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ベールクトとコルバス 001






001




 いつ頃だろうか、前にもこんな時代があったような気がする。体の感覚が覚えているだけで、何か明確な出来事を記憶しているわけでない。デジャヴのような曖昧な既視感ではなく、実体験として体に染み込んでいることは間違いない。幸せな時代であったか否か、と問われれば確実に幸せだったと答えられる。実際には、ただ執行猶予のような時間だったとしても。
 人々の顔からは不安の要素が消え、どこか安堵の空気が漂っている。だからと言って、曖昧な未来を楽観しているわけではないのは明らかだ。あの時代を経験したことは記憶に新しいのだから。
 人は忘れていく。自分も同じように忘れていく。都合のいいように記憶は置き換えられ綺麗に塗り替えられていく。
 確実に違うのは自分の身体が老いていること。いつの年代でも精神的には常に中学生や大学生の感覚に戻れるものなのだけれど、生物としての衰えは確実に進んでいる。それを嘆くつもりはなく、ただ、もういいだろう、という感覚で受け入れている。

 明け方のベッドで、きみは

「長生きしてね」と冗談なのか本気なのかわからない調子で呟いた。僕は冗談を受け流す感覚で笑いながら

「まだ、そんな歳じゃないよ」と言ってから、いや、そうとも言えないのか、と自問した。

「だってこの先、いちばん長く一緒にいたいから」と今度は、少し真面目にきみは言う。

「そうだね」とだけ答え、これから先の未来の日々を想像してみる。すでに体験してきたことの焼き直しのような映像しか浮かばないのだけれど、傍に眠るきみの存在だけは、僕の未来に新たに書き加えられたことは間違いなかった。


 毎朝、マンションの管理人が決まった時間に、律儀に外を箒で掃除をする音がする。サッ、サッ、サッ、と一定のリズムで繰り返されるその音は、起き抜けの頭には何かの呪文のように聞こえる。今朝も、その音が聞こえる。

「何?この音は?」ときみは尋ねる。

「管理人が箒をはいている音」

「そっか、いいね、なんか」

「僕には呪文のように聞こえる」

「呪文?なんて言っているの?」

「何かは、わからないけど」

「どんな事だろうね、いいことならいいね」

「うん」

 きみは、いつもどこか少し先を見ていて、過去を忘れていく。それを羨ましいと思う。過去は忘れていいものだと、いつの日からか決めたと言う。その理由を知りたいと思ったこともあるけれど、わざわざ聞くこともないかと、今はそのままを受け入れている。

 朝は、僕がコーヒーを淹れ、きみがトーストを作る。特に決めたわけではないけれども、自然とそういう役割分担になった。他にも家事の分担のようなものが自然と生まれて、日常のストレスになるようなことが何もないのが不思議であり、心地よい。

 過去は忘れていくのに、なんでも理由を知りたがるきみは、些細な事柄でも、その理由をいつも探っている。探ったところで理由が明らかになるようなことばかりではないのだけれど、純粋に「理由探し」が好きだから、それでいいと言う。大切なのは結論よりプロセスなのだと。そして、世の中に存在する結論なんてありきたりのことしかないからと、さらりと言う。


 土曜日の午前中に、近くの公園まで散歩をすることが日課のひとつになっている。その習慣も思えばあの時代に生まれたものだということを二人とも、もう忘れている。多くの人も、きっとそうに違いない。あの時と違うのは、手を繋いで歩けることだろうか。僕は、きみの爪の形が好きだから、手を繋ぎながらも時々、指先できみの爪をなぞり、その形を確認する。きみが、それに気づいているのかどうかはわからない。春と梅雨の間の気持ちのいい季節だった。

「ツツジが一番好き」ときみは言う。

「どうして?」

「理由?」

「いつも理由を知りたがるから」

「そこには、理由はないわ。なんとなく」

「そういうものか」

「あなたを好きになった理由がわからないのと同じ」

「どうコメントしていいのかわからないな、それは」

「そういうことになっていた、ってこと」

「運命論?」

「それとも少し違う気がするけど」

「そうなんだ」

「うん」

 手を繋いでいても、きみは僕の少し後ろを歩く。僕からはその姿が見えない。どうしていつも後ろを歩くのか?と一度尋ねてみたことがある。

「あなたの姿を見たいから」というのがその答えだったけれど、そうすると僕からはきみが見えないと言うと

「私はそんなに見られたくないから」と答えられ、そういうものかと、とりあえず、納得した。

 そんなきみが今日は珍しく僕の手を引くように急ぎ足で少し前を歩いている。理由は明確で、お気に入りのパン屋のメロンパンが売り切れてしまうからだ。午前中の早い時間でないと売り切れて買えない可能性があるのだ。東京には、数え切れないほどパン屋がある。そのどれもが大概美味しい。しかし、現れては消え、という淘汰を繰り返し、常に新陳代謝をしているように感じる。東京という街そのものの象徴のように。

 前を歩くきみの髪が風になびいている。ずいぶん伸びた気がして

「髪、伸びたね」と声をかける。

「あなたが伸ばしてみたら、って言ったから」

「いつ?」

「忘れたの?ひどい」

「言った気もするけど、なんか、こう、会話の流れじゃない?そういうの」

「流れだとしても、そう思っているってことじゃない」

「まぁ」

「だから、あなたのためよ、これ」

「ありがとう、素敵だよ」

「取ってつけたように言わないで」

「じゃあ、なんて?」

「冗談よ、あなたが喜んでくれれば、それでいいの、髪の長さなんて」

と言って、きみは繋いでいた手を離して、パン屋に駆け込んで行った。なんて可愛らしい女性なんだろうと、その後姿を見て思う。同時に、これは、アーウィン・ショウの小説のようだな、と気づき、おかしくなる。


 繁華街があるような都心の街にはほとんど行かなくなったけれど、何ヶ月かに一度はライブを見に表参道や青山に行く。立ち並ぶビルは、建て替わっているけれど街全体の作りと空気感は、よく遊び歩いていた時代と大きくは変わっていない。いつの時代でも、この街を必要としている世代がいて、やがて卒業し、また新たに人が集う。そうやって街は、新陳代謝を繰り返し生き続けている。僕もきみも、この街に足繁く通っていた時代があったけれど、当然その当時はお互いに知っていたわけではない。どこかで偶然、同じ時に同じ店にいた可能性はあったかもしれないけれど、それをいま確認する術はない。曖昧な記憶だけを辿るくらいしか。しかし、あたかも一緒に過ごしていたような感覚を味わうことが出来るのは、おそらく同じ嗜好性のもとに、その時代を謳歌していたからだろうと、お互いの記憶を擦り合わせていくと、そう思える。連日連夜、海外からアーティストが来日して公演をおこなっている都市なんて、東京以外にはあまりない。その姿は、20年くらい前の東京の姿とほとんど同じように見える。その時代を知っていなければ、そんなことは感じないで、ただ東京の夜を楽しんでいればいいのだろうけれど、僕らはそういうわけにはいかない。いつ何時、この日常が終わるかもしれないということも知っているから。脆く儚い現実を前に、少しだけ、息苦しさを覚えながらも、煌びやかであればあるほど虚しさも増していくのだけれど、そういう世界を全て肯定して楽しみたいという欲求も強くあって、その矛盾を楽しんでいる。きみは珍しくいつもより高さのあるヒールを履き、僕もジャケットを羽織って、その時間を過ごす。過去の全てを消し去り、あたかも、東京には明るい未来がこの先も待っているかのように振る舞うのがルールであるかのように。



「二人は覚えているか?あの匂いを」とライブの後に立ち寄ったバーで隣り合わせた男が言う。

「一緒だと思う、今が。どういうことかわかるかい?」男は、きみに向かって話し続ける。

「その時、犬鷲とカラスが問題を引き起こすことになる。だれもそれを止める方法を知らない。だから、それ自体が存在しないということにする。目の前で命が失われていっているのに。それが出来るのが我々人間なんだ、わかるかい?」 きみは愛想笑いをしながら、相槌をうっている。

「ところで、その時、二人は、どこにいると思う?」と男に聞かれて、きみは戸惑っている。僕が間に入り

「その時、っていうのはいつのこと?」と男に聞き返す。

「犬鷲とカラスに世界の目が向く時だよ、知りたくないか?」と男は真顔で言う。男はトイレに立ち、しばらく帰ってこない。不気味な男から逃れるように、その隙を狙って僕らは店を出て、タクシーで家まで帰った。

「あの人の言っていた犬鷲とカラス、ってなんのこと?」ときみはタクシーの窓から都会の街並みを見ながら言う。

「さぁ、わからない。ただ酔っていただけじゃないか」

「そうかなぁ、酔っていた感じはしなかったけど。不思議な眼をしていたわ」

「そう?どんな」

「なんか、こう、黒目が空洞、っていうか?どこかに繋がっているような」

「僕には、わからなかった」

「暗かったからね、でも、私の距離からだとよく見えたの、それが」


 翌朝、きみはピアスを片方失くしたみたいだという。どこかの道で落としたならもう見つからないだろうけれど、とりあえずライブ会場と帰りのタクシーとバーに連絡をして、探してもらうことにした。そのどこかになければ諦めるつもりで。夜になりバーから連絡があり、見つかったという。郵送してもらうのも手間だと思い、近いうちに取りに行くことにして電話を切った。

「僕が何かのついでに取ってくるよ」

「でも、一緒に行こうよ。せっかくだから、ちょっと買い物とかしたいし。この前はライブだけだったから」

「そう、わかった。いつがいい?」

「今度の土曜日かな」

「じゃあ、そうしよう」

「もしかしたら、また居るかなあ、あの人」

「あの人?」

「犬鷲とカラス」

「あの不気味な男か。会いたいの?」

「なんか気になる」


 土曜日の夕方、少し街を歩くつもりで家を出る。買い物といっても特に欲しいものがあるわけではなく、文字通りウィンドウショッピングだ。高級ブランドのショップは、いつの時代も現実離れしたディスプレイをしている。どこに着ていくことを想定して作られたのかわからない服をマネキンが纏っている。そのマネキンも普通の人の手足のバランスではない。すべてが架空の世界の出来事のような演出だと思う。そのショップから、庶民的な格好をしたカップルが出てきたりするから、さらに不思議な光景だと感じる。何もかもが、ちぐはぐな都会の見慣れた風景。売る側も買う側もわかってやっているのか、お互いがお互いに分かり合えていないのかさえもわからない。きみはどのショップにも結局入らずに

「お腹すいてきたから、何か食べよう」と子供のような目をして言う。

「何が食べたい?」

「この後、あのバーよね」

「うん」

「じゃあ、とんかつ」

「? バーと、とんかつって何か関係ある?」

「ない。いや、あるといえばある」

「よくわかんないけど、とんかつ食べよう」

 青山の老舗のとんかつ屋は、未だに人気があって、少しだけ並んでから入ることが出来た。当然、昔、来ていた時とは料理人も違っているだろうし、もしかしたら、食材の全部が違うのかもしれない。それでも同じような満足感を得られるのは、どこかに秘密があるのか、食べる側が所詮素人で鈍感だからなのだろうか。きみは、よく歩いたからか残さず食べ終わり、デザートを選んでいる。

「バーでも、アイスとかはあると思うよ?」

「うん、でも、なんか、いま食べたい」

 また子供のようなことを言う。しかし、結局決められず店を出る。バーに行くにはまだ少し早い気がして、街を歩くことにした。店は閉まっていても、電飾を灯して、その美しさとセンスを競い合っている。昔のCMのように、二十四時間ずっと戦っているのだ。時代錯誤だと言えばそうだろうし、それを楽しむ余裕も大切だとも言うことも出来るだろうし、何が正解かは、そこに答えはない。個人がそれぞれに感じていればいいことなのだ。そういうことが出来る時には、やればいいし、いずれ出来なくなる時も来るのだから、必ず、と心の中で呟いたりもしてみる。

「ねぇ、昔、ここに洋書屋さんあったよね?」

「もう、ずいぶん前になくなったと思うよ」

「そうよね、もう、ネットで探した方が早いよね、海外にあるやつも探せるしね」

「手に取った時の重みとか、質感とかは、もうどうでもよくなってしまったのかね」

「それ言っちゃうと、見るだけだったら本にしなくてもいい、ってことになるよ」

「確かに。もはや化石と同じか」

「ねぇ、バーにあの人が、もしいたら、聞いてみて」

「なにを?」

「犬鷲とカラスのこと」


 バーの営業時間としては始まったばかりだったので、先客は誰もいなかった。ピアスを取りに来たことを伝え、カウンターの端の席に座る。この前、あの男が座っていた席だ。何十年か振りに口にするカクテルの名前が今でも通用するのかわからなかったけれど、バーのマスターは、我々よりも確実に歳上だったので、躊躇なくオーダーをしてみた。マスターは顔色ひとつ変えずにカクテルを仕上げ、僕らの前のコースターの上に静かに置いた。もう何百何千と繰り返された所作だとわかる優雅な動きだった。

「お二人は、もう三十年とか四十年前に来られてますね、ここに」

「まさか、覚えているんですか?」

「はっきりと顔を覚えているわけじゃありません、当然。でも、お客さんは、ひとりとして同じ人間はいないんです、当たり前ですが。ですから、その人にしかない佇まいというかオーラみたいなものは、みなさんお持ちです。それを記憶していて、私の身体のどこかが反応するんです。会ったことのある人が来ると」

「僕らは、一緒に来たことはないんですが」

「そうですか、そこまではわかりませんでしたが、お二人とも以前、来られています、確実に。それも同じくらいの時期にね。もしかしたら、同じ日の同じ時間かもしれません。そんな風に身体が感じています」

僕ときみは顔を見合わせ、なんとなく嬉しくなる。

「やっぱり昔、会っていたのかもね、それも、ここで」

「だとしたら、お互い魅力に欠けていたのかも」

きみは悪戯っぽく笑う。その表情は僕を幸せにする。

「でも、きみは何も記憶していないんだよね?」

「そうね、何も。あなたも覚えてなんかいないでしょ?」

「さすがに、昔過ぎる」

「結局、一緒なの、過去なんて、そういうものよ」


 バーには、まだ僕ら二人だけだ。ピアスも無事に受け取れたし、あとはあの男を待つだけだった。試しにマスターに、あの男について聞いてみようと思う。他に客もいない訳だし。

「マスター、この前僕らが来た時に、この席に男性が座っていたと思うんですが? わかりますか?」マスターは、ちらりとこちらを見て、目線で次の言葉を促した。

「それで、犬鷲とカラスの話をしていたんですが、その男性は。今日も来たりしますかね?」

 マスターは、純白の布巾でグラスをゆっくり磨きながら黙っている。僕の言葉が届いたのかどうかもわからないくらい表情に変化がない。

しばらくの沈黙の後、ようやく口を開く。

「奥様、なのかな? あなたもその男性を?」と、きみに尋ねる。

「はい、二人で話を聞きました」

「そう」またマスターは黙ってしまった。店に流れるジャズの音量を少し絞り、マスターが話を始めた。

「ちょうどまだ誰もいないので、少しお話しします。時々、そういうお客さんがいらっしゃいます。あなた方のような。犬鷲とカラスの話をしていた男のことを尋ねられる。以前は、海鳴りと深海魚だったかな、そのあとは微粒子と太陽、だった。今は、犬鷲とカラスのことを言っているようです。でも、私はその男のことは知りません。見たこともありませんし、当然この店で会ったこともね。でも、存在はしていると思っています。いや、存在しているかいないかというよりは、認めていると言った方がいいかな。ある種の予言のようなことです、その男の話は」そこまで話したところで若い男女が入ってきて、マスターは何事もなかったように話をやめた。ジャズが再び流れ始め、夜の東京が始まった。ジャズの演奏は、確かCharlie Haden だ。昔よく聴いていたから身体が覚えている。TOKYO ADAGIOというライブ音源、2005年の録音。この近くにあったジャズクラブで録られたものだった。マスターは、その夜はもう男の話をすることはなく、当然、男も姿を現さなかった。





続く。






by ikanika | 2020-06-05 16:11 | Comments(0)


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