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「森の十字路」⑷


 いくら濡れてしまった本とは言え、処分してしまうのは忍びなかった。汚水とかに浸ってしまったわけではないので、乾けば読むことはできるはずだった。しかし、乾かす場所も時間もあるわけではないし、乾いたところでシワシワになってしまった本を貸し出すわけにもいかない。紙として再生できるものは再び書物に生まれ変わる可能性もあるはずだから、と本好きの優斗は自分を納得させて、廃棄処分の作業を絵里さんと黙々とこなした。月曜日しかいないはずの優斗が来て、絵里さんと二人きりで作業をしている、ということだけで、他の主婦たちが様々な妄想を巡らせるには十分だった。昼休みに、休憩室でコンビニで朝買ってきた惣菜パンを頬張る優斗と、手作りのお弁当を食べている絵里さんを遠巻きに見ている主婦たちの視線は、まるでテレビのワイドショーで話題の不倫カップルと偶然レストランで出くわしてしまったという時に、そうなるだろうと思われる、なんとも言えない不自然なものだった。優斗と絵里さんは、朝から慣れない廃棄処分で、午前中だけで疲れ切っていて、会話をする気力も失せてしまい、横並びで黙ってそれぞれのランチを食べていた。その何も会話を交わさない状態も主婦たちにとっては、ますます想像の翼を広げることとなった。午後も三時に一旦短い休憩を取り、六時の終業まで同じ作業を続けても、まだ終わりは見えなかった。チーフから二時間だけ残業の相談があって、また優斗は絵里さんと二人きりで残業をすることになった。

「すっかり噂になってるね、私たち」

と、みんなが帰ったので、絵里さんは口を開いた。

「はい。良いんですか?」

「良いって?」

「流行りの不倫みたいに言われて」

「実際違うんだから大丈夫、アメリカまで噂は届かないし。それとも、そういうことにしてみる?」

「そういうこと?」

「みんなを騙してみるとか」

「まずいですよ、冗談で済まなくなりそうです。みなさんの視線、結構マジですよ」

「じゃあ、どうする?」

「どうしましょう」

「優斗くんの彼女って、どんな人?」

「どんなって、、勉強が好きで、おとなしい、とか」

「だれ似?タレントだと」

「それだと、若い頃の石田ゆり子、って友達に言われてるみたいです。まだブレイクしてない頃の」

「あー、なんか想像つく。ウチのお姉さんも似てる女優いるでしょ」

「そうそう、なんでしたっけ、名前。この前から思い出せなくて」

「深津絵里」

「それだ、あっ、絵里ですね、同じ」

「だから、ややこしいの。絵里の姉が絵里に似ている、って。主人の名前が深津じゃなくてよかったわ。大江もイマイチだけどね」

「オオエエリ、ですもんね」

「馬鹿にしてる?」

「してません」

「彼女名前は?」

「未樹です。山田未樹」

「山田かぁ、柏田未樹だと漢字一文字しか変わらないね。いいんじゃない」

「そんなことで、決めるんですか?」

「友達で、苗字が同じ人と結婚したから、いつまでも結婚できない人、って思われてる子がいるの。可哀想じゃない。だから大事よ、名前は」

「まぁ、それはそうかもしれませんけど」

「結婚はしたくないの?」

「まだ、学生なんで。向こうも。絵里さんは、いつ結婚したんですか?」

「学生結婚」

「ほんとですか?」

「うそ。ナンパされたの」

「まじですか?」

「そう言うと、彼が怒るから、あまり言わないようにしてるけど、実際ナンパ」

「どこでですか?」

「前はOLしてて、新丸ビルに勤めてて、お昼休みはビルの周りにある小さな公園みたいなところのベンチでお弁当を食べていたの。ほとんど毎日自分で作ったお弁当を。それを、見ていたみたいで、彼。で、『いつも美味しそうなお弁当ですね』って。それ、普通のナンパでしょ?」

「はい、確実に」

「でも、彼は違うって言い張るの。本当にお弁当が美味しそうだったって。私を見ていたんじゃなくてお弁当を見ていたんだって。それはそれで失礼よね」

「失礼です」

「だから無視してたんだけど、しばらくしたら、彼、今度は自分で作ったっていうお弁当を持って現れて『一緒にいいですか?』って。気持ち悪いでしょ」

「気持ち悪いです」

「でもね、その彼のお弁当、ものすごく綺麗で美味しそうだったの。こっちは毎日作っていて料理上手のつもりだったから、いきなりそんなもの見せられてカチンと来て、どうせ美味しくないんでしょ、って思っておかずの交換こして、そしたら美味しかったの。それから毎日、お昼休みはお弁当デートよ」

「いい話です」

「良くないわよ、馬鹿みたいな馴れ初めだわ、だからあんまり人には話さないようにしてるの。ただナンパってことにして。わかった!」

「何がですか?」

「お弁当作ってくるよ、今度」

「お弁当?」

「私と優斗くんが同じお弁当食べてるの、休憩室で。どう?」

「どうって」

「そしたらみんなの妄想はピークよ。どんな顔するか見たくない?」

「やりすぎじゃないですか?」

「お弁当作るくらい簡単よ」

「そうじゃなくて」

「わかってるわよ、それくらいすれば、もうみんなコソコソ噂するの諦めるわ、きっと」

「噂は無くなっても、本当に付き合ってるってことになりません?それ?」

「しばらく偽装カップルをやって、喧嘩とかして別れればいいじゃん」

「計画が壮大すぎます、テレビのドッキリ並みですよ」

「あるいは、そのまま本当に付き合っちゃうかもしれないし」

「それは」

「まずい?」

「まずいというか、からかってます?」

「うん」


 その週の金曜日、絵里さんは本当にお弁当を作ってきた。休憩室に入るなり「優斗くんの分、はい」と自分のお弁当より一回り大きなサイズのお弁当を優斗の前に置いた。おそらくご主人のものと思われるお揃いのデザインのお弁当箱だった。さすがに他の主婦達は固まって、声も出ない状態になった。優斗も、美味しいはずの料理上手の絵里さんのお弁当を味わう余裕などなく、良く噛んで喉に通すのが精一杯だった。絵里さんの目論見通り、噂は消え、単なる公認のカップルといった扱われ方になって、居心地がいいのか悪いのか、よくわからない環境でのバイト生活がはじまった。





優斗くん

 こんばんは。この前のメール、ごめんなさい。優斗くんには、どうしても甘えてしまいます。自分から留学を決めておきながら、あんなことを言うべきではありませんでした。だったら、留学なんかしなければいいじゃん、という優斗くんの声が聞こえてくるようです。そう言われても、仕方ないと思います。本当にごめんなさい。春までもうあまり時間がないけど、こっちで出来ること、やりたかったことを最後までやりきって帰ります。帰ってからのことも同時によく考えて決めたいと思っています。

 私は、優斗くんが選んでいる道は、間違っていないと感じています。いつも気持ちや心が向いている方に、無理することなく、すごく自然に進んでいるように見えます。うらやましいです。あんな風に生きられればなぁ、って羨ましく思っています。だから、手をひいていって欲しいなんて思ってしまうんです。春になったら、また手を繋いで桜の道を歩きたいです。


未樹




 いくら冗談とは言え、人妻と付き合っている状態をバイト先で認められている、なんていう話は未樹には出来ないと思う。話せないことならやるべきじゃないと分かっているのだけれども、絵里さんのペースでどんどん話が進んでしまっている。春に未樹が帰国するまでに、何事もなかったように、喧嘩別れを演じて全てが終わっているだろうか。それとも、絵里さんはまた違ったストーリーを思いついて、優斗は振り回されることになっているだろうか。二十代の健康な男女が、それぞれに一人で暮らしている環境で、何もないわけはない。それは、優斗も未樹も暗黙のうちに了解していることとお互いに思っていて、一年間の遠距離での付き合いが決まった時に、あえてその辺りのことに関しては会話はなされなかった。その了解の中に今の優斗の冗談での火遊びごっこが含まれるのかは、未樹の解釈次第で、タチの悪い不快なお遊びだと言われればそれまでだし、良く出来た悪戯だと一緒に笑って済ます程度の事だとさらりと受け流されることだってあるかもしれない。しかし、優斗は絵里さんとのいまの関係を未樹には内緒にしておきたいと考える。そこに未樹への心変わりや絵里さんへの恋愛感情が存在している訳ではなく、ただ秘密と呼ばれるものを抱える誘惑に引きずられているだけだと自分を納得させていた。図書館のバイトは、月曜日だけに戻り、絵里さんと会うのも週に一度になった。しかし、絵里さんは、毎週必ず優斗の分のお弁当を作ってきて、交際は継続中という冗談を演出していた。実際には、月曜日以外に会うことはなく、メールを送りあったりすることもなく三週間が過ぎようとしていた。三回目のお弁当を食べ終えた月曜日に、優斗は、絵里さんに小声で尋ねてみた。

「いつまで続けるんですか、これ?」

「決めてないわ、まだ。もう、やめる?」

いざ、やめる?と言われると優斗も答えに困る。この先に何かがあるとか想像していたり、期待している訳ではないのだけれど、なんとなく絵里さんと秘密を共有している状態を維持しておきたいと思ってしまう。

「いや、べつに」

「じゃあ、いいじゃない。あとね、今週末、誘われてない?お姉さんに」

「山下さん?」

「そう。ウチに来るんだけど、柏田くんも一緒に、ってメールが来たから、いいよって返しておいたんだけど。昨夜」

「いえ、聞いてませんけど。メール見てみます」

優斗は、バックからスマホを取り出し、メールを確認する。つい三十分前くらいに山下さんからのメールが届いていた。その少し前に、未樹からもメールが届いている。珍しい時間に送ってきたので開いてみると、ずいぶん長い本文が綴られていた。絵里さんのいる前で読み始める訳にはいかないのでとりあえず閉じて、山下さんからのメールの内容だけ確認して絵里さんに伝える。

「あっ、届いてます。山下さんから」

「そう。来れる?」

「はい、お邪魔します。山下さんに返信しておきます」

「了解。じゃあ、お姉さんとどっかで待ち合わせして連れてきてもらって。駅は、大倉山だから」


 バイト帰りの電車で未樹からのメールを読んだ。おそらく深夜に書かれたその内容は、想定はしていたものの実際に起こってしまうと、どうにもやりきれない思いだけが残るものだった。





優斗くん


 こんばんは。今夜はとても冷え込んでいて、足先がさっきから冷たくて眠れません。なので、メールを書きます。春からのことを色々と考えました。こっちで出会った先輩や教授や友達の意見や話を聞いて、自分なりにある程度、方向性を決めました。私は、やはりもう少し学校に残って勉強をしたいと思っています。そのことが自分の望む将来の姿に近づくための大切な一つの道だと思うからです。それも、日本ではなく、やはりここでの勉強を続けたいと希望しています。とはいえ、希望したからと言って、春以降もこのままここにいれるわけでないので、予定通り春に一度日本に帰ります。その後、きちんとした手続きを踏んで、またここに戻るつもりです。どのタイミングで戻ることが出来るのかは、今のところは何も見えていません。一年以内にすぐ、ということになるかもしれないし、何年か先の話になるかもしれません。ただ今度こっちに来ることになったら、いつまでいることになるかは逆にわからないと思っています。もしかしたら、こっちに住むことになって時々日本に帰るなんていうことになる可能性もあります。先々のことを考えるとその方が現実的でもあったりするのですが。そうなると、私たちはどうしたらいいのかなぁ、って答えをさがしてみているけれど、まだどこにも見当たりません。春になって、日本で優斗くんに直接会って、いろいろと将来の話をして、決めていきたいとは思っていますが、私が選んだ道は大きくはこんな感じです。その道を優斗くんと手を繋いで歩くことが出来ればいいと思うのですが、そんなことって可能なのかなって、優斗くんと私はどうなるのかなって、もやもやしています。眠くなって来てしまったので、もう、寝ます。また、書きます。


おやすみなさい

未樹




つづく。


by ikanika | 2020-04-07 10:51 | Comments(0)


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