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バックシート

昨年の秋以来ですが、

小説をアップします。

秋以降、ずっと書いていて、

今回の物をふくめて三編書き上がっています。

全て大体、五万字前後の今までよりも少し長い物です。

原稿用紙で言うと、100枚から150枚くらいですね。

今までは、少しずつ連載というような形でアップしていましたが、

今回は、一回で最後まで掲載します。


「バックシート」は、

カフェを舞台に、様々な人が登場し、

それぞれの物語が綴られ、

そして、それぞれの物語が少しずつリンクしています。


少し長いので、

お時間のあるときに、

少しずつ読み進めてみてください。


カフェが舞台ですが、あくまでフィクションです。

イカニカでの出来事ではございませんので悪しからず。

ご感想などありましたら、

聞かせてくれると嬉しいです。

では。


cafeイカニカ

平井康二

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バックシート

                                           



 沙夜子は、夜勤明けの午後は必ずマスターのごはんを食べることにしている。カフェに着くと小さな声で「こんにちは」と言い、いつもの席に着き「ごはんと、コーヒーで、お願いします」とオーダーをする。いまの仕事をはじめてから、少しでも身体に良さそうなものを食べないと身体と心のバランスが取れないと感じている。カフェに行く時は、財布と、いわゆる名作と言われる純文学の文庫本だけを持参して、それをペラペラとめくりながらごはんを食べる。時間をかけて食べ終わる頃には夜勤疲れの身体と心が回復してくるのがわかる。ごはんを食べ終わってコーヒーを飲み始めると、大抵はカウンター越しにマスターとおしゃべりをする。まるで儀式のようにそれをもう五年近く続けている。マスターもその儀式に厳かに参加してくれている。今日はランチタイムが忙しかったらしく、マスターが洗い物に専念しているので、沙夜子は持って来た文庫本を開いて目を落とした。読んでいると言うよりは、ただ活字を目で追っているという感じで内容が頭に入って来ているわけではない。夜勤明けの頭にはそのくらいがちょうどよかった。最近、たまにマスターと自分との距離感を、他のお客さんが訝しんでいるような視線を感じる時があるのだけれども、沙夜子は気にしないようにしている。それは、そうすることしか今はできないのだから仕方がないと。祐未がいてくれて三人だったら、こんな風にはならないのに、と時折思ってしまうのだけれど、そんなことを考えている自分が嫌になる。マスターが洗い物の手を止めて、カウンターのすぐ向こう側に立っているのがわかっているのだけれど、沙夜子は、本から目を上げないでいる。真剣に読んでいるわけではないのだけれど。恐らくマスターは、窓際に座っている賑やかな女子学生たちの様子を見ているのだと思う。やがて、一人の男性客が入ってきて「いらっしゃいませ」と言ったマスターの顔に視線を向けてみた。少し苦笑いをして頭を軽く下げたのは、たぶん「うるさくてごめんね」という意味だと思う。沙夜子は、それくらいのマスターの心の動きは、もう手に取るようにわかる。






 午前中の会議がかなり長引いてしまって、優馬は一時半を回った頃にランチに出た。事務所から一番近いカフェは昼時を逃すと日替わりがなくなっていることがあるので、なかったからカレーにしようと決めていた。入り口の手書きのメニューを見ると、まだ日替わりはありそうだった。ドアを開けて店に入る。いつになく賑やかに感じるのは、珍しく向かいの大学の女子学生が三人いるからだとすぐにわかる。マスターと目が合うと、うるさくてごめんね、という表情だとなんとなく伝わってきたので、大丈夫の合図のつもりで右手を軽くあげてみた。マスターに意図は伝わったようで、苦笑いしながら頭を下げていた。いつもの日替わりを頼んで、女子学生から一番遠い席に着く。女子学生三人は、みんなカレーを食べていて、その中の一人がどれだけこのカレーが美味しいかということを残りの二人に熱弁をふるっていた。その女子学生は、日替わりを盛り付けているマスターに

「あたしはカレーが一番美味しいと思うんですけど」と言うのでマスターは苦笑いをしながら

「でもね、この日替わりの方がたくさん出るんだよ」と言う。

「えー?」と大げさなリアクションをして残りの二人に

「リナ、うるさい」と、たしなめられていた。それでも懲りずに

「だってこのカレー、マジおいしい」と言ってスプーンに山盛りにしたカレーを頬張っていた。マスターは、日替わりのお膳を運んできて

「あれだけ褒められるとうれしいよ」と言って笑っていた。学生達の声はとにかく大きく元気なので会話のほぼ全部が聞き取れた。どうやら女子学生達はこの春で卒業のようで、カレー好き女子が

「えー、あともう一回くらい食べにこれるかなぁ、でも、卒業しても食べに来ます」と言うとマスターは、

「いままでそういう奴に限って来たためしがないね」と学生達をからかった。案の定、女子学生は大げさなリアクションで

「なんで、そんな事言うんですかー!来ますよー!絶対、っていうか、マスター、作りに来てください、ウチの会社に」と言うと

「どこだっけ会社?」とマスターが質問を返す。

「栃木」

「無理無理。餃子があるからいいじゃん」とまたマスターはからかう。

「餃子じゃだめ、このカレーが食べたいの」

「じゃあさ、今度、作り方教えてあげるから、自分で作ればいいじゃん」とマスターが言うと、他の二人が口を揃えて

「リナ、無理ー!」と言う。

そう言われたカレー女子は、「マジムカつく」と笑いながら言い、また山盛りのカレーを頬張った。そんな風に、マスターにとっては娘くらいの世代の女子学生と会話をしているのはすごいなぁ、と思いながら会話の一部始終を聞きつつ日替わりを食べていた。

 テーブルに置いたスマホにメッセージが届く。咲季からだ。

「今日、何時くらいになる?わたしは定時にあがれるよ」とある。

まだ昼だし正直何時にあがれるかなんてわからないのだが、そのままを返信してしまうわけにはいかないので、

「まだ微妙だけど、僕も定時目指して頑張る」と返した。自分の頑張りだけで退社時間が決まるなんてことはありえないのだが。

「りょうかい、また連絡して」とすぐに返信が来る。こちらも

「りょうかい」と返す。週に何回このやり取りを咲季としているのだろうか。いっそのこと一緒に暮らしてしまった方がいいのではと考えることもあるのだけれど、まだ踏ん切りがつかない。そこになにかタイミングがあるのかと言われれば、そんなことはないということまではわかっている。でもな、と煮え切らない自分がいる。マスターが水を注ぎに来る。この人は結婚しているのだろうか、子供がいるような雰囲気ではないけれども、モテないわけがないからたぶん、一度くらいは結婚しているんだろうな、とか妄想しながらコップをもつ左手を見ると薬指にリングはなかった。なんだ結婚はしていないのか、それとも指輪をしていないだけなのかなぁ、と思ってマスターの顔を見上げると目が合ってしまった。するとマスターは

「なにか?うるさくてごめんね」と言うので

「いや、違うんです、マスター、結婚してるのかなって」

「昔、してた」とマスター。

「えっ、と言うと、いまは?」

「してない。結婚してるの?」と逆に質問される。

「いえ、まだ」と答えると

「まだ、ってことは、決めきれないとか?」

「わかります?」

「なんとなくね、そんなニュアンスに聞こえたから、合ってる?」

「はい。なんか、毎日今日何時に会える?とか、やり取りするのがもう面倒で、だったら一緒に住んだ方が楽かなとか」


「んー、微妙だな、それ」

「そうなんですか?」

「だって理由がネガティヴだし、一緒に住んだら住んだで、何時に帰ってくる?って聞かれるよ、で、それを面倒だと思ってしまう。結局一緒」

「確かに、そうですね。どうしたらいいんですかね?」

「世の中にはさ、女性から今日何時に会える?なんて聞かれたくても誰からも聞いてもらえない寂しい男子がたくさんいるわけだから、感謝しないと彼女に。聞いてくれてんだよ、会いたいから」

「まぁ、そうですけど」

「贅沢だね、嫌ならやめちゃえ、ってことがアドバイス」

「あっさりしてますね、マスター」

「煮え切らない奴はいつまでたっても煮え切らないよ、きっかけなんてないから。自分で決めない限り。それが責任だよ。お互いにだけど」

「ですよね、マスターはスパって決めました」

「決めたよ」

「どうやってですか?」

「どうもこうも方法なんてないよ。考え方でさ、なんか時々思うんだけど、一緒になるってことをさ、自分の暮らしに相手が加わるとか、所有するものが増えるみたいな足し算的な感覚で捉えている人がいるけど、全然違うと思うんだよ。混ざるの。白に黒が、黒に白がみたいに。そうすると、お互い元の色には戻らないだろ、そういうことだよ。お互いに自分の今の色じゃなくて違う色になるっていうことを受け入れないとうまくいかない。前向きに新しい色になるって思わないといけない。今の色を少しでも残したいって思ってたら絶対無理だね、そういうこと」

「ごちそーさまー」とカレー女子がマスターを呼んだので、優馬が何も返事をできないうちにマスターは、カウンターに戻ってしまった。

 斜め後ろに座っていた若い女性客の携帯電話が鳴ってその女性は電話を持って一旦外へ出て行った。テーブルには、読みかけの単行本が置かれていて、見覚えのある装丁だと思ってタイトルを確認すると池澤夏樹の『スティルライフ』だった。自分も大学の頃に読んで、冒頭の一節が好きで今でも時々チラッと読む時がある。カレー女子学生達は「絶対また来まーす」と口々に言って賑やかに帰って行った。電話をしに出た女性はまだ外で何かを話している。マスターが戻ってきて

「ということ、わかった?」と言うので

「はい、混ざるんですよね、白と黒が」

「そう、大丈夫?僕が言っても説得力ないか」とマスターは笑っている。

「大丈夫です、ありがとうございます」と言い切って、店を出た。店先で電話をしている女性の横を通り過ぎると「あの三曲から絞ろうかな」という会話が聞こえて、一瞬目が合ったような気がしたのだけれど、電話をしながら恐らくただ視線の先に自分がいたという程度の認識だろうと思ってそのまま目をそらして去ろうとすると

「すいません」と電話の女性に呼び止められた。

「間違っていたらごめんなさい、咲季の彼、ですよね?優馬くん?」

「はい」

「わたし、前の会社で咲季と一緒だった片瀬です。片瀬綾です。二回くらい一緒にライブいったり、覚えてます?」

「あっ、はい。ブルーノートとか、東京ジャズ」

「そうです、よかった」

「ここよく来るんですか?」

「はい、時々、本読んだり、静かでいいので。今日はちょっと賑やかでしたけど。優馬くんは?」

「事務所がこの近くで、いつもランチに」

「そうなんだ、で、マスターとあんな話まで」

「やっぱり聞こえてましたよね」

「はい全部。咲季とのことですよね?」

「まあ、でも、もう決めたんで」

「決めた?」

「そう、混ざるって」

「あっ、混ざるんですね」と片瀬さんは、嬉しそうに笑って

「咲季、喜びますね、きっと」と言った。

「チラッと見てしまったんですけど、『スティルライフ』ですね」

「あぁ、あれ。そうです」

「そう。あれ、僕、咲季に薦めたというか、プレゼントしたことありますよ」


「冒頭がいいですよね」

「そうなんです、冒頭がね、いいんですよね」

「関係ないんですけど、さっき学生がカレーが絶対美味しいって言ってたの、本当ですか?」

「カレー美味しいですよ、ここの。僕は野菜を取りたいから日替わりばっかりですけど」

「じゃあ、これからカレー食べて帰ります。ちょっと二日酔いなのでちょうどいいですね」

「そうですね、いいかも」

「では、咲季によろしく。あと、混ざるの、頑張ってください」

「ありがとうございます」

優馬は事務所に戻りながら、咲季に

「今日は、定時で上がるよ」とメッセージを送った。








 打ち合わせに指定された場所は、駅から十分以上歩かなくてならないカフェだった。片瀬さんの指定だから文句を言うことも出来ないので、佐谷木はグーグルマップを片手に見知らぬ住宅街を歩いて、ようやくたどり着いた。大きな大学が目の前にある小さな平屋の一軒家がカフェになっていた。なるほど、女性が好きそうな隠れ家とやらだな、と思って納得がいく。店に入ると白い髭に帽子をかぶったマスターらしき人しかいない。てっきり小柄な女性が白い服を着て出迎えてくれるものだとイメージしていたので少し戸惑う。


「お好きな席に、どうぞ」と言われて店内を見渡すと、味のあるアンティークというか古い椅子とテーブルが整然と配置されている。どの場所も居心地が良さそうで、迷っていると「おひとりですか?」とマスターに尋ねられて待ち合わせだということを告げる。

「あっ、いえ、あとひとり、二人になります、打ち合わせで」と。

「じゃあ、奥の大きいテーブルどうぞ」と薦められて店の中で一番大きなテーブルに座る。メニューと水を持ってきたマスターに

「二人でこの大きなテーブルいいんですか?」と尋ねると、

「平日だし、この時間だから大丈夫」と断言された。

「お見えになってからのオーダーでいいですよね?」と言ってマスターはカウンターに戻って行った。片瀬さんからは十分位遅れるとメッセージが届いていたので、しばらく待つことにする。片瀬さんは、この前の電話で「あの三曲から絞ろうかな」と言っていたのだけれど、本当に納得してそう言っていたのか、仕方なくそう言っていたのかが気になっている。大手通信会社のテレビCMのコンペに出すということで、三十秒の中に必要な言葉を入れ込んだ歌を三バリエーション用意してほしいという依頼だった。歌は大人気の男性俳優件歌手が歌うことが決まっていて、決まればその歌のフルバージョンを作ってシングル曲として発売するという。作家として曲を作り始めてもうじき十年になるのだけれど、ここまで大きな仕事の依頼はほんとうに数えるくらしかなく、今回はどうしても自分の作品で決めたいと思っている。いろいろと声を掛けてくれてチャンスを与えてくれる片瀬さんの為にもそう思っている。カフェの外から片瀬さんが電話で話をしている声が聞こえる。いつも忙しそうに誰かから電話がかかってきて話をしているイメージがある。しばらくして、片瀬さんは「ごめんなさい、お待たせして」と言って向かいの席に座った。

「こんにちは」とマスターが片瀬さんの水を持ってくると片瀬さんも

「こんにちは」と答える。

「何か頼んだ?」

「いえ、まだです、待ってからにしようと」

「そう。お腹空いてたら何か食べてもいいよ、美味しいから、カレーとかも」

「片瀬さん、よく来るんですか?」

「うん、来る。静かでいいのよ、仕事はかどるし、本も読める。電話を無視しても良いような雰囲気じゃない。山の中のリゾートにいるみたいな」


「確かに、そんな感じですね、学生とかは来ないんですかね、大学の前ですけど」

「とりあえず、何か頼もう」

「はい、じゃあ、カレーとコーヒーで」

「了解、わたしはケーキにしようかな」と言って、片瀬さんはマスターを呼んで「彼にカレーとコーヒーで、わたしはコーヒーとチーズケーキ」とオーダーしてくれた。どことなくいつもレコード会社とかアーティストの事務所とかで会う片瀬さんと雰囲気が違って見えるのはこの店にいるせいなのだろうかと思ったので

「片瀬さん、いつもとなんか雰囲気違いますね、ここにいるからですかね」とそのまま聞いてみた。

「たぶん、そう。そういう店なのよ。なんかね、いつもの役割みたいものからちょっとのあいだ解放されるみたいな。店のコンセプトもそんな感じのことがホームページに書いてあったわ」

「へぇ、役割からの解放か」

「そう」

「でも、今日、打ち合わせですよね、例のCMのコンペの」

「そうね、だからここにしたの」

「だから?」

「そう。今度のCMのイメージはこのカフェがベースで作られてるの」

「ここで撮るとか?」

「イメージよ。ここにある空気感があるでしょ、わかる?なんていうかな、ナチュラルとかアンティークとかシンプルとか、かと言って甘くない感じというか、ね。男性ウケもする感じ。こういうインテリアも実は結構値が張るんだけど、きちんと使い込まれて味があって、お金お金という匂いがしないとかね」

「それを曲にも反映したいと」

「正解」

「ハードル高いですね、でもやりがいありますね。良い音楽が出来上がる気がします」

「だから、佐谷木くんにやってほしいの」

「ありがとうございます」と頭を下げた。ちょうどカレーがテーブルに運ばれてきて、片瀬さんの前にはコーヒーとチーズケーキが並んだ。確かに、過不足ないシンプルな器が使われていて、組み合わせもバランスが取れている気がする。そして、美味しい。音楽もいい。春を目前に控えたこの時期にバロックギターが心地よい。カウンターの横の壁には、ジスモンチのLPが飾ってあるから、たぶん今流れているものもECMなのだろう。


「だから、いつもみたいな、ここのメロディをこうしてとか、この歌詞をこうしてとか言う話は無し。ここにいてここを感じてもらうことが目的」

「でも、あの三曲でいくんですよね?」

「そう、基本はあの三曲。でもね、ここにあの三曲がフィットしているか想像してみて。もしどこか手直ししたほうがいいと佐谷木くんが感じたら直していいわ。その判断は任せる。あの三つに絞るまでをわたしの仕事にさせて」

「いいんですか?それで」

「そうする方がいいと思うわ。提出までまだ五日あるから、またここにひとりできても良いし、今日来たイメージだけで判断しても良いしね」

「はい」カレーを食べ終わるとちょうどいいタイミングでコーヒーが運ばれて来た。しばらく店内は片瀬さんと自分の二人だけだったけれども、近所から来たと思える女性が財布と文庫本だけを手にして入って来て、迷いなくマスターの目の前のテーブルに座った。マスターは、「こんにちは」と小さな声で言い、その女性も小さな声で「ごはんと、コーヒー、でお願いします」と言って文庫本を開いた。会話という会話が交わされているわけではないのだけれど、なんとなく親密な空気が二人の間に流れていた。


「佐谷木くん、わたし次があるから行くね」

「あ、はい」

「まだ居るならゆっくりしていけば」

「そうします」

「音源は、いつものとこにアップしておいてくれれば大丈夫だから」

「わかりました。ありがとうございました」

「じゃっ、よろしく」と言って片瀬さんはカフェを出るとすぐにまた電話をはじめた。いつもの役割に戻ったというように。残りのコーヒーを飲みながら、ぼんやりしているとまたひとり女性客が入ってきて、「三人なんですけど」と言って店内を見渡した。三人が座れるスペースは、自分が座っているテーブルだけだったので、席を移ろうとするとマスターがやってきて、

「ごめんなさい、いま、ちょっと、三名様は」と言っている。あきらかにその女性は、自分に移動しろという視線を投げているのだけれど、マスターは頑なに「ごめんなさい」と繰り返し断り続け、女性は帰って行った。マスターは何事もなかったかのようにカウンターに戻って行った。マスターの目の前に座っている女性が、

「相変わらずね、怒ってたよ、あの人絶対」と言うとマスターは、

「あの人たち、ちょっとね」と言って笑っていた。

「客を選ぶカフェね」

「お客さんも自分に合うかどうかをもっとちゃんと考えるべきだと思うよ」

「また言ってる」

「一度来れば分かるじゃん」

「そこまで考えるのは極一部よ、普通は考えないの」

「そんなものかね」

「それでよく続いてるね、この店。それが不思議」

「みんな何らかの方法でお客さん選んでるじゃない、ほんとは」

「まぁ、確かにある程度は、同じ価値観とかを共有している人たちが集まってるって思うと行きやすいけどね」

「そのための一手段だよ」

「まぁ、それで潰れてないんだからいいけど。敵が増えるよ。ネットの書込みとか」

「見ないから大丈夫」

「そう言えばCMの話どうなったの?」

「やるよ。ただ撮影はスタジオに建て込み、って言うんだっけ、セット作ってそこで。だから僕はその監修みたいな感じかな」

「ギャラ出るの?」

「出る」

「たくさん?」

「たくさん。コーヒー何杯入れたらその額になるのか計算できないくらい」

「ほんとに?」

「ほんと。大企業は規模がちがうよ。驚いた」

「でも、それやったらCM見たって言う変なお客さん来ない?」

「そこは大丈夫、セットはこことは全く違うから。空気感は一緒だけど」

「そんなこと出来るんだ」

「だからギャラもらえるんだよ」

「すごいんだね、マスター」

「今さら知った?」

と、会話が続いて行くので、佐谷木はお会計をお願いするタイミングを失っていたが、マスターはそれに気づいて

「あっ、もう行かれますか?」と声をかけてくれた。

「すいません、席」

「大丈夫、っていうか、お客さんがそこに座ってくれてなかったから、あの人たちを断れなかったから、お礼を言いたいくらいだよ」とマスターが言うと

「やめなよ、お客さんに」と女性が咎める。

「あれでしょ、CMの音楽のコンペに出すんでしょ?」

「聞こえてました?」

「店の会話は全部聞こえる」

「そうなんですね」

「僕も選曲に関わるから、もし通ったらまた会えるね」とマスターは言って、さらに

「片瀬さんだから大丈夫な気がするよ、頑張って」と言ってくれた。

「あんまりそういうこと言うと、不正に取られるよ」とまた女性が咎めると

「クライアントなんてそんなに音楽の良し悪しがわかってるものじゃないから。こっち側のプロのスタッフが決めればいいものだから」

「よろしくお願いします」と佐谷木は頭を軽く下げて、さらに「カレー、美味しかったです」と言った。

「片瀬さんも、絶対カレーしか頼まないんだけど、なんでかね」とマスター言って「またね」とまるで家に遊びにきた友達を見送るように入り口で手を振ってくれた。佐谷木は、またここに来ようと思う。CMが決まっても決まらなくてもカレーを食べに





 咲季がここに一人で来るのは、はじめてのことなので正直少し緊張している。店に入ったらマスターに最初なんて挨拶すればいいのだろうかと、まずはそこからだ。いつもは優馬が「こんにちは」と言って席まで案内してくれるので咲季はマスターに軽く会釈をするだけだった。水曜日午後三時半、カフェのドアを開ける。マスターに一番近いテーブルに女性客がひとり座っているだけだ。

「こんにちは」と咲季は自然に言葉が出て来たことにほっとした。マスターが「こんにちは」と返事をするのに被さるようにその女性客も「こんにちは」と言った。お客さんではないのだろうかと訝しんでいると、マスターが

「なんで沙夜子まで、こんにちは、なの?」と笑って言う。

「どうぞ、どちらでも」

とマスターに言われて一番大きなテーブルの角に座った。その沙夜子さんは

「あっ、ごめん、店にいた頃の癖で、つい」

「ほんと自然に言ったよね、今」

「とても、自然でした」と咲季も会話に入ってみた。

「だよね、びっくりした。もう沙夜子に店まかせようかな」

「やだよ、カフェは」

「なんで?」

「だってずっと立ってるじゃん、脚パンパンになる」

「それが理由?」

「あと、料理出来ない」

「だよね、それ致命傷。あっ、咲季さん、何する?」とマスターが話しながらテーブルまで歩いてきてくれた。コーヒーとチーズケーキを頼んでから小声で「ちょっとご相談が」と言った。マスターも「了解」と咲季の小声を真似て返事をした。その感じがなんだかおかしかったので少し吹き出して笑っていると、沙夜子さんは「なんだか、楽しそう。仲間に入れてよ」と言いながら、とてもおいしそうにごはんを食べていた。優馬とここに何度か来ているけれども沙夜子さんに会うのは、はじめてだった。優馬とは土日に来ていたから平日のこの時間に沙夜子さんは現れるのだろうと勝手に想像してみた。するとマスターが、

「沙夜子はね、夜勤明けの午後に身体と心を整えにここに来てごはんを食べる人」と説明をする。沙夜子さんは

「もうちょっと、他に紹介の仕方ないの?」

「じゃあ、元アパレルのプレス、そして、アンティークショップの店長、今は介護士」

「あってるけど、ざっくり」

「あとは自己紹介して」と言ってマスターはコーヒーをドリップしに行った。しばらくしてごはんを食べ終わった沙夜子さんはコーヒーをオーダーし

「よかったら、こっち座らない?」と自分のテーブルに咲季を誘った。どうしようかと、迷っているとマスターが

「ダメ、咲季さんはちょっと僕に相談があるんだって」

「マスター、若くて可愛い子好きだから気をつけて」と沙夜子さんが言うと

「咲季さん、新婚だから。近くのデザイン事務所の優馬くん、知ってるよね?彼の奥さん」

「えー、あのイケメンデザイナー?」

「そう」

「やっぱり可愛い子選ぶね、お似合い」と沙夜子さんは、なんだか嬉しそう。

「で、新婚にして、もう相談?」

「それを、これから僕が聞くの。沙夜子は黙ってて」

「はーい」と沙夜子さんは素直に返事をして文庫本を読み始めた。沙夜子さん以外にはお客さんはいなかったので、チーズケーキとコーヒーを運んで来たマスターは、「今ならいいけど」と行って向かいの席に座った。咲季は、こんな至近距離でマスターと話をするのは、はじめてだったのでメガネの奥の目が綺麗な二重なのを発見して、まじまじと目を覗き込んでしまった。

「なんか、ついてる?顔に」とマスターに不思議がられる。

「いえ、マスター二重なんだなぁ、て」そう言うと、離れたテーブルで沙夜子さんがクスッと笑った。

「沙夜子、耳ダンボになってるよ。本に集中して」とマスターが沙夜子さんに言う。

「ちょっと無理。この広さじゃコソコソ話しても逆に気になる。わたしも混ぜて。黙ってるから。いい?咲季さん」と言ってきたので、咲季は、特に隠すようなこともないと思っていたので「はい」と答え、沙夜子さんもマスターの横に座った。するとなんだか咲季が二人に面接を受けているような絵柄になった。咲季は、優馬のことを相談したかった。どうやら優馬は今の事務所を辞めて独立して自分のデザイン事務所を作ろうとしているようで、結婚したばかりだったので、将来が不安になってしまったのだった。今の事務所にいるからと言って安定していると言えるような職業だとは思ってはいないのだけれど、独立となるとまた話は変わってくると感じていた。マスターがこの話を優馬から聞いているのかどうかは知らなかったが、優馬がプロポーズをしてくれたきっかけもマスターの言葉だったと聞いていたので、こういう大切なことを決めるにあたっては恐らくマスターになんらかの相談をしているはずだと思ってひとりでカフェを訪ねてみたのだった。咲季が本題を話し始めようとするとマスターは

「優馬くんの独立のことでしょ?」と先に言ってきた。やはりマスターには話していたんだと思い

「はい。いつから聞いていました?その話」と尋ねてみた。マスターは

「いつからかなぁ、覚えてないけど、二人が結婚してからとかの話じゃ全然なくて、本当にずっと前。優馬は、あの事務所に入った時から独立のことは考えていて、咲季さんに出会う前にも独立の相談を受けたこともある。さすがにその時はありえないって引き止めたけどね。だってまだ一人前の仕事なんて一つもやってなかった頃だから。あの事務所の社長は昔からよく知っていてね、今みたいにスタッフをたくさん抱えてやり始めたのはここ数年のことで最初は三人だった。その頃に僕は何度か仕事をしていてね。レコードジャケットのデザインをお願いしたりして、すごくいいデザインをしてくれた。元々社長も大手のデザイン会社を若くして辞めた口だから、若手が独立したがることに関しては理解があるはずだけど、最初の優馬の独立話にはさすがに怒っていたよ。あのガキ、なめてんのかって。怖かったよ。それから優馬はどんどんいい仕事をするようになった。社長に激怒されたことで何かを見つけたんだと思う。いまは優馬なしではあの会社は成り立たないと思えるくらいだから。だからこそ今なんだと思っているんだと思うよ、優馬は。社長もある程度は覚悟しているようだし。そうやってまた若手を育てて巣立っていってというのを繰り返して会社は強くなるとか言ってたけど。内心は優馬にあとをついでほしいと思っているのかもしれない。そういうタイミングで咲季さんと結婚した。咲季さんとしては結婚したと思ったら会社を辞める、という風に見えるかもしれないけど、結婚したからこそ、そうするべきだと考えたんだと思うよ、優馬は。守らなくてはならない大切な人がいる、だから。でも、咲季さんがいるからやっていける気がするという面も当然ある、一緒になってやってくれると思っているはずだよ。優馬から相談された時、今度は薦めたよ、独立を。でも条件として、きちんと咲季さんに納得してもらってからにしろともね。勤め人の奥さんとはわけが違うからね、そこを納得してもらえって。だからそのうち話があるはずだよ、優馬から。その時に咲季さんは判断してあげて。どれくらい優馬が本気か見極めてあげて。仕事は大丈夫、絶対どんどん入ってくる。二人でやる覚悟の方が大事だから」

マスターの言葉をじっと聞いていた咲季はここで口を開いた。

「よくわかっているつもりです、優馬が独立したい気持ちは。でもわたしに何かできることがあるのかわからないんです。デザインの仕事なんて全然知らない世界だし、いままで優馬の仕事について詳しく聞いたこともないし。完成した作品は見せてもらったりはありますけど、それは一般の人と同じことで。だから優馬のサポートなんて無理かなって。そのことで彼との関係がおかしくなってしまわないか心配なんです。彼、仕事となると周りが見えなくなってしまうから」

「自然とね、役割は生まれてくるよ。最初から決めている必要はない。大丈夫。とにかく咲季さんが理解してくれて、いざという時の味方だと優馬が思えていれば大丈夫だから」とマスターは言って「なっ」と沙夜子さんの顔を見た。急に振られた沙夜子さんは、「だね」と言って、わたしに向かって大きく頷いた。その感じがなんとなく頼りになるお姉さんという雰囲気で咲季の漠然とした不安は少しほどけていった。

「咲季さん、この人良いこと言ってそうだけど、当の本人はそんなに上手くやれてないからね」

「余計なこと言わないの」

「でもホントでしょ」

「そうだけどさ、咲季さんはそんな僕に相談しに来てくれたんだから、いいじゃんそこは」

「大丈夫、咲季さん?」

「はい、マスターの話が聞きたかったんで」

「ほら」と得意げなマスター。

「よかったね、マスター。可愛い子に頼られて」

「からかうな」

「あのぉ、お二人はお付き合いしているとか?」

「してない」と沙夜子さんが即答する。

「事実婚夫婦を演じたりはするけど、ね?」

「なんですか、それ?」と気になったので聞いてみると

「あれね」とマスターが説明をしてくれた。

「昔ね、三年前くらいかな、店に電話があって、ごはんの予約で、あとちょっと二人でお話ししたいことがあるって、閉店間際に行って良いかと。その人の奥さんが僕にお世話になってるからって」

「怖いよね、その感じ」と沙夜子さんが合いの手を入れる。

「ちょうどその時、沙夜子が今日みたいにあそこのテーブルにいたから、電話の内容を話したら、なんだっけ、妄想不倫、だっけ?とか言って、電話は僕にその妄想不倫をしている奥さんの旦那で、殴り込みにくるんじゃないとか言い出して、だからこの場合、妻帯者の方がいいかと思って沙夜子に事実婚の奥さん役をお願いしたの」

「妄想不倫?」

「そう、カフェに来て、マスターと不倫しているのを妄想するお客様」

「そんな人がいるんですか?」

「それは、こっちの妄想だよ」と沙夜子さんは笑って言う。

「そっか。あと、なんで事実婚なんですか?」

「?、そうだね、普通に夫婦でよかったよね、なんでそうしてんだろう」とマスター。

「えっ、なんか理由があったんじゃないの?」と沙夜子さん。

「いや、別に」

「てっきり事実婚に意味があるんだと思ってたよ、違うんだ」

「でも、マスターの場合、その方が本当っぽい。事実婚の奥さんがいる感じ」

「それって、あんまりいい男じゃないよな、結婚に踏み切れないというか、煮え切らない奴みたい」

「昔の優馬」と咲季は、自分で言ってみた。

「言っちゃった、自分で」とマスターは笑ってくれた。

「あれだね、結局、マスターと優馬くんは似てるんだね、だから、優馬くんのことよくわかるんだよ、自分のことのように」

「そういうこと」

「よかったね、事実婚じゃなくてちゃんと結婚できて」

「はい、マスターのおかげです」

「よかったね、マスター」と沙夜子さんは言ってマスターの肩を叩いた。

「で、その怖い人どうなったんですか?」と話が途中だったので聞いてみた。

「全然いい人。いい夫婦だった。全然怖くなかった。そんなオチ。奥さんが向かいの大学の先生でね」

「そう、長年一緒にいる夫婦ならではのいい話も聞けて。咲季さんにはまだまだ到底真似のできない世界だな」

「よくわからないですけど、なんとなくそのご夫婦みたいになればいいってことですよね」

「三十年かかるよ」

「想像つかないんで、とりあえず三年先にくらいを考えてもいいですか?」

「三年でも立派。わたしなんかその日暮らしだから、ね?」と沙夜子さん。

「まぁ、一緒だな、それは」とマスター。

「やっぱり、お二人、お付き合いしたほうが」

「わたしは、良いよ、毎日美味しいごはん食べれるし、どう?マスター」

「いまでも、ほぼ毎日食べてんじゃん」

「一日三食、全部よ。わたしが料理無理なの知ってるでしょ」

「でもね、気持ちだから、沙夜子のごはんもきっと美味しいよ」とマスターは沙夜子さんにちょっとだけ、今までよりも優しく言ったように咲季には聞こえた。






 佐谷木の曲で決まってくれて本当によかったと片瀬は思う。最終選考で決まらずに悔しい思いをしたことが今まで何度あったことか。佐谷木の音楽センスを買っていた片瀬は、当初、佐谷木本人をデビューさせようと思っていたのだけれど、人前でのパフォーマンスのセンスに欠けていることがわかり、早々に作家への転身を強く勧めたのは片瀬だった。しかし細かい仕事はたくさん決まるものの代表作と呼べるような大きな仕事には恵まれずにもう十年近く経ってしまっていた。佐谷木も腐らずによくやってくれていると思いつつも、いつ辞めたいと言い出してもおかしくないと、片瀬は覚悟をし始めていたのだった。今回のこのCMと、そのシングル曲で佐谷木の名は、業界内で一定の知名度を獲得することが出来て、仕事も選べるようになった。これからは、佐谷木のポテンシャルを維持するように仕事を吟味し、いかに長く活躍させられるかが片瀬の仕事の重要な役割となる。マスターにもお礼というが挨拶に行かなくてはいけないと思い、カフェに足を運んだ。ドアを開けるといつものカレーの匂いがした。カウンターに一番近い席に若い女の子がひとり「美味しいやっぱり美味しい」と言ってカレーを食べていた。片瀬は、いつもの奥の席に座り、メニューと水を持ってきてくれたマスターに立ち上がって

「その節はありがとうございました。お陰様で佐谷木の曲で決まってほっとしています」と丁寧に挨拶をした。するとマスターは

「よかったですね。佐谷木くんも何度か来てくれてます。カレー食べに」

「はい、聞いてます。わたしも今日は、カレーをお願いします。あとコーヒーも」

「了解です。しばらくお待ちください」と言ってマスターは、カウンターの中に入っていった。カレーを食べていた女性は、最後の一口を頬張り、

「やっぱり、宇都宮来てくださいよ、カレー作りに」と言っていて、もしかしたらと思って顔を見ると、やはり以前学生三人でカレーを食べていたうちのひとりだった。一応、社会人になったからか前の印象よりもどことなく落ち着いていて、髪もさっぱり短くしていた。しかし話し方は相変わらずで

「ほんと来てほしー、ウチに」と繰り返していた。

「いつまでこっちにいるの」とマスターが聞くと

「研修は、五日間だから、火曜日。で、木曜からまた出社。だからまた水曜日に来ようと思えば来れる、やってる?」とほぼタメ口。

「やってるよ。水曜なら沙夜子が来るよ、多分」

「えー、あたしあの人好き、あいたい!何時に来れば会える?」とまたタメ口。

「いつもは三時くらい」

「びみょー。帰んなきゃいけない日だから。どうしよー」

「まぁ、でも百パー来るとは限らないから」

「えっ、今聞けないんですか?沙夜子さんに」と今度は敬語。沙夜子さんが絡むと敬語なのだろうかと片瀬は分析をする。やはり女の先輩は敬語ということか。マスターにはタメ口でも。マスターがカレーを運んで来て、

「リナちゃんのおかげで、この方はいつもカレーを頼んでくれるんだよ」と紹介というか話を振ってくれた。そのリナちゃんは、

「えっ、どういう意味?」と今度はタメ口。

「あっ、前にお友達三人でカレーを食べている時に、わたしはここにいて、あなたが、美味しい美味しいってずっと言っていたから、気になってしまって」

「あっ、もしかして、卒業前に来たとき?」ややタメ口。

「そんな感じだったわ、また来れるかなぁ、とか話していたから」

「ですねー、うるさかったですよね、あの時。もう来れないかもって思うとテンション上がりまくりで。でも、本当に美味しいですよね!」と元気一杯だ。片瀬には、その無邪気な元気さが羨ましく、眩しく見えた。

「あっ、どうぞ、カレー」と言って、リナちゃんはマスターのほうに向き直った。 一応気遣いは覚えたようだ。片瀬のスマホには、不在着信とメール受信の通知やラインのメッセージなどか次から次へと表示されていたが、ここにいるときは無視をすることに決めて来たので放っておいて、カレーを食べることに集中した。リナちゃんが急におとなしくなったので何をしているのかと思っていたら急に大きな声で

「夜行で帰る、だから水曜にまた来る、カレーお願いします!」

とマスターに告げた。

「了解。沙夜子も来るつもり、って返事がきた」

「やったー。久しぶり沙夜子さん。まだひとり?」

「自分で訊いたら」

「マスター、なんか知ってたり?」

「だから自分で訊いてみたら、って」

「気になるー。水曜楽しみ。マスターわたしもう行きます。これからカラオケです」

「これから?」

「はい、同期の子たちと。では、また、水曜日。お会計は?」

「カレー千二百円」

「あれ、値上げした?」

「ちょっとね」

「大丈夫、社会人なんで」と言ってリナちゃんはお会計を済ませて、帰り際に私にも「お先に失礼します」と挨拶をして帰って行った。あのくらいの年代だと、カラオケでは何を歌うんだろうと考えてみたが、見事になにも浮かんでこなかった。自分が全くカラオケには行かないのと、こういう仕事をしているのに、ヒット曲にほとんど興味がないのが原因で、果たしてそれでいいのだろうか思う。特に最近は、どんなヒット曲を聞いてもなにも感じなくなっている。以前は、だれが書いた曲なのかすぐに調べてみたり、ただ単純にやられたな、という嫉妬に似た気持ちが湧いてきたりもしたのだけれど。正直、そろそろこの仕事も限界かなと時々思う。十代から二十代の若者に受ける楽曲のディレクションは、もう感覚だけで出来る年齢を超えているのだ。統計とデータで理論武装しておかないと、仕事にならなくなってきている現実がある。だから佐谷木にあの三曲にしぼらせて、こうして採用される結果になったことに心底ホッとしている。あの三曲にしたのはデータなどの裏付けがあったわけではなく、ただ自分が感覚だけで選んだものだったからだ。もし今回、三曲とも落選していたら今後は、自分の感覚だけで作品を選ぶのはやめようとも思っていた。今回はいい結果になったけれども、次もそうなるという保証もなければ、自信もない。果たしていつまで自分はこの仕事ができるのか、漠然とした不安が頭をよぎる。今の仕事以外に自分に何か出来るとは思えないし、はたまた咲季みたいにいい男を見つけて結婚出来るなんてことも全く想像できない。せっかく佐谷木くんがいい仕事を取ったというのに、なぜこんなことを考えてしまうのだろうか。片瀬は、さっきの無邪気なリナちゃんのような時代に戻りたいと思った。何もわかっていないが故の、無敵な時代に。さっきからレコード会社のディレクターからしきりに電話がかかってきている。この頻度は、おそらく緊急なトラブルなのだろうから、そろそろ無視するのはやめておこうと思い、店の外へ出て折り返し電話をした。やはり片瀬の想像通りの厄介な問題が発生していた。佐谷木くんのCM曲のシングルリリース用のフルバージョンの歌入れをしていた大物タレントが、歌詞の一部が自分のイメージではないから変えてほしいと言っているというのだ。つまりは気に入らないと。歌詞も佐谷木くんが書いているので直させることは可能だけれども、その場合、CMありきの曲なので一応クライアントへの確認も必要になって来るのだった。おそらく大企業なので確認作業にかなりの時間がかかると思われ、大物タレントのスケジュールを考えるとリリースまでにレコーディングが間に合わないということになりそうだという。どうしたらいい?と泣きついてきたのだけれど、それは自分が考える立場ではないというのが正直ないところで、直してほしいというのなら佐谷木のケツを叩いて書かせる、というのが自分の役回りでしかないと思った。しかし、その若いディレクターは、なかなか電話を切ろうとはしなかった。話をしているうちにどうやらそのディレクターは、マスターになんとか口利きをしてほしいのだとわかってきた。私に電話をしてきた理由もそういうことだったのだ。制作スタッフのなかでマスターを一番よく知るのは自分だった。加えて、マスターは昔、デビュー間もないその大物タレントの担当ディレクターをやっていたのだった。今回は、全く違う立場での関わりであったけれども、マスターに再会したそのタレントは大いに感動し、CM撮影の現場は終始上機嫌で滞りなく進行したのだった。しかしいざレコーディングとなるといつもの面倒臭い(と若いディレクターが言っていた)こだわりが出てきて、ついには歌詞を変えろとまで言ってきたという。若いディレクターが望んでいるのは、レコーディング現場に何かの理由をつけてマスターに立ち会ってもらい、作業を円滑に進めてスケジュール通りに終わらせたいということだった。ややこしいことになったな、と思ったけれど万が一、楽曲自体が変更になったり、クライアントがヘソを曲げて企画自体がお蔵に入りしてしまったら佐谷木くんの実績にも傷がつきかねないと考え、マスターに話を通すことを了承した。

「ちょうどいまマスターのカフェにいるから話してみますけど」と言って電話を切った。ディレクターは「助かりますー、ありがとうございます。よろしくお願いします」と情けない声を出していた。カフェに戻りマスターの様子を伺うと、ランチで出た食器をせっせと洗っているようだった。他にお客さんはいなかったので、カウンター越しにマスターに声をかけた。急に呼ばれたマスターは、びっくりして振り向き

「あっ、はい、いらっしゃいませ」と反射的言った。

「すいません、私です」

「なんだ、片瀬さんか、なにか追加?」

「いえ、ちょっといいですか?いま」と言って、洗い物の途中だとはわかっていたけれども緊急だという雰囲気を醸し出しつつお願いしてみた。マスターは、なんとなくわかってくれたようで直ぐに話を聞いてくれた。片瀬は、若いディレクターが言っていたことをそのまま伝えた。変な気遣いとか回りくどい言い方をしても業界経験者のマスターには直ぐ見抜かれてしまうだろうと思ったからだ。マスターは、「うーん」と唸ってからしばらく黙って考えてからこう言った。

「いいよ、やるよ。片瀬さんと佐谷木くんの為にね。正直、もうあいつとは関わりたくないけど」と。大物タレントをあいつ、と言った。

「いつどこに行けばいいか、そのディレクターに聞いてくれる?特に事前の打ち合わせはいらないから。その若者と話すとややこしくなりそうだから、任せて下さい、とだけ伝えてくれる?」

「ありがとうございます、マスター」

「深夜のスタジオとかはやだなぁ、眠くなっちゃうから」と言ってマスターは笑いながら洗い物の続きをしにカウンターの中に戻って行った。すぐに片瀬は、ディレクターに電話をしてマスターが快諾してくれたことと、打ち合わせは必要がないこと、任せて下さいと言っていたこと、伝えスケジュールを確認した。

「マスター、いいですか?スケジュールですけど」

「はーい」とまた洗い物の手を止めて来てくれた。

「来週の水曜日の十七時に乃木坂だそうです」

「あぁ、水曜かぁ、リナちゃんくる日だね」

「そうでしたね」と答えながら、マスターの中では、大物タレントとリナちゃんは同じ扱いなんだとなんだかちょっとおかしかったというか、素敵だと思った。

「まぁ、三時に沙夜子が来るから、鍵渡して二人で適当にやってもらって、店は早じまいすればいいか、ね?」と独り言だろうと思って聞いていたら、私に同意を求めて来たので、咄嗟に

「はい、大丈夫かと思います。では、それで先方に連絡しておきます」と仕事のテンションで答えると、

「なんかできる女風な口調だね」とからかわれた。

「チーズケーキ食べる?切り損ねちゃって崩れたものだけど」とマスターはコーヒーのおかわりもサービスしてくれた。マスターみたいな上司というか先輩が常に現場にいてくれたら先々の漠然とした不安なんか感じないのになぁと、思いながらチーズケーキを一口食べる。

「はぁ、美味しい」と思わず言葉が出てしまった。

「ありがとうございます」とマスターは、少し口元を緩めて言った。






 リナは重たいスーツケースを引きずりながらカフェに向かう坂道を登っていた。坂を登りきると右手の路地から歩いて来た沙夜子さんとばったり会った。お互いにしばらく顔を見合わせまま言葉が出てこなかったのでなんだか可笑しくて笑いあってから「お久しぶりです」とリナは挨拶をした。沙夜子さんは、いつものように財布と文庫本だけを片手に、上質そうな生地の白いワンピースを来ていた。相変わらず素敵だなぁとリナは思いながら沙夜子さんと並んで歩いた。

「重そうね、それ」とスーツケースを見ながら沙夜子さんは言った。

「今日、夜行で帰るんだって?マスターが言ってた」

「はい、もう一度カレーが食べたくて」

「それだけの理由?」

「はい、おかしいですか?」

「いや、いいけど。そんなに美味しい?」

「はい、沙夜子さん、食べたことないですか?」

「あるよ、あるけど、なんかいつもごはん頼んじゃう。自分で作れない感じがするから」

「あのカレーも作れませんよ、普通には」

「そうだけどね、感じよ」

「あー、やっと着いた」とリナはスーツケースを持ち上げで入り口の階段を上がると、メニューの横に張り紙がしてあるのを見つけた。「本日の営業は、十六時までとなります」とあった。すでに三時だ。

「沙夜子さん、これ」とリナは張り紙を指差して沙夜子さんの顔を見た。

「大丈夫よ、私たちは」と沙夜子さんは、何も気にせず店に入っていった。いつもよりこの時間にしては賑わっていて、いつも座るカウンター近くの席は埋まっていたので、大テーブルの奥に二人で座った。私たちの姿を見つけたマスターは、片手だけをあげて「いま行くから」とカウンターの中から叫んでいた。女性客ばかりのおしゃべりはマスターの声もかき消されてしまうほどうるさかった。しかし、私たちが席に着くとみんな次々とお会計を済ませて出て行き、結局オーダーをする前には、同じ大テーブルに相席で座っていた女性客が一人だけ残っただけになった。

「早じまいするときに限って混むんだよね」とマスターは言いつつカウンターから出て来て「こっち来る?」といつもの席を片付けてくれた。

「ごはんとカレーを取っておいたけど、いいよね?」とマスターは言って急いで作りはじめてくれた。リナは、その背中に「外に四時までって書いてありましたけど?」と声を掛けた。

「そう、ちょっと行かなくちゃいけないところがあって、戻ってはくるけど、沙夜子と二人で食べてて。沙夜子、鍵渡しておくから、もし僕が遅くなりそうだったから鍵閉めてもらっていい」と言った。沙夜子さんは

「いいけど、どこいくの?」と尋ねる。

「乃木坂、スタジオ。ちょっとだけ顔だして帰ってくる」

「あのCM絡み?トラブル処理?」

「正解」

「ご苦労さま」と沙夜子さんはあっさりと事情を理解したようだったけれどもリナにはなんのことだかさっぱりわからなかった。マスターは私と沙夜子さんにそれぞれカレーと日替わりを出し終えたら、外看板をしまって慌てて出ていってしまった。「戻るから、沙夜子よろしくね」と言って。

 リナは、沙夜子さんと向かい合ってカレーを黙々と食べた。沙夜子さんもお財布と文庫本をテーブルの角に重ねて、ごはんを食べることに集中していた。いつもの軽妙なおしゃべりが無いので、なんか不機嫌なのかなと思ってリナは少し緊張しながら余計なおしゃべりをしないでいた。ごはんを食べ終わると沙夜子さんは自分のお膳をもってカウンターの中に入っていって

「リナちゃん、アイスコーヒー飲む?」と聞いてきた。

「マスターいなくても大丈夫なんですか?」

「アイスなら出来る。ホットは無理。冷蔵庫の状況はだいたいわかるから」

「じゃあ、お願いします」

「かしこまりましたー」と沙夜子さんは冷蔵庫と冷凍庫を交互に開け閉めして、アイスコーヒーを出してくれた。私のカレー皿も下げてくれて、席に戻ってきたので、マスターが何しに出かけたのか詳しく聞いてみた。

「あたしもそんなに詳しくはしらないけど、あの人もともとは音楽プロデューサーとかでしょ、だからいまでも時々仕事を頼まれるみたい。もっぱらトラブル処理だけど、と本人は言ってた。あの人の一言で問題が解決することもあるみたいよ」

「かっこいいですね」

「どうかな、あぁ見えて怖かったみたいよ、昔は。だからみんなをビビらせて解決したことにしてたりして」

「そうなんですかぁ」

「知らないけど、頼られてるのは確かね」

「話変わりますけど、沙夜子さんとマスターって付き合ったりしないんですか?」

「この前も誰かに聞かれた、それ、だれだっけなぁ」

「やっぱみんなそうおもってるんだ」

「あっ、思い出した。イケメンデザイナーの奥さんだ」

「だれですか?それ」

「あのさぁ、あれ知ってる、Sって言う女優さんが出てるお酒のCM、あの瓶のデザインとかやってる売れっ子のデザイナーの事務所がこの近所にあってね、その奥さんがこの前ここに来て、おんなじこと聞かれた」

「知ってます、そのCM。で、沙夜子さんなんて答えたんですか?」

「事実婚の奥さんの役ならやったことあるって」

「事実婚?」

「婚姻届は出してないけど、実質的に結婚しているような状態っていうのかな」

「そうなんですね」

「の、役だよ、役、演じたの」

「状況がさっぱりわかりません」と言うと

「ずいぶん昔の話だけど。説明すると長いからさ、洗い物しながら話すよ、一緒にやろっ、そのうちマスターも帰ってくると思うから」と沙夜子さんに言われて、なぜだか沙夜子さんと二人でカフェの洗い物をしながら、その事実婚話を説明してもらった。話の中で一番印象に残ったのは、マスターは事実婚が似合う、と言われたということ。言われれば確かに事実婚っぽい、とか考えていて、ちょうどほぼ洗い終わり食器も棚にしまいきった頃に、沙夜子さんの言う通りマスターが帰って来た。「ほら、来た」と沙夜子さんは言って中からドアの鍵を開けた。

「おかえりー」という沙夜子さんはまるでやはりマスターの奥さん(事実婚の)のようだとリナは思った。

「リナちゃんと洗い物しといたよ」

「ありがとう、悪いことしたね、コーヒーでも挿れるよ」とマスターが言うのでリナは

「アイスコーヒーもいただきました」と沙夜子さんのほうを見ながら答えた。

「やっぱり、もう沙夜子にまかせられるな」

とマスターが言うと、すかさず沙夜子さんは

「だから美味しいもの作れないって」と言って氷だけになってしまったアイスコーヒーのグラスのストローをすすった。





 佐谷木は、突然カフェのマスターから連絡があってびっくりした。本当なら片瀬さんから先に事情説明があって、その後に電話がかかってくるはずだったのが、少しだけ順番が逆になってしまったということが後でわかった。マスターと話している時にキャッチでかかってきていたのが片瀬さんからの電話だったのだ。要件は、例のCM曲の件だった。片瀬さんからも、もしかしたら少しだけ手直しをお願いするかもしれないから、すぐ取りかかれるようにこの一週間のうちに締め切りのある仕事は受けないようにすると言われていた。マスターの話は、かなり具体的で、これからスタジオで歌入れがあるのだが、場合によっては、歌詞とメロディーを一部変えるかもしれないということだった。実際に変える箇所とその内容を三パターン教えてくれて、もし、その中のどれかになっても君は大丈夫か?君の作品として世に出しても大丈夫か?ということだった。正直どの変更パターンも、佐谷木には許容範囲で、もっと言ってしまえば違いは微々たるもので、指摘されなければわからない程度話のものだった。マスターは、できる限りオリジナルのままいくつもりだけれど、と言ってから、「ありがとう、また結果はすぐ知らせるから」と電話を切った。佐谷木は、マスターが示してくれた変更パターンを再度確認しつつ、プロというのはここまで細部にわたってこだわるのかと、かなりショックを受けた。それとも、それはマスターに限ってのことなのか、現場でどういう作業が進行しているのか気になって仕方がなかった。その日の深夜に、OKテイクの仮ミックスという音源が片瀬さんから送られてきた。すぐに開いて聞いてみた。マスターが示してくれた変更パターンはどれも使われていなくて、オリジナルのまま歌われていた。後で、片瀬さんが教えてくれたことだが、大物タレントは歌詞を変えたいと言い出していたが、いざレコーディングの現場にマスターがいることを知ると、そんなことは言ってないとうような顔をして、オリジナルのままを素直に歌ったのだそうだ。いったいマスターは昔そのタレントに何をしたのだろうかと、その現場にいたスタッフ達の間ではしばらく噂になったそうだ。いずれにしても無事に佐谷木の楽曲がCMに使われてシングル曲としてリリースされた。何か環境が変わったかと言えば変わったかもしれないが、実際、多額のお金(と片瀬さんが言っていた)が振り込まれるのは半年以上先ということなので生活自体は何も変化はない。自分がテレビやCMに出ているわけでもないから街を歩いていても誰からも声をかけられることもなく、気兼ね無くコンビニで買い物も出来る。買い物をしていると店内のBGMに自分の曲が流れることもあって、レジでお金を払いながら、この曲は僕が書いたんだよ、と心の中でレジのバイトさんに話しかけてみたりする。実際にそう言ったらどんな顔をするだろうか、えーっ、すごい、か、ヤバイ、頭がおかしい奴が来た、かのどちらかだろう。たぶん後者の方が多い気がすると自分でも思うから実際には黙っている。作家というものは、そこそこ売れてもこういう環境は変わらないのだろうと思うと、なかなか良いものだと改めて思った。マスターから電話をもらって以来、カフェに行っていない。そろそろカレーが食べたいと思っているのだけれど、片瀬さんが、今度一緒に行ってお礼を言おう、と言うのでひとりで先に行くわけにはいかず、片瀬さんからの連絡待ちになっている。コンビニでもカレーを買うのを我慢する。大きな仕事が無事に終わった後に、最初に食べるカレーは、マスターのカレーであるべきだとなんとなく思うからだった。






 優馬が辞めた穴をどう埋めていこうかと、野田貴之は秘書の宅間さんともう一時間以上議論している。実際に優馬から辞表が出されたわけではないのだけれど、ほぼ百パーセント辞めるのは確実なのだった。宅間さんは、まずは求人を出す事が一番だと考えていて、野田はこれを機に事務所の仕事の内容を見直したいと考えている。自分もデザインがしたくてこの会社を作ったはずなのに、規模を大きくする方向に会社をもっていきだしたら経営者の雑務に追われ、現場から遠ざかってしまっている現状に嫌気がさしているのだ。規模を縮小するなんて経営者がやることじゃないという宅間さんの言い分ももっともなのだけれど、野田は、もう一度、自らデザインをしたいという気持ちの方が優っていると自分ではわかっている。しかし、いまのスタッフ達の生活も考えなくてはならない。だから結論が出ないのだ。カフェはランチタイムを過ぎているので、お客さんは自分たち二人の他には、女性客がひとりしかおらず、マスターも手持ち無沙汰にカウンターに座って本を読んでいる。おそらく自分たちの会話は全て聞こえているだろうと思い、野田はマスターに声をかけた。

「どうしたらいいと思う?マスター」と。

「野田さん、決めてるでしょ、結論」

「そうなんですか?」と宅間さんは怖い顔をする。

「宅間さんも、わかってるでしょ、野田さんの性格。そうしたいと思ったらもうそれだけ。だから、そうするための段取りとか、方法を具体的に決めていけばいいんじゃない」

「野田さん、どう決めてるんですか?」と宅間さんが詰め寄ってくる。仕方なく野田は

「小さくする。最初みたいに」と答えた。

「あぁ、言っちゃった」と宅間さん。

「最初、三人でやってたみたいに。僕と喜一、と宅間さん」

「いまさら三人だけで何が出来ますか?私だってもうマック使いこなす自信ないです。喜一もあんまり無理のきく身体じゃないし。野田さんできますか?デザイン」と宅間さんはいつもまっとうな事を言ってくれる。

「やりたい、それだけ。出来る範囲で。考えてるのは、今年入ったミナちゃんだけ残して、四人でやる」

「他のスタッフは?」

「知り合いに紹介するか、優馬のところに行ってもらう」

「野田さん、そこまで決めてるなら、もう優馬を呼んで話したら。あいつ奥さんのこと気にして煮え切らないでいるから。この前、咲季さんが来たんだよ、どうしたらいいでしょうって。あれからひと月くらい経つけど、なんにも言ってこないから、あいつにはちょっと、背中を押してやることが必要な気がする。ちょっとだけね。あいつの才能を生かすには」

「最後まで手がかかるな、あいつ」と野田は言ってみたが、

「野田さんも、そうだったよ、独立する時」とマスターに言われて、確かにお世話になった社長に呼び出されたことを思い出した。

「喜一には、話したんですか?」と宅間さん。

「あぁ、あいつは僕に任せるって、いつもそう」

「らしい」

「一応、もう絵だけで食っていけるから、付き合ってくれなくてもいいと言ってみたけど、やだ、って。一緒にやるって。なんかひとりで黙々と絵だけ描いてるの嫌なんだって、さびしんぼうだから、仲間に入れてほしいって」と喜一の意向を宅間さんに伝えた。 宅間さんは、黙って手元のペンをいじって何かを考えている。

「喜一くん、あの渋谷の壁画そうだよね?」とマスターが沈黙を破ってくれる。

「そう、ああいう仕事が入ると全く会社の戦力としてはあてにならないんだけどね。だからミナちゃんが要る」

「わかりました。よろしくお願いします」と宅間さんは、野田を正面から見つめそう言って、深々と頭を下げた。

「ちょっと血糖値上げたいんで甘いものたべていいですか?」と宅間さんは言い、ガトーショコラとチーズケーキのハーフ&ハーフを、野田もつられてチーズケーキを半分だけ頼んだ。マスターは、ケーキを出すと奥に座っている女性客とこちらには聞こえないくらいの小さな声で話をはじめた。どことなく親密な空気感がその二人には漂っていると野田は思った。宅間さんは、ケーキを食べながらずっと黙っている。さっき、よろしくお願いします、と言われたきり事務所の話題を持ち出していないのだけれど野田はもう少し具体的な相談を宅間さんにしたいと思っていた。しかし、なんとなく今日は、もうその話題は終わり、というような空気感が宅間さんに漂っているのだった。こういう場合、下手に話題を再開すると、宅間さんは機嫌が悪くなってしまうということを野田は経験上よく知っている。それで何度喧嘩をしてしまったかわからない。ケーキを食べて落ち着いている宅間さんをわざわざ怒らせる必要もないかと思い今日はこのままおとなしく帰ろうと思った。すると宅間さんが小さい声でボソッとと言った。

「マスターと話している人、誰ですか?」

「さぁ、知らない」

「なんか、いい感じ」と宅間さん。

「やっぱり、そう思う?」

「思う」

「だよね、今度聞いてみる」

「文庫本と財布だけもった、上質な白いワンピースね」

「了解」






 沙夜子は迷っていた。今勤めている介護施設から正式な職員として働いて欲しいと打診をされていた。パートという今の立場は、収入的には不安定だけれども、自分の時間を自由に使えるという気楽さもあって、正直、満足もしていた。施設の理事長は、とても素敵な女性でいつも母親のように沙夜子のことをあれこれ気にかけてくれていて、沙夜子も大学生の時に亡くした母親の面影を理事長に重ね合わせて見てしまうこともあった。今回の打診も理事長自らの希望だと聞かされていたので、どうにも自分一人では判断がつかなかった。こういう時の相談相手として、真っ先にいつものカフェのマスターが思い浮かぶのだけれど、いろんな人の身の上話を散々聞かされているのを知っているので、自分までもがこういう相談をして良いのだろうかと、二の足を踏んでいた。やはり、今日も近くのデザイン事務所の社長が、今後の会社のことやスタッフのことをあれこれとマスターに相談をしていた。沙夜子は、ごはんを食べ終え、コーヒーもほぼ飲み終わってしまったので、持ってきた文庫本に目を落としていた。この本は、もう何度も読んでいて、どこを開いてもストーリーの展開は分かっているので、文字を追って言葉のリズムを楽しむような読み方をしている。自分の血液の流れるリズムと言葉の持つリズムが同機してなんとも形容しがたい心地よさが生まれるのを楽しむのだ。大学に入るくらいまでは読書は苦手だと思っていたのだけれど、言葉のリズムと自分のリズムとが同機する快感を味わってからは、本を買うようになった。書店で気になったタイトルや装丁の本をランダムに手にとって書き出しの三行くらいを読めば、ほとんどの場合、自分のリズムと同機するかどうかという判断がつくのだけれど、時には三ヶ月近くそういう本に出会えないこともあって、そういう時は何度も読んでいる本を持ち出すことになる。しばらくするとマスターはデザイン事務所の社長との話を切り上げて、隣に座った。

「で、どうしたの?」とマスターは小声で聞いてきてくれた。私も小声で、理事長からのオファーの話を手短に説明した。自分の気持ちが定まらないということも。

「定まらない理由はなんだろう?」というのがマスターの一言目だった。

「いまの状態でなんとなく満足してるから」と沙夜子は答える。

「いまの状態って?」

「パートで、時間に自由がある」

「そう。でも、理事長の申し出だから悩んでるってこと?」

「そう」

「やってみてさ、違うなって思ったらまたパートに戻れば。もしかしたら、その理事長が沙夜子が正規で働いてくれることにものすごく喜んでくれてさ、なんか更に良い関係になれれば財産だし、もしかしたら正規のスタッフになったらちょっと今までとは対応が違ってくるかもしれないし、それはやってみないとわからないことだから。変な言い方だけど、あまり人を信用しないほうがいい。最終的には自分のためになるかどうかでいいよ。それは、単純に正規スタッフで安定するということや、理事長が喜んでくれることで沙夜子が幸せになれるということも含めて。誰かの為とかでスタートすると失敗する気がする」

「そうかぁ。なんか久しぶりに誰かに本当に求められてる気がして、嬉しいのはうれしいんだよ」

「わかる。あと、いまの気安い生活もずっとだと飽きるよ、きっと」

「それも、わかる。あまり構えないでやってみればいいかなぁ?」

「うん、たぶん。やっぱり理事長と合わなかったとかになったら、うち来てよ」

「出た!だから料理できないの。それとも、それ、プロポーズ?」

「かもね」

「マスターにしては、下手ね」

「確かに」

と二人でコソコソ笑っていると、デザイン事務所の社長がお会計をして帰ると言って立ち上がった。一緒にいる女性は、沙夜子と目が合うと、軽く挨拶めいた感じで少し頭を下げて先に店を出ていった。恐らく、マスターとの会話を聞いていたせいで、そんな風になったのだろうけれども、盗み聞きされたというような罰の悪さを感じるということは全くなく、どちらと言えば、後押しをしてくれているというような信頼感のようなものを沙夜子は感じた。二人が出ていったので、沙夜子はさっきの女性についてマスターに尋ねてみた。

「宅間さんっていって、野田さんの秘書。でも、もともとは彼女。立ち上げからずっと一緒にやってて、一時期は結婚するとかしないとかいう話しも出てたけど、今はあんな感じ」

「あんな感じ?」

「長年連れ添った夫婦みたい」

「確かに」

「宅間さんはすごく優秀だから、野田さんは絶対に手放さないって言ってる、だから奥さんに尻に敷かれている感じが出ちゃうんじゃないかな、二人だけだと」

「あたし、あの人好き」

「わかる気がする、なんか似てる」

「そう?」

「尻に敷きそう」

「マスターも敷かれたい口でしょ?」

「そう野田さんタイプ」






 片瀬さんからカフェに行こうと誘いがあったのは、あのCM曲がリリースされてから二ヶ月くらいが過ぎてからだった。その間に何度かコンペに提出する曲や小さなCMの仕事の連絡はあったのだけれど、事務的な連絡を手短に済ますだけで、カフェに行く話にはならなかった。佐谷木は、片瀬さんは忘れているんだろうかと思いはじめていて、そろそろ一人でマスターのカレーを食べに行ってしまおうかと考えていた時だった。「明日空いてる?」と片瀬さんはいつもの忙しい時の勢いで電話をしてきた。こういう時、佐谷木はとりあえず「空いてる」と答えることにしている。余程の予定でない限り、片瀬さんの誘いを最優先にして他の予定を調整する。そうでもしないと次に片瀬さんから誘いが来るのがいつになるかわからないからで、場合によっては二度と同じ誘いがないまま時間が流れていくことになるという経験を何度もしてきている為だ。「二時半にマスターのカフェで。カレー食べよう」と現地での待ち合わせをして電話は切れた。マスターに会うことを考えると佐谷木は少し緊張した。今までは、片瀬さんの知り合いのカフェのマスターで、昔、音楽関係の仕事をしていた人、という認識止まりだったのだけれど、この前のCMの仕事の時にもらった電話があまりにもプロフェショナルな感じだったからだ。約束の水曜日に佐谷木は五分ほど早めにカフェに入った。入れ替わりに女性が一人席を立って出ていった。佐谷木は見たことがあると思い、あっ、と小さな声をだしていた。「こんにちは」とその女性は言って佐谷木を正面から見つめた。以前会った時と同じように文庫本と財布を持っていたので、佐谷木も間違いなくここで会ったことがある人だと分かって

「こんにちは」と挨拶をした。

「CM、よく見ますよ」と言われて、佐谷木は

「どうも。マスターのお陰で」と言い、カウンターにマスターの姿を探した。その会話を聞きつけてマスターも出てきてくれて

「沙夜子、お店の常連さん」のその女性を紹介してくれた。

「とりあえず、今は。ごゆっくり、私はかえります」と沙夜子さんは佐谷木とマスターに交互に視線を投げ、帰って行った。マスターが黙ったまま沙夜子さんの後ろ姿をずっと見ているので「どうかしました?」の佐谷木は尋ねた。

「いま、とりあえず、今は、って言ってたよね?」とマスターに聞かれたので

「はい、そう言ってました」と答えた。その言葉に何の意味があるのか佐谷木にはわからなかったが、マスターは「だよね」と言って深く息を吐いた。

「どこにしますか?」と尋ねられたので

「片瀬さんと待ち合わせで」と答えると、一番大きなテーブルに案内された。オーダーはカレーと決まっているのだけれど片瀬さんが来るまでぼんやりメニューを眺める。しばらくすると店の外から片瀬さんが電話をしている声が聞こえてきた。片瀬さんは、メールやラインではなくほとんどの場合、電話で要件を済ます。「その場で解決しておかないと忘れるから」と「相手の感情がよくわからなくてモヤモヤする」というのがその理由だと前に教えてくれた。なので片瀬さんはいつも誰かと電話をしているという印象で、それもかなり強い口調とよく通る大きな声で相手を圧倒している感がある。万人が美人だと認める容姿をしているので、周りの男性たちは、一度はフラフラと寄っていくのだけれど、仕事の電話をしている片瀬さんを見ると怯んでしまって少しずつ距離を置くようになる。いつか自分もあんな風に電話でやり込められるのではという要らぬ想像が働くのだ。(これは片瀬さんに言い寄ったことがあるというレコード会社の人が言っていた)

「お待たせ」と片瀬さんは言い、向かいの席に座って、大きく息を吐いた。さっきのマスターの吐いた感じとそっくりだと佐谷木は思った。片瀬さんはまたすぐ立ち上がって「来て」と佐谷木を手招きしてマスターのいるカウンターまで行き

「マスター、お礼が遅くなってすいません。その節はありがとうございました」と頭を下げた。佐谷木も真似て頭を下げる。他にお客さんがいたら、なんとも奇妙な光景だったろうけれども幸い佐谷木と片瀬さん二人だけだった。かなり体育会系だなぁ、と頭を下げながら佐谷木は考えていた。マスターは冗談めかして「押忍!」と答えてから

「でも、よかったよね、オリジナルのままいけて。あいつの言う直しはセンスないから」とまた、例の大物シンガーをあいつと言って笑っていた。カレー二つとコーヒーも二つ頼んで席に戻ると、テーブルの上の片瀬さんのスマホの画面には何軒ものメールの受信を知らせる表示が出ていた。片瀬さんはチラッと画面を見てからスマホを裏返して「しばらく無視」と言って微笑んだ。こういう表情や仕草はやはり美人がやると様になっていて素敵だなぁと佐谷木も思ったりするのだけれど、未だに片瀬さんを目の前にするとかなり緊張するのだった。

「お腹すいたね、もう三時よ」

「はい」

「佐谷木くん、ちょっと私、考えてることがあってね、とりあえず聞いてくれる?」

「はい」

「佐谷木くんさぁ、自分で歌ってみない?裏方の方が良いって言っておきながらいまさらだけど」

「そうですね、いまさらですけど」

「なんかね、ちょっと時代も変わって来ていて、表に出なくても売れる気がするの。ネットだけとかで。私がこの仕事を始めた時とは時代がもう違うなって最近さらに感じていて、今までの方法論とか考え方ではないところで結果が出ているなって。でも、作品が良くなくちゃダメなんだけど。逆にいうと、作品が良ければ大丈夫ってこと。ビジュアルとか露出方法とかに左右されないでいけるというか」

「はい。でも、それって、作品が絶対的にというか、圧倒的に良いってことじゃないですか」

「そうよ。だからそれをやるの。圧倒的に良いやつを。やりたいでしょ?本当に音楽が好きでね、この仕事を始めたのに、いつの間にか純粋に良い音楽だけを追求する仕事じゃなくなってしまったなって思っていて。このままだったら後悔するなって、私。この前みたいな大きなタイアップの仕事も良いんだけど、やっぱり大事にすべきポイントが違うのよね、ああいうのは。だからね、佐谷木くんがどうしたいというより、私がやってほしいってことかもしれないけど」

「どうしたんですか、急に」

「急に思いついたわけじゃないの。ここしばらく、ずっと考えてたの。このままいつまでこういう仕事ができるのかなって。佐谷木くんと私、ずいぶん歳が離れてるのよ、わかってる?いつまでも若いつもりで、佐谷木くん達の世代と共通の価値判断が出来ると思ったら、それは無理なの。そこが分かってるから、どうしようかなって。今ね、佐谷木くんに勢いがあることは分かる。それは長年やって来た感覚で間違いはないの。だから今やっておくべきだなって。でもなかなかそういうタイミングで作品づくりの機会に巡り合うことも無かったりして、終わってしまう人のほうが多いの。基本はね、佐谷木くんが良いと思うものを作ってもらって良いわ。私達はそのためのお膳立てというか、交通整理みたいなことをやる」

「私達って?」

「私と、マスターよ」

「えっ、マスター?」

「そう、ここにいるマスターよ。もう頼んであるから大丈夫。大丈夫っていうか、マスターがね、私に、佐谷木くんの作品作ったらどう?って言ってくれたの。私がこの先どうしたらいいかって相談したら。それで、いろいろ考えた結果」

「マスターが何かしてくれるんですか?」

「そう。簡単に言うと、ディレクターというかプロデューサーというか。昔みたいに。どう?」

「どうもこうも、ないですけど」

「けど?」

「ちょっと怖い、っていうか、さらに緊張する、っていうか」

「さらに?」

「片瀬さんとでさえ、僕、緊張してるんですよ、だからマスターは、ちょっとヤバイなぁって」

「大丈夫よ、いまはもうただの優しいおじさんよ、音楽通の」

「誰がただのおじさん?」とマスターがカレーを持って登場した。

「佐谷木くん、よろしく。僕はただ片瀬さんに雇われた現場監督みたいなものだから、全ては片瀬社長次第だよ」

「いや、マスターのディレクション厳しいから、私の出る幕はないかと思ってます」

「とりあえず、カレー、食べて」とマスターは言ってまたカウンターの中に戻って行った。佐谷木はカレーを食べながら、あのCM曲の直し案の確認をしてきた時のマスターからの電話のことを思い出していた。あんな風に自分の時も細部にこだわって聞いてくるのかと想像すると怖くもあり、楽しみでもあった。とりあえず今あるストック曲を全部マスターに聞いてもらうことから始めることになって、その日はあまり具体的な話はぜずに終わった。帰り際に、片瀬さんはマスターに深々と頭を下げ、さらに固く握手を交わした。そんな片瀬さんは今まで見たことがなかったので、佐谷木は戸惑ったままカフェの入り口に立っていた。

「さあっ、行こう」と片瀬さんはいつものように早足で歩き出し

「なんか楽しくなってきた。佐谷木くん、よろしくね」と言って、また電話で話し始めた。佐谷木は、片瀬さんの後ろを歩きながら、何かがはじまったのだということがようやく分かってきて、少し身震いがした。






 野田社長と宅間さんと二時間近く会議室に缶詰めになっていた優馬は心底疲れ果ててカフェに入った。午後のこの時間によく見かける白いワンピースの女性がカウンターのすぐ近くの席で本を読んでいるだけで、他にお客さんは居なかった。マスターは、ひとこと「お疲れ」と言って水を出してくれた。とりあえずコーヒーを頼んで、椅子に深くもたれかかり、野田社長と宅間さんの言葉を思い返す。結局は独立に関しては了承という以上に応援してくれるようだったけれども、同時に今の会社の規模を縮小すると言って、スタッフを一部引き受けて欲しいという話まで出てきた。そうなると独立というよりも今の会社を分社化して、その一方を優馬が代表を務めるということとあまり変わらないのではないかと思えてきたのだった。咲季と二人で新たに始める会社というイメージとはかなり違ってくる。確かに、野田社長の言うような形を取ればすぐに仕事はあるわけだし安定はするので、咲季も安心するだろうけれども、優馬はなんだか面白くなかった。苦労を買って出たいなんていうわけではないが、何か大きなものに絡め取られているようで独立という言葉の持つロマンというか野望というようなワクワクする感じが無いのが物足りなく思えた。野田社長は多分マスターには会社のことを相談していて、規模を縮小する話も、優馬の処遇に関しても既に知っているはずで、今のこの疲れ果てた自分を見れば何があったかを察知しているんだろうなと思っていたら、案の定、サービスでケーキを出してくれて、

「独立の話、まとまった?」と声をかけてきてくれた。

「はい、でもなんだか独立というより分社化って感じです」

「まぁ、確かに。でも、咲季さんは安心するんじゃない、とりあえず」

「そうだと思います」

「いい話だと思うよ。野田さんの親心だからさ、わざわざリスクを背負う必要ないから」

「そうですよね、普通は。でも、独立っていうワクワク感がないというか」

「わかる、けど今は、それは要らない。徐々に自分の形にしていけばいいじゃん。なんだかんだ言っても優馬の会社になるんだから。好きなように変えていけばいい」

「はい」と優馬は返事をしてみたものの、すっきりと受け入れるには少し時間が必要だと感じていた。

 白いワンピースの女性は、さっきからずっと文庫本に目を落としたままなのだけれど、なんとなく本を無心に読んでいるという感じではなくどこか上の空でただ活字を追っているだけといった雰囲気が伝わってくる。しばらくぼんやり見ていたら、こちらの視線が気になってしまったらしく、その女性は優馬の方に視線を向けて軽く会釈をするような仕草をして、また本に目を落とした。スマホに咲季からのメッセージが表示される。「今夜は、片瀬さんとご飯に行くので、夕飯は冷蔵庫にあるカレーでね。お願いします」と。そうだった、と咲季の予定を思い出す。ずいぶん前にここで偶然会った片瀬さんのことを咲季に話をしたら、その後、二人は連絡を取り合い頻繁に会うようになって、昔、会社で同僚だった時の以上に仲良しになっていた。あの時以来、このカフェでは片瀬さんに会っていないが、咲季の話だとよく利用していると言っていた。片瀬さんはずいぶんとやり手のプロダクションの社長だと咲季から教えられていたので、少し話をしてみたいと優馬は思っていた。独立に関して不安があるわけではないのだけれど、同じように個人で事業を始めた先輩から何か有益な話が聞ければいいと考えていた。優馬も見たことのあるCMで使われている有名な歌手の歌は、片瀬さんがマネージメントをしている作家の作品だと、咲季は自慢げに説明してくれた。加えて、その歌手はここのマスターが育てたのだとも。その育てたという意味が優馬にはよくわからなかったし、話している咲季もきちんとその意味合いが分かっていた風でもなかったので、機会があったらマスターに直接尋ねてみようと思っていた。優馬は、咲季に返信をする。「了解!いまマスターのとこでお茶してる」と。すぐに咲季から

「マスターに、よろしく。今夜、片瀬さんと会います、とお伝えして」と帰ってくる。「了解」と優馬の返信で終わる。

「今日、咲季が片瀬さんと食事に行くと言ってました。マスターによろしくお伝えしてと」

「そう、今夜行くんだ」

「あの二人、妙に仲良くなって」

「もともと同僚でしょ」

「でも、会社辞めてからは会ったりはしてなかったと思います。マスター、あのCMの曲歌ってる歌手、育てたって、ほんとですか?」

「育ててないよ、ただデビュー当時の担当。最初に出会ったプロデューサーとかは、本人にとっては恩人というか怖い相手なんだろうね。向こうは右も左もわからない新人だから」

「そうなんですね」

「だからいまだに僕の言うことはよく聞くよ、あいつは」

「片瀬さんて、よく来ますか、ここに」

「そうね、来るけど、忙しくなるとパタッと見なくなる。この前久しぶりに来たけどね。それこそ、あのCM曲の作家と。今日も咲季さんと会うってことは、いまはそんなに忙しくないのかね」

「ですね。一度、片瀬さんと色々話してみたいと思ってて。独立のことで」

「あぁ、いいかもね、業種は違うけど、開業組だもんね。片瀬さん、やり手だし」

「やっぱり、やり手ですか?」

「やり手、って言うと響きが微妙だけど、熱意があってセンスがある。なんとなく上手くやれる空気感がある、彼女との仕事は。そんな感じ」

「いいですね、理想です」

「咲季さんも、それを感じて仲良くなったんじゃない。頼れる感じがね」

「そうなんですか?」

「僕はそう思う。優馬と一緒にやるために何かを得ようとしてるんじゃない、彼女なりに、ね」とマスターは、カウンター前の席で本を読んでいる女性に話を振った。女性は顔を上げて

「そうね」と優馬の目を見ながら答えた。優馬は少し緊張して

「はい」とだけ言ってマスターを見る。

「沙夜子はね、咲季さんが相談に来たときも偶然居て、一緒に話を聞いてもらってよく分かってるから大丈夫」

「あっ、沙夜子さんですね」

「優馬くん、知ってたっけ?」

「いや、咲季がマスターと一緒に話を聞いてくれた沙夜子さんという人がいて、って言っていて、あの人なんか好きだなって」

「あら、嬉しい」

「なにその、おばさん口調」とマスターが突っ込む。

「確かに、おばさんみたいだった、やばい」と沙夜子さんは少し赤くなり、照れながら笑っていた。優馬は咲季が好きだと言っていた理由がなんとなくわかる気がした。

「沙夜子、イケメンを前にするとおかしくなるからな」

「しょうがないよ、イケメンはイケメンだから。そういうマスターも若くて可愛い子の前だと変わるよ」

「そうなんですか?」

「現に、咲季さんには、すごい優しいから」

「旦那の前で、やめてくれる、沙夜子」

「ごめんー」と沙夜子さんはまた無邪気に笑い優馬を見た。

「私たち、咲季さんと優馬くんのこと、大好きだからね、親戚の伯父さん伯母さんみたいに」

「そうだね、親まで歳は離れてないから」

「ありがとうございます」と優馬はその瞬間独立の不安や迷いが和らいでいったように思えた。






 リナは試用期間を終えて、やはり東京に帰ろうと決めた。東京に何かがあるというより、写真が諦めきれないのだった。写真で食べていけるなんて夢だよ、という周囲の声に諭されて就職をしてみたけれど、日に日に写真への思いが大きくなっていく自分をもうどうすることも出来なくなっていた。何かあてがあるわけではないのだけれど、とりあえずはバイトをしながら写真を撮る日々に戻ってみようと考えていた。大学時代を過ごした自由が丘でまたアパートを探して、これからの自分の道を探ろうと思った。まずは、マスターのカレーを食べて。突然帰ったらあのマスターはなんと言うだろうかと想像してみる。自分の写真を気に入ってくれてはいたけれども、こんな風にあてもなく会社を辞めてしまった事に対しては、怒られるかなと少し不安になる。でも、仕方ない、もう辞めてしまったのだから。覚悟をきちんと伝えれば応援してくれるだろうと、自分を鼓舞してマスターに会いに行こうと思った。会社はリナが辞めたいという意思を伝えたら、試用期間を終えたばかりだったせいか、いともあっさりと「そうですか、わかりました」と理由も聞かずに受け入れた。そんなものかと、少し淋しい気もしたけれど、会社としたら試用期間を終えただけの新人のことをいちいち考えるより早いところ次の人材を探し始めた方がいいと考えるのだろうと思うとリナもすぐに気持ちの切り替えが出来た。部屋が見つかるまで、大学時代の同級生の部屋に居候をすることにして、会社の寮をすぐに出た。溝の口に住むその元同級生の美菜という子は、大学院に進んで栄養学の勉強を続けていた。実家は岡山で農家をしていて、いずれは自分も実家に戻って農業をすると決めていて、そのための勉強なのだと言っていた。自由が丘の駅前の不動産屋で、予算優先で部屋を探してもらったら偶然にもマスターのカフェの隣のアパートに空き部屋が見つかった。確かにリナの希望家賃を条件にすると駅から徒歩十五分というカフェのあるあたりになるのは頷ける事だった。不動産屋は、駅からは遠いですけど隣に人気のカフェがあるのでオススメですと言っていた。リナはあえて、カフェの常連ですとかは言わずに、駅から離れていることをネタに値段交渉をしてみたら、三千円だけ安くなった。リナにとっては駅から近いことよりカフェに近いことの方が優先事項だったのでラッキーなスタートを切れたとこの先の自由が丘生活に少し光が射したように感じた。荷物という荷物はなかったので、すぐに美菜の部屋を出てアパートに移った。引っ越しをした日は、カフェは定休日だったのでひっそりと静まり返っていた。人がいないカフェはなにか違う生き物のようにその存在を消していた。明日、お昼にマスターに会いに行こうと決めて、その日は、何もないガランとした部屋の隅で、ホームセンターで買ってきたばかりの毛布に包まって眠りについた。カーテンのない東の窓から差し込む朝日でリナは起こされる。自然のリズムと共に身体が活動し始める感覚は心地よかった。けたたましい目覚まし時計に鉛のように重たい身体を起こされていた研修期間とは雲泥の差だと思う。カフェが開くまでまだ時間があるので、一人暮らしに最低限必要なものを買いに行こうと買い物リストを書こうとしたのだけれど、今すぐにどうしても必要なものなんてないのではないかと思えてきてカメラを持ってただ散歩に出かけた。今のリナにはカメラとシャッターを押す時間があればそれだけで良かった。お昼にカフェに戻ると、混み合っていると覚悟をしていたのだけれど、まだ一組しかお客さんはいなかった。

「こんにちは」とマスターに声をかけると「また研修?」と聞かれたので

「いえ、違います」としか言葉が出てこなかった。いつも沙夜子さんが座っているカウンター近くの席に着き、カレーをオーダーする。自分の様子が変なのをマスターは見て取ったようで、とりあえずは何も尋ねてこない。そのうちに一度満席になり、一時を回ると多くのお客さんは席を立った。波が去ってマスターは、カウンターから「どうした?辞めてきたか?」と唐突に声を掛けてきた。リナはドキリとしてマスターを見上げた。

「はい。辞めました。やっぱり写真をどうしてもやりたくて、ダメでした」

「そう、まだ若いんだから、いいんじゃない。何度でもやり直せるよ、今なら」

「マスターに怒られるかもって、思ってました」

「なんで、怒んないよ。目的があるなら。何もないのにただ辞めるとかは駄目だけど」

「はい、でも、まだ、何も決まってません、これからです、全部」

「そうね、とりあえずは、食べていかないと、死んじゃうからね」とマスターは笑って言った。

「実は、隣に住むことになりました」

「隣?このアパート?」

「いえ、こっち側」

「高田さんの方ね。空いてた?」

「はい。だから、マスター、ご飯よろしくお願いします!」

「毎日ウチで食べてたら破産するよ、さすがに。自炊自炊」

「そうですよね、じゃあ、週一でカレーにします」

「わかった。あとさ、店番頼みたくなったら声掛けていい?そしたら賄いで、食べていいよ、なんでも」

「ほんとですかー?やります、店番」

「わかった。そうさせてもらうよ、こっちも助かる」

「沙夜子さん、元気ですか?」

「あぁ、相変わらず。でも、介護の施設の正規スタッフになるかで迷ってるみたい」

「会いたいなぁ、沙夜子さん」

「そのうちに、会うんじゃない、ここで」

「そうですよね。まだ夜勤は火曜日ですか?」

「そう、よく知ってるね」

「はい、前に約束した時、夜勤明けの水曜日だったので。じゃあ、今日夜勤ですね、てことは明日来ますか?沙夜子さん」

「まぁ、たぶん。何もなければ」

「私も来てみます、明日」


 沙夜子さんは、相変わらず素敵だった。リナを見るなり

「リナちゃん、ちょっと大人っぽくなったね」と言って、いつものように文庫本とお財布をテーブルの上に置き、深く息を吐いて椅子に座った。マスターに「ごはんとコーヒー、お願いします」と言い、リナをまた正面から見つめた。リナは、全てを見透かされているようなバツの悪さを感じ

「沙夜子さん、辞めちゃいました」と先に宣言した。沙夜子さんはクスッと笑い

「もともと無理だと思ってた、あんな地味な会社」と言い

「マスターになんて言われた?」と付け足した。

「やりたいことがあるならいいって」

「あら、そんなことを。まるくなったね、マスターも」

「そうなんですか?」

「今までなら、確実に説教だよ、給料は我慢料だとか言って」

「我慢料?」

「どれだけ我慢出来たかで、給料が決まるんだって、サラリーマンは」

「確かに、私なんかゼロ円。研修で辞めちゃったし」

「そうね、ゼロより、マイナスじゃない、会社としては」

「確かに」

マスターが私のカレーと沙夜子さんのごはんを持ってきてくれて

「誰が説教だと?」と笑いながら言うと、沙夜子さんは

「まるくなったって褒めてたのよ」と切り返す。やはりこの二人は、なんだかいい感じだとリナは思う。

「やっぱり、沙夜子さんとマスターは、一緒になった方がいいと思うんですけど」と思ったことをそのまま口に出してみた。二人はしばらく黙ってお互いの顔を見つめ合ったまま、どちらかが何かを言い出すのを待つような感じになった。沙夜子さんが先に

「とりあえず、食べよっ」と言うとマスターが続けて

「僕は、いつでもオッケーなんだけどね」と冗談なのか本気なのか、リナには判断のつかない微妙な言い方をする。沙夜子さんは、その発言については特に何も反応をぜずに、黙々とごはんを美味しそうに食べている。

「じゃあ、マスター、プロポーズしたんですか?」とリナはマスターをからかうつもりで言ってみた。

「ん?」と固まったマスターに沙夜子さんは、

「まだよね、ちゃんとは」

「ちゃんとじゃないのはしたんですか?」

「そうね、しょっちゅう、そんなことばっかり言ってる、最近」

「マスター、だめですよ、そのうち誰かに取られちゃいますよ、沙夜子さん」

「いいこと言うね、リナちゃん」

「この二人、怖いなぁ」とマスターは笑いながら厨房に退散して行った。すぐにまた戻ってきたマスターは

「リナちゃん、証人ね。沙夜子、僕と結婚してくれ」と言った。沙夜子さんは、ごはんを食べる箸を置いて

「ありがとうございます」とマスターを見て小さな声で答えた。その表情は、喜んでいるのか、戸惑っているのか、泣きそうになっているのか、リナには、そのどれにも見えて、ただ固まったまま二人を見ることしか出来なかった。






 優馬くんが、前向きに色々と引き受けてくれて、宅間は一安心した。もし、野田と仲違いみたいな形で独立するようなことになったら、お互いに残念な想いだけが残ってしまい、今後の仕事も上手くいかないような気がしていた。それにしても、野田は幾つになっても子供みたいにやりたい事しかやらないというスタンスを崩そうとしない。それが彼の魅力と言えば魅力なのだろうけれども、せっかく大きくした会社をまた最初の頃のような規模に戻すことにするなんて宅間には理解出来なかった。加えて自分のことは、どうするつもりなのだろうかと、モヤモヤが増すばかりだった。一度は結婚をという話にもなったけれども、あの頃はお互いにまだ若くて将来をきちんと見通せなかった。だから断ったのだった。でも、それ以降は、お互いに付かず離れずで、二人で会社を大きくしてきた。どこかに結婚のタイミングがあったかもしれないが、それに気づかずに今まできた。いや気づかず、というよりは、見ないふりをしていただけかもしれないのだが。そろそろ、と宅間は思う。今がそのタイミングなのかもしれないと。また最初の頃に戻る今が。もう、子供を持つ歳でもないし、お金をたくさん稼いで何か他人に自慢できるようなものを手に入れたいわけでもない。ただ、毎日を気心の知れた仲間たちと楽しく充実して過ごせればいいと思っている。それは、野田も同じ想いであって欲しいと思う。自分から結婚を言い出せばいいのだろうかと思うこともあるけれども、この歳の女が結婚を迫るというのは、かなりリスキーというか、イタい気もしていて、それは最終手段だと思わなくてはいけない。そんな風に考えると、野田はズルいと思えてくる。男は、あれくらいの歳で独身でも、特に世間体を考えることもなく、加えて自分の会社を持っているとなると、それなりの社会的信用も得られる。自分も、野田と同じように会社に関わってきたつもりだけれど、いま何かが残ったかというと、そんなものは何もないと感じる。ただ野田に感謝されて、信頼されていること以外は。そこに、野田の妻という立場が加わると世間体は格段と上がることは容易に想像できる。だから、自分から結婚を言い出すのが憚られるのかもしれない。あまりに安直で、誰しもが想像できる選択だから。もう、そんなことを言っている場合ではないと分かった上でも、そう思ってしまう。

あぁ、野田はズルい。「ズルい ズルい」と気がつくと手元のメモに書いている自分に気づく。もしかしたら口に出していなかったか不安になり、カウンターの中にいるマスターの様子を伺ってみたが特に変わった感じはなかったので、大丈夫だったのだろう。野田のことを昔から知っているマスターは、私たち二人のことも当然よく知っていて、結婚するとかしないとかという話になった時にも野田はマスターに相談をして結論を出したようだった。今の二人をどう見ているのか聞いてみたかったが自分の気持ちが定まっていない状況では、話しを聞いても仕方がないとも思う。他人に相談するというのは、ある程度、自分の中では結論が出ていて、その後押しをして欲しい時にするものだと宅間は思っている。今日カフェに来たのは、野田とのことを考えるためではなく母に手紙を書くためだった。もうじき誕生日を迎える母にプレゼントを贈ることにしていた。近頃はお盆や正月でさえも色々と理由をつけて両親の住むマンションに顔を出さなくなってしまっていたので、せめて誕生日プレゼントくらいは贈ることにした。確かちょうど七十歳になるはずだった。自分の母が七十歳になるということが正直実感できない。確か、祖母は七十四歳でなくなっていた。そのことはなぜが鮮明に覚えている。朝起きると家がなんだかざわざわしていて、着替えを済ませて二階の自分の部屋から居間に降りると白い布を顔にかけられた祖母が寝かせられていた。明け方に亡くなったと父が教えてくれて、まだ身体に温もりが残る祖母の手を握ったのだった。七十四という歳は、なにか大きな病を患っていなくても寿命だということで亡くなってしまう年齢なのだとその時に、はっきりと認識した。母が祖母と同じ寿命だというわけではないのだけれど、あと四年なんてあっという間に来てしまうと想像すると、なんともやるせない気分になる。自分も同じように歳をとっているということも含めて。高校を卒業してすぐに家を出て一人暮らしを始めて、それ以来、両親とは微妙な距離をはかってきたように感じている。姉夫婦は早々に結婚し三人の子供がいて、父も母もその三人の孫の世話をすることで、十分満たされたようで、自分に対してはもう結婚や孫といった話題を口にすることはなくなった。一時期、野田を紹介した頃は、少しは結婚云々という話題も出たけれども、それも自然となくなっていた。ただ母は野田のことを、とても気に入っていて未だに時々、話題に登ることがある。母は野田のことを木崎さんと呼ぶ。それは、紹介した当時やっていたテレビドラマの主人公を俳優のFが演じていて、その役柄がデザイナーで、役名が木崎だったのだ。決して野田が俳優Fに似ているわけではないのだけれど、母は勝手にその役柄のイメージで野田を認識しているようだった。正確には、ドラマの主人公は、建築デザイナーで野田はグラフィックデザイナーなのだから全く別物なのだけれど、母にとっては、デザイナーはデザイナーで、建築であろうがグラフィックであろうが違いは無いようだった。唐突に「木崎さんは最近どうなの?」と聞いてきたりするので、何に対してどうなのかよくわからないのだけれど「上手くいってるよ」という曖昧な返事で済ませている。母が、どういう意味で受け取っているのかはわからないが、余計な心配をして欲しく無いので、野田とのことはあまり深く話さないようにしている。恐らく、このプレゼントが届いたら電話をしてきて「木崎さんはどう?」とまた聞いてくるに違いないので、そろそろ母を喜ばせる返答をしたいとも思う。母のことをあれこれ考えてペンを走らせていると「宅間さん」と後ろから声を掛けられて、ビクッとして振り返ると、そこに野田が立っていた。いつからそこにいたのだろうかと思い「いま来たの?」と尋ねてみた。

「そう。打ち合わせが長引いて、ご飯食べそこねたからここでなんかたべようかと」

「そう。じゃあ、ここどうぞ」と向かいの席を進めた。

「邪魔じゃない?なんか書いてるんでしょ?」

「大丈夫、母への手紙だから」

「お母さん、何かあったの?」

「いや、誕生日だからプレゼント贈ろうかと。もう七十よ」

「そうか」

「未だににあなたのことを木崎さん、って言ってるわ」

「木崎って、確かあのドラマのせいでだったよね」

「そう。また木崎さんはどうなの?って聞かれるわ」

「どう、って?」

「母が何に対して、どう?って言ってるのか、私もいつもわからないの」

「そうなの?母娘なのに?」

「だって、高校出てから一緒には住んでないのよ。もう、わからないわ。加えて薄情な娘だから全然顔出してないし」

「ねぇ、プレゼントって何にしたの?」

「スカーフ。一応まだオシャレはしたいみたいだから」

「俺からもさ、プレゼントさせてもらっていい?」

「いいけど、何を?」

「君との結婚」

「なにそれ?」

「だから、君と俺の結婚の報告をする。お母さんに」

「それ、プロポーズのつもり?」

「そう」

「いまいちね、それ。やり直し」

「わかった、ちゃんとやる。マスター、ちょっと、証人になって」と野田はマスターを呼びつけ、プロポーズの立会いをお願いした。

「はい、野田さん、どうぞ」とマスターはからかっているのか淡々としている。

「マスター、なんか、他人事だなぁ」

「だって、他人事でしょ?」

「まぁ、いいや。行くよ、僕と結婚してくだい」と野田は片膝をついて右手を差し出した。まるで、ねるとんだ、とつい思ってしまう。そういう世代だ、自分たちは。なので、一応ねるとん風に

「よろしくお願いします」と言って野田の差し出した手を握った。マスターは「おめでとうございまーす」

と、全くとんねるず風ではなく、また淡々と言って乾いた拍手をした。なんだか可笑しくなって三人で顔を見合わせて笑い出していた。

「さっき、ズルいズルいって言ってたのが、嘘みたいな展開」とマスター。

「やっぱり、言ってました、私」

「うん、言ってた」

「何がズルいの?」と野田が呑気に聞いてきたので、

「自分だよ」と言ってみた。野田はマスターに説明を求めるような視線を向ける。

「野田さん、とにかく、おめでとうございます」

「おめでとう、でいいのか、俺?」という野田の質問をマスターは流して、

「宅間さん、お母さんも、喜びますね」と言ってくれて、野田には握手を求め、野田もそれに応じて、二人の男は硬い握手を交わしていた。宅間はようやく喜びがこみ上げてきて二人の男同士の握手を見ながら、堪えていた涙が流れてくるのをそのままにしていた。






 佐谷木とマスターの曲作りの作業はまだ始まったばかりだったけれど、佐谷木からは「刺激的で楽しくて仕方がない」というような内容のメールがもう何通も片瀬のもとに届いていた。いちいち全部に返信をするのも面倒なので、ランダムに返信を返していると「メール届いてますか?」というメールも来て、正直鬱陶しくもあるのだが、佐谷木がこれ程までに熱心に曲作りに打ち込んでくれていることを喜ばなくてはいけないと自分を戒めると同時に、マスターには感謝の気持ちでいっぱいになるのだった。ある程度、曲が形になるまでは片瀬の出番はないので、しばらく休暇でも取ろうかと、他の仕事はあえて断ってみているのだけれど、いざ休暇といっても何をしたら良いのか、どこへ行ったら良いのか、全くあてが浮かばない自分にげんなりしてしまう。連絡をとる遊び友達と呼べる相手は咲季くらいしか思い浮かばないが、咲季とはこの前会ったばかりだし、こういう時に飛んで来てくれる恋人も当然いない。これは仕事ばかりをしてきた結果で、自業自得だと自分で納得するしかないのだけれど、この先もずっとこういう人生になってしまうのかと想像すると、すぐにでも、今の仕事をやめるべきなのではないかとも考えてしまう。昔付き合っていた彼は「仕事をしている君の方が素敵だよ」となんだか理解のあるような言葉を残し、いつの間にか自分のもとを離れて、さっさと他の子と結婚をして、いまは二人の娘のパパになっている。その彼以降は、交際という交際もせずに、この歳まで来てしまった。いまさら十代、二十代の頃のように誰かに恋い焦がれるといった恋愛が出来るとも思えないが、誰かいい人がいたら結婚はしたいと、都合のいい希望はまだ持っている。そう言えばこの前、咲季が、ご主人の優馬くんが私に会いたいと言っていたことを思い出したので、時間もあることだしとりあえず連絡をしてみることにする。取り急ぎ咲季にメールをして、優馬くんの都合を聞いてみた。咲季からすぐに返信がきて

「綾さんに優馬から直接連絡させますので、アドレス教えて良いですか?」とあった。真面目な子だと、思う。自分の女友達のメルアドを自分の旦那に教えることに許可が必要な時代なのか。どちらかと言うと、咲季が他の女性の連絡先をご主人に教えるかどうかで悩む、ならわかる気もするのだけれど。すぐに優馬くんからメールが届く。二人一緒にいるのではないかと思えるくらいの速さだ。

「片瀬さん、ありがとうございます。お忙しいと思いますので、早いほうがいいですよね?明日か明後日の夜はご都合いかがですか?」とあった。別に忙しくはない、と軽く独り言のツッコミをいれつつ

「どちらでも、私は大丈夫です。優馬くん決めてください」とすぐに返した。しばらくしてから

「では、明日で、お願いします。場所は、こちらで、十九時に→」と自由が丘の駅近くのイタリアンのお店のURLにリンクしてあった。

「了解です。では、明日」とだけ返した。

これだけのやり取りをみると、デートだと言われればそうとも読み取れるが、現実は、年下の友達の旦那の相談に乗るだけだ。それでも、仕事以外で誰かと夜のレストランで会う約束をするというのは、久しぶりに味わうなんだかワクワクする感覚だった。翌日も特に予定もなく昼間は家でゴロゴロして過ごし、約束の七時より少し早く優馬くんの指定した店に着いた。雑居ビルの二階にあるこじんまりとした店で、男子二人で切り盛りしているようだった。通された席は、壁際の二人用のテーブルで、カップルが内緒話をするにはうってつけと言ったような場所だった。スマホに通知があり、優馬くんからで、十五分くらい遅れるとのことだったので、先に白の微発泡のグラスワインを飲んで待つことにした。初々しいカップルならば彼の到着まで水だけで待つのだろうけれども、そういう関係ではない。店員さんにも、その辺りの関係性を察してほしいと思ってそうした。変に気遣いされても面倒だ。優馬くんは、慌てて階段を駆け上がってきて、店内のみんなの注目を浴びて片瀬の向かいの席に着いた。こういうところが若いのだなと思ったがそれには何も触れず、ただ「こんばんは」とだけ言って

「先にちょっと飲んでるよ」と付け加えた。優馬くんは息を切らしながら

「じゃあ、僕は、ビールください」と店員に告げた。優馬くんはよく利用しているらしく、店員も「今日は早いですね」と気安く声をかけていた。

「えーと、こちら、咲季のお友達の片瀬さん。音楽プロデューサー、です、か?」と私に確認をしながら店員に紹介をした。

「まぁ、正しくは事務所をやっていてマネージメントのような感じです」と少しだけ訂正しておいた。店員は

「あっ、はい、よろしくお願いします」とだけ言って戻っていった。片瀬は

「たいていの人は、音楽プロデューサーとかマネージメントとかいっても実際なにしてるかわかんないのよね」と優馬くんの間違いはよくあることだという意味も込めて言った。

「すいません、僕もよくわかってません。で、何食べます、何か嫌いなものとかありますか?」と優馬くんはメニューと私を交互に見ている。

「まかせる、よく来てるんでしょ?好き嫌いはないから、なんでも大丈夫よ。お腹も空いてるからオススメを一通りお願い」と告げた。

「片瀬さん、独立して何年ですか?」

「いま、八年目」

「ずっと、一人で?」

「一時期、スタッフを入れてた時期も、あったけど、ほとんど一人」

「うちは、咲季も入れると三人スタッフがいることになるんですけど、大丈夫かなって」

「なにが心配?」

「人間関係というか、人を使ってとかいうのが上手くできるかなぁ、って」

「私は、全然無理だから、結局一人。そういう相談をするには不向きな相手よ」

「そうですよね、僕も基本的には、片瀬さんタイプだと自分では思っているんですけど、だから、とりあえず咲季と二人でと考えていたんですけど。咲季と二人でも上手く出来るか心配だったのに、スタッフを二人も抱えるなんて想定外です」

「でも、前の事務所で一緒にやってたスタッフでしょ?」

「そうですけど、それぞれに現場をやっていたので、僕が上に立って何かを指示したりとかいう関係性じゃなかったんで、彼らも微妙な感じかと」

「そういうのは、マスターとかに聞いたら?」

「もう聞きました」

「なんて言ってた?」

「だんだん関係性が出来てくるもんだから、大丈夫って、最初から立ち位置とか決めるとそれに縛られてギクシャクしてしまうって」

「そう考えられる余裕があればいいけどね」

「はい、余裕なんですよね、必要なのは」

「そうよ、ジタバタしない」

「でも、不安だし、ジタバタしますよね?」

「する」

「良かった、片瀬さんもそうで。それが確認出来ただけで良かったです、今日は」

こういう年下のいわゆる、社会人としての後輩と話しているとなんだか自分も一人前のような気がしてくるのだけれど、先々の漠然とした不安が無くなるわけではない。優馬くんにそういう不安の話をしても、いいのかどうか片瀬は迷う。今日ところはしっかりとした先輩ということだけで済ませた方がいいのか、もう少し弱いところもさらけ出して本当の距離感に近づけた方が良いのかと。当然、優馬くんは今日の話を咲季に報告するだろうから、咲季に伝わってもいい内容でなくてはいけない。となると、やはりしっかり者の片瀬でないといけない。咲季と同僚だった時は、たかだか二年先輩ということだったけれど、咲季は短大卒で入社して来ていて、自分は四大卒での入社だったので、年の差はそれなりにある。なので、常に咲季に対しては、姉のような感覚になるのだった。自分に妹がいないので実際の姉妹がどういう感覚なのかはわからないのだが、頼りになる姉の役を演じているような感覚なのだった。つまりは、目の前にいる優馬くんは、義理の弟的な存在ということになる。やはり自分の弱さを見せる相手ではない。料理は、ワンプレートで出てくるものが多く、その度に片瀬が取り分けた。優馬くんの分は、男性だし若いので自分の分よりもかなり多くよそっているのだけれど、あっという間に食べ終えていた。その食欲旺盛な感じは、やはり生物としての生命力のようなものを身体中から発しているようで、頼もしく感じるのだった。それは姉といより母のような視点だと自分で思って可笑しくなってしまった。

「優馬くん、よく食べるね」

「あっ、はい。最近、満腹中枢が壊れてるんじゃないかって、まわりのみんなに言われていて。いくらでも食べれてしまう感じなんです」

「いいことよ、頼もしい、なんだか」

「そうですか?大食いって、ちょっと頭悪そうじゃないですか?」

「そんなことないよ、大丈夫。咲季は料理上手なの?」

「はい、とりあえず一通りなんでも作れるみたいですけど。僕が料理をしないので、なんでもと言っても、よくあるスタンダードなものしか思い浮かんでないですけど」

「カレーとかハンバーグとか、ってこと」

「そうです、あと生姜焼きとか、唐揚げとかパスタとか」

「ファミレスみたい」

「確かに。片瀬さんは、料理は?」

「昔、イタリアンのお店でバイトしていたから、ここで出てくるようなものは大体出来るわ」

「すごい」

「クオリティは別としてね」

「でも、料理できる人って、なんかいいですよね」

「優馬くんも、そのうち作れるようになったほうがいいよ、きっと」

「そうですよね、出来たらいいなって思います。マスターとかみたいに」

「そうよ、マスターだって、最初は全然料理しなかったみたいよ。最初っていうのは、結婚したばかりの時ね」

「そうなんですね、あのぉ、聞いていいのかわからないんですけど、マスターって離婚したんですか?いまは一人って言うのは聞いたんですけど」

「亡くなっちゃったの、奥さん」

「えっ、死別、ですか?」

「そう。ずいぶん前に、病気でね」

「そうだったんですね、なんか離婚とかするのかなぁって、想像できなかったんで、マスター」

「綺麗な人だったわ、だからかな」

「はい」

「時々、カフェにいる、沙夜子さんって知ってる?」

「はい、あの、文庫本と財布だけ持って、綺麗な方」

「そう、彼女のお友達だったみたい」

「マスターと沙夜子さん、二人だとなんか、普通じゃない空気感がありますよね、なんていうか、親密なというか、上手く言えませんけど」

「たぶん、二人の間に今も奥さんがいるからじゃない、いつも三人は一緒だったって言ってた、だからね、あの二人には二人にしかわからない距離感というか、そういう繋がり方があるんだと思う」

「付き合ってるわけじゃないんですよね?」

「うん、その辺も微妙で、二人には付き合ってるとか、恋人同士とかそういう関係性は超えているというか、なんか普通の男女の尺度じゃないとこで、成立してるんだと私は思ってる」

「うーん、なるほど、というか、正直、ちゃんと想像できてないんですけど、いい感じはいい感じですよね?」

「それは、そうよ、間違いなく」

「ついでに聞きますけど、片瀬さんは?」

「私?」

「彼氏とか」

「いないわ」

「なんでですか?つくらないんですか?」

「こっちが聞きたいわ」

「すいません、だって、片瀬さん、美人ですよね、絶対、もてますよね、絶対」

「よくある言い方すると、仕事が恋人」

「出た、ほんとにいるんですかそういう人」

「目の前に。でも、それは言い訳ね、仕事と恋人は別よ、絶対。サボってるだけ、仕事だけして、そう思ってるだけ。恋人もいて、バリバリ仕事してる人なんて、たくさんいるし」

「その気になれば、すぐできそうですけど」

「ありがとう、がんばるわ」







聡樹さん

先日はありがとうございました。まさかあのタイミングでのプロポーズだとは思ってもいなかったので、正直戸惑いました。リナちゃんも、固まってたね。でも。ありがとうございます。私は、たぶん聡樹さんからのプロポーズを待っていたのだと思います。祐未とお別れしてから、私たちの間には埋めることのできない大きな穴がぽっかり空いていたと思います。そして、その穴の周りをぐるぐる回っていることくらいしかできなかった。埋める方法なんてないと思っていた。いつも三人で過ごしていたのに、祐未がいなくなって、急に聡樹さんと二人きりにさせられてしまって、どうしたらいいのか私はわからなかった。聡樹さんの中にはいつも祐未がいることはわかっていたし、祐未を失ってしまった聡樹さんに何をしてあげられるのか、いつもいつも考えていた。でも、結局何もできなかった。ただ、聡樹さんのごはんを美味しい美味しいといって食べることくらいしか。私がいると、きっと聡樹さんは、祐未を思い出すだろうし、もしかしたら私もしばらく聡樹さんの近くからいなくなったほうがいいのかな、なんて考えたりもした。でも、そんなの淋しくてできなかった。私には、祐未と聡樹さんと過ごす時間は宝物だったから。二人が乗る車の後部座席に安心していつも座っている感じ。二人には邪魔だったこともあったと思うけどね。もう東京で生きていくことを諦めようとしていたとき、二人に出会って救われたの。だから二人には感謝しかない。命の恩人。でも、祐未が先にいなくなってしまった。なぜって、神様を恨んだわ。だって、そんなのおかしいものって。聡樹さんのほうがずっと辛いのにね。いつもね、夢を見るの、祐未の夢。夢の中で、祐未はいつも泣いていて、私には背中しか見せてくれない。だから、ただ慰めることしか出来ないの、私は。もう、仕方ないの、祐未は少し早すぎたけど先に天国にいったんだよって。一人で淋しいかもしれないけど、私はもう少しここでかんばってみるから、見守っていてって。私も聡樹さんもいつも祐未のことを思ってるよって。そうすると祐未は、ゆっくり歩き出して去っていくの。でもね、何日かするとまた祐未が現れて同じように泣いている。ここ何年もそんな風だったわ。でもね、この前、聡樹さんが結婚しよう、って言ってくれた日に現れた祐未はいつもと違っていたの。私の方を向いて微笑んでいた。だから、私は、聡樹さんとの事を報告したわ。プロポーズされたんだよ、って。許してくれる?祝ってくれる?って尋ねたわ。祐未は頷いてくれたと思う、そう私には見えたわ。そしてね、ありがとう、って言ってた。言葉は聞こえないんだけど口がそう動いていた。そして、手を振って去っていった。もしかしたらだけど、祐未は、一人で天国にいることが淋しくて泣いていたんじゃなくて、聡樹さんを一人にしてしまったことに対して泣いていたんじゃないかって思ったの。だから、私は聡樹さんと一緒にならなくちゃいけないんだって、それが祐未の望んでいることなんだって思うことにしたの。だからね、これは私から二人への恩返しみたいなもの。命の恩人だから。でも、それだけじゃないの。祐未はやきもちを焼くかもしれないけど、私は、聡樹さんが好きよ。祐未よりも好きになるつもりよ。今度また祐未が夢に現れたら、それで良いって聞いてみるわ。ダメって言われても、困るけどね。私たちの中に、祐未がずっといることは、確実でしょ。祐未のことを忘れて二人で生きていくことなんて出来ないから、聡樹さんが、祐未のことを思っていても私は平気よ。平気っていうより、祐未のことを思っていて欲しいの、ずっと。時々、私もやきもちを焼くかもしれないけど、気にしないで。同じように祐未にもやきもちを焼かせるくらい聡樹さんのことを好きになるから。そうやって、やっぱり私たちは、三人で生きていくべきだと思ってる。側から見たら、ちょっと、変な関係かもしれないけどね。ねぇ、いいでしょ?


沙夜子より




沙夜子へ

メール、ありがとう。僕の考えてることが本当によくわかるんだね、驚くよ。プロポーズをしてみたものの、やっぱり僕の中にはいつも祐未がいる。それをどう君に伝えたらいいのか、わからなかった。時には君の中に祐未を見てしまっていることもあるよ、正直に言うと。でもね、今、目の前にいて心がときめくのは君であることは間違いないんだ。祐未は、もう居ないって分かっている。君の言うように、僕らの中から祐未を消し去ってしまうことは出来ない。それは、僕らが祐未のところに行くまでずっとだ。君が許してくれるなら、祐未を思いながらでも、君と一緒になりたい。君の気遣いに甘えているのは分かっているけれども、それしか今は出来そうにない。

ほんとに、それでいいかい?


聡樹





聡樹さん

だから、大丈夫よ。

私は、祐未にはなれないけど、

あなたをこの世で一番好きなんだから。

この世でね。


PS

この前、祐未が夢に現れたから

言っておいたわ。

祐未より好きになってみせるから、って。

そしたら、笑ってた。


沙夜子より






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by ikanika | 2018-03-28 14:03 | Comments(0)


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