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べールクトとコルバス 003




003





「犬鷲は、ベールクト、そして、カラスは、コルバス。どこかで耳にしたことない? この二つ」

「さぁ、あまり耳にしたことのない言葉だと思う。コルバスは、星座にあるけれど、他は知らない」

「私たちがあまり耳馴染みのない言葉というのが、ミソなのかも」

「というと?」

「隠語にするには、うってつけということ」

「隠語かぁ」

「会話の中にそれが混じっていても、なんとなくわからない事を言っているって流してしまいがちでしょ。それが必要なのよ、きっと。これから少し意識してみましょう、この言葉を」

「わかった、何かが見えてくるといいけど」

 しかし、その後も、日常の中で、ベールクトもコルバスも耳にしたり目にすることはほとんど、というか全くなかった。隠語でさえもなく、ただ本当に隠された物事を指しているだけなのかもしれない。口にしてはいけない物事と、目にしてはいけない物事。あの男は、その二つが問題を引き起こすと言っていた。命が失われているとも。つまりは命に関わる出来事が起こるということなのだ。


 きみは、バーに忘れてきた傘を取りに行きたいと言う。あの男の言った通りに、きみは傘を忘れてきた。それは、またあの男に会えるというサインでもある。

「また、会えるように服を選ばなくちゃ。ピアスは決まっているけど、もう夏だからこの前と同じ服は着れないわ」

「僕もジャケットは、さすがに熱い。特に東京では無理だ」

「でも、彼の基準で言うと、ジャケットは必要なんじゃないかしら?」

「そうかもしれないけど、いまの時代は、もう誰も着ていないよ、夏には」

「彼は現代に生きているわけではないから、そういう理屈は通らないわ、きっと。たぶん2005年くらいの感覚なんじゃないかしら。まだ震災もウイルスも知らない時代」

2005年かぁ。なんか分かる気がする。あのバーで流れていたジャズも2005年の演奏だよ、確か」


 遅い時間に家を出て、バーに向かう。人々の帰宅と逆の方向に出かけて行くのはどこか楽しい行為だ。僕は一番薄い生地のジャケットを羽織り、きみは、ほとんど素肌と同化していると思える白のシルクのワンピースを着て、もちろんタクシーで。外は外出自粛ではなくても誰も出歩かない、というか出歩けない季節だ。


 彼以外に誰もいないことを願ってバーの扉を開ける。しかし、彼の姿はなく、マスターだけが一人、グラスを磨いている。

「こんばんは」とマスター。

「こんばんは」僕ときみが声を揃える。

「その表情だと、彼はいないのですね?」

「はい」

「とりあえず、傘を」

「ありがとうございます」

「いつもので?」

「はい、お願いします」

今日は、Charlie Haden ではない。

「マスター、あの人がいる時は、いつもCharlie HadenTOKYO ADAGIOだったんです、もしよかったら、流してくれませんか?」

「いいですよ、2005年のね」

「はい。マスターは、2005年もここで店を?」

「そうですね、ここにいました」

「どんな時代でしたか?」

マスターは、しばらく考えてから

「いまに、似ている」と言って、僕らの前にカクテルを置いた。

「やっぱり、僕らもそんな風に感じていたんです」

「バブルは、とうの昔に終わっていたのに、東京の夜だけは、どこか未来を夢見ていた。幻想でしかないはずなのにね。その何年か後の震災なんて当然知らないし、だれも想像していなかったし、その後のウイルスも。でも人々は、どこか冷めていたということも言えるかもしれないと、いまは思う。本当のことを知った上で、未来を夢見る、という風に、少しの矛盾を感じながら、でも、欲望には忠実に生きるみたいな感覚かな。一旦は成熟したのかもしれない、あの時代に。その後は全て焼き直しだよ。新しいものなんて一つもない。全て今までに見て知ったことだと感じる。それでも、いいんだろうけれどね、若い人たちにとって真新しく感じるものであれば。でも、本質的にはもう終わっている時代だと思うよ、今は。せめて出来ることと言えば、奥さんのように過去を全て忘れていくことかな。なまじ過去を記憶してしまっているから、未来を夢見ることを楽しめないのかもしれないから。なんの蓄積もなければ全てが新鮮さ。でも、それは、頭の中での話で、身体が細胞レベルで記憶してしまっていることもある。私の場合は、全てのお客様のことだったりね。誰にでもそういう消せない記憶があるのは仕方がない、それと上手く付き合って、消せる記憶は消していくのがいいね。どうかな?彼は現れたかな?」

カウンターの奥の席を見てみたけれど、その姿はなかった。

「残念ながら、今夜は来ないみたいです。でも、マスターのお話を聞けて良かったです」と、きみは満足げに微笑んだ。


 帰りのタクシーできみは尋ねる。

「あのTOKYO ADAGIOって持っているの?」

「あるよ、家に」

「帰ったら聴かせて」

「家で聴くの?」

「そう」

「昔、よく夜中に聴いていた。部屋を暗くしてね」

きみは、しばらく黙って、微笑んでいる。

「どうしたの?」

「かわいい、って思って」

「なにが?」

「いまの、部屋を暗くして、って言うのが」

「かわいいの? それ?」

「そう、女性はそう思うよ、きゅん、ってね」

「よくわからないけど」

「わからなくていいけど。帰ったらやってみよう、それ」

「馬鹿にしてる?」

「してない、楽しみ」

「ならいいけど」

「もしかしたらさ、あの彼、現れないかな?」

「ウチに?」

「そう、だってマスターの言うことが本当なら、あのバーじゃなくても、どこにでも現れておかしくない? 気分がフィットした場所とか時間に現れるみたいなことだったりしない?」

「もし、ウチに訪ねてきてくれたら、手厚く接待しようか」

「賛成」

 その夜は、さすがに遅くなったので、TOKYO ADAGIOは、後日、聴くことにして、早々にベッドに潜り込んだ。すぐに隣で、きみは寝息を立てて、眠ってしまった。別々に暮らしていた頃、お互いにおやすみが言えずにいつまでもメールのやり取りをしていた。今よりもまだ若かったから、寝不足にもなんとか対応できた。二人で寝不足になっていることが、楽しくも感じられた。懐かしさと過ぎていった日々を思い、胸が熱くなる。過去を忘れる、と言うきみは、あの頃のことも忘れているのだろうか。それとも消せない記憶として細胞の中に蓄積されているのだろうか。出来れば時々思い出して欲しいと思うけれど、忘れているからこそ、きみらしいのかもしれないとも思う。おやすみを言って、僕も眠りに落ちた。

 夢の中にあの男らしき人物が現れたのだけれど、彼の顔の記憶が曖昧なせいで、あの男だと断言が出来ない。けれども、夢の中の男は、世界地図を広げて東アジアの一箇所を指差し「ここがベールクトだ」と言っていた。そんな国は、存在しないと僕が言うと、信じるか信じないかはお前次第だ、と地図を畳んで部屋を出ていった。その部屋は、うちのリビングで、キッチンにきみが立って何か料理をしていた。そして「ほら、気分を害したんだわ、彼」と言って、あの男の後を追って部屋を出ていった。僕も、そのあとを追って行こうとするのだけれど、ソファから立ち上がることが出来ずに足掻いて、目が覚めた。時計を見ると、まだ明け方の四時過ぎだった。傍のきみは、まだ寝息を立てている。水を飲みにリビングに行ったけれど、あの男の姿も世界地図も当然あるわけもなく、ただ薄明かりの中に聴こうと思って取り出してきていたTOKYO ADAGIOCDがテーブルに見えただけだった。


 世界地図などは、今はどの端末でも容易に見ることが出来て、あえて印刷した地図など買うことはなくなった。日々更新される世界情勢を考えれば、印刷などしてしまうとすぐに古くなって使えなくなってしまうのだから、当然と言える。しかし、端末上で見るサイズの世界と、ある程度の大きさの印刷した地図を広げてみる世界とは、どこか違う気がする。地図を広げて世界の全体像を把握するその姿は、戦時中の司令官を想像させる。夢の中のあの男も、そんな風に地図を広げて「ここがベールクトだ」と言っていた。思いついて、2005年当時の世界地図を買いに行くことにした。あの時代の世界地図がいま買えるのかはわからなかったけれど、その地図に、もしかしたらベールクトという国があるような気がしたからだった。神田の古書店を何件か巡って、ようやく地図を多く扱う店に出会う。大量の展示の中から探し出すのは難しそうだったので、店の人に尋ねて探してもらうことにした。難なく店員は、2005年の世界地図を探し出し

「最近、珍しく続けて売れるんですが、何かあるんですか?2005年に」と言う。そんなことがあるのかと、こちらも不思議に思い

「なんとなく、今が2005年と似ているみたいですよ」と言ってみる。

「似ている?」

「そう、時代の空気感というか、匂いが」

「それで地図を?」

「まぁ、僕の場合は、ちょっと夢に出てきたから、気になって」

「なるほど」と店員は、まだ不思議そうな表情をしていたけれど、早く家に帰って地図を広げたかったので、それ以上の話はせずに店を後にした。他にも地図を買う人がいるというのは、あの男のせいなのだろうか、いろんな場所に出没しては、地図を広げて「ここがベールクトだ」と言っているのだろうかと、想像が広がる。帰宅して、本を読んでいたきみに声をかけて、地図をダイニングテーブルに広げる。

「どうしたの?地図なんて」

「あの男がね、こうやって地図を広げていたんだ」

「いつ?」

「夢の中だけどね、それで何かヒントがあるんじゃないかと思って」

「犬鷲とカラスの?」

「そう」

「彼は、ここがベールクトだ、と東アジアのあたりを指差して言っていた。だから、この辺り」

「ベールクトなんて国、あるの?」

「どうだろう、僕も知らない」

 東アジアのあたりをくまなく見てみるけれど、当然ベールクトなんていう国はない。しかし、かなり小さいけれど、一部分だけ薄い灰色に塗られていて、何も書かれていないエリアを見つけた。隣国との境は国境線ではなく何かの目安のように点線で囲まれている。

「ここはなんだろうね? 何も書かれていない」

「どこ?」

「この灰色の部分」

「ほんとだ、ねぇ、私の方から見ると、なんとなく嘴のように見えるけど、鷲の。こっちから見てみて」ときみが言う。きみの側に回り込んで見てみると確かに、鳥の頭の部分にも見える。

「これのことかなぁ、犬鷲、ベールクトって」

「じゃあ、カラスは?コルバス」

「どうなんだろう、頭と嘴の形だけだと、犬鷲もカラスも大差ないと思うけど」

「そうよね、確かに」


 地図上のその場所が、何を意味しているのか調べることにして、とりあえず地図には付箋を貼っておいた。ネットで現在の地図を探し、同じ場所を見てみると2005年にあった嘴のようなエリアは、無くなっていた。モンゴルの一部ということになっているのだろうか、その存在は確認できない。2005年当時のみ存在していた国家あるいは独立自治区ということだろうか、国際法上は、国家として地図には掲載出来ないけれど、なんらかの理由でエリアを区切る必要があったのだろうか。ベールクトと検索しても、犬鷲の説明くらいしか出てこない。もしかしたら、あの男が地形から勝手にそう呼んでいただけかもしれない。通称でも俗称でもない、単に彼が名付けた呼び名。しかし、あのエリアが存在した理由と消えた理由はあるはずだと思う。一時期であったにせよ、2005年には確実に地図上に存在していたのだから。まずは、地図の発行元に問い合わせてみることにする。該当部署などはわからないので、とりあえずメールで事の次第を説明して訊いてみた。翌日、すぐに返答が来たけれど、当時制作に携わった人間はすでに退社していて、もとになった資料なども存在せずに、あのエリアがどういう場所だったのかは不明だという。こうなると次にどこを当たればいいのかがわからない。外務省や国際政治の専門家か、そのあたりだろうけれど、当てはないし、知りたい理由も、あの男の夢が発端だと言うと相手にしてくれそうもない。どうにかして、あの男に会って、もう少し詳しく話を聞いてみたいけれど、その方法も手探りのままだ。




続く。




by ikanika | 2020-06-07 20:19 | Comments(0)


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