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あの娘のワンピース



あの娘のワンピース



 ベランダから東の方角を眺める。同じような建売住宅の屋根がたくさん並んでいる。家族でこの家に引っ越してきた時には雑木林だったのに、ここ数年で全て屋根に変わっていった。ほとんど同じような屋根の中にデザイナー建築の個性的な建物が、ほんの一件だけ混ざっている。デザイナー建築とまではいかないまでも、他の家とは少しだけ雰囲気を変えたのだろうと思える家も少しある。学校のクラスみたいだと思う。みんな一緒の中に一人だけ個性的な人、はみ出るのは怖いけど少しだけ個性を主張したい人が数人。自分はどこに属していたのだろうか。どこでもないような気がする。当然デザイナー建築ではない、けど、みんなと一緒でもない、個性を主張するほどの勇気もない。存在していないというのが正解のように思える。由美がいなくなってからは、とりわけそんな感じだったと思う。春に卒業なので、教室に行くのもあと数回。その数回だって行かなくたって卒業はできる。ならば、もう行くのは、やめることにした。もともと存在していないのと同じなのだったら、私が欠席していても誰もなんとも思わないから。もし由美がいてくれたら、唯一、気にかけてくれたかもしれないけれど。担任だってきっと気にしない。卒業証書は郵送してくるだろう。春からは東京に行く。

東京の用賀というところにある会社に就職が決まっていた。とりあえずは、先に上京している兄の部屋に間借りすることになっていたので、部屋探しや引っ越しという上京に伴う厄介な物事は、なにもする必要はない。ただ少し長めの旅行に行くような準備で十分だった。

「配属先が決まるまでだから」と私がお願いすると

「別に部屋は空いてるから、ずっといてもいいよ」と心配性の兄は言った。

「お兄ちゃんだって、色々あるでしょ、彼女さんとか」

「そんなの、いないから大丈夫」と兄は半笑いで答えた。

「でも、とりあえず連休明けには出て行くよ」そう告げて電話を切った。それを聞いていた母は

「お兄ちゃん、なんだって?元気にしてた?」と兄の様子を気にしていた。

「彼女もいないから、ずっといてもいいって」と答えると

「まだ由美ちゃんのことがあるからなのかねぇ」と独り言のように呟いて、私を見た。

「知らないよ、そんなこと」と私は冷たく答える。

母はそれ以上何も言わずに、もう寝るね、と言って二階に上がっていってしまった。私がこの家を出ていってしまうと、母はひとりぼっちになってしまう。だからこっちで就職したほうがいいとずっと思っていた。でも、母は「私は大丈夫、一人の方が好きなことできるし、のんびりさせてもらうから。お友達もたくさんいるしね」と明るく私の上京を後押ししてくれて、兄も当然のことながら「お袋の面倒は、俺が見るから大丈夫、長男だし」と言って私の心配は不要だと言った。それは私のことを思って二人が言ってくれているだとわかっていても、どこかで存在意義みたいなものを否定されていると思ってしまう。クラスに存在していないのとおなじように。



 兄のマンションは、東京の自由が丘にある。どうやら随分とお洒落で高級な街として知られているようで、入社式の日に隣になった同期に「いまは自由が丘の兄のマンションにいる」と言ったら「お金持ち?」と聞かれて驚いた。奈々美というその同期は、後々私の兄と付き合うことになるのだけれど、今思えばこの時から狙っていたのかもしれない。卒業して会社に入ってしまえば、クラスで存在すらもしていなかった自分は、もう過去のもので新しい自分に生まれ変わったと思えるだろうと、そんな都合のいいことを考えていた。配属先は、神奈川県の武蔵小杉というタワーマンションが乱立する人気の街だった。兄にそう告げて部屋を探そうとしたら

「何言ってんの?コスギなんて近いんだから、ここから通えよ」と言われ、初めて兄のマンションとコスギの位置関係を把握した。東京じゃなくて神奈川だと言われ、すっかり遠いんだろうなと思い込んでいたのだ。仕事はオフィス用品を専門に扱う会社のいわゆるオペレーター業務で、お客様からの注文や問い合わせに対応するという単純なものだった。顧客は一般ユーザーではないので変なクレーマーも存在せず、平和な職場だった。注文のほとんどは、インターネットで対応していて、電話で対応するオペレーター業務は、そのうちなくなるのではないかと既に社内では噂されていた。そんなところに新卒で私が入ってきたものだから、周りのみんなは必要以上に気を使ってくれているみたいで、優しいを通り越して、労ってくれているような感じがした。同期の奈々美は、都内のIT系の専門学校を出ていたのでオペレーターではなく、システム管理の部署に配属になっていた。そのシステム部も同じコスギのオフィスにあって、同期は私たち二人だけだったので、よく一緒にランチをした。私たちは、タワーマンションの開発に取り残されたような古い住宅街の一軒家を改装したカフェがお気に入りだった。そこなら同じ会社の人とも会うこともなく、気兼ねなく会社の愚痴も言い合えたし、プライベートな話題も話せた。奈々美は、彼に浮気をされて、どう仕返しをしたらいいかを私にずっと相談していた。「ただ別れるだけじゃ、気がすまない」と相手に鉄拳を食らわす手段を色々と説明してくるのだけれど、正直、まともに男性と交際した経験がない私には的確なアドバイスが出来るわけもなく、ただ「いいね、それ、いいね」と無責任に同意するだけだった。「結局、お金もらった」とある日、奈々美は言って彼への制裁は終了したと宣言した。と同時に、私の兄へのアプローチが始まった。最初は「沙耶のうちに遊びに行かせてよ」という話だったと思う。つまり兄のマンションなのだけれど、目的が兄だとはもちろん気づかなかったし、彼と別れたばかりの奈々美がもう次にアプローチし始めるなんて想像もしていなかった。

「もしかしてお兄さんもいる?」と奈々美はうちに来る約束の日の朝に聞いてきた。

「いると思う」と答える。兄の会社は、週の半分は在宅勤務が認められていて、その日は在宅勤務の日だった。

「ラッキー、じゃあ会えるね」

「兄に会いたいの?」

「会いたい、沙耶に似てる?」

「まぁ、子供の頃は似てるって言われたけど」

「沙耶に似てるってことは、イケメン」

「そうなの?」

「沙耶、可愛いじゃん、こう、シュッと整ってるし」

「まじめに言ってる?はじめて言われた、可愛いなんて」

「可愛いよー、そのへんのアイドルとかより、坂道グループに入っててもいいくらい」

「ないよ、言い過ぎ」

「だって、あれだよ、消滅しかかってるオペレーター業務は、沙耶が救った、って。あの娘が入ったからやっぱりあの部署は残そう、って話になったみたいよ」

「なにそれ?どういう意味?」

「可愛い娘が電話対応するとクレーム減るんだって。私みたいなガサツなやつだと逆に火に油を注ぐことになるけど」

「電話じゃ、顔とか見えないよ」

「そうだけど、噂よ、噂になるってことは、そう思われてるんだから、可愛いって」

「わかんないけど」

定時に奈々美と二人でそそくさと退社した。その様子を見ていた上司は「何?合コンとか?」というセクハラまがいの発言をして周りから「課長、それアウトです」とたしなめられ、その場で謝罪の言葉を口にしていた。正直、私たちはそんなやりとりはどうでもよくて、日々それ以上のなんとかハラスメントという目に散々あっているのだから。ただ男たちがそれに気づいていないだけで。とりあえず急いで買い出しに行く為に、着替えを済ませオフィスを出た。

「せっかくだから成城石井とかにする?」と奈々美が言うので

「なにそれ?」と切り返した。私は成城石井というのがスーパーマーケットの名前だとは知らなかった。

「知らないの?ちょっと高級なスーパーだよ、自由が丘にあるじゃん」

「知らない、そうなんだ」

「沙耶はいつもどこで買い物してるの?」

「駅前のスーパー、なんだっけな、名前」

「そっか、でも、今日は、成城石井ね。お兄さんもいるし」

ということで、奈々美と二人で成城石井で買い物をする。確かに私がいつも行っているスーパーとは値段が違った。お肉なんかもずいぶん高級な感じがしたけれども、果たして自分にその味の違いがわかるのか自信はない。奈々美は、料理が得意だというので、その日のメニューはお任せした。「お邪魔させてもらうんだから、腕を振るうわ」と数日前から張り切っていた。それは、単に兄に料理上手なところをアピールしたかったのだろうと、今になってわかる。

「すごいね、奈々美さん」と兄は上機嫌だ。

「がんばりました」と奈々美もワインの酔いが回っていて、少し舌ったらずで答える。私はそんな二人を素面で見ている。あまりお酒が飲めるわけではないので、こういうホームパーティーでも少し蚊帳の外になってしまう。お酒がなくても酔っている人たちと同じテンションで盛り上がれる人をいつも尊敬する。

「沙耶は、会社ではどんな感じ?」と兄は奈々美に質問をする。それは、クラスではどんな感じ?と高校生の時に、由美に質問をしていたのと全く同じ感じで。あの時、由美はなんと答えていたのだろう。そんなに昔のことではないのに思い出せない。酔っている奈々美は、

「大人気ですよ、おじさん達は、沙耶ちゃん可愛いって」と答える。

「そうなんだぁ、へぇ」と兄も酔っていて適当な返事をして、私を見る。

「そう、沙耶は実は可愛いいんだ」と兄。

「そう、沙耶は可愛い」と奈々美も繰り返す。酔っ払いの戯言だ。その後、奈々美は兄とラインの交換をして「いつでも呼んでください。飛んできますから」とさりげなく、というのとは程遠い感じで猛アピールをして、兄も「毎日でも来て欲しいよ」と軽く受け答えをしていた。「今度は中華とかかなぁ」と奈々美は兄に枝垂れかかって言い、酔い潰れて寝てしまった。結局、奈々美は私の部屋に泊まっていって、翌朝二人で出社した。洋服は、あまり会社に来ていったことのないものから奈々美に選んでもらって貸してあげた。「クリーニングして返すね」と奈々美は言ってくれたけれども、なかなか返してくれなかった。実際、そのワンピースは、私よりも奈々美の方が似合っていた。奈々美は、それをずいぶん気に入ってくれたようで、二回目にうちにご飯を作りに来た時に、そのワンピースを着てきたのだった。

「沙耶、これ着て来ちゃった」と奈々美は、おどけてみせた。兄はその奈々美のワンピースをしばらく見つめて、こう言った

「それ、沙耶も同じの持ってるね」と。そのワンピースは、兄が私にプレゼントしてくれたものだったから。その時には、既に奈々美が

「これ、沙耶に貸してもらったんです。私のが似合うって沙耶も言うから、着て来ちゃいました」と口走っていた。兄は

「そっかぁ、確かに奈々美さん、似合ってるよ」と言って、それが私へのプレゼントだったことには触れなかった。私も、兄になんと言ったらいいのか、その場では思いつかなかったので、とりあえずは何事もなかったように振る舞うことにしておいて、後で謝ろうと考えた。でも、元はと言えば、そのワンピースは、本当は兄が由美にプレゼントするつもりで買ったものだということを私は知っていた。兄は、私がそのことを知らないと思っているけれども。由美にプレゼントするはずだったワンピースを奈々美が来ていたせいかはわからないけれども、その日以降、兄は奈々美と付き合うことにしたと、私に宣言した。私は、ワンピースのことには触れずに

「そっかぁ、奈々美、お兄ちゃんのこと最初から狙ってたからね、仲良くしてね」とさらりと答えてみた。兄と奈々美がまだ結婚するとかではないのだけれど、私と奈々美との距離感は確実に前とは変化した。ただ単に近くなったとか深くなったとか逆に気を使うようになってしまったとかではなく、そのどれにも当てはまらないなんとも言えない距離ができた。義理の姉妹になるかもしない、という親密度と言ったらいいのか、不思議な感覚だった。

 当然、奈々美がうちに来る頻度は高くなった。奈々美にしてみれば、もう、沙耶のうちに行く、ではなく康孝さんのところに行く、というのが正解なのだろうけれど。さすがに、私がいるので、兄の部屋に泊まっていくということまではなく、泊まるとしても私の部屋に女子二人で狭いシングルベッドで寝た。

「別に、お兄ちゃんの部屋でもいいよ、私は」と一度、奈々美に言ってみたら

「嫌だよ、さすがに照れる」といつものキャラからは想像出来ない少女のような照れ方をしたので、少し意外だった。時々、週末に私が母の様子を見に実家に帰っている時に奈々美は泊まりにきているようだったけれども。母には一応、兄と奈々美のことは報告しておいた。

「お兄ちゃん、彼女出来たんだよ、私の同期」と。母は

「その娘は、沙耶と同い年?」

「そうだよ、なんで?」

「じゃあ、由美ちゃんとも一緒ね」と母はまた由美のことを口にした。

「お母さんは、なんで、そんなに由美のこと言うの?」

「だって、お兄ちゃん」

「お兄ちゃん、もう、大丈夫だよ、由美のことは、たぶん」

「そうなの」と母は釈然としない顔をして、何かを言おうとして言葉を飲み込んだ。ワンピースのことを母にも言おうか迷ったけれどやめておいた。

実家から兄のマンションに戻ると、私の部屋のベッドの上に奈々美の化粧ポーチと、あのワンピースが畳んで置かれていた。奈々美が泊まりにきているのかと思い兄に尋ねてみた。

「奈々美いるの?」

「もうさっき帰ったよ」と兄。

「じゃあ、忘れたのかなぁ」

「何を?」

「ベッドの上に化粧ポーチとワンピースがあるの」

「そっかぁ、明日持っていってあげてよ、会社に」

「うん、それはいいけど」

「けど、なに?」

「お兄ちゃん、あのワンピース、ごめんね、プレゼントだったのに」

「あぁ、いいよ、別に。奈々美さんに似合ってたし」

「でも、あれ」

「なに?」

「いや、なんでもない」やっぱり由美のことは言えなかった。兄は、奈々美に由美の面影を追い求めているのだろうかと聞いてみたいのだけれど、それは言ってはいけないことのようにも思って、ただ兄の横顔を見つめていた。




 中学校の時、部活帰りに、ほとんど毎日、由美はうちに寄っていった。共働きの両親が不在の家には帰りたくないというのが表向きの理由だったけれども、本当は兄に会いにきていたことを私は気づいていた。中学三年の私たちにとって大学生の兄は頼もしい存在だった。地元にある唯一の国立大学に兄は進学していた。高校でトップクラスの成績でないと入れないその大学に兄はストレートで入った。うちのリビングで由美と私はスナック菓子を頬張りながらテレビを見たりアイドル誌を見たりして、他愛もないおしゃべりをした。兄もその時間に家にいるときは、私たちに混ざっておしゃべりをした。由美は私と二人きりの時より兄がいるときの方が楽しそうにおしゃべりをした。兄はそのことに気づいていなかったけれど、私には、はっきりと由美の気持ちが手に取るようにわかった。

「由美は、お兄ちゃんが好きでしょ?」と私が言うと由美は

「なんか、そうみたい、どうしよう」と否定せずに真顔になった。

「高校に入ったら、告白したら?」と私が言うと

「そんなに待てない」と由美は身を乗り出して来た。

「じゃあ、どうする?」

「どうしよう」と言ったまま黙り込んでしまった翌日に、由美は手紙を書いて来た。兄へのラブレターだった。何をどんな風に書いたのかは、未だに知らないけれども兄と由美は付き合うことになった。その後、由美は兄の彼女としてうちに出入りした。母は由美のことが大好きで実の娘の私よりも由美のこと方が好きなのではないかと思えるほど可愛がった。その理由は、由美が施設から貰われた養子であったことにあるのだと知ったのは、由美がいなくなってしまった後でのことだった。私たちが高校二年になると兄は大学を卒業し、東京で就職をした。兄と由美は遠距離でも交際を続けた。兄が東京に行って一年が過ぎた春の終わり頃に由美は、兄に会いに東京に一人で向かった。高校三年になったゴールデンウィークだった。夜行バスに乗った由美は、兄に会うことなく私たちの前からいなくなってしまった。その時、兄は、由美のためにワンピースを買っていて、行き場のなくなったそれは、私の元へやって来ていたのだった。「これ、沙耶に似合うかと思って」と兄は言っていたけれども。当然、私も兄も、由美の不在を受け入れることができずにいるのは間違いがなかった。あえて由美のことを口にしないで過ごしていることがその証拠で、一度口に出してしまったら、私たちのいまの生活がどうなってしまうのか怖くて仕方がないのだった。逆に母だけは、あえて由美の名前を口に出して現実を受け入れようとしているようだったけれど、私と兄と同じようにショックを受けていることは間違いがないと思えた。兄がわざわざ家賃の高い広いマンションを借りているのも、もともとは由美がいつ来ても大丈夫なようにと考えてのことだった。そこに、私が転がり込み、今度は奈々美が住み着こうとしている。




 深夜に喉が渇いて、キッチンに行くと兄がリビングのソファに座ってパソコンを開いていた。驚いた私は思わず声を上げてしまった。そういうときは本当に「キャー!」というのだった。兄は冷静に

「あぁ、ごめんごめん、驚かしちゃったね」と暗がりから言った。

「何してるの?」

「沙耶は?」と逆に聞かれて

「喉が乾いちゃって」と答え、冷蔵庫を開けながら兄のパソコンの画面を遠くから覗き見ようと試みた。わずかに見えたのは、何かの動画だった。その距離では、はっきりとは見えなかったので

「お兄ちゃん、何見てるの?」と聞いてみた。

「ちょっとね」と言ってパソコンを閉じた兄の目に薄っすらと涙のようなものが見えたような気がしたのだけれど、暗過ぎてはっきりとはわからなかった。翌日、兄の不在の時にこっそりパソコンを開いてみた。時々借りていたのでログインパスワードは知っていた。操作の履歴を開くと昨夜は動画ファイルが再生されていた。見てはいけないという思いは、好奇心に抗うことは出来ずに、私はそのファイルを再生していた。由美が校庭を走っていた。高校の校庭を息を切らして走っていた。その後ろを私が付いて走っているのも少し写っている。でも、カメラは由美を捉えて続けている。おそらくフォームの確認のために誰かに動画を撮らせたもののようだった。最後に由美がカメラの近くまで戻ってきて、息を切らせながら「ありがとう」と言ったところで動画は終わっていた。僅か一分足らずの動画だった。兄はこの動画を誰からもらったのだろうか。同じ陸上部の誰かが撮っていたことは間違いはない。私でもなく由美でもないとなると、あと陸上部の同級生の女子は、久美と美砂だけだ。その二人のどちらかだろうか。兄は、いつもこの動画を見ているのだろうか。由美が突然いなくなってしまった日からずっと。それとも、時々思い出した時に、という程度なのだろうか。それでも、深夜の暗がりの中で涙を流していた兄がいた。その兄に妹の私は、何が出来るのだろうか。わからない。わからないし、私だって由美のことを、もう大丈夫だなんて言えないのに。


 昼休み、いつものカフェに奈々美と行く。

「このワンピース、あげる」と忘れていった化粧ポーチと一緒にワンピースを渡す。

「えっ、なんで?いいの?くれるの?」

「うん、奈々美のが似合ってたし、あんまり着ないから」

「ありがとう、嬉しい」と奈々美は本当に嬉しそうだ。

「康孝さんも似合ってるって言ってくれてたし。でも、なんで沙耶は着ないの?これ?気に入って買ったんでしょ?」

「うん、なんとなく。奈々美が着た方がいいの、それは」本当のことは言えない。それを着て、由美の代わりになってあげてとは。

「変なの。じゃあ、遠慮なくもらうよ」

一時間しかない昼休みは、あっという間に終わってしまう。私は奈々美のことをほとんど知らなかったので、いろいろと聞いてみたいと思っていた。中学や高校時代の奈々美はどんなだったのか、どんな恋をしてきたのか。知っているのは、浮気をした元彼からお金を取った、という直近の話だけだし。今さらだけど、それだけを聞くと、兄の彼女として受け入れるべきではないような気もするし。

「奈々美は、高校とか部活何してたの?」

「陸上だよ、中距離」

「えっ、私も」

「ほんと?珍しいくない?」

「うん、そうなのかな?」

「あんな地味なの、なんでやってたんだろうって、思うけど、思わない?」

「思う。けど、友達がいたから楽しかったよ、私は」

「私も。おんなじだね。部活の友達って、続くよね。いまだに会うよ、時々、私は」

「そっかぁ、いいなぁ」と私は由美のことを思い出して呟いていた。

「沙耶は、もう会わないか、東京に出てきちゃったしね」

そういう理由ではないんだけど、と心の中で呟き「うん、そうだね」と答えていた。もう、会社に戻らないといけない時間になっていたので、急いでカフェを出た。奈々美は、小走りで私の前を行く。奈々美も由美と同じように高校のグラウンドを走っていたのだと思うと、なんとなくその後ろ姿が由美に似ているような気もするのだった。その夜、兄に尋ねてみた。

「奈々美、陸上部だったんだって。知ってた?」と。

「あぁ、そう言ってた、中距離だって」

「私と一緒」

「由美も」

「えっ?」兄の口から由美の名前が出たのは、いつ以来だろう。

「お兄ちゃん、奈々美のこと、好きなの?」

「何?その質問」

「別に。なんとなく、もう、由美のことは大丈夫なのかなぁ、って」

「沙耶は?大丈夫なのか?」

「大丈夫、って、わかんない」

「俺も同じだよ、大丈夫か、って聞かれてもね、大丈夫、ってなんだ、って」

「うん。わかる。ごめんなさい、変なこと聞いて」

「奈々美さんのことは、好きだよ」兄はそう言ってから、少し悲しそうな目をしたように思えた。なんで、由美だけがいなくなってしまったのと、私は誰かに叫びたい衝動に駆られて、強く目を瞑った。


 母から入院したと連絡が来たのは、週末に奈々美が遊びに来ていて帰った直後だった。

「あのねー、私、入院したから」とまるで人ごとのように母は言った。家の階段で足を踏み外し、手をついた拍子に手首の骨にヒビが入ったという。身体全体を打ち付けたので、念のため検査をするという。

「だからね、お見舞いとかいいから」と言っていたが、だったらわざわざ連絡なんてしてこないだろうと思い、月曜日から有給をもらって実家に帰った。兄も行きたいと言っていたけれど、ちょうど海外からの来客があって会社を休めないからと私一人で帰った。

「家の階段でも、危ないんだわね」とまだ人ごとのようなことを母は私の顔を見るなり言った。

「あれじゃない、歳だよ、足腰が弱ってんの」と私はわざとからかうように言った。

「お兄ちゃんは?」と聞かれ、仕事で来れないと言うと

「そうじゃなくて、新しい彼女とどう?って聞いてんの」とベッドのリクライニングをあげて身を乗り出してきた。そんなに兄の交際のことが気になるのだろうか。私には、そんな質問をしたこともないのに。

「仲良くしてるよ、奈々美ね」

「奈々美ちゃんね。会ってみたいわ、私」

「わざわざここまで連れてくるとしたら、結婚とかの挨拶じゃない」

「じゃあ、私が行こうかしら、お兄ちゃんのとこに」

「お兄ちゃんのとこ、って、私もいるよ」

「あっ、そうね。二人のとこに」

「言っておくよ、お母さんが会いたいって言ってるって」とその話は終わりにした。母が奈々美とあったら、由美のことを口走らないか心配だ。事前に口止めをしたところで信用ならない。しかし、いずれは奈々美にも由美のことを知ってもらわなくてはならないとも思う。それがどのタイミングなのかは、今はまだわからないけれど。その時には、少なくとも兄が

「もう大丈夫」と思っていなくてはならない。同じように私も。

一泊で帰る予定で会社に届けを出そうとしたら、会社から逆に、もう少しいてあげなさいと言われてしまって三泊することになっていた。もし奈々美が知ったら恐らく「ほら、可愛がられてるからだよ」と言うに違いない。母の病院にずっといてもやることがないので、地元の街をぶらぶらすることにした。懐かしい通学路をたどって高校まで歩いた。私が存在していなかったと思っていたクラスのある校舎を見上げた時、こんなに小さかったかと思った。小学校の校舎とかならそういう感覚はわかるけれども、高校の校舎なのに。記憶にあるものよりかなり狭い校庭のトラックを走ってみた。一周がこんなにも短かっただろうか。こんなに小さな世界で、私たちは毎日を過ごしていた。由美と毎日走っていた。そして、由美はこの小さな世界しか知らないまま、いなくなってしまった。そのことを思うと、やはり、やりきれない思いがした。そして、なぜだかきちんと説明がつかないのだけれど、ここに奈々美と来てみたいと思った。そして、この校庭の小さなトラックを一緒に走りたいと思った。奈々美は、なんで?と言うだろう。その時に由美の話をしよう。その時なら、ちゃんと話ができる気がした。そうしようと心に決めた。


 奈々美だけを実家に連れて行く口実が見つからないまま、ひと月くらいが過ぎてしまった。母はすぐに退院して、いまは手首のリハビリに通っていて「もうちょっと良くなったらそっちに行くから」と宣言していた。奈々美を連れて行くのが先か母が来るのが先か微妙な感じになってしまっていた。もっともらしい口実なんて、やはりどこかで嘘だとバレてしまいそうだったので、奈々美には単にお願いすることにした。

「理由は、行ったらちゃんと話すから一緒に実家に行って欲しい」と。奈々美は怪訝そうな顔をしたけれど、渋々承諾してくれた。母に奈々美と二人で遊びに行くからと伝えたら、なんでお兄ちゃんは来ないの?と当然聞き返された。お兄ちゃんは、仕事が忙しいからと適当に答えて、電話を強引に切った。私はとにかく、あの校庭のトラックを奈々美と走らなくてはならないんだ、と取り憑かれたように思っていた。そして、そのことは兄には内緒にしておきたかったので、奈々美にそう伝えたら

「もうなんだかわからないから、言う通りにするよ」とすんなり聞き入れてくれた。土日の休みに有給を一日付けて二泊三日で奈々美と私の実家に帰った。母は、女三人では絶対に食べきれない大量のご馳走を作って待ち構えていた。

「奈々美ちゃんね、よろしくね、康孝をね」とまるで奈々美が結婚の挨拶に来たかのように対応した。

「お母さん、今回はそういう話じゃないから。ただ羽を伸ばしに来ただけだから」と私がとりなしたのに、奈々美は

「いえ、こちらこそ」と、まともに返していた。


 翌日、奈々美を連れて高校まで歩いた。

「ここが通学路」と私。

「よくある普通の住宅街」と奈々美。

「私には思い出の道」

「なに?好きな男子を待ち伏せしたり?」

「しない」

「じゃあ、どんな思い出?」

「もう、着くよ、高校」と私は奈々美の質問をスルーして言った。

「ねぇ、沙耶。私、ここ知ってるよ」

「えっ、なんで?」

「それは言えないけど、この校庭をね、女の子が走ってるの見たことある」

「女の子って?」

「知らない子」

「もしかして、お兄ちゃんの」

「沙耶、知ってるの?」

「うん、知ってるっていうか、見たことある。奈々美はなんで?」

「前にお泊まりした時、康孝さんが夜中に見ていたの。見ていたというか、パソコンを膝の上に置いたまま寝落ちしてたんだけど。その時、流しっぱなしになってた。その動画が」

「そっかぁ」

「誰なの?あの女の子」

「うん、ちょっと、奈々美、走らない?校庭」

「なんで?」

「なんでも。陸上部だったんでしょ?久しぶりに走ろうよ、ねっ」

「いいよぉ、こんな靴だし」

「いいじゃん、行こっ」

私は強引に奈々美の背中を押して校庭のトラックまで連れて行った。渋々走り出した奈々美の後ろに付いて私も走る。奈々美は時折振り向いて、微笑む。まんざらでもないような表情に、私はなんだか嬉しくなる。

「二周目に入ったら、教えてあげる」

「何を?」

「女の子のこと」

「なにそれ、早く教えてよ、いま」

奈々美は、ほとんど後ろ向きになって走りながら私に詰め寄る。

「もうちょっとで二周目だよ、前向いて」

奈々美は素直に前に向き直り、走り出す。私は奈々美の背中に向かって由美のことを話し始めた。

「由美、って言うの、あの子。私の同級生。中学からずっと一緒。でもね、もう、会えないの」奈々美は前を向いたままだ。私は続けて話す。

「それでね、お兄ちゃんの彼女」流石にここで奈々美は振り向いて私を見つめる。

「でも、もう、いないから」

「いない、ってなに?」前を向いたまま奈々美は質問を返す。

「死んじゃったの」

奈々美は、走り続ける。黙って走り続ける。奈々美の後を私も付いて行く。奈々美の表情が見えない。どんな顔をしているんだろうと、左右に揺れる長い髪を見つめる。奈々美は、三周目を走り終えたところで、肩で息をしながら歩き始めた。

「なに?その話、どうして?どういうことなの?」奈々美は少し泣いているみたいだった。私は、高校三年の春に由美がバスの事故にあったこと、それは兄に会いに行く途中だったことを丁寧に奈々美に伝えた。でも、そうやって起こってしまった事象を伝えることはできても、兄や私や母が抱えてしまった、どうしようもない気持ちを奈々美に伝える言葉は見つからなかった。寂しいとか悲しいとか悔しいとか、そういう言葉を並べてみても、どれも何かが足りない気がした。

「だって、まだ、最近のことじゃん、なんで?みんな大丈夫なの?」

「大丈夫じゃ、ないよ、たぶん」

「私も、大丈夫じゃない。知らない子の話に思えないし」

「うん、でもね、大丈夫にならなくちゃいけない、って思ってるよ、みんな」

「私、どうしよう」奈々美は、明らかに動揺しているように見えた。それが何によるものなのか私には、はっきりとはわからなかった。兄とのことでもあるだろうし、私たち家族全員のことかもしれないし、自分と同じ年齢の子が死んだ、という受け入れがたい事実を聞かされたせいかもしれないし、その全部かもしれなかった。私は話してしまってから、奈々美に何を伝えたかったのだろうと、自己嫌悪に陥った。別に奈々美は知らなくてもいいことだったのかもしれない、私が勝手に巻き込んでしまって、それで、私たちが大丈夫になれるとでも思ったのだろうか。奈々美が何かを解決してくれるとでも。奈々美に話したことで、辛い思いを共有する人間を一人増やしてしまっただけだと思った。


 高校から実家に帰る途中、奈々美は

「やっぱり康孝さんは、由美さんのこと忘れられないよね」と呟いた。

「でも、奈々美は奈々美だし」と私は答える。

「何の答えにもなってないよ、それ」

「そうかなぁ」

「なんか、おんなじ陸上部だし、思い出させちゃうし、絶対、由美さんのこと考えるよね、普通」

「奈々美のこと好きだって言ってたよ」

「何それ?聞いたの?」

「うん、聞いた」

「変な兄妹」と奈々美は少しだけ笑ってくれた。

 その日の晩御飯は、前の日に母が作り過ぎたご馳走の残りを食べた。残り物でも十分お腹は満たされ、奈々美と母はワインを二人で一本空けて上機嫌だった。奈々美が

「お母さんも由美さんのことよく知ってるんですか?」と尋ねた時、母は「そうね、まぁ、それなりに」と曖昧な答えをした。私にはいつも由美のことばかり話題にするのに、奈々美の前では母は母なりに気をつかっていたのだと思う。

「私、由美さんに似てますか?」と奈々美が母に言った時には、さすがにドキリとしたが、その質問にも母は

「似てないんじゃない、奈々美ちゃんの方が美人さんだよ」と笑って答えていた。

「それ、由美に失礼じゃない」と私も話題に乗っかって、三人で笑い合って、その晩はもう由美の話にはならなかった。


 翌朝、朝寝坊していたら兄からの電話で起こされた。

「沙耶、いまどこ?」

「どこ、って、旅行」

「高校行かなかった?」

兄が何を言っているのか起き抜けの頭ではよく理解できず。

「高校なんて、ちゃんと卒業したよ」とトンチンカンな答えをしていた。

「ちがうよ、昨日、沙耶を見たって、坂木から電話があったんだけど、お袋のとこにいるのか?」坂木とは、兄の幼馴染で、地元で大きな建築会社をやっている家の息子だった。なんだ、バレちゃうんだ、と思い、嘘をつくのは止めることにした。

「バレちゃった」

「奈々美さんも一緒?」と兄。

「一緒だよ」

「高校も一緒に行ったのか?」

「うん、行って、走った、一緒に」

「なんで?」

「なんでって、そうしたかったから」

話していると、隣で奈々美が起きた様子だった。

「誰?」と声を出さず口元だけを動かしている。私も

「お兄ちゃん」と口だけを動かした。

「あっ、ごめん、奈々美が呼んでるから、一旦切るね、掛け直す」と言って無理やり電話を切った。

「なに?バレてた?」と心配顔の奈々美。

「うん、バレた」

「あれー、なんで?大丈夫?」

「坂木さんていうお兄ちゃんの幼馴染に目撃されてた。高校で走ってたとこ」

「そんな情報、筒抜けなの?」

「田舎はそんなもの」

「どうする?」

「別に、正直に話すよ、もう」

「兄妹のことだから、私はわかんないけど。連れてこられただけだし、私は」と奈々美は布団をたたんで着替えを始めた。

「奈々美も共犯よ」と私がからかうと

「なんでよ!」と奈々美はムキになる。

「うそ。大丈夫、奈々美は悪くないから。後で電話しとくよ」と言ってみたけれど、兄に、奈々美をここに連れてきた理由をきちんと説明できる自信はなかった。

 帰りは、由美が乗ったのと同じ路線の高速バスで帰った。夜行ではなかったから、全く同じというわけではなかったけれど、ただそうしてみたかった。当然、奈々美もそのことに気づいていて

「葬いの旅行なの?」と訊かれたので

「ちがうよ、このバスが一番便利なだけ」と答えておいた。バスの中で時間はたっぷりあったので、私は思っていたことを少しずつ話してみた。

「奈々美にはね、知っておいて欲しかったの、由美のこと。でもね、いつ、何から、どう話したらいいか、ずっとわからなかった。お兄ちゃんとこの先もずっと仲良くしてもらうには、知っていてもらわないといけないと私が勝手に思ってたんだけど。もしかしたら、知らないままでいることもできたかもしれないけどね」

「知ってよかった。けど、」

「けど、なに?」

「私に何かできる?みんなを慰めたり、辛さを分かち合ったりとかは、表面上はできるかもしれないけど、本当の意味で、康孝さんや沙耶やお母さんの痛みなんてわからないと思うの」

「うん、そうかも。でも、私たちには、奈々美が必要なんだって思う。私たち、なんて言うとお兄ちゃんから横取りしちゃう感じだけどね。お兄ちゃんが奈々美のことを必要としているのと同じように、私にもお母さんにも奈々美が必要なんじゃないかって」

「仲原家の救世主ね、私」と奈々美は冗談めかして言う。

「冗談抜きで、そうかも」

「やめて、荷が重い」と奈々美は、それでも少し嬉しそうだった。

「最初ね、由美さんの話を聞いた時、私はその人の代わりじゃない、って正直頭にきて、悔しかったの。わかる?私は由美ではなく奈々美なの、って」

「わかるよ」

「でもね、同い年の女の子が、あんな風に事故で死んじゃうんだなって、思うと、なんだかわからないけど、それも悔しくて。もし由美さんがいま元気に生きていたら、私は沙耶や康孝さんにも会わない人生だったんだろうな、とか考えてみたり、あるいは由美さんと康孝さんを取り合う恋敵になっていたのかなぁ、とかも考えたり、もう、なんだか変な想像ばっかり頭に浮かんできて」

「うん」

「でもね、私が必要とされている場所であることには間違いないって少し思えて来ていて。そしたら、沙耶が、私を必要なんだって言ってくれたから、あぁ、間違い無いんだって思えて。わかる?言ってること?なんだか変なこと言ってる?」

「大丈夫、わかるよ、わかる」と答えたけれど、奈々美は頬に手を当てたまま考え込んでしまった。そのうち二人ともウトウトと眠りに落ちてしまい、終点の東京駅に着くアナウンスで目が覚めた。

「なんか疲れたね」と私が言うと、奈々美も

「うん」と答えて大きな伸びをした。その伸びをする仕草が、由美に似ていると思った。

「明日からまた会社だね」

「だねー」

「月曜朝礼もあるね」

「あるねー」なんていうどうでもいい会話をしながら、私鉄に乗り換えてそれぞれの家に帰った。


 マンションに着くと兄はいなかった。在宅勤務の日ではないから、残業だろうかと考えながら部屋の中を見渡す。いつもと変わりのない部屋。ソファテーブルの上に兄のノートブックが置き去りにされ、電源のランプが息をしているように、ゆっくりと点滅を繰り返している。由美に会いたいと思いパスワードを入れ、兄のページにログインする。動画ファイルを再生して、高校生の由美が走ってる姿をじっと見つめる。繰り返し再生しているとだんだんと由美が奈々美に見えてくる。「私は奈々美じゃなくて由美だよ」と画面の中の女の子が言っている気がして、ファイルを閉じ、パソコンをスリープ状態に戻す。私の中の由美が、なんとなく色彩を失いかけてきているような気がして、淋しくなる。同時にさっき「私は由美ではなくて奈々美なの」と言っていた奈々美の顔がはっきりと思い浮かんできた。

 兄は奈々美と母のところへ行ったことについて何も言わなかった。ただ「お袋、元気だった?」と聞いただけで。奈々美にも何も聞かないつもりなのだろうか。私から、奈々美に由美について話したことを報告した方がいいのだろうかとも思って、兄が在宅勤務の日に声をかけた。

「ねぇ、お兄ちゃん、この前、奈々美に話したよ、由美のこと」そう言うと、一瞬間があってから

「ありがとう」と言った。

「奈々美、なんか言ってた?」

「うん」

「なんて?」

「由美さんのこと、聞きました、って」

「それだけ?」

「私は大丈夫だから、って」

「そっかぁ」

「お兄ちゃんは?」

「何?」

「大丈夫になった?」

「なったよ、おかげさまで」と少しだけ笑っていた。奈々美とどんな話をしたのかは、奈々美に聞くことにしようと思う。でも、間違いなく、兄が大丈夫と言えるようになったのは奈々美のおかげなのだと思った。翌日、由美に兄が大丈夫、って言っていたと報告しようと思い、ノートブックを開いた。いつもあるデスクトップに動画ファイルが見つからなかった。色々探してみたけれども、どこにもなかった。唯一、動いている由美に会える動画だったのに。こっそり見ていたことがバレてもいいと思い、帰宅した兄に聞いてみた。

「あの動画、捨てたの?」

「由美の?見てたんだ」

「うん、ごめん、こっそり」

「削除した」

「なんで?唯一の動画なのに」

「もう大丈夫だから」と兄は私の目を見てはっきりと言った。


 兄の運転する車で、実家に向かう。後部座席に私と奈々美が乗って。この前、奈々美と二人で行った時から、季節はがらりと変わり夏の日差しが窓から入り込み、私の右腕を容赦なく照らしている。奈々美は、あのワンピースを着て、それに合わせて買ったという、つばの広い綺麗な帽子を持ってきていた。

「避暑地に行くイメージ」と奈々美は言っていたけれど、私の実家のある街は単なる地方都市で、決して避暑地ではない。この前、一度行っているのに、なぜそんなイメージを抱いているのかわからない。

「うちの実家、避暑地じゃないけど?」と言うと

「気持ちの問題」とだけ言って、取り合ってくれなかった。兄も、それに合わせたのか白い半袖シャツに薄いブルーの短パンを履いて、奈々美のと同じ色合いのハットを持ってきていた。私だけが、Tシャツに生地が薄手のデニムだった。奈々美に

「沙耶、今日なんか、aikoみたい」と言われて、確かにと自分でも思い、夏の星座にぶら下がって、という歌が思い浮かんだ。平日だったので想定していた時間よりも早く実家についた。母は

「早く着くならそういってよー」とバタバタと散らかった部屋を片付けはじめた。

「別に、私たちと奈々美だから、いいよ、散らかってても」と私が言うと

「何言ってんの、大事なお嫁さんをお迎えするのに。沙耶、手伝って!」と大きな声でまくし立てた。奈々美と兄はペアルックよろしく、遠巻きに私たちのやり取りをニヤニヤしながら眺めていた。それは、なんとも幸せな瞬間だと、私は片付けをしながら感じていた。

 母は晩御飯の用意をすると言ってエプロンを二つ持ってきて

「沙耶も手伝って」と一つを私に渡した。

「この前作りすぎたんだから、ほどほどにね」と言うと

「お兄ちゃんがいるんだから、たくさん作んなきゃ」と張り切っている。

「俺も昔みたいには食べないよ、もう学生とかじゃないんだから」とリビングから兄の声が聞こえる。

「とか言って食べるのよ、康孝は」と母は取り合わない。まぁ、好きにさせればいいかと、母の言うとおりに手伝いをした。結果、やはり明らかに作りすぎだと思える量のご馳走が並んだ。

「わぁー、すごい」と奈々美は喜んでいる。この前二日続けて同じものを食べさせられたことを忘れているのか、と私は思う。母はエプロンを外し席に着いた。

「さっ、康孝、どうぞ」

「えっ?」

「紹介して、きちんと。ね、奈々美さん」

そう言われて奈々美も背筋を伸ばす。

「えーと、奈々美さん、です。結婚しようと思ってます。で、母の早苗です」

「早苗です、よろしくね」と母。

「はい」と奈々美。

そこで、一同沈黙。

「なに?これ?」と私は耐えきれずに口を開いた。

「こういうのって、難しいわね、あと何言うの、普通」と母が兄に尋ねる。

「さぁ、知らない。以上でいいんじゃない?ね?」と兄は奈々美の顔を覗き込む。奈々美は何かを言おうとしていたように私には見えたのだけれど、母の「冷めちゃうから、食べましょ」という一言で、とりあえず宴が始まった。母と奈々美は、この前と同じようにワインを一本空けていて、ビール党の兄は飲み終わった缶を潰してテーブルの端に積み上げていた。あまりお酒の飲めない私は奈々美と母の飲んでいるワインを少しだけもらって、なんとか酔っているみんなのテンションに追いつこうとしたのだけれど、到底追いつける感じがしなかった。もう、お腹いっぱいになっていたのだけれどテーブルの上にはまだ沢山のご馳走が残っていた。

「ほら、作りすぎ」と兄が言う。

「明日また食べればいいのよ、腐るものじゃないから、ね」母は奈々美に同意を求める。

「はい、そうしましょう」と奈々美は素直に答えて、残り物を綺麗に盛り付け直し始めた。酔っているのかと思っていたけれど、その手つきを見る限りほとんど素面のようだった。盛り付けをしながら奈々美は

「本当は、私の代わりに由美さんがこの席にいたかもしれないんですよね」と言った。私たち家族は顔を見合わせた。

「奈々美、由美のことは、もう大丈夫なんだって。だから、そんなこと」と兄がすぐに言葉をかけた。

「違うの。私、由美さんの代わりが嫌だとか言ってるんじゃないの。こうしてね、みんなに囲まれていると、由美さんも、こんな気持ちだったのかなぁ、って思って、なんだかすごく近くに由美さんがいて、それで見守ってくれているような気がするの。会ったこともないのに、由美さんのことならなんでもわかるような気になる、っていうか。だから、その由美さんの分まで私が生きて行かなくちゃいけないんだな、って」

「奈々美は、奈々美なんだから、由美のことはいいんだよ」と兄が言う。

「よくないよ、由美さんのことを知らないことにしてこれから康孝さんと一緒になるのは嫌なの。康孝さんだって、もう大丈夫、って言うけど全然そんなことないはずだし。康孝さんの中に由美さんがいてもいい、っていうか、いつでも由美さんのことも思ってて欲しい、っていうか。もう私の中にも由美さんがいて、一緒に笑ったり泣いたりしている感覚なの。いまいるこの場所には、由美さんもいて私もいるっていうか」兄も、もう黙って聞いている。

「ねぇ、このワンピース、由美さんのでしょ?」と奈々美が兄と私に尋ねる。

「いいの、誤解しないで、怒ってるんじゃないから。沙耶のワンピースじゃないよね?沙耶が自分で買ったりなんかしてないよね?沙耶のクローゼットには、こんな色の服は、一つもないよね。それに、いつだったか、私、ピンクとか女の子の色は似合わないから、選ばない、って言っていたし。でも、これ可愛い薄いピンクだよ。私、これと同じ色、知ってるの。あの動画の女の子、この色のタオルもってて、長い髪を束ねていたカチューシャもこの色だった。あの子が由美さんで康孝さんの彼女だったんだよって沙耶に聞いた時に、もしかしてこのワンピースは由美さんのなのかな、って思ったの。あるいは、康孝さんが由美さんにプレゼントしたものなのかな、って。どう?あってる?康孝さんは、私に似合ってる、って言っていたけど、それは私じゃなくて、本当は由美さんを見ていたんだろうな、って思ったけど、それでも康孝さんに褒められて私は嬉しかった。沙耶は私が必要なんだって言うし、康孝さんも私のことが好きだって言ってくれるし、正直、どうして、って二人のことがわからなくなっていた時もあったけど。でも、不思議とね、このワンピースを着ると落ち着くっていうか、私は私なんだから、って思えてね。それは多分、由美さんが一緒にいてくれて見守ってくれているからなんだろうなって。由美さんが座っていたかもしれないこの場所に、由美さんが着るはずだったワンピースを着て、私はここにいる。そのことは、とても幸せなことなんだと思ってるの、今は」そこまで話すと奈々美は立ち上がり、私たち家族に

「だから、よろしくお願いします」と言って深く頭を下げた。それを見た母も立ち上がろうとしたのだけれど、思いのほか酔いが回っていたみたいで、見事に椅子から転げ落ちるように転倒した。兄が慌てて抱え起こして、どこか怪我をしていないか聞いているのに、母は兄の質問は無視して

「こちらこそ、よろしくお願いします」と奈々美よりさらに深く頭を下げていた。


 兄の運転する車は、由美が兄に会うために東京に向かっていたのと同じ高速道路を走った。どこかで事故現場を通過したのだろうけれど、私には、それがどこだったのか、はっきりとはわからなかった。兄は何度も訪れていたはずなので、正確にわかって走りすぎたのだろうけれど。奈々美は、その高速道路を走っている間、ずっと目を閉じていた。窓から入り込む夏の日差しを受けているピンク色のワンピースは、奈々美が息をするリズムで静かに上下している。奈々美は今、由美と何かを話しているのだろうかと私は思った。もう、奈々美は私たち以上に由美のことをわかっているような気がする。私も兄も、由美のいた場所にどうやっても立つことはできないのだけれど、今、奈々美はそこに立っているのだ。そこから見える景色は、由美が見ていたかもしれないと奈々美は今でも思っているのかもしれないけれど、それは違うと私は思う。奈々美が見る景色は奈々美だけのもので、由美が見たかもしれない景色は、あくまで由美の景色の筈だと。今、奈々美の眼に映る、その景色はどんななんだろうか。目を開けたら聞いてみよう。ピンク色のワンピースに降り注ぐ夏の日差しのようにキラキラとしていたらいい。




----------------

あとがき


春が来る少し前に、春のことを思い浮かべて書き始めました。

主人公たちは、少し辛い経験をしていますが

春から夏にかけての季節が、

彼らを前に推し進めているように思います。

この季節は、そういう力があると

なんとなく感じますね。



cafeイカニカ

平井康二





# by ikanika | 2019-04-27 22:07 | Comments(0)


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