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セードル ブルー CEDRE BLEU PT.03




 三ヶ月なんていうのは、あっという間に過ぎて行く。退去の手続きや閉店の為の作業に取り掛かると、残された日数は、気づくと、もうあと二週間になった。軽井沢に行く、ということだけを心に決めていたけれども、具体的に、あてがあったわけではない。ただ、そこに行けば、成海さんがいるということだけが約束されたことだった。成海さんは、ひと月前にすでに軽井沢に引越しを済ませていて、時折、メールで連絡をくれていた。




マスター

こんばんは。もう、あと二週間くらいで終わりですね。出来ればもう一度伺いたいと思っています。なんとか調整してみます。

母は結局、入院はせずに、しばらく自宅で過ごすことで病院の先生と話をして、在宅介護の準備を父と慌ただしくしています。マスターがこっちに来る頃には母も病院から戻ってきていると思いますので、会ってもらえると、母は喜ぶと思います。

ところで、軽井沢で住む場所は決まりましたか? もし、まだのようでしたら、母の知り合いで、使っていない別荘を持っている人がいるみたいなので、ご紹介できます。管理をしつつ住んでもらえると助かる、と言っているようです。もう、ずいぶんとご高齢の方のようで、その別荘は所有しているだけで、こっちに来ることはできないようなので。 ご検討下さい。


またご連絡しますね。

おやすみなさい。

成海



 本当に成海さんを頼りに軽井沢に行っていいものなのか、まだ迷っていたので、住まいをどうするかまでは考えていなかった。成海さんが、ここまでお膳立てをしてくれたのであれば、それに乗らせてもらうのが最善の選択だと思えた。一方で、恭史は、まだ成海さんに対して臆病者のままで、なにも核心的なことには踏み込んでいないのだった。最後に、もう一度、成海さんがカフェに来てくれた時には、きちんと想いを伝えなくては、大切なことを曖昧にしたまま物事を進めてしまうことになる。しかし、成海さんは、なんとか調整してみると言っていたけれど、軽井沢から本当に来ることができるのだろうか。もし、来れなかったら、いつ、どうやって、それを伝えられるのか、と落ち着かない心のまま、カフェ最終日の前日を迎えた。成海さんからは、まだ連絡がない。まぁ、仕方ないか、と思いつつも、恭史からメールを入れた。




成海さん

こんばんは。いよいよ明日が最終日です。

もし、来てくれたら嬉しいと思ってますが、

さすがに軽井沢ですからね。

それから、

前にメールをくれた住まいの話、

ぜひ、その別荘の所有者の方をご紹介していただけたらと思います。

よろしくお願いします。


花村恭史




 カフェの最終日は、オープンからいろんな人が顔を出してくれて賑やかな時間が過ぎていった。明確に次の場所を決めてからの閉店ではなかったので〝またしばらくしたら次の店やりますから来てください〟などと曖昧な挨拶を交わすことができ、必要以上に感傷的にならずに済んだ。閉店時間が迫ってきて、もう、あと三十分くらいで終わりを迎える頃に、ここで成海さんが来てくれたら彼女が最後のお客さんになるなぁ、とか、それは出来過ぎか、でもそんな気もするなぁ、などと思いを巡らせていたら、メールの着信音が鳴った。




ぎりぎりだけど今行きます


と、成海さんからだった。

ほら。と恭史は心の中で呟き、



了解です、待ってます


とだけ、返信をした。




 成海さんは、慌ただしく現れて

「よかった、間に合った」と息を切らして言う。前にも同じようなことがあったと、恭史は記憶を辿る。写真を持ってきた日か、と思い出す。

「きょう来たの?軽井沢から?」

「はい、ちょっと母のことで、病院とか、いろいろ行ってたら、こんな時間に」

「そっか。もう来ないかと思ってた」

「ごめんなさい、メール出来なくて。行くって言っておきながら行けなくなっちゃったら申し訳ないとか考えてたら、もう、ばたばたと、こんな時間になっちゃって」

「でも、来てくれてよかった」

「私も来れてよかった」

「何か飲む?」

「コーヒーと、あとケーキもありますか?」

「ガトーショコラが半分だけ。それで、もう終わり」

「はい、じゃあ、それ、お願いします、本当に最後なんですね」

「だね、実感ない、変な感じ」

「で、これ、プレゼント。キャンドルです。使います?」

「うん、使う。ありがとう、いい香りがする」

「セードルブルー。青いヒマラヤスギという名前です。マスターのイメージだったので」

「ありがとう、早速、今夜、灯してみる」

「ぜひ、どうぞ。忙しかったですか? きょう」

「まぁ、それなりに。いろんな人が顔出してくれて」

「よかったですね」

「うん。たぶん、成海さんが最後のお客さんになるね」

「光栄です。それで、いつくらいから軽井沢に?」

「まだ決めてないけど、なるべく早くとは思ってる。こっちに居てもやることないし」

「あの別荘は、もう空き家みたいなので、掃除すればいつでも使える状態です。だから、いつでも」

「ありがとう、でもオーナーさんに挨拶とかは?」

「母が話してるみたいなんで、大丈夫です。詳しくはまた聞いておきます」

「お母さんは? その後」

「いまのところは、まだ普通に生活は出来てて、でも、徐々に病気が進行していくのは間違いなくて、私たちも、まだよくわからないんです。スイスに行けば治るみたいな話もあるし、近いうちに薬も開発されるとか、そんな話もあるみたいで」

「そうなんだ」

恭史は、話さなくていけないことを頭で整理しながら成海さんの話に相槌を打っていた。


「成海さん」

「はい」

「今日、来てくれたら話そうと思ってたことがあってね」

「はい、何ですか?」

「二人のこと」

「そうですよね、私たちのこと、そうですよね」

「うん。店を移すことを考えていたら、成海さんが軽井沢に誘ってくれた。とても嬉しかったし、なんてラッキーなんだって咄嗟に思った。でも、成海さんは、お母さんのこともあって、いろいろ大変だろうな、とも思って。でも、このままこの店を閉めて、成海さんに今までのように会えなくなるのは、僕は嫌だった。どうしたらそうならずに済むのか、今まで通りに会えるようになれるのかを考えてた。この歳になって、その会いたいという気持ちは、なんなんだろうと、よく考えてみた。結論は簡単で、成海さんのことが好きなんだということ。単純に恋をしているんだと。いくつになってもそういう時の臆病な感じは変わらないんだと思った。昔、言われたことがあってね、〝過去の恋の経験なんて他の恋には役に立たないから、いつでも初心者みたいに臆病になるもの〟だって。まさにそんな感じ。軽井沢に本当に行く前に、それだけは伝えたかった。その上で、行くべきだと僕は思った。成海さんの気持ちを確認してね」

「ありがとうございます。いろいろ考えてくれて。私も気安く軽井沢に誘っておきながら、なんかいろいろ曖昧にしているなぁ、って感じていて。母の病気を理由に忙しくする事で、大事なことに向き合うのを延ばし延ばしにしてきてしまって、いけないなぁ、って。私も、マスターに今までみたいに会いたいと思っています。そうでないと、ちょっと無理だなぁ、って。会えれば母のことを頑張れる気もするし、なんとかなるって。だから、ここを閉めるって聞いたときに咄嗟に思いついたんです、軽井沢に来て欲しいって。でも、それは私の思いつきというか、わがままで、マスターの生活のこととかまで考えてのことではなくて。でも、どう言ったらいいのかなぁ」

「いいよ、そこまでで、大丈夫、ありがとう。とにかく僕は行くことにする。それからのことは向こうで考えればいい」

「はい、でも」

「でも?」

「いいんですか? 軽井沢で」

「成海さんに会える場所がそこだから」

「ありがとうございます」


 最後の日の最後のお客さんが成海さんでよかった、出来過ぎだ、と片付けをしながら考える。もう明日からは、この店を開けることはないという感傷的な思いよりも、この先の日々を想像して浮き足立つ感覚の方が強かった。




 数日経つと、カフェのあった場所は綺麗に何もかもが撤去され、空き地になった。退去を伝えた時に、大家さんは、もう築六十年の建物だったから次に借り手がつくことは考えられず、じゃあ取り壊すかぁ、とボソッと呟いていた。こうして何もなくなってしまうと、この前までの日々は、ただの幻だったのではないかと思えてくる。成海さんと交わした約束さえも。

 東京に住んでいるという別荘のオーナーに挨拶に行った日の深夜に、成海さんからメールが届いた。マスター、ではなく、初めて、花村さんへ、という書き出しで。




花村さんへ

こんな時間にすいません。明日の朝になったら直接お電話でお話ししようと思っているのですが、上手く話せる自信がないので、先にメールで書かせてください。

母のことで色々と話が変わってきて、前に少しお話ししたスイスに行けば治る、みたいな話、かなり信憑性のあるお話しだったようで、この二週間くらいの間にどんどん話が進んで、母がスイスに行くことが決まりました。父と三人で。軽井沢の家を売っても、とても高額な治療費は賄えないので現実的な話ではないと思っていたのですが、花村さんが住む予定の別荘を持っている方が、治療費を出してくれることになって。とてもお金持ちの方みたいなの。

なので、もう来週には出発しなくちゃならなくなりました。それまでにお会いできればいいのですが、ちょっと予定がわかりません。でも、会いたいです。会ってこれからどうするかを話さなくてはいけないと思っています。どうしたらいいでしょうか?会えますか?

朝にお電話します。


成海





 今日、挨拶をしてきた別荘のオーナーの家は、北青山にあり、確かに驚くほど立派な一軒家だった。会った時には、成海さんのお母さんのことは何も話題に出なかったけれど、その時にはもう、この話は決まっていたのだろう。オーナーが自分と成海さんの関係まで知っているわけはないのだから、何も話題に出なくても不思議はない。ただ、知り合いの紹介で自分の別荘を借りにきた者、という認識でしかなかったのだろう。そのオーナーと成海さんのお母さんが、どういう関係なのかはわからないけれども、確かに高額の治療費をポンと出しても、おかしくはない財力を感じさせる家ではあった。

 この成海さんのメールに対して自分が何を言えるだろうか、もし、仮に会う時間が出来たとして、成海さんに何をどう言うべきなのだろうか。約束と言えるほどのことは二人の間にはない、と思う。ただお互いに、いつでも会える環境を求めていた、ということだけで。しかし、その思いは、成海さんのお母さんの命とは天秤にかけられるものでは到底ない。成海さんには、まず、お母さんのために時間と身体を使ってくださいと、としか言えない。成海さんがスイスに行ったとしても、会おうと思えば会えるのだ。次のカフェの場所も、もう一度ゼロから探せばいいだけのことで、都合よくお膳立てされた物事を、一度白紙に戻すというだけのことだと考えるようにした。





成海さん


メール読みました。

お母さん、良かったですね。

いい結果になるよう祈ってます。

今は、お母さんの為に、

時間も身体も全部使ってあげて下さい。

僕もあなたにとても会いたい。

このまま会わずにスイスに行ってしまうのは、少し辛い。

でも、我慢します。

会いに行こうと思えば、会えるし。

お店のことも、大丈夫です。

そもそもあてもなく場所を探すつもりだったので、

振り出しに戻っただけです。

落ち着いたら、連絡ください。

待っています。


PS

別荘のオーナーの家は

とてつもなく大きかったよ。


では、また

花村恭史




 恭史は、極力、普段通りのテンションでメールを書いた。会える会えないを考え始めるとセンチメンタルになってしまうことは目に見えていたし、そういうやりとりにならないようにと思って。

 しかし、送信してからしばらくして、この先、いつ成海さんに会えるのかわからないということを思うと、どうしようもなく胸が締め付けられた。無理をしてでも、会いに行った方がよかったのではいか、せめて空港で見送るとか、自分にはそれくらいの時間はあるのだからと、後悔の思いが渦巻いて眠ることができなかった。早朝に成海さんから返事が届く。




マスター

おはようございます。


ありがとうございます。

確かに今は母の為にできることを

すべてやるべき時ですね。

絶対、会いに来てください。

約束ですよ!


落ち着いたら連絡します。

冴絵



 マスター、という呼び方に戻り、今度は初めて、冴絵、と書かれていた。そこに何か特別な意味があるのだろうかと想像を巡らせてみたけれども、恭史には読み取ることはできなかった。メールを閉じ、眠りにつこうと目をつむる。明け方の部屋には、昨夜灯したセードルブルーの香りが、かすかに残っていて、青く深い森の中へ誘ってくれた。





 物事には最適なタイミングというものがあって、気持ち良いくらいに、ひとつひとつのパズルのピースが嵌っていって、絵が完成していく時もあれば、手にしたピースが、どうあがいても、どこにも嵌らずに、悶々とした日々を送る時もある。その時に手にしたピースは、行き場を失ってしまうのだけれど、捨ててしまうことは出来ずに、ずっと引き出しの奥にしまわれている。いつか、ぴたりと嵌る時が来るのではないかと、淡い期待を抱いて。

 成海さんとは、その後、何度もメールのやり取りをして、お互いに手にしたピースを、ひとつひとつ嵌めていって一枚の絵を完成させようとしてみたのだけれど、どうしても嵌めることが出来ないピースが徐々に溜まっていってしまった。結局、二人は一枚の絵を完成させることが出来ずに時間だけが流れていった。彼女が、その時のピースを未だに持っているのかは、わからないけれど、恭史は今でも捨てられずに引き出しの奥にしまっている。

 代わりに一枚の絵を一緒に完成させたのは、瑠花だった。一見、お互いに噛み合わないピースを手にした相手だと思っていたのだけれど、いざ並べ始めてみると不思議なくらい気持ちよく、ひとつひとつが嵌っていった。完成した絵には、恭史が今まで見たことのない景色が広がっていて、初めは、どこに向かって進んで行けば良いのかさえも、わからずに戸惑ったのだけれど、さくさくと迷いなく前に進んで行く瑠花の姿を見ているうちに、自らの道筋も見えて来たのだった。





 夕暮れのキッチンから瑠花の鼻歌が聞こえる。聞き覚えのあるフレーズのハミング。聞きようによっては、James Taylorのあの曲に聞こえたりするけれど、瑠花の世代で、あの曲を知っているとは思えない。一緒にいる時に聞いた記憶もない。部屋には、さっき灯したセードルブルーのキャンドルの香りが漂っている。ベランダ側の大きな窓を開け、空気を入れ替えると、少しだけ彼女とカフェの記憶が薄れていったように感じた。

「瑠花、今日の夜は何にする?」

「あの、カフェの賄いで作ってた、ドリアみたいなやつ、作れる?」

「了解、でも、ちょっと買い足さないとかなぁ」恭史は、冷蔵庫の食材を取り出しながら、必要なものを確認する。

「買い物行く?」

「うん、行ってくるよ、一人でさっと。ちょうど駅前に用事もあるから」

「用事?」

「額装を頼もうかと思ってて、ずっとそのままにしていて」

「何の?」

「写真。昔、もらったのがあって」

「そっか、わかった、じゃあ、待ってる、早くね、お腹すいてきた」

「了解」

 恭史は、書斎の本棚の一番端に差し込んである茶封筒を取り出し、中身を確認する。三枚のモノクロの写真が黄ばんだ薄紙に挟まれて収まっている。写真の裏側にも小さなシミのようなものがついてしまっていたけれど、久しぶりに目にするその写真からは、マニキュアの塗られた爪のヌルっとした質感や、しっとりとしているであろう肌と、その弾力が想像出来た。恭史は、結局、最後まで握ることのできなかったその手に、そっと触れてみた。







終わり。






by ikanika | 2020-04-26 19:57 | Comments(0)


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by cafeikanika

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