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H u m i d i t y  〜雨傘〜記憶の扉






雨傘



 雨が降っても、鉢植えにジョウロで水やりをする。店先に出せば雨水で自然と潤うのだけれど、オーナーは「雨に打たれているだけじゃかわいそうでしょ、だから、お願い」と言ってジョウロで水やりをするように私に言った。

 雨だと車が多い。店の前の道は渋滞することはほとんどないのだけれど、雨のこの時間帯は通勤する車で少し混んでいる。信号待ちで店の前に泊まっている車をぼんやり眺める。外からは運転席の中はよく見えないので、本当に通勤している人達なのかはわからない。もしかしたら、主婦や老人なども混じっているのかもしれない。雨傘をさして歩くのが億劫だという理由で車を出しているのかもしれない。信号が青に変わったのに店の前から走り出さない車がいる。何をしているのだろうかと運転席の中を見てみるけれど、やはりよく見えない。やがて車はゆっくり走り出し、運転手がこちらを見ている気がして少し怖くなる。何を見ていたのだろうか、雨なのに何故ジョウロで水やりをしているのか、などと不思議に思っていたのかもしれない。


 お店が駅から離れているせいで、雨が降るとお客さんは極端に少なくなる。梅雨の時期は、毎日がそんな風なので、売り上げは期待できない。私のアルバイト代の方が売り上げよりも多かったりする日もあって、オーナーにそのことを話したら、最初からそれを想定してやっているから余計な心配はしないで大丈夫だと言われた。本当にそうなんだろうかと思ったけれど、お店の経営のことなどは全くわからないので、ありがとうございます、とだけ答えておいた。

 雨でも、わざわざ足を運んでくれるお客さんもいるので、いつも通りに開店の準備をする。きょうもお昼まではお客さんは現れなかった。一時を回ったくらいに、カウンターの裏で、朝、作ってきたおにぎりを食べた。一人での店番なので、お昼ご飯は誰もお客さんがいないタイミングを見計らって、素早く食べなくてはいけない。いつも小さめのおにぎりかサンドイッチを自分で作って持っていくようにしている。今日は、おにぎりを二つ、梅干しと昆布の二種類にした。

 ちょうどお昼を食べ終わった頃に、店の前に人の気配がして、傘をたたむ音がした。今日、はじめてのお客さんだ。店の扉が開くと同時にいつものように「いらっしゃいませ」と声を掛ける。珍しく男性のお客さんだった。その人は、私を見つめ、ただ黙って立っている。私も、その人を見つめたまま、動けなかった。雨音だけが聞こえていた。いまが何時で、ここが何処で、そもそもこの瞬間が現実なのか夢なのかさえもわからなくなってしまった。何か言葉を探してみたけれど、その瞬間に記憶にある言葉が全て消え去ってしまったかのように、何も見つからなかった。あなたが何か言って、と心の中で願った。私には言葉が見つからないから、何か言ってと。あなたは、ようやく呟くようにこう言った。

「久しぶり、元気だった?」と。

 その声は記憶の中のあなたの声と同じだった。私の耳にいつも心地よく響く、大好きだったその声。「元気だった?」という問いに本当は戸惑ってしまったけれど咄嗟に出たのは「はい」という答えだった。突然、病気だったなどと詳しい説明を始めるなんてあり得ないけれど、話したいことがたくさんあることを、その「はい」の中に込めたつもりだった。その次の言葉は、私からなのかあなたからなのか、どちらから発せられるべきなのか考えていると、店の電話が鳴る。あなたに視線で電話に出ます、ということを伝え、事務的な声音で電話の対応をする。そういう私を見られていることが恥ずかしくもあり、でも嬉しい気持ちもあった。受話器を置き、その流れで私から次の言葉を発した。

「久しぶりです、どうして?」と。

 たぶんあなたは「どうして?」という問いに戸惑ってしまったに違いないと感じる。確かに、曖昧な問いかけだと思う。どうして、ここにいるの? どうして、今まで会えなかったの? どうして、に対してあなたが何を答えてくれるのかまでは考えて発した訳ではなかった。様々な思いをひとつの言葉に乗せようとしたら出てきた言葉が「どうして?」だった。あなたは、しばらく考えてから

「どうしてだろう、僕にもわからない。でも、会えてよかった、こうして」とゆっくりと言葉を選んでそう言った。私は、ただ嬉しい気持ちでいっぱいだった。戸惑いや驚きも当然あったけれど、それよりも私を満たしているのは喜びでしかないと感じていた。

 一年前には、こんな風にアルバイトであっても仕事が出来るようになるなんて想像していなかった。その時よりも、見違えるほど元気になった私を見てもらえたという気持ちだったけれど、あなたはそんなことは知らない。今の私になるまでの、私に起こった様々な出来事を知らない。同時に私も、目の前のあなたに起こってきた出来事を何も知らない。早くその空白を埋めてしまいたいと思う。たくさんの言葉をやりとりして、何も描かれていない空白の部分に景色を描きたいと。話したいことがたくさんあるはずなのに、お互いに言葉が出てこない。沈黙の隙間に、わずかな雫が零れ落ちるような、ぎこちない会話しかできなかった。それでも、私は良かった。こうして会えた奇跡のような出来事に感謝をしたい気持ちだった。

 私の好きなあのカタログをあなたが作っていたことを教えてくれた。そして、この前、カタログを届けてくれたのもあなただったと。あの時、もし、私がお店番をしていれば、もう、あの日に会っていたのだと想像してドキドキした。時間が止まっているようにも感じていたのに、あなたはもうスタジオに戻らないといけないと言う。もっと話がしたいと思っていることを、どう伝えたらいいのかわからない。

 あなたは帰り際に名刺を渡してくれた。住所が二つ書いてあり、一つは赤坂の住所で、もう一つはこの店のすぐ近くで、私の部屋とも近い住所だった。

「この近くに?」

「自宅はすぐ近く」

「私もです」

 そう言いながら、鼓動が早くなっているのがわかる。たぶん、顔も赤くなっていたに違いない。次は近くのカフェで会う約束をして、あなたは雨傘をさして帰っていった。







記憶の扉





「あのグリーンには、いつもきみが水をあげていたんだ」

「そう。雨の日でも」

「雨で自然と潤う気がするけど」

「雨水だけだとかわいそうでしょ、ってオーナーが」

 家の近くのカフェで、きみと待ち合わせをした。お互いの家がこんなに近くだったことに驚いた。歩いて僅か十五分くらいの距離だった。いままで道端でばったり会っていてもおかしくなかったのに、会わなかったのには何か理由があるように感じる。

「偶然会っていてもおかしくはない距離だね」と言うと、きみは少し戸惑った顔をした。何かを言い淀んでいる。

「どうしたの?」

「私、まだこの辺りに住んで間もないので」

「そうだったんだ、その前は?」

 きみは言葉を探しているような表情だ。聞いてはいけなかったのだろうかと思い

「ごめん、あまりプライベートなことを聞きすぎるのはよくないね」と話題を変えようとした。

「いえ、大丈夫です。でも」

「でも?」

「驚かないで聞いてください。ずっと病院に」

 やはり聞いてはいけなかったように思う。話したくないことだったら話さなくてもいいと思い

「きみが話したくないことなら、知らなくていいから、無理に話さなくても、大丈夫だよ」と言い、きみの次の言葉を待った。

「はい。あまり詳しくはまだ話せないかもしれないけど、ただ、あなたには知っていてほしいとは思っていて」

「うん」

「今はすっかり元気になって、まだ、そんなに普通の人みたいには出来ないこともあるけど、アルバイトも出来ているし、変な心配をしてもらうと、申し訳ないというか、ごめんなさい」

「きみが謝ることなんてないよ、何も。話してくれてありがとう」

 再会を果たせたけれど、離れていた時間を埋めていく作業は、そんなに簡単にいくものではないのかもしれない。知らなくてもいい過去は知らないままに過ごしていくことが出来ればそれでもいいのだろうけれど、全てを知った上でこれから先を過ごすことを選びたいと僕は考えていた。きみがそれを望むかどうかはまだわからないけれど。

 最後にきみの手を握って砂浜を歩いた記憶は、ついこの前の事のようにも思えるし、それ自体が夢の中での出来事だったようにも感じることがある。それくらい記憶は時間と共に褪せていくもので、その褪せた色を自分の都合の良いように何度も塗り直していくうちに、本当あったことはわからなくなっていく。いま、僕の中にあるきみの記憶は、僕が僕に都合の良いように塗り替えられたものでしかないのかもしれない。


「あなたはいつから?この街に?」

「僕は、もう十年近く」

「最後に会った時もここ?」

「最後って?砂浜?」

「違う。覚えていない?」

「いつだろう、その後に僕らは会っていたっけ?」

「私が見かけただけなのかなぁ」

「どこで?」

「自由が丘の駅のホーム、というか私は電車に乗っていたわ」

「五年前くらい、だよね」

「気づいていたの?あの時」

「もちろん。僕はきみが気づいていないと思っていた。何も顔色を変えなかったから」

「突然で、びっくりしてしまって、動けなかったの、私」

「そうだったのか。きみからは見えていなかったんだろうって、ずっと思っていた」

「あなたは黒いTシャツにグレーのバックを肩からかけていた。そして白いコンバースにジーンズ。いつものあなただった。すごい久しぶりだったけど、なにも変わらないなって思って」

「ドアが閉まる前に駈け込めばよかった」

「似合わないわ、そんなの」

 お互いの記憶を擦り合わせて、真実が少しずつ見えてくる。

「どこに行こうとしていたの?あの時は。横浜方面だったよね?」

「病院かな」

またそこへ話が流れていく。

「あなたは?」

「僕は、家に帰るところだった。その時もここに住んでいたから」

「そっか、もう、ずいぶん昔のように感じるけど、五年かぁ」

きみはコーヒーカップを両手で包むようにして持ち上げ、一口だけ飲んで、じっと遠くを見ているような眼をして何かを考えている。



「今日も雨だけど、あの時も梅雨の時期だったよね」

「あの時、って?」

「散歩した時。学校帰りに」

「六月の十六日だよ、あれは」

「日付まで覚えているの?」

「よく覚えている。毎年思い出していた」

「本当に?」

「本当だよ、雨の季節になると、きみを思い出した」

「私も」

 外は静かな雨が降っている。雨音はしないけれど湿度が雨の様子を伝えていて、あの時のように僕らを湿らせている。

「来年も雨の季節を迎えられますように、っていつもお祈りしていたの。雨音がするとあなたの足音のように感じてしまって、あっ、もしかして来てくれたのかなぁ、なんてドキドキしたり。いま思うと、おかしいけど」

 きみが病室のベッドに横たわる姿を想像して胸が痛くなる。僕はそんなきみのことを何も知らないで過ごして来た。遡れない過去の日々の色彩が薄れていく。きみのために何か出来たのではないかと、いまさら思ってみても何の意味もないのだけれど。



「これから、時々、会える?」

「もちろん」

「よかった」

「お店にも時々行っていいかな?」

「でも、あなたが好むようなお店じゃないわ、女の子達が喜ぶ雑貨ばかりよ」

「あそこに行けばきみがいるから」

「いいけど、オーナーがお店番の時もあるのよ、この前みたいに」

「確かに、あれはタイミングを逃していたね」

「きっと、またそんな風になりそう」

 きみが笑う。僕は、それだけで嬉しくなる。





つづく。






by ikanika | 2020-06-15 19:57 | Comments(0)


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