はそんな気もしてくる。もともとプールにぷかぷか浮いていたのは夢の中のことで、この前は誰もいないのをいいことに悪ふざけで浮いてみたのだ。それもほぼ徹夜明けだった。寝てしまっても不思議ではない。だとしたら、この前信号待ちの交差点で見かけた女性はなんだったんだろう。雪仁の中では日が経つにつれて、あの女性がクロールをしていたと確信を持って言えるようになっていた。でも、それが七瀬香津海なのかどうかは雪仁にはわからない。六年前にほんの数回、家に来て食事を一緒にしただけなので、正直、記憶が曖昧なのだ。ただ、七瀬香津海という名前は、女優さんの名前みたいだね、と会話をしたので記憶に残っているのだ。

 その日は、雪仁は午後からスタジオで美苗は、夕方から打ち合わせでそのままご飯を食べて帰ってくるという。なので雪仁の夕食は、外食か、スタジオで弁当か、早く終われば帰ってきて作る、という三択になる。自分の車での移動なので、前者二つは晩酌が出来ない。やはり晩酌はしたいので出来れば帰ってきて作りたいのだけれど、録音が予定通りに終わるかはやってみないとわからない。今日は、神倉さんの録音ではなく、急に今日中に一曲だけ仕上げてほしいという単発の仕事なので終わりの時間は全く見えていないのだ。ギャラがよかったので受けたのだけれど基本あまりやりたくない仕事だった。案の定、現場はアーティスト、事務所、レコード会社、タイアップのクライアント、代理店と録音作業には直接関係のない輩がわんさかといて、全くクリエイティビティのない録音だった。雪仁は、時間をかけたからといっていいものが出来上がる現場ではないと判断し、そこそこのところで終わらせるつもりで臨んだ。おそらく事務所の社長がキーマンだろうと判断し、基本、社長に意見を求めることにした。社長は、雪仁と同学年だということが途中から判明し、ただそんなことだけで雪仁のジャッジを百パーセント信頼し、作業は予定よりも早く終了し、みんな満足気に帰っていった。予定よりもずいぶん早く解散になったので、家で晩酌が出来るなと思い、途中買い物をして帰ろうと家に向かって車を走らせた。いつものジムが近づいて来て、まだずいぶん時間が早かったので、ちょっとだけ泳いでから帰ろうかと思いつく。もしかしたら、クロール美人がいるかもしれないし、とも思いつつ駐車場に車を停めた。いつもの受付けの青年は、雪仁が普段来ない時間に現れたので、「珍しいですね、こんな時間に」と声をかけてきた。

「仕事が思いのほか早く終わって。晩飯までちょっと時間があったから寄ってみた」

「ありがとうございます。ちょうどプール、ガラガラですよ」

「ラッキー」

 この時間は、いつもこんな感じなのかと水着に着替えて、プールに向かう。外は少しだけ暗くなり始め、照明が点いたばかりという雰囲気だった。天井も開いていて、とても気持ちがいい。早朝もいいが、夕暮れ時もありだなと思いながらクロールをする。誰かが現れる気配もなく、雪仁の一人の時間がゆっくり流れる。受付けの青年にクロール美人のことをきいてみようかと、考える。あれだけ綺麗なフォームでクロールをするのだから、知っているはずだと思う。しかし、もし、美苗が言うように本当に雪仁の夢だとしたら、変わり者だという噂がジムのスタッフ内に広がりかねない。それはリスキーだと考えて聞くのはやめた。一時間ほど泳いで、着替えを済ませて男子更衣室を出ると、同時に隣の女子更衣室に誰かが入っていくのがわかった。はっきり姿を見たわけではないのだが、なんとなくあの女性のような気がした。もう着替えてしまったし、また更衣室に戻って着替えるのもずいぶんおかしな行動だし、さっき男子更衣室にも一人これから泳ぐ為に着替えをしていた人もいた。雪仁が戻ってまた水着になったらなんと思われるだろう。どう考えても、プールに戻るのはやめたほうがよさそうだった。二階からガラス越しにプールが観れるはずだと思い、とりあえずロビーに出て階段で二階に上がった。手ぶらも変なので、自動販売機で水を買い、スマホを片手にガラスの前に立ってプールを見下ろす。撮影禁止のマークがあったのでスマホはポケットにしまった。しばらくすると、あの女性らしき人が帽子とメガネをかけて、プールサイドに現れた。二階からだと遠くてやはり顔は認識できないが間違いなく彼女だと思えた。この前と同じように一番端のコースに綺麗に飛び込んだ。まるで魚のように滑らかな入水だった。その後、あの綺麗なフォームでクロールをする。この前の美苗のクロールと区別がつかない程似ていた。美苗の言っていた綺麗競争をしたら、ジャッジできないくらいにどちらも綺麗だと雪仁は思う。しばらくぼんやりとそのクロールを眺めていると、泳いでいるのは美苗なのではないかと思えてきた。そう思い始めると見れば見るほど美苗にしか見えない。更衣室の入り口で感じた気配は、あの女性を探すことに囚われている自分の勘違いだったのではないか。プールサイドに上がった女性は、帽子とメガネを取り、首を寝かして耳に入った水を出している。よく見るとやはり、それは間違いなく美苗だった。打ち合わせと食事会と言っていたのにどうしてここにいるのだろうか。なにか事情があってキャンセルになったのだろうか。とにかくロビーで美苗が出てくるのを待つことにした。

「美苗」

「あれ、なにしてるの?」

「同じ質問を返すよ」

「編集長が急性胃炎とかでドタキャン」

「録音、早く終わらせたから」

「なるほど」

「なるほど」

「気があうね、私たち」

「でも、こんな時間に来たのは初めてだよ」

「あたしは、そうでもない」

「そうなの。買い物ついでに時々。いつもガラガラだからこの時間」

「そうだよね、ガラガラ」

「買い物した?」

「まだこれから」

「じゃあ、して帰ろう」

「うん」

 車に乗り込み、家とは反対方向の駐車場の広いスーパーに向かった。家の近所のスーパーは駐車場が小さいので、この時間はタイミングが悪いと駐車待ちになってしまうのだ。

「今日もクロール美人いなかったね」

「実は、僕、二階からずっと見てたんだ、クロール美人」

「えっ、いたの?」

「クロール美人だと思って見てたら、美苗だった」

「なにそれ」

「見分けがつかなかった、泳いでいる姿だと」

「そんなに似てた?」

「うん、一緒。綺麗競争しても勝負がつかないよ」

「なにー!」

「やっぱりさ、夢だよ。夢であたしが泳いでるのを見たんだよきっと」

「そんな気がしてきた」

「そういうことにしておきな。クロール美人は、実は妻でした、って。たぶんさ、あの絵、肖像画描いたでしょ。それでさ、夢に出てくる片思いの女の子もさ、あたしに入れ替わったんだよ。夢の中の過去を追認した結果。だから、残念ながら片思いの女の子の思い出は消えてなくなっちゃったんじゃない」

「なんと。美苗が片思いの女の子か」

「そう、雪仁は、中学生の時の片思いの女の子と結婚できた幸せな男でした。めでたしめでたし」

「微妙。淡い思い出が消えたか」

「叶わなかった恋はいつまでも美しいからね」

「歌詞みたいだな、売れない歌手の」

「だから、忘れていいの」

「なるほど。美苗、説得力ある」

「今日、なに食べる?」

「蒸し暑いから素麺?」

「いいね、ネバネバいっぱい買っていこう。納豆、オクラ、長芋、あと、なんだ?」

「もずく?とか」

「そんな感じ。あとビール」

買い物を終えてスーパーの駐車場に出ると、美苗が立ち止まり急に振り返って

「香津海?」と言った。

声を掛けられた女性は、振り返り美苗を見つめる。しばらくして、ようやく美苗だとわかり、

「美苗」と小さな声で言った。(続く)



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by ikanika | 2017-09-02 23:13 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第一回



揺らぐポートレイト


誰もいない真夜中の学校のプールに

忍び込む夢を時々見る。

水泳の苦手な僕は、

優雅に泳ぐわけではなく、

ただぷかぷかと浮いているだけだ。

決まって月が明るく、

プールの水は透き通っていて

底のラインまで月明かりが届いている。

飛び込み台に誰かが座って

白いスカートから伸びる細い足を

水にパタパタさせている。

それは想いの届かなかった女の子で

彼女はすっかり大人になり

こっそりプールに忍び込んだ中学生の僕を

たしなめる。

けれども口元には微かに

笑みが浮かんでいて

ただ、からかっているだけだということが

わかる。

水泳の授業はサボるくせに

なんでプールに忍び込んでるの?と。

授業では、こんな風に

ぷかぷかしていられない。

水の中ではこうしているのが一番楽しい。

君はいつも優雅に泳いでいたね?

まるで魚のようだったよ。

そうね、もしかしたら前世は、

魚だったのかもしれないわ。

ねぇ、ひとつお願いがあるの。

あなたは、絵が上手だったわよね。

私を描いてほしいの。

でも、今の私ではなくて

あなたと同じ中学生の私を。

よく覚えているでしょ?私のこと。

その記憶の中の私でいいわ。

大人になってしまった

今の私のことは忘れて。

だって、大人になるとどうしても、

ずるい顔になってしまうから。

仕方のないことなの、生きていくためには。

あなたもきっと、そうなるわ、ずるい顔に。

だから、そうなる前のあなたに、

そうなる前の私を描いて欲しいの。

どう、描いてくれる?

どうして大人になったあの子が、

僕にそんなことを頼むのか事情がよくわからなくて、

僕は混乱する。

夢はまだ続いていく。

もし、描いてくれたら、

私はあなたに泳ぎを教える。

だって、前世は魚だったかもしれないから、

誰よりも上手く教えられるはずよ。

はっきり言って、そんな風に

ぷかぷかしているより、

クロールで泳いだ方が、きもちいいわよ。

そうしたら授業もサボる必要ないし、

クロールをするあなたを見たら、

中学生の私はあなたを

振らなかったかもしれないわ。

どう?

素敵な提案じゃない?

きみは、その絵をどうするの?

そうね、毎日一番眼につく場所に飾るわ。

そして、眺めるの、もうこれ以上

ずるい大人にならないようにね。

そんなにずるいの?

ちょっと自分では嫌になるくらい。

そんな風には見えないけど?

それが大人というものよ。

そうなんだ。わかった、描くよ。

中学生の君でいいんだね。

ありがとう。出来上がったら教えて。

クロールを教えにまたここに来るわ。

了解。

もし、クロールが出来たら

君は僕と付き合ってくれるのかな?

それは、今の私にはわからない。

中学生の私に、もう一度告白してみて。

ずるいな、やっぱり、君は。

いつも夢はそこで終わる。

 目覚めると寝室の一番眼につく壁に飾ってある中学生時代の美苗の肖像画と目が合う。隣で美苗はまだ寝息を立てて眠っている。雪仁は朝のジムに泳ぎに行く。未だに上手く出来ないクロールの練習をしに。一時間ほど泳いで朝食のパンを買って、ジムから帰ると美苗はダイニングテーブルに座ってパソコンとにらめっこをしている。眉間にシワが寄るくらい真剣な眼差しだ。

「どうしたの?」と尋ねると

「このメール 、なに? ちょっと読んで」とパソコンを雪仁の方に向ける。

メールは、こうだ。

【こんにちは。美苗さん

今月から世田谷に引っ越してきました。

目黒通りからすこし入った深沢という住所です。

多分、美苗さんの家の近くかと思います。

落ち着いたら、お茶でもしましょう。

また、こちらからご連絡します。

ご主人にもよろしくお伝え下さい。

では。】

「だれ?」

「知らない」

「アドレスは?」

「えっと、ktmhrs76でgmail」

「だれだそれ?」

「雪仁も知ってる人だよ、ご主人によろしくって」

「ktmhrsねぇ、だいたいこういうのは、母音抜きだからね、考えればわかりそうだけど」

「母音抜き?」

「そう、kだから、カキクケコからはじまる。次がtだから、タチツテト。その組み合わせ」

「そっか、でも何通りもあるよ?」

「二人とも知ってる人ってそんなにいないから、カ行ではじまる人」

「名前?苗字?」

「名前だな、たぶん。メールって海外でも使う想定だから」

「そうなの?」

「違うの?美苗は?」

「海外はあんまり考えたことない、可愛いとか、覚えやすいとか、あと、迷惑メールがこなさそう、とか?」

「そんなもんか」

「面倒だから、だれ?って返信しちゃう?」

「それはやめたほうがいいよ、なんかの勧誘とかウイルスだったら面倒になりそう」

「じゃあどうする?」

「無視無視。知り合いだったらまた連絡来るよ」

「そうね、 無視無視」

 パンとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませ、昨日の録音を部屋で聞き直す。雪仁は、この三ヶ月くらいずっと神倉紫帆というシンガーソングライターの録音をしている。雪仁が彼女の才能に惚れ込んで、録音をしようと口説き落とした全くの新人で、はたして世の中に受け入れられるのかどうかは今は未知数だ。今日は午後からその続きの録音作業なので、作業の段取りや仕上がりのイメージを確認しながら三、四回繰り返し聞いてみた。やはりスタジオで聞いていたものとは、違って聞こえるのだけれど、まだ録音は初期段階なので、これからの作業でよくなっていくだろうと期待し、現段階で出来の良し悪しの判断をするのはやめようと思う。とりあえず昨日の録音に関しては、初めてにしては上出来だと、本人には言っておこうと思う。部屋から出ると、ダイニングテーブルに座っていた美苗が顔を上げて、

「わかった」と得意げに言う。

「なにが?」

「名前、メールの」

「だれ?」

「香津海」

「カツミ?」

「そう、派遣で一緒だった」

「七瀬さん?」

「そう、七瀬香津海」

「でも、ktmhrsでしょ?七瀬さんならnnsじゃん」

「結婚したんじゃない、それで、引越してきたんだよ、深沢に。hrsさんと。」

「だれ、hrsさんて?」

「知らないけど、hrsだから、ヒロセとか?」

「ヒロセカツミ」

「そう、七瀬が広瀬になった」

「勝手な妄想だなぁ」

「でも、合ってそうじゃない?ね」

「可能性はあるけど、でも、まぁ、連絡待った方がいいよ」

「香津海だったらすぐ会いたい」

「だめ、待って」

「はーぃ」

「じゃあ、行ってくる。美苗は、きょうは?」

「あたしは、家で作業。買い物しとくから。帰りは?」

「神倉さんの録音だから早いよ。スタジオは七時までだから、遅くても八時かな」

「了解。行ってらっしゃい」

 神倉さんの録音は、予定の作業を時間通りに終えた。雪仁がアシスタント時代に立ち合っていた録音は、いつも予定時間をオーバーして、その為に合間に出前を食べることになり、それがさらに終了時間を遅くさせていた。そのやり方がどうしても理解出来なくて自分がメインで仕切れる録音作業は、必ず時間通りに作業を終えることにしている。時間内に上手く録れなかったら諦めて次の日に廻すというのが雪仁の基本的な考え方だった。その日の作業は、昨日の録音の物足りなさを十分に補うくらいの出来で、雪仁は満ち足りた気分で帰宅した。

「おかえり」と美苗の声がバスルームから聞こえる。湯船にお湯を張る為に、栓をしているところだった。

「早かったね」と美苗が言うので

「予定通りだよ」と雪仁は時計を確認しながら答える。

「そう、もうそんな時間?」

「うん、八時」

「そっか、朝からずっとパソコンみてたから、さっきソファに横になったらちょっと寝ちゃったみたい、ごめん」

「大丈夫。買い物は出来た?」

「一応。でも、駅前までは行けなかったから、そこのスーパーで。だから、いまいち充実してないかも」

「そう?十分だよ」

余程疲れていない限り、食事は雪仁が作る。夫婦の役割分担というより、積極的に料理はしたいと思っている。録音作業とは違った頭を使うので、ストレス解消になるという単純な理由によるものだ。でも、買い物は美苗に任せている。何を作るかを考えて買い物をするのは得意ではない。目の前に与えられた食材を見て何を作るかを考えるのが好きなのだ。その日は、ごくシンプルにごはんに味噌汁、生姜焼き、納豆、トウモロコシ、それにシラスと塩トマトの和え物を作って飲みながら料理をした。

「もしさ、ほんとに香津海だったら、そこのスーパーとかでばったり会うかもね」と美苗は朝の会話の続きを始める。

「わかるかね、しばらく会ってないでしょ?」

「六年くらい?」

「微妙だね」

「確かに。普通のおばさんになってたらどうしよう」

「あの子は、大丈夫そう」

「なんで?」

「なんとなく」

「雪仁の、なんとなくは、当たるからね」

「そう?」

「当たる」

「ごはん、出来たよ。テーブル片付けて」

「はーぃ」

 翌朝、雪仁はいつものように水泳をしにジムに行く。朝から泳いでいる人は、大抵、雪仁以外には二、三人というのが普段の様子なのだけれど、その日は、他には誰もいなかった。なので、プールの真ん中まで普通に泳いでいって、そこで仰向けになってぷかぷかと浮いてみた。他に泳いでいる人がいたら邪魔になるので出来ないことなのだけれど、監視の人もいなかったので思い切って浮いてみたのだ。プールの天井は、開閉式だけれど普段は閉まっていて、すりガラスで鉄の柱が恐竜の骨のように張り巡らされていた。夢で見た星空とは雲泥の差だった。けれども目を閉じると、水に浮いている感覚が心地よく、そのまま深海に吸い込まれていくように眠りに落ちそうになる。遠くで水しぶきの音がして波が雪仁にも届いて来たので、他に誰かが入ってきたのだろうと思い、まだあまり上手くないクロールで再び泳いで、プールサイドに上がった。雪仁が上がるとプールには女性が一人だけ、とても綺麗なフォームのクロールで一番端のコースを泳いでいた。あんな風に泳げたら楽しいだろうなと、雪仁はしばらくその女性のクロールに見惚れていた。

 朝ごはんのパンを買って帰ると、美苗はもう着替えと化粧を済ませて、出かける準備を整えていた。

「おかえり」

「ただいま」

「遅かったね」

「誰もいなかったから、ぷかぷか浮いてきた」

「ぷかぷか?」

「そう、プールの真ん中で」

「ふーん。怒られないの?」

「怒られる。でも、ほんとに誰もいなかったから。監視の人も」

「子供みたい」

「でも、綺麗なクロールの女性が飛び込んで来たからやめたけど」

「いたんじゃん、だれか」

「最初はいなかったよ」

「パン、ちょうだい。コーヒー入ってるから」

「クロワッサンとシナモンロール、どっちがいい?」

「雪仁は?」

「シナモンロール」

「じゃあ、クロワッサン」

「はい」

「あたしも、クロール、上手いんだよ」と美苗はクロワッサンをぱらぱらこぼしながら話す。

「知ってる」

「雪仁は、上手くなった?」

「前よりは。でも、あれはセンスだね。たぶん。今日の人みたいには無理だよ」

「そんなに綺麗だった?」

「うん、見惚れるくらい」

「顔は?」

「顔?メガネと帽子でわかんないよ」

「そっか、でもフォームが綺麗だと勝手に美人だと思ってない?」

「確かに。美人しかイメージにない」

「男はめでたいね」

「女子もイケメン想像するでしょ?」

「確かに。同じか」

残りのコーヒーを半分ずつ飲みきって、その日は二人一緒に部屋を出た。駅まで美苗を送る途中、ジムの前を通りかかると美苗が

「あれ、香津海じゃない?」

と交差点で信号待ちをする女性を見て言った。雪仁は、「そう?」としか返事が出来なかった。髪が濡れているその女性は、多分、朝、プールで綺麗なフォームのクロールで泳いでいた女性ではないかと、雪仁は思っていたのだった。車は青信号だったので、二人ともはっきりとは確認出来ないまま交差点を通過した。

「香津海だよ、あれ」

「そう?」

「でも、こんな朝早く、何してたんだろうね?」

「さぁ、なんかスポーツウェアっぽかったからジョギングとか?」

「そうね、でも髪濡れてなかった?」

「わかんない、汗かいたんじゃない」

「かなぁ」

「着いたよ」と駅前で美苗を降ろして、雪仁はスタジオに向かった。その日は、録音後のミックスダウンという作業で、一気に三曲を仕上げるスケジュールだったので、帰宅は深夜になった。美苗はすでに寝ているようで、鍵を開けて部屋に入ると静まり返っていた。暗い部屋には冷蔵庫の低いモーターの音が微かに響き、WiFiのシグナルが派手に点滅していた。明かりを点けずにソファに座り、暗さに目が慣れるのを待つ。慣れてくると、暗いままでも廊下の先の洗面室まで行きつけた。シャワーを浴び、顔を洗い、歯を磨いて美苗を起こさないように寝室に入ると目の前の肖像画と目が合う。中学生の美苗。去年の夏休みに雪仁が描いたものだ。雪仁は、美苗に中学生時代の写真を借りて、その絵を描いた。写真を借りる際に、美苗は、

「なんで?」と理由を知りたがったので、雪仁は、夢の話を美苗にした。

「昔から何度も見る夢があって、それは、僕は中学生で、真夜中のプールに浮いている。そこに、大人になった片想いの女の子が現れる。そして、私を描いてと言うんだ。代わりに、あなたにクロールを教えてあげるって。クロールが出来れば、僕は片想いじゃなくなるかも知れないと。つまり、僕はその子と付き合うことができるかもしれないんだ。だから、美苗を描かなくてはいけないんだ」そう雪仁が説明すると、美苗は

「よくわかんない、でも、あたしはその時の片想いの相手じゃないよ」

「そこが、ポイントなんだ。たとえば、本当の片想いの子を描いてしまったら、僕はその子と上手くいってしまうことになるかもしれない。現実を変えてしまうことになる。現実は、美苗と一緒だ。だから、現実が変わらないように、夢の中の出来事を追認するというか。そのために美苗を描く」

「でも、雪仁がクロールが出来なるようにならなくちゃいけないんじゃない?」

「そう、それは美苗が僕に教える」

「クロールを?」

「お願いします」

「あたしは、雪仁がクロール出来なくてもいいんだけど。実際、クロールが出来ない雪仁と一緒にいるし」

「でも、出来た方がいいでしょ?」

「まぁ、ね」

「ということで、どの写真にする?」

「まかせる、ここにあるものの中だったらどれでも雪仁が好きなやつでいいよ」

と美苗が言うので、雪仁は、美苗がプールの飛び込み台に座っている写真を選んだ。夢の中での女の子と同じように。そんな写真があるのが不思議だったので、その写真は誰が撮ったのかと美苗に尋ねてみたのだけれど、わからないという。飛び込み台に座っていたという記憶もないという。美苗の顔は日に焼けていて、女の子にしてはずいぶん黒かったけれど、とにかく良い写真だったのでそれに決めた。出来上がった絵を美苗は気に入ってくれて、毎日一番眼につく場所に飾りたいと言って、寝室に飾った。それも、夢と同じだったけれども、夢のその場面は美苗には話していなかった。(続く)


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by ikanika | 2017-08-31 13:40 | Comments(0)

「走る君を、見ていた」連載第五回(最終話)

 夏が終わり、亮二は否応なしに受験勉強に集中する日々を送ることになった。さほど教育熱心だとは思えなかった母親達もなにかに取り憑かれたように子供達の受験に関して口うるさくなっていて、亮二の母も例外ではなく、放課後に遊ぶなんてもってのほか、息抜きに部活に参加したくてもそういうことが許される空気でもなかった。一度、由梨と帰りが一緒になった時があった。部活が終わってしまって言葉を交わすことも少なくなっていたので、どこかよそよそしくなっているのが歯がゆかったけれど、亮二はこうして由梨と話をしている時間が一番好きなんだとはっきりと思えた。心なしか元気のない由梨は、やはり亮二の進学先が気になっているようで、

「どこか決まった?」

と遠慮がちに聞いてきた。

「まだ、というより、たぶん三つくらい受けると思う。滑り止め、本命、それと、記念」

「記念?」

「そう、ほぼ受かる見込みはないけど、万が一まぐれで受かるとか、一生に一度の高校受験だから記念にものすごくいいところを受けてみる、みたいな感じ」

「なにそれ?よくわかんない」

「どこか行きたいところがあるわけじゃないから。親たちがある程度喜んでくれれば」

「そうなの?私は行きたいところあるよ。陸上が出来て、あと・・・」

「あと、なに?」

「・・・。りょうくんは、自分の為に勉強してるんじゃないの?」

「俺が良い成績を取ると、親や塾の先生が喜ぶ、喜んでくれれば俺も嬉しい。だから、自分の為でもあるよ」

「そんなの、変だよ」

「由梨は、俺が成績がいいと嬉しくない?」

「嬉しくないことないけど。でも、いまはそれでもう一緒じゃなくなることになっちゃってるから」

「じゃぁ、由梨と同じ高校にするって言ったら?」

「そんな気ないのに、言わないの」

「ないことないけど」

「うそ、無理だよ。みんな悲しむよ、お母さんとか、せっかく学年一番とかになったのに、なんで勉強しない私と同じ高校にいくの?」

「由梨が、喜んでくれれば」とは言えずに、亮二はただ黙っていることしか出来なかった。

「ねぇ、高校いったらさぁ」と亮二は、言葉を探した。

「うん」

「・・・」

「なに?」

「いや、なんでもない」と亮二は言いかけた言葉を飲み込んでいた。

「変なの」

「うん」

「じゃぁ、私、こっちだから」

「うん、じゃぁ」

「勉強頑張って、ね」

「由梨も」

「私は、いいの」

亮二は勉強した結果がいまのこれか、と現実をどう受け止めていいのか、正直考えるのが嫌だった。いつかテレビで見た外国の映画では、男が好きな女の人を奪いに結婚式場に駆け込んでいた。亮二はなぜだかそのシーンがありえないと思いつつもどうしても頭から離れないのだった。

 二学期の期末テストの最終日に、由梨が『話があるから教室で待っていて』というメモを机の中に忍ばせてきた。最終日のテストは二科目だけだったので、テストが終わっても、まだお昼前だった。みんなは、思い思いに寄り道をしたり、友達の家に遊びに行ったりと、この先待っている受験のことは棚上げして浮かれていた。ほとんどのクラスメイトが帰るのを待って由梨が、

「帰ろうっ」と声をかけてきた。

「話は?」と言うと、

「帰り道で。とりあえず一階の下駄箱で待ってて」

と言われるがままに、靴に履き替えて一階で待っていた。ちょうど、陸上部の顧問の山岡先生が通りかかって、

「おう、亮二!何やってんだ?」といつも通りの滑舌がよく、いい声で聞いてきた。

「ちょっと、由梨を待ってて」

「そうか、あいつ、決まってよかったな」

「えっ、高校ですか?」

「あれ、まだ言ってないのかお前には。ごめんごめん、聞かなかったことにしてやってくれ。なんか直接話すってこの前報告に来た時に言ってたから。じゃあな。たまには後輩の顔見に練習来いよ!」

と言って、小走りで去っていった。そういうことか、と亮二は由梨に呼び出された理由を納得した。二人で校門を出て、しばらく無言でいると、

「ねぇ」と由梨から切り出してきた。

「決まったよ、高校。西校。推薦、陸上の」

「そう、良かったじゃん」

「うん」

「じゃぁ、また陸上の日々だな」

「うん」

「俺はもう、陸上はいいや。そんなに記録伸びる気がしないし。県大会で思い知ったよ。みんな背もデカイし、全然相手にならなかった」

「そうだよね、私も。でも、推薦で行けるなら、いいかなって、勉強したくないし」

「俺も、勉強したくない」

「りょうくんは、ダメだよ、みんなの期待の星なんだから、そうなんでしょ?」

「もう滑り止めのとこでもいい気がしてる。どうせ一緒じゃないんだから」

「一緒じゃないって?」

「由梨と」

「なんでそんなこと言うの、今更。変だよ最近、全然違うよ、今までと」

と、由梨は、少し涙声になっていたみたいだったけれども、亮二は由梨の顔を見る事が出来なかったので、由梨が泣いていたのかどうかは、はっきりとはわからなかった。正直、亮二も泣きたい気分だった。どうして由梨にこんな事を言ってしまうのか、自分をコントロール出来ないでいた。

「ただ、俺は、由梨と陸上したり、教室で話したりしたことが楽しかったって、思ってるだけだよ」

二人はしばらく黙ったまま歩き続けた。

「・・・冬休みが終わって、すぐ受験でしょ?」と由梨が沈黙を破る。

「うん」

「そしたらもう勉強しなくていいんでしょ?」

「うん」

「そうなったら、また、朝練しよっ?」

「朝練?」

「そう。朝、走るの。校庭」

「去年の冬、花壇の霜柱、踏んでたの覚えてる?」

「あぁ、由梨に注意された」

「でも、私も踏んでみた、今だから言うけど。気持ち良さそうだったから」

「なんだよ、人に注意しといて」

「気持ちよかった、そしたら、なんだかその一日は、ずっと、嬉しかった」

「うん」

「そういうこと、だから、大丈夫、高校一緒じゃなくても、全然」

「よくわかんないけど」

「いいの、だから、あと一息、頑張って。応援してるから、って、なにも出来ないけど」

「ありがとう」

全然大丈夫という由梨は、本当に大丈夫なのだろうか、亮二には由梨がクラスにいない高校生活を想像することはまだ出来そうになかった。

 受験の結果は、滑り止め一校のみ受かり、本命と記念の二つは、試験の最中から全く手ごたえがなく、結果を見に行く必要もないと思える程だった。両親や亮二に過剰な期待を抱いていた塾の先生は、そんな結果に終わったことをあまり気にしている風もなく、単純に喜んでくれた。亮二としては、そんなものかという思いがあったけれども、かと言って他に行くところがあるわけではないので、もう、受験のことは忘れることにした。

 由梨との約束通り、合格発表の翌日から朝練を始めた。

「おめでとう」と由梨はそれだけ言って、トラックを走りはじめた。亮二も由梨の後について走りはじめた。由梨の口からは白い息が規則正しく吐き出され、ポニーテールに掛かるところで空に消えていく。その後ろ姿を亮二は、ぼんやりと見ながら、こうやって一緒に走る冬の朝は、あと何回あるのだろうかと、卒業までの日々を数えていた。通常の時間に登校して来たクラスメイト達は、校庭を走る亮二と由梨の姿を見つけて、なんでもう卒業なのに走っているんだと怪訝そうな眼差しを向けて校舎に入っていった。陸上部の顧問の山岡先生も、

「お前ら、何やってんだ?」

と、いつものよく通るいい声で、叫んでいた。

亮二も由梨も、そんなクラスメイト達の視線や山岡先生の声は気にせずに、ただ走ることに集中した。そうすることで、これから二人に訪れる新しい日々への答えのようなものが見えてくる気がしていたからだ。その日から卒業式まで毎日、亮二と由梨は、朝練を続けた。お互い特に何を話すでもなく、ただ黙々と白い息を吐きながら走った。

 翌日に卒業式という朝、走り終わって更衣室に向かおうとすると、由梨が

「ちょっと待って。お願いがあるの」

と、小さな声で言った。亮二は振り向いて、由梨を見ると、俯いたまま、

「ボタン、先にちょうだい」とさらに小さな声で言った。

「ボタン?」

と、亮二は由梨が何を言っているのか理解出来なくて、聞き返してしまった。

「だから、第二ボタン」

「あっ、ボタンね、第二」

と亮二は馬鹿みたいに繰り返していた。

「明日になったら、だれか他の人に取られちゃうかもしれないから、今日、ちょうだい」

と、由梨は今度は亮二の目を見ながら言った。

「わかった。あとで、渡す。必ず」

と、亮二も由梨の目を見つめ、答えた。いつになく真剣な表情の由梨の眼差しに亮二は、もう明日で最後なんだという現実を否が応でも認識させられたのだった。

 卒業式当日は、あっけなく終わっていった。意中の男子の第二ボタンの争奪戦が繰り広げられ、そういうこととは無縁の輩たちは、いつまでも別れを惜しみ校庭のあちこちで、たむろしたり、子供みたいに追いかけっこのようなことをして時間をやり過ごしていた。さすがに先生達もすぐに帰れとは言い出せずにいつまでも見守るしかない様子だった。亮二は、由梨の予測通り、後輩を含む複数の女子からボタンをねだられ、第二でなくてもいいから、と結局全部のボタンを取られて情けない格好で帰ることになった。早々になくなっていた第二ボタンが、誰の元にいったのかということは、暗黙の了解で誰にも追求されなかったけれども、亮二と由梨がこの日、会話を交わしていないことに、多くのクラスメイトはなんとなく不自然さを感じていた。二人は、毎日の朝練を続けたことで、もう卒業式当日にあえて何かを伝えることはないとお互い感じていて、周囲が怪訝そうな顔をするくらい距離を置いていたのだった。それでも、帰り際に亮二と目の会った由梨は、全てのボタンがなくなった学ランを着ている姿を見て、

「ボタンもらっといてよかった」

と呟き、いつものように小さく笑った。それを側で聞いていた八百屋の田中は、

「いいなぁ、お前らは」

と、いままでなら大袈裟に冷やかしてきたはずなに、この時はやけに大人びた口調でそう言った。その感じが亮二には、もう何かが終わってしまったのだということを告げているように聞こえた。


(終わり)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


この話は、今から10年くらい前に、途中まで書いてそのままにしていたもので、

まだカフェを始めていない時のものです。

終わりをどうしようかと考え始めたら、書けなくなってしまい、ずっと放置していました。

『季節のリレー』を書いている途中で、主人公がリンクしてきて、

止まっていた物語を『季節のリレー』と並行して、

また途中から書き出しました。

中学校時代に自分が本当にこんなことを考えていたのかは

もう随分と昔のことなので記憶が曖昧ですが、

当時は自分の気持ちや想いをきちんと言葉にする術を知らなかっただけで、

今振り返ればこういうことだったのかもしれない、という感じでしょうか。


次に掲載する話は、

『季節のリレー』の最後で、タダユキが書き始めた物語です。

「揺らぐポートレイト」というタイトルです。

カフェという舞台は離れて、再三登場する、“プールに浮かぶ”話を

軸に物語が進んでいきます。

順次、アップしていきますので、また、お付き合いください。


cafeイカニカ

平井康二










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by ikanika | 2017-08-18 16:03 | Comments(0)


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