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「雨降りの猫」

はじめに

久しぶりに短編をアップします。
この春に書いたものですが、
クリスマスや12月といった季節の出来事が
背景にある物語だったので、このタイミングで。
楽しんでいただけると嬉しいです。

cafeイカニカ
平井康二

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雨降りの猫

 二十年近く前と同じように地下鉄の階段を登り、外堀沿いの桜の樹の下を歩く。開花まではまだしばらくあるので、小さな新芽が枝に少し見えるだけだ。普段ならばたくさんの学生が歩いている道のはずだけれど、この時期は学生の姿が一番少ない。学年末の試験も入学試験も終わり、卒業と入学を控えて、みんなが各々、次のことを考えている時季だ。それだからというわけではないのだけれど、十年続けたカフェをこれからどうしようかと考えていて、足が向いたのがこの外堀沿いの桜道だった。通っていた大学の校舎は高層マンションのような建物に変わり、細い路地裏にあった定食屋も無くなっていたけれども、印象が何も変わっていないのは、記憶として残しているものが極めて断片的であること。そして、あの時見ていたのは君のことだけで、建物や景色なんて、さほど気にしていなかったせいだと思う。

 十年前に、もしかしたら君が現れるんじゃないかと思ってカフェを開いた。他にも君を探し出す手段は考えられた。この時代、例えばSNSとかを使えば。でも、ネットの世界には君はいない、となんとなく思った。僕が知っている君はそんなところにはいないと。偶然、君が書店や行きつけの美容室で手にした雑誌に、僕のカフェが紹介されていて、君が突然訪ねてくる、なんていう妄想を抱いていた。実際にはそんな事は起こらずに十年が過ぎていった。もうそんな思いを抱くことをやめなくてはいけない、とは思っている。君がまだこの世界にいるとしても、もう僕とは接点を持つ事はないのだと、それを受け入れればいいと。でも、それで終わりにしていいとも、思えなかった。この外堀沿いの桜の道に、何か答えのようなものがあると期待していたのかもしれない。でも、来てみるとまだ枝ばかりの桜の樹と、学生の姿のない閑散とした街が僕を出迎えた。答えにつながるようなものは何も見つかる気配はなく、自分の記憶というものが君を中心に都合よく形作られていることを知らされただけだった。

 大学を卒業して、しばらくは君が何をしているかは耳に入ってきていた。君が親友だと言っていた洋恵とも、たまに連絡を取っていたし、その他あまり深い付き合いのない同窓生からの噂話も伝わってきた。洋恵も含めて多くの人が、卒業してからも君と僕の関係は続いていくと思っていたはずだし、当然一緒になるとも考えられていたようだけれども、君は僕から離れていって、僕もそれを受け入れた。それが自然な流れのようにお互いに感じたからだった。そして時季が来たら、また一緒になるんだろうとも、思っていた。

「千尋が、いなくなっちゃった」と洋恵から連絡があったのはクリスマスの朝だった。仕事で関わっていたアーティストが大規模なクリスマスコンサートを開くことになっていて、ほとんど徹夜で準備をして迎えた朝だった。洋恵の言う意味がよくわからず

「いないって、どういう意味?」とそのまま質問を返した。

「メールが来たの。千尋から。今日はみんなでクリスマスパーティをやることになってて、千尋も来ることになってたんだけど、

事情があっていけなくなりました、って」

「うん、でも、ただの欠席連絡でしょ?」

「違うの、続きがあるの、でね、しばらく会えなくなるかもしれないので、みんなによろしくね、って」

「それで?」

「それだけ。だから、すぐにメールじゃなくて電話したんだけど、もう繋がらなくって。それで、他のみんなにも何か知ってるか訊いてみたんだけど、なにもわからなくて。だから念の為、さっき、高松くんに、千尋のマンションまで、見にいってもらったんだけど、もう誰もいなくて、引っ越したみたいって。ポストのネームプレートも無くなってて」

そこまで話を聞いても、実感として君がいなくなった、ということがどういうことなのか上手く把握できずに黙ってしまった。

「ねぇ、聞いてる?湯広くん?」と洋恵に言われて

「聞いてる」とだけ答えた。

「知らない?なにか」

「知らないよ、千尋のことは、洋恵とかみんなからの情報しか」

「そうだよね」残念そうに洋恵は呟き、しばらく沈黙した。

「じゃあ、何か思い当たることとか?」

「それも、ないよ、ずっと会ってないし、連絡も取ってないから」

「そっかぁ」と洋恵はさらに残念そうに言った。

「何か思い当たったら連絡するよ」と言って僕はその電話を切った。その時はまだ、いつかまた一緒になる、ということを本当に感じていたので、君がいなくなったという事実を深刻に考えることはしなかったように思う。いずれまた一緒になるんだから、というなんの確証もない感覚の方が強かったから。でも、君は本当にいなくなってしまった。この世から忽然と姿を消してしまった。部屋を明け渡すときに立ち会った不動産は、一旦、実家に戻るので、というようなことを聞いたと言っていたようだったけれども、もう実家は存在しないはずだった。大学三年の時に、唯一の家族だったお母さんが亡くなって、実家は更地になり、後に建て売り住宅が建ち、君は一人でマンション暮らしを始めたのだから。この国で身元のわからないまま暮らしていくことなんて不可能に思えたし、他人になりすましたり、さもなければ何かの事件や犯罪に巻き込まれたりという可能性があるのだけれど、そのどれにも君の失踪は当てはまりそうになかった。ただ消えたのだ。どんどん君の姿が色彩を失っていって空気に溶け込むように消えていく様を何度も想像した。そして、ある日、徐々に色彩を帯びてその姿を現してくれるシーンも。そうやって何事もなかったように僕のカフェに現れた君に、僕はただ、おかえり、と声を掛け、君は、ただいま、とだけ答える。そういう夢も何度も見た。でも、もし君と再会するとしたら、本当にそんな感じなんだろうとも思えた。

 外堀沿いの桜の道を歩いた日の翌日も、いつも通りにカフェを開けた。これからどうしようかという迷いは前と変わらなった。そうやってまた十年とかが過ぎていくのかと思う。いつまでも君が現れるのを待っている自分はどんどん歳をとっているのに、君の記憶は、あの頃のままで、歳をとることはない。徐々に色彩を帯びて現れてくる君は、二十代の姿でしかない。その絵面を想像するとまるで親娘だと思う。大学生の娘とカフェを営む父の姿だ。その事にいまさら気付き、可笑しくなる。現実に現れるとしたら、歳を重ねた君であるはずなのだけれど、そんな姿は想像できない。僕がカフェで待っていたのは、あの頃の君で、だから、もしかしたら僕は今の君の姿に気づかなかったのではないかと、ふと思う。もう、会っていたのではないかと思うと、落ち着かなくなる。いつの、どのお客さんが君だったのか?この十年間の様々なお客さんの顔を思い浮かべる。一人一人を思い出せるほど明確に記憶しているわけもなく、君の姿は記憶にあるお客さんの中には現れない。

 今日一人目のお客さんは、すぐ近くの大学の派遣職員さんだ。恐らく三十代半ば、子供もいるはず。いつだか娘のお弁当の話を同僚としていたから。自分にも子供がいたらお弁当を作っただろうか、と考える。毎朝、毎日欠かさず作り続けるその行為を想像すると自分には無理だと思えた。カフェで軽食は作ってはいても、お弁当を作ることとは、同じ料理でも何か違う行為に思える。君にも子供がいるのだろうか、そしてお弁当を作る母親なんだろうかと考える。そんな人生を送っている君と、みんなの前から消えてしまった君はどうしても結びつかないから、母親になった君の像はぼんやりとしたまま消えていく。職員さんは帰り際に

「私、四月から別の大学に派遣されるので、もうあまり来れないんです」と言う。春は異動の季節だから、毎年こういう挨拶がいくつか交わされる。

「今度はどこに?」と会話を続ける。

「市ヶ谷の方の」

「もしかしてH大とか?」

「あっ、そうです、なんでわかったんですか?」

「僕、そこの卒業生なんで。昨日、ちょっと行ったばかりで」

「そうなんですねー」と職員さんは少し嬉しそうだ。

「昨日はなんか用事があったんですか?大学に」と尋ねられる。詳しく事情を説明しても伝わらないと思って

「いや、なんとなく、足が向いて」とだけ答える。

「ありますよね、母校に行きたくなること。そういう時って、近々懐かしい再会があるんですって」

「本当に?」

「わたしも、ありましたよ。去年、中学校ですけど、久しぶりに行ったんですよ、そしたら卒業以来会ってなかった初恋の人にばったり」

「ばったり?」

「ここに出入りしてる業者さんというか、システムエンジニアで」

「大学の?」

「そうなんです。だから、マスターもなにか再会があるかもですよ」

と言われる。まさかね、と思いながらも、カフェに君が現れる姿を想像する。しかし、その姿はまた二十代のままだった。そうじゃないんだよ、と心の中でつぶやく。それ以来、自分と同世代の女性客が来ると君ではないかと、まじまじと見て、そこに面影をさがしてしまうようになってしまった。それから一週間くらい経って、カフェに現れたのは君ではなく洋恵だった。ママ友と二人で現れた洋恵に

「なんだ、洋恵だったんだ」と口にしてしまう。

「なんだ、ってなに?ずいぶんねぇー」とツッコまれる。

「いや、そうじゃなくて」とやや慌てていると

「誰だったらよかったの?」と暗に君のことを匂わされる。一緒のママ友には関係のない話題なので、その言葉には答えずに、席についてもらう。洋恵とママ友のおしゃべりがひと段落したところで、水を注ぎに行く。

「この前、久しぶりに市ヶ谷に行ってきた」

「ほんと?変わってたでしょ、校舎とか新しくなったんでしょ?」

「うん、でも、なんか街の印象は変わってなくて」

「そうなんだ」

「その話をね、ある人としてたら、そういう風に母校とかに行くと、懐かしい再会が訪れるって、言われて、それで、来たのが、洋恵だったから」

「それで、なんだ洋恵かぁ、になったってこと?」

「そう」

「千尋だったら、よかったのにね」

「まぁ、それはないだろうけどね」

「どうして?わかんないわよ、突然現れるかもよ」

「そうなったら、ビックリだけど」

「ねっ」

洋恵との間では、もう君の失踪については、ある種、現実離れした映画の中での出来事みたいな認識になっていて、失踪という言葉につきまとう不穏な暗さみたいなものは無かった。どちらかというと、ある日突然、何事もなかったようにフラッと元気に現れるものだと二人とも思っていた。

「でも、千尋がこの歳になってる姿が想像できなくて」

「確かに、二十代の千尋しか知らないからね。でも、あんまり変わってないような気がする。もともと落ち着いてたし、印象は大きくは変わってないかもよ」

「だといいけど」

「私も、試しに市ヶ谷行ってみようかなぁ。そしたら再会できるかもね」

「うん、そうしてみれば。いまちょうど桜が咲いてるんじゃない」

その後、洋恵が市ヶ谷に行ったのかどうかも、誰かと懐かしい再会を果たしたのかもわからないままだ。たぶん何も連絡がないということは、洋恵は行ってないんだろう。

「誰かに再会しました?」

市ヶ谷に通い始めた職員さんが日曜日に現れる。自宅はこのカフェと同じ沿線にあるので来やすいという。子供が習い事に行っている間が自由時間だということで訪ねてきてくれた。

「するにはしたけど、本当に再会したい人ではなかった」

「本当に再会したい人?」

「そう。今回はその人の親友に再会した」

「じゃあ、その人経由で会えたりするんですか?本当に会いたい人に」

「いや、どこにいるのかは、誰も知らないから」

「誰も?」

「そう。世の中的には、失踪とか言われちゃうんだけど、僕らはなんか違う気がしてる。ただ消えてしまったんだ」

「消えたって、どういうことですか?」

「僕らもよくわからない。ある日、色彩が薄くなっていくように消えていなくなった、という感じで」

「そんなことってあるんですか?」

「普通は、ないよ」

「ですよね」

「同級生なんだ。大学の」

「うちのですか?」

「そう。僕と同じ卒業年度で、谷口千尋、っていう名前」

「その人が消えてしまった?」

後日、その職員さんは大学に残っている君の情報を調べてくれたけれど、住所、連絡先不明、ということしかわからなかった。

「その人と、マスターは恋人だったとか?」

「でも、卒業する時に別れた」

「どうして?」

「なんとなく、それが自然な流れに思えて。お互いに。でも、また会えるというか、一緒になると思っていた、その時は。でも、消えてしまって、もう二十年近く」

「私にはよくわからないんですけど、なにか事情があって、それまでの自分を消して生きて行かなくちゃならなかったんじゃないでしょうか」

「そうなのかな、やっぱり。思い当たることなんて何もないけど」

「そのうち現れますよ、ここに」そう職員さんは、さらりと言って帰っていった。その予言めいたところもなく、同情するような言い方でもない、いつのまにか住み着いてしまった野良猫がいなくなったときに言われるようなひとことが逆に真実を伝えているように思えた。

「試しにね、都会の野良猫みたいになってみようと思ったの。どこの家の猫でもないということはイコールみんなの猫なの。お腹が空いていると誰かが何か美味しいものをくれる、日向でお昼寝をしているとそっとしておいてくれる、雨が降れば軒先を貸してくれる、そんな風にみんなが面倒を見てくれるの。でもね、誰のものでもないから、都合のいい時だけそうやって世話を焼いてくれて、自分の用事があるときは、放ったらかしにされる。それでも都会にはたくさん人がいるから大丈夫。誰かが必ず世話を焼く。うまく出来ているの。一人で世話をしなくちゃならないと思うと大変だけど、そういう責任がなかったら、みんな猫を可愛がりたいとおもっているの。そうやって、一年二年と少しずつ場所を移動して暮らしてきた。東京の街はほとんど知っているわ。あなたの暮らしている街にもしばらくいたのよ。気づいていなかったみたいだけど。でも、少し飼い猫が多い住宅地だったから、すぐに移動したわ。でも、そろそろそんな暮らしも終わりにしようかと思ってね、今更だけど、あなたに会いにきたの」

目の前には猫になった君が僕を見つめている。手を伸ばして捕まえようとすると、スッとジャンプして逃げる。追いかけようとすると足が重くてなかなか早く走れない。まるで夢の中のように。

 スマホのアラームが鳴っている。外はもうずいぶんと明るい。いつもはアラームが鳴る前に目が覚めるので、アラーム音を久しぶりに聞いた気がする。朝だ。君が猫になったのは夢だとわかる。職員さんの「そのうち現れますよ、ここに」という言葉に引きずられたのだということも分かる。でも、君が猫暮らしをしているのは本当かもしれない。今は、どの街にいるのだろうか。どんな人たちに囲まれて毎日を送っているのだろうか。いずれはふらりとカフェに現れてくれるのだろうか。鮮明な夢の記憶をそのままにしておけたらいいのだけれど、やはり徐々に薄れていく。それはまるで君がいなくなってしまったように、色彩が薄れて輪郭がぼやけてきて、やがて空気に紛れていく。

 いつもより少し早くカフェに行く。入り口脇のつくばいで猫が周囲を警戒しながら水を飲んでいる。僕は、猫が水を飲み終わるまでじっと息を潜めて見守る。さっきまで猫の夢を見ていたから、その猫に君のことを重ねてしまう。毎日こうして水を飲みにきているのだろうか。この時間にカフェに来ることはあまりないから僕が知らないだけなのだろうか。少し何か習慣を変えれば世界は違ってくる。すれ違ったり出会ったりするのは、そういう偶然でしかない。出会いたくても出会えない人もいれば、いつもなぜか出会ってしまう人もいる。あるがままを受け入れていけばいいのだろうけれど、なぜか無い物ねだりをしてしまう。そう、君に会いたいなんて。猫は僕の気配に気づき、早足で逃げていく。安全だと思える距離まで離れると猫はこちらを振り向き、じっと僕を見つめる。しばらくの間、視線を合わせてみるけれども、猫が何を考えているのかは僕にはわからない。どこの家の猫でもない猫はみんなの猫、という君が言った言葉を思い出す。君はみんなの猫だよ、と語りかけてみると、少し表情が和らいだように感じたのは気のせいか。猫は見事なジャンプをして屋根に上がって行ってしまった。日向ぼっこでもするのだろう。そのくらいのことは知っている。その日から、猫の水飲み時間に間に合うようにカフェに行くようにしてみた。猫にしてみれば、一人で周りを気にせずに水を飲みたかっただろうけれど、僕は毎日、その姿を見ることを日課にしてみようと思ったのだ。でも、いつも決まった時間に水を飲みにくるものだと思っていたのは、こちらの勝手な思い込みで、猫はきまぐれだった。タイミングよく姿を現わす日もあれば、早々に飲み終えたと思われる形跡だけがある日もあれば、全く現れない日もあった。そのうち猫は、見られていることに気づいたのか姿を見せなくなってしまった。いなくなって気づく、気まぐれなのは当たり前だと。自分だっていつも同じ時間に水を飲んだりしない、飲みたいときに飲むだけだ。猫は僕が存在に気をかける前からそうやってこの界隈で暮らしていたに違いない。こちらが勝手に気まぐれに気をかけたばっかりになんとなく居づらくなってしまったのだ。日々暮らしてして気づいていないことなんて山ほどあるのだろう。何かのきっかけで気づくまでそれは存在しないと一緒なのだ。もしかしたら君だって何度も僕の前に現れてきたのかもしれない。こちらがそれに気づく準備がなかっただけのことで、君はどこかに消えてしまったわけではなくて、いまもどこかで気ままに猫暮らしをしているだけなのだろう。必要以上に気にかけてしまうとあの猫のように現れなくなってしまうのかもしれない。

 再び猫が現れたのは、梅雨が明けて夏が始まった日の朝だった。僕は「あっ、」と声を上げて猫を見た。猫もすぐにこちらの存在に気づき一瞬視線を合わせたのだけれど、逃げることなく平然と水を飲み始めた。警戒する相手だとは思われていないのかもれない、そう思うとなにかを認められたような気がして嬉しくなった。なにをどう認められたのかはよくわからないけれど、猫の視線に前にはなかったものを感じたのは確かだった。その日から猫は毎日現れた。水を飲むか昼寝をしているかの、どちらかの姿しかカフェのカウンターの中からは見えない。それ以外の時間は、どこかでご飯を食べたりしているのだろうが、必要以上に詮索することはしなかった。みんなの猫、なのだから。ただ、そこにいるのはわかっているよ、ということだけを猫に伝える程度の距離を保つように心掛けた。

 日曜日の夕方に、久しぶりに職員さんがカフェに現れた。君が猫のイメージになるきっかけの一言を残して以来だ。

「こんにちは」

「こんにちは、どうぞ」

「ちょっとご無沙汰しちゃって」

「慣れました?市ヶ谷」

「もうすっかり。あっ、猫」いつものあの猫が水を飲みに来たようだった。

「少し前から、毎日現れるようになって」

「野良?」

「はい、たぶん」

「みんなから美味しいものもらってそうですね、毛並み良いし」

「みんなの猫ですから」

「みんなの猫?」

「どの家の猫でもない猫は、みんなの猫」

「誰の言葉ですか?」

「えっと、千尋の」

「千尋、って谷口さん」

「はい」

「そんなこと言ってたんですか、猫好きだったとか?」

「どうなんだろう、わかんないけど」

「なんですかそれ?」

「猫好きというか、彼女が猫みたいだったかも」

「ふーん。コーヒーとチーズケーキください」

とりあえず、君と猫の話は終わる。なんとなく宙ぶらりんのまま。水を飲み終えた猫は、何処かへ消えていた。誰かにごはんをもらいに行ったのだろうか。

「千尋さん、みんなの猫なのかもしれませんね、今は」と職員さんが呟く。

「夢を見たんですよ、千尋が猫になって現れて、猫暮らしをしているって」

「それで、さっきの台詞?」

「そう、だれの家の猫でもない猫は、みんなの猫」

「納得。夢っぽい台詞。でも、さっきの猫が千尋さん、とか言うのは無しでお願いします、そういうの苦手なので」

「僕もそれはちょっと、ダメです」

「よかったです」

「でも、夢を見るきっかけは、たぶんあなたの言葉なんですよ」

「私、なんか言いました?」

「そのうち現れますよ、ここに、って」

「そんなこと、いつ言いました?」

「この前です。それって、なんか、いつのまにか住み着いてしまった野良猫がいなくなったときに言われることのような感じがして、それで」

「勝手な妄想ですね」

「まぁ、そうですけど」

職員さんは、心なしか疲れているように見えた。職場が変わって慣れないせいだろうか。それとも、何か気がかりな出来事でも抱えているのだろうか。

「猫暮らし、って、どういう暮らしですか?さっき言ってましたよね」

「お腹が空いてきたら誰かがご飯をくれて、昼寝をしていたらそっとしておいてくれて、雨が降ってきたら軒先を貸してくれて、誰かが必ず世話を焼いてくれる。でも、みんな飼い主だという責任のない中でやっていることだから、自分たちの都合のいい時にだけ。でも都会は人がたくさんいるからそれでも成立するんだって。そういうゆるい関係値が心地いいみたい、お互いに」

「なるほど、いいですね、猫暮らしは」

「してみたいですか?」

「少し」

「でも、家庭も仕事もきちんとあるのはいいと思いますけど」

「きちんとあるように見えますか?」

「はい、見えます。違うんですか?」

職員さんは、片肘をついてあごを手のひらに乗せ「うーん」と唸った。

「千尋さんに会って猫暮らしの仕方を聞きたいかも」

「でも、それは僕が夢で見ただけで、千尋が本当に猫暮らしをしているわけでは」

「そっか、そうですよね、夢と現実がごちゃ混ぜになってるわね」

「はい」

そういう僕も、こうやって職員さんと君の話をしていると、本当に君が猫暮らしをしているように感じる。猫に化けてはいないけれど、どこかの街で、みんなに世話を焼かれながらのんびり暮らしている君の姿が思い浮かぶ。君は、まだ二十代のままの姿だけれど。

 雨降りの日、猫は現れない。どこかの軒下で雨宿りをしているのだろう。それとも部屋まで上がり込んで、美味しいものでもご馳走になっていたりするのか。君は雨が降ると手の込んだ料理をした。「出かけたりすると服とか靴が濡れてしまって気持ち悪いじゃない。わざわざ出かけなくてもね」と言って、台所に立ち、黙々と料理をした。僕は「味見をして」と呼ばれるのをいつも待っていた。本を読んだり音楽を聞いたりして。午前中から始めた料理は、大抵、昼を過ぎ夕方の手前で完成した。途中、味見をさせてもらえるから、空腹に耐える必要はない。雨降りのご馳走のお陰で、雨を疎ましく思うことがなくなった。雨の日のカフェは良い。来るお客さんもどことなくしっとりと心が潤っている。雨降りで、何かをやめざるをえなかったり、延期にしたり、そのおかげで時間がぽっかり空いてしまったり、計画通りにいかないことを少し楽しんでいる様子が良い。雨降りがもたらす、日々の余白。

ねぇ、どうして市ヶ谷に行ったの?

君が尋ねる。

わからない、なんとなく足が向いたとしか言えない。

私を見つけに行ったの?

そうかもしれない

どうして見つけてくれないの?

わからない、君がどこにいるのか、僕にはわからない、未だに

そう、こんなに近くにいるのに?

近くに?

いつもあなたを見ているわ。最近、わたしたちの大学に行き始めた職員さんに嫉妬しているの

なぜ?

彼女は、あなたとお話しが出来るじゃない。私の言葉はあなたには伝わらないから

今は?君の言葉がわかるよ

これは言葉ではないの。気持ちというか、思い。それを伝えているだけ

よくわからない、けど、それでもいいじゃないか。こうして気持ちを伝えあえるなら

そうね。そう思わなくちゃいけないのかもね

ねぇ、私たち、いくつになったの?

今年でちょうど四十だよ。君は十一月だから、もうすぐだね

あなたは十二月だったわね

そう

でも、私の四十っていうの、想像できる?

難しいなぁ、それは。

そうでしょ?最後に会ったの、いつか覚えてる?

卒業式の次の日だから、二十二の春だよ

だからあなたの中の私は、ずっと二十二のままでしょ?

まぁ、確かに。洋恵から話は聞いていたけど、会ってはいないからね

私は、今のあなたを知っているわ

どうして?

いつもこっそり覗いているの、知らない?

ずるいなぁ、一方的に見ているなんて

でも、それくらいは許して。私は、あなたにもう、会えないんだから

どうして、会えないんだ?

 夕方に雨が上がり、猫が戻ってくる。濡れている気配もなく、満ち足りた顔をしている。雨の日のご馳走か、と思い、嫉妬のような気持ちが湧く。みんなの猫だとわかっているつもりなのに。今夜は早く帰って、君が雨の日によく作っていた料理を思い出して作ってみようと思う。でも、せっかくのご馳走なんだから誰か一緒に食べてもらう相手が必要だと思う。君に会えないのなら、君じゃない誰に食べてもらうしかない。君は嫉妬するだろうか。


by ikanika | 2019-11-30 10:05 | Comments(0)


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