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『東京で見える星の数』

8月以来の小説の掲載です。

今回は、一番最初に掲載した『二人の居場所』と同様に

女性が主人公です。

男の僕が、女性を主人公にして書くことは

ちょっとおかしなことかもしれないと思ったりするのですが、

フィクションとして書くには、なんとなく同性よりも書きやすい、

という感覚があります。

同じ男だと、自分を投影しすぎて

フィクションになり得ないケースがあったりするからかもしれません。

では、楽しんで読んでいただけると嬉しいです。


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東京で見える星の数



 朝、出かける前にベランダに干していった洗濯物を取り込む。もう夜の十時をまわっている。こんな時間まで干したままにしておくのは、良くないなといつも思うのだけれど、仕方がない。部屋干しや乾燥機で干したものは、やはり気持ちが悪い。ベランダから空を見上げる。東京でも星は見える。いつかどこかの高原で見た星空は、東京の空とは全く違った。星が多すぎると思った。白い細かい塵が、ばら撒かれているようだった。東京で見える星の数くらいがちょうどいいと、その時に感じた。すっかり都会人だな、と心の中で呟き、都会人という言葉に笑いそうになる。四国の田舎で育った自分が都会人なんてと。でも、気づけばもう東京での暮らしの方が田舎での十八年間を上回ってしまっている。まもなく自分が四十歳になるなんて信じられない、というか実感がない。四国での十八年と東京での約二十年は、全く密度が違っていて、東京での時間は薄めすぎた梅ジュースを飲み続けているような気分だ。いまからまた洗濯をして、夜の間、干しっぱなしにしても大丈夫かなと、もう一度、夜空を見る。雲はなく、まばらに星が見える。

「美優ちゃんの背中にはホクロが三つあるんだね、夏の大三角と同じ位置に」

二十代の前半に付き合っていた人は言った。夏の大三角のことを知らなかったので、この人何を言っているんだろうと思った。

「なにそれ?大三角って?」

「知らないの?ベガとアルタイルとデネブを結んで出来る三角形だよ」

「?」彼が何を言っているのかわからない私。

「俺、高校の時、天文部だったんだ。その時、好きだったバンドが天体観測っていう歌を歌ってて、それに影響されて」

「そっかぁ」

「女の子って、星座とか詳しくないの?」

「そういうもの?星占いくらいは見るけど、どうなんだろう。私は全く興味ない、星座とか」

「でも、綺麗な夏の大三角だよ」

「褒められてるのかわかんないけど、ありがとう」

そんな会話をしたことを思い出す。今、空に夏の大三角が見えるのかわからないけれど、雨は降りそうにない。さっき後輩にワインをこぼされてしまったスカートをシミにならないように洗うことにする。二十年も同じ会社にいるのに部下はいない。後輩はたくさんいるけれども。いつでもすぐに簡単にやめられるようにと、昇進試験を頑なに受けずにきたのだけれど、気づけばたくさんの部下とは呼べない後輩に囲まれている。役職は無いものの実質的に管理職に近い役回りをあてがわれているのだから、きちんと試験を受けてそれなりの役職手当をもらったほうがよかったと時々思う。でも、いつでもやめられる気楽さに満足もしている。


「美優さん、ちょっと相談があるんですけど」と声をかけられたのは、先週の木曜日だった。昼休みのランチから戻ってエントランスロビーでスマホのメールをチェックしている時で、顔を上げると新堂さんが目の前に立っていた。

「あっ、はい、どうぞ」突然声をかけられたので、少し間の抜けたような返事になってしまった。

「あっ、今じゃなくて、どっか時間くれますか?夜とか」

「夜?」

「はい」新堂さんはちょっと真面目な顔になっていたので、それがおかしくて思わず笑ってしまった。

「何かおかしかったですか?」

「いや、真面目な顔してたから、ごめんなさい」

「あっ、はい、どうですか?予定とか」

「新堂さんは?」

「僕はいつでも、合わせます」

「じゃあ、明日は?」

ということで、翌日の金曜日の夜に約束をした。場所は、新堂さんがその日のうちにメールをしてきて、自由が丘にあるこじんまりとしたビストロに八時に待ち合わせをした。相談と言っていたけれど、こういう場合はたいてい告白だと思った。恋愛の話じゃないとしたら、なんなのか、その方が想像がつかない。部署の違う新堂さんと仕事の話があるとは思えないし、何か怪しい勧誘をあの真面目そうな新堂さんがするとも思えなかった。金曜日、いつもより少し綺麗めのワンピースを選んで出勤をした。自分がなんとなく浮き足立った気分でいることが不思議だった。けれども、午前中の早い時間に新堂さんからメールが入る。

___新堂です、ごめんなさい、急な出張でこれから山梨に行くことになってしまいまして。今夜のお約束は、また改めて、ということにさせてください。戻ってきても十一時をまわってしまう感じなので。よろしくお願いします。また、ご連絡します。

またいつもの薄い梅ジュースの週末に戻ってしまった、と思った。改めて連絡が来たのは、週が明けた火曜日の朝で、その日の夜の都合を聞かれた。しかし、そういうつもりの服を選んでもいなかったし、心構えのようなものができていなかったので、特に予定があったわけではなかったけれど、とりあえず丁寧に断りの返信を送った。「明日なら大丈夫です」と最後に書いて。

 約束のお店につくと、新堂さんはすでに一番奥のテーブルに座ってスマホをいじっていた。私の姿を認めると立ち上がって、軽く頭を下げ

「どうぞ、こちらに」と向かい側の椅子を引いてくれた。

「なんか、外国の紳士みたいですね」と冗談ぽく言ってみた。

「あっ、やりすぎですか」と新堂さんは照れているようだった。

「いえ、いい感じです」と私は答えて、いつもより姿勢良く背筋を伸ばして座ってみた。相談という名目の本題に入ることなく、二時間近くが過ぎていった。料理も美味しく、新堂さんとの会話も楽しかった。声が好きだと思った。ハスキーとも違う少しくぐもった声。新堂さんは自分でも聞き取りづらいと思われていることを知っているせいか、ゆっくり話をした。その速度も心地良い。でも、このままだと本題に入ることなく終わってしまうパターンになるのではと思い、私から話を振ってみた。

「新堂さん、相談っていうのは?」と。

「はい、そうですよね、そのために時間をいただいたんですよね」と言い淀んでいる。

「大丈夫よ、なんでも言って」と背中を押す。

「はい、ありがとうございます。正直、失礼なご相談だと思っているんですが、僕の婚約者になってほしいんです」

「はい?ずいぶん唐突ね。それは相談とは言わないんじゃない?」

「いや、正確には、婚約者を演じてほしいんです」

「さらによくわかんないけど、話が。それって、よくドラマとかにある病気のお母さんの為とか、そういうやつ?」

「図星です」

「本当に?本当なの?」

「はい」

「ごめんなさい、冗談できいてみただけで」と気まずくなる。本当にお母様が病気の人に言うべきことではなかった。

「いえ、大丈夫です。もう覚悟はできているんで。それより」と新堂さんはまた言い淀む。

「それより、なに?」

「はい、今日こうして二人でお話しするまでは、そう思っていたんですけど、婚約者を演じてほしいと、でも」

「ごめんなさい、私じゃ役不足だった?」

「じゃなくて、演じてほしいんじゃなくて、本当になってほしいと」

「何に?」

「だから、婚約者に。いや、違いますね、婚約者じゃなくて、まずは彼女というか、交際相手ですよね」

「新堂さん、それ告白よ、わかってる?」

「はい、そのつもりです」嬉しい気持ちを抑えて困ったような演技をしている自分が素直じゃなくて、かわいくないなぁ、と思った。


 新堂さんのお母様は、結局、会うことなく、あっけなく亡くなってしまった。「でも、彼女が最近できたんだ、と伝えたら喜んでたから、それだけでもよかった」と新堂さんは「ありがとう」と頭を下げた。自分の両親も、彼氏が出来たと言ったら喜んでくれるだろうか、と想像する。たぶん「だったら早いところ結婚してもらえ」と父は言うだろうし、母は「じゃあ、孫の顔が見れるかしら」とプレッシャーをかけてくるに違いない。もう、そんなに簡単に産める歳でもないのに。

 新堂さんのお陰で、薄めすぎた梅ジュースは卒業し、日々はきちんと味のする梅ジュースになった。甘酸っぱいというような表現が似合うような関係ではもはやないのだけれど、それなりに恋愛関係がもたらす、なんとも言えない心のざわざわを楽しんだ。しかし、その先に結婚という二文字があるのかと言えば、それはまた違うのだった。新堂さん自身もお母様が亡くなってしまったこともあって、急いで結婚、という呪縛から解かれたようで、私に対して将来のことを話したりすることはなかった。ただ今は二人でいる時間が楽しいからそうしている、というくらいの感覚なのだろうと私は想像していた。新堂さんとの約束がない週末は家の近くのカフェで過ごした。ランチタイムを過ぎたくらいの時間を見計らって行って、一人静かに読書をしたり、カフェのマスターとおしゃべりをする時間が楽しかった。マスターは私を「美優先輩」と呼ぶ。年齢はマスターの方がたぶんひとまわり位くらい上のはずなのだけれど、以前、会社の後輩が偶然そのカフェに彼氏とランチに来ていて、その時の後輩の私に対するリスペクト感(とマスターが言っていた)がすごかった、ということで、マスターはそれ以来、美優先輩と呼ぶようになってしまった。

「男の人の結婚のタイミングって何ですか?」 とマスターに尋ねる。

「美優先輩、なに、結婚するの?」

「私が質問してるんですけど」

「さぁ、人それぞれだから」

「マスターは?」

「僕は、イメージが、湧いたっていうか、二人でいる映像が見えて、一人で気ままにやっていたその時よりも楽しそうだなぁ、って思えて。そうしようって。それ以上具体的なことは考えてなかった」

「それで奥さんもオッケーだったんですか?」

「うん。すんなり。仕事のこととか家をどうするかとか、親の事とか、いろんな面倒なことはあるんだけど、その辺は考えてもその通りに行くもんじゃないから。二人でなんとかしようって思ってれば、それなりになんとかなるもんだから。まずは、イメージ、想像力」

「想像力かぁ」

「自分の中に漠然とでもイメージがわかないと、そこに向かって行くのって難しくない?それがさぁ、多少妄想で現実と違っていても、とりあえず向かって行く先が見えてないとね。で、徐々に軌道修正して行く感じでいいというか」

「イメージ湧いてないんだろうなぁ」と私はつい呟く。

「彼氏?」

「はい」

「美優先輩は?イメージできる?」

「んーん、ちょっと、まだ、無理かなぁ」

「それも微妙だね。大丈夫?その彼で?」

「考えちゃうんですよね、いま別れて、また次、だとしたら、とか」

「これは別れるね」

「勝手に決めないで下さい」

という会話をマスターとした翌週に、新堂さんとはお別れした。わりとあっさりと。新堂さんは「わかりました、ごめんなさい、ありがとうございます」くらいしか言わなかったように思う。そのくらい薄い記憶の別れ方だった。味のない梅ジュース、という言葉が頭に浮かんだ。振り出しに戻った毎日は、それまで慣れ親しんだ世界に戻ってきたようで、なんとかロスみたいな感覚とは無縁で、しっくりと身体にすぐに馴染んでしまった。新堂さんとは部署が違うので会社で会うことはほぼ無く、交際してたことも会社の誰にも知られずに終わったので、少し薄情かと思いつつも、全てなかったこととして過ごすことが出来た。そんなタイミングで、一番可愛がっている後輩の紗季が結婚することになった。カフェのマスターが美優先輩と呼ぶきっかけを作った張本人だ。当然、式への参列を打診されたが、丁重に断った。「二次会とかなら、顔出させてもらうけど、披露宴は遠慮していい?」と。社内からは紗季と同年代の同僚と直属の上司が参列することは容易に想像できるので、そこに自分が混ざっている図は、ありえないと思った。出来れば二次会も遠慮したいのだけれど、とりあえずはそう伝えた。よく友達の結婚式の二次会で出会って結婚したとかいう馴れ初め話を耳にするけれども、これまでに出席した二次会では、そんな出会いはなかったし、自分の年齢を考えるとこれから先はさらにありえない事と思えた。もし、二次会に参加する男性陣がそういう出会いを求めているのであれば、なおさら自分は場違いだと思う。こうやってどんどん出会いのチャンスが減っていくのだろうかと考え、では、これからの自分に訪れる出会いのチャンスとは一体どんなものなんだろうかと想像すると、さすがに危機感のようなものを感じるのだった。しかし、そんなに結婚を望んでいるわけではないと思っているところに矛盾はあるのだけれど。

 

 会社の同僚と地元の友達以外に、友人と呼べる人は、唯一、史奈だけだ。東京に出てきて間もない頃、英会話くらいできた方がいいかと、さほど深い考えもなく、仕事終わりに英会話スクールに通っていた。その時に出会ったのが史奈で、かれこれ二十年の付き合いになる。英会話スクールは、わずか一年でやめてしまったけれど、史奈との付き合いは、薄く長く続いている。薄いと言っても二十年も経つとそれなりに、お互いのことはわかり合っていて、一緒にいて一番落ち着くのだった。史奈は、二十二歳で結婚し、子供はいないのだけれど、ご主人の孝典さんといつも一緒に出かけたり旅行に行ったりと仲のいい夫婦生活を送っている。たまにその二人に混ざって食事に行ったり日帰りの旅について行ったりしているのだけれど、私は孝典さんと二人きりになると、未だに少し緊張する。その緊張が何によるものなのか、わからない。孝典さんは極めて温和で優しい印象で、時折、時事ネタに毒を吐いたりして、会話に窮することもないのだけれど、私は冷静を装いながら実はいつも緊張しているのだった。その日も、三人で、史奈のうちでご飯を食べていたら

「美優がずっとひとりなら、将来は三人で暮らせばいいじゃん」といつものように史奈が冗談のつもりで言う。私は孝典さんの表情を盗み見る。いつも、これといって何かを読み取れる表情の変化はないのだけれど、ついそうしてしまう。

「ありがとう、それなら安心して独身生活を謳歌できるわ」と冗談で言ってみるものの、複雑な心境だ。

「でも、孝典さんは、おばあさんになった二人と暮らすなんて勘弁してくれ、って感じでしょ?」と言ってみたりすると

「美優ちゃんなら、いいよ、全然。なんかよくわからない男と結婚しちゃうより」と孝典さんは真顔で言う。史奈は

「孝典は、美優のことお気に入りだから」とそれに乗っかってくるのだけれど、どう切り返したらいいのか戸惑う。「ありがとうございます」とか軽く流せばいいのだろうけど、咄嗟にはそんな上手く言葉が出てこない。

「美優ちゃん、もし彼氏できたら、真っ先におしえてよ、品定めするから」と孝典さんは言う。

「なかなかいい人いないですよ、孝典さんみたいな」と冗談のつもりで言ったのだけれど、自分の鼓動が早くなってきてしまって驚いた。

「まぁね」と少し酔っている孝典さんは満面の笑みで、史奈を見る。

「もし、私が不治の病で先に逝ったら、美優、孝典をよろしくね」

「大丈夫、史奈は長生きするよ、僕が先に逝く」

私は史奈がいなくなって孝典さんと二人きりになってしまった世界を想像して、さらに鼓動が早くなり、顔まで火照ってきているように感じて「ちょっと、お手洗い借りるね」と言って席を立った。洗面所の鏡を見ながら「まさかね」と呟き、ありえない妄想をかき消す。

「そろそろ、帰ろうかな」とお手洗いから出て、すぐに言う。

「タクシー呼ぶ?」と史奈。

「お願い」

「美優ちゃん、来週さぁ、ブルーノートでジュリアホルスマンあるんだけど、行く?」

と孝典さんが言う。

「ジュリア?」

「この前、良いって言ってたピアノの女性」

「あー、あの人。行きたいです」

「じゃあ、三人でチケット取っとくよ。三日だけど、大丈夫?金曜日」

「金曜なら、全然、定時退社日なんで」

三人でライブに行くことになり、なんだか嬉しくて帰りのタクシーでは思わずニヤけていた。


「美優先輩、それヤバくない?大丈夫?」

「大丈夫ですよー、親友のご主人ですから」

「でも、間違いなく、恋だよ、恋」

「違います、好きですけど、恋とは違います!」

マスターは孝典さんのことで、私をからかう。恋だと言われれば、確かに恋に似た感じもするけれども、恋をして良い対象じゃないことくらいはわかっている。恋じゃなくて、ただ好きなだけでいい、それがいまの気分だった。孝典さんだって、私のことをお気に入りだと史奈は言っていた、それと同じだ、自分も孝典さんがお気に入りなのだ。明日の夜は、ブルーノートだ。孝典さんは、私があのピアニストが良いと言ったのを覚えていてくれた、と思うだけで嬉しい。やはり恋か?と自問して、焦る。それだけはやめようと、もう何度も言い聞かせている。

「まぁ、とりあえず、二人きりにならないといいね」

「だから、三人で行くんです」

「わかんないよ、奥さんが急用でドタキャンとか」

「ありえませんー!」マスターが冗談で言っていたことが、翌日には現実になるとはこの時は微塵も思っていなかった。


「あれっ、史奈は?」

「なんか、トラブル、遅れてくるって、間に合えば」と孝典さんはスマホを見ながら言う。

「えっ、ほんとに?」

「うん、さっきメールで」

「じゃあ、二人きり?」

「そう、でも念のため三人座れるボックスにしたよ」

「そうですね、遅れてくるかも、ですね」

私は鼓動がみるみる早くなって行くのを感じる。緊張なのか何なのか、喉が渇いてきて、早く何か飲みたかった。それぞれにビールと、あとおつまみを孝典さんが適当なものを選んで頼んでくれる。ボックス席のステージが見やすい側に私を座らせてくれて、孝典さんは少し体を捻ってステージを見る格好になる。なので、私からは少し視線をずらせば孝典さんがすぐに視界に入る。もっと言えば、孝典さんをかすめてステージを見ることも出来る。まずい、まずい、と焦る。何かがおかしい、こんな展開を望んではいない。史奈のご主人なのだ、と強く思う。早く史奈が来てくれないかと念じる。

「カンパーイ」とビールグラスを合わせる。

「久しぶりだなぁ、ブルーノート」

「そうなんですか?」

「昔は、よく来てたけど、十年くらい前は」

「史奈と?」

「いや、一人で」

「一人で?」

「ライブに集中したいから、基本一人」

「そういうものなんですね」

「音楽オタクだから。デートでここに来てるやつを軽蔑してたから」孝典さんはちょっと毒を吐く。それがおかしい。

「今は?」

「今?今、美優ちゃんと二人でいるこの感じは側から見たらデートだろうね」

「そうですか?」と私はドキドキしている。

「ボックスシートに二人だもん、口説きモードだよ、普通は」

「ですよね」もう、まずい、と思ったら、照明が暗くなり、演奏が始まるようだった。よかった、と少し落ち着く。ステージを見ているのか孝典さんの横顔を見ているのか、わからない自分がいる。演奏なんてほとんど耳に入ってこない。孝典さんは、食い入るようにステージを見ていて、演奏が盛り上がって客席が湧くと私を振り返り、楽しそうに笑っていた。私もその孝典さんに笑い返す。演奏なんて全然聞いていないのに。史奈は、まだ来ない。今夜は来ないつもりなのだろうか。このままずっと二人なのだろうか。自分がそれをどこかで望んでいるのだろうかと、思考が混乱する。頭がぼうっとしてきて、ぼんやり孝典さんの横顔を見ていたら、突然肩を叩かれて、横を見ると史奈が立っていた。席を奥にずれて今まで私が座っていた席に史奈が滑り込んだ。史奈は、孝典さんの肩を突いて、振り向いた孝典さんに手を振った。仲の良い二人だと思う。今さっきまでの自分が馬鹿に思えてくる。このままずっと二人がいいなんて思ったことが恥ずかしい。

三人でタクシーに乗って帰った。なぜか私を挟んで後部座席に三人。

「間違ったね、座る順番。僕らが先に降りちゃうから、一番奥が美優ちゃんだったね」

「そうよ、孝典が先に乗っちゃうから、変になったのよ」

「奥まで入って行くの、スカートだと大変かなぁ、て」

「真ん中も、スカートだと大変よ、ねっ、美優」

「まぁ、でも、大丈夫」と言ってスカートの裾を確認する。孝典さんの視線が気になったけれど、それは自意識過剰なのだと思い直す。意識を右隣の孝典さんではなく、左隣の史奈に集中する。鼓動が早くならないように。

「トラブルって、なんだったの?」

「よくあるクレーマーよ」

「そっか」

「閉店間際を狙ってくるのよ、そうすれば他のお客さんの目を気にしないで文句言えるでしょ」

「そういうものなんだ」

「そう、一応他人の目は気になるみたい、ああいう人でも」

「解決したの?」

「一応、今日のところはなんとか帰ってもらったけど、返金とかの判断は本社まで通すから、また明日ね、それは」

 史奈は、全国展開しているアパレルに勤めているのだけれど、一度は辞めたはずなのに人手が足りないと懇願されて、渋々向こうが必要な時期に手伝っている。キャリアは、どの店員よりもあるので、こういう神経を使う難しい対応を任されてしまうようだった。前もクレーム対応に大阪まで行っていたこともあった。右隣の孝典さんが静かなので様子を見てみると、窓に頭をもたげて眠っていた。

「孝典さん、寝てる」と史奈に告げる。

「最近、呑むとすぐ寝ちゃうの。もう四捨五入したら五十だから」

「えっ、もうそんな」

「先月、四十五になったから。私たちも、来年四十よ」

「来年?」

「あっ、再来年?」

「まぁ、どっちでも一緒かぁ」と私はもう一度、孝典さんの寝顔を眺めた。史奈が運転手さんに次の信号で止まってほしいと告げ、孝典さんを乱暴に起こして、二人は帰って行った。またタクシーに乗り込み孝典さんが座っていた奥の席に目をやるとシートの上にスマホがあった。孝典さんの忘れ物だと思い、すぐに史奈にメールをした。

「明日、美優の会社まで孝典が取りに行くって言ってるけど、いい?」と返信がくる。

「お昼休みなら。十二時に一階のロビーで」とお願いして、おやすみ、と送った。

 独立して建築事務所をやっている孝典さんは、いつもスーツではなくラフな格好をしている。史奈は、四捨五入したら五十と言っていたけれども、全くその年齢には見えない。会社のエントランスロビーで孝典さんの姿を見つけると、私は、あの人は私の待ち合わせの相手なの、とみんなに教えたいと思う。「美優さんが、誰か素敵な男性と待ち合わせをしていた」と後で噂になって欲しいと思う。当然、新堂さんの耳にも届けばいいと思う。本当は、親友のご主人なのだけれど。

「こんにちは」と孝典さん。

「わざわざすいません」

「いや、こちらこそ。お手数お掛けして。最近すぐ眠くなっちゃって、お酒飲むと」

「よく寝てましたよ」

「ランチ、一緒に行けます?ご馳走させてください」

「あっ、はい、一時には戻らないといけないので、近くなら」

「そこにイタリアンみたいのがあったんですけど、行ったことあります?」

「はい、何度か。美味しいですよ」

「じゃあ、そこでいいですか?」

「はい」と答えながら、あの店なら確実に何人か後輩社員がいるはずだと思う。そして、孝典さんと二人の私を目撃してくれて、噂をしてくれることになる、と。思った通り、退社時に

「美優さん、お昼の男性、誰ですか?」

と後輩に訊かれる。

「お友達。建築家の」とだけ答える。嘘ではない、どこにも嘘はない。ただ、親友のご主人ということを告げていないだけだ、と思う。いつも通り、ひとりの部屋に帰るだけなのだけれど、足取りが軽く、甘酸っぱい梅ジュースの味を思い出していた。

 翌朝も、いつも連んでいる後輩三人組から「昨日の男性、誰ですかぁー?」と興味津々に質問される。昨日と同じ様に「お友達。建築家の」と答える。「そうなんですかぁ」という薄いリアクションをした後輩のうちの一人が、少しテンションが上がったトーンで

「そういえば、莉奈、結婚するんですよー!」と続ける。莉奈とは、社内では少し派手目の女の子として有名な子だ。

「誰と?」と、さりげなく訊く。

「新堂さん、っていう人、知ってます?美優さん?どこの部署ですか?」

私は、耳がキーンとなって、少し気が遠くなる様な感覚に襲われる。いまこの子、なんて言った?シンドウサン?確かにそう言った。

「知ってますか?」と繰り返される。

「知ってる、確か、あっちのビルだから、調査部とかかなぁ」となんとか平静を装い答える。

「そっかぁ、じゃあ、見たことないかも、わかんないね、どんな人か」と三人の後輩達はぼんやりとしたリアクションのままエレベーターに乗り込んだ。まだ耳鳴りがしている。エレベーターのせいではない。その日は、具合が悪いと言って、午前中で早退させてもらった。仮病と言われれば、そうかもしれないが、実際、相当に具合が悪い。自分から別れを告げたはずなのに、なんでこんなにショックを受けてしまうのかわからない。まっすぐ家に帰って大丈夫だろうかと、駅に向かって歩きながら思う。孝典さんのことが頭に浮かび、スマホを取り出してみるが、さすがにまずいなと思い直し、いつものカフェに行くことにする。マスターに、新堂さんのことを話すかどうかはわからないけれど、家で一人になるよりは、いいと思った。電車に二十分ほど揺られる。耳鳴りではなく、頭の中でキーンという音が鳴っているのだと思う。カフェは、ランチタイムのお客さんの余韻が残っていて、色んな匂いが混ざったざわざわとした空気が漂っていたけれど、若い男性客がひとりいるだけで空いていた。

「あれっ、美優ちゃん?会社は?」とマスター。

「早退しました、仮病で」

「仮病?学生みたいだね」

「はい」

「でも、なんか具合悪そうだけど?ほんとに」

「はい、悪いです」このままの会話の流れだと、新堂さんのことを話すことになる。まっ、いいか、話した方がすっきりして、頭のキーンも消えるか、と思う。

「とりあえず、なんか食べる?ごはんもまだあるよ」とマスター。

「じゃあ、ごはん、お願いします」と言って、自分でも驚くくらいのため息をついてしまう。ごはんを食べている間、マスターはランチで出た食器をずっと洗っていて、何も会話をしなかった。一人でいる若い男性は、ずっと本を読んでいて、全く物音を立てない。私の咀嚼する音が妙に大きく店内に響いている様に感じて、少し恥ずかしくなる。ちょうど食べ終わったタイミングでマスターが食器を下げにくる。

「どうしてわかったんですか?食べ終わったの」

「なんとなく、気配。音とか」

「そっか。コーヒーもください」

コーヒーを持ってきたマスターに

「聞くよ、話、孝典さん?」と言われる。だったらいいのに、と思いながら

「いえ、じゃなくて、新堂さん」と答える。

「えっ、元に戻ったの?」

「全然、結婚するって、新堂さんが」

「あ、そう、で?なんで落ち込んでんの?自分から振っといて」

「わかりません、でも、頭がキーン、って」

「ショック症状?」

「みたいな。なんか、派手な若い子と」

「だからなの?」

「私とその子、全然違うし、なんで、付き合ったりしたんだろう、あの人、わけわかんない」

「うわっ、怒ってる。まぁ、縁だから、色んな人いるよ」

「にしても」やっぱり、私は怒っているみたいだった。私よりあの子の方がいいと、あの人は思ったんだと勝手に思って。そうとも限らないのに。私に振られたから、次はあの子にしたんだと思えばいいのに。でも、そんな風に思えないのは何故なんだろうか。もう、めんどくさい。

「あぁ、めんどくさい」と呟く。ひとりでいる若い男性が、ちらりと本から視線をあげたような気がして、バツが悪い。マスターになんか言って欲しくて、カウンターの向こうの顔を見る。

「めんどくさいよ、恋は」とマスター言い、男性客が今度は、はっきりと顔を上げて、私とマスターを交互に見た。

「なんか、いいっすね、カフェっぽくて」とその男性客、というか男の子と言った方が似合う彼は言う。

「カフェっぽい?」とマスター。

「よくあるじゃないですか、ドラマとかで、常連客とマスターの会話で、今みたいなの」と彼。

「確かに。で、これをきっかけに、二人は、みたいな」とマスター。

「二人って?」

「美優ちゃんと、君」

突然、名前を言われて驚く。

「私?」

「どう?年下の彼みたいなの」

「どう、って、彼が嫌でしょ、アラフォー」

「アラフォーなんですか?」

「いつくなの?」と私は彼に尋ねる。二十代の真ん中あたりかと思って。

「三十三です。今年、四」

「そうなの?もっと若いかと」

「ガキっぽいですか?」

「そういうわけじゃないけど」

「そんなに変わらないですよね?」

「いま、八だから、四つ」

「まだ、アラフォーじゃないですよ、それ」

こんな出会い方で、もし付き合うことになったら、マスターのいいネタになってしまうと思う。でも、どうなんだろうと、もう一度、彼の顔をマジマジと見てみる。痩せている、が第一印象。本を読んでいたせいか、勝手に文学青年という言葉が浮かぶ。モヤシくん。昔聴いていたFMラジオで、そんなラジオドラマがあったような。

「何読んでるの?」となんとなく聞いてみた。

「建築の本です、資格の勉強で」

「建築家志望?」

「まぁ、そんなところです。でも、なれるものなのかなぁ、って程度で、試しに読んでみているだけで」

「お友達で、建築事務所やってる人がいるけど、建築家ってなんか、かっこいいわよね」

「はい。なんかの本に書いてあったんですけど、建築家はモテるって」

「なんで?」

「クライアントの無茶な要望を汲み取って、説得して、なんとか仕上げる、っていうプロセスが恋愛と似てるから、って」

「クライアントの無茶な要望かぁ」と、その言葉にひっかかる。私は、無茶な要望を孝典さんに言っているだろうかと考える。

「何考えてんの?」とマスターに言われてハッとする。バレていると思う。そんな会話をしていると、もう新堂さんのことなんてどうでもよくなっていた。仮病で早退して、ここに来て正解だった。彼はよくここに来るのだろうか?今度、マスターに訊いてみようと思う。

「ご馳走さまでした」とモヤシくんは、席を立ちお会計を済ませて、

「では、また。お先に」と言って帰っていった。私は、本と財布とスマホだけを持ってきているその姿を見ながら、たぶん近所に住んでいるのだろうなと想像していた。

「彼、そこのマンションに住んでるみたい」とマスター。やっぱりと思い、

「よく来るんですか?」と尋ねてみる。

「平日にね」

土日にしか来ない自分とは、出会うはずがないと思う。次に平日に来れるとしたらいつになるだろうと考えていた。


「建築家の旦那さんってどう?」

「どう?って何が?」史奈は不思議そうな顔をしている。当たり前だ、質問が唐突すぎると言ってから思った。

「あっ、唐突だったね、この前ね、建築家はなぜモテる、って、話になって、それはね、クライアントの無茶な要望を汲み取って、説得して、なんとか仕上げるっていうプロセスが恋愛に似てるからだって」

「ふぅーん、そうなんだ。私、孝典さん以外にちゃんと付き合った人がいないから、わかんないかも」

「そうなの?」

「だって、二十二で結婚したから、その前は、お付き合いといってもね、学生だしね」

「そっかぁ、そうだよね」

「誰が言ってたの?それ」

「建築家志望の子」

「子、って女の子?」

「男の子、若い、モヤシみたいな」

「モヤシ?」

「そう、痩せてて、モヤシみたいに」 史奈はまた不思議そうな顔をした。

「美優って、おもしろいよね、なんか」

「そう?」

「そのモヤシくんとは、どこで出会うの?」

「カフェだけど、行きつけの」

「カフェでそんな風に出会って、お話しして、仲良くなったりするもの?」

「仲良くはなってない、まだ」

「まだ、ね」

「まだ、っていうか」

「最初の質問は、そういうことでしょ?そのモヤシくんともし結婚とかしたら、どうなんだろうとか、ちょっと考えたり」

「そんなことは、ないよ、ただ、建築家はモテるって、話で」と言いながら、史奈の言う通り、あのモヤシくんをそういう対象として考えていたのだろうかと自問してみる。わからない、そうかもしれないし、全然違うかもしれない。ただ、次、平日にあのカフェに行けるのはいつだろうと、考えはしたけれども。それだからと言って、モヤシくんとの結婚なんて。

「いいんじゃない、年下」と史奈は面白がる。

「今度、会わせてよ、そのモヤシくん」

「いいよ、別に、そういうんじゃないから」

「あっ、わかった、四人で会おうよ、孝典と」

「何言ってんの?」

「ちょうどアシスタント探してるの、孝典の事務所で、だからちょうどいいじゃん、その子、建築家志望なんでしょ?だったら孝典のところで勉強すればいいし。それに」

「それに?」

「美優に見合う男かどうか孝典に品定めさせられるし。孝典、本気なのよ。美優に中途半端な男はダメだって言ってるの」史奈は、どんどん話を進める。モヤシくんとは、まだ一度だけカフェで会話をしただけなのに。これから会えるかもわかっていないのに。それに孝典さんに品定めなんて、私は孝典さんがいいのに、いや、それは無し、だ、と頭の中でぐるぐると思考が混乱する。

「どう?ダメ?いい考えだと思うんだけど」史奈が畳み掛ける。

「わかった。考えとく」そうとでも言っておかないと、ずっとこの話になりそうだった。モヤシくんが孝典さんのアシスタントとして存在している図を想像して、さらに混乱する。そんなことになったら二人をどういう風に見ればいいのか、全く整理がつかない。でも、なんとなくそういう状況も楽しそうだと、どこかで思ってしまっていることは、否定出来なかった。アラフォーになる独身の女は、そういうものだろうかと、どこかの女性誌に質問の投稿でもしてみたくなった。憧れの年上の男性、でも、親友の旦那、それと、頼りないけど、なんとなく気になってしまう年下の男の子、が同時に私の前に現れてしまいました。私は、どうしたらいいのでしょうか?なんて。馬鹿みたいと思いつつも、ネタとしては面白がってくれるかもしれないと、どこか他人事のような感覚でいたりする。

 平日に、カフェに行くことなんて基本的にはありえないので、あの日以来、モヤシくんには会えていない。土日に何度か行ってみたものの、モヤシくんは現れなかった。マスターにさりげなく訊いてみる。

「最近、あの建築家志望の男の子、来てます?」と。

「うん、神野くんね、来てるよ。なんで?」

「いや、別に、あれから会ってないなって、思って」

「一応、本格的に建築の勉強することにしたって言ってたよ」

「資格取るんですかね、独学で」

「いや、勉強も必要なんだろうけど、なんかねぇ、実務経験が必要みたいで、どっかの建築事務所に入って勉強するのが一番いいとかで、悩んでたよ」

孝典さんのことをマスターに話すか、迷う。たぶん、マスターに孝典さんの事務所でアシスタントを探していると伝えれば、確実にモヤシくんと孝典さんが会う流れになる。それでいいのだろうか。モヤシくんのことを考えれば、そうしてあげることが正しい選択だということはわかっている。でも、自分はそうなった時に、どうしたいのかがわからない。迷って黙っていたら、マスターが

「確か、お友達の旦那さん、建築家じゃなかったっけ?」と言う。まずい、先を越されたと思う。

「あっ、はい、そうですね、史奈の旦那さん」

「美優ちゃんが恋してる人でしょ?」とマスターにまたからかわれるけれど、否定も出来ない。

「恋じゃないですから」

「その人のところで働けたりしないの?」

「さぁ、」と、とぼけてみる。マスターは変に鋭いから、いまの、さぁ、に何かを感じ取ってしまったかと思い。表情を窺う。何かを考えているように見える。

「ダメ元でさぁ、聞いてみてくれる?お友達に」

「えっ、何をですか?」

「ご主人の事務所で人を探してないかって」

「いいですけど」

「けど、なに?問題でもある?」

「いえ、ないです」

マスターに気づかれる前に、この話題を終わらせたい。

「たぶん、火曜か水曜のどっちかに神野くん来ると思うから、わかったらすぐに教えてくれる?」

「わかりました」と答えながら、火曜か水曜にくれば、彼に会えるのだと思い、どうやって会社をサボろうか、具体的に考え始めていた。家に帰りながら、とりあえず、史奈に連絡をする。

「モヤシくんに、今度会うから、アシスタントの件、訊いてみるけど、まだ探してる?」と。すぐに返信がくる。

「是非、お願い、って孝典が言ってる」と。モヤシくんに会うと言ってしまったけれど、まだ、どうやって会社をサボってカフェに行くか、決めていない。それに、火曜か水曜のどちらにモヤシくんが現れるのかもわかっていない。どうしたらいいのだろうか。とりあえず、マスターに訊くしかないか、と思い電話をする。

「はい、カフェコヨーテです」とマスター。

「あっ、美優です」

「おっ、どうも。神野くんの件?」

「はい、ちょうどアシスタントを探してるようなので、繋いで欲しいって」

「ほんとぉ、よかった、ラッキーだね、神野くん。伝えてみるよ。まとまるといいね」

「あっ、はい、いつでしたって、彼が来るの?」わかっているのに忘れたふりをして訊いてみる。

「火曜か水曜だけど、たぶん水曜」

「水曜なら、私も行けます。ちょうど代休なんで」と小さな嘘をつく。会社には、あとで何かの理由をつけて休日申請を出せばいいのだ。

「そっか、じゃあ、美優ちゃんから直接言ってもらった方がいいね」

「はい、でも、何時ですか?」

「いつも来るの二時だから、二時だと思うよ」

「わかりました。じゃあ、水曜二時に」


 水曜日、カフェに行くにしては少し綺麗めのワンピースを着て家を出る。先にモヤシくんは着いていて、マスターと話をしているのが外から見える。

「こんにちは」

「こんにちは。お久しぶりです」とモヤシくん。シャツのせいか、この前ほど痩せて見えない。モヤシくんとは呼べない感じだ。

「神野くんね、実は昨日来て、だから、ざっと話しちゃった」とマスター。

「えっ、そうなんですか?じゃあ、今日は、なんで、わざわざ?」

「美優ちゃんが来るならって」とマスターが言うと

「お話しを頂いたお礼も、ありますし、直接、お話しを聞けたらと思って」とすぐにモヤシくん、いや神野くんは少し慌てて話す。理由はなんでも、とにかく会えてよかったと思う。ざっと、史奈のことや孝典さんの事務所のことなど、自分が知っていることを神野くんに伝える。

「やっぱり、孝典さん、ってモテますか?」と神野くん。マスターが余計な事を言わなければいいけど、と思いながら、どう答えようか迷う。モテると言ってしまうのもなんだか、他人事みたいだし、そんなにモテないというのは嘘になる。答えを考えて黙っていると

「モテるみたいよ」とマスターが割って入る。

「美優ちゃんも恋しちゃうくらい」と神野くんの前では微妙な冗談を言う。ここで、ムキになったり照れたりするとおかしなことになると思い、咄嗟に

「そうね、モテるね」と軽く流した。すると神野くんは

「僕も建築家になったらモテますかね?」とまた答えに窮する質問をする。

「モテないの?神野くん、彼女とかいないの?」と一応、年上の女として、さらりと言ってみた。マスターは、黙って二人の会話の行方を見守っている。そう、いまは見守ってて、と願う。

「いないですねー、しばらく」

「そう」と訊いておきながら興味がないフリの返事をする。本題を片付けてしまおうと思い、史奈に孝典さんのスケジュールを訊いてもらい、週末の金曜日に、モヤシくんが孝典さんの事務所に行って面接を受けることになった。多分、面接と言っても形式的なもので、とりあえずは採用されるだろうと思う。だって、私の紹介なんだから。その先にどんな展開が待ち受けているのかは、今は考えないようにした。

 金曜日の夜に、史奈から「神野くん、早速、月曜から働いてもらうことになったよ」とメールがあり、土曜日の朝には、孝典さんからも「この度は、色々ありがとう」とメールが届く。日曜日にカフェに行くと、マスターから「どうなった?」と訊かれ

「明日から行くみたいです」と話していると、神野くんが現れる。

「よかった。もしかしたら居るかなって思って来てみました」となんだか上機嫌なモヤシくん。今日のTシャツはモヤシに見える。

「他に行くとこないんで」と、答えると神野くんではなく、マスターがそれに対して突っ込む

「行くとこないから、来たの?」と。

「あっ、いや、ここが好きなんで」と言ってみたものの、取ってつけたようなフォローになってしまい、マスターは「テキトーだなぁ」と呆れて笑っている。

「椎名さんのところに明日から行くことになりました、ありがとうごさいました」とモヤシくんは、立ったままで頭を下げた。

「椎名さん、かぁ、なんか新鮮。孝典さんと史奈としか呼ばないから、椎名、だったね、あの二人」

「はい、孝典さん、やっぱり、カッコよかったです、モテる大人って感じでした」とモヤシくん。当たり前よ、だって私はずっと憧れてるんだから、と心の中で思う。あの二人は、私について、モヤシくんに何か話したのだろうかと気になるけれど、どう聞き出したらいいのか上手い言葉が見つからない。

「そうよね、モテる建築家のお手本みたいな人よね」と、とりあえず答える。

「美優さんは、孝典さんのお気に入りなんですか?」

「はっ?」

「奥さんが、そう言ってました」

「あぁ、それね、いつも酔うと孝典さんがそう言うの。彼氏が出来たら品定めするから、一番に知らせるようにって言われてる」

「じゃあ、孝典さんのお目に叶うことが必要なんですね。美優さんと付き合うには」

私は、モヤシくんの顔をじっと見つめていた。そして「もしかして、私と付き合いたいの?」と心の中で、言ってみた。モヤシくんに伝わるだろうかと思いながら。

「僕、建築家目指します、本気で、孝典さんみたいな」と、神野くんは真剣に言う。もうモヤシくんとは呼べないくらい力強く。

「頑張って。孝典さんも喜ぶんじゃない」と言ってみて、さらに「そうなったら、孝典さんのお目に叶うわね」と付け加えたら、神野くんはどんな顔をするだろうかと想像してみる。実際には、そんなことは口にはしなかったけれど。


 孝典さんのところで神野くんが働いている状態を、自分でも本当のところどう思っているのかわからない。わからないというよりは、考えるのが面倒なのかもしれない、とも思う。孝典さんのことは、相変わらず素敵だと思うし、モヤシくんのこともなんとなく気になる。でも、モヤシくんに対するそれが恋愛という形をとるにはまだ何かが足りないと感じている。孝典さんを本気で好きになってはいけないということも、わかっている。私が欲しているのは、なんなのだろうか。ただふわふわと気になる男性達に囲まれて、それで気分がいいと思っているのだろうか。その先にあるはずの結婚というものを本当に欲しているのだろうか。そこまで考えて、あぁ、面倒だ、と匙を投げる。これから進むべき方向を教えてくれる道しるべがどこにもないと思う。そもそも、そんなものがあるのかさえもわからない。みんなどうしているのだろうか?私だけが見失ってしまったのだろうか。

「美優先輩、お昼行きませんか?」と後輩の紗季に声を掛けられて、びくりとする。ほとんど仕事をしないで午前中が終わってしまった。紗季は結婚後もいままでと同じように仕事をつづけていて、この前の昇進試験も受けて、見事合格していた。このままだと、後輩だけれど上司になりかねない。でも、先輩は先輩だと思い、今まで通りのスタンスで付き合っている。

「どう、結婚生活は?」と、特に興味があるわけではないのだけれど尋ねる。

「どうなんだろう、二人とも寝に帰ってるだけって感じです」

「旦那さんも忙しいの?」

「ほぼ毎日、十二時とかです。子供とか出来ちゃえば変わるんでしょうけど」

「そうかもね」と、あまり深い話にならないよう、さらりと流す。

「そういえば、莉奈、おめでたなんですって」

「そうなんだぁ」と新堂さんの子かぁと思う。

「でも、新堂さんが異動になるみたいで、このタイミングって、会社も意地悪ですよね」

「異動って、どこに?」

「名古屋です」

どこまでが本当かは、わからないけれど、社内結婚をした人間は必ず転居を伴う異動を命じられるというのが、専らの噂だった。その噂通りだ、と思う。人事部の嫌がらせだと言う人と、転居をすれば家賃は全て会社負担になるので、新婚生活を思っての計らいだと言う人とに見解は二分されている。

「でも、莉奈の実家、名古屋だから、喜んでるみたいです」

「今回は、会社の計らい、ってことね」

「でも、新堂さんは、本社から出されるから、微妙じゃないですか?」

「確かに。調査部は出世ルートだったからね」もし、自分とだったら、彼はどうなっていただろうなどと想像していた。どこか地方に行かされただろうか、それとも調査部のままで、出世ルートを進んでいっただろうかなどと。もう、どうでもいいのに。

「美優先輩、まだあのカフェに行ってます?」

「うん、時々」

「この前、旦那さんと二人で久しぶりにいったんですけど、そうしたら、偶然、元彼に会っちゃって、びっくりでしたよ」

「あのカフェで?」

「先々週くらい、一応、大学の時の同級生って、旦那さんには紹介したんですけど、嘘ではないんで。でも、なんかバレてたかも」

「別に結婚したんだから、いいんじゃないの?元彼でも」

「でも、なんとなく、微妙かなって」

「もしかして、まだ、好きだったり?」

「それは、ないです、けど、なんか自然消滅みたいな感じだったんです、だから」

「あぁ、微妙かもね」

「それで、その時、彼がお店の人と話してたんだすけど、__美優さんって、いま一人ですか?って」

「私?」

「さぁ、先輩のことかはわからないですけど、確かに、美優さん、って」

「で、マスターはなんて答えてた?」

「お店の人ですか?『今は、そうじゃない、前にめんどくさい、って言ってたときの人とは別れたみたいだから』って」

あのカフェで、めんどくさい、って言う人が私以外にもいるのだろうか、と考えてみたけれど、そんな人がいるとは思えなかった。それは、私に違いない。だとしたら、紗季の元彼って?

「その元彼、って、どんな感じ?」と言ってから、あまりにも漠然とした質問だと思った。

「どんなって、見た目ですか?」

「まぁ、とか」

「痩せてて、メガネ、見た目、文学青年っぽい」

「モヤシみたい?」

「モヤシ?」と紗季は、少し吹き出しつつ笑って、

「確かに、モヤシと言われればモヤシっぽいかも。でも、彼、空手やってたから、細マッチョなんですよ」と言う。モヤシくんが空手、とイメージが全く繋がらない。やはり、違うのだろうか。

「他に、何か話してなかった?」

「そんなに、聞き耳立ててたわけじゃないので、あとはぁ、なんか言ってたかなぁ」と紗季は思い出そうとして首に手を当てて考えている。

「建築がどうとか、言ってましたけど、細かい内容はわかりません」

「建築ね、そっか、わかった、ありがとう」

モヤシくんに間違いないだろうと思う。紗季の元彼は。

 午後、デスクに戻ってみたけれど、さらに仕事が手につかない。もう、限界だと思い、早退願いを提出して会社を出る。恐らく、みんな本当にどこか具合が悪くなったのだろうと思ったに違いない。口々に、病院行きなよ、とか明日も無理しなくていいよ、とか優しい言葉をかけてくれたから。まだ恋まで到達していないので恋の病とは呼べないと思う。では、何の病か?わからない。何に対して具合が悪いのかさえも、判然としない。とにかくカフェに向かう。あそこに行けば何らかの解決策が、転がっていそうな気がする。万が一、モヤシくんがいたとしても、それはそれで、受け入れる準備も出来ている。平日の午後三時、カフェは静かだった。私のぐちゃぐちゃの心とは対照的に、落ち着き払って整然とした空気が流れている。マスターは、カウンターの陰で本を読んでいるようだった。私の姿を認めると、立ち上がり

「いらっしゃい。また仮病?」と言う。

「もう、限界です」

「まぁ、座れば」とマスターはカウンターの目の前の席の椅子を引いてくれる。とりあえず、コーヒーを頼んで、落ち着こうと思い黙って見を閉じる。豆を挽く音、お湯を注ぐ音、そして香ばしい香りに包まれる。涙が滲んでいるのがわかる。悲しいわけではないのに。自分の不幸を嘆くほどの出来事があったわけではない。誰かに辛い思いをさせられたわけでもない。ただ、どうしたらいいのかがわからないだけなのだ。この歳にもなって、誰かに手を引いてもらわないとどこにも行くことができないのだ。怖いのだ。どういう結果が待っているのかを知るのが怖いのだ。だから、どこへも行かずにじっとしているしかない。周りのみんなは、どんどん自らの道を歩んでいって、自分一人だけが取り残されてしまった。みんな、もう、追いつけないところまで行ってしまった。その上、気づけば、今度は追い越されていくようになってしまった。可愛らしい後輩たちに。私の前に、どこかに繋がっている道はあるのだろうか。もはや、ぐるぐると同じところを回っている回廊しかないのだろうか。バタンと扉が開き、誰かが入ってくる。足音が近づいてくる。私のすぐ後ろで立ち止まっているのがわかるのだけれど、振り向くことなんてできない。そこに待ち受けているもの、それがもたらす結果を見るのが怖くて仕方がないのだ。ただ何も起こらないで通り過ぎて行ってほしい、もう私に何かの結末を見せないで欲しいと願う。

「隣、いいですか?」私に言っているのはわかっている。どうすればいい。どうぞ、って言えればいい。言えるだろうか。「美優さん」と呼ばれる声と私の「どうぞ」が重なってしまう。私の声は、届かない。いつもそんなだ。私の声や言葉や思いは、誰にも届かなかった。そんな人生だった。でも、もうそれは終わりにしたい。だから、もう一度「どうぞ」と言い直す。隣に座った彼の横顔を覗き見る。モヤシくんは「僕もコーヒーをください」とマスターに言ってから、もう一度「美優さん」と言い直す。彼も、私の「どうぞ」と重なって聞こえなかったと思ったのだろうか。

「連絡をしようと思ってたんです」

「私に?」

「はい。でも、まだ連絡先を交換してないことに今さら気づいて、とりあえずここに来てみました」

「史奈か孝典さんに聞けばわかったでしょ?」

「今は個人情報は、教えてくれませんよ。まだ、僕のことをお二人はそこまで信用していませんから。働き出して間もないので」

「それも、そうね。まだ何者かわからないものね。それで、何か話があったの?私に」

「はい、やっぱり、僕、孝典さんに負けたくないんです」

「まずは、試験に受かって建築家を名乗れるようにならないとね」

「それは当然です、じゃなくて」

「何?」神野くんの言葉を待っていていいのか迷う。私から先に伝えたい思いを伝えなくては、今までと同じ結末にしかならないのではないかと。

「神野くん、私、今日、早退してきたの、会社。なんか限界だったから。ここに来れば、もしかしたら神野くんに会えるかもしれないって思って。そうしたら、あなたが来た。こうして会えた。本当は、ショックなことがあったの。仕事が手につかないくらいに。でも、そんなことは、もうどうでもいいわ。決めたの、面倒だなんて言わないって」そこまで言って私は、もう一度神野くんの横顔を見る。この顔が見たかったんだと思う。間違いなく。

「僕に会いに来たんですか?」

「そうみたい、それも、あなたが紗季の元彼だって聞いた日に、わざわざ会いに来たの。本当なら、本当というか今までの私なら、もう面倒だって、あなたに興味がなくなっていたと思うのに」

「紗季に会ったんですか?」

「紗季は会社の後輩なのよ。まさかね、神野くんの元カノだったなんて、ふざけた冗談かと思ったけど、現実なの」神野くんは、黙っている。驚いているのか、動揺しているのかわからないけれど言葉が出てこないみたいだ。

「この前、ここで紗季に会って、すごい偶然があるんだって思ってたんですけど」

と神野くんは言ってまた黙ってしまった。

「それで、私に何か話があるんでしょ?」と私はわざと意地悪に聞いてみる。

「美優さんに、孝典さんより、僕のことを、認めてもらう、というか、孝典さんのお目に叶うように」

「落ち着いて。何を言ってるのかわからないわ」

「すいません」

「私ね、神野くんに会いたかった、気になって仕方なかった、恋をしたんだと思うの。めんどくさいなんて言いながら。あなたよりずいぶん歳上だし、人の旦那さんに憧れたり、あなたが後輩の元彼だったり、もう課題が山積みなのをわかった上で、言うわ。あなたに恋をしたの」

「はい、僕も、最初にここで話してから、ずっと、どうしたらあなたに会えるのか、そればっかり考えてました。孝典さんのお話をもらって、これで美優さんに少し近づけたと思って、でも、孝典さんのお目に叶うなんて、まだまだ無理で、あんな風には到底なれないって」

「比較する相手じゃないわ、孝典さんは。いいの、モヤシはモヤシで」

「モヤシ?」

「そう。私、あなたをモヤシくん、て呼んでたの、密かに。ひどいと思わないで。私の中では、親しみを込めてなのよ」

「こう見えて筋肉質なんですけど」

「知ってる。空手やってたんでしょう、紗季に聞いたわ」

「まさか、カフェで出会って、付き合うようになるなんて、本当にあるんですね」

「マスターの格好のネタね、ずっと言われるわ、僕が二人をくっつけたとか、ね」

「なんか、そんな気がしたんだよ、直感で」とマスターが言う。

「それは、結果論。あとからだったら、なんでも言えるわ。当事者は、もう、あれこれ考えて大変だったんだから」と言うと

「知ってる、大抵のことは報告してくれてるよ、僕に」とマスターは私をいじる。

「とにかく、一応、孝典さんに報告していいですか?」とモヤシくん。

「いいけど、なんて言うかなぁ、孝典さん。私は史奈にメールしておく」

「お願いします。明日、事務所行ったら話します」

「健闘を祈ります」と言って、飲みかけのコーヒーを啜る。たぶん、気のせいだけれど、梅ジュースのような甘酸っぱい味がした。


「なんか、この四人で飲んでるなんて、やっぱり不思議だなぁ」と孝典さんは、もうずいぶん酔っている。たぶん、そのうち寝てしまうに違いない。「喜んでるけど、内心、複雑なはずよ」と史奈はこの前のメールに書いていた。孝典さんが、そんな風に思ってくれているだけで嬉しかった。神野くんは

「お前、わかってんだろうなぁ、美優ちゃんのこと、ちゃんとしないとタダじゃ済まないからな」と冗談でも凄まれて怖かったと言っていた。今夜の孝典さんは、最初から上機嫌で、ドラマでよくある、娘の結婚の報告を聞いた父親、みたいだと思った。たぶん実家の父はこんな風には喜びはしないだろう。

「美優ちゃんは、神野くんのどこがよかったの?」と孝典さんはその夜、何回も尋ねた。その度に、なんとなく、とか、雰囲気、とか、気づいたら、とか曖昧な返事をしていたのだけれど、実際、自分でも明確な理由がわからない。本当に、なんとなく雰囲気で、というのが正しいと思う。世の中の結婚したカップルがどうなのかは知らないけれど、そういう方が多いのではないかと思えた。背中のホクロを見て、夏の大三角とか言ったり、婚約者を演じて欲しい、とか言うのは、今思えば、何かがおかしくて、そういう相手との未来を想像することは不可能だったのだ。その時は、目の前にいる相手に夢中で、冷静に何かを感じ取ったりすることができなかったのだろうけど。とは言え、まだ、神野くんと結婚すると決まったわけではない。でも、なんとなく、そんな気がしているのだ。なんとなく。


 よく、一人前の建築家になれたら、とか試験に合格したらとかいう前提条件を結婚につけてしまったりするけれども、神野くんはそういうことはひとことも口にせずに、ただ「結婚してください」と言った。そのことについて、両親や会社の同僚は、口々に、大丈夫?とか、食べていけるの?とか心配しているような口調で言ってくれるのだけれど、本当はそんなに心配なんかしてないはず、と思う。うまくいくがどうか、試しに見てみよう、という程度の関心で、他人の恋愛の破局ほど甘美なものはないと、自分自身を省みて思う。なんとなく、で始まった二人だから、正直、なんとなく終わったりするのかなぁ、と当人達も思っていたりしたのだけれど、大方の予想に反して私たちは、いつも、何をするにつけても、しっくりと行った。結婚式や披露宴をどうするかとか、住まいをどこにして幾らくらいの家賃にするか、仕事をどうするか、子供が欲しいかどうか、など、結婚生活についてまわるやっかいな判断は、今日の晩ご飯は何にする?という会話と同等のことのように扱われた。かと言って、全部が全部同じ価値観や嗜好というわけでは当然なく、私はジャズを聴くけれども、彼は音楽に興味がない。彼は、なんでもマヨネーズをつけたがるのだけれど、私は冷蔵庫に常備するものではないと思っていた。彼は帰宅するとすぐにシャワーを浴びたりお風呂に入りたがったけれど、私は寝る直前でないとお風呂に入る気がしない。そんな風に日常の生活では、お互いに些細なズレが生じていたけれども、それはそれで新たな発見をする感覚で、受け入れて楽しむことが出来た。一つ、しっくりいかなかったことは、神野くんをどう呼ぶか、ということだった。結婚したので、私の姓も神野になった。なので、神野くんと呼ぶのはおかしい、というまわりの意見を取り入れ、彼の下の名前で呼んでみることにした。夏樹くん、と。いままで一度の呼んだことのないその名前を口にすると、妙な違和感を覚えた。そのうち慣れてくるだろうと思い、呼びかける必要のない時でも意識的に、夏樹くん、おはよう、夏樹くん、ご飯だよ、夏樹くん、もう寝る?なんて言ってみていた。しかし、ダメだった。なんだか、知らない他人と暮らし始めたような気分になってしまい「やっぱりカンノクン」に戻していい?と三日後ぐらいには断念した。なので、結婚したあともカンノクン、ミユサン、とお互いを呼んでいる。さすがにモヤシくんとは呼ばない。


 カンノクンは、孝典さんの右腕として仕事をしながら、資格の為の勉強をして、建築士を目指している。美優もようやく昇進試験を受けることにして、今は一つの課を率いるようになった。あまりにも順調で、平穏な日々が三年程続いている。孝典さんと史奈とは、よく四人で出かけたり、食事をしたりして、家族のような親戚のような距離感の付き合いが続いている。どちらも、もう子供を持つつもりはないので、生活のリズムのようなものが似通っていて、一緒にいて心地よかった。いくら仲の良かった友達でも子供が生まれたりすると、やはり、生活のリズムが違ってしまい疎遠になることは、今まで何度も経験してきた。そうやって、新たな人間関係が出来上がっていくというのは、当たり前のことで、自分もようやくその当たり前の流れに乗っているのだと思える日々だった。つい最近まで、一人だけ取り残されてしまったと感じていた日々だったのに。でも、まだ、いつそんな日々に逆戻りしてしまってもおかしくはないのだと、時々思う。夜中に洗濯をして星空を見上げた夜や、ひとりカフェで時間をもてあましていた週末や、後輩達の恋愛話に無関心なフリをしていた日々に。カンノクンが隣にいる時に、ふと思うのだ。この人がいまこうして隣にいる事は、奇跡的な事なのだと。星の数ほどの男性がこの世の中にはいると、よく言うけれど、数の問題ではないと思う。僅かな数しか見えない東京の星空の下でも出会う人は出会うだろうし、満点の星空の下でも出会えない時は出会えないのだ。どこかの時点の何かの歯車が噛み合わなかったり、あるいは違う方向に回転していたら、隣には誰もいなかったのかもしれないのだ。いまの私には、もうその歯車を分解してまた最初から組み上げていくことは想像できなかった。ただ確実に淡々と、回り続けるように見守ることくらいしかできないと思った。それでも、どこかで、噛み合わなくなったり、止まってしまったりすることもあるはずなのだ。それも、よくわかっているつもりだ。「私たちだって、色々あったんだから、どう見えてるか知らないけど」と時々、史奈は言う。そんな時、孝典さんは見たことのない表情をする。情けないような、バツが悪いような、なんとも言えない苦い顔をする。たぶん孝典さんであっても、あまり人に言えないような行いをしたのだろうなと想像している。そんなことが、カンノクンにも起こるとは今は思えないが、絶対にないとも言えない。同じように私自身にも。「二人で共有してきた記憶があってね、それはもう消えないあざみたいなもので、身体の一部なんだよ、万が一、消せたとしても、消したんだっていう記憶の方がさらに濃く残るはずで。でもね、そのあざもよく見ると綺麗なはずなんだよ、二人にしか残せなかった足跡だから」と孝典さんは言う。そんな史奈と孝典さんという先輩夫婦を見ていると、自分たちもあんな風にいつまでも一緒にいたいと思う。この先、色々あったとしても、二人でいることを選んだのだから。綺麗なあざを残していきたいと。



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by ikanika | 2018-12-14 21:17 | Comments(0)

『ハーグ』

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ハーグ





制服のまま砂浜に降りると、沙苗は少し考えてから靴を脱いで素足になった。凌も同じように履いていたスニーカーを脱いで乱暴に階段の隅に投げた。

「ビーサンとか、持ってればよかった」と言う沙苗に

「でも、素足も気持ちいい」と凌は答えて、沙苗の靴を持っていない方の手を引いて砂浜を走ってみた。ドラマのシーンのように、わざと。

「こういうシーン、あるよね、よく」

「あるある」

 人気のない暗い場所まで来ると二人で砂浜に座って海を眺めた。月明かりに砂まみれの沙苗の素足が照らされていた。それに気づいて沙苗は手で砂を払った。湿った砂は綺麗には払いきれずに、まだらに素足に残っていた。

「汚れちゃった」と沙苗は独り言のように呟き「ふぅ」と息を吐いた。沈黙が続いた。凌には波の音と心臓の鼓動しか聞こえなかった。ドラマならここでキスとかするんだろうな、と凌は考えていたのだけれど、実際にそういう状況になってみると、そのきっかけというか、タイミングが全く分からなかった。このまま黙って座っているだけで、いいのだろうか、何か話をした方がいいのだろうか、と頭の中でぐるぐると考えを巡らせていることしか出来なかった。月明かりが水面に揺れて、二人を照らしていた。キラキラとした青白い光を、ただ見つめているだけの時間が過ぎていった。

「夏休みが終わったら、引っ越すの」と沙苗が言う。

「引っ越すって?」

「ルーマニア」

「ルーマニア、って?」

「外国」

凌は、沙苗が何を言っているのかよく理解できなかった。ただルーマニアと聞いてオリンピックでよく活躍していた国だと思っただけで、それがどこにあるのか知らなかったし、そこに引っ越すということが上手く想像できなかった。

「知ってる、オリンピックでよく出てきてた」

「そのルーマニアに引っ越すの。夏休みの終わりに。お父さんの転勤で」

凌は、ただ黙って聞いていることしかできなかった。こういう時の言葉が見つからなかった。まだ沙苗に告白もしていないし、これからどうしたらキスができるのか、とか考えていた頭ではルーマニアに引っ越すという事実を、どこに納めたらいいのか全く見当がつかなかった。

「聞いてる?佐久間くん」

「うん、聞いてる、けど」

「私、外国に引っ越すの、だから、しばらく会えなくなるの」

「うん」

「しばらく、ってどのくらいかもわからないの。もしかしたら、ずっとかもしれないし」

「うん」

「だから、何か言ってくれないの?」

「何かって、なんで、もうすぐじゃん、夏休みなんて」と凌は、意味のない言葉をただ並べていた。

「そう、すぐ。もっと早く言いたかったけど、ごめんなさい、言えなくて」

「言えなくて、って」

凌は沙苗を責めるつもりはなかったのだけれど、そんな言葉を発していた。

「ごめんなさい」と沙苗は、もう一度言って黙って俯いてしまった。凌は、俯いている沙苗の頬に口づけをした。そして、また黙ったままの時間が二人を包み込んだ。やがて空が白み始めて、月の轍も消えて、青い海が二人の前に広がっていた。その海をずっと進んでいけば、ルーマニアという国に行けるのだろうかと凌は、ぼんやり考えていた。その十日後に、沙苗は引っ越していった。凌の家のポストには、ルーマニアの住所と思われるアルファベットの文字と、『今度、遊びに来てね』という沙苗からのメッセージが書かれた手紙が入っていた。その時の凌には、ルーマニアになんてどうやったら行けるのか、想像もできなかったけれど、あとで世界地図でルーマニアのその住所を探してみようと思ってポケットに手紙を押し込んだ。でも、その後、世界地図を広げることもなく、ただ時間だけが過ぎていった。沙苗への思いや、夜の海や、月の轍の記憶はどんどん薄れていった。






夏の終わりに、夜、車を走らせて海へ向かう。助手席の沙苗は、窓の外をぼんやり眺めていて、もうずいぶん黙ったきりだ。機嫌が悪いわけではないことは知っている。カーステレオから流れる歌に合わせて鼻歌を歌っていたくらいだから。凌は片手でハンドルを握り、カーステレオの音量を調整する。さっきまで走っていた有料道路で少しヴォリュームをあげたのだけれど、いまはそれがうるさく感じていた。沙苗が好きだと言っていた女性ヴォーカルのCDを昨日買ってみていた。今日のドライブでは、その歌声がずっと車内に流れている。恋愛の歌を様々なシチュエーションと、わかりやすい言葉の歌詞で歌っているのが女性に共感されて、最近人気なんだよ、と沙苗は評論家のような解説をしていた。

「沙苗は?共感できる、って感じ?」

「そうね、でも、他人の恋愛はあくまでも他人事だから」

「ドライだね」

「だって、もうそんな歳じゃないから」

「そういうこと?」

「そうよ、いろんな恋愛を妄想してドキドキするような歳じゃないでしょ。佐久間くんは?どうなの?」

「どうって?」

「ドキドキする?」

「したり、しなかったり」

「なにそれ?」

「だから、ケースバイケース」

「するんだ?」

「まぁ」

 沙苗は、声にすると、ふぅーん、というような仕草をして、また窓の外に視線を移した。次の信号を右折すると突然目の前に水平線が広がるのだけれど、夜なのでどうなんだろうかと考えながら、凌はハンドルを切った。

「真っ暗だね、やっぱり」

「何が?」

「海が、見えない」

「そこ、海なの?」

「そう」

「月とか出てれば、よかったのにね」

「月?」

「月明かりで、轍ができるの、海の上に」

「ワダチ?」

「そういう歌があるの、『いつかは消えゆく月の轍が漂うまで』だっけなぁ」

「この人の歌?」

「いや、違う。もっと昔聞いてたから。十代の頃」

「月の轍かぁ」

「気に入った?」

「うん、いい言葉だね」

「今度、CD探しておく、たぶんまだ持ってると思うから」

沙苗はそう言うと窓を開けた。潮の香りがする湿った空気が車内に流れ込んで来ると、遠い記憶が鮮明に蘇ってきて、凌は少しだけドキドキした。沙苗も同じように覚えているのかどうかは、窓の外を眺める横顔からは読み取れなかった。


「ちょっと砂浜に降りてみる?」と凌は沙苗に言ってみた。

「でも、私、革のパンプスよ」

「僕も革靴だけど、素足になればいいじゃん」

「学生みたい。いいよ、行ってみようっ」と沙苗は軽く同意した。海の家が解体された砂浜は閑散としていて、台風が近づいているせいで生ぬるい風が吹いていた。片手にパンプスを持って沙苗は先に砂浜に降りて行った。長い髪が強い風になびく度に片手で押さえて、何か奇声を挙げていた。凌も革靴と靴下を車の脇に置いてから砂浜に降りて行った。素足で砂浜を歩くのなんて何年ぶりだろうか、こんな感触だったろうかと記憶をたどってみる。あの時、沙苗の手を引いて走った砂浜の感触を思い出そうとしてみたけれど、その遠い記憶にはたどり着けそうになかったので諦めた。思いのほか砂に足を取られて軽快に歩けない。それが、年齢のせいなのか砂の質のせいなのかはわからなかったけれど、昔みたいに沙苗の手を引いて走るなんて出来そうになかった。先を歩く沙苗に追いついて、横に立つと、

「ちょっと月が出てきそうよ」と海の方を指差して沙苗が言う。雲が流れて、時々月明かりが漏れてくる。

「もう少し月が低いと、月の轍が出来るのにね」

「いまでも、なんとなく轍っぽく見えるよ」

「ほんとはもっと、ちゃんと道のようになるのよ。海の向こうに導くような」

「そう」と凌は答えながら、目の前に広がる海をずっと進んでいけばルーマニアに行けるのだろうかと考えていた昔のことを思い出していた。

「ねぇ、キスしたの覚えてる?」

突然の質問に凌は驚く。

「覚えてるの?沙苗」

「当たり前でしょ、忘れるわけないでしょ」

「そっかぁ」

「ドキドキ、っていうか、私、もう固まっちゃって、身動き取れなかった、あの時は」

「僕もキスした後のことは、よく覚えてない。ただ空が明るくなってきて、この海をずっと行けばルーマニアに行けるのかなぁ、って考えてた」

「そんなこと考えてたの? 変なの」

「そう、ショックで頭がおかしくなってたんだよ、たぶん」

「そのくせ、何にも連絡くれなくなったじゃない」

「残酷だよな、高校生は」

「ほんと残酷」

しばらく沈黙が続いた。雲が僅かな月明かりさえも消し去り、目の前には黒く暗い海が広がっていた。

「今日、これからどうする?」と凌は尋ねる。

沙苗は少し考えてから

「明日も、朝からミーティングだから、送って、家まで」と答える。

「そう」

「なに、その残念そうな声」

「残念そうだった?」

「うん。とりあえず現実に戻らなくちゃね、とりあえずは」

「じゃあ、車に戻ろうか」と凌は沙苗に手を差し出してみた。沙苗はなんの躊躇もなく凌の手を握って車のあるところまで手を繋いで歩いた。

「砂だらけで、もうパンプス履けないから、このままでいい?」

「いいよ、マンションの前まで行くから」

「ありがとう」と沙苗は素足のまま助手席に乗り込んだ。






「何?この砂?」

と助手席に乗り込んだ香奈が言う。

「この前、ちょっと砂浜に行って」

「誰と?」

「ロケハン。カメラマンと」

「そう」

 香奈はそれで納得したようで凌はホッとする。一回りも年下の香奈と頻繁に会うようになったのは、この半年くらいのことで、香奈は時間ができると気まぐれに連絡をしてきて、一緒に食事に行ったりしている。凌の学生時代からの友達がカフェをやっていて、そこの常連客が香奈だった。いまだに独身を謳歌している凌に、その笠間という友達は、ことある度に女性を紹介してくれるのだった。ありがたいと言えばありがたい話ではあるのだけれど、付き合うことになるような関係にまで進むことはほとんどなかった。ただ香奈だけは、紹介された最初の時からなんとなく波長が合うと言うか、一緒にいて心地よく感じたので、付き合うまではいかないのだけれど、こうして頻繁に会うようになったのだった。香奈はフリーの編集者で、美容関係が専門で様々な女性誌で仕事をしているということなのだけれど、男性には縁のない世界なので詳しい仕事内容までは凌は知らない。香奈も音楽関係の映像を作っている凌の仕事に関しては「全く別世界で、よくわからない、日本の音楽にあんまり興味ないし」と言って関心を示さなかった。音楽関係の仕事をしている凌に近づいてくる多くの女性は、大抵、少しミーハーな興味を持ってくるのだけれど、香奈はそういう素振りが全くなく、そのさっぱりしたところが良かった。しかし今日のように助手席で「何?この砂?」というのを目の当たりにすると、そこはやはり女なんだと凌は思って、少しだけ面倒な気分になった。今日も「お腹が空いたから、何か食べに行かない?」と香奈から突然連絡が来た。ちょうど都内で打ち合わせが終わったタイミングだったので、そのまま香奈を車で拾って、少し郊外のトンカツ屋に行くことにした。「ガッツリ系がいい」と香奈が言う時は、焼肉ではなく、いつも行きつけのトンカツ屋に行くことにしている。焼肉だと煙の匂いが気になるという凌に対して、香奈は女性であっても煙の匂いはさほど気にしていないようで「焼肉でもいいんだけど」と前に言っていた。でも、助手席の砂は気になるらしい。

「飲んでいい?ビール」と香奈はトンカツ屋に着くなり、凌に尋ねる。

「どうぞ」

「すいませんねぇ」と香奈はいつもの決まり文句を言う。

「いつも車だと飲めないから、つらくない?」

「大丈夫、慣れだよ。外では飲まなくても平気になる。というより、外ではもう飲みたくない」

「そういうもの?」

「そういうものだよ」

「凌くんはさぁ、結婚とかしないの?」

香奈は一回りも年上の凌を、凌くん、と呼ぶ。呼ばれた当初は、違和感があったけれど、いまはもう慣れてしまって逆にしっくりきている。いまさら、凌さんとか、佐久間さんとか呼ばれてもこそばゆい感じがする。

「する気があったら、香奈ちゃんとこうやってご飯食べたりしないよ」

「そうなの?」

「婚活するでしょ」

「うそつき。そんなことしないくせに」

「しない。そういう香奈ちゃんも僕みたいなオヤジと過ごしている場合じゃないんじゃない?」

「いいの、私は」

「なんで?」

「なんでも」

「まぁ、いいけど。僕も香奈ちゃんからの誘いがなくなるとつまんないしね」

「そんなことないでしょ」

「なんで?」

「一緒に砂浜に行く相手がいるみたいだし」

「えっ?」

「図星?ロケハンなんて下手な嘘」

「正解」

「別に隠さなくてもいいのに。凌くんがほかの女性と会ってても気にしないよ、私は。でも、助手席くらいは綺麗にしておいて」

「了解」

香奈と話していると、どっちが年上なのか時々わからなくなる。助手席の砂の話は、香奈はすっかり信じ込んでいて終わったつもりだったのだけれど、どこで嘘だとわかってしまったのか凌には全く分からなかった。そこまで演技が下手だったとは思えないし、砂で汚れている理由にも無理がないと思っていた。

「なんでわかったの?嘘だって」

「だって凌くんが、あんな風に車の中を汚したままにするなんてありえないでしょ?それもカメラマンに汚されるなんてなおさらありえない。凌くんが許すわけない。汚したままでもいいと凌くんが思える相手が汚したの。そうじゃない?」

確かにここ数日、助手席の足元の砂を見るたびに、沙苗との夜のことをぼんやり思い出していたのだった。あえてすぐに洗車をせずに今日までそのままにしていたわけではないのだけれど、無意識に沙苗の存在を感じていたいと思っていたのかもしれなかった。香奈の言う通り、沙苗には汚されても、そのままでいい、と思っていたのだろう。

「汚したままでもいいと思える相手かぁ」と凌は、香奈の言葉を繰り返してみた。

「何しんみりしてんの?」

「いや、別にしんみりなんてしてないけど」

「してるよぉ、その人どんな人?凌くんの片思いとか?初恋の人とか?」

香奈はどこまでも鋭い。

「冴えてるね」

「私が冴えてるんじゃなくて、凌くんがわかりやすいだけじゃない?」

香奈はそう言って、ロースカツを美味しそうに頬張ってからライスも山盛り口に運んだ。凌は、最近、ロースカツは脂が重いと感じていてヒレカツと海老フライの盛り合わせにした。

「海老フライ、一切れ食べる?」とまだ口をもぐもぐさせている香奈に尋ねる。声が出せないらしく、大きく三回くらい頷いてニコニコしている。香奈の皿に大きな海老フライを一切れ置くと、ようやくさっき口に入れたものが飲み込めたようで「ありがとう」と嬉しそうに言った。こういうところは、なんだかまだ子供のようで可愛いと思う。とはいえ、香奈も二十代後半のはずで、結婚やその他、将来のことを考えていないわけではないと思う。その香奈の人生を自分は弄んでいないかと、凌は時々不安に思う時がある。口では、結婚なんてまだいい、と言っていても本当のところは凌にはわからない。現に、凌の周りにも独身を謳歌していたと思っていたらある日突然結婚すると言って、家庭に入ったり、仕事の量を減らしたりする女性が少なからずいた。出会いがあればそれが自然な成り行きだと凌は思う。だから香奈のその自然な成り行きを凌が堰き止めていないかと想像してしまうのだった。

「で、どんな人?私より年上だよね?」

「もちろん」

「よかったぁ」

「同い年だよ」

「幼馴染みとか?」

「いや、高校が一緒だった」

「それから続いてるの?」

「まさか」

「だよね」

香奈の質問に、なぜ律儀に答えているのか自分でも不思議に思いつつ、もしかしたら自分は誰かに沙苗のことを聞いて欲しいと思っていたのではないかと感じていた。香奈の質問はその後も続き、先週の砂浜での出来事までをわりと詳しく説明する結果となった。





高校二年の夏に沙苗が海外に引越しをしてから、凌は一度も沙苗には会っていなかった。時折、どこで何をしているのかとぼんやり考えることはあってもSNSで消息を調べたりすることはなく、二十年以上が過ぎていった。再会は、三ヶ月前の事だった。あるアーティストのプロモーションビデオで、今の東京のビル群を一望できるどこかの屋上で撮影をしたいという話になり、凌を含めスタッフ全員でめぼしいビルというビルに撮影利用の交渉をした。大手の不動産会社や大地主が所有するビルは安全上の理由で全て断られ、話を聞いてくれたのは、自社ビルとして所有している外資系の会社とベンチャー企業の数社だった。そのうちの一つの外資系の会社の広報担当として沙苗が現れた。最初の交渉のテーブルで名刺交換をして、お互いに名前をしばらく見てから、もしかして?という同じような表情で二人は顔を見合わせた。最初に口を開いたのは沙苗だった。

「佐久間くん?」

「沙苗?」

「うん」

「沙苗だよね?日本にいたんだ」

「うん、佐久間くん、変わらないね、久しぶり」

「変わったよ、ほら、白髪だらけ」

「私、おばさんになったでしょ?」

凌の中の沙苗は、高校二年の夏の砂浜で見た横顔で止まっていたので、目の前にいる沙苗と記憶の中の沙苗とがうまく結びついていかなかった。なので、歳をとったとか、おばさんになったという認識の仕方は出来なくて、ただ一目惚れに近い感覚で、綺麗な人だと思ったのが正直な感想だった。凌のイメージする外資系のオフィスにいる美人キャリアウーマンという出で立ちで、沙苗はそこに立っていた。ハイヒールに上品なスーツ、綺麗になびくロングヘアー。凌の業界にはあまりいないタイプ。沙苗でなかったら、近づくことはないと思った。

「黙ってるってことは、そう思ったのね」

「いや、そうじゃなくて、全然」

慌てている凌を、同行したアシスタントとレコード会社の担当者は、不思議そうな顔で見つめている。「高校の同級生でね」とだけ二人に言って、すぐに仕事の本題に入りたかった。このまま二十年振りに会った沙苗と何を話せばいいのかわからなかったし、同行した二人にこれ以上慌てている自分の姿を見せたくなかった。

「とりあえず、仕事のお話をしましょうか」と沙苗は席に着き、我々三人も会議テーブルを挟んで沙苗の向かい側に座った。予算や撮影現場の安全性など厄介な交渉になるだろうと予測して、レコード会社の担当者は詳細な撮影プランを書面にして用意してきていたのだけれど、沙苗からの最初の一言でそれらは無駄な労力を割いただけになった。

「基本的には、是非うちの屋上を使って頂きたい、というのが社長の意向です。社長はもともと若い頃、自分でもバンドをやっていてイギリスでレコードデビューもしたことのある人物です。ほとんど売れなかったと、本人は申してますが。なので、自分の会社のビルで有名なアーティストのビデオ撮影が行われることを非常に喜んでいます。うちの屋上からは、スカイツリーも東京タワーも六本木ヒルズも、その他、最近建ったばかりの様々なオフィスビルのほとんどが見えます。ビルの高さとしては、さほど階数はないのですが、この辺りは高台になっているので眺めは最高です。いま屋上は、ヘリポートになっていますのでフラットで余計なものは何もない状態です。撮影もしやすいかと思います。いかがでしょうか?よろしければ今からでもご案内して屋上を見ていただくことも可能です」沙苗は、そこまで話すとニコリと微笑んで見せた。その仕草は、日本人が自然に出来る類のものではなく、海外生活が長かったが故に身についたものだと思えた。我々三人は、特に返す言葉もなく

「ありがとうございます。是非、お願いします」と、とりあえずレコード会社の担当者は言って頭を下げた。その後、三人はヘルメットを渡され沙苗の後について屋上へと上がった。想像以上のロケーションで間違いなく良い映像が撮れると凌は思った。沙苗は、スーツ姿でヘルメットを被っていても、なんとなく様になっていた。その姿にぼんやり見とれていると、アシスタントの優里ちゃんに脇腹をつつかれて

「見過ぎですよ」と小声で注意された。

「では、そろそろ」と沙苗に引率された生徒のように我々は屋上を後にして、再び会議室へと戻った。その場で、撮影候補日や時間や使用に際して必要な手続きの確認などを済ませて、その日のミーティングは終わった。アシスタントの優里ちゃんとレコード会社の担当者には先に帰ってもらい、凌はビルのエントランス脇にあるカフェで沙苗とお茶をすることにした。

「ほんと、偶然、びっくりした、こんなことってあるのね」と席に着くと沙苗は周囲にも聞こえるくらいの大きな声で言ってから

「あっ、ちょっと声大きかった」少し照れたような表情をした。

「うん、いまだに信じられない、ほんとに沙苗だよね?」

「そうよ、水上沙苗よ」と、おどけてとってみせたポーズもモデルのようだと凌は思った。

「いつから?」

「この仕事は、一年前から」

「その前は?」

「三年くらい前に日本に戻ってきて、しばらくは、ぶらぶら何もしていなかったの」

「何も?住まいは?」

「父が残してくれた家があって、そこに」

「お父さんは?」

「最後はチューリッヒで亡くなって、それで私は日本に帰りたかったから帰ってきたの。母は父の近くに居たいからってチューリッヒに残ったわ。父の遺骨も向こうに」

「そうか。なんか不思議な感じがする。こうやって沙苗と話してるのが」

「私も。今まで海外で過ごしていた時間は夢であって現実じゃなかったような感じがするわ」

「一度も戻ってこなかった?」

「うん、一度も」

「ルーマニア以外は、どこに?」

「たくさんありすぎて、もう、ほぼヨーロッパ全部って思ってくれていいわ。お陰で自分でもわからないくらい何ヶ国語も話せるようになって、いまの会社みたいに、大抵の外資系企業では重宝がられるから、仕事の心配はなくなった」

「なるほど。僕とは別世界だ」

「佐久間くんは?高校の後は?」

「大学出て、音楽専門チャンネルの会社に就職して、最初は営業だったけど、しばらくして制作部門に移動になって。別に映像の専門的な勉強とかしてなかったんだけど、いわゆるプロデューサーのアシスタントとかやって、企画とかアイデア出しとか、現場の調整とかなんでもやってるうちに、なんとなく自分で制作の現場を仕切れるようになってね。そしたら運良く人気アーティストから制作依頼が来て、その作品で賞とか取っちゃって。それで、独立していままでずっと。もう十年くらい」

「すごい、社長ってこと?」

「アシスタントがひとりだけのね」

「さっきの優里ちゃん?」

「そう」

「今回の撮影が終わったら、ご飯でも行かない?」

「いいね。是非」

そうやって沙苗とプライベートで会うようになった。週末には車で出かけるようになり、先週はあの砂浜に寄ったのだった。






「それはさぁ、凌くんの片思いのやり直しってこと?」香奈の手には大きすぎる湯呑みを両手で包み込むように持ち、両肘をテーブルにつき、少し前のめりになって言う。

「やり直しかどうかはわからないけど」

「どうしたいの?凌くんは」

「どうしたいんだろう?自分でもまだわからない」

「応援するよ、一緒になりたいとかだったら」

「ありがとう」

香奈は食後のお茶を何杯もお代わりをしたので、店員さんは最後には急須ごとテーブルに置いていった。香奈は帰り際に

「今度また海に行くなら、素足の砂は綺麗に落としてから助手席に乗るように沙苗さんに言ってね」と言って手を振り、マンションのエントランスに消えていった。その言葉に何か香奈の思いが込められているのかどうかは、凌にはわからなかった。






沙苗と会うのは大抵、水曜日の夜か週末だった。沙苗の会社は、水曜日は定時退社が義務づけられていて、割と早い時間から会うことが出来た。週末は土日のどちらかだけ会うことにしていて二日間とも一緒にいることはなかった。それは、沙苗の希望で

「わがまま言うとね、休日のどっちか一日は、ひとりで過ごしたいの」とはっきりと凌に伝えてきた。凌も週末に仕事が入ることが割と多かったので、ちょうどいいという感覚で、その申し出を快く受け入れた。いつも一緒にいたいとか言われたら凌も距離を置いたかもしれない。いまの二人には、そのくらいが適切な距離感だと沙苗は感じていると理解しているのだけれど、本当のところはわからない。今週末はどうするのか、まだ連絡を取り合っていなかったので、凌は沙苗にメールを入れた。

___週末は、どんな予定?

すぐに返事が来て、

___土曜日に佐久間くんのうちにいっていい?

とあった。断る理由はなかったのだけれど、お互いにそれぞれの家に行くのは、それが初めてになる。なんとなく今までの距離感とは違って来るような予感がしたので少し考えてから返信をした。

___いいよ。でも、女性を迎い入れるのはもうずいぶん久しぶりだから、少し緊張するなぁ。

と返した。正しくは、今の部屋に女性と二人きりになったことはなかった。沙苗が初めてだと言うと逆に気を使わせてしまうかもしれないと思ってのことだった。すると、

___なんだ、初めてじゃないんだ。残念ー。

と帰ってくる。少しおどけているのだろうと思い

___もういい大人だから(笑)。待ってるよ。

と返して、沙苗から

___じゃあ、お昼くらいに。

とあり、

___了解。

と凌が返してそのやりとりは終わった。土曜日の正午過ぎにインターホンが鳴り、沙苗が買い物袋に沢山の食材を入れて現れた。

「ずいぶん買い込んだね」

「久しぶりにスーパーで買い物したから加減がわからなくて。一つ一つがファミリーサイズみたいで、そんなに種類は買ってないんだけどね」

「なるほどね。とりあえず上がって」

と沙苗をキッチンのある二階のリビングに案内した。

「一人じゃもったいない立派な家ね」と沙苗は部屋を見回して言う。

「そうかもね、それこそファミリーで住めるよ」

「私が転がり込んでも大丈夫ね」

「沙苗にはお父さんの家があるんでしょ?」

「うん、でも、古い一軒家だから、ひとりだとちょっと怖いの」

「深沢だよね?」

「うん」

「あの辺、豪邸多いよね」

「多いけど、けっこうみんな古くなってて、住んでる人もお年寄りが増えてきて、段々と世代交代が始まってる感じ。取り壊しも多いし」

「そっかぁ」

沙苗は買ってきた食材を手際よく冷蔵庫に収めて

「ちょっと休憩」と言ってダイニングの椅子に座った。この家に沙苗と二人きりでいるのが不思議でならないのだけれど、一方で、なんとなく沙苗がこの部屋に馴染んでいるようにも感じる。

「この家、いつ建てたの?」

「独立する少し前。サラリーマンじゃないとローン組めないからね。ちょうど賞を取って調子に乗ってた頃で、その勢いで」

「勢いでもすごいよ、こんな家」

「まぁ、家賃払うこと考えたら買ってよかったと思うけど、ローンはまだまだ残ってるから」沙苗は、本棚やレコードラックを一通りチェックして

「ねぇ、佐久間くんのやった作品見せてよ」と言う。沙苗が音楽や映像に関してどういう嗜好なのか想像がつかないので何を見せたらいいのか迷う。会社員時代の作品は、それこそアイドルやビジュアル系と呼ばれるものまで多岐にわたり、独立してからも思い通りに作れたものは少なく、低予算のインディーズものや、さほど売れなかったアーティストの方が数としては圧倒的に多い。

「雑多にいろんなものをやってきたから、どんなのがいいかなぁ」と沙苗に聞いてみた。

「自信作、と失敗作を一つずつ」と即座に答えが返ってくる。

「なるほど。なんか面接官みたいだなぁ」と凌は笑いながら答える。

「あまりにも会っていない期間が長かったから、今の、というか、本当の佐久間くんのことを私は知らないと思うの。だから、知りたいの」

「僕も同じだよ。沙苗が過ごしてきたこの二十数年のことを知りたい。けど知ってしまうことが怖い気もする。僕の中では、沙苗はいつまでも夏の砂浜で俯いている少女だから」

「もう少女じゃないわよ」

「わかってる。だから、あえてあの少女と今の君を結びつける必要もないんじゃないかとも思ったりもする。いまの君は、十分魅力的だし、懐かしくて美しい思い出がなくてもいいんじゃないかって」

「ありがとう・・・」沙苗は続けて何かを言いかけたようだったのだけれど、その言葉は発せられずに、代わりに凌のスマートフォンの着信音が鳴った。液晶画面には、香奈、とある。出るかどうか迷っていると「どうぞ」と沙苗は言って席を立ち、凌に背を向ける形で本棚の方に歩いて行った。

「もしもし」と凌が出ると

「凌くん、お腹空いたー、なんか食べに行かない?」と香奈の元気な声が響く。恐らく沙苗にも聞こえるくらいの大きさだ。

「今日は、無理だな、先約があるから」

と凌が小さい声で話すと

「あっ、ごめん、初恋?」と香奈は小さな声で言った。

「そう。また今度ね」

「お邪魔しました、かんばれっ」と言って香奈はすぐに電話を切った。

「誰もいないわけないよね」と沙苗は振り向きながら凌の目を悪戯な眼差しで見つめる。

「いや、友達。若い友達」

「凌くん、って呼ばれてるの?私も凌くんにしようかしら」

「いや、それはやめようよ。いまのままで」

「でも結婚したら私も佐久間よ、そしたらもう佐久間くんて呼べなくなるし」

「えっ」

「冗談よ、そんなにびっくりしなくても」

「ほんとに、今の娘は、友達」

「大丈夫よ、怒って帰ったりしないから」と沙苗は笑って言う。結局、その日は手元にある凌が手がけたミュージックビデオ作品を全て見ることになった。凌にとっては、懐かしかったり恥ずかしかったり、自画自賛したり自慢したい作品だったりと様々な思いが湧いてくるもの達なのだけれど、沙苗には全てが初めて目にするもののはずだった。いったいどんな風に沙苗の目には映っているだろうかと、時折、横目でその表情を覗いてみるのだけれど、ただ真剣に食い入るように見ているだけで、表情にこれと言った変化は見られなかった。かれこれ二時間くらい見続けて、凌は疲れてきたのでコーヒーでも淹れようかと席を立った時、沙苗が

「ここ、知ってる」と画面を見ながら呟いた。それは、いまから十年くらい前、独立して間もない頃にアイルランドにロケに行って撮影をした作品だった。朽ちた古城の跡が残る緩やかな丘を、女性アーティストがカメラに追われて走っている場面だった。

「アイルランドだけど」

「うん、この近くに住んでた」

「住んでたの?アイルランドに?」

「時々、休日にここでピクニックしたの。お弁当とか持って」

「本当に?いつくらいの話?」

「えっと、いまから十年くらい前かなぁ」

「これもそのくらいに撮ったやつだよ」

「じゃあ、確実に、私、居たわ。三年間住んでたから」

「偶然にしては、怖いね、なんか」

「うん」

「この時は、メイキング映像も作ったから、このPVには使ってない映像もあるよ、確か。普通に街中を歩いていたり、買い物したりとか」

「いま、あるの?ここに?」

「あると思う、そこのロフトに」と凌は、リビングのさらに上の天井に近いところに作った小さなロフトスペースを指差した。

「見ていい?」と沙苗が少し真剣な眼差しで凌に訴えかけるように言う。

「じゃあ、ちょっと探してくる」と凌は、ハシゴを登りロフトに上がった。しばらく上がっていなかったので、ロフト全体にうっすらと埃が被っていた。しかし、目的のビデオ素材はすぐに見つかり、PVは止めてメイキング素材の映像を再生した。素材映像には当時の自分の姿も映っていて、驚くほどさえない服装とセンスのない帽子を被っていて驚いた。

「ダサいね、僕」

「当時は、みんなあんな感じだったんじゃない?」

「にしても、ダサい」

沙苗は、さっきよりさらに真剣に画面を見ている。何かを見落とすまいと、防犯カメラの映像をチェックするかのように。

「左下にある日付とか時間は、合ってるの?」

「合ってるよ、メイキングに日付とかもそのまま入れて、リアリティを出そうという話だったから、現地時間に合わせてるけど、なんで?」

「うん」と、沙苗は小さく返事をして、また画面を見つめ続けた。明らかに、何かが映っていないかと探しているようだった。

「何か映ってるの?」

「ハーグ」

「ハーグ?誰?」

「犬。飼っていたの、ずっと」

「犬かぁ」

「でも、いなくなっちゃって」

「それが、この日なの?」

「この前の日かも、朝、お散歩に連れて行こうかと思ったらいなくなってた」

「そう。どんな犬?」

「雑種なんだけど、白い鬣みたいのが、首の周りにあってね」

「ん?待って、なんかあったなぁ、犬の映像、どれだっけなぁ」凌は、しばらく記憶を辿り、荒いフィルムの映像に映る犬を思い出した。

「わかった。今見てるビデオじゃなくて、カメラマンがプライベートで昔の8ミリフィルムを回してて、そこに映ってたと思う、白い鬣の犬が」

「ほんとに?あるの?そのフィルム?ここに」

「それは、さすがに持ってないけど、カメラマンに聞くことは出来るよ。フィルムもまだ持ってれば借りれると思うけど」

「佐久間くん、お願い」

沙苗の真剣な表情に圧されて、その場でカメラマンに電話をした。捨ててはいないから探せばあるはずと言うので、お願いした。一週間くらい待ってほしいということだったので、連絡を貰う約束をして電話を切った。

「よかったね、多分、見つかるよ」

「ありがとう」沙苗は、その犬のことを思い出しているのか、どこか遠い目をしていた。そんなことがあって、それ以降はもう凌の作品を見続けるテンションではなくなってしまったので、二人で夕食を作ることにした。作りながら、沙苗にハーグのことを少し聞いてみた。

「ハーグは、なんでいなくなっちゃったんだろうね?」

「わからないけど、ルーマニアからずっと一緒だったの」

「ほんとに?」

「私が慣れない海外の生活で、淋しいだろうからって、父がプレゼントしてくれて。だから、アイルランドでいなくなった時はもう十五歳くらいだったのかなぁ。ずいぶんなおばあちゃん犬よ。だから、そんな遠くまで歩けるはずはないんだけど」

「そっかぁ」

「だからね、父と母は、ハーグはもう自分の最期を知って、どこか人目のつかないところでひっそりと天国に行ったんだって慰めてくれたけど。私がちゃんと様子を見ていれば、最後を看取ってあげれたんじゃないかって」

「まぁ、とにかく、カメラマンの連絡を待とうよ。フィルムが手に入ったらここで見よう」凌はそう言って、なんとか話題を変えようと話のネタを考えてみたのだけれど、互いに共通する出来事があまりにも少ないことに改めて気づいたのだった。それでも二人で夢中で料理をして食べてお酒を飲んで、ということを繰り返していると時間は自然と前に進んでいった。凌も沙苗も、それなりに料理は出来て、味の嗜好も結構相性がいいと互いに感じていた。食の好みが違うと、なかなかつらいものがあることは、二人ともそれなりに年齢を重ねているので身をもって知っている。そこが合っていることを知れたことが、その日の二人の大きな収穫だった。終電の時間もすでに過ぎていたので、沙苗は泊まっていくつもりなのだろうと凌は思っていたのだけれど、沙苗はキッチンを片付け終わると

「佐久間くん、タクシー呼んでくれる?」と言った。凌は一瞬、「泊まっていけば」と言いかけたのだけれど、沙苗の言い方があまりにも事務的だったので、踏みとどまり

「了解」とだけ答え、タクシー会社に電話をした。帰り際、沙苗は

「ハーグのことお願いね」と言ってタクシーに乗り込んだ。

「了解、おやすみ」と凌は軽く手を振り、沙苗も「おやすみなさい」と小さな声で応え、タクシーは深夜二時の街に消えていった。






「久しぶり、どうぞ」と笠間に言われる。週末を沙苗と過ごすことが多くなって、笠間のカフェにくるのは、ずいぶん久しぶりだった。

「香奈ちゃんからちょっと聞いたけど」と笠間は、さっそく沙苗の話題に入る。

「うん、どんな話になってる?」

「凌くんは初恋のやり直しをしている、って。どういうこと?それ」

「まぁ、そのままだけど」

香奈は笠間にどんな風に話をしているのだろうか。何をどこまで話しているのだろうか。想像していても仕方がないので、そのまま質問をする。

「香奈ちゃん、何をどこまで話してる?」

「さぁ、全体像を知っているわけじゃないから、どこまでかは知らないけど、この前の土曜日は、凌くんに電話したら、振られたって、ここに来たよ」そうか、あの電話の後、香奈はここに来たのか。

「そうか。すごい偶然で、高校の時に好きだった娘に会ったんだよ、二十年ぶりに。正確には二十年以上」

「だからって、なかなか親密にはならないでしょ、いまさら」

「普通は、そうかも知れないけど、今回はちょっと、ちがって」凌自身も、こんなに沙苗に惹かれることになっている今の状態を上手く受け止めきれていないので、笠間にそれを正確に伝えられるとは思えなかった。

「偶然って思えるかも知れないけど、どこかに繋がることになるきっかけが大抵は隠れているんだよ、そういう場合」

「そうなのか?」

「気がつけなかっただけでね」

会わずにきた二十数年の期間に、そういう出来事があったとは凌には思えなかった。それは、笠間が言うように、ただ気がつけなかっただけのことなのだろうか。だとしたら、いつ、なにが二人をこうして再会するように仕向けたのだろうか。

「あっ、香奈ちゃん、来たよ」と笠間がガラス窓の方に目を向ける。外から香奈が手を振っている。

「凌くん、いたんだ」

「いまさっき、来たところ」

「どう?沙苗さんとは」

「ずばり訊くね」

「他に訊き方ある?」香奈はいつでも上機嫌だ。今日もいつもと変わらず、身体全体からパワーというか何か上に向かっていくオーラのようなものを発している気がする。それはまだ二十代という年齢によるものなのか、香奈自身が持っている個性なのか、いずれにしても凌には少し羨ましいものだった。四十歳を超えた凌は、いままで自分が上機嫌で上向きだと感じたことはなかった。それなりに好きな仕事もしてきて、端から見れば順調な人生だと思われていたとしても、凌自身は、常に一番欲しいと思ったものを手にすることができずにきた人生だと感じている。それは、沙苗との関係にも当てはまる。沙苗をいつまでも手にすることが出来なかった人生。それがいままでの凌の人生だった。再会した今が、それを変える時だと感じていた。その為には、香奈のようパワーが必要なことも。

「香奈ちゃん、本当に応援してくれる?」と凌はストレートに訊いてみた。

「いきなり、なに?」

「もう沙苗と離れるわけにはいかないんだ」

「どうしたの?凌くん、大丈夫?」

「大丈夫だよ、この歳になってようやくわかった。出会ってしまったらもう仕方がない」

「ようやくかぁ」

「そう。だから香奈ちゃん、これからどうすればいい?」

「私は、沙苗さんじゃないから、知らない。彼女がどうしてほしいかなんて。でも」

「でも、なに?」

「きっとね、沙苗さん、またどっかに行っちゃうよ、早くしないと」

「それは、困る。またどこか知らない国に行ってしまって会えなくなるのは」

「だったら、とにかく急ぐことね」

なんだかわからないけれど、香奈の言うことは的を射ていると思う。ハーグの映像を待たずに沙苗と会った方がいいのだろうか。でも沙苗は今、ハーグのことで頭がいっぱいのはずで、そのことを脇に置いて、自分とのことを進めるのは違う気がした。ハーグのことと一緒に、この先のことも話をしようと思う。その日の夜、カメラマンから連絡があり、フィルムが見つかったという。ただ、いつもならオリジナルフィルムからデジタルデータに変換して保存しているのだけれど、ハーグの映像のデジタルデータが見つからないと言う。フィルムを投影すれば見れるのだけれど、あえて古い機材とそれ専用のフィルムで撮影しているので、何度も映写機にかけると破損してしまう可能性があると言う。万が一のために、映写機を凌の家に持っていって見るようにした方がいいのでは、と提案してくれた。凌には専門的なことはわからないので、カメラマンの提案通りにうちに来てもらうことにした。沙苗には、ざっと経緯を説明して、カメラマンと三人で今週末にうちで見ることになった。






「とりあえず、出来るだけ暗くして」とカメラマンの高井が映写機とスクリーンをセットしながら言う。凌はリビングの大きな窓はシャッターをしめ、小窓にはダンボールを当てて光を遮った。

「全部で二分半くらいだから。音声は無し」

と高井が言う。

「えっ、音はないんですか?」と沙苗。

「古い機材だから。無声映画ってあるでしょ?あれと一緒だと思ってくれれば」

「なるほど」

「じゃあ、いいですか?回しますよ」と高井は映写機の再生スイッチを入れた。カラカラと回転音がして、スクリーンに光が投影される。やがて、アイルランドの街中を歩く犬の姿が現れる。

「ハーグ」と言う沙苗の声がした。映像の中のハーグは、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来て、やがて止まったかと思うと、カメラを真っ直ぐに見つめて、何度も吠えていた。音声はないのだけれど、ハーグの吠える声が聞こえるようだった。吠え続けている途中でフィルムは終わった。沙苗は黙っている。高井と凌もしばらく言葉が見つからなかった。

「ハーグね、間違いなく」と沙苗が小さな声で言う。

「そうなんだ」

「何をしていたのかなぁ、ハーグ。何であんなに吠えていたのかなぁ。もう、歳だったから吠えることなんてなくなっていたのに」

「確かに、必死に吠えていたよね。何かを伝えようとしているみたいに」

「うん。高井さん、あの後、ハーグはどこへいったの?」

「はっきりとは覚えていないんだけど、歩いて来た方向に戻っていった気がするけど、何度も振り返りながら」

「この時、佐久間くんはどこにいたの?」

「高井くんのすぐ後ろから見てた」

「そっかぁ。高井さん、ありがとうございます。ハーグに会えて嬉しかったわ」

「いえ。たぶん、そんなにフィルムは痛んでいないみたいなので帰ってデジタルにしてDVDに焼いて送りますよ」

「ありがとう」と沙苗はキッチンに行って何か飲み物を用意しているようだった。高井は機材とスクリーンを手際よく片付けながら

「凌さんもDVD焼きますか?」

と尋ねる。

「お願いしようかな」

「わかりました。でも、沙苗さん、美人ですね」と高井は凌の耳元で囁いて、

「じゃあ、僕は帰りますので」とキッチンの沙苗に声をかけて、重い機材を抱え二階のリビングから一階の玄関へと階段を下り始めた。

「お茶いれてますけど」という沙苗の声に、

「ありがとうございます、大丈夫です」と言って高井は帰っていった。二人きりになると何を話したらいいのか戸惑う。沙苗は、ハーグの姿を見て、どこか心ここに在らずといった表情でお茶を飲んでいる。夕食にするには、まだ少し早い時間だし、お酒を飲む気分でもなかった。

「沙苗、また海に行かない?」

「今から?」

「うん。この前のあたりだったら一時間ちょっとで行けるから。どう?」

「そうね、この部屋にいるとずっとハーグのこと考えちゃうし。気分転換しよっか」

「じゃあ、すぐ出よう」

「うん。そういえば、ちょうど月の轍の歌のCD持って来たんだ。これ聴きながら行こっ」

沙苗が助手席に乗り込む時に、香奈の言った言葉を思い出す。「今度また海に行くなら、素足の砂は綺麗に落としてから助手席に乗るように沙苗さんに言ってね」と。今日も砂浜を素足で歩くつもりだった。そして、二人の未来について話が出来ればいいと、凌は考えていた。海が近づくにつれて、自分が緊張していることに気付いていた。何からどう話をすればいいのか、考え始めると言葉が見つからなかった。

「今日は、雲がないから月の轍が綺麗に見えるかもね」とCDに合わせて鼻歌を歌いながら沙苗がいう。

「この月の轍の曲はなんていうタイトル?」と凌は尋ねる。沙苗は、CDの裏を見ながら

「素足が誘う午後」と答え

「またビーサンないから、私たちも素足ね」と嬉しそうに言った。

この前来た時よりも海は穏やかで、夏の気配はもうどこにも無く、山の方から秋の風が流れて来ていた。砂浜に降りる手前で沙苗は立ち止まる。風になびく髪から微かに甘い香りがする。

「ねぇ、ほら、轍、綺麗よ」

目の前の海に、月の灯りが真っ直ぐな道を作っている。その灯りに導かれるように砂浜に降りる。この前のように素足になって。ひんやりとした砂の感触が確実に季節が動いた事を知らせる。沙苗は水際まで行って、時折打ち寄せる波と追いかけっこをするように走ったりしている。まるで少女のようだと凌は思う。スカートの裾を少し濡らして凌のところまで戻ってきて

「やっぱり、水、冷たいよ、夏とは違うね。ちょっと持ってて」と左手に持っていた革のパンプスを凌に渡す。沙苗が濡れたスカートの裾を絞ると水が数滴落ちた。

「結構、濡れちゃった」

「暗いからよくわからないけど」

「そのうち乾くか。ありがとう」と言ってパンプスを凌から受け取って

「あの辺に座る?」と階段になっている堤防の方に歩き出した。砂に足を取られてよろけそうになった沙苗の腕を、凌は反射的に掴み、そのまま抱き寄せた。しかし凌の腕の中に沙苗がいたのは一緒で「ありがとう」と言ってするりと腕の中からすり抜けた。凌は照れ隠しに「逃げられた」ときちんと沙苗に聞こえるように笑いながら言う。

「逃げてやった」と沙苗もおどけて見せてくれて、その場の空気は気まずくならずに済んだ。階段に座ると沙苗が話し始める。

「今の会社ね、一年契約だから、もうすぐ更新なの。続けるかやめるか決めないと」

凌は、香奈の言った通りだと思う。沙苗はまたどこかへ行ってしまうのだろうか。

「やめるつもり?」

「どうしよっか?」

「僕に訊いてる?」

「うん、佐久間くん、どうしてほしい?」突然の質問に凌は戸惑う。答えは決まっている、このまま東京にいてほしい。それだけだ。でも、それをどう伝えたらいいのか迷う。会社に残ることは、東京にいるということだけれど、やめることイコール東京を去るということにはならないと、咄嗟に思った。

「やめてもやめなくもいい。近くに居てくれれば」凌は、そのままを口にした。

「えっ、それどういうこと?」

「そのままの意味だよ」

「なんか、それ、告白にも聞こえるけど」

「そのつもりだよ。もうどこにも行かないでほしいと思っている。こうして再会したんだから。今度は後悔したくない。あの時、高校の夏に、僕は沙苗に告白するつもりだったんだ。そして、どうやってキスをしよう、なんて考えてた。まさか外国に行くなんていう話になるなんて考えてもいなかった。でも、現実は、頬にキスをして、何も言えずに別れてしまった。そして、そのまま二十年以上経ってしまって、今がある。過ぎて行ってしまった二十年は、もう仕方がない。いまさらやり直したり取り戻せたりするわけじゃないから。でも、これから先の時間は沙苗と一緒にいたいと思っている。告白以外の何物でもないね、これは」沙苗は黙ったまま聞いている。

「ごめん、ちょっと一方的に話し過ぎた」

「いいの、ありがとう、嬉しくて、言葉が見つからないだけだから。まわりくどい質問してごめんね。私も素直に、一緒にいたいって言えばよかったのにね」

月はさっきよりも水平線の近くにあって、青く煌めく轍を作っている。凌は、ようやく言えなかった思いを口にすることが出来て、身体全体がふわふわと海の上を漂っているような感覚がしていた。いまなら、あの轍の上を歩いて進んでいけそうだと。

「ずっと、考えてたんだけど」と沙苗が再び話し始める。

「うん」

「ハーグが、なんであんな風にカメラに向かって吠えていたのかって」

「うん」

「本当は、ハーグはカメラに向かって吠えていたんじゃないんじゃないかなぁ」

「どういうこと?」

「佐久間くんに向かって吠えていたの、きっと」

「僕に?」

「そう、あの時、カメラのすぐ後ろにいた佐久間くんに向かって。正直言うとね、ハーグが初めて私のところに来た時、この仔犬を佐久間くんだと思おうって決めたの。そうすればいつでも佐久間くんと一緒だって思えるから。会えなくても寂しくないと。だから毎日ハーグを佐久間くんだと思っていろんな話をしていたの。その日の些細な出来事とかをね。佐久間くんの知らない私をハーグは全部知っているってことね。そんなことを十五年もしていたらハーグは、もう佐久間くん同然だし、佐久間くんのことはなんでもわかるようになっていたんじゃないかな、きっと。そうしたら突然、佐久間くんが、いつもハーグが散歩したり遊んだりしているところに現れたの。ハーグは気づいたのよ、きっと、私が思い続けていた佐久間くんとは、この人なんだと。なんて、ありえない話だけど。それで私の目を盗んで、佐久間くんを呼びに行ったのよ。沙苗はここにいるよ、付いて来てって。なんてね」

「それで、ずっと吠えていたのか」

「妄想よ、私の。でも、いつも吠えないハーグがあんな風になるなんて、そのくらいの理由があってもおかしくないんじゃないかって」

「僕が気づいてあげていたら、あの時、沙苗に会えたのかも?」

「でも、いいわ。いまこうして一緒なんだから」

車に戻り、沙苗は助手席側のドアを開けて

「また、素足のままでいい?」と尋ねる。凌は一瞬、香奈のことを思ったのだけれど

「いいよ、そのままで」と答え、沙苗の素足に付いた砂が助手席の足元に落ちた。 






都内で打ち合わせがあって、空き時間ができたので香奈に電話をしてみた。

「珍しい」開口一番に香奈はそう言う。

「凌だけど」

「知ってる。どうしたの?」

「お茶でもどうかと思って。報告もあるし」

「あっ、わかった。なんかいい話っぽい。どこにいるの?」

「表参道」

「じゃあ、行く。私、お腹空いてるから、まい泉でもいい?」

「またトンカツ?」

「だめ?」

「いいよ、じゃあ、二時くらい?」

「了解ー、あとでねー」

と香奈は電話を切る。やはりいつも通り上向きなオーラだった。ロースカツを頬張る香奈を前に、沙苗に告白したことを伝える。詳しい会話のやりとりは省いて、事実と結果だけを簡潔に。

「やったね、おめでとー」口にライスを頬張ったまま香奈は言う。

「ありがとう。香奈ちゃんのアドバイス通り急いで良かった。ちょうど今の会社との契約の更新が迫っていたみたいで、どうしようかって言ってて」

「恩人ね、わたし」

「トンカツおごるよ」

「それだけ?」

「冗談、ちゃんとお礼するよ」

「じゃあ、考えとく。欲しいもの。私からも、相談」

「何?」

「お姉ちゃんちでね、仔犬が生まれたの、三匹。見て、可愛いでしょ」と香奈はスマホの写真を凌に見せる。白くてコロコロした仔犬が、お母さん犬のお腹のあたりで眠っている。

「誰か、貰ってくれる人いない?私も飼いたいけど、今のマンションだと無理だから。知り合いとかで、いたら、教えて。一応、ちゃんと面倒見てくれる人かどうか、お姉ちゃんが会って決めることにはなるんだけど」

凌の頭の中をハーグのことがよぎる。ハーグも沙苗のところに来た時はこんな感じの仔犬だったのだろうかと。

「その写真、送ってくれる?ちょっとあてがあるから聞いてみるよ。ちなみに犬種は何?」

「ミックスよ、雑種。ヨーロッパの方のなんとかっていうのと、柴が混ざってるとか言ってたけど、詳しく知りたい?」

「いや、大丈夫。その写真だけで」凌の心の中では、もう沙苗にプレゼントして、みんなで一緒に暮らすことに決めていた。ハーグと名付けることも、沙苗が許せばそうしようと思った。





沙苗は、会社の契約を更新せず「失業保険を貰って少しのんびりする」と連絡をしてきた。この前、砂浜で告白をして、二人のこれからが見えてきたはずなのだけれど、凌は、まだ沙苗がどこかに行ってしまうのではないかという薄っすらとした不安を抱えていた。それは、きちんと籍を入れて一緒に住み始めれば消えるものだと思えるのかと言えば、そういうものでもない気がしている。もし沙苗に、そんな不安を口にしたとしても恐らく、大丈夫よ、どこにも行かないわ、と言うことはわかっている。それでも、と凌は思う。ハーグを飼うことは、そんな不安を少し和らげてくれるのでないかと思ったりもしている。早く仔犬の写真を見せて、沙苗の喜ぶ顔が見たいと思い、夕食の誘いのメールを入れる。この先、平日は、ほぼ毎日送別会の予定があり、確実なのは今度の土日だと返信が来る。そんなには待てない、というのが本心だけれど仕方がないと思わなくてはならないと気持ちを抑える。送別会終わりの深夜に会おうと思えば会えるだろうけれど、もう少し健全な時間に話をした方がいいように思う。土曜日の昼間に約束をして、香奈には、しばらく返事を待ってもらうようにお願いをした。

「いいけど、他にも欲しいって人がいたら一匹だけ残して、先に渡しちゃうかもよ?選べなくなるけどいい?」

「それはそれで縁だから」と凌は、根拠はないのだけれど、ハーグとなる仔犬はちゃんと残ってくれる気がしていた。連日の送別会でぐったりしている沙苗が来たのは、土曜日の午後三時前だった。

「ごめんなさい、起きれなかった」

「お疲れ様、お昼は食べた?」

「何も、まだ、何かある?食べ物」

「お昼に買ったサンドウィッチなら」

「それで、いいわ。いい?貰っちゃって」

「いいよ、コーヒー淹れるよ」

「ありがとう」

沙苗は、本当に疲れているようだった。

「外資系なのに、こういうところは日本人ぽいの」

「日本人ぽい?」

「送別会を名目にしてただ飲み会したいだけ、ほとんどの人は」

「断ればいいのに」

「難しいわ、あっちを断ってこっちは行くとか出来ないし、中には本当にお世話になった人もいるしね」

「そうね、それに男どもはみんな沙苗と飲みたいんだよ、きっと」

「こんなアラフォーと?」

「アラフォーだから。いまの若い子はお酒自体飲まないでしょ?」

「そうなの、来るのはほとんどおじさん達」

「でも、もう終わったんでしょ?」

「うん、今週で終わったから。来週からはのんびりよ」

沙苗はサンドウィッチの残りをペロリと食べきって、コーヒーカップだけを持ってソファーに沈み込むように座った。たぶん話しかけなければ、そのままうたた寝をしてしまいそうだった。とりあえずカメラマンの高井からこの前のハーグのDVDが届いていたので、沙苗の分を忘れないうちにと思い渡した。

「流してくれる?そのテレビで見れる?」

「うん、いいの?」

「大丈夫よ、泣いたりしないから」と沙苗は軽く笑いながら言う。再生を始めると沙苗はすぐに寝息をたてて寝てしまった。凌は、リピート再生で何度もハーグの吠える姿を一人で繰り返し見ていた。そうすればハーグが伝えようとしていたことがわかるかもしれないと思って。無音の白黒画面の中でハーグは必死に吠えている。カメラの方をじっと見ながら。いや、そうではなくカメラの後ろの自分に向かって。でも、ハーグが伝えようとしていることは、やはり凌にはわからない。それがもし、沙苗の居場所を伝えているのならば、ハーグは僕に沙苗と会って、どうして欲しかったのだろうか。アイルランドの田舎町で、十五年ぶりに会う初恋の相手。突然、目の前に現れた沙苗に、自分は何ができただろうか?そこまで想像してみる。告げられなかった想いを口に出来ただろうか?会いたかったと抱き寄せて口づけが出来ただろうか?どれも無理だ。もし会っていたとしたら、また、想いを告げられずに、また別れを繰り返すだけだったに違いない。そうなっていたら、今の二人もなかったかもしれないと思う。会えなくて良かったのだ、あの時は。今こうして、隣には眠る沙苗がいるのだから。スマホにある仔犬の写真とテレビの中で吠えているハーグを見比べてみる。この小さな仔犬が、ハーグのように成長する姿はまだ想像できない。仔犬は、まだモコモコとした白い塊でしかない。隣で眠っていた沙苗が、いつのまにか起きていて寝ぼけたような声で言う。

「ハーグね」

「うん、吠えてるよ」

「仔犬の時のハーグ」

「これ?」

「まん丸で小さかったの。ふわふわの白い毛に覆われてて」

「沙苗、これは、ハーグじゃないよ」

「なに?」

「この犬を飼おうかと思って」

沙苗は、驚いたような顔をして沈み込んだ体を起こして、凌のスマホの写真に顔を近づける。

「ハーグそっくりよ、でも」

「そうなんだ」

「どうしたの?この仔犬たち」と尋ねる沙苗に、香奈のお姉さんが飼い主を探していることと、三匹のうち二匹は、もしかしたらもう引き取り手が決まっているかもしれないことなどを説明した。

「この仔がハーグよ」と沙苗は、右端に写っている一番小さな仔犬を指差した。

「一緒に暮らすことで、いい?」

「もちろんよ、名前もハーグよ」

「香奈に連絡してみる、すぐに」

凌は、香奈に電話をかける。

「もしもしー、凌くん?」と大きな声が聞こえる。隣の沙苗にも聞こえたようで、飲み込もうとしていたコーヒーにむせていた。凌が、一番右の子がいいんだけど、と言うと

「ほんとにー?ちょうどその子が残ってる」と香奈は驚いてさらに声が大きくなる。沙苗も隣で驚いているかと思い視線を向けると、当然だと言わんばかりの表情で頷いていた。すぐに迎えに行くことにして、翌日の日曜日に香奈と三人で香奈のお姉さんのうちに行くことになった。


 日曜日、沙苗のマンションに寄ってから香奈を迎えに行く。沙苗が香奈に会うのは初めてだったので、凌は少し緊張した。香奈のマンションのエントランスで、お互いに自己紹介をしあって、ひとしきりぎこちない会話が続いたのだけれど、香奈が

「私、凌くん、って呼んでるんですが、いいですか?」と沙苗に尋ねてから、砕けた会話の流れになっていった。

「私は、佐久間くん、なの。もともと同級生だったから。でも、結婚したら、佐久間くんは変でしょ?だから、私も、香奈ちゃんみたいに、凌くん、でいいって言ったら、嫌だって」

「なんで、嫌なの?」と香奈が凌に訊いてくる。

「なんとなく、違和感がある」

「慣れるよ。そしたらさぁ、私が、凌くん、じゃなくて、佐久間さん、にするから、沙苗さんが、凌くん、にすればいいんだよ、ね」

「わざわざ決めなくてもいいよ、そのうち自然と決まってくるもんだよ」

「そうかなぁ、ねえ、沙苗さん」と香奈は沙苗に同意を求める。

「凌くん、で統一しよっ、ねっ、香奈ちゃんは、いままで通り、私も凌くんにする。いい?」

「賛成!」と香奈。

「なんでも、いいよ、もう」と凌は二人を車に乗せる。沙苗は

「私、香奈ちゃんと話したいから後ろでいい?」と言い、香奈と二人で後部座席に座り、まるで凌が二人の選任運転手のような図柄になった。

「じゃあ、凌くん、安全運転でお願いします」と沙苗がわざとおどけて言う。

「なんか、いい感じ」と香奈も楽しそうだった。走り出すとすぐに凌のスマホからメールの着信音がした。信号待ちでメールをチェックすると、後部座席の香奈からで

___沙苗さん、すごい美人!

とだけあった。ミラー越しに香奈を見ると、いたずらそうな視線を凌に向けていた。後部座席で女性二人は、何を話しているのかは聞き取れないのだけれど、ずっとおしゃべりをしている。仲良くなってくれたようで、凌はホッとする。ナビの言う通りに三十分くらい走ると香奈のお姉さんの家に着いて、香奈以上に元気でさっぱりとしたお姉さんから、これと言った面接めいたこともなく、あっさりと仔犬を引き取り、ハーグはその日から凌のうちの家族となった。沙苗が正式に引っ越してくるまでは、ほぼ凌が世話をすることになった。日中、沙苗が用事がないときは凌の家に来て、ハーグと一緒にいてもらって凌が仕事に出ることもあるのだけれど、それ以外は、凌とハーグは常に一緒にいる。犬を飼うのが初めての凌は、沙苗にしつけの仕方を教わり、わからないことはネットで調べたりして、ハーグとの時間を楽しんで過ごしていた。ハーグとの生活が始まって二週間くらいが経った頃、沙苗がチューリッヒにいるお母さんに会いに行ってくることになった。次の仕事を始めることになると、時間が取れなくなるかもしれないから、今のうちにと言う。

「籍を入れて一緒に住む前にお母さんに報告してくるね、お父さんのお墓にも。今回は一人で行くけど、次は一緒に行こうね。お母さんも、もう歳だから、そんなにのんびりはしていられないんだけど」

「わかった、来年には行こうよ」

「うん、そう言っておく。一週間だけハーグと二人で待ってて」

「ハーグを沙苗だと思って、毎日の出来事を報告するよ」

「昔の私と一緒ね」

「十五年は無理だけど、一週間なら平気だよ」凌はそう言いながらも、沙苗がどこか遠くに行ってしまうという、いつもの不安が頭をよぎる。もし、今、沙苗がいなくなったら、凌は、沙苗が昔してきたようにハーグと毎日を過ごして、いつか会える日を待ち続けることになるのだと思う。そして、また同じように離れ離れの二十年が過ぎていく。まさかとは思いつつも、旅の準備をしている沙苗をチラチラと目で追ってしまう。

「しつこいようだけど、帰って来てね、必ず」

「大丈夫よ、大丈夫」と言う沙苗にハーグも鼻を近づけて何かを告げているようだった。

「ハーグ、凌くんを頼んだわよ」沙苗はハーグにだけ聞こえるように、そう囁いたのを凌は聞き逃さなかった。






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by ikanika | 2018-08-28 13:22 | Comments(0)

六月のふたり

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短編を一つ、掲載します。

『六月のふたり』というタイトルです。

雨にまつわる記憶の断片を紡いでいったら、

ストーリーが立ち上がってきた、という感じです。

いずれ、この二人を主人公に少し長いものを書いてみたいと

思っていますが、今回はこれで。

雨の六月に読んでもらうのが良いかと思っています。

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六月のふたり





雨の季節だった。

空気中の水分がどんどん滲み出てきているようで、

僕の学生服をしっとりと湿らせていた。

太陽が出ていなかったせいで一体それが何時くらいだったのか、よく覚えていない。

学校帰りだったから三時過ぎだったのかもしれないし、

もっと夕暮れに近かったのかもしれない。

僕は君と二人きりで何をして過ごせばいいのかわからなかったから、

ただ馬鹿みたいに歩き続けた。

立ち止まってしまったら、

もうその時間は終わってしまうような気がしていたのかもしれない。

何もない住宅地を、ただあてもなく歩いた。

だんだんと住宅もまばらになっていって、

雑木林の中を道が伸びているだけになっても、構わず歩き続けた。

雨は降っていなかったけれど、湿度の高い空気のせいで、

僕も君もしっとりと濡れているようだった。

手を繋いでみたかったけれど、そのタイミングがわからなかった。

だから、ただ並んで歩いた。

時折、車が通りかかる道だったから僕は君よりも車道側を歩いた。

そうすることで、君に気に入られようとしていたのかもしれない。

ただ、そんなことだけで。

会話という会話もできなかった。

もう別々の学校になってしまったから何を話したらいいのか思いつかなかった。

共通する話題なんて存在していなかった。

友達や先生や部活のこと、

同じ学校に進んでいたら話題はたくさんあったはずなのに、

僕が思いつくことと言ったら、

中学校時代の思い出とテレビ番組のことしかなかった。

でも、

僕はただ君と一緒に歩いている、

手を繋ごうと思えば届く距離に君がいる、

ということだけで、よかった。

だから、黙っていても、それでよかった。

君は退屈だったかもしれないけれど。

歩き続けた先に何かがあるとか、

明日からのことや、

もっと先の約束や、

更に二人の未来なんて、

そこには存在していなかった。

僕にわかっていたのは、

ただ、今、君と二人でいる、ということだけだった。

横を歩く君が時々笑っていたことを覚えているけれども、

何を話して笑ってくれたのかは覚えていない。

僕は君を本当に笑わせることができていたのだろうか。

途中、歩き疲れてしまって、公園のベンチに座った。

しっとりと湿ったベンチに。

僕ら二人以外には誰もいない寂れた公園。

雑木林とたまにしか車が通らない道に挟まれた小さな公園には、

滑り台もブランコもなく、ただベンチと広場があるだけ。

どのくらいそこに座っていたのだろうか、

ずいぶんと長い時間だったような気がする。

ベンチに座って流れていく時間は、濃密なものだった。

文字通り世界には僕と君の二人しか存在しないという時間に思えた。

それは、

つまりこの先もずっとそういう時間だけが流れていくということを意味していた。

そんなことはあるはずがないのに、僕はそう思っていた。

現実は、辺りは確実に歩き始めた時よりも暗くなってきていて、

もう、帰らなくてはいけない時間が迫ってきていた。

だから来た道をまた歩いて引き返した。

どこかに行くあてがあったわけではないから、

そうすることが正しい選択だと思った。

このまま二人でどこかに逃げてしまおうなんて、

映画のワンシーンのようなことは思いつかなかった。

今思えば、冗談でも、このままどこかに行ってしまおうよ、

なんて言えたらよかったと思うけれど。

帰り道で一台の車が僕らの脇をゆっくりと追い越していった。

見覚えのある車、父の車だった。

僕は運転席の父と目が合ったような気がした。

でも、止まらずに父の車は過ぎ去っていった。確かに父だった。

何をしていたと思っただろうか?

女の子と二人で暗くなり始めた道を歩いていた僕を見つけて、

父はどう思ったのだろうか?家に帰ったら何か言われるだろうか、と考えた。

君には、それが父の車だとは言わなかった。

ただ、なんとなく、理由はなかった。

帰り道は一歩一歩がさよならに近づいていく。だから、ゆっくり歩いた。

でも、どんどん辺りは暗くなっていって、

横を歩く君の顔もよく見えなくなっていった。

僕は、今度、いつ会える、って何度も頭の中で呟いていた。

今度、いつ、今度、いつ。

君を家の前まで送って、

そこで実際に口にしたのは、じゃあ、またね、だった。

何の約束もない、またね、という曖昧な言葉。

君はただ頷いていた。

家に帰ると父は何も言わなかった。

あの車は確実に父の車だった、そして運転席の父と目が合ったというのに。

父が何も言わなかった理由は訊かなくてもなんとなくわかったつもりでいた。

初めて、父と僕が男同士だということを感じた夜だった。

じゃあ、またね、の約束から三年が経ち、

お酒を覚えたばかりの大学生の僕は駅のコンコースで君を抱き寄せていた。

同窓会から二人で抜け出して。

いいんだよ、大丈夫、とか言いながら酔いに任せて馬鹿な若者は君に口づけをした。

三年の月日が、僕らにもたらしたものをわかろうとはせずに、

ただ体が求めるがままに。

終電に駆け込むサラリーマンに冷やかされながら。

僕はそのまま電車に乗り、君は同窓会の会場へ戻っていった。

その時、別れ際に、またね、とか、じゃあね、とか言ったのだろうか、記憶にない。

そしてまたしばらく会うことはなかった。

社会に出て大人になったつもりの僕は、

君に会っても、もう前のようには心が乱れないと思っていた。

でも、それは違った。

僕は君の前ではいつまでも雨の季節に黙って歩き続けた僕でしかなかった。

大人になった君は、僕に笑いかけながら話をして、

肩を寄せ合って記念写真におさまった。

もう昔のことは忘れたよ、とでも言っているように。

でも、僕は忘れられずに覚えている。

もう戻れない日々のことを。

さらにずいぶん大人になって、僕はやっと君の手を握った。暗い海岸で。

砂浜を君の手を引いて歩いた。僕が握った手を君は握り返した。

そうすることが当たり前のように。

朝日を見ながら話をした。

遠くに過ぎ去った昔のこと、

目の前に横たわる今のこと、

見えない未来のこと。

その出来事が現実だったのか夢だったのか、

今となっては少し記憶が曖昧になってしまっている。

それはたぶん、僕にとっては夢のような時間だったから、そんな風に今は思う。

今度、君に訊いてみたい、

僕は君の手を引いて砂浜を歩いたよね?

朝日を見ながら話をしたよね?と。

君は何と答えるだろうか。

それは夢なんじゃない?と言うだろうか。

そう言われたら、僕も、そうかもしれない、と答えるだろう。

そういうことにしておくべき事なんだと理解したふりをして。

僕は君のことがずっと好きだった。

君はそのことをよく知っていた。

でも、その先にあるものはいつも曖昧なままで、

いつまでたってもそれは変わらなかった。

たぶん、この先もずっと、そうやって、時は流れていくのだと思う。

今、もし、君に会ったら、

僕はまたその手を握り、抱き寄せるかもしれない。

どこかに繋がる未来がないとしても。

また雨の季節がやってきて、僕は君と歩いた道を思い出している。

肌にまとわりつくような湿度と、しっとりと濡れている制服の感触。

握ることができなかった君の手と公園のベンチや僕らを追い越して行った父の車を。

雨の季節は毎年訪れるけれど、

もう制服なんて捨ててしまったし、

あの雑木林や公園も宅地に開発されてなくなってしまっただろう。

父は運転免許証を返納し車も手放したと言っていた。

君は、どうしているだろうか?

変わらずにいるだろうか?

僕は変わらずに雨の季節に君を思い出している。

そして、こう呟く、今度、いつ会える、と。






また今年も雨の季節が来ました。

そうすると私はいつもあなたを思い出します。

高校生になったばかりの頃の、はじめてのデート。

あなたと何の変哲も無い住宅地を歩いたことを。

雨ではなかったけれど、湿度の高い空気は私たちの制服をしっとりと湿らせていて、

あなたの匂いがした。

別々の高校になってしまったから共通する話題がなくて困った。

だから黙って歩いていた。でも、私は楽しかった。

なんだか笑っていたように思う。

あなたが何か面白いことを話してくれたわけではないというのに。

車が通り過ぎるたびにあなたは私を歩道側に寄らせてくれた。

男らしくみせていたのかなぁ。

手を繋いでもいいと思っていたのに、そうしなかったのはなぜ?

湿度で身体中が湿っていたから、

それでもよかったのかも、って帰ってから思ったりしたけど。

歩き疲れて座った公園のベンチは、

湿っていて制服に跡がついてしまわないか心配だった。

でも、構わずに座っていた。ずっと長い間。

あなたの隣にいられることが嬉しかった。

座っている間、他には誰も来なかった。

ベンチと広場しかない寂れた公園。

世界には私たちしかいないような気持ちになった。

これからずっと二人だけの世界。

少し淋しい気持ちもしたけれど、あなたと二人なら大丈夫か、なんて思ったりして。

でも、どんどん暗くなってきてしまって、また来た道を帰ることにした。

本当は、

このままどこか知らないところへ行ってしまってもいいのに、って思ったけれど、

そんな勇気は無かった。

それに、

あなたはせっかく良い高校に入ったんだからそんなことはしないか、って思った。

でも、どうだったのかな?

同じようなことを思ってくれていたらいいのに、というのが本心だった。

帰り道、二人の横を車がゆっくり通り過ぎて行った。見覚えのある車。

あなたのお父さんだった。見つかってしまって大丈夫かってドキドキしていた。

でも、あなたは何も言わずにただ歩き続けていた。

気がついていないわけないのに。

それからしばらく会わなくなってしまったのは、

お父さんと何かあったからなの?ってずっと訊いてみたいと思っていた。

本当はどうだったの?もう、そんな昔のことを訊かれてもね。

あなたは家の前まで送ってくれて、じゃあ、またね、って言って帰っていった。

でも、ずっと会えなかった。

またね、がいつまでもやって来ない日々を過ごした。

そうやって三年が過ぎてしまった。

私は少しだけ他の人を好きになったりしたけれど、

いつもあなたのことがぼんやりと頭に浮かんできてしまった。

またね、って言っていたあなたのことが。

大学生になったあなたは、私を乱暴に抱き寄せた。

はじめての口づけは、お酒の匂いがした。

沢山の人が行き交う駅のコンコースで、恥ずかしかった。

どうして、って思ったけれど、でも、いいや、とも思った。

それでも、そこから先はまた曖昧になってしまった。

あなたは別れ際に何も約束をしなかった。

私も会いたい気持ちを伝えられなかった。

そのことをずっと後悔していた。

あなたはやっぱり違う世界に行ってしまったんだと思ったりして。

それでも、私も社会人になって少しだけ強くなった。

あなたに会っても、表面上は平気でいられるくらいに大人になった。

一緒に記念写真に写ることも出来た。

あたかも昔のことなんて忘れたような顔をして。

その写真を見るたびに、私は情けなくなった。

本当は泣いてしまいたいくらいだったのに、

馬鹿みたいにピースサインとかしている自分が嫌いだった。

しばらくして、また少し大人になった頃、あなたに会える日が来た。

あなたは、私の手を引いて、砂浜を二人で歩いた。

初めて私の手を握ってくれた。

その手を私が握り返した時に、

あなたが嬉しそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。

夜更けにいろんな話をした。

懐かしい昔のこと、

どうにもなっていない今のこと、

明るいはずの未来のこと。

でも、それは朝日が昇ると全て夢だったような気持ちになった。

今でもよくわからない、夢だったのか現実だったのか。

あなたの手の感触は覚えているけれども。

今日もまた雨が降っている。

曇り空で部屋は薄暗いから、今が何時なのか時計を見ないとよくわからない。

三時くらいかもしれないし、もうずいぶん暗いから五時過ぎみたいな気もする。

だとしたら、もうじき夕食が運ばれてくる。

あなたは今どうしているのだろう。

二人で歩いた湿度の高いあの道を思い出していたりするのだろうか?

湿ったベンチや制服の匂いや、

通り過ぎていったお父さんの車のことを覚えているのだろうか。

私は、よく覚えている。

そして、

またこの雨の季節が迎えられて嬉しい。

あなたを思い出すことができて嬉しい。

私は今、こう願っている、

もし来年も雨の季節を迎えられたら、

もう一度、あなたに会いたい、と。







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by ikanika | 2018-06-11 00:00 | Comments(0)

一人の居場所#41〜#49

ここにある散文は、

昨年の1月から今年の3月まで

カフェのお手洗いの壁に

掲出していたものです。


いくつかは、すでにこのブログに掲載している

小説のようなものの元になった文章なので

目にしたことのあるものもあるかと思います。

また今後、掲載する予定の小説の元になっている

ものも含まれていますので

いずれ小説の一部分という形で再登場すること

なるかと思います。


なんとなく“恋”という言葉を

あえて使ってみたいと思った時期なので

恋の話がいくつかありますね。


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一人の居場所 #41



きみが見ている景色を

ぼくが覗くには

きみにその場所を譲ってもらわなくてはならない

きみが見るその景色はきみだけのもの

いつもいつも譲ってもらうわけにはいかないから

想像することにする

きみの眼に映るそれを


繰り返し繰り返し想像していると

ほぼ同じ景色を見ることができるようになる

そうやってわかったことは

すぐ隣でぼくが見る景色とずいぶん違うということ

同じものを見ていても

すこし角度がちがうだけで

不思議とまったく別のものに見えてしまう


ぼくには正しく見えていたものが

きみには違って見えていた

ということは日常茶飯事

その正しさは

ぼくだけのもの

きみだけのもの


うまく想像できるようになるには

ただ繰り返すだけでいい

すこし時間がかかるかもしれないけれど


20170120









一人の居場所 #42



昼間からお酒を飲むことがあってもいいと、

その日は、そんな気分だった

特に大きな仕事が片付いたとか

何かからようやく解放されたとか

あるいは何かが上手くいったとか

そういう明確な理由があったわけではない

ただ、日差しが春に変わったな、と

だれもが感じるような日だっただけのことだ


友人のひとりは、春から希望の部署に配属になり、

また他の友人の娘さんは希望の高校に受かり、

かと思えば、

昔付き合っていた人は、ひとり海外赴任を命じられていて

自分はといえば、

この春の日に、ただカフェでお酒を飲んでいる


〝何かが上手くいってもいかなくても

春は平等に訪れ、柔らかい日差しが僕らをつつむ〟

というようなことを、

昔よく聴いていたバンドが歌っていたのをぼんやり思い出す

ワインで熱くなった頭で

その前後の歌詞を思い出そうとしたのだけれど上手く思い出せない

でも、ほんとうにそんなゆるい歌だったろうか

平等に柔らかい日差し、なんてね


すこし酔った帰り道の日差しは、確かに柔らかではあったけれど


20170217




一人の居場所 #42(2)


カフェから自宅までの帰り道に

小さな古本屋がある

いつも入口脇の百円コーナーをチラッと覗いてみるのだけれど

何も買ったことはなかった

店の奥まで足を踏み入れるには

少しの勇気が必要な空気を纏っている


昼からのワインの酔いも手伝って

その日は奥まで入っていった

白髪の老人が居眠りでもしているのだろうと

勝手に思い込んでいたせいで

レジに座っていた大学生風の男の子を見た瞬間

あっ、と声を出してしまった

でも、その男の子は手元から顔を上げることなく

ただ、あなたを認識してますよ

というような雰囲気を醸し出していた


もしかしたら、自分がお酒臭いのかもしれないと思い始めると

どんどん顔が赤くなっていくようで

本棚を物色することなど出来そうになかった

このまま出て行ってしまっても変な客だと思われそうなので

しばらくその場にただ立ち尽くしていると

「いつも百円コーナーご覧になってますよね」と

その大学生風が声を掛けてきた

ますます顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかるのだけれど

こういう時は、何も言葉が出てこない


20170331







一人の居場所 #42(3)


三ヶ月に一度、歯医者へ行く。虫歯の治療というわけではなく、

歯石を取ってもらったり、虫歯になりそうな歯はないかと調べてもらったり、

いわゆるメンテナンスだ。子供の頃から歯は丈夫で、

大人になってからは歯医者に通ったことはほとんどなかったのだけれど、

去年の正月にお餅を食べていたら歯が欠けてしまい、

仕方なく知り合いの紹介で歯医者に行き始めたら、

なんだかんだと治療を勧められて一年以上も通うことになってしまった。

歯医者曰く、もうこのくらいの年齢になると歯も劣化してしまうから仕方ないです、

と言うのだが、どうも釈然としない。自覚症状がない上に、

自分では、よく見えない場所だからなおさら懐疑的になる。

一応、医者が治療を勧める箇所の処置は終わったので

今はメンテナンスに通うだけだが、またいつ治療箇所を見つけられてしまうか

毎回ハラハラしてしまう。その歯医者の待合室で、

またあの大学生風に会ってしまった。治療を終えて処置室から出てきた彼は、

私を見つけて少しバツが悪そうな表情を一瞬見せて、

「こんにちは」と

さわやかに言い放った。私はといえば

「どうも、こんにちは。虫歯ですか?」

などと当たり前の質問をして、彼を戸惑わせてしまう。

「毎週水曜日に。通い始めたばかりで」

「そう」

「この前は、失礼しました」

「こっちこそ、私、酔っていたから。ごめんなさいね。また覗きに行くわ」

と、先日書店を訪れた際の挙動不審を詫びた。

「ありがとうございます、お待ちしてます」

「サイトウさん」と受付の女性が彼を呼んでお会計をしたので、

彼の名がサイトウという事があまりにも簡単に判明した。

「鈴本さん、どうぞ」と処置室から声がかかり、

私の名も簡単に彼に知れることになった。

お互いに軽く会釈をして、私は処置室へ入って行った。



20170505




一人の居場所 #43(1)




誰もいない真夜中の学校のプールに忍び込む夢を時々見る

水泳の苦手な僕は、優雅に泳ぐわけではなく、

ただぷかぷかと浮いているだけだ

決まって月が明るく、プールの水は透き通っていて

底のラインまで月明かりが届いている

飛び込み台に誰かが座ってスカートから伸びる細い足を

水にパタパタさせている

それは想いの届かなかった女の子で、彼女はすっかり大人になり

こっそりプールに忍び込んだ中学生の僕をたしなめる

けれども口元には微かに笑みが浮かんでいて

ただ、からかっているだけだということがわかる

「水泳の授業はサボるくせになんでプールに忍び込んでるの?」と。

「授業では、こんな風にぷかぷかしていられない。

水の中ではこうしているのが一番楽しい。

君はいつも優雅に泳いでいたね?まるで魚のようだったよ。」

「そうね、もしかしたら前世は、魚だったのかもしれないわ。

ねぇ、ひとつお願いがあるの。あなたは、絵が上手だったわよね。

私を描いてほしいの。でも、今の私ではなくてあなたと同じ中学生の私を。

よく覚えているでしょ?私のこと。その記憶の中の私でいいわ。

大人になってしまった今の私のことは忘れて。

だって、大人になるとどうしても、ずるい顔になってしまうから。

仕方のないことなの、生きていくためには。

あなたもきっと、そうなるわ、ずるい顔に。

たから、そうなる前のあなたに、そうなる前の私を描いて欲しいの。

どう、描いてくれる?」


どうして大人になったあの子が、僕にそんなことを頼むのか

事情がよくわからなくて、僕は混乱する。夢はまだ続いていく。


20170519









一人の居場所 #43(2)



夢の続き。

「もし、描いてくれたら、私はあなたに泳ぎを教える。

だって、前世は魚だったかもしれないから、

誰よりも上手く教えられるはずよ。

はっきり言って、そんな風にぷかぷかしているより、

クロールで泳いだ方が、きもちいいわよ。

そうしたら授業もサボる必要ないし、クロールをするあなたを見たら、

中学生の私はあなたを振らなかったかもしれないわ。

どう?素敵な提案じゃない?」

「君は、その絵をどうするの?」

「そうね、毎日一番眼に付く場所に飾るわ。

そして、眺めるの、もうこれ以上ずるい大人にならないようにね」

「そんなにずるいの?」

「ちょっと自分では嫌になるくらい」

「そんな風には見えないけど?」

「それが大人というものよ」

「そうなんだ。わかった、描くよ。中学生の君でいいんだね」

「ありがとう。出来上がったら教えて。クロールを教えにまたここに来るわ」

「了解。もし、クロールが出来たら君は僕と付き合ってくれるのかな?」

「それは、今の私にはわからない。中学生の私に、もう一度告白してみて」

「ずるいな、やっぱり、君は」


夢はそこで終わる。目覚めると寝室の一番眼に付く壁に

飾ってある中学生時代の妻の肖像画と目が合う。

隣で妻はまだ寝息を立てて眠っている。

僕は朝のジムに泳ぎに行く。

未だに上手く出来ないクロールの練習をしに。


20170519








一人の居場所 #44




恋の話をしようと思ったけど

それは秘密だったから

きみは誰にも何も話せない


いつも恋は秘密

秘密じゃない恋を

きみは知らない


「秘密じゃなくなった恋なんて、

気の抜けたソーダ水みたいなものだよ」

と彼は言う

「恋は秘密だから、良いんだ」と


わかるような、わからないような


でも、もう秘密は無しにして

秘密じゃない恋を味わってみたい、と

きみは思う


実際、秘密じゃなくなった恋は

泡のようにシュワシュワと消えて行き

それはもう恋とは呼べないものになった


代わりに

世の中にはソーダ水よりも

美味しいものがあることを知った


20170615








一人の居場所 #45



似顔絵を描く

きみが描いて、と言うから

その為に

じっと観察する

目や鼻の位置、くちびるの厚さ、

そんな風に見たのは

はじめてのこと


いくら観察をしても

上手く描けない

出来上がった絵は

全然きみじゃない


試しに

頭の中のイメージで描いてみる

すると

いつものきみが出来上がった


目の前にいるきみに

それを見てもらう

きみは言う

「あなたにはこういう風にみえているの?」

「いつものきみによく似ていると思うよ」

「ありがとう、出来過ぎよ」



20170819








一人の居場所 #46




「私はね、いろんな岐路があったとして、どこかの道を選んで

進んだとするじゃない、でもそれは自分で選んだように思えるけど

実は自分が選ばれただけなんじゃないかと思っているの。

自分の意思とか希望とかではなく。

あなたは、ほんとうに自分で選んできたって思える?

きっと、ここにいるのは、選ばれたからよ。選んできたんじゃなくて。

次にどの道を行くかは、自分では決められないわ。

世界はそういう風になっていると思うの。私がここにいる理由だって

正直全然わからないわ。ただ私なりに生きてきた結果として

いまはここにいるの。思うんだけど、自分では気がつかない

ほんの些細なことも、私たちは選択してきているのよ。

選んだなんていう感覚ではなく、ごく普通に日常的にやってきたことも

本当は全て選択肢があって、その中から選んでいるの。

そういう選択の蓄積に上に、今の私がいるの。

選択っていうとなんだかとても大きな決断みたいだけれど、

そういうんじゃなくて、上手く言えないけど。

そういう些細な物事を自分の意思でひとつひとつ選んできたって言える?」


「いきなり全ての選択を自分でしろって言われても難しいかもしれないけど、

少しでも自分で選んでみると、きっと何かが変わるはずだよ。

今までと全く同じということにはならないと思う」


「わかったわ。じゃあ、とりあえずひとつ選択してみるわ」


「何を?」


「それは、言えないわ。秘密にしておきたいの」


「それで、もう二つ立派な選択をしてるよ」



20171116









一人の居場所 #47




月あかりを頼りに、夜道を歩く

足元に冷気がまとわりつく

この先に安らげる場所があるはずだと

なんとか歩みを進めてみるけれども、

本当のところは、止めてしまいたい

もうその先には何もないのだと誰かが証明してくれたら

どんなに楽かと思う

その誰かが君であったら尚一層、楽になる

from M





時々、

自分の選択が正しかったのかどうか不安になります

ここに、ひとり取り残されてしまったようにも思います

私は、本当は誰かに導いて欲しいと思っているのかもしれません

歩むべき道を誰かに手を引かれて歩いて行きたいんだと

その手が、

あなただったらいいのに

fron W

                    



20171201









一人の居場所 #48




気がつけなかったことが

雨水のようにゆっくりと

君に染み込んでくる


君はただ、気づかないふりをして

乾いていくことを待つ


でも雨は降り止まず

いつまでも君に染み込み続ける


やがて君の全てが雨色に変わってしまった


今の君は

きれいな雨色だけれど

前の君が何色だったかを

君はよく覚えている


本当は

その色が一番自分に似合うということも



20180215









一人の居場所 #49




その指先に触れたいと

その声を聞いていたいと

その瞳に映っていたらいいのにと

考える


毎日が、もっと早く過ぎていけばいいのに

今が、もっと続けばいいのに

昨日を、やり直せればいいのにと

考える


知らないことがたくさんあって

知りたいことがたくさんあって

でも、

知りたくないこともたくさんあって


どうしたらよかったのか

答えが見つからなかったり

ああしたらよかった、って

後悔をしたり


きっと、それは恋だと

みんなは言う


たぶん、それは罠だと

君は思う



20180328






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by ikanika | 2018-04-20 20:17 | Comments(0)

バックシート

昨年の秋以来ですが、

小説をアップします。

秋以降、ずっと書いていて、

今回の物をふくめて三編書き上がっています。

全て大体、五万字前後の今までよりも少し長い物です。

原稿用紙で言うと、100枚から150枚くらいですね。

今までは、少しずつ連載というような形でアップしていましたが、

今回は、一回で最後まで掲載します。


「バックシート」は、

カフェを舞台に、様々な人が登場し、

それぞれの物語が綴られ、

そして、それぞれの物語が少しずつリンクしています。


少し長いので、

お時間のあるときに、

少しずつ読み進めてみてください。


カフェが舞台ですが、あくまでフィクションです。

イカニカでの出来事ではございませんので悪しからず。

ご感想などありましたら、

聞かせてくれると嬉しいです。

では。


cafeイカニカ

平井康二

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バックシート

                                           



 沙夜子は、夜勤明けの午後は必ずマスターのごはんを食べることにしている。カフェに着くと小さな声で「こんにちは」と言い、いつもの席に着き「ごはんと、コーヒーで、お願いします」とオーダーをする。いまの仕事をはじめてから、少しでも身体に良さそうなものを食べないと身体と心のバランスが取れないと感じている。カフェに行く時は、財布と、いわゆる名作と言われる純文学の文庫本だけを持参して、それをペラペラとめくりながらごはんを食べる。時間をかけて食べ終わる頃には夜勤疲れの身体と心が回復してくるのがわかる。ごはんを食べ終わってコーヒーを飲み始めると、大抵はカウンター越しにマスターとおしゃべりをする。まるで儀式のようにそれをもう五年近く続けている。マスターもその儀式に厳かに参加してくれている。今日はランチタイムが忙しかったらしく、マスターが洗い物に専念しているので、沙夜子は持って来た文庫本を開いて目を落とした。読んでいると言うよりは、ただ活字を目で追っているという感じで内容が頭に入って来ているわけではない。夜勤明けの頭にはそのくらいがちょうどよかった。最近、たまにマスターと自分との距離感を、他のお客さんが訝しんでいるような視線を感じる時があるのだけれども、沙夜子は気にしないようにしている。それは、そうすることしか今はできないのだから仕方がないと。祐未がいてくれて三人だったら、こんな風にはならないのに、と時折思ってしまうのだけれど、そんなことを考えている自分が嫌になる。マスターが洗い物の手を止めて、カウンターのすぐ向こう側に立っているのがわかっているのだけれど、沙夜子は、本から目を上げないでいる。真剣に読んでいるわけではないのだけれど。恐らくマスターは、窓際に座っている賑やかな女子学生たちの様子を見ているのだと思う。やがて、一人の男性客が入ってきて「いらっしゃいませ」と言ったマスターの顔に視線を向けてみた。少し苦笑いをして頭を軽く下げたのは、たぶん「うるさくてごめんね」という意味だと思う。沙夜子は、それくらいのマスターの心の動きは、もう手に取るようにわかる。






 午前中の会議がかなり長引いてしまって、優馬は一時半を回った頃にランチに出た。事務所から一番近いカフェは昼時を逃すと日替わりがなくなっていることがあるので、なかったからカレーにしようと決めていた。入り口の手書きのメニューを見ると、まだ日替わりはありそうだった。ドアを開けて店に入る。いつになく賑やかに感じるのは、珍しく向かいの大学の女子学生が三人いるからだとすぐにわかる。マスターと目が合うと、うるさくてごめんね、という表情だとなんとなく伝わってきたので、大丈夫の合図のつもりで右手を軽くあげてみた。マスターに意図は伝わったようで、苦笑いしながら頭を下げていた。いつもの日替わりを頼んで、女子学生から一番遠い席に着く。女子学生三人は、みんなカレーを食べていて、その中の一人がどれだけこのカレーが美味しいかということを残りの二人に熱弁をふるっていた。その女子学生は、日替わりを盛り付けているマスターに

「あたしはカレーが一番美味しいと思うんですけど」と言うのでマスターは苦笑いをしながら

「でもね、この日替わりの方がたくさん出るんだよ」と言う。

「えー?」と大げさなリアクションをして残りの二人に

「リナ、うるさい」と、たしなめられていた。それでも懲りずに

「だってこのカレー、マジおいしい」と言ってスプーンに山盛りにしたカレーを頬張っていた。マスターは、日替わりのお膳を運んできて

「あれだけ褒められるとうれしいよ」と言って笑っていた。学生達の声はとにかく大きく元気なので会話のほぼ全部が聞き取れた。どうやら女子学生達はこの春で卒業のようで、カレー好き女子が

「えー、あともう一回くらい食べにこれるかなぁ、でも、卒業しても食べに来ます」と言うとマスターは、

「いままでそういう奴に限って来たためしがないね」と学生達をからかった。案の定、女子学生は大げさなリアクションで

「なんで、そんな事言うんですかー!来ますよー!絶対、っていうか、マスター、作りに来てください、ウチの会社に」と言うと

「どこだっけ会社?」とマスターが質問を返す。

「栃木」

「無理無理。餃子があるからいいじゃん」とまたマスターはからかう。

「餃子じゃだめ、このカレーが食べたいの」

「じゃあさ、今度、作り方教えてあげるから、自分で作ればいいじゃん」とマスターが言うと、他の二人が口を揃えて

「リナ、無理ー!」と言う。

そう言われたカレー女子は、「マジムカつく」と笑いながら言い、また山盛りのカレーを頬張った。そんな風に、マスターにとっては娘くらいの世代の女子学生と会話をしているのはすごいなぁ、と思いながら会話の一部始終を聞きつつ日替わりを食べていた。

 テーブルに置いたスマホにメッセージが届く。咲季からだ。

「今日、何時くらいになる?わたしは定時にあがれるよ」とある。

まだ昼だし正直何時にあがれるかなんてわからないのだが、そのままを返信してしまうわけにはいかないので、

「まだ微妙だけど、僕も定時目指して頑張る」と返した。自分の頑張りだけで退社時間が決まるなんてことはありえないのだが。

「りょうかい、また連絡して」とすぐに返信が来る。こちらも

「りょうかい」と返す。週に何回このやり取りを咲季としているのだろうか。いっそのこと一緒に暮らしてしまった方がいいのではと考えることもあるのだけれど、まだ踏ん切りがつかない。そこになにかタイミングがあるのかと言われれば、そんなことはないということまではわかっている。でもな、と煮え切らない自分がいる。マスターが水を注ぎに来る。この人は結婚しているのだろうか、子供がいるような雰囲気ではないけれども、モテないわけがないからたぶん、一度くらいは結婚しているんだろうな、とか妄想しながらコップをもつ左手を見ると薬指にリングはなかった。なんだ結婚はしていないのか、それとも指輪をしていないだけなのかなぁ、と思ってマスターの顔を見上げると目が合ってしまった。するとマスターは

「なにか?うるさくてごめんね」と言うので

「いや、違うんです、マスター、結婚してるのかなって」

「昔、してた」とマスター。

「えっ、と言うと、いまは?」

「してない。結婚してるの?」と逆に質問される。

「いえ、まだ」と答えると

「まだ、ってことは、決めきれないとか?」

「わかります?」

「なんとなくね、そんなニュアンスに聞こえたから、合ってる?」

「はい。なんか、毎日今日何時に会える?とか、やり取りするのがもう面倒で、だったら一緒に住んだ方が楽かなとか」


「んー、微妙だな、それ」

「そうなんですか?」

「だって理由がネガティヴだし、一緒に住んだら住んだで、何時に帰ってくる?って聞かれるよ、で、それを面倒だと思ってしまう。結局一緒」

「確かに、そうですね。どうしたらいいんですかね?」

「世の中にはさ、女性から今日何時に会える?なんて聞かれたくても誰からも聞いてもらえない寂しい男子がたくさんいるわけだから、感謝しないと彼女に。聞いてくれてんだよ、会いたいから」

「まぁ、そうですけど」

「贅沢だね、嫌ならやめちゃえ、ってことがアドバイス」

「あっさりしてますね、マスター」

「煮え切らない奴はいつまでたっても煮え切らないよ、きっかけなんてないから。自分で決めない限り。それが責任だよ。お互いにだけど」

「ですよね、マスターはスパって決めました」

「決めたよ」

「どうやってですか?」

「どうもこうも方法なんてないよ。考え方でさ、なんか時々思うんだけど、一緒になるってことをさ、自分の暮らしに相手が加わるとか、所有するものが増えるみたいな足し算的な感覚で捉えている人がいるけど、全然違うと思うんだよ。混ざるの。白に黒が、黒に白がみたいに。そうすると、お互い元の色には戻らないだろ、そういうことだよ。お互いに自分の今の色じゃなくて違う色になるっていうことを受け入れないとうまくいかない。前向きに新しい色になるって思わないといけない。今の色を少しでも残したいって思ってたら絶対無理だね、そういうこと」

「ごちそーさまー」とカレー女子がマスターを呼んだので、優馬が何も返事をできないうちにマスターは、カウンターに戻ってしまった。

 斜め後ろに座っていた若い女性客の携帯電話が鳴ってその女性は電話を持って一旦外へ出て行った。テーブルには、読みかけの単行本が置かれていて、見覚えのある装丁だと思ってタイトルを確認すると池澤夏樹の『スティルライフ』だった。自分も大学の頃に読んで、冒頭の一節が好きで今でも時々チラッと読む時がある。カレー女子学生達は「絶対また来まーす」と口々に言って賑やかに帰って行った。電話をしに出た女性はまだ外で何かを話している。マスターが戻ってきて

「ということ、わかった?」と言うので

「はい、混ざるんですよね、白と黒が」

「そう、大丈夫?僕が言っても説得力ないか」とマスターは笑っている。

「大丈夫です、ありがとうございます」と言い切って、店を出た。店先で電話をしている女性の横を通り過ぎると「あの三曲から絞ろうかな」という会話が聞こえて、一瞬目が合ったような気がしたのだけれど、電話をしながら恐らくただ視線の先に自分がいたという程度の認識だろうと思ってそのまま目をそらして去ろうとすると

「すいません」と電話の女性に呼び止められた。

「間違っていたらごめんなさい、咲季の彼、ですよね?優馬くん?」

「はい」

「わたし、前の会社で咲季と一緒だった片瀬です。片瀬綾です。二回くらい一緒にライブいったり、覚えてます?」

「あっ、はい。ブルーノートとか、東京ジャズ」

「そうです、よかった」

「ここよく来るんですか?」

「はい、時々、本読んだり、静かでいいので。今日はちょっと賑やかでしたけど。優馬くんは?」

「事務所がこの近くで、いつもランチに」

「そうなんだ、で、マスターとあんな話まで」

「やっぱり聞こえてましたよね」

「はい全部。咲季とのことですよね?」

「まあ、でも、もう決めたんで」

「決めた?」

「そう、混ざるって」

「あっ、混ざるんですね」と片瀬さんは、嬉しそうに笑って

「咲季、喜びますね、きっと」と言った。

「チラッと見てしまったんですけど、『スティルライフ』ですね」

「あぁ、あれ。そうです」

「そう。あれ、僕、咲季に薦めたというか、プレゼントしたことありますよ」


「冒頭がいいですよね」

「そうなんです、冒頭がね、いいんですよね」

「関係ないんですけど、さっき学生がカレーが絶対美味しいって言ってたの、本当ですか?」

「カレー美味しいですよ、ここの。僕は野菜を取りたいから日替わりばっかりですけど」

「じゃあ、これからカレー食べて帰ります。ちょっと二日酔いなのでちょうどいいですね」

「そうですね、いいかも」

「では、咲季によろしく。あと、混ざるの、頑張ってください」

「ありがとうございます」

優馬は事務所に戻りながら、咲季に

「今日は、定時で上がるよ」とメッセージを送った。








 打ち合わせに指定された場所は、駅から十分以上歩かなくてならないカフェだった。片瀬さんの指定だから文句を言うことも出来ないので、佐谷木はグーグルマップを片手に見知らぬ住宅街を歩いて、ようやくたどり着いた。大きな大学が目の前にある小さな平屋の一軒家がカフェになっていた。なるほど、女性が好きそうな隠れ家とやらだな、と思って納得がいく。店に入ると白い髭に帽子をかぶったマスターらしき人しかいない。てっきり小柄な女性が白い服を着て出迎えてくれるものだとイメージしていたので少し戸惑う。


「お好きな席に、どうぞ」と言われて店内を見渡すと、味のあるアンティークというか古い椅子とテーブルが整然と配置されている。どの場所も居心地が良さそうで、迷っていると「おひとりですか?」とマスターに尋ねられて待ち合わせだということを告げる。

「あっ、いえ、あとひとり、二人になります、打ち合わせで」と。

「じゃあ、奥の大きいテーブルどうぞ」と薦められて店の中で一番大きなテーブルに座る。メニューと水を持ってきたマスターに

「二人でこの大きなテーブルいいんですか?」と尋ねると、

「平日だし、この時間だから大丈夫」と断言された。

「お見えになってからのオーダーでいいですよね?」と言ってマスターはカウンターに戻って行った。片瀬さんからは十分位遅れるとメッセージが届いていたので、しばらく待つことにする。片瀬さんは、この前の電話で「あの三曲から絞ろうかな」と言っていたのだけれど、本当に納得してそう言っていたのか、仕方なくそう言っていたのかが気になっている。大手通信会社のテレビCMのコンペに出すということで、三十秒の中に必要な言葉を入れ込んだ歌を三バリエーション用意してほしいという依頼だった。歌は大人気の男性俳優件歌手が歌うことが決まっていて、決まればその歌のフルバージョンを作ってシングル曲として発売するという。作家として曲を作り始めてもうじき十年になるのだけれど、ここまで大きな仕事の依頼はほんとうに数えるくらしかなく、今回はどうしても自分の作品で決めたいと思っている。いろいろと声を掛けてくれてチャンスを与えてくれる片瀬さんの為にもそう思っている。カフェの外から片瀬さんが電話で話をしている声が聞こえる。いつも忙しそうに誰かから電話がかかってきて話をしているイメージがある。しばらくして、片瀬さんは「ごめんなさい、お待たせして」と言って向かいの席に座った。

「こんにちは」とマスターが片瀬さんの水を持ってくると片瀬さんも

「こんにちは」と答える。

「何か頼んだ?」

「いえ、まだです、待ってからにしようと」

「そう。お腹空いてたら何か食べてもいいよ、美味しいから、カレーとかも」

「片瀬さん、よく来るんですか?」

「うん、来る。静かでいいのよ、仕事はかどるし、本も読める。電話を無視しても良いような雰囲気じゃない。山の中のリゾートにいるみたいな」


「確かに、そんな感じですね、学生とかは来ないんですかね、大学の前ですけど」

「とりあえず、何か頼もう」

「はい、じゃあ、カレーとコーヒーで」

「了解、わたしはケーキにしようかな」と言って、片瀬さんはマスターを呼んで「彼にカレーとコーヒーで、わたしはコーヒーとチーズケーキ」とオーダーしてくれた。どことなくいつもレコード会社とかアーティストの事務所とかで会う片瀬さんと雰囲気が違って見えるのはこの店にいるせいなのだろうかと思ったので

「片瀬さん、いつもとなんか雰囲気違いますね、ここにいるからですかね」とそのまま聞いてみた。

「たぶん、そう。そういう店なのよ。なんかね、いつもの役割みたいものからちょっとのあいだ解放されるみたいな。店のコンセプトもそんな感じのことがホームページに書いてあったわ」

「へぇ、役割からの解放か」

「そう」

「でも、今日、打ち合わせですよね、例のCMのコンペの」

「そうね、だからここにしたの」

「だから?」

「そう。今度のCMのイメージはこのカフェがベースで作られてるの」

「ここで撮るとか?」

「イメージよ。ここにある空気感があるでしょ、わかる?なんていうかな、ナチュラルとかアンティークとかシンプルとか、かと言って甘くない感じというか、ね。男性ウケもする感じ。こういうインテリアも実は結構値が張るんだけど、きちんと使い込まれて味があって、お金お金という匂いがしないとかね」

「それを曲にも反映したいと」

「正解」

「ハードル高いですね、でもやりがいありますね。良い音楽が出来上がる気がします」

「だから、佐谷木くんにやってほしいの」

「ありがとうございます」と頭を下げた。ちょうどカレーがテーブルに運ばれてきて、片瀬さんの前にはコーヒーとチーズケーキが並んだ。確かに、過不足ないシンプルな器が使われていて、組み合わせもバランスが取れている気がする。そして、美味しい。音楽もいい。春を目前に控えたこの時期にバロックギターが心地よい。カウンターの横の壁には、ジスモンチのLPが飾ってあるから、たぶん今流れているものもECMなのだろう。


「だから、いつもみたいな、ここのメロディをこうしてとか、この歌詞をこうしてとか言う話は無し。ここにいてここを感じてもらうことが目的」

「でも、あの三曲でいくんですよね?」

「そう、基本はあの三曲。でもね、ここにあの三曲がフィットしているか想像してみて。もしどこか手直ししたほうがいいと佐谷木くんが感じたら直していいわ。その判断は任せる。あの三つに絞るまでをわたしの仕事にさせて」

「いいんですか?それで」

「そうする方がいいと思うわ。提出までまだ五日あるから、またここにひとりできても良いし、今日来たイメージだけで判断しても良いしね」

「はい」カレーを食べ終わるとちょうどいいタイミングでコーヒーが運ばれて来た。しばらく店内は片瀬さんと自分の二人だけだったけれども、近所から来たと思える女性が財布と文庫本だけを手にして入って来て、迷いなくマスターの目の前のテーブルに座った。マスターは、「こんにちは」と小さな声で言い、その女性も小さな声で「ごはんと、コーヒー、でお願いします」と言って文庫本を開いた。会話という会話が交わされているわけではないのだけれど、なんとなく親密な空気が二人の間に流れていた。


「佐谷木くん、わたし次があるから行くね」

「あ、はい」

「まだ居るならゆっくりしていけば」

「そうします」

「音源は、いつものとこにアップしておいてくれれば大丈夫だから」

「わかりました。ありがとうございました」

「じゃっ、よろしく」と言って片瀬さんはカフェを出るとすぐにまた電話をはじめた。いつもの役割に戻ったというように。残りのコーヒーを飲みながら、ぼんやりしているとまたひとり女性客が入ってきて、「三人なんですけど」と言って店内を見渡した。三人が座れるスペースは、自分が座っているテーブルだけだったので、席を移ろうとするとマスターがやってきて、

「ごめんなさい、いま、ちょっと、三名様は」と言っている。あきらかにその女性は、自分に移動しろという視線を投げているのだけれど、マスターは頑なに「ごめんなさい」と繰り返し断り続け、女性は帰って行った。マスターは何事もなかったかのようにカウンターに戻って行った。マスターの目の前に座っている女性が、

「相変わらずね、怒ってたよ、あの人絶対」と言うとマスターは、

「あの人たち、ちょっとね」と言って笑っていた。

「客を選ぶカフェね」

「お客さんも自分に合うかどうかをもっとちゃんと考えるべきだと思うよ」

「また言ってる」

「一度来れば分かるじゃん」

「そこまで考えるのは極一部よ、普通は考えないの」

「そんなものかね」

「それでよく続いてるね、この店。それが不思議」

「みんな何らかの方法でお客さん選んでるじゃない、ほんとは」

「まぁ、確かにある程度は、同じ価値観とかを共有している人たちが集まってるって思うと行きやすいけどね」

「そのための一手段だよ」

「まぁ、それで潰れてないんだからいいけど。敵が増えるよ。ネットの書込みとか」

「見ないから大丈夫」

「そう言えばCMの話どうなったの?」

「やるよ。ただ撮影はスタジオに建て込み、って言うんだっけ、セット作ってそこで。だから僕はその監修みたいな感じかな」

「ギャラ出るの?」

「出る」

「たくさん?」

「たくさん。コーヒー何杯入れたらその額になるのか計算できないくらい」

「ほんとに?」

「ほんと。大企業は規模がちがうよ。驚いた」

「でも、それやったらCM見たって言う変なお客さん来ない?」

「そこは大丈夫、セットはこことは全く違うから。空気感は一緒だけど」

「そんなこと出来るんだ」

「だからギャラもらえるんだよ」

「すごいんだね、マスター」

「今さら知った?」

と、会話が続いて行くので、佐谷木はお会計をお願いするタイミングを失っていたが、マスターはそれに気づいて

「あっ、もう行かれますか?」と声をかけてくれた。

「すいません、席」

「大丈夫、っていうか、お客さんがそこに座ってくれてなかったから、あの人たちを断れなかったから、お礼を言いたいくらいだよ」とマスターが言うと

「やめなよ、お客さんに」と女性が咎める。

「あれでしょ、CMの音楽のコンペに出すんでしょ?」

「聞こえてました?」

「店の会話は全部聞こえる」

「そうなんですね」

「僕も選曲に関わるから、もし通ったらまた会えるね」とマスターは言って、さらに

「片瀬さんだから大丈夫な気がするよ、頑張って」と言ってくれた。

「あんまりそういうこと言うと、不正に取られるよ」とまた女性が咎めると

「クライアントなんてそんなに音楽の良し悪しがわかってるものじゃないから。こっち側のプロのスタッフが決めればいいものだから」

「よろしくお願いします」と佐谷木は頭を軽く下げて、さらに「カレー、美味しかったです」と言った。

「片瀬さんも、絶対カレーしか頼まないんだけど、なんでかね」とマスター言って「またね」とまるで家に遊びにきた友達を見送るように入り口で手を振ってくれた。佐谷木は、またここに来ようと思う。CMが決まっても決まらなくてもカレーを食べに





 咲季がここに一人で来るのは、はじめてのことなので正直少し緊張している。店に入ったらマスターに最初なんて挨拶すればいいのだろうかと、まずはそこからだ。いつもは優馬が「こんにちは」と言って席まで案内してくれるので咲季はマスターに軽く会釈をするだけだった。水曜日午後三時半、カフェのドアを開ける。マスターに一番近いテーブルに女性客がひとり座っているだけだ。

「こんにちは」と咲季は自然に言葉が出て来たことにほっとした。マスターが「こんにちは」と返事をするのに被さるようにその女性客も「こんにちは」と言った。お客さんではないのだろうかと訝しんでいると、マスターが

「なんで沙夜子まで、こんにちは、なの?」と笑って言う。

「どうぞ、どちらでも」

とマスターに言われて一番大きなテーブルの角に座った。その沙夜子さんは

「あっ、ごめん、店にいた頃の癖で、つい」

「ほんと自然に言ったよね、今」

「とても、自然でした」と咲季も会話に入ってみた。

「だよね、びっくりした。もう沙夜子に店まかせようかな」

「やだよ、カフェは」

「なんで?」

「だってずっと立ってるじゃん、脚パンパンになる」

「それが理由?」

「あと、料理出来ない」

「だよね、それ致命傷。あっ、咲季さん、何する?」とマスターが話しながらテーブルまで歩いてきてくれた。コーヒーとチーズケーキを頼んでから小声で「ちょっとご相談が」と言った。マスターも「了解」と咲季の小声を真似て返事をした。その感じがなんだかおかしかったので少し吹き出して笑っていると、沙夜子さんは「なんだか、楽しそう。仲間に入れてよ」と言いながら、とてもおいしそうにごはんを食べていた。優馬とここに何度か来ているけれども沙夜子さんに会うのは、はじめてだった。優馬とは土日に来ていたから平日のこの時間に沙夜子さんは現れるのだろうと勝手に想像してみた。するとマスターが、

「沙夜子はね、夜勤明けの午後に身体と心を整えにここに来てごはんを食べる人」と説明をする。沙夜子さんは

「もうちょっと、他に紹介の仕方ないの?」

「じゃあ、元アパレルのプレス、そして、アンティークショップの店長、今は介護士」

「あってるけど、ざっくり」

「あとは自己紹介して」と言ってマスターはコーヒーをドリップしに行った。しばらくしてごはんを食べ終わった沙夜子さんはコーヒーをオーダーし

「よかったら、こっち座らない?」と自分のテーブルに咲季を誘った。どうしようかと、迷っているとマスターが

「ダメ、咲季さんはちょっと僕に相談があるんだって」

「マスター、若くて可愛い子好きだから気をつけて」と沙夜子さんが言うと

「咲季さん、新婚だから。近くのデザイン事務所の優馬くん、知ってるよね?彼の奥さん」

「えー、あのイケメンデザイナー?」

「そう」

「やっぱり可愛い子選ぶね、お似合い」と沙夜子さんは、なんだか嬉しそう。

「で、新婚にして、もう相談?」

「それを、これから僕が聞くの。沙夜子は黙ってて」

「はーい」と沙夜子さんは素直に返事をして文庫本を読み始めた。沙夜子さん以外にはお客さんはいなかったので、チーズケーキとコーヒーを運んで来たマスターは、「今ならいいけど」と行って向かいの席に座った。咲季は、こんな至近距離でマスターと話をするのは、はじめてだったのでメガネの奥の目が綺麗な二重なのを発見して、まじまじと目を覗き込んでしまった。

「なんか、ついてる?顔に」とマスターに不思議がられる。

「いえ、マスター二重なんだなぁ、て」そう言うと、離れたテーブルで沙夜子さんがクスッと笑った。

「沙夜子、耳ダンボになってるよ。本に集中して」とマスターが沙夜子さんに言う。

「ちょっと無理。この広さじゃコソコソ話しても逆に気になる。わたしも混ぜて。黙ってるから。いい?咲季さん」と言ってきたので、咲季は、特に隠すようなこともないと思っていたので「はい」と答え、沙夜子さんもマスターの横に座った。するとなんだか咲季が二人に面接を受けているような絵柄になった。咲季は、優馬のことを相談したかった。どうやら優馬は今の事務所を辞めて独立して自分のデザイン事務所を作ろうとしているようで、結婚したばかりだったので、将来が不安になってしまったのだった。今の事務所にいるからと言って安定していると言えるような職業だとは思ってはいないのだけれど、独立となるとまた話は変わってくると感じていた。マスターがこの話を優馬から聞いているのかどうかは知らなかったが、優馬がプロポーズをしてくれたきっかけもマスターの言葉だったと聞いていたので、こういう大切なことを決めるにあたっては恐らくマスターになんらかの相談をしているはずだと思ってひとりでカフェを訪ねてみたのだった。咲季が本題を話し始めようとするとマスターは

「優馬くんの独立のことでしょ?」と先に言ってきた。やはりマスターには話していたんだと思い

「はい。いつから聞いていました?その話」と尋ねてみた。マスターは

「いつからかなぁ、覚えてないけど、二人が結婚してからとかの話じゃ全然なくて、本当にずっと前。優馬は、あの事務所に入った時から独立のことは考えていて、咲季さんに出会う前にも独立の相談を受けたこともある。さすがにその時はありえないって引き止めたけどね。だってまだ一人前の仕事なんて一つもやってなかった頃だから。あの事務所の社長は昔からよく知っていてね、今みたいにスタッフをたくさん抱えてやり始めたのはここ数年のことで最初は三人だった。その頃に僕は何度か仕事をしていてね。レコードジャケットのデザインをお願いしたりして、すごくいいデザインをしてくれた。元々社長も大手のデザイン会社を若くして辞めた口だから、若手が独立したがることに関しては理解があるはずだけど、最初の優馬の独立話にはさすがに怒っていたよ。あのガキ、なめてんのかって。怖かったよ。それから優馬はどんどんいい仕事をするようになった。社長に激怒されたことで何かを見つけたんだと思う。いまは優馬なしではあの会社は成り立たないと思えるくらいだから。だからこそ今なんだと思っているんだと思うよ、優馬は。社長もある程度は覚悟しているようだし。そうやってまた若手を育てて巣立っていってというのを繰り返して会社は強くなるとか言ってたけど。内心は優馬にあとをついでほしいと思っているのかもしれない。そういうタイミングで咲季さんと結婚した。咲季さんとしては結婚したと思ったら会社を辞める、という風に見えるかもしれないけど、結婚したからこそ、そうするべきだと考えたんだと思うよ、優馬は。守らなくてはならない大切な人がいる、だから。でも、咲季さんがいるからやっていける気がするという面も当然ある、一緒になってやってくれると思っているはずだよ。優馬から相談された時、今度は薦めたよ、独立を。でも条件として、きちんと咲季さんに納得してもらってからにしろともね。勤め人の奥さんとはわけが違うからね、そこを納得してもらえって。だからそのうち話があるはずだよ、優馬から。その時に咲季さんは判断してあげて。どれくらい優馬が本気か見極めてあげて。仕事は大丈夫、絶対どんどん入ってくる。二人でやる覚悟の方が大事だから」

マスターの言葉をじっと聞いていた咲季はここで口を開いた。

「よくわかっているつもりです、優馬が独立したい気持ちは。でもわたしに何かできることがあるのかわからないんです。デザインの仕事なんて全然知らない世界だし、いままで優馬の仕事について詳しく聞いたこともないし。完成した作品は見せてもらったりはありますけど、それは一般の人と同じことで。だから優馬のサポートなんて無理かなって。そのことで彼との関係がおかしくなってしまわないか心配なんです。彼、仕事となると周りが見えなくなってしまうから」

「自然とね、役割は生まれてくるよ。最初から決めている必要はない。大丈夫。とにかく咲季さんが理解してくれて、いざという時の味方だと優馬が思えていれば大丈夫だから」とマスターは言って「なっ」と沙夜子さんの顔を見た。急に振られた沙夜子さんは、「だね」と言って、わたしに向かって大きく頷いた。その感じがなんとなく頼りになるお姉さんという雰囲気で咲季の漠然とした不安は少しほどけていった。

「咲季さん、この人良いこと言ってそうだけど、当の本人はそんなに上手くやれてないからね」

「余計なこと言わないの」

「でもホントでしょ」

「そうだけどさ、咲季さんはそんな僕に相談しに来てくれたんだから、いいじゃんそこは」

「大丈夫、咲季さん?」

「はい、マスターの話が聞きたかったんで」

「ほら」と得意げなマスター。

「よかったね、マスター。可愛い子に頼られて」

「からかうな」

「あのぉ、お二人はお付き合いしているとか?」

「してない」と沙夜子さんが即答する。

「事実婚夫婦を演じたりはするけど、ね?」

「なんですか、それ?」と気になったので聞いてみると

「あれね」とマスターが説明をしてくれた。

「昔ね、三年前くらいかな、店に電話があって、ごはんの予約で、あとちょっと二人でお話ししたいことがあるって、閉店間際に行って良いかと。その人の奥さんが僕にお世話になってるからって」

「怖いよね、その感じ」と沙夜子さんが合いの手を入れる。

「ちょうどその時、沙夜子が今日みたいにあそこのテーブルにいたから、電話の内容を話したら、なんだっけ、妄想不倫、だっけ?とか言って、電話は僕にその妄想不倫をしている奥さんの旦那で、殴り込みにくるんじゃないとか言い出して、だからこの場合、妻帯者の方がいいかと思って沙夜子に事実婚の奥さん役をお願いしたの」

「妄想不倫?」

「そう、カフェに来て、マスターと不倫しているのを妄想するお客様」

「そんな人がいるんですか?」

「それは、こっちの妄想だよ」と沙夜子さんは笑って言う。

「そっか。あと、なんで事実婚なんですか?」

「?、そうだね、普通に夫婦でよかったよね、なんでそうしてんだろう」とマスター。

「えっ、なんか理由があったんじゃないの?」と沙夜子さん。

「いや、別に」

「てっきり事実婚に意味があるんだと思ってたよ、違うんだ」

「でも、マスターの場合、その方が本当っぽい。事実婚の奥さんがいる感じ」

「それって、あんまりいい男じゃないよな、結婚に踏み切れないというか、煮え切らない奴みたい」

「昔の優馬」と咲季は、自分で言ってみた。

「言っちゃった、自分で」とマスターは笑ってくれた。

「あれだね、結局、マスターと優馬くんは似てるんだね、だから、優馬くんのことよくわかるんだよ、自分のことのように」

「そういうこと」

「よかったね、事実婚じゃなくてちゃんと結婚できて」

「はい、マスターのおかげです」

「よかったね、マスター」と沙夜子さんは言ってマスターの肩を叩いた。

「で、その怖い人どうなったんですか?」と話が途中だったので聞いてみた。

「全然いい人。いい夫婦だった。全然怖くなかった。そんなオチ。奥さんが向かいの大学の先生でね」

「そう、長年一緒にいる夫婦ならではのいい話も聞けて。咲季さんにはまだまだ到底真似のできない世界だな」

「よくわからないですけど、なんとなくそのご夫婦みたいになればいいってことですよね」

「三十年かかるよ」

「想像つかないんで、とりあえず三年先にくらいを考えてもいいですか?」

「三年でも立派。わたしなんかその日暮らしだから、ね?」と沙夜子さん。

「まぁ、一緒だな、それは」とマスター。

「やっぱり、お二人、お付き合いしたほうが」

「わたしは、良いよ、毎日美味しいごはん食べれるし、どう?マスター」

「いまでも、ほぼ毎日食べてんじゃん」

「一日三食、全部よ。わたしが料理無理なの知ってるでしょ」

「でもね、気持ちだから、沙夜子のごはんもきっと美味しいよ」とマスターは沙夜子さんにちょっとだけ、今までよりも優しく言ったように咲季には聞こえた。






 佐谷木の曲で決まってくれて本当によかったと片瀬は思う。最終選考で決まらずに悔しい思いをしたことが今まで何度あったことか。佐谷木の音楽センスを買っていた片瀬は、当初、佐谷木本人をデビューさせようと思っていたのだけれど、人前でのパフォーマンスのセンスに欠けていることがわかり、早々に作家への転身を強く勧めたのは片瀬だった。しかし細かい仕事はたくさん決まるものの代表作と呼べるような大きな仕事には恵まれずにもう十年近く経ってしまっていた。佐谷木も腐らずによくやってくれていると思いつつも、いつ辞めたいと言い出してもおかしくないと、片瀬は覚悟をし始めていたのだった。今回のこのCMと、そのシングル曲で佐谷木の名は、業界内で一定の知名度を獲得することが出来て、仕事も選べるようになった。これからは、佐谷木のポテンシャルを維持するように仕事を吟味し、いかに長く活躍させられるかが片瀬の仕事の重要な役割となる。マスターにもお礼というが挨拶に行かなくてはいけないと思い、カフェに足を運んだ。ドアを開けるといつものカレーの匂いがした。カウンターに一番近い席に若い女の子がひとり「美味しいやっぱり美味しい」と言ってカレーを食べていた。片瀬は、いつもの奥の席に座り、メニューと水を持ってきてくれたマスターに立ち上がって

「その節はありがとうございました。お陰様で佐谷木の曲で決まってほっとしています」と丁寧に挨拶をした。するとマスターは

「よかったですね。佐谷木くんも何度か来てくれてます。カレー食べに」

「はい、聞いてます。わたしも今日は、カレーをお願いします。あとコーヒーも」

「了解です。しばらくお待ちください」と言ってマスターは、カウンターの中に入っていった。カレーを食べていた女性は、最後の一口を頬張り、

「やっぱり、宇都宮来てくださいよ、カレー作りに」と言っていて、もしかしたらと思って顔を見ると、やはり以前学生三人でカレーを食べていたうちのひとりだった。一応、社会人になったからか前の印象よりもどことなく落ち着いていて、髪もさっぱり短くしていた。しかし話し方は相変わらずで

「ほんと来てほしー、ウチに」と繰り返していた。

「いつまでこっちにいるの」とマスターが聞くと

「研修は、五日間だから、火曜日。で、木曜からまた出社。だからまた水曜日に来ようと思えば来れる、やってる?」とほぼタメ口。

「やってるよ。水曜なら沙夜子が来るよ、多分」

「えー、あたしあの人好き、あいたい!何時に来れば会える?」とまたタメ口。

「いつもは三時くらい」

「びみょー。帰んなきゃいけない日だから。どうしよー」

「まぁ、でも百パー来るとは限らないから」

「えっ、今聞けないんですか?沙夜子さんに」と今度は敬語。沙夜子さんが絡むと敬語なのだろうかと片瀬は分析をする。やはり女の先輩は敬語ということか。マスターにはタメ口でも。マスターがカレーを運んで来て、

「リナちゃんのおかげで、この方はいつもカレーを頼んでくれるんだよ」と紹介というか話を振ってくれた。そのリナちゃんは、

「えっ、どういう意味?」と今度はタメ口。

「あっ、前にお友達三人でカレーを食べている時に、わたしはここにいて、あなたが、美味しい美味しいってずっと言っていたから、気になってしまって」

「あっ、もしかして、卒業前に来たとき?」ややタメ口。

「そんな感じだったわ、また来れるかなぁ、とか話していたから」

「ですねー、うるさかったですよね、あの時。もう来れないかもって思うとテンション上がりまくりで。でも、本当に美味しいですよね!」と元気一杯だ。片瀬には、その無邪気な元気さが羨ましく、眩しく見えた。

「あっ、どうぞ、カレー」と言って、リナちゃんはマスターのほうに向き直った。 一応気遣いは覚えたようだ。片瀬のスマホには、不在着信とメール受信の通知やラインのメッセージなどか次から次へと表示されていたが、ここにいるときは無視をすることに決めて来たので放っておいて、カレーを食べることに集中した。リナちゃんが急におとなしくなったので何をしているのかと思っていたら急に大きな声で

「夜行で帰る、だから水曜にまた来る、カレーお願いします!」

とマスターに告げた。

「了解。沙夜子も来るつもり、って返事がきた」

「やったー。久しぶり沙夜子さん。まだひとり?」

「自分で訊いたら」

「マスター、なんか知ってたり?」

「だから自分で訊いてみたら、って」

「気になるー。水曜楽しみ。マスターわたしもう行きます。これからカラオケです」

「これから?」

「はい、同期の子たちと。では、また、水曜日。お会計は?」

「カレー千二百円」

「あれ、値上げした?」

「ちょっとね」

「大丈夫、社会人なんで」と言ってリナちゃんはお会計を済ませて、帰り際に私にも「お先に失礼します」と挨拶をして帰って行った。あのくらいの年代だと、カラオケでは何を歌うんだろうと考えてみたが、見事になにも浮かんでこなかった。自分が全くカラオケには行かないのと、こういう仕事をしているのに、ヒット曲にほとんど興味がないのが原因で、果たしてそれでいいのだろうか思う。特に最近は、どんなヒット曲を聞いてもなにも感じなくなっている。以前は、だれが書いた曲なのかすぐに調べてみたり、ただ単純にやられたな、という嫉妬に似た気持ちが湧いてきたりもしたのだけれど。正直、そろそろこの仕事も限界かなと時々思う。十代から二十代の若者に受ける楽曲のディレクションは、もう感覚だけで出来る年齢を超えているのだ。統計とデータで理論武装しておかないと、仕事にならなくなってきている現実がある。だから佐谷木にあの三曲にしぼらせて、こうして採用される結果になったことに心底ホッとしている。あの三曲にしたのはデータなどの裏付けがあったわけではなく、ただ自分が感覚だけで選んだものだったからだ。もし今回、三曲とも落選していたら今後は、自分の感覚だけで作品を選ぶのはやめようとも思っていた。今回はいい結果になったけれども、次もそうなるという保証もなければ、自信もない。果たしていつまで自分はこの仕事ができるのか、漠然とした不安が頭をよぎる。今の仕事以外に自分に何か出来るとは思えないし、はたまた咲季みたいにいい男を見つけて結婚出来るなんてことも全く想像できない。せっかく佐谷木くんがいい仕事を取ったというのに、なぜこんなことを考えてしまうのだろうか。片瀬は、さっきの無邪気なリナちゃんのような時代に戻りたいと思った。何もわかっていないが故の、無敵な時代に。さっきからレコード会社のディレクターからしきりに電話がかかってきている。この頻度は、おそらく緊急なトラブルなのだろうから、そろそろ無視するのはやめておこうと思い、店の外へ出て折り返し電話をした。やはり片瀬の想像通りの厄介な問題が発生していた。佐谷木くんのCM曲のシングルリリース用のフルバージョンの歌入れをしていた大物タレントが、歌詞の一部が自分のイメージではないから変えてほしいと言っているというのだ。つまりは気に入らないと。歌詞も佐谷木くんが書いているので直させることは可能だけれども、その場合、CMありきの曲なので一応クライアントへの確認も必要になって来るのだった。おそらく大企業なので確認作業にかなりの時間がかかると思われ、大物タレントのスケジュールを考えるとリリースまでにレコーディングが間に合わないということになりそうだという。どうしたらいい?と泣きついてきたのだけれど、それは自分が考える立場ではないというのが正直ないところで、直してほしいというのなら佐谷木のケツを叩いて書かせる、というのが自分の役回りでしかないと思った。しかし、その若いディレクターは、なかなか電話を切ろうとはしなかった。話をしているうちにどうやらそのディレクターは、マスターになんとか口利きをしてほしいのだとわかってきた。私に電話をしてきた理由もそういうことだったのだ。制作スタッフのなかでマスターを一番よく知るのは自分だった。加えて、マスターは昔、デビュー間もないその大物タレントの担当ディレクターをやっていたのだった。今回は、全く違う立場での関わりであったけれども、マスターに再会したそのタレントは大いに感動し、CM撮影の現場は終始上機嫌で滞りなく進行したのだった。しかしいざレコーディングとなるといつもの面倒臭い(と若いディレクターが言っていた)こだわりが出てきて、ついには歌詞を変えろとまで言ってきたという。若いディレクターが望んでいるのは、レコーディング現場に何かの理由をつけてマスターに立ち会ってもらい、作業を円滑に進めてスケジュール通りに終わらせたいということだった。ややこしいことになったな、と思ったけれど万が一、楽曲自体が変更になったり、クライアントがヘソを曲げて企画自体がお蔵に入りしてしまったら佐谷木くんの実績にも傷がつきかねないと考え、マスターに話を通すことを了承した。

「ちょうどいまマスターのカフェにいるから話してみますけど」と言って電話を切った。ディレクターは「助かりますー、ありがとうございます。よろしくお願いします」と情けない声を出していた。カフェに戻りマスターの様子を伺うと、ランチで出た食器をせっせと洗っているようだった。他にお客さんはいなかったので、カウンター越しにマスターに声をかけた。急に呼ばれたマスターは、びっくりして振り向き

「あっ、はい、いらっしゃいませ」と反射的言った。

「すいません、私です」

「なんだ、片瀬さんか、なにか追加?」

「いえ、ちょっといいですか?いま」と言って、洗い物の途中だとはわかっていたけれども緊急だという雰囲気を醸し出しつつお願いしてみた。マスターは、なんとなくわかってくれたようで直ぐに話を聞いてくれた。片瀬は、若いディレクターが言っていたことをそのまま伝えた。変な気遣いとか回りくどい言い方をしても業界経験者のマスターには直ぐ見抜かれてしまうだろうと思ったからだ。マスターは、「うーん」と唸ってからしばらく黙って考えてからこう言った。

「いいよ、やるよ。片瀬さんと佐谷木くんの為にね。正直、もうあいつとは関わりたくないけど」と。大物タレントをあいつ、と言った。

「いつどこに行けばいいか、そのディレクターに聞いてくれる?特に事前の打ち合わせはいらないから。その若者と話すとややこしくなりそうだから、任せて下さい、とだけ伝えてくれる?」

「ありがとうございます、マスター」

「深夜のスタジオとかはやだなぁ、眠くなっちゃうから」と言ってマスターは笑いながら洗い物の続きをしにカウンターの中に戻って行った。すぐに片瀬は、ディレクターに電話をしてマスターが快諾してくれたことと、打ち合わせは必要がないこと、任せて下さいと言っていたこと、伝えスケジュールを確認した。

「マスター、いいですか?スケジュールですけど」

「はーい」とまた洗い物の手を止めて来てくれた。

「来週の水曜日の十七時に乃木坂だそうです」

「あぁ、水曜かぁ、リナちゃんくる日だね」

「そうでしたね」と答えながら、マスターの中では、大物タレントとリナちゃんは同じ扱いなんだとなんだかちょっとおかしかったというか、素敵だと思った。

「まぁ、三時に沙夜子が来るから、鍵渡して二人で適当にやってもらって、店は早じまいすればいいか、ね?」と独り言だろうと思って聞いていたら、私に同意を求めて来たので、咄嗟に

「はい、大丈夫かと思います。では、それで先方に連絡しておきます」と仕事のテンションで答えると、

「なんかできる女風な口調だね」とからかわれた。

「チーズケーキ食べる?切り損ねちゃって崩れたものだけど」とマスターはコーヒーのおかわりもサービスしてくれた。マスターみたいな上司というか先輩が常に現場にいてくれたら先々の漠然とした不安なんか感じないのになぁと、思いながらチーズケーキを一口食べる。

「はぁ、美味しい」と思わず言葉が出てしまった。

「ありがとうございます」とマスターは、少し口元を緩めて言った。






 リナは重たいスーツケースを引きずりながらカフェに向かう坂道を登っていた。坂を登りきると右手の路地から歩いて来た沙夜子さんとばったり会った。お互いにしばらく顔を見合わせまま言葉が出てこなかったのでなんだか可笑しくて笑いあってから「お久しぶりです」とリナは挨拶をした。沙夜子さんは、いつものように財布と文庫本だけを片手に、上質そうな生地の白いワンピースを来ていた。相変わらず素敵だなぁとリナは思いながら沙夜子さんと並んで歩いた。

「重そうね、それ」とスーツケースを見ながら沙夜子さんは言った。

「今日、夜行で帰るんだって?マスターが言ってた」

「はい、もう一度カレーが食べたくて」

「それだけの理由?」

「はい、おかしいですか?」

「いや、いいけど。そんなに美味しい?」

「はい、沙夜子さん、食べたことないですか?」

「あるよ、あるけど、なんかいつもごはん頼んじゃう。自分で作れない感じがするから」

「あのカレーも作れませんよ、普通には」

「そうだけどね、感じよ」

「あー、やっと着いた」とリナはスーツケースを持ち上げで入り口の階段を上がると、メニューの横に張り紙がしてあるのを見つけた。「本日の営業は、十六時までとなります」とあった。すでに三時だ。

「沙夜子さん、これ」とリナは張り紙を指差して沙夜子さんの顔を見た。

「大丈夫よ、私たちは」と沙夜子さんは、何も気にせず店に入っていった。いつもよりこの時間にしては賑わっていて、いつも座るカウンター近くの席は埋まっていたので、大テーブルの奥に二人で座った。私たちの姿を見つけたマスターは、片手だけをあげて「いま行くから」とカウンターの中から叫んでいた。女性客ばかりのおしゃべりはマスターの声もかき消されてしまうほどうるさかった。しかし、私たちが席に着くとみんな次々とお会計を済ませて出て行き、結局オーダーをする前には、同じ大テーブルに相席で座っていた女性客が一人だけ残っただけになった。

「早じまいするときに限って混むんだよね」とマスターは言いつつカウンターから出て来て「こっち来る?」といつもの席を片付けてくれた。

「ごはんとカレーを取っておいたけど、いいよね?」とマスターは言って急いで作りはじめてくれた。リナは、その背中に「外に四時までって書いてありましたけど?」と声を掛けた。

「そう、ちょっと行かなくちゃいけないところがあって、戻ってはくるけど、沙夜子と二人で食べてて。沙夜子、鍵渡しておくから、もし僕が遅くなりそうだったから鍵閉めてもらっていい」と言った。沙夜子さんは

「いいけど、どこいくの?」と尋ねる。

「乃木坂、スタジオ。ちょっとだけ顔だして帰ってくる」

「あのCM絡み?トラブル処理?」

「正解」

「ご苦労さま」と沙夜子さんはあっさりと事情を理解したようだったけれどもリナにはなんのことだかさっぱりわからなかった。マスターは私と沙夜子さんにそれぞれカレーと日替わりを出し終えたら、外看板をしまって慌てて出ていってしまった。「戻るから、沙夜子よろしくね」と言って。

 リナは、沙夜子さんと向かい合ってカレーを黙々と食べた。沙夜子さんもお財布と文庫本をテーブルの角に重ねて、ごはんを食べることに集中していた。いつもの軽妙なおしゃべりが無いので、なんか不機嫌なのかなと思ってリナは少し緊張しながら余計なおしゃべりをしないでいた。ごはんを食べ終わると沙夜子さんは自分のお膳をもってカウンターの中に入っていって

「リナちゃん、アイスコーヒー飲む?」と聞いてきた。

「マスターいなくても大丈夫なんですか?」

「アイスなら出来る。ホットは無理。冷蔵庫の状況はだいたいわかるから」

「じゃあ、お願いします」

「かしこまりましたー」と沙夜子さんは冷蔵庫と冷凍庫を交互に開け閉めして、アイスコーヒーを出してくれた。私のカレー皿も下げてくれて、席に戻ってきたので、マスターが何しに出かけたのか詳しく聞いてみた。

「あたしもそんなに詳しくはしらないけど、あの人もともとは音楽プロデューサーとかでしょ、だからいまでも時々仕事を頼まれるみたい。もっぱらトラブル処理だけど、と本人は言ってた。あの人の一言で問題が解決することもあるみたいよ」

「かっこいいですね」

「どうかな、あぁ見えて怖かったみたいよ、昔は。だからみんなをビビらせて解決したことにしてたりして」

「そうなんですかぁ」

「知らないけど、頼られてるのは確かね」

「話変わりますけど、沙夜子さんとマスターって付き合ったりしないんですか?」

「この前も誰かに聞かれた、それ、だれだっけなぁ」

「やっぱみんなそうおもってるんだ」

「あっ、思い出した。イケメンデザイナーの奥さんだ」

「だれですか?それ」

「あのさぁ、あれ知ってる、Sって言う女優さんが出てるお酒のCM、あの瓶のデザインとかやってる売れっ子のデザイナーの事務所がこの近所にあってね、その奥さんがこの前ここに来て、おんなじこと聞かれた」

「知ってます、そのCM。で、沙夜子さんなんて答えたんですか?」

「事実婚の奥さんの役ならやったことあるって」

「事実婚?」

「婚姻届は出してないけど、実質的に結婚しているような状態っていうのかな」

「そうなんですね」

「の、役だよ、役、演じたの」

「状況がさっぱりわかりません」と言うと

「ずいぶん昔の話だけど。説明すると長いからさ、洗い物しながら話すよ、一緒にやろっ、そのうちマスターも帰ってくると思うから」と沙夜子さんに言われて、なぜだか沙夜子さんと二人でカフェの洗い物をしながら、その事実婚話を説明してもらった。話の中で一番印象に残ったのは、マスターは事実婚が似合う、と言われたということ。言われれば確かに事実婚っぽい、とか考えていて、ちょうどほぼ洗い終わり食器も棚にしまいきった頃に、沙夜子さんの言う通りマスターが帰って来た。「ほら、来た」と沙夜子さんは言って中からドアの鍵を開けた。

「おかえりー」という沙夜子さんはまるでやはりマスターの奥さん(事実婚の)のようだとリナは思った。

「リナちゃんと洗い物しといたよ」

「ありがとう、悪いことしたね、コーヒーでも挿れるよ」とマスターが言うのでリナは

「アイスコーヒーもいただきました」と沙夜子さんのほうを見ながら答えた。

「やっぱり、もう沙夜子にまかせられるな」

とマスターが言うと、すかさず沙夜子さんは

「だから美味しいもの作れないって」と言って氷だけになってしまったアイスコーヒーのグラスのストローをすすった。





 佐谷木は、突然カフェのマスターから連絡があってびっくりした。本当なら片瀬さんから先に事情説明があって、その後に電話がかかってくるはずだったのが、少しだけ順番が逆になってしまったということが後でわかった。マスターと話している時にキャッチでかかってきていたのが片瀬さんからの電話だったのだ。要件は、例のCM曲の件だった。片瀬さんからも、もしかしたら少しだけ手直しをお願いするかもしれないから、すぐ取りかかれるようにこの一週間のうちに締め切りのある仕事は受けないようにすると言われていた。マスターの話は、かなり具体的で、これからスタジオで歌入れがあるのだが、場合によっては、歌詞とメロディーを一部変えるかもしれないということだった。実際に変える箇所とその内容を三パターン教えてくれて、もし、その中のどれかになっても君は大丈夫か?君の作品として世に出しても大丈夫か?ということだった。正直どの変更パターンも、佐谷木には許容範囲で、もっと言ってしまえば違いは微々たるもので、指摘されなければわからない程度話のものだった。マスターは、できる限りオリジナルのままいくつもりだけれど、と言ってから、「ありがとう、また結果はすぐ知らせるから」と電話を切った。佐谷木は、マスターが示してくれた変更パターンを再度確認しつつ、プロというのはここまで細部にわたってこだわるのかと、かなりショックを受けた。それとも、それはマスターに限ってのことなのか、現場でどういう作業が進行しているのか気になって仕方がなかった。その日の深夜に、OKテイクの仮ミックスという音源が片瀬さんから送られてきた。すぐに開いて聞いてみた。マスターが示してくれた変更パターンはどれも使われていなくて、オリジナルのまま歌われていた。後で、片瀬さんが教えてくれたことだが、大物タレントは歌詞を変えたいと言い出していたが、いざレコーディングの現場にマスターがいることを知ると、そんなことは言ってないとうような顔をして、オリジナルのままを素直に歌ったのだそうだ。いったいマスターは昔そのタレントに何をしたのだろうかと、その現場にいたスタッフ達の間ではしばらく噂になったそうだ。いずれにしても無事に佐谷木の楽曲がCMに使われてシングル曲としてリリースされた。何か環境が変わったかと言えば変わったかもしれないが、実際、多額のお金(と片瀬さんが言っていた)が振り込まれるのは半年以上先ということなので生活自体は何も変化はない。自分がテレビやCMに出ているわけでもないから街を歩いていても誰からも声をかけられることもなく、気兼ね無くコンビニで買い物も出来る。買い物をしていると店内のBGMに自分の曲が流れることもあって、レジでお金を払いながら、この曲は僕が書いたんだよ、と心の中でレジのバイトさんに話しかけてみたりする。実際にそう言ったらどんな顔をするだろうか、えーっ、すごい、か、ヤバイ、頭がおかしい奴が来た、かのどちらかだろう。たぶん後者の方が多い気がすると自分でも思うから実際には黙っている。作家というものは、そこそこ売れてもこういう環境は変わらないのだろうと思うと、なかなか良いものだと改めて思った。マスターから電話をもらって以来、カフェに行っていない。そろそろカレーが食べたいと思っているのだけれど、片瀬さんが、今度一緒に行ってお礼を言おう、と言うのでひとりで先に行くわけにはいかず、片瀬さんからの連絡待ちになっている。コンビニでもカレーを買うのを我慢する。大きな仕事が無事に終わった後に、最初に食べるカレーは、マスターのカレーであるべきだとなんとなく思うからだった。






 優馬が辞めた穴をどう埋めていこうかと、野田貴之は秘書の宅間さんともう一時間以上議論している。実際に優馬から辞表が出されたわけではないのだけれど、ほぼ百パーセント辞めるのは確実なのだった。宅間さんは、まずは求人を出す事が一番だと考えていて、野田はこれを機に事務所の仕事の内容を見直したいと考えている。自分もデザインがしたくてこの会社を作ったはずなのに、規模を大きくする方向に会社をもっていきだしたら経営者の雑務に追われ、現場から遠ざかってしまっている現状に嫌気がさしているのだ。規模を縮小するなんて経営者がやることじゃないという宅間さんの言い分ももっともなのだけれど、野田は、もう一度、自らデザインをしたいという気持ちの方が優っていると自分ではわかっている。しかし、いまのスタッフ達の生活も考えなくてはならない。だから結論が出ないのだ。カフェはランチタイムを過ぎているので、お客さんは自分たち二人の他には、女性客がひとりしかおらず、マスターも手持ち無沙汰にカウンターに座って本を読んでいる。おそらく自分たちの会話は全て聞こえているだろうと思い、野田はマスターに声をかけた。

「どうしたらいいと思う?マスター」と。

「野田さん、決めてるでしょ、結論」

「そうなんですか?」と宅間さんは怖い顔をする。

「宅間さんも、わかってるでしょ、野田さんの性格。そうしたいと思ったらもうそれだけ。だから、そうするための段取りとか、方法を具体的に決めていけばいいんじゃない」

「野田さん、どう決めてるんですか?」と宅間さんが詰め寄ってくる。仕方なく野田は

「小さくする。最初みたいに」と答えた。

「あぁ、言っちゃった」と宅間さん。

「最初、三人でやってたみたいに。僕と喜一、と宅間さん」

「いまさら三人だけで何が出来ますか?私だってもうマック使いこなす自信ないです。喜一もあんまり無理のきく身体じゃないし。野田さんできますか?デザイン」と宅間さんはいつもまっとうな事を言ってくれる。

「やりたい、それだけ。出来る範囲で。考えてるのは、今年入ったミナちゃんだけ残して、四人でやる」

「他のスタッフは?」

「知り合いに紹介するか、優馬のところに行ってもらう」

「野田さん、そこまで決めてるなら、もう優馬を呼んで話したら。あいつ奥さんのこと気にして煮え切らないでいるから。この前、咲季さんが来たんだよ、どうしたらいいでしょうって。あれからひと月くらい経つけど、なんにも言ってこないから、あいつにはちょっと、背中を押してやることが必要な気がする。ちょっとだけね。あいつの才能を生かすには」

「最後まで手がかかるな、あいつ」と野田は言ってみたが、

「野田さんも、そうだったよ、独立する時」とマスターに言われて、確かにお世話になった社長に呼び出されたことを思い出した。

「喜一には、話したんですか?」と宅間さん。

「あぁ、あいつは僕に任せるって、いつもそう」

「らしい」

「一応、もう絵だけで食っていけるから、付き合ってくれなくてもいいと言ってみたけど、やだ、って。一緒にやるって。なんかひとりで黙々と絵だけ描いてるの嫌なんだって、さびしんぼうだから、仲間に入れてほしいって」と喜一の意向を宅間さんに伝えた。 宅間さんは、黙って手元のペンをいじって何かを考えている。

「喜一くん、あの渋谷の壁画そうだよね?」とマスターが沈黙を破ってくれる。

「そう、ああいう仕事が入ると全く会社の戦力としてはあてにならないんだけどね。だからミナちゃんが要る」

「わかりました。よろしくお願いします」と宅間さんは、野田を正面から見つめそう言って、深々と頭を下げた。

「ちょっと血糖値上げたいんで甘いものたべていいですか?」と宅間さんは言い、ガトーショコラとチーズケーキのハーフ&ハーフを、野田もつられてチーズケーキを半分だけ頼んだ。マスターは、ケーキを出すと奥に座っている女性客とこちらには聞こえないくらいの小さな声で話をはじめた。どことなく親密な空気感がその二人には漂っていると野田は思った。宅間さんは、ケーキを食べながらずっと黙っている。さっき、よろしくお願いします、と言われたきり事務所の話題を持ち出していないのだけれど野田はもう少し具体的な相談を宅間さんにしたいと思っていた。しかし、なんとなく今日は、もうその話題は終わり、というような空気感が宅間さんに漂っているのだった。こういう場合、下手に話題を再開すると、宅間さんは機嫌が悪くなってしまうということを野田は経験上よく知っている。それで何度喧嘩をしてしまったかわからない。ケーキを食べて落ち着いている宅間さんをわざわざ怒らせる必要もないかと思い今日はこのままおとなしく帰ろうと思った。すると宅間さんが小さい声でボソッとと言った。

「マスターと話している人、誰ですか?」

「さぁ、知らない」

「なんか、いい感じ」と宅間さん。

「やっぱり、そう思う?」

「思う」

「だよね、今度聞いてみる」

「文庫本と財布だけもった、上質な白いワンピースね」

「了解」






 沙夜子は迷っていた。今勤めている介護施設から正式な職員として働いて欲しいと打診をされていた。パートという今の立場は、収入的には不安定だけれども、自分の時間を自由に使えるという気楽さもあって、正直、満足もしていた。施設の理事長は、とても素敵な女性でいつも母親のように沙夜子のことをあれこれ気にかけてくれていて、沙夜子も大学生の時に亡くした母親の面影を理事長に重ね合わせて見てしまうこともあった。今回の打診も理事長自らの希望だと聞かされていたので、どうにも自分一人では判断がつかなかった。こういう時の相談相手として、真っ先にいつものカフェのマスターが思い浮かぶのだけれど、いろんな人の身の上話を散々聞かされているのを知っているので、自分までもがこういう相談をして良いのだろうかと、二の足を踏んでいた。やはり、今日も近くのデザイン事務所の社長が、今後の会社のことやスタッフのことをあれこれとマスターに相談をしていた。沙夜子は、ごはんを食べ終え、コーヒーもほぼ飲み終わってしまったので、持ってきた文庫本に目を落としていた。この本は、もう何度も読んでいて、どこを開いてもストーリーの展開は分かっているので、文字を追って言葉のリズムを楽しむような読み方をしている。自分の血液の流れるリズムと言葉の持つリズムが同機してなんとも形容しがたい心地よさが生まれるのを楽しむのだ。大学に入るくらいまでは読書は苦手だと思っていたのだけれど、言葉のリズムと自分のリズムとが同機する快感を味わってからは、本を買うようになった。書店で気になったタイトルや装丁の本をランダムに手にとって書き出しの三行くらいを読めば、ほとんどの場合、自分のリズムと同機するかどうかという判断がつくのだけれど、時には三ヶ月近くそういう本に出会えないこともあって、そういう時は何度も読んでいる本を持ち出すことになる。しばらくするとマスターはデザイン事務所の社長との話を切り上げて、隣に座った。

「で、どうしたの?」とマスターは小声で聞いてきてくれた。私も小声で、理事長からのオファーの話を手短に説明した。自分の気持ちが定まらないということも。

「定まらない理由はなんだろう?」というのがマスターの一言目だった。

「いまの状態でなんとなく満足してるから」と沙夜子は答える。

「いまの状態って?」

「パートで、時間に自由がある」

「そう。でも、理事長の申し出だから悩んでるってこと?」

「そう」

「やってみてさ、違うなって思ったらまたパートに戻れば。もしかしたら、その理事長が沙夜子が正規で働いてくれることにものすごく喜んでくれてさ、なんか更に良い関係になれれば財産だし、もしかしたら正規のスタッフになったらちょっと今までとは対応が違ってくるかもしれないし、それはやってみないとわからないことだから。変な言い方だけど、あまり人を信用しないほうがいい。最終的には自分のためになるかどうかでいいよ。それは、単純に正規スタッフで安定するということや、理事長が喜んでくれることで沙夜子が幸せになれるということも含めて。誰かの為とかでスタートすると失敗する気がする」

「そうかぁ。なんか久しぶりに誰かに本当に求められてる気がして、嬉しいのはうれしいんだよ」

「わかる。あと、いまの気安い生活もずっとだと飽きるよ、きっと」

「それも、わかる。あまり構えないでやってみればいいかなぁ?」

「うん、たぶん。やっぱり理事長と合わなかったとかになったら、うち来てよ」

「出た!だから料理できないの。それとも、それ、プロポーズ?」

「かもね」

「マスターにしては、下手ね」

「確かに」

と二人でコソコソ笑っていると、デザイン事務所の社長がお会計をして帰ると言って立ち上がった。一緒にいる女性は、沙夜子と目が合うと、軽く挨拶めいた感じで少し頭を下げて先に店を出ていった。恐らく、マスターとの会話を聞いていたせいで、そんな風になったのだろうけれども、盗み聞きされたというような罰の悪さを感じるということは全くなく、どちらと言えば、後押しをしてくれているというような信頼感のようなものを沙夜子は感じた。二人が出ていったので、沙夜子はさっきの女性についてマスターに尋ねてみた。

「宅間さんっていって、野田さんの秘書。でも、もともとは彼女。立ち上げからずっと一緒にやってて、一時期は結婚するとかしないとかいう話しも出てたけど、今はあんな感じ」

「あんな感じ?」

「長年連れ添った夫婦みたい」

「確かに」

「宅間さんはすごく優秀だから、野田さんは絶対に手放さないって言ってる、だから奥さんに尻に敷かれている感じが出ちゃうんじゃないかな、二人だけだと」

「あたし、あの人好き」

「わかる気がする、なんか似てる」

「そう?」

「尻に敷きそう」

「マスターも敷かれたい口でしょ?」

「そう野田さんタイプ」






 片瀬さんからカフェに行こうと誘いがあったのは、あのCM曲がリリースされてから二ヶ月くらいが過ぎてからだった。その間に何度かコンペに提出する曲や小さなCMの仕事の連絡はあったのだけれど、事務的な連絡を手短に済ますだけで、カフェに行く話にはならなかった。佐谷木は、片瀬さんは忘れているんだろうかと思いはじめていて、そろそろ一人でマスターのカレーを食べに行ってしまおうかと考えていた時だった。「明日空いてる?」と片瀬さんはいつもの忙しい時の勢いで電話をしてきた。こういう時、佐谷木はとりあえず「空いてる」と答えることにしている。余程の予定でない限り、片瀬さんの誘いを最優先にして他の予定を調整する。そうでもしないと次に片瀬さんから誘いが来るのがいつになるかわからないからで、場合によっては二度と同じ誘いがないまま時間が流れていくことになるという経験を何度もしてきている為だ。「二時半にマスターのカフェで。カレー食べよう」と現地での待ち合わせをして電話は切れた。マスターに会うことを考えると佐谷木は少し緊張した。今までは、片瀬さんの知り合いのカフェのマスターで、昔、音楽関係の仕事をしていた人、という認識止まりだったのだけれど、この前のCMの仕事の時にもらった電話があまりにもプロフェショナルな感じだったからだ。約束の水曜日に佐谷木は五分ほど早めにカフェに入った。入れ替わりに女性が一人席を立って出ていった。佐谷木は見たことがあると思い、あっ、と小さな声をだしていた。「こんにちは」とその女性は言って佐谷木を正面から見つめた。以前会った時と同じように文庫本と財布を持っていたので、佐谷木も間違いなくここで会ったことがある人だと分かって

「こんにちは」と挨拶をした。

「CM、よく見ますよ」と言われて、佐谷木は

「どうも。マスターのお陰で」と言い、カウンターにマスターの姿を探した。その会話を聞きつけてマスターも出てきてくれて

「沙夜子、お店の常連さん」のその女性を紹介してくれた。

「とりあえず、今は。ごゆっくり、私はかえります」と沙夜子さんは佐谷木とマスターに交互に視線を投げ、帰って行った。マスターが黙ったまま沙夜子さんの後ろ姿をずっと見ているので「どうかしました?」の佐谷木は尋ねた。

「いま、とりあえず、今は、って言ってたよね?」とマスターに聞かれたので

「はい、そう言ってました」と答えた。その言葉に何の意味があるのか佐谷木にはわからなかったが、マスターは「だよね」と言って深く息を吐いた。

「どこにしますか?」と尋ねられたので

「片瀬さんと待ち合わせで」と答えると、一番大きなテーブルに案内された。オーダーはカレーと決まっているのだけれど片瀬さんが来るまでぼんやりメニューを眺める。しばらくすると店の外から片瀬さんが電話をしている声が聞こえてきた。片瀬さんは、メールやラインではなくほとんどの場合、電話で要件を済ます。「その場で解決しておかないと忘れるから」と「相手の感情がよくわからなくてモヤモヤする」というのがその理由だと前に教えてくれた。なので片瀬さんはいつも誰かと電話をしているという印象で、それもかなり強い口調とよく通る大きな声で相手を圧倒している感がある。万人が美人だと認める容姿をしているので、周りの男性たちは、一度はフラフラと寄っていくのだけれど、仕事の電話をしている片瀬さんを見ると怯んでしまって少しずつ距離を置くようになる。いつか自分もあんな風に電話でやり込められるのではという要らぬ想像が働くのだ。(これは片瀬さんに言い寄ったことがあるというレコード会社の人が言っていた)

「お待たせ」と片瀬さんは言い、向かいの席に座って、大きく息を吐いた。さっきのマスターの吐いた感じとそっくりだと佐谷木は思った。片瀬さんはまたすぐ立ち上がって「来て」と佐谷木を手招きしてマスターのいるカウンターまで行き

「マスター、お礼が遅くなってすいません。その節はありがとうございました」と頭を下げた。佐谷木も真似て頭を下げる。他にお客さんがいたら、なんとも奇妙な光景だったろうけれども幸い佐谷木と片瀬さん二人だけだった。かなり体育会系だなぁ、と頭を下げながら佐谷木は考えていた。マスターは冗談めかして「押忍!」と答えてから

「でも、よかったよね、オリジナルのままいけて。あいつの言う直しはセンスないから」とまた、例の大物シンガーをあいつと言って笑っていた。カレー二つとコーヒーも二つ頼んで席に戻ると、テーブルの上の片瀬さんのスマホの画面には何軒ものメールの受信を知らせる表示が出ていた。片瀬さんはチラッと画面を見てからスマホを裏返して「しばらく無視」と言って微笑んだ。こういう表情や仕草はやはり美人がやると様になっていて素敵だなぁと佐谷木も思ったりするのだけれど、未だに片瀬さんを目の前にするとかなり緊張するのだった。

「お腹すいたね、もう三時よ」

「はい」

「佐谷木くん、ちょっと私、考えてることがあってね、とりあえず聞いてくれる?」

「はい」

「佐谷木くんさぁ、自分で歌ってみない?裏方の方が良いって言っておきながらいまさらだけど」

「そうですね、いまさらですけど」

「なんかね、ちょっと時代も変わって来ていて、表に出なくても売れる気がするの。ネットだけとかで。私がこの仕事を始めた時とは時代がもう違うなって最近さらに感じていて、今までの方法論とか考え方ではないところで結果が出ているなって。でも、作品が良くなくちゃダメなんだけど。逆にいうと、作品が良ければ大丈夫ってこと。ビジュアルとか露出方法とかに左右されないでいけるというか」

「はい。でも、それって、作品が絶対的にというか、圧倒的に良いってことじゃないですか」

「そうよ。だからそれをやるの。圧倒的に良いやつを。やりたいでしょ?本当に音楽が好きでね、この仕事を始めたのに、いつの間にか純粋に良い音楽だけを追求する仕事じゃなくなってしまったなって思っていて。このままだったら後悔するなって、私。この前みたいな大きなタイアップの仕事も良いんだけど、やっぱり大事にすべきポイントが違うのよね、ああいうのは。だからね、佐谷木くんがどうしたいというより、私がやってほしいってことかもしれないけど」

「どうしたんですか、急に」

「急に思いついたわけじゃないの。ここしばらく、ずっと考えてたの。このままいつまでこういう仕事ができるのかなって。佐谷木くんと私、ずいぶん歳が離れてるのよ、わかってる?いつまでも若いつもりで、佐谷木くん達の世代と共通の価値判断が出来ると思ったら、それは無理なの。そこが分かってるから、どうしようかなって。今ね、佐谷木くんに勢いがあることは分かる。それは長年やって来た感覚で間違いはないの。だから今やっておくべきだなって。でもなかなかそういうタイミングで作品づくりの機会に巡り合うことも無かったりして、終わってしまう人のほうが多いの。基本はね、佐谷木くんが良いと思うものを作ってもらって良いわ。私達はそのためのお膳立てというか、交通整理みたいなことをやる」

「私達って?」

「私と、マスターよ」

「えっ、マスター?」

「そう、ここにいるマスターよ。もう頼んであるから大丈夫。大丈夫っていうか、マスターがね、私に、佐谷木くんの作品作ったらどう?って言ってくれたの。私がこの先どうしたらいいかって相談したら。それで、いろいろ考えた結果」

「マスターが何かしてくれるんですか?」

「そう。簡単に言うと、ディレクターというかプロデューサーというか。昔みたいに。どう?」

「どうもこうも、ないですけど」

「けど?」

「ちょっと怖い、っていうか、さらに緊張する、っていうか」

「さらに?」

「片瀬さんとでさえ、僕、緊張してるんですよ、だからマスターは、ちょっとヤバイなぁって」

「大丈夫よ、いまはもうただの優しいおじさんよ、音楽通の」

「誰がただのおじさん?」とマスターがカレーを持って登場した。

「佐谷木くん、よろしく。僕はただ片瀬さんに雇われた現場監督みたいなものだから、全ては片瀬社長次第だよ」

「いや、マスターのディレクション厳しいから、私の出る幕はないかと思ってます」

「とりあえず、カレー、食べて」とマスターは言ってまたカウンターの中に戻って行った。佐谷木はカレーを食べながら、あのCM曲の直し案の確認をしてきた時のマスターからの電話のことを思い出していた。あんな風に自分の時も細部にこだわって聞いてくるのかと想像すると怖くもあり、楽しみでもあった。とりあえず今あるストック曲を全部マスターに聞いてもらうことから始めることになって、その日はあまり具体的な話はぜずに終わった。帰り際に、片瀬さんはマスターに深々と頭を下げ、さらに固く握手を交わした。そんな片瀬さんは今まで見たことがなかったので、佐谷木は戸惑ったままカフェの入り口に立っていた。

「さあっ、行こう」と片瀬さんはいつものように早足で歩き出し

「なんか楽しくなってきた。佐谷木くん、よろしくね」と言って、また電話で話し始めた。佐谷木は、片瀬さんの後ろを歩きながら、何かがはじまったのだということがようやく分かってきて、少し身震いがした。






 野田社長と宅間さんと二時間近く会議室に缶詰めになっていた優馬は心底疲れ果ててカフェに入った。午後のこの時間によく見かける白いワンピースの女性がカウンターのすぐ近くの席で本を読んでいるだけで、他にお客さんは居なかった。マスターは、ひとこと「お疲れ」と言って水を出してくれた。とりあえずコーヒーを頼んで、椅子に深くもたれかかり、野田社長と宅間さんの言葉を思い返す。結局は独立に関しては了承という以上に応援してくれるようだったけれども、同時に今の会社の規模を縮小すると言って、スタッフを一部引き受けて欲しいという話まで出てきた。そうなると独立というよりも今の会社を分社化して、その一方を優馬が代表を務めるということとあまり変わらないのではないかと思えてきたのだった。咲季と二人で新たに始める会社というイメージとはかなり違ってくる。確かに、野田社長の言うような形を取ればすぐに仕事はあるわけだし安定はするので、咲季も安心するだろうけれども、優馬はなんだか面白くなかった。苦労を買って出たいなんていうわけではないが、何か大きなものに絡め取られているようで独立という言葉の持つロマンというか野望というようなワクワクする感じが無いのが物足りなく思えた。野田社長は多分マスターには会社のことを相談していて、規模を縮小する話も、優馬の処遇に関しても既に知っているはずで、今のこの疲れ果てた自分を見れば何があったかを察知しているんだろうなと思っていたら、案の定、サービスでケーキを出してくれて、

「独立の話、まとまった?」と声をかけてきてくれた。

「はい、でもなんだか独立というより分社化って感じです」

「まぁ、確かに。でも、咲季さんは安心するんじゃない、とりあえず」

「そうだと思います」

「いい話だと思うよ。野田さんの親心だからさ、わざわざリスクを背負う必要ないから」

「そうですよね、普通は。でも、独立っていうワクワク感がないというか」

「わかる、けど今は、それは要らない。徐々に自分の形にしていけばいいじゃん。なんだかんだ言っても優馬の会社になるんだから。好きなように変えていけばいい」

「はい」と優馬は返事をしてみたものの、すっきりと受け入れるには少し時間が必要だと感じていた。

 白いワンピースの女性は、さっきからずっと文庫本に目を落としたままなのだけれど、なんとなく本を無心に読んでいるという感じではなくどこか上の空でただ活字を追っているだけといった雰囲気が伝わってくる。しばらくぼんやり見ていたら、こちらの視線が気になってしまったらしく、その女性は優馬の方に視線を向けて軽く会釈をするような仕草をして、また本に目を落とした。スマホに咲季からのメッセージが表示される。「今夜は、片瀬さんとご飯に行くので、夕飯は冷蔵庫にあるカレーでね。お願いします」と。そうだった、と咲季の予定を思い出す。ずいぶん前にここで偶然会った片瀬さんのことを咲季に話をしたら、その後、二人は連絡を取り合い頻繁に会うようになって、昔、会社で同僚だった時の以上に仲良しになっていた。あの時以来、このカフェでは片瀬さんに会っていないが、咲季の話だとよく利用していると言っていた。片瀬さんはずいぶんとやり手のプロダクションの社長だと咲季から教えられていたので、少し話をしてみたいと優馬は思っていた。独立に関して不安があるわけではないのだけれど、同じように個人で事業を始めた先輩から何か有益な話が聞ければいいと考えていた。優馬も見たことのあるCMで使われている有名な歌手の歌は、片瀬さんがマネージメントをしている作家の作品だと、咲季は自慢げに説明してくれた。加えて、その歌手はここのマスターが育てたのだとも。その育てたという意味が優馬にはよくわからなかったし、話している咲季もきちんとその意味合いが分かっていた風でもなかったので、機会があったらマスターに直接尋ねてみようと思っていた。優馬は、咲季に返信をする。「了解!いまマスターのとこでお茶してる」と。すぐに咲季から

「マスターに、よろしく。今夜、片瀬さんと会います、とお伝えして」と帰ってくる。「了解」と優馬の返信で終わる。

「今日、咲季が片瀬さんと食事に行くと言ってました。マスターによろしくお伝えしてと」

「そう、今夜行くんだ」

「あの二人、妙に仲良くなって」

「もともと同僚でしょ」

「でも、会社辞めてからは会ったりはしてなかったと思います。マスター、あのCMの曲歌ってる歌手、育てたって、ほんとですか?」

「育ててないよ、ただデビュー当時の担当。最初に出会ったプロデューサーとかは、本人にとっては恩人というか怖い相手なんだろうね。向こうは右も左もわからない新人だから」

「そうなんですね」

「だからいまだに僕の言うことはよく聞くよ、あいつは」

「片瀬さんて、よく来ますか、ここに」

「そうね、来るけど、忙しくなるとパタッと見なくなる。この前久しぶりに来たけどね。それこそ、あのCM曲の作家と。今日も咲季さんと会うってことは、いまはそんなに忙しくないのかね」

「ですね。一度、片瀬さんと色々話してみたいと思ってて。独立のことで」

「あぁ、いいかもね、業種は違うけど、開業組だもんね。片瀬さん、やり手だし」

「やっぱり、やり手ですか?」

「やり手、って言うと響きが微妙だけど、熱意があってセンスがある。なんとなく上手くやれる空気感がある、彼女との仕事は。そんな感じ」

「いいですね、理想です」

「咲季さんも、それを感じて仲良くなったんじゃない。頼れる感じがね」

「そうなんですか?」

「僕はそう思う。優馬と一緒にやるために何かを得ようとしてるんじゃない、彼女なりに、ね」とマスターは、カウンター前の席で本を読んでいる女性に話を振った。女性は顔を上げて

「そうね」と優馬の目を見ながら答えた。優馬は少し緊張して

「はい」とだけ言ってマスターを見る。

「沙夜子はね、咲季さんが相談に来たときも偶然居て、一緒に話を聞いてもらってよく分かってるから大丈夫」

「あっ、沙夜子さんですね」

「優馬くん、知ってたっけ?」

「いや、咲季がマスターと一緒に話を聞いてくれた沙夜子さんという人がいて、って言っていて、あの人なんか好きだなって」

「あら、嬉しい」

「なにその、おばさん口調」とマスターが突っ込む。

「確かに、おばさんみたいだった、やばい」と沙夜子さんは少し赤くなり、照れながら笑っていた。優馬は咲季が好きだと言っていた理由がなんとなくわかる気がした。

「沙夜子、イケメンを前にするとおかしくなるからな」

「しょうがないよ、イケメンはイケメンだから。そういうマスターも若くて可愛い子の前だと変わるよ」

「そうなんですか?」

「現に、咲季さんには、すごい優しいから」

「旦那の前で、やめてくれる、沙夜子」

「ごめんー」と沙夜子さんはまた無邪気に笑い優馬を見た。

「私たち、咲季さんと優馬くんのこと、大好きだからね、親戚の伯父さん伯母さんみたいに」

「そうだね、親まで歳は離れてないから」

「ありがとうございます」と優馬はその瞬間独立の不安や迷いが和らいでいったように思えた。






 リナは試用期間を終えて、やはり東京に帰ろうと決めた。東京に何かがあるというより、写真が諦めきれないのだった。写真で食べていけるなんて夢だよ、という周囲の声に諭されて就職をしてみたけれど、日に日に写真への思いが大きくなっていく自分をもうどうすることも出来なくなっていた。何かあてがあるわけではないのだけれど、とりあえずはバイトをしながら写真を撮る日々に戻ってみようと考えていた。大学時代を過ごした自由が丘でまたアパートを探して、これからの自分の道を探ろうと思った。まずは、マスターのカレーを食べて。突然帰ったらあのマスターはなんと言うだろうかと想像してみる。自分の写真を気に入ってくれてはいたけれども、こんな風にあてもなく会社を辞めてしまった事に対しては、怒られるかなと少し不安になる。でも、仕方ない、もう辞めてしまったのだから。覚悟をきちんと伝えれば応援してくれるだろうと、自分を鼓舞してマスターに会いに行こうと思った。会社はリナが辞めたいという意思を伝えたら、試用期間を終えたばかりだったせいか、いともあっさりと「そうですか、わかりました」と理由も聞かずに受け入れた。そんなものかと、少し淋しい気もしたけれど、会社としたら試用期間を終えただけの新人のことをいちいち考えるより早いところ次の人材を探し始めた方がいいと考えるのだろうと思うとリナもすぐに気持ちの切り替えが出来た。部屋が見つかるまで、大学時代の同級生の部屋に居候をすることにして、会社の寮をすぐに出た。溝の口に住むその元同級生の美菜という子は、大学院に進んで栄養学の勉強を続けていた。実家は岡山で農家をしていて、いずれは自分も実家に戻って農業をすると決めていて、そのための勉強なのだと言っていた。自由が丘の駅前の不動産屋で、予算優先で部屋を探してもらったら偶然にもマスターのカフェの隣のアパートに空き部屋が見つかった。確かにリナの希望家賃を条件にすると駅から徒歩十五分というカフェのあるあたりになるのは頷ける事だった。不動産屋は、駅からは遠いですけど隣に人気のカフェがあるのでオススメですと言っていた。リナはあえて、カフェの常連ですとかは言わずに、駅から離れていることをネタに値段交渉をしてみたら、三千円だけ安くなった。リナにとっては駅から近いことよりカフェに近いことの方が優先事項だったのでラッキーなスタートを切れたとこの先の自由が丘生活に少し光が射したように感じた。荷物という荷物はなかったので、すぐに美菜の部屋を出てアパートに移った。引っ越しをした日は、カフェは定休日だったのでひっそりと静まり返っていた。人がいないカフェはなにか違う生き物のようにその存在を消していた。明日、お昼にマスターに会いに行こうと決めて、その日は、何もないガランとした部屋の隅で、ホームセンターで買ってきたばかりの毛布に包まって眠りについた。カーテンのない東の窓から差し込む朝日でリナは起こされる。自然のリズムと共に身体が活動し始める感覚は心地よかった。けたたましい目覚まし時計に鉛のように重たい身体を起こされていた研修期間とは雲泥の差だと思う。カフェが開くまでまだ時間があるので、一人暮らしに最低限必要なものを買いに行こうと買い物リストを書こうとしたのだけれど、今すぐにどうしても必要なものなんてないのではないかと思えてきてカメラを持ってただ散歩に出かけた。今のリナにはカメラとシャッターを押す時間があればそれだけで良かった。お昼にカフェに戻ると、混み合っていると覚悟をしていたのだけれど、まだ一組しかお客さんはいなかった。

「こんにちは」とマスターに声をかけると「また研修?」と聞かれたので

「いえ、違います」としか言葉が出てこなかった。いつも沙夜子さんが座っているカウンター近くの席に着き、カレーをオーダーする。自分の様子が変なのをマスターは見て取ったようで、とりあえずは何も尋ねてこない。そのうちに一度満席になり、一時を回ると多くのお客さんは席を立った。波が去ってマスターは、カウンターから「どうした?辞めてきたか?」と唐突に声を掛けてきた。リナはドキリとしてマスターを見上げた。

「はい。辞めました。やっぱり写真をどうしてもやりたくて、ダメでした」

「そう、まだ若いんだから、いいんじゃない。何度でもやり直せるよ、今なら」

「マスターに怒られるかもって、思ってました」

「なんで、怒んないよ。目的があるなら。何もないのにただ辞めるとかは駄目だけど」

「はい、でも、まだ、何も決まってません、これからです、全部」

「そうね、とりあえずは、食べていかないと、死んじゃうからね」とマスターは笑って言った。

「実は、隣に住むことになりました」

「隣?このアパート?」

「いえ、こっち側」

「高田さんの方ね。空いてた?」

「はい。だから、マスター、ご飯よろしくお願いします!」

「毎日ウチで食べてたら破産するよ、さすがに。自炊自炊」

「そうですよね、じゃあ、週一でカレーにします」

「わかった。あとさ、店番頼みたくなったら声掛けていい?そしたら賄いで、食べていいよ、なんでも」

「ほんとですかー?やります、店番」

「わかった。そうさせてもらうよ、こっちも助かる」

「沙夜子さん、元気ですか?」

「あぁ、相変わらず。でも、介護の施設の正規スタッフになるかで迷ってるみたい」

「会いたいなぁ、沙夜子さん」

「そのうちに、会うんじゃない、ここで」

「そうですよね。まだ夜勤は火曜日ですか?」

「そう、よく知ってるね」

「はい、前に約束した時、夜勤明けの水曜日だったので。じゃあ、今日夜勤ですね、てことは明日来ますか?沙夜子さん」

「まぁ、たぶん。何もなければ」

「私も来てみます、明日」


 沙夜子さんは、相変わらず素敵だった。リナを見るなり

「リナちゃん、ちょっと大人っぽくなったね」と言って、いつものように文庫本とお財布をテーブルの上に置き、深く息を吐いて椅子に座った。マスターに「ごはんとコーヒー、お願いします」と言い、リナをまた正面から見つめた。リナは、全てを見透かされているようなバツの悪さを感じ

「沙夜子さん、辞めちゃいました」と先に宣言した。沙夜子さんはクスッと笑い

「もともと無理だと思ってた、あんな地味な会社」と言い

「マスターになんて言われた?」と付け足した。

「やりたいことがあるならいいって」

「あら、そんなことを。まるくなったね、マスターも」

「そうなんですか?」

「今までなら、確実に説教だよ、給料は我慢料だとか言って」

「我慢料?」

「どれだけ我慢出来たかで、給料が決まるんだって、サラリーマンは」

「確かに、私なんかゼロ円。研修で辞めちゃったし」

「そうね、ゼロより、マイナスじゃない、会社としては」

「確かに」

マスターが私のカレーと沙夜子さんのごはんを持ってきてくれて

「誰が説教だと?」と笑いながら言うと、沙夜子さんは

「まるくなったって褒めてたのよ」と切り返す。やはりこの二人は、なんだかいい感じだとリナは思う。

「やっぱり、沙夜子さんとマスターは、一緒になった方がいいと思うんですけど」と思ったことをそのまま口に出してみた。二人はしばらく黙ってお互いの顔を見つめ合ったまま、どちらかが何かを言い出すのを待つような感じになった。沙夜子さんが先に

「とりあえず、食べよっ」と言うとマスターが続けて

「僕は、いつでもオッケーなんだけどね」と冗談なのか本気なのか、リナには判断のつかない微妙な言い方をする。沙夜子さんは、その発言については特に何も反応をぜずに、黙々とごはんを美味しそうに食べている。

「じゃあ、マスター、プロポーズしたんですか?」とリナはマスターをからかうつもりで言ってみた。

「ん?」と固まったマスターに沙夜子さんは、

「まだよね、ちゃんとは」

「ちゃんとじゃないのはしたんですか?」

「そうね、しょっちゅう、そんなことばっかり言ってる、最近」

「マスター、だめですよ、そのうち誰かに取られちゃいますよ、沙夜子さん」

「いいこと言うね、リナちゃん」

「この二人、怖いなぁ」とマスターは笑いながら厨房に退散して行った。すぐにまた戻ってきたマスターは

「リナちゃん、証人ね。沙夜子、僕と結婚してくれ」と言った。沙夜子さんは、ごはんを食べる箸を置いて

「ありがとうございます」とマスターを見て小さな声で答えた。その表情は、喜んでいるのか、戸惑っているのか、泣きそうになっているのか、リナには、そのどれにも見えて、ただ固まったまま二人を見ることしか出来なかった。






 優馬くんが、前向きに色々と引き受けてくれて、宅間は一安心した。もし、野田と仲違いみたいな形で独立するようなことになったら、お互いに残念な想いだけが残ってしまい、今後の仕事も上手くいかないような気がしていた。それにしても、野田は幾つになっても子供みたいにやりたい事しかやらないというスタンスを崩そうとしない。それが彼の魅力と言えば魅力なのだろうけれども、せっかく大きくした会社をまた最初の頃のような規模に戻すことにするなんて宅間には理解出来なかった。加えて自分のことは、どうするつもりなのだろうかと、モヤモヤが増すばかりだった。一度は結婚をという話にもなったけれども、あの頃はお互いにまだ若くて将来をきちんと見通せなかった。だから断ったのだった。でも、それ以降は、お互いに付かず離れずで、二人で会社を大きくしてきた。どこかに結婚のタイミングがあったかもしれないが、それに気づかずに今まできた。いや気づかず、というよりは、見ないふりをしていただけかもしれないのだが。そろそろ、と宅間は思う。今がそのタイミングなのかもしれないと。また最初の頃に戻る今が。もう、子供を持つ歳でもないし、お金をたくさん稼いで何か他人に自慢できるようなものを手に入れたいわけでもない。ただ、毎日を気心の知れた仲間たちと楽しく充実して過ごせればいいと思っている。それは、野田も同じ想いであって欲しいと思う。自分から結婚を言い出せばいいのだろうかと思うこともあるけれども、この歳の女が結婚を迫るというのは、かなりリスキーというか、イタい気もしていて、それは最終手段だと思わなくてはいけない。そんな風に考えると、野田はズルいと思えてくる。男は、あれくらいの歳で独身でも、特に世間体を考えることもなく、加えて自分の会社を持っているとなると、それなりの社会的信用も得られる。自分も、野田と同じように会社に関わってきたつもりだけれど、いま何かが残ったかというと、そんなものは何もないと感じる。ただ野田に感謝されて、信頼されていること以外は。そこに、野田の妻という立場が加わると世間体は格段と上がることは容易に想像できる。だから、自分から結婚を言い出すのが憚られるのかもしれない。あまりに安直で、誰しもが想像できる選択だから。もう、そんなことを言っている場合ではないと分かった上でも、そう思ってしまう。

あぁ、野田はズルい。「ズルい ズルい」と気がつくと手元のメモに書いている自分に気づく。もしかしたら口に出していなかったか不安になり、カウンターの中にいるマスターの様子を伺ってみたが特に変わった感じはなかったので、大丈夫だったのだろう。野田のことを昔から知っているマスターは、私たち二人のことも当然よく知っていて、結婚するとかしないとかという話になった時にも野田はマスターに相談をして結論を出したようだった。今の二人をどう見ているのか聞いてみたかったが自分の気持ちが定まっていない状況では、話しを聞いても仕方がないとも思う。他人に相談するというのは、ある程度、自分の中では結論が出ていて、その後押しをして欲しい時にするものだと宅間は思っている。今日カフェに来たのは、野田とのことを考えるためではなく母に手紙を書くためだった。もうじき誕生日を迎える母にプレゼントを贈ることにしていた。近頃はお盆や正月でさえも色々と理由をつけて両親の住むマンションに顔を出さなくなってしまっていたので、せめて誕生日プレゼントくらいは贈ることにした。確かちょうど七十歳になるはずだった。自分の母が七十歳になるということが正直実感できない。確か、祖母は七十四歳でなくなっていた。そのことはなぜが鮮明に覚えている。朝起きると家がなんだかざわざわしていて、着替えを済ませて二階の自分の部屋から居間に降りると白い布を顔にかけられた祖母が寝かせられていた。明け方に亡くなったと父が教えてくれて、まだ身体に温もりが残る祖母の手を握ったのだった。七十四という歳は、なにか大きな病を患っていなくても寿命だということで亡くなってしまう年齢なのだとその時に、はっきりと認識した。母が祖母と同じ寿命だというわけではないのだけれど、あと四年なんてあっという間に来てしまうと想像すると、なんともやるせない気分になる。自分も同じように歳をとっているということも含めて。高校を卒業してすぐに家を出て一人暮らしを始めて、それ以来、両親とは微妙な距離をはかってきたように感じている。姉夫婦は早々に結婚し三人の子供がいて、父も母もその三人の孫の世話をすることで、十分満たされたようで、自分に対してはもう結婚や孫といった話題を口にすることはなくなった。一時期、野田を紹介した頃は、少しは結婚云々という話題も出たけれども、それも自然となくなっていた。ただ母は野田のことを、とても気に入っていて未だに時々、話題に登ることがある。母は野田のことを木崎さんと呼ぶ。それは、紹介した当時やっていたテレビドラマの主人公を俳優のFが演じていて、その役柄がデザイナーで、役名が木崎だったのだ。決して野田が俳優Fに似ているわけではないのだけれど、母は勝手にその役柄のイメージで野田を認識しているようだった。正確には、ドラマの主人公は、建築デザイナーで野田はグラフィックデザイナーなのだから全く別物なのだけれど、母にとっては、デザイナーはデザイナーで、建築であろうがグラフィックであろうが違いは無いようだった。唐突に「木崎さんは最近どうなの?」と聞いてきたりするので、何に対してどうなのかよくわからないのだけれど「上手くいってるよ」という曖昧な返事で済ませている。母が、どういう意味で受け取っているのかはわからないが、余計な心配をして欲しく無いので、野田とのことはあまり深く話さないようにしている。恐らく、このプレゼントが届いたら電話をしてきて「木崎さんはどう?」とまた聞いてくるに違いないので、そろそろ母を喜ばせる返答をしたいとも思う。母のことをあれこれ考えてペンを走らせていると「宅間さん」と後ろから声を掛けられて、ビクッとして振り返ると、そこに野田が立っていた。いつからそこにいたのだろうかと思い「いま来たの?」と尋ねてみた。

「そう。打ち合わせが長引いて、ご飯食べそこねたからここでなんかたべようかと」

「そう。じゃあ、ここどうぞ」と向かいの席を進めた。

「邪魔じゃない?なんか書いてるんでしょ?」

「大丈夫、母への手紙だから」

「お母さん、何かあったの?」

「いや、誕生日だからプレゼント贈ろうかと。もう七十よ」

「そうか」

「未だににあなたのことを木崎さん、って言ってるわ」

「木崎って、確かあのドラマのせいでだったよね」

「そう。また木崎さんはどうなの?って聞かれるわ」

「どう、って?」

「母が何に対して、どう?って言ってるのか、私もいつもわからないの」

「そうなの?母娘なのに?」

「だって、高校出てから一緒には住んでないのよ。もう、わからないわ。加えて薄情な娘だから全然顔出してないし」

「ねぇ、プレゼントって何にしたの?」

「スカーフ。一応まだオシャレはしたいみたいだから」

「俺からもさ、プレゼントさせてもらっていい?」

「いいけど、何を?」

「君との結婚」

「なにそれ?」

「だから、君と俺の結婚の報告をする。お母さんに」

「それ、プロポーズのつもり?」

「そう」

「いまいちね、それ。やり直し」

「わかった、ちゃんとやる。マスター、ちょっと、証人になって」と野田はマスターを呼びつけ、プロポーズの立会いをお願いした。

「はい、野田さん、どうぞ」とマスターはからかっているのか淡々としている。

「マスター、なんか、他人事だなぁ」

「だって、他人事でしょ?」

「まぁ、いいや。行くよ、僕と結婚してくだい」と野田は片膝をついて右手を差し出した。まるで、ねるとんだ、とつい思ってしまう。そういう世代だ、自分たちは。なので、一応ねるとん風に

「よろしくお願いします」と言って野田の差し出した手を握った。マスターは「おめでとうございまーす」

と、全くとんねるず風ではなく、また淡々と言って乾いた拍手をした。なんだか可笑しくなって三人で顔を見合わせて笑い出していた。

「さっき、ズルいズルいって言ってたのが、嘘みたいな展開」とマスター。

「やっぱり、言ってました、私」

「うん、言ってた」

「何がズルいの?」と野田が呑気に聞いてきたので、

「自分だよ」と言ってみた。野田はマスターに説明を求めるような視線を向ける。

「野田さん、とにかく、おめでとうございます」

「おめでとう、でいいのか、俺?」という野田の質問をマスターは流して、

「宅間さん、お母さんも、喜びますね」と言ってくれて、野田には握手を求め、野田もそれに応じて、二人の男は硬い握手を交わしていた。宅間はようやく喜びがこみ上げてきて二人の男同士の握手を見ながら、堪えていた涙が流れてくるのをそのままにしていた。






 佐谷木とマスターの曲作りの作業はまだ始まったばかりだったけれど、佐谷木からは「刺激的で楽しくて仕方がない」というような内容のメールがもう何通も片瀬のもとに届いていた。いちいち全部に返信をするのも面倒なので、ランダムに返信を返していると「メール届いてますか?」というメールも来て、正直鬱陶しくもあるのだが、佐谷木がこれ程までに熱心に曲作りに打ち込んでくれていることを喜ばなくてはいけないと自分を戒めると同時に、マスターには感謝の気持ちでいっぱいになるのだった。ある程度、曲が形になるまでは片瀬の出番はないので、しばらく休暇でも取ろうかと、他の仕事はあえて断ってみているのだけれど、いざ休暇といっても何をしたら良いのか、どこへ行ったら良いのか、全くあてが浮かばない自分にげんなりしてしまう。連絡をとる遊び友達と呼べる相手は咲季くらいしか思い浮かばないが、咲季とはこの前会ったばかりだし、こういう時に飛んで来てくれる恋人も当然いない。これは仕事ばかりをしてきた結果で、自業自得だと自分で納得するしかないのだけれど、この先もずっとこういう人生になってしまうのかと想像すると、すぐにでも、今の仕事をやめるべきなのではないかとも考えてしまう。昔付き合っていた彼は「仕事をしている君の方が素敵だよ」となんだか理解のあるような言葉を残し、いつの間にか自分のもとを離れて、さっさと他の子と結婚をして、いまは二人の娘のパパになっている。その彼以降は、交際という交際もせずに、この歳まで来てしまった。いまさら十代、二十代の頃のように誰かに恋い焦がれるといった恋愛が出来るとも思えないが、誰かいい人がいたら結婚はしたいと、都合のいい希望はまだ持っている。そう言えばこの前、咲季が、ご主人の優馬くんが私に会いたいと言っていたことを思い出したので、時間もあることだしとりあえず連絡をしてみることにする。取り急ぎ咲季にメールをして、優馬くんの都合を聞いてみた。咲季からすぐに返信がきて

「綾さんに優馬から直接連絡させますので、アドレス教えて良いですか?」とあった。真面目な子だと、思う。自分の女友達のメルアドを自分の旦那に教えることに許可が必要な時代なのか。どちらかと言うと、咲季が他の女性の連絡先をご主人に教えるかどうかで悩む、ならわかる気もするのだけれど。すぐに優馬くんからメールが届く。二人一緒にいるのではないかと思えるくらいの速さだ。

「片瀬さん、ありがとうございます。お忙しいと思いますので、早いほうがいいですよね?明日か明後日の夜はご都合いかがですか?」とあった。別に忙しくはない、と軽く独り言のツッコミをいれつつ

「どちらでも、私は大丈夫です。優馬くん決めてください」とすぐに返した。しばらくしてから

「では、明日で、お願いします。場所は、こちらで、十九時に→」と自由が丘の駅近くのイタリアンのお店のURLにリンクしてあった。

「了解です。では、明日」とだけ返した。

これだけのやり取りをみると、デートだと言われればそうとも読み取れるが、現実は、年下の友達の旦那の相談に乗るだけだ。それでも、仕事以外で誰かと夜のレストランで会う約束をするというのは、久しぶりに味わうなんだかワクワクする感覚だった。翌日も特に予定もなく昼間は家でゴロゴロして過ごし、約束の七時より少し早く優馬くんの指定した店に着いた。雑居ビルの二階にあるこじんまりとした店で、男子二人で切り盛りしているようだった。通された席は、壁際の二人用のテーブルで、カップルが内緒話をするにはうってつけと言ったような場所だった。スマホに通知があり、優馬くんからで、十五分くらい遅れるとのことだったので、先に白の微発泡のグラスワインを飲んで待つことにした。初々しいカップルならば彼の到着まで水だけで待つのだろうけれども、そういう関係ではない。店員さんにも、その辺りの関係性を察してほしいと思ってそうした。変に気遣いされても面倒だ。優馬くんは、慌てて階段を駆け上がってきて、店内のみんなの注目を浴びて片瀬の向かいの席に着いた。こういうところが若いのだなと思ったがそれには何も触れず、ただ「こんばんは」とだけ言って

「先にちょっと飲んでるよ」と付け加えた。優馬くんは息を切らしながら

「じゃあ、僕は、ビールください」と店員に告げた。優馬くんはよく利用しているらしく、店員も「今日は早いですね」と気安く声をかけていた。

「えーと、こちら、咲季のお友達の片瀬さん。音楽プロデューサー、です、か?」と私に確認をしながら店員に紹介をした。

「まぁ、正しくは事務所をやっていてマネージメントのような感じです」と少しだけ訂正しておいた。店員は

「あっ、はい、よろしくお願いします」とだけ言って戻っていった。片瀬は

「たいていの人は、音楽プロデューサーとかマネージメントとかいっても実際なにしてるかわかんないのよね」と優馬くんの間違いはよくあることだという意味も込めて言った。

「すいません、僕もよくわかってません。で、何食べます、何か嫌いなものとかありますか?」と優馬くんはメニューと私を交互に見ている。

「まかせる、よく来てるんでしょ?好き嫌いはないから、なんでも大丈夫よ。お腹も空いてるからオススメを一通りお願い」と告げた。

「片瀬さん、独立して何年ですか?」

「いま、八年目」

「ずっと、一人で?」

「一時期、スタッフを入れてた時期も、あったけど、ほとんど一人」

「うちは、咲季も入れると三人スタッフがいることになるんですけど、大丈夫かなって」

「なにが心配?」

「人間関係というか、人を使ってとかいうのが上手くできるかなぁ、って」

「私は、全然無理だから、結局一人。そういう相談をするには不向きな相手よ」

「そうですよね、僕も基本的には、片瀬さんタイプだと自分では思っているんですけど、だから、とりあえず咲季と二人でと考えていたんですけど。咲季と二人でも上手く出来るか心配だったのに、スタッフを二人も抱えるなんて想定外です」

「でも、前の事務所で一緒にやってたスタッフでしょ?」

「そうですけど、それぞれに現場をやっていたので、僕が上に立って何かを指示したりとかいう関係性じゃなかったんで、彼らも微妙な感じかと」

「そういうのは、マスターとかに聞いたら?」

「もう聞きました」

「なんて言ってた?」

「だんだん関係性が出来てくるもんだから、大丈夫って、最初から立ち位置とか決めるとそれに縛られてギクシャクしてしまうって」

「そう考えられる余裕があればいいけどね」

「はい、余裕なんですよね、必要なのは」

「そうよ、ジタバタしない」

「でも、不安だし、ジタバタしますよね?」

「する」

「良かった、片瀬さんもそうで。それが確認出来ただけで良かったです、今日は」

こういう年下のいわゆる、社会人としての後輩と話しているとなんだか自分も一人前のような気がしてくるのだけれど、先々の漠然とした不安が無くなるわけではない。優馬くんにそういう不安の話をしても、いいのかどうか片瀬は迷う。今日ところはしっかりとした先輩ということだけで済ませた方がいいのか、もう少し弱いところもさらけ出して本当の距離感に近づけた方が良いのかと。当然、優馬くんは今日の話を咲季に報告するだろうから、咲季に伝わってもいい内容でなくてはいけない。となると、やはりしっかり者の片瀬でないといけない。咲季と同僚だった時は、たかだか二年先輩ということだったけれど、咲季は短大卒で入社して来ていて、自分は四大卒での入社だったので、年の差はそれなりにある。なので、常に咲季に対しては、姉のような感覚になるのだった。自分に妹がいないので実際の姉妹がどういう感覚なのかはわからないのだが、頼りになる姉の役を演じているような感覚なのだった。つまりは、目の前にいる優馬くんは、義理の弟的な存在ということになる。やはり自分の弱さを見せる相手ではない。料理は、ワンプレートで出てくるものが多く、その度に片瀬が取り分けた。優馬くんの分は、男性だし若いので自分の分よりもかなり多くよそっているのだけれど、あっという間に食べ終えていた。その食欲旺盛な感じは、やはり生物としての生命力のようなものを身体中から発しているようで、頼もしく感じるのだった。それは姉といより母のような視点だと自分で思って可笑しくなってしまった。

「優馬くん、よく食べるね」

「あっ、はい。最近、満腹中枢が壊れてるんじゃないかって、まわりのみんなに言われていて。いくらでも食べれてしまう感じなんです」

「いいことよ、頼もしい、なんだか」

「そうですか?大食いって、ちょっと頭悪そうじゃないですか?」

「そんなことないよ、大丈夫。咲季は料理上手なの?」

「はい、とりあえず一通りなんでも作れるみたいですけど。僕が料理をしないので、なんでもと言っても、よくあるスタンダードなものしか思い浮かんでないですけど」

「カレーとかハンバーグとか、ってこと」

「そうです、あと生姜焼きとか、唐揚げとかパスタとか」

「ファミレスみたい」

「確かに。片瀬さんは、料理は?」

「昔、イタリアンのお店でバイトしていたから、ここで出てくるようなものは大体出来るわ」

「すごい」

「クオリティは別としてね」

「でも、料理できる人って、なんかいいですよね」

「優馬くんも、そのうち作れるようになったほうがいいよ、きっと」

「そうですよね、出来たらいいなって思います。マスターとかみたいに」

「そうよ、マスターだって、最初は全然料理しなかったみたいよ。最初っていうのは、結婚したばかりの時ね」

「そうなんですね、あのぉ、聞いていいのかわからないんですけど、マスターって離婚したんですか?いまは一人って言うのは聞いたんですけど」

「亡くなっちゃったの、奥さん」

「えっ、死別、ですか?」

「そう。ずいぶん前に、病気でね」

「そうだったんですね、なんか離婚とかするのかなぁって、想像できなかったんで、マスター」

「綺麗な人だったわ、だからかな」

「はい」

「時々、カフェにいる、沙夜子さんって知ってる?」

「はい、あの、文庫本と財布だけ持って、綺麗な方」

「そう、彼女のお友達だったみたい」

「マスターと沙夜子さん、二人だとなんか、普通じゃない空気感がありますよね、なんていうか、親密なというか、上手く言えませんけど」

「たぶん、二人の間に今も奥さんがいるからじゃない、いつも三人は一緒だったって言ってた、だからね、あの二人には二人にしかわからない距離感というか、そういう繋がり方があるんだと思う」

「付き合ってるわけじゃないんですよね?」

「うん、その辺も微妙で、二人には付き合ってるとか、恋人同士とかそういう関係性は超えているというか、なんか普通の男女の尺度じゃないとこで、成立してるんだと私は思ってる」

「うーん、なるほど、というか、正直、ちゃんと想像できてないんですけど、いい感じはいい感じですよね?」

「それは、そうよ、間違いなく」

「ついでに聞きますけど、片瀬さんは?」

「私?」

「彼氏とか」

「いないわ」

「なんでですか?つくらないんですか?」

「こっちが聞きたいわ」

「すいません、だって、片瀬さん、美人ですよね、絶対、もてますよね、絶対」

「よくある言い方すると、仕事が恋人」

「出た、ほんとにいるんですかそういう人」

「目の前に。でも、それは言い訳ね、仕事と恋人は別よ、絶対。サボってるだけ、仕事だけして、そう思ってるだけ。恋人もいて、バリバリ仕事してる人なんて、たくさんいるし」

「その気になれば、すぐできそうですけど」

「ありがとう、がんばるわ」







聡樹さん

先日はありがとうございました。まさかあのタイミングでのプロポーズだとは思ってもいなかったので、正直戸惑いました。リナちゃんも、固まってたね。でも。ありがとうございます。私は、たぶん聡樹さんからのプロポーズを待っていたのだと思います。祐未とお別れしてから、私たちの間には埋めることのできない大きな穴がぽっかり空いていたと思います。そして、その穴の周りをぐるぐる回っていることくらいしかできなかった。埋める方法なんてないと思っていた。いつも三人で過ごしていたのに、祐未がいなくなって、急に聡樹さんと二人きりにさせられてしまって、どうしたらいいのか私はわからなかった。聡樹さんの中にはいつも祐未がいることはわかっていたし、祐未を失ってしまった聡樹さんに何をしてあげられるのか、いつもいつも考えていた。でも、結局何もできなかった。ただ、聡樹さんのごはんを美味しい美味しいといって食べることくらいしか。私がいると、きっと聡樹さんは、祐未を思い出すだろうし、もしかしたら私もしばらく聡樹さんの近くからいなくなったほうがいいのかな、なんて考えたりもした。でも、そんなの淋しくてできなかった。私には、祐未と聡樹さんと過ごす時間は宝物だったから。二人が乗る車の後部座席に安心していつも座っている感じ。二人には邪魔だったこともあったと思うけどね。もう東京で生きていくことを諦めようとしていたとき、二人に出会って救われたの。だから二人には感謝しかない。命の恩人。でも、祐未が先にいなくなってしまった。なぜって、神様を恨んだわ。だって、そんなのおかしいものって。聡樹さんのほうがずっと辛いのにね。いつもね、夢を見るの、祐未の夢。夢の中で、祐未はいつも泣いていて、私には背中しか見せてくれない。だから、ただ慰めることしか出来ないの、私は。もう、仕方ないの、祐未は少し早すぎたけど先に天国にいったんだよって。一人で淋しいかもしれないけど、私はもう少しここでかんばってみるから、見守っていてって。私も聡樹さんもいつも祐未のことを思ってるよって。そうすると祐未は、ゆっくり歩き出して去っていくの。でもね、何日かするとまた祐未が現れて同じように泣いている。ここ何年もそんな風だったわ。でもね、この前、聡樹さんが結婚しよう、って言ってくれた日に現れた祐未はいつもと違っていたの。私の方を向いて微笑んでいた。だから、私は、聡樹さんとの事を報告したわ。プロポーズされたんだよ、って。許してくれる?祝ってくれる?って尋ねたわ。祐未は頷いてくれたと思う、そう私には見えたわ。そしてね、ありがとう、って言ってた。言葉は聞こえないんだけど口がそう動いていた。そして、手を振って去っていった。もしかしたらだけど、祐未は、一人で天国にいることが淋しくて泣いていたんじゃなくて、聡樹さんを一人にしてしまったことに対して泣いていたんじゃないかって思ったの。だから、私は聡樹さんと一緒にならなくちゃいけないんだって、それが祐未の望んでいることなんだって思うことにしたの。だからね、これは私から二人への恩返しみたいなもの。命の恩人だから。でも、それだけじゃないの。祐未はやきもちを焼くかもしれないけど、私は、聡樹さんが好きよ。祐未よりも好きになるつもりよ。今度また祐未が夢に現れたら、それで良いって聞いてみるわ。ダメって言われても、困るけどね。私たちの中に、祐未がずっといることは、確実でしょ。祐未のことを忘れて二人で生きていくことなんて出来ないから、聡樹さんが、祐未のことを思っていても私は平気よ。平気っていうより、祐未のことを思っていて欲しいの、ずっと。時々、私もやきもちを焼くかもしれないけど、気にしないで。同じように祐未にもやきもちを焼かせるくらい聡樹さんのことを好きになるから。そうやって、やっぱり私たちは、三人で生きていくべきだと思ってる。側から見たら、ちょっと、変な関係かもしれないけどね。ねぇ、いいでしょ?


沙夜子より




沙夜子へ

メール、ありがとう。僕の考えてることが本当によくわかるんだね、驚くよ。プロポーズをしてみたものの、やっぱり僕の中にはいつも祐未がいる。それをどう君に伝えたらいいのか、わからなかった。時には君の中に祐未を見てしまっていることもあるよ、正直に言うと。でもね、今、目の前にいて心がときめくのは君であることは間違いないんだ。祐未は、もう居ないって分かっている。君の言うように、僕らの中から祐未を消し去ってしまうことは出来ない。それは、僕らが祐未のところに行くまでずっとだ。君が許してくれるなら、祐未を思いながらでも、君と一緒になりたい。君の気遣いに甘えているのは分かっているけれども、それしか今は出来そうにない。

ほんとに、それでいいかい?


聡樹





聡樹さん

だから、大丈夫よ。

私は、祐未にはなれないけど、

あなたをこの世で一番好きなんだから。

この世でね。


PS

この前、祐未が夢に現れたから

言っておいたわ。

祐未より好きになってみせるから、って。

そしたら、笑ってた。


沙夜子より






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by ikanika | 2018-03-28 14:03 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第六回(最終話)

 完成した肖像画は、七瀬さんのインテリア取材の時に渡すことになった。そうすれば、勝間さんも七瀬さんも見れるし、と柿原さん自らが言っていた。そうなると、そばかすの少女とメガネ美人の少女は、揃うことになる。美苗の絵も持っていけば三枚を同時に見ることが出来ると思ったが、美苗の絵を持っていくもっともらしい理由が見つからず、断念した。七瀬さんの豪邸の取材は結局巻頭十二ページでの扱いになったそうで、朝から撮影をはじめても、自然光があるうちにギリギリ終わるかどうかという感じだとカメラマンの勝間さんが言っていたので、雪仁と美苗は、日が暮れる頃に顔を出すことにした。七瀬さんには撮影に立ち合うと言っていたが、下見の時点でみんなかなり打ち解けていたので、わざわざ行くこともないだろうと雪仁は判断した。絵を持って七瀬さんの家を訪ねると撮影はすでに終わっていて、三人はダイニングテーブルに座って談笑していた。到着するなり、勝間さんが「早く早く!見せて」と焦って、急かしてくる。

「俺、次があってもう出ないといけないから、早く」と、柿原さん本人を差し置いて見ようとする。多分、七瀬さんの例があるので、クラス一番のカワイイ子が出来上がっているのを期待してのことだろう。しかし、まずは柿原さん本人が先に見るべきであるのは間違いないので、焦る勝間さんを制して、柿原さんに見せようとすると、

「いいですよ、勝間さんに先に見せて。本当に時間ないみたいなので」と言うので仕方なく勝間さんに最初に見せた。

「おー、いやー、カワイイ」と野太い声で勝間さんは唸った。

「雪仁さんの妄想炸裂だ」と勝間さんが言うと、柿原さんが

「そばかすあるでしょ、それ、雪仁さんの妄想なの、冴えてるでしょ」

「教えてないのに?」

「そう、もしかしてそばかすありましたって聞いてきて」

「すごいなぁ、雪仁さん。あっ、俺、もう行きます。ありがとうございました。七瀬さん、美苗さん、雪仁さん。じゃあ、麻理、後で」

と言って、急ぎ足で出ていった。

「いま勝間さん、麻理、って言ってましたよね?」と雪仁は、柿原さんに尋ねる。

「いまさら、何言ってんの雪仁。ふたりつきあってんだよ、知らなかった?」

「そうなの?みんな知ってた?」

「あたしは、すぐピンと来たよ。下見の時」と美苗が言うと、七瀬さんも「私も」と、さらっと言う。雪仁だけが今日の今日まで知らなかったことになる。

「わかってるんだと思ってた、雪仁も」

「いや、全然。他人の彼女の中学生時代を妄想してたってことか。ヤバい人だよ」

「柿原さん本人からの依頼で、彼のいる前で頼んだんだから大丈夫。でも、また自分の好みを反映させてるの?」と美苗は意地悪く言う。

「また、って、ね。妄想で描くんだからある程度は仕方ないよそれは。了承済みでしょ」

「冗談よ、いいから早く柿原さんにお見せして」

「どうぞ」と雪仁はくるりと絵を回して柿原さんに渡した。柿原さんは、しばらくニヤニヤしながら眺めた後、「カワイイ」と一言つぶやき、雪仁を見て「冴え渡る妄想」と言った。

「髪、所々薄っすら茶髪。ほんとにこんなだった。顔がハーフっぽいからって美容室のお姉さんが試しにちょっと茶色くしてみていい?似合うと思うから、って言われて、なすがままに。そしたら、なんかヤンキーみたいになっちゃって、慌てて戻してもらったの。でも、光のあたり具合で薄っすら茶色く見えたりして、先生からも問いただされたり、意地悪な男子は、ほんとうは金髪だろ、とか言ってきて。最悪な思い出」

「あっ、ごめん。そんなこととは知らずに」

「いえ、謝らなくても、全然。今となっては、懐かしい笑い話だから。そばかすも懐かしい。いったいいつ消えたのか記憶にないの」

「やっぱり、あたしも。あたしは、中学生の時はもう消えてたけど、小学生の頃の写真を見るとみごとにそばかすだらけ」と美苗と柿原さんが話をしていると、さっき席を立ってキッチンに行っていた七瀬さんが戻ってきて、

「みなさんは、お時間大丈夫ですよね?簡単ですけど、ごはん用意してあるので、食べていってください」と、キッチンから次々と料理を運んできてくれた。テーブルの上はあっという間にホームパーティーのようにご馳走が並んだ。

「香津海、さすがだわ。やっぱりいい奥さんになる」と美苗は前に来たときと同じことを言って、

「遠慮なく。柿原さんも。香津海の料理、美味しいから」とみんなにお酒を注いだ。雪仁は、女子会に一人混ざってしまったようなこういう状態を特に居づらいと思ったことはなく、逆に男ばかりの飲み会の方が、下品でつまらないと思っている。その日も、女子トークをさらりと聞き流すとこは聞き流し、七瀬さんの料理を堪能した。女子三人は、結構ワインを空けていて、美苗もいつになくお酒が進んでいるようだった。

「ちょっとお願いがあるんですが、七瀬さんのと二枚並べてみていいですか?」と雪仁はさらっと、これといった意図はないという風に言ってみた。

「そうね、雪仁画伯の展覧会ね。あたしのも持って来ればよかった。そしたら三枚揃ったのに」と美苗は少し酔っているようだった。

「いいですね」と柿原さんは、自分の絵を壁に飾ってある七瀬さんの絵の横に並べて見せた。

「どっちもかわいい」と酔った美苗が言う。

「二人ともずるくない顔になってますか?」

と雪仁は尋ねる。

「確かにそう、ずるくない顔だ」とまた美苗。

「ほんとに三枚並ぶと面白かったかも」と七瀬さんは、いつもの小さな声で言う。

「ちょっとかわってください」と柿原さんは、自分の絵を雪仁に渡して、二枚を眺めた。

「うん、ずるくない顔、いいですね、今度、美苗さんのも見せてください」と柿原さんは美苗に言葉をかけたが、ほとんど酔って寝ている状態だったので、雪仁が代わりに、

「ぜひ、どうぞ」と答えた。

「雪仁さん、ありがとうございます。家に帰って早速飾ります。何かお礼を。どうしたらいいですか?」と柿原さんが言うので

「いえ、大丈夫です。ただ楽しんで描いてるだけなので、ほんとに」と雪仁は答える。

「私もお礼、まだです、ごめんなさい」と七瀬さんもいつもの小さな声で言う。

「七瀬さんは、ごはんご馳走になってるし」と雪仁が二人の申し出を断っていると、

「雪仁、じゃあ、二人にクロール教えてもらえば」

と美苗が冗談なのか本気なのかわからないことをほぼ寝言のようにぼそっとつぶやき、

さらに「正夢ね」と、付け足した。

雪仁は、二人にクロールを教わったからと言って、現実が書き換わる訳ではないのはわかっているのだけれど、

美苗の「正夢ね」というひとことが引っかかって、じゃあ、教わろうかな、なんていう風に簡単には答えられなかった。

 帰り道、美苗はさっきの「正夢ね」という発言はもう忘れてしまっているかのようだった。

「茶髪の話、びっくりしたね」と美苗。

「ほんとに。やっぱり、浜のマリー、は居たね」

「ほんとだよ、柿原さん、本物のヤンキーだったらどうする。美容室の話も実際は金髪にしてたのを学校で注意されて、仕方なく黒くしにいったとか」

「そっちの方が、よくある話ではある」

「だよねー、どうする、私のヤンキーの過去を暴きやがったな、雪仁。覚えてろ!って、昔の舎弟とか集めてしばきにきたら」と美苗は大笑いしながら雪仁の肩をパンパン叩いてくる。ちょっと酔っているのか、かなり上機嫌だ。

雪仁は、「まさか」とつぶやき、美苗の手を握って家まで帰った。その間ずっと、「正夢ね」という美苗の声が耳から離れなかった。

 クロール美人の正体が七瀬さんと美苗とわかってからは、ジムのプールの神秘性はなくなってしまい、どこか魅力が薄れてしまったように雪仁は感じていた。もともとそんなものは存在していなかったのだからプール側からすると何も変わってはいないのだけれど。ただ雪仁の気持ちの問題でしかないのだ。今まで通り、ただクロールの練習に励めばいいのたが、どうも身が入らない。そして美苗の「正夢ね」というひとことがいつまでも気になっている。

「結局、あの二人は雪仁にお礼をすることになったの?」と朝のコーヒーを飲みながら美苗は、尋ねる。

「美苗は、あの日のこと、どこまで覚えてる?結構飲んでたけど」

「柿原さんとそばかすの話をしていた。で、何かお礼をといって、雪仁がいいです、大丈夫ですって断ってた、あたりまで」

「そのあとは?」

「なんか、手繋いで帰ったよね」

「あまりにもふらふらしてたから」

「あたし、なんか失礼なこと言ってなかった?二人に」

「いや、大丈夫だよ」

「なら、よかった。記憶なくすの怖いね、ちょっと飲みすぎたね」

美苗は、二人にクロールを教えてもらえば、と言ったことと、正夢ね、と言ったことは覚えてないようだけれど、だとしたら、それが、美苗がほんとうに言いたかったことなのかもしれないと雪仁は思った。美苗の心の内にあるものの正体を、少しだけ覗き見てしまったように感じた。

 明け方に夢を見る。いつもの夢だ。いつものプールに浮かんでいるといつものように飛び込み台に女の子が座って、白いスカートから伸びる細い足をぱたぱたさせている。でもそれは片想いの女の子ではなく、美苗だった。

「どうしたの?」と僕は聞く。

「あたしは雪仁にクロールを上手く教えられないね。いつまでたっても上手くならないのはあたしのせいね」

「ごめん、僕がちゃんと練習しないからだよ、美苗のせいじゃない」

「誰か他の人に教わる?七瀬さんとか柿原さんとか?」

「なんであの二人に?」

「だって雪仁は、二人に絵を描いたよね。代わりにクロールを教えるという約束じゃない?」

「その約束は、美苗としたからもう大丈夫」

「でもクロールは上手くならないよ、きっと。それでもいいの?」

「練習するから大丈夫、練習するから大丈夫」と言って目が覚めた。

隣で寝ていた美苗は、

「なんの練習するの?」と普通に聞いてきた。雪仁も

「クロール」と普通に答える。

「夢でも泳いでるの?熱心ね」

「僕、なんて言ってた?」

「練習するから大丈夫、練習するから大丈夫、って二回」

「それだけ?」

「うん、それだけ。どんな夢だったの?」

「えーと、とにかく練習しないとヤバイって夢」

「誰かに脅されてるとか?正夢にならないといいね」

「そうだね、脅されるのは嫌だ」

「今朝も泳ぎに行く?それとも、もう起きて朝ごはん食べる?早いけど」

「ごはんにしようかな、コーヒー淹れるよ」

「練習しなくていいの?また寝言いうよ」

「大丈夫、練習するから」と言って、雪仁はベッドから抜け出しキッチンへ向かった。


(終わり)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

あとがき


『二人の居場所』から始まった一連の短編は、ここで一旦終わります。

『二人の居場所』と『季節のリレー』はカフェが舞台として登場しますが

後半の二作『走る君を、見ていた』と『揺らぐポートレイト』は

それぞれに関連性はありますが、カフェという舞台から一度離れています。

遠い昔の中学生時代とカフェを始める前にやっていた音楽関係の仕事をしていた時代が

それぞれの舞台となっています。

結局、自分が歩んできた道から物語が生まれてきているので

読み返してみると登場人物に自分の思いをかなりの部分投影していることに

気づきます。(誰に投影しているかは、ご自由にご想像ください)


自分がどこまで何が書けるのか試してみたいという思いから

始めたことですが、今のところ、書くことが楽しいので

まだしばらくは書き続けていくような気がしています。

楽しみにしていると言って下さる皆さんには、

この場を借りて、改めてお礼を。

ありがとうございます。


次に今書いているのは、再び舞台はカフェになっています。

カフェに集う様々な人の物語を、それぞれの視点と立場から

ランダムに描いています。物語は現在進行中ですので

完成まではもう少し時間がかかるような気がしています。

書き上がりまで、しばらくお待ちください。


今回もお付き合い、ありがとうございました。


cafeイカニカ

平井康二






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by ikanika | 2017-09-16 22:50 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第五回

 美苗に来た差出人不明のメールは、やはりカメラマンの勝間博だと判明した。美苗の知り合いの編集者曰く、深沢に撮影スタジオを兼ねた古い一軒家を借りたということだった。美苗は、早速『深海』の件もあったのでメールをしたようだった。

「いきなり何年も前に貸したCD返してって言うのも微妙だから、新しいスタジオを見に行きたいってことで連絡したの。で、来週の水曜日の午後に行くことにしたんだけど、雪仁、一緒に行ける?」

「夜に打ち合わせがあるけど、午後なら大丈夫」

「よかった。じゃあ一緒に行こう。あと、香津海も誘ったから」

「行くって?」

「うん、自分と間違えられた人がどんな人か気になるって。あとスキンヘッド見たいって」

「スキンヘッド?」

「生で見たことないって。いままで自分の周りにはそういう人はいなかったって」

「実は、変わってる?七瀬さん」

「ナチュラルね」

「天然ってこと?」

「そうとも言うわ」


 翌週の水曜日、三人で勝間さんのスタジオ兼自宅を訪ねた。うちからも七瀬さんの家からも歩ける距離だったので、一旦うちに集合してから向かった。かなり古い一軒家で、玄関で呼び出しベルを鳴らすと、ドアが開いて、スキンヘッドではない勝間さんが現れた。七瀬さんは咄嗟に「スキンヘッド?」と口走り、それは勝間さんの耳にも届いた。勝間さんは、肩まで届くロン毛になっていた。

「あっ、いまロン毛です」と勝間さん。

「こんにちは。お邪魔します。久しぶりですねー」と美苗が七瀬さんのスキンヘッド発言を無視して先陣を切った。

「どうも」と雪仁、そのあとに、顔を赤らめた七瀬さんが続く。

「この廊下の先がスタジオなので、そっちのが広いのでどうぞ。住まいの方はまだ片付いてないので」と勝間さんのあとを三人でついていく。もともと相当広いお屋敷だったとみえて、スタジオは、想像以上に広く天井も高かった。

「これだけ広いとなんでも撮れそうですね、外で借りる必要ないですね」と雪仁が言うと、勝間さんは

「そうなんです、逆に貸せます。お知り合いで使ってくれる方がいたら紹介してくだい、美苗さんも」となんとなく営業モードになった。

「勝間さん、紹介しますね、七瀬香津海ちゃん」

「こんにちは」といつもに増して小さな声だ。

「こんにちは、カツマヒロシです。以前、美苗さんにお会いしたときはスキンヘッドにしていたんですけど、いまはこの通り」

「ずいぶんイメチェンですね」と美苗。

「ほんとはスキンヘッドにしたいんですけど、まわりに子どもが多くなって。仕事仲間とか、そういう年代じゃないですか、スキンヘッドだとほぼ泣かれるんです、子どもに。だからしばらくはやめようと」

「なるほど。ちゃんとした理由」と美苗は妙に納得している。

「香津海、生のスキンヘッド見たかったんですよ、ね」

「ナマ?」と勝間さん。

「はい、写真とかテレビでは見たことあるんですが、生ではなかったので」

「天然なんで、気にしないでください」と美苗がフォローすると七瀬さんは、

「すいません、先ほどは、いきなりスキンヘッドって言ってしまって。てっきりスキンヘッドの方が出てくるものと心構えをしていたので、つい」

「大丈夫です、おもしろいですね、七瀬さん」

「そうですか」と七瀬さんは、また顔を赤くしている。

「あと、勝間さんの最初のメール、名前がなかったやつ、あれ、最初は香津海からのメールだと思ってたんです。ktmって、母音抜きで、カツミとカツマも一緒でしょ。で、hrsは、勝手に広瀬さんとかと結婚したんだと妄想して、カツミヒロセだと」

「すごい、妄想力」

「でも、ありそうでしょ?」

「あるある、ちゃんと苗字と名前を反対にしてるし、僕のはそのままにしちゃってて、あとから名前苗字の順番にすればよかったっておもいましたよ」

「ほら」と雪仁。

「香津海は、偶然奥沢に住んでて、この前ばったりあそこのスーパーで会って。で、メールのこと聞いたら違うっていうから、ずっと誰だかわかんなかったんですよ」

「ごめんなさい、ほんとに、そんなことになってたなんて。てっきり署名がついてるかと思って送ってました。よくわかりましたね、僕って」

「雑誌見てたら、偶然、勝間さんの写真があって、閃いた」

「かなりの名探偵ぶりだったよ、美苗」と雪仁は言ったあと、美苗は忘れていそうなので「ミスチル」と囁いた。すると、美苗は

「あと、ミスチル」と唐突に言った。すると勝間さんは、

「シンカイ!」と合いの手のように応えた。

一番驚いたのは七瀬さんで、「すごい」と呟いていた。

「この前テレビ見てて、ミスチルの特番。そしたら『深海』借りてたこと思い出して連絡しなきゃと思ってたら美苗さんからメールがきて」

「あたしも見ました、それ。で、『深海』聞こうって思ったら無くて、雪仁に聞いたら勝間さんが借りていったと。あたしは忘れてたんですけど」

「見せてもらっていいですか?シンカイ」と七瀬さんが、小さな声で言うと、勝間さんはテーブルの引き出しからCDを取り出した。

CDを受け取った七瀬さんは、ジャケット写真をしばらくじっと見つめたまま黙っていた。

「どうしたの、香津海?」と美苗が聞くと

「なんか、イメージとちがって」

「シンカイの?」

「私のは、魚がいます」

「深海魚ね。でも本当の深海は、真っ暗だよ」と雪仁。

「それじゃあジャケットにならないでしょ。でも貸してあげる」

「あれっ、美苗さん聞かないの?」と勝間さん。

「聞くよ。でも先に香津海」

「七瀬さん、ちょっとシンカイに縁があって」と雪仁。

「シンカイに縁?」

「はい。私の大切なものが深海に沈んでいるかもしれなくて」

「うん、よくわからないけど。やっぱり不思議なこと言うね」

「詳しくは今度またね」と美苗が遮って、深海話はとりあえず終わった。

「勝間さんは、まだあのインテリア雑誌やってます?」

「はい、やってますけど、なにか?」

「香津海の家、すごいの。もし、取材先探してたら、絶対いいよ、ね」

「でも、お父さんの許可はいるよね?」

「取材ですか?」と七瀬さん。

「そう、ウチも取材してもらったインテリアの雑誌。謝礼はちょっとだったけど、記念に」

「はい、謝礼とかはいいんですけど」

「それはそうね、香津海んち、お金持ちなの」と美苗が勝間さんの顔をみる。勝間さんは、

「そんな雰囲気してます。なんか世の中との距離感が。スレてない」

「そんなことないです。ただいまはたまたま父の事業が上手くいっているというだけのことで、お金持ちの家柄とかでは全然ないんです」

「でもさ、ほんとにお父さんOKだったら受けなよ取材。あたしたちも立ち合うからさ、大丈夫」

「立ち合うの?ただ七瀬さん家に行きたいだけじゃん、美苗は」

「そうよ、何か悪い?香津海、いいよね、また行っても」

「あ、はい。いつでもどうぞ」

「言わされてる感あるけど」

「大丈夫大丈夫。勝間さんも見てみたいでしょ?一人暮らしの女の子の豪邸」

「気になりますね。一人暮らしで豪邸」

という流れで、七瀬さんはお父さんに確認したら「場所とか住人の名前が出なければOK」で、あとメイプルソープの写真は撮さないこと、という条件だった。理由は、言えないとのことだそうで、お金持ちには我々にはわからない事情があるのだろうと深くは聞かなかったが、幸いメイプルソープの写真があった壁には雪仁の絵が飾られているのだ。勝間さんのスタジオを訪ねてから三日後に、勝間さんとライターが七瀬さんの家に下見に行くことになったので、雪仁と美苗もついて行った。一度訪ねている雪仁と美苗は、エントランスから七瀬さんの棟の玄関まですたすた歩いて行ったのだが初めての二人はさすがにその豪邸加減にびっくりしていて、あちこちよそ見をしながら、かなかなやってこないので、七瀬さんの家の玄関でしばらく待っていた。勝間さんは、

「お話以上に豪邸です」

と七瀬さんに会うなり言って、あわてて同行しているライターを紹介した。ライターは、柿原さんという女性で、おそらく美苗と七瀬さんと同い年くらいのように見えた。

「おじゃまします」と美苗が先陣を切って入って行く。リビングのすぐ目につく壁には、雪仁の絵がきちんと飾られていた。またもや勝間さんとライターは、玄関からすでに圧倒されていてなかなか廊下を進んでリビングまでたどり着けない。七瀬さんはお茶を用意してくれて、雪仁たちは、とりあえずやることはないのでテーブルの奥に座って、下見の様子を見ていることにした。

「すごくいいですね。ぜひ取材をさせていただきたいのですが、どのくらいのページを割くかを一度編集部と擦り合わせをして、ご相談させてくだい。たぶん相当数のページを割く感じになると思いますが、よろしくお願いします」と柿原さんは、少し興奮気味に話した。七瀬さんは、「はい、わかりました」といつもの小さな声で答えただけだった。資料用にと部屋の写真を撮りまくっていた勝間さんが、「この絵は、七瀬さん?」の雪仁が描いた絵の正面に立ち聞いてきた。

「はい、中学生の時の私です。雪仁さんが描いてくれました」

「えっ、雪仁さんと七瀬さんて、同級生?」

「いえ、そうじゃなくて、私の中学生の頃のものは、シンカイに沈んでしまったので、雪仁さんにお願いして描いてもらったんです」

「ますますわからなくなっちゃった。説明して美苗さん」

「どこからにする、雪仁?」

「夢のこととか省いて」

「そうね。この前、香津海が家に来た時にね、雪仁が描いたあたしの中学生時代の肖像画を見てね。私のも描いて欲しいと。理由は、引越しの時に中学校時代の物を入れていたダンボールが紛失しちゃって写真とか全部なくなっちゃったんだって。で雪仁が描いた。そういうこと」

「でも、写真とかないのにどうやって描いたんですか雪仁さん」

「想像で」と雪仁。

「いや、妄想で。香津海、美人だから雪仁の妄想が炸裂した」と美苗が訂正する。

「確かにこんな子がクラスにいたらヤバイですよね」と勝間さん。

「でた。男の言うことは一緒だね。雪仁も同じこと言ってたよね」

そこまで会話に入ってこなかった柿原さんが、

「私もお願いしたら描いてもらえますか?」と言ってきた。

「えっ、柿原さんも?」

「雪仁、やっぱり絵描きだよ、音楽やめて」

「でも、どうして?」と勝間さんがみんなを代表して質問をした。

「このくらいの歳の頃の顔って、なんだか純粋でいいなって思っていて。ずるさがないというか。高校とかに入っちゃうどだんだんずるくなるんですよね。特に女子は」

「わかるわかる」と美苗。

「それで?」と雪仁は続きを促した。

「で、こういう風な絵があれば、これ以上ずるい顔にならないように、って毎日それを眺めるの」

「柿原さん、ずるい顔?」

「あの頃に比べればみんなそうだと思います」

「同感」と美苗と七瀬さんがユニゾンした。

「あれだよね、カメラ向けると顔作るあれでしょ、ちょっと待って、とか言って」とカメラマンの勝間さんが反応する。

「そうしないと、無理」と柿原さん。

「無理」と美苗と七瀬さんも口を揃える。

「需要あるね、雪仁。描きなよ。美人限定の条件もクリアーだし」

「美人限定なんですか?」

「いや、そういうわけでは」

「妄想で描くから、雪仁」

「写真があれば、それをもとに描くけど」

「いえ、妄想の方が楽しそう。妄想でお願いします」と柿原さんは、目を輝かせていた。

「なんと。そうなるとちょっとイメージの元になる個人情報が必要ですけど、大丈夫ですか?」

「はい、なんでも」

「あっ、七瀬さん、下見に来たのにこんな話になってしまって大丈夫ですか?」

「私は、全然」

「じゃあ、せっかくだから、聞かせてもらっていいですか?どこからでも、いいですが、中学校を卒業するまでの話で大丈夫です。それ以降の情報は必要ないです」

「なるほど。生まれたのは横浜です。元町とか中華街のあたりです。でも、いわゆる山手ではないです。下町です。父は植木職人で、母はパートで家の近くの鰻屋さんで働いていました、私が中学生の時は。弟が一人います。五歳下です。商店街のすぐ裏にある小さな家に住んでいました。借家というか、父の働いていた植木屋さんが持っていた家だったと思います。いつも父は仕事が終わると同じ職人仲間を家に呼んでお酒をのんでました。そういう時は、母がパートで働いていた鰻屋さんからうなぎを持って帰って来てくれるので、嬉しかった記憶があります。どちらかというと、裕福な家庭ではなかったのでそれが一番のご馳走でした。中学は陸上部です。短距離で、県大会までは行けたので頑張っていたと思います。成績は中の中、先生からも友達からも勉強については何の注目も浴びない生徒でした。いまでも時々言われるんですが、ちょっとハーフっぽい顔をしているので、ちょっとモテてたと思います。父も母も日本人なんですが。下の名前が麻理なので、マリーとか呼ばれてからかわれてました。でも、中三の夏休みに転校したんです。父の仕事の都合で。同じ横浜なんですが、港北ニュータウンという新しい街です。それまでの下町っぽい所とは全然ちがったので、馴染めませんでした。高校卒業して家を出るまで。なので、中学校の卒業アルバムは二つあります。もともといた中学校のは、写真撮影の時には転校してしまったんですが、中三の夏までいたのでもらいました。でも、写真は、欠席した子と同じで右上に丸枠です。新しい方は、ちゃんと写ってますが、一緒に写っているのが誰だかわかる人はほとんどいません。こんな感じで大丈夫ですか?」

「雪仁、こんなに聞いちゃって大丈夫なの?香津海の時はほとんど何も知らなかったじゃん、生い立ちとか」

「そうか」

「だから妄想できたんじゃない?」

「あ、でもね。大丈夫」

「なんで?」

「最初、柿原さんが言っていた、ずるくない顔、っていうのがポイントなんだよ、そう言ってた、そう言えば」

「誰が?」

「夢だよ」

「夢って?」と勝間さんが聞いてきた。

「もともとは、僕がよく見る夢の中で、中学生の頃片想いだった子が大人になって現れて、私の中学生の頃の絵を描いてって言われるんです。その子も言ってました。今の私はずるい顔だから忘れてと」

「さっき柿原さんが言ってたことと一緒だ」

「なので、大丈夫」

「もしかして今度は、柿原さんが片想いの相手ってこと?」

「そういうこと、だけど、七瀬さんの時も心配してたけど、大丈夫だった。美苗との関係には影響ないよ。ちなみに、柿原さんはクロール得意?」

「はい、得意です。中学校の時、先生からも褒められました」

「なんと、ここにもクロール美人」

「クロール美人?」

「そう、あたしも香津海もクロールが上手いの、雪仁は下手だけど」

「二人とも綺麗なフォームで泳ぐ。見分けがつかないくらい似てる」

「柿原さんも今度一緒に行こうよ、プール。で、三人でクロール比べ」

「楽しそうだな、それ」と勝間さん。

「勝間さんは、クロール出来る?」

「いや、苦手」

「ダメね、男子は」

「でも、とりあえずは、絵を」と柿原さんは話を戻した。

「そうね、雪仁、がんばれ!」

ということで雪仁は、今度はこの日初対面の柿原さんの中学生の時の肖像画を描くことになった。柿原さんは、確かにちょっとハーフっぽい美人だった。雪仁も、もしかしたらハーフかあるいはクォーターくらいかなと最初思っていた。ハーフっぽい中学生、メガネ美人の中学生くらい難しい課題だ。それこそ、資料はタレントだ、と一瞬考えたのだけれど、ずるくない顔、という点をクリアーしているか疑問だった。ハーフの子供タレントは、ちょっともうずるくなっているかもしれない。異国で大人に囲まれた華やかでドロドロした芸能界。ダメだ参考にならない、と雪仁は考えをリセットした。外国の子供をイメージした時、雪仁にはそばかすだらけの少女が浮かんでしまう。なにかそんな海外ドラマを見たせいかもしれないが、やはりそばかすは外せないと思う。

「柿原さんって、そばかすあったかな?子供の頃」

「さぁ、聞いてみたら」

「失礼じゃない?」

「今は無いから大丈夫じゃない?あたしも今はなくなったから聞かれても大丈夫」

「そう。じゃあ、聞いてみる」

柿原さんからは、こう返事が来た。

「はい、確かにありました、そばかす。それもあって、マリーとか呼ばれて外国人扱いされてからかわれたんだと思います。海外ドラマとかで出て来る子は、そばかすのイメージですものね。それで描いてもらっていいです。妄想、冴えてますね」

ということで、そばかすの少女の肖像画に取り掛かることにした。しかし、妄想が冴えてるというのはヤバくないのかと、ちょっと不安になった。

完成間近の絵を美苗に見てもらうと、

「またもや、カワイイ」

「ね、カワイイ、やっぱり」

「そばかすもいい感じ。やっぱりハーフ顔だからかなぁ。あたしのそばかすとは違う」

「美苗のそばかすは、もっと小さい時でしょ?小学生とか」

「まぁね。でもさ、これ、ちょっと髪、茶色くない?」

「バレた?ハーフをイメージするのに茶色い方がね、イメージしやすかったから」

「茶髪に制服はヤンキーだよ。浜のマリー」

「いそう、黒に塗り直すよ」

「そうした方がいい」

髪の色を塗り直し、そばかすの少女は完成した。これで、美苗と七瀬さんと柿原さんの三枚の肖像画を描いたことになる。よく日に焼けた少女とメガネ美人の少女にそばかすの少女。雪仁は、以前自分が言った言葉を思い出す「全然、普通の子。陸上部で、日に焼けてて、そばかすがあって、で、時々メガネ」。これは七瀬さんに片想いの子のことを聞かれてとっさに答えたときの言葉だ。

「三つ揃うとそういうことか」と雪仁は独り言をつぶやき、寝室にある美苗の肖像画と完成したばかりの、そばかすの少女を並べてみた。当然、二人は似ているわけもなく、ただ、柿原さんの言っていたずるくない顔という点では共通していた。七瀬さんのメガネ美人の少女も並べてみたいと思ったのだけれど、三つを並べるには、それこそ美苗が言うように絵描きになって個展でも開くしか方法はないと思って諦めた。(続く)




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by ikanika | 2017-09-12 21:49 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第四回

 絵が描き上がったので、届けに行くと七瀬さんに美苗がメールをしたら、「ありがとうございます。お礼にご飯を作ってお待ちしています」と返信が来たという。一人暮らしの女性なので、訪ねられるのは嫌がるかと思っていたのだけれど、豪邸だと勝手に思い込んでいる七瀬さんの家を訪ねることになった。当日は、まだ六月なのにもう夏の日差しが降り注ぐ日曜日で、七瀬さんの家までは歩いて行ける距離だったのでワインを持参していった。七瀬さんの家は、住宅街にある二階建の低層のマンションだった。まわりは豪邸と外国車ばかりの高級住宅地で、遠目からだと集合住宅とはわからないほど周囲の邸宅と馴染んでいた。エントランスを入ると中庭のようになっていて、そこに伸びる小径のような石畳みを一番奥まで歩いて行くと、七瀬さんの部屋のある棟に着いた。玄関は一階にあり、二階部分まで七瀬さんの部屋というか、建物だった。隣の部屋とはほとんど隣接部分は無く、ほぼ一軒家の感覚だ。

「さすがね」と美苗は独り言を呟き、七瀬さんの部屋に入っていった。家具はアンティークとモダンインテリアがバランス良く配置されていて、きちんと生活も営まれているという空気感もあり、理想的な住まいだった。

「ここに一人で?」と美苗が尋ねる。

「マンション自体は父の持ち物なので、時々両親が泊まりに来ますけど、基本一人です」

「ご両親は?」

「赤坂です」

「赤坂?港区?」

「会社と自宅を兼ねたビルがあって、そこに居ます」

「ビル?」

「はい、ビルですね。三十階くらいだったから」

雪仁も美苗も世界の違う話について行くのがやっとだった。七瀬さんの手料理は、有名料理家さんとかがつくる聞いたことのない食材や調味料を使ったプロっぽい無国籍な料理なのかな、と勝手に想像していたのだけれど、以外にも和食中心の家庭料理だった。七瀬さんの性格ゆえか、どれも丁寧に作られていて見た目も味も素晴らしかった。

「いい奥さんになるよ、香津海」と美苗は世話焼きの親戚のように七瀬さんの料理を褒めちぎっていた。

「では、本題の肖像画を」と雪仁は、鞄から絵を取り出し、七瀬さんに渡した。

「ありがとうございます。見ていいですか?」

「どうぞ、緊張するなぁ」と雪仁は、美苗と目を合わせた。

「本当に勝手にイメージさせてもらったんだけど、大丈夫?」

七瀬さんは、しばらく絵を見つめてから

「こんなにかわいくないですよ、ほんとは」

と嬉しそうに笑った。

「地味なメガネ女子だったのに」

「いや、ちがうね。実はメガネ取ると可愛いパターンの女子だったはず。想像したのはね、お金持ちのお嬢様で声が小さい、髪は長く真っ直ぐでサラサラ、シャツもソックスも見事に真っ白。成績優秀だけれど、余計なクラス委員とか係はあえてあてがわれない。あくまで七瀬さんは七瀬さんで、そこにいるだけでいい存在。当然ピアノも弾けて、運動は、球技は苦手だけれど、足は早く、体は柔らかく体操は得意。なぜなら小さい時からバレエをやっていたから。加えて、水泳が好きで、とても綺麗なフォームでクロールをする。なぜなら、別荘にプールがあるから。そして、メガネ」

「妄想しすぎですよ。家は普通のサラリーマンで、東京の町田の外れに住んでいて、父がラオス勤務になるまでずっとそこにいました。成績も普通、図書係、足は遅くて、バトミントン部、ピアノもバレエもやってません。でも、水泳は好きでした。そこだけ当たっています。地元の水泳教室に通っていて。別荘どころか社宅ですけど」

「雪仁、残念。妄想しすぎ」

「美苗だって、そんな感じだと思ってたよね?」

「うん、じゃあ、この家とか、赤坂は?」

「ラオスから帰って、しばらくしてから父が会社を起こしたんです。私が大学を卒業する頃には、なんだか家はお金持ちになっていて。父は、就職しないで自分の会社に来ればいいと言ってくれたんですが、私はその環境をすぐには受け入れられなくて、しばらく派遣とかで社会に出てみようと思って、その時に美苗さんにお会いしたんです。もともとごく普通のサラリーマン家庭だったから、いまだになんかしっくりきていません。このマンションも別荘も赤坂のビルもこの十年くらいの話です。いつどうなるかわからないと思っています」

「じゃあ、この絵、イマイチかな?」

「いや、香津海は、これくらい可愛かったはず、ぜったい」と美苗が七瀬さんが答えるより先に口を挟んだ。

「自分では、わからないんですけど」

「中学校の同級生にリサーチしてみればいいんだよ」

「あぁ、いいね、それ。楽しそう」と美苗はかなり前のめりになった。

「いいですよ、どうせ地味で覚えてないとか言われますから。雪仁さんの片想いの人は、お嬢様だったんですか?妄想したみたいな」

「全然、普通の子。陸上部で、日に焼けてて、そばかすがあって、で、時々メガネ」

「可愛い。そばかすって」

「そうなんだよ、なぜか、可愛いよね」

「キャンディキャンディ」と美苗。

「古いのよく知ってるね」

「歌えるよ、あれ。あたしもそばかすあったから、昔は。でも、大人というか中学生になったら消えてた」

「そうなの、知らなかった」

「これ、飾っていいですか?」と七瀬さんは、肖像画をもって部屋をうろうろしている。

「この写真と取り替えちゃおうかな」と七瀬さんは、モノクロの写真の飾ってある壁を指差した。

「それ、有名な人のだよね、高いんじゃない?」

「たぶん高いです。でも、なんか暗いから好きじゃないんです。父の趣味」

「そこに僕の絵は、恐縮だなぁ」

「娘の肖像画だったら、父は許すよ、ぜったい」と美苗が言い切ったので、雪仁の絵はそこに飾られることになった。外されたモノクロ写真は、後で聞いたらメイプルソープのオリジナルプリントだったそうだ。

「今度さ、どっちが綺麗か競争しようよ、クロールの」

「なんですか、それ?」

「プールでクロール美人にあったらやろうと思ってたの。速さじゃなくて、どっちのフォームが綺麗かの競技。雪仁が審判」

「雪仁さんは、美苗さん選びますよね」

「それが、なんか区別つかないみたいなの。この前、私が泳いでいるのを見てて、ずっとクロール美人かと思って見てたとか言うし。だから、同じ水着と帽子とメガネだったらぜったい見分けられないはず。やってみない?」

「おもしろそう。美苗さん身長何センチですか?」

「157」

「あっ、一緒ですね」

「雪仁、いつがいい?」

「本当にやるの?」

「やる、ね、香津海」

「はい、審判、お願いします」

 平日の陽が暮れた頃の、プールのすいている時間を狙って、クロール綺麗競争を開催した。狙い通り、誰もいないプールに三人が揃った。お揃いの水着と帽子とメガネの美苗と七瀬さんは、どこかの代表チームの選手のように見える。雪仁は、コーチのように、水着の上にジャージを着ている。

「じゃあさ、雪仁は私たちが飛び込むまで後ろを向いていて、飛び込んだ音を聞いたら振り向いて。そうすれば水の中の二人だけ見ることになる。二往復するから、最後のタッチの前でまた後ろを向いて。そしてジャッジ。いい?香津海もオッケー?」

「勝ったらどうなるの?」と七瀬さん。

「特に賞品とかは無し。名誉のみ、クロール美人として認定」と美苗。

「それだけ?」と雪仁。

「いいから、やるよ。誰か来る前に。雪仁、後ろ向いて。香津海、せーので飛び込みね」

「はい」

しばらく間があって

「せーの」と二人が声を合わせて飛び込んだ。雪仁は、振り向き二人のクロールを見つめる。二人とも呼吸を合わせて同じストロークで泳いでいく。雪仁には全く違いがわからない。どちらもとても美しいフォームだ。水面を滑るように泳ぐ姿は、二人とも確実に前世は魚だったに違いないと思わせる。二往復目で体半分くらい一コースのクロール美人が遅れる。でも、フォームは乱れずに美しいまま、最終ターンを終えた。このままでは、ほんとうに差が無いので、勝ち負けのジャッジが出来ないと思っていたら、急にプールの照明が消えて、非常灯の明かりだけになった。泳いでいた二人は、それに気づいたようだったが、最後まで泳ぎきりプールサイドに上がってきた。暗さに目が慣れていなかったので、どちらのコースから誰が上がって来たのかはわからなかった。

「停電?」

「なんか事故かなぁ」

「地震とかなかったよね?雪仁」

「うん、揺れてはいない」

「ちょっと待ってみよう」

「どうだった?あたしたち」

「区別がつかない、全く一緒。ジャッジは無理だよ」

「ほんと?」

「ほんとに。同点引き分け、二人ともクロール美人認定」

「なにそれ」

「ちなみにどっちがどっち?」

「一コースが香津海」

「そっか。まぁ、それを聞いたからってジャッジは変わらないけどね」

「なんか、釈然としない」と不満気な美苗。

「じゃあさ、今度、動画撮るから見てみなよ」

と言っていると、受付の青年が現れて状況を説明した。

「すいません、原因がまだわからないのですが、近所一帯が停電みたいです。なので、ロビーは非常用電源で明るいので移動していただけますか?」

「びしょびしょだよ、あたしたち。更衣室は?」

「ロビーだけなんです、非常用電源が繋がってるのは」

「ここでいいよ。目も慣れて来たから大丈夫。水には入らないから」

「そうですか、すいません。様子がわかったら知らせに来ますので、しばらくお待ちください」

「了解」

スマホも更衣室においてきているので、状況を調べることもできない。ただ濡れた水着のままプールサイドで待つしかなかった。

「水には入らないって言ったけど、入ってみない?雪仁も水着、着てるよね?」

「うん、この下、水着」

「真っ暗なプールなんて、なかなかは入れないよ。雪仁の夢みたいに真ん中でぷかぷか浮いてみようよ。天井も開いてるから星見えるかもよ」

「いいですね、それ」と七瀬さんも乗ってきた。

「危なくない?大丈夫」と雪仁だけが慎重だったが、真っ暗なプールにぷかぷかする誘惑には勝てなかった。

 三人でプールの真ん中に浮かんで夜空を見上げた。僅かだけれども開いた天井から星も見えた。プールの水を循環させるモーターも空調も止まっているせいで水がわずかに揺れてコースロープにあたる音しか聞こえない。三人とも黙っている。そうすることが正しいと感じていた。雪仁は、いつもの夢を思い出し、飛び込み台の方に視線を向けた。でも、そこには、飛び込み台に座ってスカートから伸びる細い脚をパタパタさせている片想いの女の子の姿はなかった。横に浮かぶ二人は眠っているように静かに漂っている。雪仁は、目を閉じてさっきの二人の綺麗なフォームのクロールを思い出していた。突然、天井の照明がつき、モーターの低い回転音が聞こえ出した。プールサイドから受付の青年が叫んでいる

「大丈夫ですか?聞こえますか?」

雪仁は、大丈夫という合図のつもりで右手を上げ、プールサイドに向かって泳ぎ出した。でも、二人のクロール美人は、その声を無視したまま漂っている。やがて館内にアナウンスが流れる。

「先程の停電の為、只今から全館の安全点検を行いますので、本日の営業は終了させていただきます。館内のお客様は、誠に申し訳ございませんが、速やかにお帰りの準備をお願い致します。詳しくはお近くのスタッフにお尋ね下さい。ご協力のほどよろしくお願い致します」

それでようやくクロール美人の二人は、泳ぎ出し、プールサイドに上がってきた。

「先に着替えて、ロビーにいるね」

「わかった。後でね」と美苗は七瀬さんと女子更衣室に入っていった。あの二人は、プールに浮かびながら何を考えていたのだろうか。ずいぶんと静かに横たわっていた。目を開けていたのか閉じていたのか、星を見ていたのか眠っていたのか、後でそれぞれにきいてみようと思う。ロビーに出ると受付の青年が寄ってきて、すいませんでした、と再度謝るので、

「君のせいじゃないからいいよ、電力会社とかそっち関係のトラブルでしょ、仕方ないよ」と言うと、

「あのお二人、クロール綺麗ですね」と言うので試しに

「どっちのが綺麗なクロールだと思う?」と聞いてみた。

「難しいですね、どちらも。差はないですよ。似てますけど、姉妹とか?」

「いや、友だち。似てた?」

「はい。顔というより、骨格ですかね」

「骨格?」

「はい、骨格が似てると腕の動きとか、泳ぎも似てくるんです」

「なんとなく理屈はわかる気がする。水泳部?」

「いえ、大学で、スポーツトレーナーの勉強をしていて」

「体育大学?」

「はい、そうです」

「あっ、来たよ、二人。君たちは骨格が似てるって、彼が」

「骨格マニア?」

「違うよ、大学で勉強してるんだって、トレーナーの。なっ?」

「はい。二人のクロールが似ているのは骨格のせいだと思います。関節の可動域とかが、ほぼ同じ感じで、だから泳ぎが極めて近いものになっています」

「ほら、専門家がそう言うんだから、僕が見分けられないのも、頷けるでしょ」

「なんか握らせた?彼に」

「いえ、なにもいただいてません」

「冗談よ。骨格が似てても、性格は似てないね」と美苗。

「そうですか?根本は近いのかなって、この前からちょっと思ってます」と七瀬さん。

「嬉しい。こんな可愛い子に似てたら、ね」

「美苗は、可愛いよ、大丈夫」

「大丈夫が余計」

「ほんと、美苗さん、可愛いです」

「二人してなに言ってんの。帰るよ」

 帰りは三人でトンカツ屋に行くことにした。トンカツと天ぷらと寿司は、外で食べるのがいい、というのが美苗と雪仁の共通の認識で、それぞれ行きつけを見つけている。トンカツ屋は、田園調布と決めている。テーブルに着いてカツが来るのを待つ間、プールに浮かんで何を考えていたか二人に聞いてみた。美苗の答えは、「目を閉じたら深海に沈んでいくような感覚で、なにもきこえなくなって、たぶん眠ってた。ミスチルの深海のジャケットの椅子に座って、雪仁の下手なクロールを見て、ちゃんと教えなきゃって思ってた。そしたら館内アナウンスが聞こえて、起きたの」だった。七瀬さんは、「私は逆で、目を閉じたら星空に吸い込まれていくような感覚で、眠ってた。風の吹く音だけが聞こえていた。そして、どこかの海を見下ろしているの。ドローンの映像みたいにね。そうしたらダンボールが漂っているのを見つけて、よく見たら【中学 カツミ】って書いてあって、引越しでなくなったものだった。拾おうとして近づこうとしたら、ダンボールに水が浸みて沈んでいってしまって、その時、館内アナウンスが聞こえて起きたの」だった。

「雪仁は?」

「僕は、星を見てから、いつもの夢のように飛び込み台に女の子が座っていないか確認して、誰もいなかったから目を閉じて二人のクロールを思い出していた。そうしたら天井の照明がついて、受付の青年が叫んでいたから、プールサイドに上がった。だから眠ってはいなかった」

「分析して。スペシャリストでしょ。プールに浮かぶ深層心理」

「分析するほどのことはないじゃん。二人ともわかりやすい」

「そう?」

「うん、まず美苗は、僕のクロールがいつまでも上達しないことが気になっている。自分がちゃんと教えていないことも。ミスチルは、たぶん昨夜、テレビで特集を見たから。『深海』が聞きたくなった?」

「だいたいあってる。『深海』を聞こうと思ったんだけど見つからなかったの、買って持ってたはずなのに。誰かに貸した記憶もないし。雪仁、知ってる?」

「確かさ、あのスキンヘッドが、聞きたいって持っていったよね?すごい昔だけど」

「ほんと?よく覚えてるね、いつ」

「あのインテリア取材のとき」

「それだ。返してもらってない」

「もう五年くらい前だよ、あの取材。それから聞いてないってこと?」

「そうね、そんなもんでしょ、ひとしきり聞いたらね。また次の新譜もあるし」

「でも、繋がったね、メールするネタが出来た」

「呼ばれたかな、ミスチルパワー」

「なんですかそれ?スキンヘッドとかシンカイとか」と七瀬さんは不思議そうに尋ねる。

「香津海かと思ったメールね、カツマヒロシっていうカメラマンじゃないかってこの前判明して、その人スキンヘッドなの。で、そのスキンヘッドが『深海』を借りていった」

「シンカイって?」

「あっ、ミスチルのアルバム、CD。香津海はミスチル聞かない?」

「はい」

「『深海』いいよ、今度貸してあげる。スキンヘッドから返してもらったら」

「七瀬さんとミスチルは、ミスマッチだなぁ」

「そんなことないよ、国民的バンドだよ、みんな聞くべきよ」

「ベスト盤とかの方がいいんじゃない」

「いや、香津海には『深海』」

「シンカイでお願いします」と七瀬さん。

「私も分析してもらえますか?」

「七瀬さんは、引越しでなくなったものがずっと気になっているんだけど、この前、僕らに話したことで、それを改めて思い出した。ラオスと日本の間だから、なんとなく海に落ちたとイメージしている。実際は海に落ちるなんてことはほとんどありえないのに。たぶん配送センターとか空港での仕分けで間違えた」

「惜しいです。ずっと気になっているのは当たってます。でも、本当に海に落ちたんです。そのダンボールに入れていた表彰状の筒が高知の砂浜で見つかって、届いたんです。何年か前に。拾った人が表彰状の名前をもとに私を探してくれて」

「なんと、すごい話」と美苗。

「だから、海なんです。他のものはたぶん海の底に沈んでしまったんですかね」

「ほら、『深海』でしよ、やっぱり」と美苗。

「ほんとだ、すごいね美苗」

「偶然。もしかして、だからシンカイって、て聞いたの?香津海」

「はい」

「すごいね、プールの深層心理。で、雪仁のは?」

「自己分析か」

「じゃあ、あたしが分析する。雪仁は、片想いの思い出をずっと大事に抱えている。寝ても覚めても。あと、あたしたちの競争の判定ができなかったことを悩んでいる」

「そのままだね、どこにも繋がらない」

「きたよ、食べよう。雪仁、カツとエビ一切れ交換しよう」

「いいよ」(続く)



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by ikanika | 2017-09-10 15:46 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第三回

 七瀬さんの顔は、やはり雪仁の記憶にはなく、しかし、紛れもなくプールで見たクロール美人は、彼女に間違いないと思いながら二人の会話を聞いていた。

「雪仁、香津海だよ、覚えてる?七瀬さん」

「うん、お久しぶりです」

「こんにちは」と七瀬さんは、また小さな声で言った。こんなに小さな声で話す子だったろうかと、記憶を辿ってみるけれども、当然何も思い出せない。

「ということで、いいよね、雪仁」と美苗が言ったのだけれど、その前の会話を全く聞いていなかったので、適当に、

「うん、いいよ」と答えてみたら、どうやらこれから七瀬さんはうちに来て一緒にご飯を食べるという話になっていたらしい。

「ネバネバ素麺だけど、いいの?」と二人に聞くと、美苗が

「素麺、大好きだって」と答えて、七瀬さんは横で頷いていた。二人は車の後部座席に座り、ずっとおしゃべりをしている。聞こえるのは美苗の声ばかりで、時折、七瀬さんの声が聞こえるのだけれど、やはり小さな声なので内容までは聞き取れない。家に着くと、とりあえずビールで再会を祝い乾杯をした。雪仁は、冷蔵庫にあるものをかき集めてつまみをつくりながら、いつまでも続く女子トークを聞くとはなしに聞いていた。ネバネバ素麺が出来上がったので雪仁も一緒にテーブルに着いた。

「いただきまーす」と、すでに散々つまみを食べているのに美苗は元気に言って、七瀬さんにも、「どうぞ食べて」とすすめ、「わたしがつくったんじゃないけどね」というお決まりの一言を付け加える。

「でね、香津海、メール送ってないって」

「そう、じゃあ、広瀬さんとも結婚してない?」

「誰ですか、広瀬さんて?」と七瀬さんは小さな声で質問した。

「メールアドレスがね、ktmhrs76だったの、でね、そのアルファベットは、母音抜きだって雪仁が言うから、ktmは、カツミで、hrsはなんだ、ってことになって、ヒロセじゃないってことになって、つまり、七瀬香津海は、結婚して広瀬香津海になったんだよって妄想してたの」と美苗が説明した。

「すごい推理ですね。でもひとつあってます。アドレス、わたしも母音抜きです。ktmnnsです」

「ほんと?すごい」

「ほら、母音抜きって、よくやるよね?」

と雪仁が七瀬さんに同意を求めると

「はい」とまた小さな声で答えた。

「そうなの。あたしは知らなかった。そういうの、雪仁から聞くまで。じゃあ、あたしは、mnkしかないよ、母音抜きしたら。飯岡美苗」

「美苗みたいな名前の場合は微妙だね」

「微妙っていうか、そこから名前推測できないよ、絶対。飯岡なんて、kだけだもん」と言うと、七瀬さんのツボにはまったようで、顔を真っ赤にして笑いをこらえていた。

「じゃあ、誰だろうねメール。もう組み合わせ考えるの無理。ktmhrsは、ヒロセカツミしか考えつかない」

「まぁ、放っておけばいいよ。あれからメール来てないんだし、七瀬さんにはこうして会えたんだから」

「そうね。香津海、半年前から奥沢なんだって。住所は奥沢だけど、駅は、九品仏?」

「そう、商店街の方です」と七瀬さん。

「ヒロセカツミは、深沢だからな。ちなみに、七瀬さん、クロール上手い?」と雪仁は試しに聞いてみる。

「クロール?水泳の?」

「そう水泳」

「はい、水泳部でした」

「もしかして、あそこのジムに行ってたり?」

「はい、通ってます」

「美苗、クロール美人だよ、七瀬さん」

「ほんと?」と美苗はネバネバ麺を頬張りながら言う。

「さっきも行ってた?」

「はい、でも泳いではいません。帽子を忘れて、更衣室に。それを取りにだけ」

「じゃあさ、先週かな、朝、泳いでた?」

「えーと、水曜日に」

「ジムまでは、歩き?スポーツウェア着ていく?あそこの交差点通るよね?」

「尋問だよ、雪仁」

「はい、スポーツウェア着て歩いて、あそこの交差点は通ります。見られてました?なんか変なことしてました?」

「いや、大丈夫。見かけただけだから」

「実在したね、クロール美人」

「なんですか?そのクロール美人って」

「雪仁、説明して」

「水曜日の朝に、僕も泳ぎにいったんだけど、他には誰もいなくて監視員もいなかったからプールの真ん中でぷかぷか浮いてみた。なんでそんなことしたかと言うと、ずいぶん前からよく見る夢があって、それは真夜中のプールで浮いている夢でね、浮いていると昔片想いだった女の子が現れて、クロールを教えてくれるという夢。だからね、真夜中じゃないけど実際に試しに浮いてみた。そしたら誰かが飛び込んできて、綺麗なフォームでクロールをしていたので、見惚れていた。その日以来、クロール美人には会えていなくて、いつかまた現れるんじゃないかと期待してプール通いをしていた。美苗も会ってみたいと、どっちのクロールが綺麗か競争したいという。でも、全然現れないから、美苗には浮いているうちに寝てしまって夢を見たんだって言われて、そう思い始めていた。クロール美人は、夢の中のまぼろしだと。でも、七瀬さんに話を聞くとそのクロールをしていたのは七瀬さんで、夢ではなかったということがいま判明したというわけ」

「でも、まぼろしだったほうが、よかったかもですね、ロマンチックで。私じゃなくて」

「いや、事実がわかってよかった。そんな異次元的な話は興味ない人間だから、七瀬さんでよかった」

「いまだに夢に出てきてしまうその片想いの人に会いたくないんですか?」

「中学生のイメージで止まってるから、会わないほうがいいよ」

「でも、会わないとずっと夢見ません?」

「だからね、あたしが片想いの人になりかわることにしたの。ね?」

「どうやって?」

「絵を描いて。肖像画。あそこの」と言って

寝室のドアを少しあけて、絵を七瀬さんに見えるようにした。

「いい絵ですね。飛び込み台。でも、絵を描くとどうしてなりかわるんですか?」

「夢の中でね、その女の子は、ぼくに自分の肖像画を描いて欲しいと言うんだ。描いてくれたら、その代わりにクロールを教えるからと。もしクロールが出来るようになったら、僕は片想いじゃなくなってその子と付き合えるかもと。だから美苗の中学生の時の肖像画を描いて美苗を片想いの相手だったことにした。わかった?」

「もし、私を描いたらどうなるの?雪仁さんの片想いの相手になってしまうのかしら?」

「もう、美苗を描いたから、それはないよ、たぶん」

「じゃあ、描いて欲しいです」

「七瀬さんを?」

「はい、いまの私じゃなくて、中学生の時の私を」

「写真とかある?」

「なにもないんです。だから描いて欲しいんです」

「なにもないって?」

「大学二年の時、一年間だけ休学して父の転勤についてラオスに行っていて、日本に戻る時に荷物を送ったら、一部荷物が紛失してしまったんです。日本のトランクルームとかに預けていけばよかったんですけど。中学生の時の写真とか、昔の記念品とかはなくなってしまって。だから中学生の自分が欲しいんです」

「そうか、そんなことが。でも、どうやって描こうか?」

「雪仁さんの想像で、いいです。片想いの人に似てしまっても」と言って小さく笑った。

その表情は、どことなく片想いの子を彷彿とさせた。

「描いてあげなよ」と美苗も言うので、とりあえずいまの七瀬さんをスケッチさせてもらい、そこから中学生の時の七瀬さんを想像することにした。完成までは、少し時間がかかるかもしれないことを了承してもらい描き上がったら連絡をすることにした。七瀬さんは、歩いて帰れるというので、マンションのエントランスまで降りて見送った。

「かわいかったね、香津海」

「七瀬さんて幾つ?美苗より若いんでしょ?」

「同じ」

「そうなの、なんで敬語なの?」

「派遣で私が先輩だったから?あと、体育会系なんじゃない、ああ見えて、水泳部でしょ」

「そういうこと」

「じゃない、上下関係はきっちりするタイプ」

「美苗とは、ちがうね」

「あたしも体育会系よ」

「でも、なんか違う」

「育ちが違う、香津海、お嬢様よ」

「そうなの?」

「長野に別荘持ってた。派遣の時、一回行ったよ。すごかった。掃除機がね、壁にあるの」

「どういうこと?」

「各部屋の壁に穴があいていて、そこに管というかパイプ?掃除機の先っぽのところを差し込むとグイーンって吸い込むの。それで、ごみは外のタンクみたいなところに回収されて、そこにごみの回収車が来る」

「なんかテレビで見たことある、それ」

「豪邸のスタンダードなのかなぁ」

「じゃない。奥沢の家も凄いのかなぁ」

「どうなんだろうね、一人暮らしって言ってたけど。で、描けるの?想像で」

「わかんない、っていうか、どうなっちゃうかね」

「いずれにしても、美人だからいいよね」

「確かに」

 翌日から七瀬さんのスケッチを眺めながら、彼女の中学生時代を想像してみるのだけれど、どういう風にイメージしたらいいのか、考え方のポイントがわからず、作業は全く進んでいない。よくテレビとかで、芸能人の卒業アルバムの写真と今現在の美人になった写真を比較して見せられたりするけれども、おそらくそういう作業を頭の中でして描いていけばいいのだろうということはわかる。しかし実際そんなことができるのかというと、たぶん無理だ。特殊メイクでも老けメイクは、かなりの歳まで可能だけれど、大人が中学生になるというのは、子役の仕事だ。なので、ネットで七瀬さんに似ている子役を探してみるが、中学生女子のサイトばかりを見ていると自分が変質者みたいに思えてきて、すぐにやめた。結局、勝手に妄想するしかないという結論に至り、手はじめに自分の中学校の卒業アルバムを開いて、そこに七瀬さんがいたとしたらというイメージトレーニングをしてみた。お金持ちのお嬢様で声が小さい、というキャラクターがクラスにいる、と考えるとかなり具体的にイメージが湧いてきた。髪は長く真っ直ぐでサラサラ、シャツもソックスも見事に真っ白だ。成績優秀だけれど、余計なクラス委員とか係はあえてあてがわれない。あくまで七瀬さんは七瀬さんで、そこにいるだけでいいのだ。当然ピアノも弾けて、運動は、球技は苦手だけれど、足は早く、体は柔らかく体操は得意。なぜなら小さい時からバレエをやっていたから。加えて、水泳が好きで、とても綺麗なフォームでクロールをする。なぜなら、別荘にプールがあるから。これだけの情報が揃えば、描けそうだけれど、相当な美人中学生が誕生することになる。大丈夫か?中学生の雪仁は、本当に七瀬さんに片想いをしてしまわないか、と心配になる。ここでさらに美苗から新たな情報がもたらされる。

「香津海からメールでね、中学生の時は、メガネをしていたんだって。目が悪くて。だから雪仁に、メガネありでお願いします、って、オッケー?」

「オッケーだけど、中学生のメガネ美人って、難問だなぁ」

「確かに。中学生の男子ってメガネしてる女子が実はメガネを取ると可愛い、とか考えないもんね」

「そうなんだよ。水泳の授業で初めてメガネをとった顔を見て、ドキっとする」

「先にさ、メガネなしで描いて、後からつければいいんじゃない?」

「絵だからね、うまくいくかね?メガネの落書きしたみたいにならないかなぁ、フィギュアとかならその手があるけど」

「そっか、イタズラ書きだね、それ」

「まぁ、でもわかった。メガネは重要ポイントだな」

「がんばれ、雪仁!」

 雪仁が自分の部屋で、七瀬さんを描いていると、美苗が突然ドアを開けて、

「カツマヒロシ」と言う。

「誰?」

「勝間博よ、カメラマンの」

「誰だっけそれ?」

「何度かさ、取材で来たじゃんウチに。あのインテリア取材の時も。スキンヘッドの」

「あぁ、スキンヘッド。が、どうしたの?」

「メールよ、あのktmhrs」

「ほんとだ」

「苗字が先だけど、あとsと最後にhがないけど、いいんだよね、これ母音抜きだよね」

「厳密な決まりはないから」

「じゃあ、絶対そうだ。ビンゴ」

「よくわかったね」

「雑誌見てたら、勝間さんの写真があって、カツマ?カツミ?同じじゃんって。そしてヒロシ、ヒロセではなく」

「探偵みたいだな、美苗」

「で、1976年生まれだから、76」

「そこまで調べた」

「ウィキで」

「個人情報ダダ漏れ」

「でも、返信しない方がいい?万が一、人違いの可能性あるかな?やっぱりヒロセカツミが実在したりとか」

「大丈夫だと思うけど。念のため、勝間さんの知り合いに聞いてみたら?アドレスと、あと最近深沢に引っ越したかとか」

「そうだね、そうする。誰か編集者の子が知ってそう」

「ちょっと見て。どう?」と描きかけの七瀬さんを美苗に見てもらった。

「カワイイ」

「カワイイよね、こんな子がクラスにいたら男子全員好きになるよ」

「でも、香津海は、本当にこんなだったかもよ」

「いいかな、こんな感じで仕上げて」

「でも、メガネはこれから?」

「そう」

「それ次第じゃない。メガネ描いたら可愛くなくなるかもよ。メガネが似合わないかもよ」

「そっか、メガネないとダメかな?」

「ダメだよ、香津海の思い出なんだから。雪仁の好みは関係ないの」

「確かに。でも、美人は大抵メガネ似合うから大丈夫か」

「まぁ、そうだけどね」

「メガネ描いたらまた見て」

「いいよ。雪仁、音楽やめたら絵描きになりなよ。あなたの中学生時代描きます、とか言って」

「美人限定でね」

「客は選べないの」(続く)


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by ikanika | 2017-09-06 19:16 | Comments(0)

揺らぐポートレイト  連載第二回

 雪仁は、三年前からフリーのレコーディングディレクターをしている。レコーディングをするアーティストの録音現場を取り仕切る仕事と言えば、なんとなく想像つくかな、と美苗に説明したことがあるのだけれど、実際どんなことをしているのかがわからない、と言われた。おそらく大多数の人がそう言うだろうと雪仁も思っているのだが、他に上手い説明が思いつかなかった。ある日テレビを見ていると、新人アーティストのレコーディング風景が映っていた。

「雪仁は、どれ?」と美苗が大きな声できくので、雪仁は立ち上がって画面の前まで行き、アーティストが入っているガラスブースの外で椅子に座って何かと指示を出している男を指差して、「こいつ」と言った。

「偉そう」

「偉いよ、現場監督だから」

「へぇ、すごいじゃん」

「いまさら知った?」

「でも、大変そう。雪仁がオッケー、とか言わないとダメなんでしょ?」

「そうだよ」

「責任とれないよ、そんなの、あたしだったら」

「だから、売れなかったら、クビ。次はない」

「こわー」

「売れればいい」

「そうだけど、売れる売れないは、雪仁だけの責任じゃないじゃん」

「まぁ、そうだけど、一番責任取らせやすい。あんな風に偉そうだから」

「偉そうにしなければいいじゃん」

「偉そうにしないと、現場が締まらない。アーティストとかミュージシャンは、時間とか予算とか関係ないから、黙ってたらいつまででもやってる。だから、僕が適当なところで終わらせる為にいる。オッケーイコール終わりってこと。信頼感のある憎まれ役」

「かわいそう」

「だよね」

「やめちゃえば」

「なんで?」

「だって、なんだか理不尽よ」

「でも、音楽も録音現場も好きだから」

「売れるといいね、神倉さん」

「神倉さんの作品は、多分、十年後も聞かれると思うよ。普通にヒットするとかしないとかいう尺度じゃないところで残っていくと思う」

「でも、ヒットしないと雪仁はクビでしょ」

「そこが微妙なとこだな、神倉さんの仕事は」

「あたしも好きよ、彼女の歌」

「ありがとう」

美苗との会話は、いつも自由だ。雪仁には、その自由さが今の自分にとって救いになっていると思っている。

 その後、ヒロセカツミことktmhrs76からはメールはなく、美苗も「香津海じゃなかったのかな」と自分の推理に自信をなくしていた。六月になると雪仁が通っているジムのプールは、天気が良い日には開閉式の天井を開けるようになる。そのタイミングで美苗も気まぐれに「あたしも泳ぎたい」と言って、ジムについてくる。しかし、雪仁は、もっぱら朝早くに泳ぎにいくので、朝が弱い美苗とはなかなか一緒に出かけられない。それでも、月に三、四回は、二人で早朝のプールに行く。

「この前、綺麗なクロールの女性がいたって言ってたよね」

「残念ながら、あれ以降、見かけない」

「今日とかいないかなぁ、いたら競争するのに」

「競争?」

「どっちが綺麗か競争。雪仁が審判」

「フェアーなジャッジが出来かねます、身内なので」

「いいよ、別に、その人の方が綺麗だと思ったらそう言って」

「いや、美苗の方が綺麗だった」

「テキトー、あたしの泳ぎ、ちゃんと見てないくせに」

「見てるよ」

「うそつき」といたずらに笑って、美苗は更衣室に入っていった。

 雪仁は、着替えを済ませ先に泳ぎはじめていた。ターンをしてコースを反対方向に戻っていると、一番端のコースに女性が飛び込み、綺麗なフォームのクロールをしていた。そのコースは、前に見たあの女性が泳いでいたコースだったので、もしかしたらと思って美苗を探しつつ端のコースの女性が泳ぎ切って上がってくるのを待った。美苗の姿が見当たらないうちに、端のコースの女性が上がってきた。よく見るとそれが美苗だった。

「雪仁、見てた?あたしの泳ぎ」

「綺麗なクロールの女性かと思った」

「綺麗なクロールの女性じゃないの?あたし」

「いや、綺麗」

「テキトー」

「本当に、綺麗なフォームだった」

「アーウィンショーよ、それじゃあ」

「夏服を着た女たち」

「競泳水着を着た女たち、だよ」

「クロールで泳ぐ女たち」

「競泳水着でクロールする女たち。どれもイマイチ。やっぱり、夏服だね」

「サマードレスの訳なんだよね、あれ」

「サマードレスの女たちじゃ、なんか、いけ好かないね」

「いけ好かないって、いいね」

「なにが?」

「なんとなく、的を得ている」

「ありがと」

そろそろ混み始める時間なので、雪仁と美苗はいつものパン屋さんに寄ってから、家に帰って朝食にすることにした。

「やっぱりいなかったね、クロール美人」

「うん」

「雪仁、本当に見たの?もしかして、ぷかぷか浮いているうちに夢でもみてたんじゃない?」

「いや、見た、夢じゃない」

「クロールトラウマで、クロール美人が出てきたんだよ」

「・・・」そう言われると雪仁はそんな気もしてくる。もともとプールにぷかぷか浮いていたのは夢の中のことで、この前は誰もいないのをいいことに悪ふざけで浮いてみたのだ。それもほぼ徹夜明けだった。寝てしまっても不思議ではない。だとしたら、この前信号待ちの交差点で見かけた女性はなんだったんだろう。雪仁の中では日が経つにつれて、あの女性がクロールをしていたと確信を持って言えるようになっていた。でも、それが七瀬香津海なのかどうかは雪仁にはわからない。六年前にほんの数回、家に来て食事を一緒にしただけなので、正直、記憶が曖昧なのだ。ただ、七瀬香津海という名前は、女優さんの名前みたいだね、と会話をしたので記憶に残っているのだ。

 その日は、雪仁は午後からスタジオで美苗は、夕方から打ち合わせでそのままご飯を食べて帰ってくるという。なので雪仁の夕食は、外食か、スタジオで弁当か、早く終われば帰ってきて作る、という三択になる。自分の車での移動なので、前者二つは晩酌が出来ない。やはり晩酌はしたいので出来れば帰ってきて作りたいのだけれど、録音が予定通りに終わるかはやってみないとわからない。今日は、神倉さんの録音ではなく、急に今日中に一曲だけ仕上げてほしいという単発の仕事なので終わりの時間は全く見えていないのだ。ギャラがよかったので受けたのだけれど基本あまりやりたくない仕事だった。案の定、現場はアーティスト、事務所、レコード会社、タイアップのクライアント、代理店と録音作業には直接関係のない輩がわんさかといて、全くクリエイティビティのない録音だった。雪仁は、時間をかけたからといっていいものが出来上がる現場ではないと判断し、そこそこのところで終わらせるつもりで臨んだ。おそらく事務所の社長がキーマンだろうと判断し、基本、社長に意見を求めることにした。社長は、雪仁と同学年だということが途中から判明し、ただそんなことだけで雪仁のジャッジを百パーセント信頼し、作業は予定よりも早く終了し、みんな満足気に帰っていった。予定よりもずいぶん早く解散になったので、家で晩酌が出来るなと思い、途中買い物をして帰ろうと家に向かって車を走らせた。いつものジムが近づいて来て、まだずいぶん時間が早かったので、ちょっとだけ泳いでから帰ろうかと思いつく。もしかしたら、クロール美人がいるかもしれないし、とも思いつつ駐車場に車を停めた。いつもの受付けの青年は、雪仁が普段来ない時間に現れたので、「珍しいですね、こんな時間に」と声をかけてきた。

「仕事が思いのほか早く終わって。晩飯までちょっと時間があったから寄ってみた」

「ありがとうございます。ちょうどプール、ガラガラですよ」

「ラッキー」

 この時間は、いつもこんな感じなのかと水着に着替えて、プールに向かう。外は少しだけ暗くなり始め、照明が点いたばかりという雰囲気だった。天井も開いていて、とても気持ちがいい。早朝もいいが、夕暮れ時もありだなと思いながらクロールをする。誰かが現れる気配もなく、雪仁の一人の時間がゆっくり流れる。受付けの青年にクロール美人のことをきいてみようかと、考える。あれだけ綺麗なフォームでクロールをするのだから、知っているはずだと思う。しかし、もし、美苗が言うように本当に雪仁の夢だとしたら、変わり者だという噂がジムのスタッフ内に広がりかねない。それはリスキーだと考えて聞くのはやめた。一時間ほど泳いで、着替えを済ませて男子更衣室を出ると、同時に隣の女子更衣室に誰かが入っていくのがわかった。はっきり姿を見たわけではないのだが、なんとなくあの女性のような気がした。もう着替えてしまったし、また更衣室に戻って着替えるのもずいぶんおかしな行動だし、さっき男子更衣室にも一人これから泳ぐ為に着替えをしていた人もいた。雪仁が戻ってまた水着になったらなんと思われるだろう。どう考えても、プールに戻るのはやめたほうがよさそうだった。二階からガラス越しにプールが観れるはずだと思い、とりあえずロビーに出て階段で二階に上がった。手ぶらも変なので、自動販売機で水を買い、スマホを片手にガラスの前に立ってプールを見下ろす。撮影禁止のマークがあったのでスマホはポケットにしまった。しばらくすると、あの女性らしき人が帽子とメガネをかけて、プールサイドに現れた。二階からだと遠くてやはり顔は認識できないが間違いなく彼女だと思えた。この前と同じように一番端のコースに綺麗に飛び込んだ。まるで魚のように滑らかな入水だった。その後、あの綺麗なフォームでクロールをする。この前の美苗のクロールと区別がつかない程似ていた。美苗の言っていた綺麗競争をしたら、ジャッジできないくらいにどちらも綺麗だと雪仁は思う。しばらくぼんやりとそのクロールを眺めていると、泳いでいるのは美苗なのではないかと思えてきた。そう思い始めると見れば見るほど美苗にしか見えない。更衣室の入り口で感じた気配は、あの女性を探すことに囚われている自分の勘違いだったのではないか。プールサイドに上がった女性は、帽子とメガネを取り、首を寝かして耳に入った水を出している。よく見るとやはり、それは間違いなく美苗だった。打ち合わせと食事会と言っていたのにどうしてここにいるのだろうか。なにか事情があってキャンセルになったのだろうか。とにかくロビーで美苗が出てくるのを待つことにした。

「美苗」

「あれ、なにしてるの?」

「同じ質問を返すよ」

「編集長が急性胃炎とかでドタキャン」

「録音、早く終わらせたから」

「なるほど」

「なるほど」

「気があうね、私たち」

「でも、こんな時間に来たのは初めてだよ」

「あたしは、そうでもない」

「そうなの。買い物ついでに時々。いつもガラガラだからこの時間」

「そうだよね、ガラガラ」

「買い物した?」

「まだこれから」

「じゃあ、して帰ろう」

「うん」

 車に乗り込み、家とは反対方向の駐車場の広いスーパーに向かった。家の近所のスーパーは駐車場が小さいので、この時間はタイミングが悪いと駐車待ちになってしまうのだ。

「今日もクロール美人いなかったね」

「実は、僕、二階からずっと見てたんだ、クロール美人」

「えっ、いたの?」

「クロール美人だと思って見てたら、美苗だった」

「なにそれ」

「見分けがつかなかった、泳いでいる姿だと」

「そんなに似てた?」

「うん、一緒。綺麗競争しても勝負がつかないよ」

「なにー!」

「やっぱりさ、夢だよ。夢であたしが泳いでるのを見たんだよきっと」

「そんな気がしてきた」

「そういうことにしておきな。クロール美人は、実は妻でした、って。たぶんさ、あの絵、肖像画描いたでしょ。それでさ、夢に出てくる片思いの女の子もさ、あたしに入れ替わったんだよ。夢の中の過去を追認した結果。だから、残念ながら片思いの女の子の思い出は消えてなくなっちゃったんじゃない」

「なんと。美苗が片思いの女の子か」

「そう、雪仁は、中学生の時の片思いの女の子と結婚できた幸せな男でした。めでたしめでたし」

「微妙。淡い思い出が消えたか」

「叶わなかった恋はいつまでも美しいからね」

「歌詞みたいだな、売れない歌手の」

「だから、忘れていいの」

「なるほど。美苗、説得力ある」

「今日、なに食べる?」

「蒸し暑いから素麺?」

「いいね、ネバネバいっぱい買っていこう。納豆、オクラ、長芋、あと、なんだ?」

「もずく?とか」

「そんな感じ。あとビール」

買い物を終えてスーパーの駐車場に出ると、美苗が立ち止まり急に振り返って

「香津海?」と言った。

声を掛けられた女性は、振り返り美苗を見つめる。しばらくして、ようやく美苗だとわかり、

「美苗」と小さな声で言った。(続く)



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by ikanika | 2017-09-02 23:13 | Comments(0)


cafeイカニカ コラム


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