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『ハーグ』

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ハーグ





制服のまま砂浜に降りると、沙苗は少し考えてから靴を脱いで素足になった。凌も同じように履いていたスニーカーを脱いで乱暴に階段の隅に投げた。

「ビーサンとか、持ってればよかった」と言う沙苗に

「でも、素足も気持ちいい」と凌は答えて、沙苗の靴を持っていない方の手を引いて砂浜を走ってみた。ドラマのシーンのように、わざと。

「こういうシーン、あるよね、よく」

「あるある」

 人気のない暗い場所まで来ると二人で砂浜に座って海を眺めた。月明かりに砂まみれの沙苗の素足が照らされていた。それに気づいて沙苗は手で砂を払った。湿った砂は綺麗には払いきれずに、まだらに素足に残っていた。

「汚れちゃった」と沙苗は独り言のように呟き「ふぅ」と息を吐いた。沈黙が続いた。凌には波の音と心臓の鼓動しか聞こえなかった。ドラマならここでキスとかするんだろうな、と凌は考えていたのだけれど、実際にそういう状況になってみると、そのきっかけというか、タイミングが全く分からなかった。このまま黙って座っているだけで、いいのだろうか、何か話をした方がいいのだろうか、と頭の中でぐるぐると考えを巡らせていることしか出来なかった。月明かりが水面に揺れて、二人を照らしていた。キラキラとした青白い光を、ただ見つめているだけの時間が過ぎていった。

「夏休みが終わったら、引っ越すの」と沙苗が言う。

「引っ越すって?」

「ルーマニア」

「ルーマニア、って?」

「外国」

凌は、沙苗が何を言っているのかよく理解できなかった。ただルーマニアと聞いてオリンピックでよく活躍していた国だと思っただけで、それがどこにあるのか知らなかったし、そこに引っ越すということが上手く想像できなかった。

「知ってる、オリンピックでよく出てきてた」

「そのルーマニアに引っ越すの。夏休みの終わりに。お父さんの転勤で」

凌は、ただ黙って聞いていることしかできなかった。こういう時の言葉が見つからなかった。まだ沙苗に告白もしていないし、これからどうしたらキスができるのか、とか考えていた頭ではルーマニアに引っ越すという事実を、どこに納めたらいいのか全く見当がつかなかった。

「聞いてる?佐久間くん」

「うん、聞いてる、けど」

「私、外国に引っ越すの、だから、しばらく会えなくなるの」

「うん」

「しばらく、ってどのくらいかもわからないの。もしかしたら、ずっとかもしれないし」

「うん」

「だから、何か言ってくれないの?」

「何かって、なんで、もうすぐじゃん、夏休みなんて」と凌は、意味のない言葉をただ並べていた。

「そう、すぐ。もっと早く言いたかったけど、ごめんなさい、言えなくて」

「言えなくて、って」

凌は沙苗を責めるつもりはなかったのだけれど、そんな言葉を発していた。

「ごめんなさい」と沙苗は、もう一度言って黙って俯いてしまった。凌は、俯いている沙苗の頬に口づけをした。そして、また黙ったままの時間が二人を包み込んだ。やがて空が白み始めて、月の轍も消えて、青い海が二人の前に広がっていた。その海をずっと進んでいけば、ルーマニアという国に行けるのだろうかと凌は、ぼんやり考えていた。その十日後に、沙苗は引っ越していった。凌の家のポストには、ルーマニアの住所と思われるアルファベットの文字と、『今度、遊びに来てね』という沙苗からのメッセージが書かれた手紙が入っていた。その時の凌には、ルーマニアになんてどうやったら行けるのか、想像もできなかったけれど、あとで世界地図でルーマニアのその住所を探してみようと思ってポケットに手紙を押し込んだ。でも、その後、世界地図を広げることもなく、ただ時間だけが過ぎていった。沙苗への思いや、夜の海や、月の轍の記憶はどんどん薄れていった。






夏の終わりに、夜、車を走らせて海へ向かう。助手席の沙苗は、窓の外をぼんやり眺めていて、もうずいぶん黙ったきりだ。機嫌が悪いわけではないことは知っている。カーステレオから流れる歌に合わせて鼻歌を歌っていたくらいだから。凌は片手でハンドルを握り、カーステレオの音量を調整する。さっきまで走っていた有料道路で少しヴォリュームをあげたのだけれど、いまはそれがうるさく感じていた。沙苗が好きだと言っていた女性ヴォーカルのCDを昨日買ってみていた。今日のドライブでは、その歌声がずっと車内に流れている。恋愛の歌を様々なシチュエーションと、わかりやすい言葉の歌詞で歌っているのが女性に共感されて、最近人気なんだよ、と沙苗は評論家のような解説をしていた。

「沙苗は?共感できる、って感じ?」

「そうね、でも、他人の恋愛はあくまでも他人事だから」

「ドライだね」

「だって、もうそんな歳じゃないから」

「そういうこと?」

「そうよ、いろんな恋愛を妄想してドキドキするような歳じゃないでしょ。佐久間くんは?どうなの?」

「どうって?」

「ドキドキする?」

「したり、しなかったり」

「なにそれ?」

「だから、ケースバイケース」

「するんだ?」

「まぁ」

 沙苗は、声にすると、ふぅーん、というような仕草をして、また窓の外に視線を移した。次の信号を右折すると突然目の前に水平線が広がるのだけれど、夜なのでどうなんだろうかと考えながら、凌はハンドルを切った。

「真っ暗だね、やっぱり」

「何が?」

「海が、見えない」

「そこ、海なの?」

「そう」

「月とか出てれば、よかったのにね」

「月?」

「月明かりで、轍ができるの、海の上に」

「ワダチ?」

「そういう歌があるの、『いつかは消えゆく月の轍が漂うまで』だっけなぁ」

「この人の歌?」

「いや、違う。もっと昔聞いてたから。十代の頃」

「月の轍かぁ」

「気に入った?」

「うん、いい言葉だね」

「今度、CD探しておく、たぶんまだ持ってると思うから」

沙苗はそう言うと窓を開けた。潮の香りがする湿った空気が車内に流れ込んで来ると、遠い記憶が鮮明に蘇ってきて、凌は少しだけドキドキした。沙苗も同じように覚えているのかどうかは、窓の外を眺める横顔からは読み取れなかった。


「ちょっと砂浜に降りてみる?」と凌は沙苗に言ってみた。

「でも、私、革のパンプスよ」

「僕も革靴だけど、素足になればいいじゃん」

「学生みたい。いいよ、行ってみようっ」と沙苗は軽く同意した。海の家が解体された砂浜は閑散としていて、台風が近づいているせいで生ぬるい風が吹いていた。片手にパンプスを持って沙苗は先に砂浜に降りて行った。長い髪が強い風になびく度に片手で押さえて、何か奇声を挙げていた。凌も革靴と靴下を車の脇に置いてから砂浜に降りて行った。素足で砂浜を歩くのなんて何年ぶりだろうか、こんな感触だったろうかと記憶をたどってみる。あの時、沙苗の手を引いて走った砂浜の感触を思い出そうとしてみたけれど、その遠い記憶にはたどり着けそうになかったので諦めた。思いのほか砂に足を取られて軽快に歩けない。それが、年齢のせいなのか砂の質のせいなのかはわからなかったけれど、昔みたいに沙苗の手を引いて走るなんて出来そうになかった。先を歩く沙苗に追いついて、横に立つと、

「ちょっと月が出てきそうよ」と海の方を指差して沙苗が言う。雲が流れて、時々月明かりが漏れてくる。

「もう少し月が低いと、月の轍が出来るのにね」

「いまでも、なんとなく轍っぽく見えるよ」

「ほんとはもっと、ちゃんと道のようになるのよ。海の向こうに導くような」

「そう」と凌は答えながら、目の前に広がる海をずっと進んでいけばルーマニアに行けるのだろうかと考えていた昔のことを思い出していた。

「ねぇ、キスしたの覚えてる?」

突然の質問に凌は驚く。

「覚えてるの?沙苗」

「当たり前でしょ、忘れるわけないでしょ」

「そっかぁ」

「ドキドキ、っていうか、私、もう固まっちゃって、身動き取れなかった、あの時は」

「僕もキスした後のことは、よく覚えてない。ただ空が明るくなってきて、この海をずっと行けばルーマニアに行けるのかなぁ、って考えてた」

「そんなこと考えてたの? 変なの」

「そう、ショックで頭がおかしくなってたんだよ、たぶん」

「そのくせ、何にも連絡くれなくなったじゃない」

「残酷だよな、高校生は」

「ほんと残酷」

しばらく沈黙が続いた。雲が僅かな月明かりさえも消し去り、目の前には黒く暗い海が広がっていた。

「今日、これからどうする?」と凌は尋ねる。

沙苗は少し考えてから

「明日も、朝からミーティングだから、送って、家まで」と答える。

「そう」

「なに、その残念そうな声」

「残念そうだった?」

「うん。とりあえず現実に戻らなくちゃね、とりあえずは」

「じゃあ、車に戻ろうか」と凌は沙苗に手を差し出してみた。沙苗はなんの躊躇もなく凌の手を握って車のあるところまで手を繋いで歩いた。

「砂だらけで、もうパンプス履けないから、このままでいい?」

「いいよ、マンションの前まで行くから」

「ありがとう」と沙苗は素足のまま助手席に乗り込んだ。






「何?この砂?」

と助手席に乗り込んだ香奈が言う。

「この前、ちょっと砂浜に行って」

「誰と?」

「ロケハン。カメラマンと」

「そう」

 香奈はそれで納得したようで凌はホッとする。一回りも年下の香奈と頻繁に会うようになったのは、この半年くらいのことで、香奈は時間ができると気まぐれに連絡をしてきて、一緒に食事に行ったりしている。凌の学生時代からの友達がカフェをやっていて、そこの常連客が香奈だった。いまだに独身を謳歌している凌に、その笠間という友達は、ことある度に女性を紹介してくれるのだった。ありがたいと言えばありがたい話ではあるのだけれど、付き合うことになるような関係にまで進むことはほとんどなかった。ただ香奈だけは、紹介された最初の時からなんとなく波長が合うと言うか、一緒にいて心地よく感じたので、付き合うまではいかないのだけれど、こうして頻繁に会うようになったのだった。香奈はフリーの編集者で、美容関係が専門で様々な女性誌で仕事をしているということなのだけれど、男性には縁のない世界なので詳しい仕事内容までは凌は知らない。香奈も音楽関係の映像を作っている凌の仕事に関しては「全く別世界で、よくわからない、日本の音楽にあんまり興味ないし」と言って関心を示さなかった。音楽関係の仕事をしている凌に近づいてくる多くの女性は、大抵、少しミーハーな興味を持ってくるのだけれど、香奈はそういう素振りが全くなく、そのさっぱりしたところが良かった。しかし今日のように助手席で「何?この砂?」というのを目の当たりにすると、そこはやはり女なんだと凌は思って、少しだけ面倒な気分になった。今日も「お腹が空いたから、何か食べに行かない?」と香奈から突然連絡が来た。ちょうど都内で打ち合わせが終わったタイミングだったので、そのまま香奈を車で拾って、少し郊外のトンカツ屋に行くことにした。「ガッツリ系がいい」と香奈が言う時は、焼肉ではなく、いつも行きつけのトンカツ屋に行くことにしている。焼肉だと煙の匂いが気になるという凌に対して、香奈は女性であっても煙の匂いはさほど気にしていないようで「焼肉でもいいんだけど」と前に言っていた。でも、助手席の砂は気になるらしい。

「飲んでいい?ビール」と香奈はトンカツ屋に着くなり、凌に尋ねる。

「どうぞ」

「すいませんねぇ」と香奈はいつもの決まり文句を言う。

「いつも車だと飲めないから、つらくない?」

「大丈夫、慣れだよ。外では飲まなくても平気になる。というより、外ではもう飲みたくない」

「そういうもの?」

「そういうものだよ」

「凌くんはさぁ、結婚とかしないの?」

香奈は一回りも年上の凌を、凌くん、と呼ぶ。呼ばれた当初は、違和感があったけれど、いまはもう慣れてしまって逆にしっくりきている。いまさら、凌さんとか、佐久間さんとか呼ばれてもこそばゆい感じがする。

「する気があったら、香奈ちゃんとこうやってご飯食べたりしないよ」

「そうなの?」

「婚活するでしょ」

「うそつき。そんなことしないくせに」

「しない。そういう香奈ちゃんも僕みたいなオヤジと過ごしている場合じゃないんじゃない?」

「いいの、私は」

「なんで?」

「なんでも」

「まぁ、いいけど。僕も香奈ちゃんからの誘いがなくなるとつまんないしね」

「そんなことないでしょ」

「なんで?」

「一緒に砂浜に行く相手がいるみたいだし」

「えっ?」

「図星?ロケハンなんて下手な嘘」

「正解」

「別に隠さなくてもいいのに。凌くんがほかの女性と会ってても気にしないよ、私は。でも、助手席くらいは綺麗にしておいて」

「了解」

香奈と話していると、どっちが年上なのか時々わからなくなる。助手席の砂の話は、香奈はすっかり信じ込んでいて終わったつもりだったのだけれど、どこで嘘だとわかってしまったのか凌には全く分からなかった。そこまで演技が下手だったとは思えないし、砂で汚れている理由にも無理がないと思っていた。

「なんでわかったの?嘘だって」

「だって凌くんが、あんな風に車の中を汚したままにするなんてありえないでしょ?それもカメラマンに汚されるなんてなおさらありえない。凌くんが許すわけない。汚したままでもいいと凌くんが思える相手が汚したの。そうじゃない?」

確かにここ数日、助手席の足元の砂を見るたびに、沙苗との夜のことをぼんやり思い出していたのだった。あえてすぐに洗車をせずに今日までそのままにしていたわけではないのだけれど、無意識に沙苗の存在を感じていたいと思っていたのかもしれなかった。香奈の言う通り、沙苗には汚されても、そのままでいい、と思っていたのだろう。

「汚したままでもいいと思える相手かぁ」と凌は、香奈の言葉を繰り返してみた。

「何しんみりしてんの?」

「いや、別にしんみりなんてしてないけど」

「してるよぉ、その人どんな人?凌くんの片思いとか?初恋の人とか?」

香奈はどこまでも鋭い。

「冴えてるね」

「私が冴えてるんじゃなくて、凌くんがわかりやすいだけじゃない?」

香奈はそう言って、ロースカツを美味しそうに頬張ってからライスも山盛り口に運んだ。凌は、最近、ロースカツは脂が重いと感じていてヒレカツと海老フライの盛り合わせにした。

「海老フライ、一切れ食べる?」とまだ口をもぐもぐさせている香奈に尋ねる。声が出せないらしく、大きく三回くらい頷いてニコニコしている。香奈の皿に大きな海老フライを一切れ置くと、ようやくさっき口に入れたものが飲み込めたようで「ありがとう」と嬉しそうに言った。こういうところは、なんだかまだ子供のようで可愛いと思う。とはいえ、香奈も二十代後半のはずで、結婚やその他、将来のことを考えていないわけではないと思う。その香奈の人生を自分は弄んでいないかと、凌は時々不安に思う時がある。口では、結婚なんてまだいい、と言っていても本当のところは凌にはわからない。現に、凌の周りにも独身を謳歌していたと思っていたらある日突然結婚すると言って、家庭に入ったり、仕事の量を減らしたりする女性が少なからずいた。出会いがあればそれが自然な成り行きだと凌は思う。だから香奈のその自然な成り行きを凌が堰き止めていないかと想像してしまうのだった。

「で、どんな人?私より年上だよね?」

「もちろん」

「よかったぁ」

「同い年だよ」

「幼馴染みとか?」

「いや、高校が一緒だった」

「それから続いてるの?」

「まさか」

「だよね」

香奈の質問に、なぜ律儀に答えているのか自分でも不思議に思いつつ、もしかしたら自分は誰かに沙苗のことを聞いて欲しいと思っていたのではないかと感じていた。香奈の質問はその後も続き、先週の砂浜での出来事までをわりと詳しく説明する結果となった。





高校二年の夏に沙苗が海外に引越しをしてから、凌は一度も沙苗には会っていなかった。時折、どこで何をしているのかとぼんやり考えることはあってもSNSで消息を調べたりすることはなく、二十年以上が過ぎていった。再会は、三ヶ月前の事だった。あるアーティストのプロモーションビデオで、今の東京のビル群を一望できるどこかの屋上で撮影をしたいという話になり、凌を含めスタッフ全員でめぼしいビルというビルに撮影利用の交渉をした。大手の不動産会社や大地主が所有するビルは安全上の理由で全て断られ、話を聞いてくれたのは、自社ビルとして所有している外資系の会社とベンチャー企業の数社だった。そのうちの一つの外資系の会社の広報担当として沙苗が現れた。最初の交渉のテーブルで名刺交換をして、お互いに名前をしばらく見てから、もしかして?という同じような表情で二人は顔を見合わせた。最初に口を開いたのは沙苗だった。

「佐久間くん?」

「沙苗?」

「うん」

「沙苗だよね?日本にいたんだ」

「うん、佐久間くん、変わらないね、久しぶり」

「変わったよ、ほら、白髪だらけ」

「私、おばさんになったでしょ?」

凌の中の沙苗は、高校二年の夏の砂浜で見た横顔で止まっていたので、目の前にいる沙苗と記憶の中の沙苗とがうまく結びついていかなかった。なので、歳をとったとか、おばさんになったという認識の仕方は出来なくて、ただ一目惚れに近い感覚で、綺麗な人だと思ったのが正直な感想だった。凌のイメージする外資系のオフィスにいる美人キャリアウーマンという出で立ちで、沙苗はそこに立っていた。ハイヒールに上品なスーツ、綺麗になびくロングヘアー。凌の業界にはあまりいないタイプ。沙苗でなかったら、近づくことはないと思った。

「黙ってるってことは、そう思ったのね」

「いや、そうじゃなくて、全然」

慌てている凌を、同行したアシスタントとレコード会社の担当者は、不思議そうな顔で見つめている。「高校の同級生でね」とだけ二人に言って、すぐに仕事の本題に入りたかった。このまま二十年振りに会った沙苗と何を話せばいいのかわからなかったし、同行した二人にこれ以上慌てている自分の姿を見せたくなかった。

「とりあえず、仕事のお話をしましょうか」と沙苗は席に着き、我々三人も会議テーブルを挟んで沙苗の向かい側に座った。予算や撮影現場の安全性など厄介な交渉になるだろうと予測して、レコード会社の担当者は詳細な撮影プランを書面にして用意してきていたのだけれど、沙苗からの最初の一言でそれらは無駄な労力を割いただけになった。

「基本的には、是非うちの屋上を使って頂きたい、というのが社長の意向です。社長はもともと若い頃、自分でもバンドをやっていてイギリスでレコードデビューもしたことのある人物です。ほとんど売れなかったと、本人は申してますが。なので、自分の会社のビルで有名なアーティストのビデオ撮影が行われることを非常に喜んでいます。うちの屋上からは、スカイツリーも東京タワーも六本木ヒルズも、その他、最近建ったばかりの様々なオフィスビルのほとんどが見えます。ビルの高さとしては、さほど階数はないのですが、この辺りは高台になっているので眺めは最高です。いま屋上は、ヘリポートになっていますのでフラットで余計なものは何もない状態です。撮影もしやすいかと思います。いかがでしょうか?よろしければ今からでもご案内して屋上を見ていただくことも可能です」沙苗は、そこまで話すとニコリと微笑んで見せた。その仕草は、日本人が自然に出来る類のものではなく、海外生活が長かったが故に身についたものだと思えた。我々三人は、特に返す言葉もなく

「ありがとうございます。是非、お願いします」と、とりあえずレコード会社の担当者は言って頭を下げた。その後、三人はヘルメットを渡され沙苗の後について屋上へと上がった。想像以上のロケーションで間違いなく良い映像が撮れると凌は思った。沙苗は、スーツ姿でヘルメットを被っていても、なんとなく様になっていた。その姿にぼんやり見とれていると、アシスタントの優里ちゃんに脇腹をつつかれて

「見過ぎですよ」と小声で注意された。

「では、そろそろ」と沙苗に引率された生徒のように我々は屋上を後にして、再び会議室へと戻った。その場で、撮影候補日や時間や使用に際して必要な手続きの確認などを済ませて、その日のミーティングは終わった。アシスタントの優里ちゃんとレコード会社の担当者には先に帰ってもらい、凌はビルのエントランス脇にあるカフェで沙苗とお茶をすることにした。

「ほんと、偶然、びっくりした、こんなことってあるのね」と席に着くと沙苗は周囲にも聞こえるくらいの大きな声で言ってから

「あっ、ちょっと声大きかった」少し照れたような表情をした。

「うん、いまだに信じられない、ほんとに沙苗だよね?」

「そうよ、水上沙苗よ」と、おどけてとってみせたポーズもモデルのようだと凌は思った。

「いつから?」

「この仕事は、一年前から」

「その前は?」

「三年くらい前に日本に戻ってきて、しばらくは、ぶらぶら何もしていなかったの」

「何も?住まいは?」

「父が残してくれた家があって、そこに」

「お父さんは?」

「最後はチューリッヒで亡くなって、それで私は日本に帰りたかったから帰ってきたの。母は父の近くに居たいからってチューリッヒに残ったわ。父の遺骨も向こうに」

「そうか。なんか不思議な感じがする。こうやって沙苗と話してるのが」

「私も。今まで海外で過ごしていた時間は夢であって現実じゃなかったような感じがするわ」

「一度も戻ってこなかった?」

「うん、一度も」

「ルーマニア以外は、どこに?」

「たくさんありすぎて、もう、ほぼヨーロッパ全部って思ってくれていいわ。お陰で自分でもわからないくらい何ヶ国語も話せるようになって、いまの会社みたいに、大抵の外資系企業では重宝がられるから、仕事の心配はなくなった」

「なるほど。僕とは別世界だ」

「佐久間くんは?高校の後は?」

「大学出て、音楽専門チャンネルの会社に就職して、最初は営業だったけど、しばらくして制作部門に移動になって。別に映像の専門的な勉強とかしてなかったんだけど、いわゆるプロデューサーのアシスタントとかやって、企画とかアイデア出しとか、現場の調整とかなんでもやってるうちに、なんとなく自分で制作の現場を仕切れるようになってね。そしたら運良く人気アーティストから制作依頼が来て、その作品で賞とか取っちゃって。それで、独立していままでずっと。もう十年くらい」

「すごい、社長ってこと?」

「アシスタントがひとりだけのね」

「さっきの優里ちゃん?」

「そう」

「今回の撮影が終わったら、ご飯でも行かない?」

「いいね。是非」

そうやって沙苗とプライベートで会うようになった。週末には車で出かけるようになり、先週はあの砂浜に寄ったのだった。






「それはさぁ、凌くんの片思いのやり直しってこと?」香奈の手には大きすぎる湯呑みを両手で包み込むように持ち、両肘をテーブルにつき、少し前のめりになって言う。

「やり直しかどうかはわからないけど」

「どうしたいの?凌くんは」

「どうしたいんだろう?自分でもまだわからない」

「応援するよ、一緒になりたいとかだったら」

「ありがとう」

香奈は食後のお茶を何杯もお代わりをしたので、店員さんは最後には急須ごとテーブルに置いていった。香奈は帰り際に

「今度また海に行くなら、素足の砂は綺麗に落としてから助手席に乗るように沙苗さんに言ってね」と言って手を振り、マンションのエントランスに消えていった。その言葉に何か香奈の思いが込められているのかどうかは、凌にはわからなかった。






沙苗と会うのは大抵、水曜日の夜か週末だった。沙苗の会社は、水曜日は定時退社が義務づけられていて、割と早い時間から会うことが出来た。週末は土日のどちらかだけ会うことにしていて二日間とも一緒にいることはなかった。それは、沙苗の希望で

「わがまま言うとね、休日のどっちか一日は、ひとりで過ごしたいの」とはっきりと凌に伝えてきた。凌も週末に仕事が入ることが割と多かったので、ちょうどいいという感覚で、その申し出を快く受け入れた。いつも一緒にいたいとか言われたら凌も距離を置いたかもしれない。いまの二人には、そのくらいが適切な距離感だと沙苗は感じていると理解しているのだけれど、本当のところはわからない。今週末はどうするのか、まだ連絡を取り合っていなかったので、凌は沙苗にメールを入れた。

___週末は、どんな予定?

すぐに返事が来て、

___土曜日に佐久間くんのうちにいっていい?

とあった。断る理由はなかったのだけれど、お互いにそれぞれの家に行くのは、それが初めてになる。なんとなく今までの距離感とは違って来るような予感がしたので少し考えてから返信をした。

___いいよ。でも、女性を迎い入れるのはもうずいぶん久しぶりだから、少し緊張するなぁ。

と返した。正しくは、今の部屋に女性と二人きりになったことはなかった。沙苗が初めてだと言うと逆に気を使わせてしまうかもしれないと思ってのことだった。すると、

___なんだ、初めてじゃないんだ。残念ー。

と帰ってくる。少しおどけているのだろうと思い

___もういい大人だから(笑)。待ってるよ。

と返して、沙苗から

___じゃあ、お昼くらいに。

とあり、

___了解。

と凌が返してそのやりとりは終わった。土曜日の正午過ぎにインターホンが鳴り、沙苗が買い物袋に沢山の食材を入れて現れた。

「ずいぶん買い込んだね」

「久しぶりにスーパーで買い物したから加減がわからなくて。一つ一つがファミリーサイズみたいで、そんなに種類は買ってないんだけどね」

「なるほどね。とりあえず上がって」

と沙苗をキッチンのある二階のリビングに案内した。

「一人じゃもったいない立派な家ね」と沙苗は部屋を見回して言う。

「そうかもね、それこそファミリーで住めるよ」

「私が転がり込んでも大丈夫ね」

「沙苗にはお父さんの家があるんでしょ?」

「うん、でも、古い一軒家だから、ひとりだとちょっと怖いの」

「深沢だよね?」

「うん」

「あの辺、豪邸多いよね」

「多いけど、けっこうみんな古くなってて、住んでる人もお年寄りが増えてきて、段々と世代交代が始まってる感じ。取り壊しも多いし」

「そっかぁ」

沙苗は買ってきた食材を手際よく冷蔵庫に収めて

「ちょっと休憩」と言ってダイニングの椅子に座った。この家に沙苗と二人きりでいるのが不思議でならないのだけれど、一方で、なんとなく沙苗がこの部屋に馴染んでいるようにも感じる。

「この家、いつ建てたの?」

「独立する少し前。サラリーマンじゃないとローン組めないからね。ちょうど賞を取って調子に乗ってた頃で、その勢いで」

「勢いでもすごいよ、こんな家」

「まぁ、家賃払うこと考えたら買ってよかったと思うけど、ローンはまだまだ残ってるから」沙苗は、本棚やレコードラックを一通りチェックして

「ねぇ、佐久間くんのやった作品見せてよ」と言う。沙苗が音楽や映像に関してどういう嗜好なのか想像がつかないので何を見せたらいいのか迷う。会社員時代の作品は、それこそアイドルやビジュアル系と呼ばれるものまで多岐にわたり、独立してからも思い通りに作れたものは少なく、低予算のインディーズものや、さほど売れなかったアーティストの方が数としては圧倒的に多い。

「雑多にいろんなものをやってきたから、どんなのがいいかなぁ」と沙苗に聞いてみた。

「自信作、と失敗作を一つずつ」と即座に答えが返ってくる。

「なるほど。なんか面接官みたいだなぁ」と凌は笑いながら答える。

「あまりにも会っていない期間が長かったから、今の、というか、本当の佐久間くんのことを私は知らないと思うの。だから、知りたいの」

「僕も同じだよ。沙苗が過ごしてきたこの二十数年のことを知りたい。けど知ってしまうことが怖い気もする。僕の中では、沙苗はいつまでも夏の砂浜で俯いている少女だから」

「もう少女じゃないわよ」

「わかってる。だから、あえてあの少女と今の君を結びつける必要もないんじゃないかとも思ったりもする。いまの君は、十分魅力的だし、懐かしくて美しい思い出がなくてもいいんじゃないかって」

「ありがとう・・・」沙苗は続けて何かを言いかけたようだったのだけれど、その言葉は発せられずに、代わりに凌のスマートフォンの着信音が鳴った。液晶画面には、香奈、とある。出るかどうか迷っていると「どうぞ」と沙苗は言って席を立ち、凌に背を向ける形で本棚の方に歩いて行った。

「もしもし」と凌が出ると

「凌くん、お腹空いたー、なんか食べに行かない?」と香奈の元気な声が響く。恐らく沙苗にも聞こえるくらいの大きさだ。

「今日は、無理だな、先約があるから」

と凌が小さい声で話すと

「あっ、ごめん、初恋?」と香奈は小さな声で言った。

「そう。また今度ね」

「お邪魔しました、かんばれっ」と言って香奈はすぐに電話を切った。

「誰もいないわけないよね」と沙苗は振り向きながら凌の目を悪戯な眼差しで見つめる。

「いや、友達。若い友達」

「凌くん、って呼ばれてるの?私も凌くんにしようかしら」

「いや、それはやめようよ。いまのままで」

「でも結婚したら私も佐久間よ、そしたらもう佐久間くんて呼べなくなるし」

「えっ」

「冗談よ、そんなにびっくりしなくても」

「ほんとに、今の娘は、友達」

「大丈夫よ、怒って帰ったりしないから」と沙苗は笑って言う。結局、その日は手元にある凌が手がけたミュージックビデオ作品を全て見ることになった。凌にとっては、懐かしかったり恥ずかしかったり、自画自賛したり自慢したい作品だったりと様々な思いが湧いてくるもの達なのだけれど、沙苗には全てが初めて目にするもののはずだった。いったいどんな風に沙苗の目には映っているだろうかと、時折、横目でその表情を覗いてみるのだけれど、ただ真剣に食い入るように見ているだけで、表情にこれと言った変化は見られなかった。かれこれ二時間くらい見続けて、凌は疲れてきたのでコーヒーでも淹れようかと席を立った時、沙苗が

「ここ、知ってる」と画面を見ながら呟いた。それは、いまから十年くらい前、独立して間もない頃にアイルランドにロケに行って撮影をした作品だった。朽ちた古城の跡が残る緩やかな丘を、女性アーティストがカメラに追われて走っている場面だった。

「アイルランドだけど」

「うん、この近くに住んでた」

「住んでたの?アイルランドに?」

「時々、休日にここでピクニックしたの。お弁当とか持って」

「本当に?いつくらいの話?」

「えっと、いまから十年くらい前かなぁ」

「これもそのくらいに撮ったやつだよ」

「じゃあ、確実に、私、居たわ。三年間住んでたから」

「偶然にしては、怖いね、なんか」

「うん」

「この時は、メイキング映像も作ったから、このPVには使ってない映像もあるよ、確か。普通に街中を歩いていたり、買い物したりとか」

「いま、あるの?ここに?」

「あると思う、そこのロフトに」と凌は、リビングのさらに上の天井に近いところに作った小さなロフトスペースを指差した。

「見ていい?」と沙苗が少し真剣な眼差しで凌に訴えかけるように言う。

「じゃあ、ちょっと探してくる」と凌は、ハシゴを登りロフトに上がった。しばらく上がっていなかったので、ロフト全体にうっすらと埃が被っていた。しかし、目的のビデオ素材はすぐに見つかり、PVは止めてメイキング素材の映像を再生した。素材映像には当時の自分の姿も映っていて、驚くほどさえない服装とセンスのない帽子を被っていて驚いた。

「ダサいね、僕」

「当時は、みんなあんな感じだったんじゃない?」

「にしても、ダサい」

沙苗は、さっきよりさらに真剣に画面を見ている。何かを見落とすまいと、防犯カメラの映像をチェックするかのように。

「左下にある日付とか時間は、合ってるの?」

「合ってるよ、メイキングに日付とかもそのまま入れて、リアリティを出そうという話だったから、現地時間に合わせてるけど、なんで?」

「うん」と、沙苗は小さく返事をして、また画面を見つめ続けた。明らかに、何かが映っていないかと探しているようだった。

「何か映ってるの?」

「ハーグ」

「ハーグ?誰?」

「犬。飼っていたの、ずっと」

「犬かぁ」

「でも、いなくなっちゃって」

「それが、この日なの?」

「この前の日かも、朝、お散歩に連れて行こうかと思ったらいなくなってた」

「そう。どんな犬?」

「雑種なんだけど、白い鬣みたいのが、首の周りにあってね」

「ん?待って、なんかあったなぁ、犬の映像、どれだっけなぁ」凌は、しばらく記憶を辿り、荒いフィルムの映像に映る犬を思い出した。

「わかった。今見てるビデオじゃなくて、カメラマンがプライベートで昔の8ミリフィルムを回してて、そこに映ってたと思う、白い鬣の犬が」

「ほんとに?あるの?そのフィルム?ここに」

「それは、さすがに持ってないけど、カメラマンに聞くことは出来るよ。フィルムもまだ持ってれば借りれると思うけど」

「佐久間くん、お願い」

沙苗の真剣な表情に圧されて、その場でカメラマンに電話をした。捨ててはいないから探せばあるはずと言うので、お願いした。一週間くらい待ってほしいということだったので、連絡を貰う約束をして電話を切った。

「よかったね、多分、見つかるよ」

「ありがとう」沙苗は、その犬のことを思い出しているのか、どこか遠い目をしていた。そんなことがあって、それ以降はもう凌の作品を見続けるテンションではなくなってしまったので、二人で夕食を作ることにした。作りながら、沙苗にハーグのことを少し聞いてみた。

「ハーグは、なんでいなくなっちゃったんだろうね?」

「わからないけど、ルーマニアからずっと一緒だったの」

「ほんとに?」

「私が慣れない海外の生活で、淋しいだろうからって、父がプレゼントしてくれて。だから、アイルランドでいなくなった時はもう十五歳くらいだったのかなぁ。ずいぶんなおばあちゃん犬よ。だから、そんな遠くまで歩けるはずはないんだけど」

「そっかぁ」

「だからね、父と母は、ハーグはもう自分の最期を知って、どこか人目のつかないところでひっそりと天国に行ったんだって慰めてくれたけど。私がちゃんと様子を見ていれば、最後を看取ってあげれたんじゃないかって」

「まぁ、とにかく、カメラマンの連絡を待とうよ。フィルムが手に入ったらここで見よう」凌はそう言って、なんとか話題を変えようと話のネタを考えてみたのだけれど、互いに共通する出来事があまりにも少ないことに改めて気づいたのだった。それでも二人で夢中で料理をして食べてお酒を飲んで、ということを繰り返していると時間は自然と前に進んでいった。凌も沙苗も、それなりに料理は出来て、味の嗜好も結構相性がいいと互いに感じていた。食の好みが違うと、なかなかつらいものがあることは、二人ともそれなりに年齢を重ねているので身をもって知っている。そこが合っていることを知れたことが、その日の二人の大きな収穫だった。終電の時間もすでに過ぎていたので、沙苗は泊まっていくつもりなのだろうと凌は思っていたのだけれど、沙苗はキッチンを片付け終わると

「佐久間くん、タクシー呼んでくれる?」と言った。凌は一瞬、「泊まっていけば」と言いかけたのだけれど、沙苗の言い方があまりにも事務的だったので、踏みとどまり

「了解」とだけ答え、タクシー会社に電話をした。帰り際、沙苗は

「ハーグのことお願いね」と言ってタクシーに乗り込んだ。

「了解、おやすみ」と凌は軽く手を振り、沙苗も「おやすみなさい」と小さな声で応え、タクシーは深夜二時の街に消えていった。






「久しぶり、どうぞ」と笠間に言われる。週末を沙苗と過ごすことが多くなって、笠間のカフェにくるのは、ずいぶん久しぶりだった。

「香奈ちゃんからちょっと聞いたけど」と笠間は、さっそく沙苗の話題に入る。

「うん、どんな話になってる?」

「凌くんは初恋のやり直しをしている、って。どういうこと?それ」

「まぁ、そのままだけど」

香奈は笠間にどんな風に話をしているのだろうか。何をどこまで話しているのだろうか。想像していても仕方がないので、そのまま質問をする。

「香奈ちゃん、何をどこまで話してる?」

「さぁ、全体像を知っているわけじゃないから、どこまでかは知らないけど、この前の土曜日は、凌くんに電話したら、振られたって、ここに来たよ」そうか、あの電話の後、香奈はここに来たのか。

「そうか。すごい偶然で、高校の時に好きだった娘に会ったんだよ、二十年ぶりに。正確には二十年以上」

「だからって、なかなか親密にはならないでしょ、いまさら」

「普通は、そうかも知れないけど、今回はちょっと、ちがって」凌自身も、こんなに沙苗に惹かれることになっている今の状態を上手く受け止めきれていないので、笠間にそれを正確に伝えられるとは思えなかった。

「偶然って思えるかも知れないけど、どこかに繋がることになるきっかけが大抵は隠れているんだよ、そういう場合」

「そうなのか?」

「気がつけなかっただけでね」

会わずにきた二十数年の期間に、そういう出来事があったとは凌には思えなかった。それは、笠間が言うように、ただ気がつけなかっただけのことなのだろうか。だとしたら、いつ、なにが二人をこうして再会するように仕向けたのだろうか。

「あっ、香奈ちゃん、来たよ」と笠間がガラス窓の方に目を向ける。外から香奈が手を振っている。

「凌くん、いたんだ」

「いまさっき、来たところ」

「どう?沙苗さんとは」

「ずばり訊くね」

「他に訊き方ある?」香奈はいつでも上機嫌だ。今日もいつもと変わらず、身体全体からパワーというか何か上に向かっていくオーラのようなものを発している気がする。それはまだ二十代という年齢によるものなのか、香奈自身が持っている個性なのか、いずれにしても凌には少し羨ましいものだった。四十歳を超えた凌は、いままで自分が上機嫌で上向きだと感じたことはなかった。それなりに好きな仕事もしてきて、端から見れば順調な人生だと思われていたとしても、凌自身は、常に一番欲しいと思ったものを手にすることができずにきた人生だと感じている。それは、沙苗との関係にも当てはまる。沙苗をいつまでも手にすることが出来なかった人生。それがいままでの凌の人生だった。再会した今が、それを変える時だと感じていた。その為には、香奈のようパワーが必要なことも。

「香奈ちゃん、本当に応援してくれる?」と凌はストレートに訊いてみた。

「いきなり、なに?」

「もう沙苗と離れるわけにはいかないんだ」

「どうしたの?凌くん、大丈夫?」

「大丈夫だよ、この歳になってようやくわかった。出会ってしまったらもう仕方がない」

「ようやくかぁ」

「そう。だから香奈ちゃん、これからどうすればいい?」

「私は、沙苗さんじゃないから、知らない。彼女がどうしてほしいかなんて。でも」

「でも、なに?」

「きっとね、沙苗さん、またどっかに行っちゃうよ、早くしないと」

「それは、困る。またどこか知らない国に行ってしまって会えなくなるのは」

「だったら、とにかく急ぐことね」

なんだかわからないけれど、香奈の言うことは的を射ていると思う。ハーグの映像を待たずに沙苗と会った方がいいのだろうか。でも沙苗は今、ハーグのことで頭がいっぱいのはずで、そのことを脇に置いて、自分とのことを進めるのは違う気がした。ハーグのことと一緒に、この先のことも話をしようと思う。その日の夜、カメラマンから連絡があり、フィルムが見つかったという。ただ、いつもならオリジナルフィルムからデジタルデータに変換して保存しているのだけれど、ハーグの映像のデジタルデータが見つからないと言う。フィルムを投影すれば見れるのだけれど、あえて古い機材とそれ専用のフィルムで撮影しているので、何度も映写機にかけると破損してしまう可能性があると言う。万が一のために、映写機を凌の家に持っていって見るようにした方がいいのでは、と提案してくれた。凌には専門的なことはわからないので、カメラマンの提案通りにうちに来てもらうことにした。沙苗には、ざっと経緯を説明して、カメラマンと三人で今週末にうちで見ることになった。






「とりあえず、出来るだけ暗くして」とカメラマンの高井が映写機とスクリーンをセットしながら言う。凌はリビングの大きな窓はシャッターをしめ、小窓にはダンボールを当てて光を遮った。

「全部で二分半くらいだから。音声は無し」

と高井が言う。

「えっ、音はないんですか?」と沙苗。

「古い機材だから。無声映画ってあるでしょ?あれと一緒だと思ってくれれば」

「なるほど」

「じゃあ、いいですか?回しますよ」と高井は映写機の再生スイッチを入れた。カラカラと回転音がして、スクリーンに光が投影される。やがて、アイルランドの街中を歩く犬の姿が現れる。

「ハーグ」と言う沙苗の声がした。映像の中のハーグは、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来て、やがて止まったかと思うと、カメラを真っ直ぐに見つめて、何度も吠えていた。音声はないのだけれど、ハーグの吠える声が聞こえるようだった。吠え続けている途中でフィルムは終わった。沙苗は黙っている。高井と凌もしばらく言葉が見つからなかった。

「ハーグね、間違いなく」と沙苗が小さな声で言う。

「そうなんだ」

「何をしていたのかなぁ、ハーグ。何であんなに吠えていたのかなぁ。もう、歳だったから吠えることなんてなくなっていたのに」

「確かに、必死に吠えていたよね。何かを伝えようとしているみたいに」

「うん。高井さん、あの後、ハーグはどこへいったの?」

「はっきりとは覚えていないんだけど、歩いて来た方向に戻っていった気がするけど、何度も振り返りながら」

「この時、佐久間くんはどこにいたの?」

「高井くんのすぐ後ろから見てた」

「そっかぁ。高井さん、ありがとうございます。ハーグに会えて嬉しかったわ」

「いえ。たぶん、そんなにフィルムは痛んでいないみたいなので帰ってデジタルにしてDVDに焼いて送りますよ」

「ありがとう」と沙苗はキッチンに行って何か飲み物を用意しているようだった。高井は機材とスクリーンを手際よく片付けながら

「凌さんもDVD焼きますか?」

と尋ねる。

「お願いしようかな」

「わかりました。でも、沙苗さん、美人ですね」と高井は凌の耳元で囁いて、

「じゃあ、僕は帰りますので」とキッチンの沙苗に声をかけて、重い機材を抱え二階のリビングから一階の玄関へと階段を下り始めた。

「お茶いれてますけど」という沙苗の声に、

「ありがとうございます、大丈夫です」と言って高井は帰っていった。二人きりになると何を話したらいいのか戸惑う。沙苗は、ハーグの姿を見て、どこか心ここに在らずといった表情でお茶を飲んでいる。夕食にするには、まだ少し早い時間だし、お酒を飲む気分でもなかった。

「沙苗、また海に行かない?」

「今から?」

「うん。この前のあたりだったら一時間ちょっとで行けるから。どう?」

「そうね、この部屋にいるとずっとハーグのこと考えちゃうし。気分転換しよっか」

「じゃあ、すぐ出よう」

「うん。そういえば、ちょうど月の轍の歌のCD持って来たんだ。これ聴きながら行こっ」

沙苗が助手席に乗り込む時に、香奈の言った言葉を思い出す。「今度また海に行くなら、素足の砂は綺麗に落としてから助手席に乗るように沙苗さんに言ってね」と。今日も砂浜を素足で歩くつもりだった。そして、二人の未来について話が出来ればいいと、凌は考えていた。海が近づくにつれて、自分が緊張していることに気付いていた。何からどう話をすればいいのか、考え始めると言葉が見つからなかった。

「今日は、雲がないから月の轍が綺麗に見えるかもね」とCDに合わせて鼻歌を歌いながら沙苗がいう。

「この月の轍の曲はなんていうタイトル?」と凌は尋ねる。沙苗は、CDの裏を見ながら

「素足が誘う午後」と答え

「またビーサンないから、私たちも素足ね」と嬉しそうに言った。

この前来た時よりも海は穏やかで、夏の気配はもうどこにも無く、山の方から秋の風が流れて来ていた。砂浜に降りる手前で沙苗は立ち止まる。風になびく髪から微かに甘い香りがする。

「ねぇ、ほら、轍、綺麗よ」

目の前の海に、月の灯りが真っ直ぐな道を作っている。その灯りに導かれるように砂浜に降りる。この前のように素足になって。ひんやりとした砂の感触が確実に季節が動いた事を知らせる。沙苗は水際まで行って、時折打ち寄せる波と追いかけっこをするように走ったりしている。まるで少女のようだと凌は思う。スカートの裾を少し濡らして凌のところまで戻ってきて

「やっぱり、水、冷たいよ、夏とは違うね。ちょっと持ってて」と左手に持っていた革のパンプスを凌に渡す。沙苗が濡れたスカートの裾を絞ると水が数滴落ちた。

「結構、濡れちゃった」

「暗いからよくわからないけど」

「そのうち乾くか。ありがとう」と言ってパンプスを凌から受け取って

「あの辺に座る?」と階段になっている堤防の方に歩き出した。砂に足を取られてよろけそうになった沙苗の腕を、凌は反射的に掴み、そのまま抱き寄せた。しかし凌の腕の中に沙苗がいたのは一緒で「ありがとう」と言ってするりと腕の中からすり抜けた。凌は照れ隠しに「逃げられた」ときちんと沙苗に聞こえるように笑いながら言う。

「逃げてやった」と沙苗もおどけて見せてくれて、その場の空気は気まずくならずに済んだ。階段に座ると沙苗が話し始める。

「今の会社ね、一年契約だから、もうすぐ更新なの。続けるかやめるか決めないと」

凌は、香奈の言った通りだと思う。沙苗はまたどこかへ行ってしまうのだろうか。

「やめるつもり?」

「どうしよっか?」

「僕に訊いてる?」

「うん、佐久間くん、どうしてほしい?」突然の質問に凌は戸惑う。答えは決まっている、このまま東京にいてほしい。それだけだ。でも、それをどう伝えたらいいのか迷う。会社に残ることは、東京にいるということだけれど、やめることイコール東京を去るということにはならないと、咄嗟に思った。

「やめてもやめなくもいい。近くに居てくれれば」凌は、そのままを口にした。

「えっ、それどういうこと?」

「そのままの意味だよ」

「なんか、それ、告白にも聞こえるけど」

「そのつもりだよ。もうどこにも行かないでほしいと思っている。こうして再会したんだから。今度は後悔したくない。あの時、高校の夏に、僕は沙苗に告白するつもりだったんだ。そして、どうやってキスをしよう、なんて考えてた。まさか外国に行くなんていう話になるなんて考えてもいなかった。でも、現実は、頬にキスをして、何も言えずに別れてしまった。そして、そのまま二十年以上経ってしまって、今がある。過ぎて行ってしまった二十年は、もう仕方がない。いまさらやり直したり取り戻せたりするわけじゃないから。でも、これから先の時間は沙苗と一緒にいたいと思っている。告白以外の何物でもないね、これは」沙苗は黙ったまま聞いている。

「ごめん、ちょっと一方的に話し過ぎた」

「いいの、ありがとう、嬉しくて、言葉が見つからないだけだから。まわりくどい質問してごめんね。私も素直に、一緒にいたいって言えばよかったのにね」

月はさっきよりも水平線の近くにあって、青く煌めく轍を作っている。凌は、ようやく言えなかった思いを口にすることが出来て、身体全体がふわふわと海の上を漂っているような感覚がしていた。いまなら、あの轍の上を歩いて進んでいけそうだと。

「ずっと、考えてたんだけど」と沙苗が再び話し始める。

「うん」

「ハーグが、なんであんな風にカメラに向かって吠えていたのかって」

「うん」

「本当は、ハーグはカメラに向かって吠えていたんじゃないんじゃないかなぁ」

「どういうこと?」

「佐久間くんに向かって吠えていたの、きっと」

「僕に?」

「そう、あの時、カメラのすぐ後ろにいた佐久間くんに向かって。正直言うとね、ハーグが初めて私のところに来た時、この仔犬を佐久間くんだと思おうって決めたの。そうすればいつでも佐久間くんと一緒だって思えるから。会えなくても寂しくないと。だから毎日ハーグを佐久間くんだと思っていろんな話をしていたの。その日の些細な出来事とかをね。佐久間くんの知らない私をハーグは全部知っているってことね。そんなことを十五年もしていたらハーグは、もう佐久間くん同然だし、佐久間くんのことはなんでもわかるようになっていたんじゃないかな、きっと。そうしたら突然、佐久間くんが、いつもハーグが散歩したり遊んだりしているところに現れたの。ハーグは気づいたのよ、きっと、私が思い続けていた佐久間くんとは、この人なんだと。なんて、ありえない話だけど。それで私の目を盗んで、佐久間くんを呼びに行ったのよ。沙苗はここにいるよ、付いて来てって。なんてね」

「それで、ずっと吠えていたのか」

「妄想よ、私の。でも、いつも吠えないハーグがあんな風になるなんて、そのくらいの理由があってもおかしくないんじゃないかって」

「僕が気づいてあげていたら、あの時、沙苗に会えたのかも?」

「でも、いいわ。いまこうして一緒なんだから」

車に戻り、沙苗は助手席側のドアを開けて

「また、素足のままでいい?」と尋ねる。凌は一瞬、香奈のことを思ったのだけれど

「いいよ、そのままで」と答え、沙苗の素足に付いた砂が助手席の足元に落ちた。 






都内で打ち合わせがあって、空き時間ができたので香奈に電話をしてみた。

「珍しい」開口一番に香奈はそう言う。

「凌だけど」

「知ってる。どうしたの?」

「お茶でもどうかと思って。報告もあるし」

「あっ、わかった。なんかいい話っぽい。どこにいるの?」

「表参道」

「じゃあ、行く。私、お腹空いてるから、まい泉でもいい?」

「またトンカツ?」

「だめ?」

「いいよ、じゃあ、二時くらい?」

「了解ー、あとでねー」

と香奈は電話を切る。やはりいつも通り上向きなオーラだった。ロースカツを頬張る香奈を前に、沙苗に告白したことを伝える。詳しい会話のやりとりは省いて、事実と結果だけを簡潔に。

「やったね、おめでとー」口にライスを頬張ったまま香奈は言う。

「ありがとう。香奈ちゃんのアドバイス通り急いで良かった。ちょうど今の会社との契約の更新が迫っていたみたいで、どうしようかって言ってて」

「恩人ね、わたし」

「トンカツおごるよ」

「それだけ?」

「冗談、ちゃんとお礼するよ」

「じゃあ、考えとく。欲しいもの。私からも、相談」

「何?」

「お姉ちゃんちでね、仔犬が生まれたの、三匹。見て、可愛いでしょ」と香奈はスマホの写真を凌に見せる。白くてコロコロした仔犬が、お母さん犬のお腹のあたりで眠っている。

「誰か、貰ってくれる人いない?私も飼いたいけど、今のマンションだと無理だから。知り合いとかで、いたら、教えて。一応、ちゃんと面倒見てくれる人かどうか、お姉ちゃんが会って決めることにはなるんだけど」

凌の頭の中をハーグのことがよぎる。ハーグも沙苗のところに来た時はこんな感じの仔犬だったのだろうかと。

「その写真、送ってくれる?ちょっとあてがあるから聞いてみるよ。ちなみに犬種は何?」

「ミックスよ、雑種。ヨーロッパの方のなんとかっていうのと、柴が混ざってるとか言ってたけど、詳しく知りたい?」

「いや、大丈夫。その写真だけで」凌の心の中では、もう沙苗にプレゼントして、みんなで一緒に暮らすことに決めていた。ハーグと名付けることも、沙苗が許せばそうしようと思った。





沙苗は、会社の契約を更新せず「失業保険を貰って少しのんびりする」と連絡をしてきた。この前、砂浜で告白をして、二人のこれからが見えてきたはずなのだけれど、凌は、まだ沙苗がどこかに行ってしまうのではないかという薄っすらとした不安を抱えていた。それは、きちんと籍を入れて一緒に住み始めれば消えるものだと思えるのかと言えば、そういうものでもない気がしている。もし沙苗に、そんな不安を口にしたとしても恐らく、大丈夫よ、どこにも行かないわ、と言うことはわかっている。それでも、と凌は思う。ハーグを飼うことは、そんな不安を少し和らげてくれるのでないかと思ったりもしている。早く仔犬の写真を見せて、沙苗の喜ぶ顔が見たいと思い、夕食の誘いのメールを入れる。この先、平日は、ほぼ毎日送別会の予定があり、確実なのは今度の土日だと返信が来る。そんなには待てない、というのが本心だけれど仕方がないと思わなくてはならないと気持ちを抑える。送別会終わりの深夜に会おうと思えば会えるだろうけれど、もう少し健全な時間に話をした方がいいように思う。土曜日の昼間に約束をして、香奈には、しばらく返事を待ってもらうようにお願いをした。

「いいけど、他にも欲しいって人がいたら一匹だけ残して、先に渡しちゃうかもよ?選べなくなるけどいい?」

「それはそれで縁だから」と凌は、根拠はないのだけれど、ハーグとなる仔犬はちゃんと残ってくれる気がしていた。連日の送別会でぐったりしている沙苗が来たのは、土曜日の午後三時前だった。

「ごめんなさい、起きれなかった」

「お疲れ様、お昼は食べた?」

「何も、まだ、何かある?食べ物」

「お昼に買ったサンドウィッチなら」

「それで、いいわ。いい?貰っちゃって」

「いいよ、コーヒー淹れるよ」

「ありがとう」

沙苗は、本当に疲れているようだった。

「外資系なのに、こういうところは日本人ぽいの」

「日本人ぽい?」

「送別会を名目にしてただ飲み会したいだけ、ほとんどの人は」

「断ればいいのに」

「難しいわ、あっちを断ってこっちは行くとか出来ないし、中には本当にお世話になった人もいるしね」

「そうね、それに男どもはみんな沙苗と飲みたいんだよ、きっと」

「こんなアラフォーと?」

「アラフォーだから。いまの若い子はお酒自体飲まないでしょ?」

「そうなの、来るのはほとんどおじさん達」

「でも、もう終わったんでしょ?」

「うん、今週で終わったから。来週からはのんびりよ」

沙苗はサンドウィッチの残りをペロリと食べきって、コーヒーカップだけを持ってソファーに沈み込むように座った。たぶん話しかけなければ、そのままうたた寝をしてしまいそうだった。とりあえずカメラマンの高井からこの前のハーグのDVDが届いていたので、沙苗の分を忘れないうちにと思い渡した。

「流してくれる?そのテレビで見れる?」

「うん、いいの?」

「大丈夫よ、泣いたりしないから」と沙苗は軽く笑いながら言う。再生を始めると沙苗はすぐに寝息をたてて寝てしまった。凌は、リピート再生で何度もハーグの吠える姿を一人で繰り返し見ていた。そうすればハーグが伝えようとしていたことがわかるかもしれないと思って。無音の白黒画面の中でハーグは必死に吠えている。カメラの方をじっと見ながら。いや、そうではなくカメラの後ろの自分に向かって。でも、ハーグが伝えようとしていることは、やはり凌にはわからない。それがもし、沙苗の居場所を伝えているのならば、ハーグは僕に沙苗と会って、どうして欲しかったのだろうか。アイルランドの田舎町で、十五年ぶりに会う初恋の相手。突然、目の前に現れた沙苗に、自分は何ができただろうか?そこまで想像してみる。告げられなかった想いを口に出来ただろうか?会いたかったと抱き寄せて口づけが出来ただろうか?どれも無理だ。もし会っていたとしたら、また、想いを告げられずに、また別れを繰り返すだけだったに違いない。そうなっていたら、今の二人もなかったかもしれないと思う。会えなくて良かったのだ、あの時は。今こうして、隣には眠る沙苗がいるのだから。スマホにある仔犬の写真とテレビの中で吠えているハーグを見比べてみる。この小さな仔犬が、ハーグのように成長する姿はまだ想像できない。仔犬は、まだモコモコとした白い塊でしかない。隣で眠っていた沙苗が、いつのまにか起きていて寝ぼけたような声で言う。

「ハーグね」

「うん、吠えてるよ」

「仔犬の時のハーグ」

「これ?」

「まん丸で小さかったの。ふわふわの白い毛に覆われてて」

「沙苗、これは、ハーグじゃないよ」

「なに?」

「この犬を飼おうかと思って」

沙苗は、驚いたような顔をして沈み込んだ体を起こして、凌のスマホの写真に顔を近づける。

「ハーグそっくりよ、でも」

「そうなんだ」

「どうしたの?この仔犬たち」と尋ねる沙苗に、香奈のお姉さんが飼い主を探していることと、三匹のうち二匹は、もしかしたらもう引き取り手が決まっているかもしれないことなどを説明した。

「この仔がハーグよ」と沙苗は、右端に写っている一番小さな仔犬を指差した。

「一緒に暮らすことで、いい?」

「もちろんよ、名前もハーグよ」

「香奈に連絡してみる、すぐに」

凌は、香奈に電話をかける。

「もしもしー、凌くん?」と大きな声が聞こえる。隣の沙苗にも聞こえたようで、飲み込もうとしていたコーヒーにむせていた。凌が、一番右の子がいいんだけど、と言うと

「ほんとにー?ちょうどその子が残ってる」と香奈は驚いてさらに声が大きくなる。沙苗も隣で驚いているかと思い視線を向けると、当然だと言わんばかりの表情で頷いていた。すぐに迎えに行くことにして、翌日の日曜日に香奈と三人で香奈のお姉さんのうちに行くことになった。


 日曜日、沙苗のマンションに寄ってから香奈を迎えに行く。沙苗が香奈に会うのは初めてだったので、凌は少し緊張した。香奈のマンションのエントランスで、お互いに自己紹介をしあって、ひとしきりぎこちない会話が続いたのだけれど、香奈が

「私、凌くん、って呼んでるんですが、いいですか?」と沙苗に尋ねてから、砕けた会話の流れになっていった。

「私は、佐久間くん、なの。もともと同級生だったから。でも、結婚したら、佐久間くんは変でしょ?だから、私も、香奈ちゃんみたいに、凌くん、でいいって言ったら、嫌だって」

「なんで、嫌なの?」と香奈が凌に訊いてくる。

「なんとなく、違和感がある」

「慣れるよ。そしたらさぁ、私が、凌くん、じゃなくて、佐久間さん、にするから、沙苗さんが、凌くん、にすればいいんだよ、ね」

「わざわざ決めなくてもいいよ、そのうち自然と決まってくるもんだよ」

「そうかなぁ、ねえ、沙苗さん」と香奈は沙苗に同意を求める。

「凌くん、で統一しよっ、ねっ、香奈ちゃんは、いままで通り、私も凌くんにする。いい?」

「賛成!」と香奈。

「なんでも、いいよ、もう」と凌は二人を車に乗せる。沙苗は

「私、香奈ちゃんと話したいから後ろでいい?」と言い、香奈と二人で後部座席に座り、まるで凌が二人の選任運転手のような図柄になった。

「じゃあ、凌くん、安全運転でお願いします」と沙苗がわざとおどけて言う。

「なんか、いい感じ」と香奈も楽しそうだった。走り出すとすぐに凌のスマホからメールの着信音がした。信号待ちでメールをチェックすると、後部座席の香奈からで

___沙苗さん、すごい美人!

とだけあった。ミラー越しに香奈を見ると、いたずらそうな視線を凌に向けていた。後部座席で女性二人は、何を話しているのかは聞き取れないのだけれど、ずっとおしゃべりをしている。仲良くなってくれたようで、凌はホッとする。ナビの言う通りに三十分くらい走ると香奈のお姉さんの家に着いて、香奈以上に元気でさっぱりとしたお姉さんから、これと言った面接めいたこともなく、あっさりと仔犬を引き取り、ハーグはその日から凌のうちの家族となった。沙苗が正式に引っ越してくるまでは、ほぼ凌が世話をすることになった。日中、沙苗が用事がないときは凌の家に来て、ハーグと一緒にいてもらって凌が仕事に出ることもあるのだけれど、それ以外は、凌とハーグは常に一緒にいる。犬を飼うのが初めての凌は、沙苗にしつけの仕方を教わり、わからないことはネットで調べたりして、ハーグとの時間を楽しんで過ごしていた。ハーグとの生活が始まって二週間くらいが経った頃、沙苗がチューリッヒにいるお母さんに会いに行ってくることになった。次の仕事を始めることになると、時間が取れなくなるかもしれないから、今のうちにと言う。

「籍を入れて一緒に住む前にお母さんに報告してくるね、お父さんのお墓にも。今回は一人で行くけど、次は一緒に行こうね。お母さんも、もう歳だから、そんなにのんびりはしていられないんだけど」

「わかった、来年には行こうよ」

「うん、そう言っておく。一週間だけハーグと二人で待ってて」

「ハーグを沙苗だと思って、毎日の出来事を報告するよ」

「昔の私と一緒ね」

「十五年は無理だけど、一週間なら平気だよ」凌はそう言いながらも、沙苗がどこか遠くに行ってしまうという、いつもの不安が頭をよぎる。もし、今、沙苗がいなくなったら、凌は、沙苗が昔してきたようにハーグと毎日を過ごして、いつか会える日を待ち続けることになるのだと思う。そして、また同じように離れ離れの二十年が過ぎていく。まさかとは思いつつも、旅の準備をしている沙苗をチラチラと目で追ってしまう。

「しつこいようだけど、帰って来てね、必ず」

「大丈夫よ、大丈夫」と言う沙苗にハーグも鼻を近づけて何かを告げているようだった。

「ハーグ、凌くんを頼んだわよ」沙苗はハーグにだけ聞こえるように、そう囁いたのを凌は聞き逃さなかった。






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by ikanika | 2018-08-28 13:22 | Comments(0)


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