『東京で見える星の数』

8月以来の小説の掲載です。

今回は、一番最初に掲載した『二人の居場所』と同様に

女性が主人公です。

男の僕が、女性を主人公にして書くことは

ちょっとおかしなことかもしれないと思ったりするのですが、

フィクションとして書くには、なんとなく同性よりも書きやすい、

という感覚があります。

同じ男だと、自分を投影しすぎて

フィクションになり得ないケースがあったりするからかもしれません。

では、楽しんで読んでいただけると嬉しいです。


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東京で見える星の数



 朝、出かける前にベランダに干していった洗濯物を取り込む。もう夜の十時をまわっている。こんな時間まで干したままにしておくのは、良くないなといつも思うのだけれど、仕方がない。部屋干しや乾燥機で干したものは、やはり気持ちが悪い。ベランダから空を見上げる。東京でも星は見える。いつかどこかの高原で見た星空は、東京の空とは全く違った。星が多すぎると思った。白い細かい塵が、ばら撒かれているようだった。東京で見える星の数くらいがちょうどいいと、その時に感じた。すっかり都会人だな、と心の中で呟き、都会人という言葉に笑いそうになる。四国の田舎で育った自分が都会人なんてと。でも、気づけばもう東京での暮らしの方が田舎での十八年間を上回ってしまっている。まもなく自分が四十歳になるなんて信じられない、というか実感がない。四国での十八年と東京での約二十年は、全く密度が違っていて、東京での時間は薄めすぎた梅ジュースを飲み続けているような気分だ。いまからまた洗濯をして、夜の間、干しっぱなしにしても大丈夫かなと、もう一度、夜空を見る。雲はなく、まばらに星が見える。

「美優ちゃんの背中にはホクロが三つあるんだね、夏の大三角と同じ位置に」

二十代の前半に付き合っていた人は言った。夏の大三角のことを知らなかったので、この人何を言っているんだろうと思った。

「なにそれ?大三角って?」

「知らないの?ベガとアルタイルとデネブを結んで出来る三角形だよ」

「?」彼が何を言っているのかわからない私。

「俺、高校の時、天文部だったんだ。その時、好きだったバンドが天体観測っていう歌を歌ってて、それに影響されて」

「そっかぁ」

「女の子って、星座とか詳しくないの?」

「そういうもの?星占いくらいは見るけど、どうなんだろう。私は全く興味ない、星座とか」

「でも、綺麗な夏の大三角だよ」

「褒められてるのかわかんないけど、ありがとう」

そんな会話をしたことを思い出す。今、空に夏の大三角が見えるのかわからないけれど、雨は降りそうにない。さっき後輩にワインをこぼされてしまったスカートをシミにならないように洗うことにする。二十年も同じ会社にいるのに部下はいない。後輩はたくさんいるけれども。いつでもすぐに簡単にやめられるようにと、昇進試験を頑なに受けずにきたのだけれど、気づけばたくさんの部下とは呼べない後輩に囲まれている。役職は無いものの実質的に管理職に近い役回りをあてがわれているのだから、きちんと試験を受けてそれなりの役職手当をもらったほうがよかったと時々思う。でも、いつでもやめられる気楽さに満足もしている。


「美優さん、ちょっと相談があるんですけど」と声をかけられたのは、先週の木曜日だった。昼休みのランチから戻ってエントランスロビーでスマホのメールをチェックしている時で、顔を上げると新堂さんが目の前に立っていた。

「あっ、はい、どうぞ」突然声をかけられたので、少し間の抜けたような返事になってしまった。

「あっ、今じゃなくて、どっか時間くれますか?夜とか」

「夜?」

「はい」新堂さんはちょっと真面目な顔になっていたので、それがおかしくて思わず笑ってしまった。

「何かおかしかったですか?」

「いや、真面目な顔してたから、ごめんなさい」

「あっ、はい、どうですか?予定とか」

「新堂さんは?」

「僕はいつでも、合わせます」

「じゃあ、明日は?」

ということで、翌日の金曜日の夜に約束をした。場所は、新堂さんがその日のうちにメールをしてきて、自由が丘にあるこじんまりとしたビストロに八時に待ち合わせをした。相談と言っていたけれど、こういう場合はたいてい告白だと思った。恋愛の話じゃないとしたら、なんなのか、その方が想像がつかない。部署の違う新堂さんと仕事の話があるとは思えないし、何か怪しい勧誘をあの真面目そうな新堂さんがするとも思えなかった。金曜日、いつもより少し綺麗めのワンピースを選んで出勤をした。自分がなんとなく浮き足立った気分でいることが不思議だった。けれども、午前中の早い時間に新堂さんからメールが入る。

___新堂です、ごめんなさい、急な出張でこれから山梨に行くことになってしまいまして。今夜のお約束は、また改めて、ということにさせてください。戻ってきても十一時をまわってしまう感じなので。よろしくお願いします。また、ご連絡します。

またいつもの薄い梅ジュースの週末に戻ってしまった、と思った。改めて連絡が来たのは、週が明けた火曜日の朝で、その日の夜の都合を聞かれた。しかし、そういうつもりの服を選んでもいなかったし、心構えのようなものができていなかったので、特に予定があったわけではなかったけれど、とりあえず丁寧に断りの返信を送った。「明日なら大丈夫です」と最後に書いて。

 約束のお店につくと、新堂さんはすでに一番奥のテーブルに座ってスマホをいじっていた。私の姿を認めると立ち上がって、軽く頭を下げ

「どうぞ、こちらに」と向かい側の椅子を引いてくれた。

「なんか、外国の紳士みたいですね」と冗談ぽく言ってみた。

「あっ、やりすぎですか」と新堂さんは照れているようだった。

「いえ、いい感じです」と私は答えて、いつもより姿勢良く背筋を伸ばして座ってみた。相談という名目の本題に入ることなく、二時間近くが過ぎていった。料理も美味しく、新堂さんとの会話も楽しかった。声が好きだと思った。ハスキーとも違う少しくぐもった声。新堂さんは自分でも聞き取りづらいと思われていることを知っているせいか、ゆっくり話をした。その速度も心地良い。でも、このままだと本題に入ることなく終わってしまうパターンになるのではと思い、私から話を振ってみた。

「新堂さん、相談っていうのは?」と。

「はい、そうですよね、そのために時間をいただいたんですよね」と言い淀んでいる。

「大丈夫よ、なんでも言って」と背中を押す。

「はい、ありがとうございます。正直、失礼なご相談だと思っているんですが、僕の婚約者になってほしいんです」

「はい?ずいぶん唐突ね。それは相談とは言わないんじゃない?」

「いや、正確には、婚約者を演じてほしいんです」

「さらによくわかんないけど、話が。それって、よくドラマとかにある病気のお母さんの為とか、そういうやつ?」

「図星です」

「本当に?本当なの?」

「はい」

「ごめんなさい、冗談できいてみただけで」と気まずくなる。本当にお母様が病気の人に言うべきことではなかった。

「いえ、大丈夫です。もう覚悟はできているんで。それより」と新堂さんはまた言い淀む。

「それより、なに?」

「はい、今日こうして二人でお話しするまでは、そう思っていたんですけど、婚約者を演じてほしいと、でも」

「ごめんなさい、私じゃ役不足だった?」

「じゃなくて、演じてほしいんじゃなくて、本当になってほしいと」

「何に?」

「だから、婚約者に。いや、違いますね、婚約者じゃなくて、まずは彼女というか、交際相手ですよね」

「新堂さん、それ告白よ、わかってる?」

「はい、そのつもりです」嬉しい気持ちを抑えて困ったような演技をしている自分が素直じゃなくて、かわいくないなぁ、と思った。


 新堂さんのお母様は、結局、会うことなく、あっけなく亡くなってしまった。「でも、彼女が最近できたんだ、と伝えたら喜んでたから、それだけでもよかった」と新堂さんは「ありがとう」と頭を下げた。自分の両親も、彼氏が出来たと言ったら喜んでくれるだろうか、と想像する。たぶん「だったら早いところ結婚してもらえ」と父は言うだろうし、母は「じゃあ、孫の顔が見れるかしら」とプレッシャーをかけてくるに違いない。もう、そんなに簡単に産める歳でもないのに。

 新堂さんのお陰で、薄めすぎた梅ジュースは卒業し、日々はきちんと味のする梅ジュースになった。甘酸っぱいというような表現が似合うような関係ではもはやないのだけれど、それなりに恋愛関係がもたらす、なんとも言えない心のざわざわを楽しんだ。しかし、その先に結婚という二文字があるのかと言えば、それはまた違うのだった。新堂さん自身もお母様が亡くなってしまったこともあって、急いで結婚、という呪縛から解かれたようで、私に対して将来のことを話したりすることはなかった。ただ今は二人でいる時間が楽しいからそうしている、というくらいの感覚なのだろうと私は想像していた。新堂さんとの約束がない週末は家の近くのカフェで過ごした。ランチタイムを過ぎたくらいの時間を見計らって行って、一人静かに読書をしたり、カフェのマスターとおしゃべりをする時間が楽しかった。マスターは私を「美優先輩」と呼ぶ。年齢はマスターの方がたぶんひとまわり位くらい上のはずなのだけれど、以前、会社の後輩が偶然そのカフェに彼氏とランチに来ていて、その時の後輩の私に対するリスペクト感(とマスターが言っていた)がすごかった、ということで、マスターはそれ以来、美優先輩と呼ぶようになってしまった。

「男の人の結婚のタイミングって何ですか?」 とマスターに尋ねる。

「美優先輩、なに、結婚するの?」

「私が質問してるんですけど」

「さぁ、人それぞれだから」

「マスターは?」

「僕は、イメージが、湧いたっていうか、二人でいる映像が見えて、一人で気ままにやっていたその時よりも楽しそうだなぁ、って思えて。そうしようって。それ以上具体的なことは考えてなかった」

「それで奥さんもオッケーだったんですか?」

「うん。すんなり。仕事のこととか家をどうするかとか、親の事とか、いろんな面倒なことはあるんだけど、その辺は考えてもその通りに行くもんじゃないから。二人でなんとかしようって思ってれば、それなりになんとかなるもんだから。まずは、イメージ、想像力」

「想像力かぁ」

「自分の中に漠然とでもイメージがわかないと、そこに向かって行くのって難しくない?それがさぁ、多少妄想で現実と違っていても、とりあえず向かって行く先が見えてないとね。で、徐々に軌道修正して行く感じでいいというか」

「イメージ湧いてないんだろうなぁ」と私はつい呟く。

「彼氏?」

「はい」

「美優先輩は?イメージできる?」

「んーん、ちょっと、まだ、無理かなぁ」

「それも微妙だね。大丈夫?その彼で?」

「考えちゃうんですよね、いま別れて、また次、だとしたら、とか」

「これは別れるね」

「勝手に決めないで下さい」

という会話をマスターとした翌週に、新堂さんとはお別れした。わりとあっさりと。新堂さんは「わかりました、ごめんなさい、ありがとうございます」くらいしか言わなかったように思う。そのくらい薄い記憶の別れ方だった。味のない梅ジュース、という言葉が頭に浮かんだ。振り出しに戻った毎日は、それまで慣れ親しんだ世界に戻ってきたようで、なんとかロスみたいな感覚とは無縁で、しっくりと身体にすぐに馴染んでしまった。新堂さんとは部署が違うので会社で会うことはほぼ無く、交際してたことも会社の誰にも知られずに終わったので、少し薄情かと思いつつも、全てなかったこととして過ごすことが出来た。そんなタイミングで、一番可愛がっている後輩の紗季が結婚することになった。カフェのマスターが美優先輩と呼ぶきっかけを作った張本人だ。当然、式への参列を打診されたが、丁重に断った。「二次会とかなら、顔出させてもらうけど、披露宴は遠慮していい?」と。社内からは紗季と同年代の同僚と直属の上司が参列することは容易に想像できるので、そこに自分が混ざっている図は、ありえないと思った。出来れば二次会も遠慮したいのだけれど、とりあえずはそう伝えた。よく友達の結婚式の二次会で出会って結婚したとかいう馴れ初め話を耳にするけれども、これまでに出席した二次会では、そんな出会いはなかったし、自分の年齢を考えるとこれから先はさらにありえない事と思えた。もし、二次会に参加する男性陣がそういう出会いを求めているのであれば、なおさら自分は場違いだと思う。こうやってどんどん出会いのチャンスが減っていくのだろうかと考え、では、これからの自分に訪れる出会いのチャンスとは一体どんなものなんだろうかと想像すると、さすがに危機感のようなものを感じるのだった。しかし、そんなに結婚を望んでいるわけではないと思っているところに矛盾はあるのだけれど。

 

 会社の同僚と地元の友達以外に、友人と呼べる人は、唯一、史奈だけだ。東京に出てきて間もない頃、英会話くらいできた方がいいかと、さほど深い考えもなく、仕事終わりに英会話スクールに通っていた。その時に出会ったのが史奈で、かれこれ二十年の付き合いになる。英会話スクールは、わずか一年でやめてしまったけれど、史奈との付き合いは、薄く長く続いている。薄いと言っても二十年も経つとそれなりに、お互いのことはわかり合っていて、一緒にいて一番落ち着くのだった。史奈は、二十二歳で結婚し、子供はいないのだけれど、ご主人の孝典さんといつも一緒に出かけたり旅行に行ったりと仲のいい夫婦生活を送っている。たまにその二人に混ざって食事に行ったり日帰りの旅について行ったりしているのだけれど、私は孝典さんと二人きりになると、未だに少し緊張する。その緊張が何によるものなのか、わからない。孝典さんは極めて温和で優しい印象で、時折、時事ネタに毒を吐いたりして、会話に窮することもないのだけれど、私は冷静を装いながら実はいつも緊張しているのだった。その日も、三人で、史奈のうちでご飯を食べていたら

「美優がずっとひとりなら、将来は三人で暮らせばいいじゃん」といつものように史奈が冗談のつもりで言う。私は孝典さんの表情を盗み見る。いつも、これといって何かを読み取れる表情の変化はないのだけれど、ついそうしてしまう。

「ありがとう、それなら安心して独身生活を謳歌できるわ」と冗談で言ってみるものの、複雑な心境だ。

「でも、孝典さんは、おばあさんになった二人と暮らすなんて勘弁してくれ、って感じでしょ?」と言ってみたりすると

「美優ちゃんなら、いいよ、全然。なんかよくわからない男と結婚しちゃうより」と孝典さんは真顔で言う。史奈は

「孝典は、美優のことお気に入りだから」とそれに乗っかってくるのだけれど、どう切り返したらいいのか戸惑う。「ありがとうございます」とか軽く流せばいいのだろうけど、咄嗟にはそんな上手く言葉が出てこない。

「美優ちゃん、もし彼氏できたら、真っ先におしえてよ、品定めするから」と孝典さんは言う。

「なかなかいい人いないですよ、孝典さんみたいな」と冗談のつもりで言ったのだけれど、自分の鼓動が早くなってきてしまって驚いた。

「まぁね」と少し酔っている孝典さんは満面の笑みで、史奈を見る。

「もし、私が不治の病で先に逝ったら、美優、孝典をよろしくね」

「大丈夫、史奈は長生きするよ、僕が先に逝く」

私は史奈がいなくなって孝典さんと二人きりになってしまった世界を想像して、さらに鼓動が早くなり、顔まで火照ってきているように感じて「ちょっと、お手洗い借りるね」と言って席を立った。洗面所の鏡を見ながら「まさかね」と呟き、ありえない妄想をかき消す。

「そろそろ、帰ろうかな」とお手洗いから出て、すぐに言う。

「タクシー呼ぶ?」と史奈。

「お願い」

「美優ちゃん、来週さぁ、ブルーノートでジュリアホルスマンあるんだけど、行く?」

と孝典さんが言う。

「ジュリア?」

「この前、良いって言ってたピアノの女性」

「あー、あの人。行きたいです」

「じゃあ、三人でチケット取っとくよ。三日だけど、大丈夫?金曜日」

「金曜なら、全然、定時退社日なんで」

三人でライブに行くことになり、なんだか嬉しくて帰りのタクシーでは思わずニヤけていた。


「美優先輩、それヤバくない?大丈夫?」

「大丈夫ですよー、親友のご主人ですから」

「でも、間違いなく、恋だよ、恋」

「違います、好きですけど、恋とは違います!」

マスターは孝典さんのことで、私をからかう。恋だと言われれば、確かに恋に似た感じもするけれども、恋をして良い対象じゃないことくらいはわかっている。恋じゃなくて、ただ好きなだけでいい、それがいまの気分だった。孝典さんだって、私のことをお気に入りだと史奈は言っていた、それと同じだ、自分も孝典さんがお気に入りなのだ。明日の夜は、ブルーノートだ。孝典さんは、私があのピアニストが良いと言ったのを覚えていてくれた、と思うだけで嬉しい。やはり恋か?と自問して、焦る。それだけはやめようと、もう何度も言い聞かせている。

「まぁ、とりあえず、二人きりにならないといいね」

「だから、三人で行くんです」

「わかんないよ、奥さんが急用でドタキャンとか」

「ありえませんー!」マスターが冗談で言っていたことが、翌日には現実になるとはこの時は微塵も思っていなかった。


「あれっ、史奈は?」

「なんか、トラブル、遅れてくるって、間に合えば」と孝典さんはスマホを見ながら言う。

「えっ、ほんとに?」

「うん、さっきメールで」

「じゃあ、二人きり?」

「そう、でも念のため三人座れるボックスにしたよ」

「そうですね、遅れてくるかも、ですね」

私は鼓動がみるみる早くなって行くのを感じる。緊張なのか何なのか、喉が渇いてきて、早く何か飲みたかった。それぞれにビールと、あとおつまみを孝典さんが適当なものを選んで頼んでくれる。ボックス席のステージが見やすい側に私を座らせてくれて、孝典さんは少し体を捻ってステージを見る格好になる。なので、私からは少し視線をずらせば孝典さんがすぐに視界に入る。もっと言えば、孝典さんをかすめてステージを見ることも出来る。まずい、まずい、と焦る。何かがおかしい、こんな展開を望んではいない。史奈のご主人なのだ、と強く思う。早く史奈が来てくれないかと念じる。

「カンパーイ」とビールグラスを合わせる。

「久しぶりだなぁ、ブルーノート」

「そうなんですか?」

「昔は、よく来てたけど、十年くらい前は」

「史奈と?」

「いや、一人で」

「一人で?」

「ライブに集中したいから、基本一人」

「そういうものなんですね」

「音楽オタクだから。デートでここに来てるやつを軽蔑してたから」孝典さんはちょっと毒を吐く。それがおかしい。

「今は?」

「今?今、美優ちゃんと二人でいるこの感じは側から見たらデートだろうね」

「そうですか?」と私はドキドキしている。

「ボックスシートに二人だもん、口説きモードだよ、普通は」

「ですよね」もう、まずい、と思ったら、照明が暗くなり、演奏が始まるようだった。よかった、と少し落ち着く。ステージを見ているのか孝典さんの横顔を見ているのか、わからない自分がいる。演奏なんてほとんど耳に入ってこない。孝典さんは、食い入るようにステージを見ていて、演奏が盛り上がって客席が湧くと私を振り返り、楽しそうに笑っていた。私もその孝典さんに笑い返す。演奏なんて全然聞いていないのに。史奈は、まだ来ない。今夜は来ないつもりなのだろうか。このままずっと二人なのだろうか。自分がそれをどこかで望んでいるのだろうかと、思考が混乱する。頭がぼうっとしてきて、ぼんやり孝典さんの横顔を見ていたら、突然肩を叩かれて、横を見ると史奈が立っていた。席を奥にずれて今まで私が座っていた席に史奈が滑り込んだ。史奈は、孝典さんの肩を突いて、振り向いた孝典さんに手を振った。仲の良い二人だと思う。今さっきまでの自分が馬鹿に思えてくる。このままずっと二人がいいなんて思ったことが恥ずかしい。

三人でタクシーに乗って帰った。なぜか私を挟んで後部座席に三人。

「間違ったね、座る順番。僕らが先に降りちゃうから、一番奥が美優ちゃんだったね」

「そうよ、孝典が先に乗っちゃうから、変になったのよ」

「奥まで入って行くの、スカートだと大変かなぁ、て」

「真ん中も、スカートだと大変よ、ねっ、美優」

「まぁ、でも、大丈夫」と言ってスカートの裾を確認する。孝典さんの視線が気になったけれど、それは自意識過剰なのだと思い直す。意識を右隣の孝典さんではなく、左隣の史奈に集中する。鼓動が早くならないように。

「トラブルって、なんだったの?」

「よくあるクレーマーよ」

「そっか」

「閉店間際を狙ってくるのよ、そうすれば他のお客さんの目を気にしないで文句言えるでしょ」

「そういうものなんだ」

「そう、一応他人の目は気になるみたい、ああいう人でも」

「解決したの?」

「一応、今日のところはなんとか帰ってもらったけど、返金とかの判断は本社まで通すから、また明日ね、それは」

 史奈は、全国展開しているアパレルに勤めているのだけれど、一度は辞めたはずなのに人手が足りないと懇願されて、渋々向こうが必要な時期に手伝っている。キャリアは、どの店員よりもあるので、こういう神経を使う難しい対応を任されてしまうようだった。前もクレーム対応に大阪まで行っていたこともあった。右隣の孝典さんが静かなので様子を見てみると、窓に頭をもたげて眠っていた。

「孝典さん、寝てる」と史奈に告げる。

「最近、呑むとすぐ寝ちゃうの。もう四捨五入したら五十だから」

「えっ、もうそんな」

「先月、四十五になったから。私たちも、来年四十よ」

「来年?」

「あっ、再来年?」

「まぁ、どっちでも一緒かぁ」と私はもう一度、孝典さんの寝顔を眺めた。史奈が運転手さんに次の信号で止まってほしいと告げ、孝典さんを乱暴に起こして、二人は帰って行った。またタクシーに乗り込み孝典さんが座っていた奥の席に目をやるとシートの上にスマホがあった。孝典さんの忘れ物だと思い、すぐに史奈にメールをした。

「明日、美優の会社まで孝典が取りに行くって言ってるけど、いい?」と返信がくる。

「お昼休みなら。十二時に一階のロビーで」とお願いして、おやすみ、と送った。

 独立して建築事務所をやっている孝典さんは、いつもスーツではなくラフな格好をしている。史奈は、四捨五入したら五十と言っていたけれども、全くその年齢には見えない。会社のエントランスロビーで孝典さんの姿を見つけると、私は、あの人は私の待ち合わせの相手なの、とみんなに教えたいと思う。「美優さんが、誰か素敵な男性と待ち合わせをしていた」と後で噂になって欲しいと思う。当然、新堂さんの耳にも届けばいいと思う。本当は、親友のご主人なのだけれど。

「こんにちは」と孝典さん。

「わざわざすいません」

「いや、こちらこそ。お手数お掛けして。最近すぐ眠くなっちゃって、お酒飲むと」

「よく寝てましたよ」

「ランチ、一緒に行けます?ご馳走させてください」

「あっ、はい、一時には戻らないといけないので、近くなら」

「そこにイタリアンみたいのがあったんですけど、行ったことあります?」

「はい、何度か。美味しいですよ」

「じゃあ、そこでいいですか?」

「はい」と答えながら、あの店なら確実に何人か後輩社員がいるはずだと思う。そして、孝典さんと二人の私を目撃してくれて、噂をしてくれることになる、と。思った通り、退社時に

「美優さん、お昼の男性、誰ですか?」

と後輩に訊かれる。

「お友達。建築家の」とだけ答える。嘘ではない、どこにも嘘はない。ただ、親友のご主人ということを告げていないだけだ、と思う。いつも通り、ひとりの部屋に帰るだけなのだけれど、足取りが軽く、甘酸っぱい梅ジュースの味を思い出していた。

 翌朝も、いつも連んでいる後輩三人組から「昨日の男性、誰ですかぁー?」と興味津々に質問される。昨日と同じ様に「お友達。建築家の」と答える。「そうなんですかぁ」という薄いリアクションをした後輩のうちの一人が、少しテンションが上がったトーンで

「そういえば、莉奈、結婚するんですよー!」と続ける。莉奈とは、社内では少し派手目の女の子として有名な子だ。

「誰と?」と、さりげなく訊く。

「新堂さん、っていう人、知ってます?美優さん?どこの部署ですか?」

私は、耳がキーンとなって、少し気が遠くなる様な感覚に襲われる。いまこの子、なんて言った?シンドウサン?確かにそう言った。

「知ってますか?」と繰り返される。

「知ってる、確か、あっちのビルだから、調査部とかかなぁ」となんとか平静を装い答える。

「そっかぁ、じゃあ、見たことないかも、わかんないね、どんな人か」と三人の後輩達はぼんやりとしたリアクションのままエレベーターに乗り込んだ。まだ耳鳴りがしている。エレベーターのせいではない。その日は、具合が悪いと言って、午前中で早退させてもらった。仮病と言われれば、そうかもしれないが、実際、相当に具合が悪い。自分から別れを告げたはずなのに、なんでこんなにショックを受けてしまうのかわからない。まっすぐ家に帰って大丈夫だろうかと、駅に向かって歩きながら思う。孝典さんのことが頭に浮かび、スマホを取り出してみるが、さすがにまずいなと思い直し、いつものカフェに行くことにする。マスターに、新堂さんのことを話すかどうかはわからないけれど、家で一人になるよりは、いいと思った。電車に二十分ほど揺られる。耳鳴りではなく、頭の中でキーンという音が鳴っているのだと思う。カフェは、ランチタイムのお客さんの余韻が残っていて、色んな匂いが混ざったざわざわとした空気が漂っていたけれど、若い男性客がひとりいるだけで空いていた。

「あれっ、美優ちゃん?会社は?」とマスター。

「早退しました、仮病で」

「仮病?学生みたいだね」

「はい」

「でも、なんか具合悪そうだけど?ほんとに」

「はい、悪いです」このままの会話の流れだと、新堂さんのことを話すことになる。まっ、いいか、話した方がすっきりして、頭のキーンも消えるか、と思う。

「とりあえず、なんか食べる?ごはんもまだあるよ」とマスター。

「じゃあ、ごはん、お願いします」と言って、自分でも驚くくらいのため息をついてしまう。ごはんを食べている間、マスターはランチで出た食器をずっと洗っていて、何も会話をしなかった。一人でいる若い男性は、ずっと本を読んでいて、全く物音を立てない。私の咀嚼する音が妙に大きく店内に響いている様に感じて、少し恥ずかしくなる。ちょうど食べ終わったタイミングでマスターが食器を下げにくる。

「どうしてわかったんですか?食べ終わったの」

「なんとなく、気配。音とか」

「そっか。コーヒーもください」

コーヒーを持ってきたマスターに

「聞くよ、話、孝典さん?」と言われる。だったらいいのに、と思いながら

「いえ、じゃなくて、新堂さん」と答える。

「えっ、元に戻ったの?」

「全然、結婚するって、新堂さんが」

「あ、そう、で?なんで落ち込んでんの?自分から振っといて」

「わかりません、でも、頭がキーン、って」

「ショック症状?」

「みたいな。なんか、派手な若い子と」

「だからなの?」

「私とその子、全然違うし、なんで、付き合ったりしたんだろう、あの人、わけわかんない」

「うわっ、怒ってる。まぁ、縁だから、色んな人いるよ」

「にしても」やっぱり、私は怒っているみたいだった。私よりあの子の方がいいと、あの人は思ったんだと勝手に思って。そうとも限らないのに。私に振られたから、次はあの子にしたんだと思えばいいのに。でも、そんな風に思えないのは何故なんだろうか。もう、めんどくさい。

「あぁ、めんどくさい」と呟く。ひとりでいる若い男性が、ちらりと本から視線をあげたような気がして、バツが悪い。マスターになんか言って欲しくて、カウンターの向こうの顔を見る。

「めんどくさいよ、恋は」とマスター言い、男性客が今度は、はっきりと顔を上げて、私とマスターを交互に見た。

「なんか、いいっすね、カフェっぽくて」とその男性客、というか男の子と言った方が似合う彼は言う。

「カフェっぽい?」とマスター。

「よくあるじゃないですか、ドラマとかで、常連客とマスターの会話で、今みたいなの」と彼。

「確かに。で、これをきっかけに、二人は、みたいな」とマスター。

「二人って?」

「美優ちゃんと、君」

突然、名前を言われて驚く。

「私?」

「どう?年下の彼みたいなの」

「どう、って、彼が嫌でしょ、アラフォー」

「アラフォーなんですか?」

「いつくなの?」と私は彼に尋ねる。二十代の真ん中あたりかと思って。

「三十三です。今年、四」

「そうなの?もっと若いかと」

「ガキっぽいですか?」

「そういうわけじゃないけど」

「そんなに変わらないですよね?」

「いま、八だから、四つ」

「まだ、アラフォーじゃないですよ、それ」

こんな出会い方で、もし付き合うことになったら、マスターのいいネタになってしまうと思う。でも、どうなんだろうと、もう一度、彼の顔をマジマジと見てみる。痩せている、が第一印象。本を読んでいたせいか、勝手に文学青年という言葉が浮かぶ。モヤシくん。昔聴いていたFMラジオで、そんなラジオドラマがあったような。

「何読んでるの?」となんとなく聞いてみた。

「建築の本です、資格の勉強で」

「建築家志望?」

「まぁ、そんなところです。でも、なれるものなのかなぁ、って程度で、試しに読んでみているだけで」

「お友達で、建築事務所やってる人がいるけど、建築家ってなんか、かっこいいわよね」

「はい。なんかの本に書いてあったんですけど、建築家はモテるって」

「なんで?」

「クライアントの無茶な要望を汲み取って、説得して、なんとか仕上げる、っていうプロセスが恋愛と似てるから、って」

「クライアントの無茶な要望かぁ」と、その言葉にひっかかる。私は、無茶な要望を孝典さんに言っているだろうかと考える。

「何考えてんの?」とマスターに言われてハッとする。バレていると思う。そんな会話をしていると、もう新堂さんのことなんてどうでもよくなっていた。仮病で早退して、ここに来て正解だった。彼はよくここに来るのだろうか?今度、マスターに訊いてみようと思う。

「ご馳走さまでした」とモヤシくんは、席を立ちお会計を済ませて、

「では、また。お先に」と言って帰っていった。私は、本と財布とスマホだけを持ってきているその姿を見ながら、たぶん近所に住んでいるのだろうなと想像していた。

「彼、そこのマンションに住んでるみたい」とマスター。やっぱりと思い、

「よく来るんですか?」と尋ねてみる。

「平日にね」

土日にしか来ない自分とは、出会うはずがないと思う。次に平日に来れるとしたらいつになるだろうと考えていた。


「建築家の旦那さんってどう?」

「どう?って何が?」史奈は不思議そうな顔をしている。当たり前だ、質問が唐突すぎると言ってから思った。

「あっ、唐突だったね、この前ね、建築家はなぜモテる、って、話になって、それはね、クライアントの無茶な要望を汲み取って、説得して、なんとか仕上げるっていうプロセスが恋愛に似てるからだって」

「ふぅーん、そうなんだ。私、孝典さん以外にちゃんと付き合った人がいないから、わかんないかも」

「そうなの?」

「だって、二十二で結婚したから、その前は、お付き合いといってもね、学生だしね」

「そっかぁ、そうだよね」

「誰が言ってたの?それ」

「建築家志望の子」

「子、って女の子?」

「男の子、若い、モヤシみたいな」

「モヤシ?」

「そう、痩せてて、モヤシみたいに」 史奈はまた不思議そうな顔をした。

「美優って、おもしろいよね、なんか」

「そう?」

「そのモヤシくんとは、どこで出会うの?」

「カフェだけど、行きつけの」

「カフェでそんな風に出会って、お話しして、仲良くなったりするもの?」

「仲良くはなってない、まだ」

「まだ、ね」

「まだ、っていうか」

「最初の質問は、そういうことでしょ?そのモヤシくんともし結婚とかしたら、どうなんだろうとか、ちょっと考えたり」

「そんなことは、ないよ、ただ、建築家はモテるって、話で」と言いながら、史奈の言う通り、あのモヤシくんをそういう対象として考えていたのだろうかと自問してみる。わからない、そうかもしれないし、全然違うかもしれない。ただ、次、平日にあのカフェに行けるのはいつだろうと、考えはしたけれども。それだからと言って、モヤシくんとの結婚なんて。

「いいんじゃない、年下」と史奈は面白がる。

「今度、会わせてよ、そのモヤシくん」

「いいよ、別に、そういうんじゃないから」

「あっ、わかった、四人で会おうよ、孝典と」

「何言ってんの?」

「ちょうどアシスタント探してるの、孝典の事務所で、だからちょうどいいじゃん、その子、建築家志望なんでしょ?だったら孝典のところで勉強すればいいし。それに」

「それに?」

「美優に見合う男かどうか孝典に品定めさせられるし。孝典、本気なのよ。美優に中途半端な男はダメだって言ってるの」史奈は、どんどん話を進める。モヤシくんとは、まだ一度だけカフェで会話をしただけなのに。これから会えるかもわかっていないのに。それに孝典さんに品定めなんて、私は孝典さんがいいのに、いや、それは無し、だ、と頭の中でぐるぐると思考が混乱する。

「どう?ダメ?いい考えだと思うんだけど」史奈が畳み掛ける。

「わかった。考えとく」そうとでも言っておかないと、ずっとこの話になりそうだった。モヤシくんが孝典さんのアシスタントとして存在している図を想像して、さらに混乱する。そんなことになったら二人をどういう風に見ればいいのか、全く整理がつかない。でも、なんとなくそういう状況も楽しそうだと、どこかで思ってしまっていることは、否定出来なかった。アラフォーになる独身の女は、そういうものだろうかと、どこかの女性誌に質問の投稿でもしてみたくなった。憧れの年上の男性、でも、親友の旦那、それと、頼りないけど、なんとなく気になってしまう年下の男の子、が同時に私の前に現れてしまいました。私は、どうしたらいいのでしょうか?なんて。馬鹿みたいと思いつつも、ネタとしては面白がってくれるかもしれないと、どこか他人事のような感覚でいたりする。

 平日に、カフェに行くことなんて基本的にはありえないので、あの日以来、モヤシくんには会えていない。土日に何度か行ってみたものの、モヤシくんは現れなかった。マスターにさりげなく訊いてみる。

「最近、あの建築家志望の男の子、来てます?」と。

「うん、神野くんね、来てるよ。なんで?」

「いや、別に、あれから会ってないなって、思って」

「一応、本格的に建築の勉強することにしたって言ってたよ」

「資格取るんですかね、独学で」

「いや、勉強も必要なんだろうけど、なんかねぇ、実務経験が必要みたいで、どっかの建築事務所に入って勉強するのが一番いいとかで、悩んでたよ」

孝典さんのことをマスターに話すか、迷う。たぶん、マスターに孝典さんの事務所でアシスタントを探していると伝えれば、確実にモヤシくんと孝典さんが会う流れになる。それでいいのだろうか。モヤシくんのことを考えれば、そうしてあげることが正しい選択だということはわかっている。でも、自分はそうなった時に、どうしたいのかがわからない。迷って黙っていたら、マスターが

「確か、お友達の旦那さん、建築家じゃなかったっけ?」と言う。まずい、先を越されたと思う。

「あっ、はい、そうですね、史奈の旦那さん」

「美優ちゃんが恋してる人でしょ?」とマスターにまたからかわれるけれど、否定も出来ない。

「恋じゃないですから」

「その人のところで働けたりしないの?」

「さぁ、」と、とぼけてみる。マスターは変に鋭いから、いまの、さぁ、に何かを感じ取ってしまったかと思い。表情を窺う。何かを考えているように見える。

「ダメ元でさぁ、聞いてみてくれる?お友達に」

「えっ、何をですか?」

「ご主人の事務所で人を探してないかって」

「いいですけど」

「けど、なに?問題でもある?」

「いえ、ないです」

マスターに気づかれる前に、この話題を終わらせたい。

「たぶん、火曜か水曜のどっちかに神野くん来ると思うから、わかったらすぐに教えてくれる?」

「わかりました」と答えながら、火曜か水曜にくれば、彼に会えるのだと思い、どうやって会社をサボろうか、具体的に考え始めていた。家に帰りながら、とりあえず、史奈に連絡をする。

「モヤシくんに、今度会うから、アシスタントの件、訊いてみるけど、まだ探してる?」と。すぐに返信がくる。

「是非、お願い、って孝典が言ってる」と。モヤシくんに会うと言ってしまったけれど、まだ、どうやって会社をサボってカフェに行くか、決めていない。それに、火曜か水曜のどちらにモヤシくんが現れるのかもわかっていない。どうしたらいいのだろうか。とりあえず、マスターに訊くしかないか、と思い電話をする。

「はい、カフェコヨーテです」とマスター。

「あっ、美優です」

「おっ、どうも。神野くんの件?」

「はい、ちょうどアシスタントを探してるようなので、繋いで欲しいって」

「ほんとぉ、よかった、ラッキーだね、神野くん。伝えてみるよ。まとまるといいね」

「あっ、はい、いつでしたって、彼が来るの?」わかっているのに忘れたふりをして訊いてみる。

「火曜か水曜だけど、たぶん水曜」

「水曜なら、私も行けます。ちょうど代休なんで」と小さな嘘をつく。会社には、あとで何かの理由をつけて休日申請を出せばいいのだ。

「そっか、じゃあ、美優ちゃんから直接言ってもらった方がいいね」

「はい、でも、何時ですか?」

「いつも来るの二時だから、二時だと思うよ」

「わかりました。じゃあ、水曜二時に」


 水曜日、カフェに行くにしては少し綺麗めのワンピースを着て家を出る。先にモヤシくんは着いていて、マスターと話をしているのが外から見える。

「こんにちは」

「こんにちは。お久しぶりです」とモヤシくん。シャツのせいか、この前ほど痩せて見えない。モヤシくんとは呼べない感じだ。

「神野くんね、実は昨日来て、だから、ざっと話しちゃった」とマスター。

「えっ、そうなんですか?じゃあ、今日は、なんで、わざわざ?」

「美優ちゃんが来るならって」とマスターが言うと

「お話しを頂いたお礼も、ありますし、直接、お話しを聞けたらと思って」とすぐにモヤシくん、いや神野くんは少し慌てて話す。理由はなんでも、とにかく会えてよかったと思う。ざっと、史奈のことや孝典さんの事務所のことなど、自分が知っていることを神野くんに伝える。

「やっぱり、孝典さん、ってモテますか?」と神野くん。マスターが余計な事を言わなければいいけど、と思いながら、どう答えようか迷う。モテると言ってしまうのもなんだか、他人事みたいだし、そんなにモテないというのは嘘になる。答えを考えて黙っていると

「モテるみたいよ」とマスターが割って入る。

「美優ちゃんも恋しちゃうくらい」と神野くんの前では微妙な冗談を言う。ここで、ムキになったり照れたりするとおかしなことになると思い、咄嗟に

「そうね、モテるね」と軽く流した。すると神野くんは

「僕も建築家になったらモテますかね?」とまた答えに窮する質問をする。

「モテないの?神野くん、彼女とかいないの?」と一応、年上の女として、さらりと言ってみた。マスターは、黙って二人の会話の行方を見守っている。そう、いまは見守ってて、と願う。

「いないですねー、しばらく」

「そう」と訊いておきながら興味がないフリの返事をする。本題を片付けてしまおうと思い、史奈に孝典さんのスケジュールを訊いてもらい、週末の金曜日に、モヤシくんが孝典さんの事務所に行って面接を受けることになった。多分、面接と言っても形式的なもので、とりあえずは採用されるだろうと思う。だって、私の紹介なんだから。その先にどんな展開が待ち受けているのかは、今は考えないようにした。

 金曜日の夜に、史奈から「神野くん、早速、月曜から働いてもらうことになったよ」とメールがあり、土曜日の朝には、孝典さんからも「この度は、色々ありがとう」とメールが届く。日曜日にカフェに行くと、マスターから「どうなった?」と訊かれ

「明日から行くみたいです」と話していると、神野くんが現れる。

「よかった。もしかしたら居るかなって思って来てみました」となんだか上機嫌なモヤシくん。今日のTシャツはモヤシに見える。

「他に行くとこないんで」と、答えると神野くんではなく、マスターがそれに対して突っ込む

「行くとこないから、来たの?」と。

「あっ、いや、ここが好きなんで」と言ってみたものの、取ってつけたようなフォローになってしまい、マスターは「テキトーだなぁ」と呆れて笑っている。

「椎名さんのところに明日から行くことになりました、ありがとうごさいました」とモヤシくんは、立ったままで頭を下げた。

「椎名さん、かぁ、なんか新鮮。孝典さんと史奈としか呼ばないから、椎名、だったね、あの二人」

「はい、孝典さん、やっぱり、カッコよかったです、モテる大人って感じでした」とモヤシくん。当たり前よ、だって私はずっと憧れてるんだから、と心の中で思う。あの二人は、私について、モヤシくんに何か話したのだろうかと気になるけれど、どう聞き出したらいいのか上手い言葉が見つからない。

「そうよね、モテる建築家のお手本みたいな人よね」と、とりあえず答える。

「美優さんは、孝典さんのお気に入りなんですか?」

「はっ?」

「奥さんが、そう言ってました」

「あぁ、それね、いつも酔うと孝典さんがそう言うの。彼氏が出来たら品定めするから、一番に知らせるようにって言われてる」

「じゃあ、孝典さんのお目に叶うことが必要なんですね。美優さんと付き合うには」

私は、モヤシくんの顔をじっと見つめていた。そして「もしかして、私と付き合いたいの?」と心の中で、言ってみた。モヤシくんに伝わるだろうかと思いながら。

「僕、建築家目指します、本気で、孝典さんみたいな」と、神野くんは真剣に言う。もうモヤシくんとは呼べないくらい力強く。

「頑張って。孝典さんも喜ぶんじゃない」と言ってみて、さらに「そうなったら、孝典さんのお目に叶うわね」と付け加えたら、神野くんはどんな顔をするだろうかと想像してみる。実際には、そんなことは口にはしなかったけれど。


 孝典さんのところで神野くんが働いている状態を、自分でも本当のところどう思っているのかわからない。わからないというよりは、考えるのが面倒なのかもしれない、とも思う。孝典さんのことは、相変わらず素敵だと思うし、モヤシくんのこともなんとなく気になる。でも、モヤシくんに対するそれが恋愛という形をとるにはまだ何かが足りないと感じている。孝典さんを本気で好きになってはいけないということも、わかっている。私が欲しているのは、なんなのだろうか。ただふわふわと気になる男性達に囲まれて、それで気分がいいと思っているのだろうか。その先にあるはずの結婚というものを本当に欲しているのだろうか。そこまで考えて、あぁ、面倒だ、と匙を投げる。これから進むべき方向を教えてくれる道しるべがどこにもないと思う。そもそも、そんなものがあるのかさえもわからない。みんなどうしているのだろうか?私だけが見失ってしまったのだろうか。

「美優先輩、お昼行きませんか?」と後輩の紗季に声を掛けられて、びくりとする。ほとんど仕事をしないで午前中が終わってしまった。紗季は結婚後もいままでと同じように仕事をつづけていて、この前の昇進試験も受けて、見事合格していた。このままだと、後輩だけれど上司になりかねない。でも、先輩は先輩だと思い、今まで通りのスタンスで付き合っている。

「どう、結婚生活は?」と、特に興味があるわけではないのだけれど尋ねる。

「どうなんだろう、二人とも寝に帰ってるだけって感じです」

「旦那さんも忙しいの?」

「ほぼ毎日、十二時とかです。子供とか出来ちゃえば変わるんでしょうけど」

「そうかもね」と、あまり深い話にならないよう、さらりと流す。

「そういえば、莉奈、おめでたなんですって」

「そうなんだぁ」と新堂さんの子かぁと思う。

「でも、新堂さんが異動になるみたいで、このタイミングって、会社も意地悪ですよね」

「異動って、どこに?」

「名古屋です」

どこまでが本当かは、わからないけれど、社内結婚をした人間は必ず転居を伴う異動を命じられるというのが、専らの噂だった。その噂通りだ、と思う。人事部の嫌がらせだと言う人と、転居をすれば家賃は全て会社負担になるので、新婚生活を思っての計らいだと言う人とに見解は二分されている。

「でも、莉奈の実家、名古屋だから、喜んでるみたいです」

「今回は、会社の計らい、ってことね」

「でも、新堂さんは、本社から出されるから、微妙じゃないですか?」

「確かに。調査部は出世ルートだったからね」もし、自分とだったら、彼はどうなっていただろうなどと想像していた。どこか地方に行かされただろうか、それとも調査部のままで、出世ルートを進んでいっただろうかなどと。もう、どうでもいいのに。

「美優先輩、まだあのカフェに行ってます?」

「うん、時々」

「この前、旦那さんと二人で久しぶりにいったんですけど、そうしたら、偶然、元彼に会っちゃって、びっくりでしたよ」

「あのカフェで?」

「先々週くらい、一応、大学の時の同級生って、旦那さんには紹介したんですけど、嘘ではないんで。でも、なんかバレてたかも」

「別に結婚したんだから、いいんじゃないの?元彼でも」

「でも、なんとなく、微妙かなって」

「もしかして、まだ、好きだったり?」

「それは、ないです、けど、なんか自然消滅みたいな感じだったんです、だから」

「あぁ、微妙かもね」

「それで、その時、彼がお店の人と話してたんだすけど、__美優さんって、いま一人ですか?って」

「私?」

「さぁ、先輩のことかはわからないですけど、確かに、美優さん、って」

「で、マスターはなんて答えてた?」

「お店の人ですか?『今は、そうじゃない、前にめんどくさい、って言ってたときの人とは別れたみたいだから』って」

あのカフェで、めんどくさい、って言う人が私以外にもいるのだろうか、と考えてみたけれど、そんな人がいるとは思えなかった。それは、私に違いない。だとしたら、紗季の元彼って?

「その元彼、って、どんな感じ?」と言ってから、あまりにも漠然とした質問だと思った。

「どんなって、見た目ですか?」

「まぁ、とか」

「痩せてて、メガネ、見た目、文学青年っぽい」

「モヤシみたい?」

「モヤシ?」と紗季は、少し吹き出しつつ笑って、

「確かに、モヤシと言われればモヤシっぽいかも。でも、彼、空手やってたから、細マッチョなんですよ」と言う。モヤシくんが空手、とイメージが全く繋がらない。やはり、違うのだろうか。

「他に、何か話してなかった?」

「そんなに、聞き耳立ててたわけじゃないので、あとはぁ、なんか言ってたかなぁ」と紗季は思い出そうとして首に手を当てて考えている。

「建築がどうとか、言ってましたけど、細かい内容はわかりません」

「建築ね、そっか、わかった、ありがとう」

モヤシくんに間違いないだろうと思う。紗季の元彼は。

 午後、デスクに戻ってみたけれど、さらに仕事が手につかない。もう、限界だと思い、早退願いを提出して会社を出る。恐らく、みんな本当にどこか具合が悪くなったのだろうと思ったに違いない。口々に、病院行きなよ、とか明日も無理しなくていいよ、とか優しい言葉をかけてくれたから。まだ恋まで到達していないので恋の病とは呼べないと思う。では、何の病か?わからない。何に対して具合が悪いのかさえも、判然としない。とにかくカフェに向かう。あそこに行けば何らかの解決策が、転がっていそうな気がする。万が一、モヤシくんがいたとしても、それはそれで、受け入れる準備も出来ている。平日の午後三時、カフェは静かだった。私のぐちゃぐちゃの心とは対照的に、落ち着き払って整然とした空気が流れている。マスターは、カウンターの陰で本を読んでいるようだった。私の姿を認めると、立ち上がり

「いらっしゃい。また仮病?」と言う。

「もう、限界です」

「まぁ、座れば」とマスターはカウンターの目の前の席の椅子を引いてくれる。とりあえず、コーヒーを頼んで、落ち着こうと思い黙って見を閉じる。豆を挽く音、お湯を注ぐ音、そして香ばしい香りに包まれる。涙が滲んでいるのがわかる。悲しいわけではないのに。自分の不幸を嘆くほどの出来事があったわけではない。誰かに辛い思いをさせられたわけでもない。ただ、どうしたらいいのかがわからないだけなのだ。この歳にもなって、誰かに手を引いてもらわないとどこにも行くことができないのだ。怖いのだ。どういう結果が待っているのかを知るのが怖いのだ。だから、どこへも行かずにじっとしているしかない。周りのみんなは、どんどん自らの道を歩んでいって、自分一人だけが取り残されてしまった。みんな、もう、追いつけないところまで行ってしまった。その上、気づけば、今度は追い越されていくようになってしまった。可愛らしい後輩たちに。私の前に、どこかに繋がっている道はあるのだろうか。もはや、ぐるぐると同じところを回っている回廊しかないのだろうか。バタンと扉が開き、誰かが入ってくる。足音が近づいてくる。私のすぐ後ろで立ち止まっているのがわかるのだけれど、振り向くことなんてできない。そこに待ち受けているもの、それがもたらす結果を見るのが怖くて仕方がないのだ。ただ何も起こらないで通り過ぎて行ってほしい、もう私に何かの結末を見せないで欲しいと願う。

「隣、いいですか?」私に言っているのはわかっている。どうすればいい。どうぞ、って言えればいい。言えるだろうか。「美優さん」と呼ばれる声と私の「どうぞ」が重なってしまう。私の声は、届かない。いつもそんなだ。私の声や言葉や思いは、誰にも届かなかった。そんな人生だった。でも、もうそれは終わりにしたい。だから、もう一度「どうぞ」と言い直す。隣に座った彼の横顔を覗き見る。モヤシくんは「僕もコーヒーをください」とマスターに言ってから、もう一度「美優さん」と言い直す。彼も、私の「どうぞ」と重なって聞こえなかったと思ったのだろうか。

「連絡をしようと思ってたんです」

「私に?」

「はい。でも、まだ連絡先を交換してないことに今さら気づいて、とりあえずここに来てみました」

「史奈か孝典さんに聞けばわかったでしょ?」

「今は個人情報は、教えてくれませんよ。まだ、僕のことをお二人はそこまで信用していませんから。働き出して間もないので」

「それも、そうね。まだ何者かわからないものね。それで、何か話があったの?私に」

「はい、やっぱり、僕、孝典さんに負けたくないんです」

「まずは、試験に受かって建築家を名乗れるようにならないとね」

「それは当然です、じゃなくて」

「何?」神野くんの言葉を待っていていいのか迷う。私から先に伝えたい思いを伝えなくては、今までと同じ結末にしかならないのではないかと。

「神野くん、私、今日、早退してきたの、会社。なんか限界だったから。ここに来れば、もしかしたら神野くんに会えるかもしれないって思って。そうしたら、あなたが来た。こうして会えた。本当は、ショックなことがあったの。仕事が手につかないくらいに。でも、そんなことは、もうどうでもいいわ。決めたの、面倒だなんて言わないって」そこまで言って私は、もう一度神野くんの横顔を見る。この顔が見たかったんだと思う。間違いなく。

「僕に会いに来たんですか?」

「そうみたい、それも、あなたが紗季の元彼だって聞いた日に、わざわざ会いに来たの。本当なら、本当というか今までの私なら、もう面倒だって、あなたに興味がなくなっていたと思うのに」

「紗季に会ったんですか?」

「紗季は会社の後輩なのよ。まさかね、神野くんの元カノだったなんて、ふざけた冗談かと思ったけど、現実なの」神野くんは、黙っている。驚いているのか、動揺しているのかわからないけれど言葉が出てこないみたいだ。

「この前、ここで紗季に会って、すごい偶然があるんだって思ってたんですけど」

と神野くんは言ってまた黙ってしまった。

「それで、私に何か話があるんでしょ?」と私はわざと意地悪に聞いてみる。

「美優さんに、孝典さんより、僕のことを、認めてもらう、というか、孝典さんのお目に叶うように」

「落ち着いて。何を言ってるのかわからないわ」

「すいません」

「私ね、神野くんに会いたかった、気になって仕方なかった、恋をしたんだと思うの。めんどくさいなんて言いながら。あなたよりずいぶん歳上だし、人の旦那さんに憧れたり、あなたが後輩の元彼だったり、もう課題が山積みなのをわかった上で、言うわ。あなたに恋をしたの」

「はい、僕も、最初にここで話してから、ずっと、どうしたらあなたに会えるのか、そればっかり考えてました。孝典さんのお話をもらって、これで美優さんに少し近づけたと思って、でも、孝典さんのお目に叶うなんて、まだまだ無理で、あんな風には到底なれないって」

「比較する相手じゃないわ、孝典さんは。いいの、モヤシはモヤシで」

「モヤシ?」

「そう。私、あなたをモヤシくん、て呼んでたの、密かに。ひどいと思わないで。私の中では、親しみを込めてなのよ」

「こう見えて筋肉質なんですけど」

「知ってる。空手やってたんでしょう、紗季に聞いたわ」

「まさか、カフェで出会って、付き合うようになるなんて、本当にあるんですね」

「マスターの格好のネタね、ずっと言われるわ、僕が二人をくっつけたとか、ね」

「なんか、そんな気がしたんだよ、直感で」とマスターが言う。

「それは、結果論。あとからだったら、なんでも言えるわ。当事者は、もう、あれこれ考えて大変だったんだから」と言うと

「知ってる、大抵のことは報告してくれてるよ、僕に」とマスターは私をいじる。

「とにかく、一応、孝典さんに報告していいですか?」とモヤシくん。

「いいけど、なんて言うかなぁ、孝典さん。私は史奈にメールしておく」

「お願いします。明日、事務所行ったら話します」

「健闘を祈ります」と言って、飲みかけのコーヒーを啜る。たぶん、気のせいだけれど、梅ジュースのような甘酸っぱい味がした。


「なんか、この四人で飲んでるなんて、やっぱり不思議だなぁ」と孝典さんは、もうずいぶん酔っている。たぶん、そのうち寝てしまうに違いない。「喜んでるけど、内心、複雑なはずよ」と史奈はこの前のメールに書いていた。孝典さんが、そんな風に思ってくれているだけで嬉しかった。神野くんは

「お前、わかってんだろうなぁ、美優ちゃんのこと、ちゃんとしないとタダじゃ済まないからな」と冗談でも凄まれて怖かったと言っていた。今夜の孝典さんは、最初から上機嫌で、ドラマでよくある、娘の結婚の報告を聞いた父親、みたいだと思った。たぶん実家の父はこんな風には喜びはしないだろう。

「美優ちゃんは、神野くんのどこがよかったの?」と孝典さんはその夜、何回も尋ねた。その度に、なんとなく、とか、雰囲気、とか、気づいたら、とか曖昧な返事をしていたのだけれど、実際、自分でも明確な理由がわからない。本当に、なんとなく雰囲気で、というのが正しいと思う。世の中の結婚したカップルがどうなのかは知らないけれど、そういう方が多いのではないかと思えた。背中のホクロを見て、夏の大三角とか言ったり、婚約者を演じて欲しい、とか言うのは、今思えば、何かがおかしくて、そういう相手との未来を想像することは不可能だったのだ。その時は、目の前にいる相手に夢中で、冷静に何かを感じ取ったりすることができなかったのだろうけど。とは言え、まだ、神野くんと結婚すると決まったわけではない。でも、なんとなく、そんな気がしているのだ。なんとなく。


 よく、一人前の建築家になれたら、とか試験に合格したらとかいう前提条件を結婚につけてしまったりするけれども、神野くんはそういうことはひとことも口にせずに、ただ「結婚してください」と言った。そのことについて、両親や会社の同僚は、口々に、大丈夫?とか、食べていけるの?とか心配しているような口調で言ってくれるのだけれど、本当はそんなに心配なんかしてないはず、と思う。うまくいくがどうか、試しに見てみよう、という程度の関心で、他人の恋愛の破局ほど甘美なものはないと、自分自身を省みて思う。なんとなく、で始まった二人だから、正直、なんとなく終わったりするのかなぁ、と当人達も思っていたりしたのだけれど、大方の予想に反して私たちは、いつも、何をするにつけても、しっくりと行った。結婚式や披露宴をどうするかとか、住まいをどこにして幾らくらいの家賃にするか、仕事をどうするか、子供が欲しいかどうか、など、結婚生活についてまわるやっかいな判断は、今日の晩ご飯は何にする?という会話と同等のことのように扱われた。かと言って、全部が全部同じ価値観や嗜好というわけでは当然なく、私はジャズを聴くけれども、彼は音楽に興味がない。彼は、なんでもマヨネーズをつけたがるのだけれど、私は冷蔵庫に常備するものではないと思っていた。彼は帰宅するとすぐにシャワーを浴びたりお風呂に入りたがったけれど、私は寝る直前でないとお風呂に入る気がしない。そんな風に日常の生活では、お互いに些細なズレが生じていたけれども、それはそれで新たな発見をする感覚で、受け入れて楽しむことが出来た。一つ、しっくりいかなかったことは、神野くんをどう呼ぶか、ということだった。結婚したので、私の姓も神野になった。なので、神野くんと呼ぶのはおかしい、というまわりの意見を取り入れ、彼の下の名前で呼んでみることにした。夏樹くん、と。いままで一度の呼んだことのないその名前を口にすると、妙な違和感を覚えた。そのうち慣れてくるだろうと思い、呼びかける必要のない時でも意識的に、夏樹くん、おはよう、夏樹くん、ご飯だよ、夏樹くん、もう寝る?なんて言ってみていた。しかし、ダメだった。なんだか、知らない他人と暮らし始めたような気分になってしまい「やっぱりカンノクン」に戻していい?と三日後ぐらいには断念した。なので、結婚したあともカンノクン、ミユサン、とお互いを呼んでいる。さすがにモヤシくんとは呼ばない。


 カンノクンは、孝典さんの右腕として仕事をしながら、資格の為の勉強をして、建築士を目指している。美優もようやく昇進試験を受けることにして、今は一つの課を率いるようになった。あまりにも順調で、平穏な日々が三年程続いている。孝典さんと史奈とは、よく四人で出かけたり、食事をしたりして、家族のような親戚のような距離感の付き合いが続いている。どちらも、もう子供を持つつもりはないので、生活のリズムのようなものが似通っていて、一緒にいて心地よかった。いくら仲の良かった友達でも子供が生まれたりすると、やはり、生活のリズムが違ってしまい疎遠になることは、今まで何度も経験してきた。そうやって、新たな人間関係が出来上がっていくというのは、当たり前のことで、自分もようやくその当たり前の流れに乗っているのだと思える日々だった。つい最近まで、一人だけ取り残されてしまったと感じていた日々だったのに。でも、まだ、いつそんな日々に逆戻りしてしまってもおかしくはないのだと、時々思う。夜中に洗濯をして星空を見上げた夜や、ひとりカフェで時間をもてあましていた週末や、後輩達の恋愛話に無関心なフリをしていた日々に。カンノクンが隣にいる時に、ふと思うのだ。この人がいまこうして隣にいる事は、奇跡的な事なのだと。星の数ほどの男性がこの世の中にはいると、よく言うけれど、数の問題ではないと思う。僅かな数しか見えない東京の星空の下でも出会う人は出会うだろうし、満点の星空の下でも出会えない時は出会えないのだ。どこかの時点の何かの歯車が噛み合わなかったり、あるいは違う方向に回転していたら、隣には誰もいなかったのかもしれないのだ。いまの私には、もうその歯車を分解してまた最初から組み上げていくことは想像できなかった。ただ確実に淡々と、回り続けるように見守ることくらいしかできないと思った。それでも、どこかで、噛み合わなくなったり、止まってしまったりすることもあるはずなのだ。それも、よくわかっているつもりだ。「私たちだって、色々あったんだから、どう見えてるか知らないけど」と時々、史奈は言う。そんな時、孝典さんは見たことのない表情をする。情けないような、バツが悪いような、なんとも言えない苦い顔をする。たぶん孝典さんであっても、あまり人に言えないような行いをしたのだろうなと想像している。そんなことが、カンノクンにも起こるとは今は思えないが、絶対にないとも言えない。同じように私自身にも。「二人で共有してきた記憶があってね、それはもう消えないあざみたいなもので、身体の一部なんだよ、万が一、消せたとしても、消したんだっていう記憶の方がさらに濃く残るはずで。でもね、そのあざもよく見ると綺麗なはずなんだよ、二人にしか残せなかった足跡だから」と孝典さんは言う。そんな史奈と孝典さんという先輩夫婦を見ていると、自分たちもあんな風にいつまでも一緒にいたいと思う。この先、色々あったとしても、二人でいることを選んだのだから。綺麗なあざを残していきたいと。



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# by ikanika | 2018-12-14 21:17 | Comments(0)


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