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べールクトとコルバス 005






005





「少し前から考えていたんだけど、そろそろ東京を離れてみないか?」

「離れるって?」

「別の場所に暮らすんだ、東京のような都市ではなく」

「どうしたの急に?」

「急にでもなくて、実は。いつからだろう、東京はもういいかなって、思い始めていてね。十分楽しんだと思う、僕は。きみがどう感じているかはわからないけれど。もしかしたら、本当は随分前に、もう東京を離れていた方が良かったのかもしれない、とさえ思う。例えば2005年くらいには。何か、きっかけがあれば、そうするべきだったのかと。どう思う? 今の東京は、あのマスターが言うように、ただの焼き直しでしかないと思う。実は何も魅力的なものはないのに、ただ漫然と暮らしている気がするんだ、東京というだけで」

「じゃあ、どこで暮らすの?私たち」

「まだ、そこまではわからないけれど、なんとなくイメージだけはあってね」

「どんな?」

「綺麗な水があるといい」

「あとは?」

「空気、きちんと深呼吸出来ること」

「空気と水?」

「そう、空気と水の味がわかる場所がいいと思う」

「水と言っても、海とか川とか、湖だったり、雨や雪もあるわ。どこのどんな水が必要?」

「海よりは、湖がいい。緑が育つくらいの雨は必要、乾いた土地よりは、その方がいい。雪国で育ったわけではないから、雪とは戦えない気がする。そういう場所が見つかれば自ずと飲み水も美味しい気がする。例えば、昔、二人で行ったマッジョーレ湖とかルガーノみたいなところかな」

「賛成。でも、そんな場所って、日本にあるとしたら、どこなんだろうね?」

「それを、これから探そうよ、きっと楽しいと思う」

「わかった。私も考えてみる」


 コルバスの新聞記事を読んだからか、東京のカラスの多さが今更ながら気になって仕方がない。もう何十年と朝のゴミを漁るカラスの姿は目にしてきて、それが当たり前の光景として人々の中には存在している。朝の街は、人間よりもカラスの数の方がはるかに多い。見慣れてしまうというのは怖いもので、カラスは夕焼けの空に飛んでいて、どこかへ帰っていくものだと昔の歌のような認識をしている田舎の人にとっては、東京のカラスは異常なものに違いない。異常を異常と感じない感覚は、カラスのことに限らず東京には山ほどある気がする。すぐに思いつくのは、あの満員電車だ。赤の他人とあんな風に長時間密着するなんてありえないはずだ。恋人同士でもあるまいし。あの時、満員電車がなくなり、人々はホッとしていた。あれが正常な状態なのだと気づいた。しかし、それもつかの間、またすぐに元に戻ってしまった。学習能力のない欲望に忠実な東京の人間がたくさんいること証明してしまった。やはり、そんな東京から早く離れるべきだったと、いま少しだけ後悔している。けれど、遅すぎることはないとも思う。きみと二人なら必ずどこかに僕らが望んだ場所が見つかり、今までの過去を忘れて、新たな日々を平穏に送れると思える。それは、何か具体的な根拠があるわけではないけれど、根拠などないからこそ感じられる確信のようなものなのだった。


 何日か経って、きみが候補地をいくつも挙げてきた。

「単純に直感。いろんなことを調べようと思えば、ネットでなんでもわかるかもしれないけれど、そういう情報はあえてない方がいいと思うの。誤った情報ではないかもしれないけれど、判断を左右することにはなるでしょ。それよりは、そこに足を運んで感じたことの方が大切だと思うわ、私は。もし、そこがあなたのイメージする条件を満たしていなくても、それはそれ。どっちを優先するかは、その時、話し合いましょう、どう? そんな感じで」

「僕はきみの判断は、いつも信じられると思っているから賛成だよ。僕には出来ない判断というか、直感があると思う。それを尊重するよ、ありがとう」


 きみが挙げてきてくれた土地を順番に巡る旅を何ヶ月か続けた。気づいたのは日本の地方都市はどこも同じような顔をしていて面白味がないということ。東京の真似をしようとしているわけではないのだろうけれど、大資本が入って開発されたと思われる街は、どこも同じ顔になる。東京クローンと呼べばいいのかもしれない顔。そんな街に東京を出てわざわざ行く理由はどこにもない。だったら東京に留まればいい話だ。もう僕らが望んだ場所は、やはり日本にはないのかと諦め始めた秋の始まりの頃に、大きな湖が見える山あいの町を訪ねた。東京よりも気温が低く雪も多いのではないかというイメージがあったので候補地の中では後回しにしていた場所だった。行ってみるとやはり、湖のある景色は美しく、イメージしていたマッジョーレ湖やルガーノという町のイメージと少し繋がった。

 湖畔の市街地を抜け、山間部に入ってしばらくすると、小高い丘に出た。そこから少し見下ろす感じで遠くに湖が見えた。丘の裏の森には、湖に続いていると思われる川が流れ、水は澄んでいて、手ですくって飲んでみると、よく冷えていて美味しかった。川の周りには濃い緑の森が茂り、鳥が囀っていた。風が時おり吹き抜け、きみの髪をなびかせ、木立を揺らす。僕はもう直感的に、ここにきみと二人で暮らすことになるだろうと思っていた。

「気持ちいいね、ここは」

「うん。やっと出会えたわ、きっと、ここよ、間違いないわ」

「僕もそう思う。すぐに準備をしようか」

「早くここで暮らしたいわ、私は」


 東京を離れ湖畔の森で暮らす準備を始めると、あんなに魅力的に思えていた東京の街が廃墟のように思えてくる。その廃墟に過密に暮らす人々の中に自分たちも含まれていることを思うと気分が悪くもなってきた。週に何度か湖畔の森と東京を行き来していると、東京の異常さが、さらに濃厚に感じられる。時間はあるので、引越しの荷造りも自分たちで少しずつやっては、荷物を積んで、湖に車を走らせた。

 キッチンで器を包んでいた新聞の見出しに目が止まる。東アジアでの内乱の記事で「ベールクト自治区にて内乱、死者数百名か」という文字を見つけたからだった。どうやら、ベールクトと呼ばれる自治区での内乱で、市民の命が奪われ、国際世論の批判にさらされているらしかった。しかし、もう東京を離れて湖畔の森で暮らすことにした僕らには遠い異国のそんな出来事はどうでもよかった。かつてベールクトとコルバスという言葉に敏感になっていたけれども、過去を忘れると決めてからは、もう関心を持つことはなかった。その記事のことは、きみにも話さずに、そのまま荷造りを進めた。


 時間はかかったけれど、あと何回かの往復で、引っ越しが終わるだろうと先が見えてきた頃、きみがもう一度、あのバーに行ってマスターにお別れを告げたいと言った。そんな風に過去を振り返ることを、きみがしたいと言い出したことに驚いたけれど、最後にもう一度だけ東京の夜を見てもいいと思い、出かけることにした。最後だから、もう二度と着ることはないと思えるドレスとスーツでお洒落をして。自宅までタクシーを呼んで、バーのある青山まで走ってもらった。窓から眺める東京の夜景はやはり美しいと思う。煌びやかであるからこそ感じる虚しさも含めて、人々を引きつける光を放っていた。カーラジオからはニュースが流れている。引っ越しの準備を始めてからは、テレビやラジオ、ネットのニュースなどには、ほとんど触れていなかったので、耳に入ってくる情報がすべて新鮮に聞こえる。窓から外を眺めているきみの耳にも新鮮に聞こえているに違いなかった。


「先週、ベールクト自治区が使用した細菌兵器コルバスによる死者は、数千人にのぼるとみられ、近隣諸国への影響も懸念されています」とラジオで男が言う。

 東京の夜景がタクシーの窓に流れていく。僕もきみも黙ったままだ。今、ラジオから流れたニュースは、現実のことなのだろうか、と耳を疑う。さらには、このタクシーが走っている東京も、すでに幻なのではないかという錯覚まで覚える。

「ねぇ、いまのニュース、聞こえたわよね?」

「あぁ、聞いていた。きみにも聞こえていたということは、これは現実なんだね」

「そうみたいね。いい? 彼の話をしても?」

「仕方ない、もう忘れていたことだけれど」

「このことだったのよね? ベールクトとコルバス、って」

「間違いなく、そうだと思う。でも、僕らには、もう関係ないよ、湖畔の森に行くんだし」

「だといいけど。遠い世界での出来事だっていうことで、済むのかしら? いまのニュース」

「そこまでは、わからない。たぶん、世界中が心配しているだろうけれど。あの時みたいに、何をどう心配したらいいのか、わからない状況だと思うけどね」

「そうね、また繰り返しね」

「いつものように」

「もしかしたら、バーで会えるかも、今夜は、彼に。こんなにお洒落して来たし」

「たぶん、会えるだろう。その時に訊いてみようか、今のニュースのことを。たぶん、詳しく知っているだろうから」





続く。





by ikanika | 2020-06-09 19:12 | Comments(0)


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