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「森の十字路」⑽


 五月の連休明けに、会社で新年度の担当割りが発表され、優斗は営業担当となった。入社一年目の通例で、予測されていたことなので、特に驚きも落胆も歓喜もなく、そんなものかと受け入れた。二年目の赤坂さんから引き継ぐことになるのだけれど、赤坂さんは、念願の文芸書の編集者となり、表情には出さないものの大いに喜んでいるようだった。その後の引き継ぎで書店まわりをしている赤坂さんは、明らかに研修の時よりも足取りが軽かった。

「よかったですね」と優斗が言うと

「そうね、でも、プレッシャーだわ。今日もあのカフェに行っていい?マスターに報告したいから」

と、やはり嬉しそうに答えた。マスターは赤坂さんから報告を受けると

「人が書いたものを編集者として客観的に読める?自分が書きたかったら、ちょっときつくない?」

とわざと意地悪に笑いながら言った。赤坂さんの反応は

「きびしぃ、マスター」

と笑顔で返していたのだけれど、密かに抱いていた不安をごっそりテーブルの上に持ち出されたようだったと、後に優斗に打ち明けたのだった。それでも、この先自分が本当に書くことを仕事にしたいのかどうか、という決断をする時に、編集者の仕事はいい経験になるはずだと思うと赤坂さんは熱く語ってもいた。後々の話だけれど、この後、赤坂さんは偶然ウェブ上で見つけた小説を書籍化して、本屋大賞にノミネートされるくらいヒットさせ、編集者一年目で見事な実績をあげることになると同時に、自分で書くことはもうしない、という決断を下すことにもなるのだった。

 「春は残酷」と言っていた未樹とは、週末の休みに一緒に美術館に行ったり、平日の夜でも予定が合えば、一緒にご飯を食べ、そのまま優斗のアパートに泊まりに来ることもあって、会っている頻度は大学時代とあまり変わらなかった。ただ、絵里さんの家からの帰り道で手を繋いだ時に感じた、どこか遠い所にいる感覚は、優斗の中から未だに消えてはいなかった。真夜中にふと目が覚めて傍らに眠る未樹を見つめる時、優斗は、これからの未樹との日々を想像してみるのだけれど、歩んでいく道の先には白い霧がかかり、どこへ向かおうとしているのかは全く見通せなかった。

 ある朝、キッチンで料理をする音とコーヒーの香りで目が覚めた。ベッドからキッチンを見ると未樹がコンロの前に立って、フライパンを握っている。時計を見ると七時を少し回っていた。

「おはよう」

とキッチンから未樹が言う。

「どうしたの?」と優斗は尋ねる。

「朝ごはん。冷蔵庫にあるもの、使っちゃったよ」

「うん、どうぞ。突然、どうしたの?」もう一度、尋ねる。

「明け方に目が覚めたら、寝れなくなっちゃって、時間があったから、作ってみた、どう?たまにはちゃんとした朝食もいいでしょ?」

「うん、いい匂い」

「じゃあ、起きて、食べよう」

小さなダイニングテーブルに向かい合わせに座って未樹の作った朝食を食べる。サラダと目玉焼きとトーストとコーヒー。

「去年は、いつもこの時間にコーヒーだけ飲みながら、未樹からのメールを読んでた」

「そうなの?朝読むとちょっと微妙なテンションのメールもあったんじゃない?大丈夫だった?」

「それは、それ」

「そう。今日さ、ここに居ていい?授業ない日なの」

「ウチに?」

「うん、ダメ?」

「いいけど」

「けど?」

「何もないよ、退屈じゃない?」

「大丈夫。本棚の本、読んでもいい?」

「いいよ」

「じゃあ、適当に本読んだりしてるから。晩御飯作って待ってる。帰って来るよね?飲み会とかない?」

「大丈夫。特に予定は無いから。多分、八時とか」

「わかった」

「じゃあ、もう行くね」

「うん、いってらっしゃい」

「いってきます。なんか」

「なんか?」

「なんか夫婦みたい」

「だね」


 未樹を部屋に残して、会社に行く。別々の世界にいると感じていたものがなんとなく同じ世界に並び立って優斗の前に現れたようだった。会社に着くと、榊原さんが

「なんか、いつもと雰囲気ちがうね?」

と、ぼそりと言う。

「そうですか?」

「なんかあった?」

「なんかって、朝ごはんちゃんと食べたくらいです」

「それだ。彼女が作ってくれたとか?」

「なんでわかるんですか?」

「あたり?」

「はい」

「彼女と同棲してるの?柏田くん?」と赤坂さんが会話に加わる。

「いや、同棲ではなく」

「あっ、野暮なこと聞いちゃったね、無かったことにして」

と赤坂さんはバツが悪そうに、パソコンの画面に向き直った。

「怖いな、榊原さん。僕のどこがどういつもと違ったんですか?」

「どこだろうねぇ」

と優斗をぼんやりと眺めたまま、しばらく考えていたのだけれど、

「なんとなく」

とだけ言うと、朝礼が始まった。全員で共有しておきたい事柄があればこの場で報告することになっていて、赤坂さんから、その日は新刊企画の報告があった。

 「先日から進めていたウェブ小説の書籍化の件ですが、昨日、社長と一緒に著者の方にお会いしてきて、正式に書籍化の許諾を頂きました。いますでにアップされている四編に加えて、未発表の作品を一編加えて、全五編の短編集になります。著者の方は一般の主婦でして、年齢など詳しいプロフィールは非公開にすることになりました。著者名は、現在もウェブで使っているtomoeで、アルファベットで小文字の表記です。発売は、八月後半の予定です。以上です。何かご質問は?」

と赤坂さんは、みんなを見渡して最後に優斗と目を合わせ、しばらく間があってから

「よろしくお願いします」

と軽く頭を下げて、誰からも質問がなかったので、朝礼は終わりになった。その日も優斗は、都内の書店まわりだったので朝礼が終わるとすぐに外へ出た。しばらくすると赤坂さんからメールが入る。



今日のお昼、いつものカフェに来れる?ちょっと話があるの。一時でどう?


とあった。優斗は、すぐに



了解です



とだけ返信をして電車に乗って、午前中の書店まわりに向かった。待ち合わせの一時にカフェに着くと、すでに赤坂さんは二人がけのテーブルに座って原稿を読んでいた。

「お待たせしました。それ、今朝言ってたやつの原稿ですか?」

「うん、そう。何にする?私はご飯頼んだけど」

「僕もご飯にします。朝ごはんたべると、ちゃんと胃が活動するのか、お腹空きますね」

「そうね、彼女、よく来るの?」

「いや、平日は週に一回会えればというくらいです」

「そう。まだ学生でしょ?」

「はい。なんか、またアメリカに行く気がします」

「そうなんだ。いつから?」

「いや、まだ、気がするだけで、はっきりとは」

「淋しい?」

「まぁ、よくわかりません、最近」

「なんで?」

「一緒にいても、遠くにいる感じがしてるんです。帰国してからずっと」

「でも、朝ごはんは作ってくれるんでしょ」

「今日が初めてですよ」

「そうなの?」

「なんか、眠れなかったからって」

「ふ~ん」

「で、話っていうのはなんですか?」

tomoeさんね、柏田くんのこと知ってるって」

「トモエさん?今度の著者の?今朝言ってた?」

「そう」

「本名はなんですか?」

「山下友絵さん」

「山下さんが、tomoeさん?」

「知り合い?」

「はい、バイト先の」

「そうだったんだ。彼女が石田ゆり子似だっていう話の時に、わかるって、言ってた人?」

「いや、それは、妹さんです」

「妹さん?」

「はい、もう一つのバイト先に山下さんの妹さんがいて」

「なにそれ、姉妹両方とも知ってるの?」

「偶然、ちがうバイト先に、姉妹がいたんです」

「そんな偶然」

「あるんです」

tomoeさんが小説書いてたの知ってた?」

「全然。ただ塾のバイトの時に、採点のパートに来ていただけで、小説を書いているなんてきいたことなかったです」

「そっか、そっか、わかった」

「なにがですか?」

「柏田くん、モデルになってる、たぶん、小説の」

「モデル?」

「そう、未発表の書き下ろしに塾のパートで出会った男の子が出てくる、それ、柏田くんね。さっき読んでた原稿よ」

「ほんとに?読ませてくれませんか?」

「いや、だめ、まだ。私だけに見せるって約束で預かって来てるから。まだ、途中だから」

「どんな風に書かれてます?大丈夫ですか?」

「なにが大丈夫?モデルといっても小説だからね、フィクションよ、それは。まぁ、でも、これが本当の柏田くんだったら、彼女がかわいそうだけど」

「どういうことですか?それ、なんか、気になります、ほんと」

tomoeさんが、優斗くんによろしく、って言っていたから、連絡してみたらいいわ。私は、あくまで担当編集者として会っているだけだから、別に良いわよ」

「わかりました。しばらく連絡とっていなかったんで、そうします」

「食べよっ」

と赤坂さんは、いつものように優斗よりも早くご飯を食べきって、マスターに何かひとこと言い残して、打ち合わせがあるからと先に出て行ってしまった。残された優斗は、次のアポイントまで時間があったので、食後にコーヒーを頼んで、山下さんにどうメールしようかと考えていた。




山下さん


こんにちは。お久しぶりです。

驚いてメールしました。

tomoeさん、って山下さんなんですね。

先輩の赤坂さんから、さっき聞きました。

小説を書いていたなんて、驚きです。

赤坂さんがちらっと言っていたんですが、

未発表の書き下ろし作品に、

僕らしき男性が出てくるそうですね。

それって、本当ですか?

どんな風になっているのか、気になります。

よかったら、僕にも読ませてください。

赤坂さんは、他の人には見せない約束だからと、

読ませてくれません。

よろしくお願いします!


優斗




 カフェでメールをして、午後の書店まわりをしながら返信を待った。その日、家に帰るまでには山下さんから返信は無く、気になったまま未樹の待つアパートのドアを開けた。夕食の準備が整い、いつもは帰ると暗くて誰もいない部屋に暖かい灯りがともり、いい匂いが充満していた。未樹は、エプロン姿で出迎えて

「おかえり。どう?」

とおどけてみせた。優斗は

「夫婦みたい」と朝と同じことを言う。

「それは朝聞いた。他には?」

「エプロンは、さらに夫婦感が増す。なんか責任というか、プレッシャーを感じるよ」

「どういうこと?」

「なんて言うか、この人を幸せにしなくてはいけない、みたいな」

「重い、ってこと?」

「いや、なんだろう、エプロンから発する専業主婦感のせいかなぁ」

「そうね、してる私も主婦業やります!みたいな気になる。一種の制服みたいなものなのかなぁ。とりあえず、ご飯食べよう。それともお風呂?って、さらに専業主婦っぽい」

と、未樹は自分の言葉に照れ笑いをする。

 テーブルに着くと優斗は早速、tomoeさんの話の報告を始めた。

「今度ね、うちの会社から出す文芸書の新刊なんだけど、個人がウェブに連載していたのを二年目の赤坂さんが見つけて出すことになってね」

「うん」

「そしたら、なんとその著書が山下さんみたいなの」

「山下さん、って?あの山下さん?お姉さん?」

「そう。あの山下さん。アルファベットでtomoeっていうペンネームなんだけど」

「山下さんって、そういうの書いてたの?」

「みたいね。全然知らなかったけど」

「連絡してみた?」

「うん、さっきメールしてみたけど、まだ返信がない」

「読んだ?それ?」

「いや、まだ。赤坂さんが原稿を持っていたけど読ませてくれなかったから。まだ未完成だから他の人には見せないって約束みたいで」

「そう。どんなの書くんだろうね」

「なんかね、僕が出て来るみたい」

「優斗くんが?」

「そう。たぶん僕がモデルだろうって赤坂さんが言ってたけど、まぁ、フィクションだから僕の事が書かれてる訳じゃないんだろうけど」

「でも、読んでみたいね」

「うん、気になる」

「私も興味ある、優斗くんが山下さんにどう見られているか、ちょっとわかる気がするし」

「どこまでがフィクションで、モデルにした部分がどこなのかが重要だけどね」

「楽しみ。いつ発売なの?」

「夏の終わりくらいの予定」

「そっか」

 優斗のスマホにメール着信の通知が表示される。山下さんからの返信のようだったけれども未樹の前で読むのは避けたほうがいいように思い、見ないようにした。

「夏の終わり頃は、何してるかなぁ」

「何って?」

「その頃までには、色々と決めないと」

「そうだね」

「うん」

未樹は、夕御飯を食べ終わると洗い物をして

「今日は帰るね」

と言って帰っていった。ひとりになった部屋はなんだか寂しく思ったけれども、どこか少しほっとしたようにも感じた。どうして未樹は朝から一日、主婦業のようなことをして帰っていったのか、なにか彼女なりの考えがあったのかもしれないが、優斗にはそれがなんだったのかは分からなかった。ただ未樹はそれなりに楽しそうだったことと、それを優斗も特に違和感なく受け入れていたことは、意外と言えば意外だった。それからテーブルに座り山下さんからのメールを開いた。



つづく。

by ikanika | 2020-04-13 11:37 | Comments(0)


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