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季節のリレー  連載第三回

 八月の後半の二週間を休みにして、マスターの暮らす長野へ向かった。里夏もその間の仕事は、最小限にしてゆっくり過ごすことにした。ゾーイが一緒なのでペット同伴可の宿を探したのだけれど、さすがに二週間となると泊まれる宿が見つからなかった。マスターに相談すると、知人が持っているというアパートの部屋が空いているから貸してくれることになった。ごく一般的な2DKの間取りで、なんだか引っ越しでもしたような気分を味わえて、それはそれで良かった。宿泊代もマスターの知人ということで信じられないくらい格安で提供してくれた。家から簡単な自炊が出来る程度の道具を持参し、多少の不自由はあったが、それもまた引っ越ししたての頃の夫婦生活を思い出させてくれた。ゾーイは、キッチンの冷たい床が気に入ったようで、ほぼ一日中、そこで寝ていた。タダユキは、コーヒーだけは毎朝ちゃんと豆を挽いてドリップして飲みたかったので、家で使っているセットをそのまま持ち込んだ。豆は最初の一日分だけ持っていき、あとはマスターがお勧めの地元の焙煎屋から買うことにした。タダユキたちの乗用車だとこの辺りを走るのには何かと不便だというので、マスターが農作業をする時に使う軽トラックを貸してくれた。タダユキたちの乗用車は、アパートの駐車場の端に停めて、もっぱら軽トラで移動することになった。「軽トラなら山道も田んぼの畦道も行けるからな」とマスターが言う通り、その軽トラで買い物も散策もピクニックも、何処へでも行けた。試しにゾーイを荷台に乗せてみたが、どうもお気に召さなかったようで狭い助手席に里夏と乗ることを選んだ。

 マスターのカフェと家のある場所は、いわゆる観光地からは離れていて何かの情報でその存在を知らなければ通り掛かりで人が来るということはない。通り掛かるのは、近所の老人だけで、店のお客さんにはなり得ない。

「この辺は特に見るべきものはないから、時間を持て余したらいつでもカフェに来なよ」とマスターは言ってくれたのだが、あまり世話になってばかりでも申し訳ないと思い、里夏とゾーイとにわか田舎暮らしを楽しむことにした。カフェが休みの日にマスターからメールが届いた。

「暑いからプールに行こう!ゾーイも泳げるよ」という内容だった。こんな山の中にプールがあるとは思えなかったが、せっかくのマスターのお誘いだったのでとりあえずマスターのカフェで待ち合わせた。川遊びくらいはするかもしれないと一応水着は持って来ていたのだが、二人ともまさかプールに行くことになるとは想定していなかった。カフェに着くとすでにマスターの車が店の前に停まっていて、トランクをあけてマスターが何やら積み込みをしていた。その車のすぐ後ろに軽トラックを停めた。

「おはようございます」

「おはよう。暑いな、プール日和だよ」マスターは上機嫌だ。

「プールって、近くですか?」

「車で五分。近いよ」

「こんな山の中にあるんですね」

「雑木林に囲まれた気持ちのいいプールだ」

「こんな水着でいいですか?里夏も」

「多分、誰もいないからなんでもいいよ」

「貸し切りですか?」と里夏。

「平日だからな、自然と貸し切りかな。もともとは中学校のプールでね、学校は廃校になったんだけど、町長が元水泳の選手でね、オリンピック代表の。で、彼の希望で、プールだけ町営にして残して、ということ」

「自由ですね、町長」

「別に文句言う人もいないみたいだし、町長をやりたいという人も他にいないから。だから二十五メートルだよ、よくある学校の」

「タダユキ、好きじゃん、そういうの。前になんか言ってたよね。よく夢を見るって。プールの」

「あぁ、今も見る」

「なにそれ?」とマスターの興味を引いたようだった。

「よく見る夢で、真夜中の学校のプールに忍び込んでぷかぷか浮いてるんです」

「なるほど。夜は星も見えるし、ぷかぷかするにはうってつけだよ、そこは。とりあえず行くか」

「はい」とタダユキと里夏は声を揃えた。

「軽トラはここに置いといて、こっちの車に乗って。ゾーイは里夏さんのとこでいいよね」

「はい」とまた二人の声は揃った。

「いい返事。飲み物とつまみは持ったから。お腹空いたらカフェに戻ってくればなんかあるから」

「了解です、ありがとうございます」

「では、出発。でも、すぐ着いちゃうけどね」


 錆びたフェンスに囲まれたプールは、鬱蒼とした雑木林の中にあった。中学校の校舎は取り壊され、駐車場になっていて本当にプールだけが残された感じだ。簡易的なプレハブに一応、シャワーと更衣室があったが、男性は林の陰で着替えれば問題ない感じだ。マスターの言う通り、我々以外は誰もいなくて、誰かが来る気配も全くしない。でも、水はきちんと入れ替えられていて、透明な水がはられ、水面がキラキラと輝いている。町長自らが鍵の開け閉めと手入れをしているということで、朝九時まえと夕方五時まえには町長が現れ、鍵の開け閉めついでにひと泳ぎして帰るそうだ。ゾーイは実は水は苦手でプールサイドから鼻だけ水につけては尻込みをして、また鼻を近づけたりというのを繰り返している。前に一度、知り合いの別荘のプールで泳がせてみたのだけれど、ほとんど溺れそうになって必死でプールサイドから這い上がっていた。犬掻きがどの犬でも出来るわけではないと、タダユキはその時初めて知った。

「里夏さんのクロール上手いね。きれいなフォームしてる。町長にも褒められるよ」

「僕は出来ないんです、クロール」

「俺もだよ」

「本当ですか?」

「無理無理。息継ぎが無理だな。水入ってくるじゃん、どうやったって」

「同じです。里夏に何度か教わったんですけど、無理です」

「だよね」

「二人とも泳がないの?私だけ?ゾーイも泳げないし。マスターは?」

「クロール無理」

「あれ、タダユキと一緒。教えますよ、クロール」

「この歳で水泳教室かぁ」と笑ってマスターは持って来たクーラーボックスから自家製のレモネードを出して美味しそうに飲んでいた。

「二人はお酒飲んでいいよ。ビールもワインもあるから」

「マスターは?」

「大丈夫。これで。ドクターストップ中」

「どこか悪いんですか?」

「そういうわけじゃないけど、この歳になると色々気をつけないとな」

とマスターは曖昧な答えをしたのだけれど、タダユキは杉浦さんのことがあってから、病気の話になると必要以上に敏感になってしまうのだった。マスターと杉浦さんが同年代だということも、過敏になってしまう要因のひとつだった。

三人とも時間を見ずに思い思いに過ごしていたので何時になったのかはわからなかったのたけれど、お腹が空いてきたのでマスターのカフェまで一旦戻ることにした。車の時計は午後一時を少し回っていた。車は木陰に置いて窓を開けていたので温室状態にはなっておらず、すぐに乗って移動できた。

「カレーの作り置きがあるから、それでいい?あと、畑から適当に野菜取って来てサラダ」

「マスターのカレー、ひさしぶりだなぁ」

「イカニカのとは違うよ、もう」

「そうですよね、さすがに」

「でも、うまいよ」

「楽しみです」

カフェは、冷房が効いていて、プールで火照った身体に冷気が心地よかった。マスターは、タダユキにざっとキッチン設備の説明をして、

「俺と里夏さんで畑に行って野菜とってくるから、タダユキは米炊いといて」

と言って、里夏を手招きした。

「了解です」とタダユキが言ったのと同時に、里夏も

「はい、行きましょう」と答えたので、

二人の声が重なってしまい、マスターは一瞬、何言ったんだ?というような顔をしていた。

ゾーイも畑組に加わったので、タダユキはマスターのカフェで一人になった。その空間は、やはりマスターのイカニカの空気感がどことなく漂っていて、はじめての場所なのだけれど懐かしく感じた。トイレを借りようと手洗い場に行くと、イカニカと同じように「一人の居場所」が掛かっていた。#169とあったので、あの頃からずっと続いているのだった。



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一人の居場所 #169


恋の話をしようと思ったけど

それは秘密だったから

きみは誰にも何も話せない


いつも恋は秘密

秘密じゃない恋を

きみは知らない


「秘密じゃなくなった恋なんて、

気の抜けたソーダ水みたいなものだよ」

と彼は言う

「恋は秘密だから、良いんだ」と


わかるような、わからないような


でも、もう秘密は無しにして

秘密じゃない恋を味わってみたい、と

きみは思う


実際、秘密じゃなくなった恋は

泡のようにシュワシュワと消えて行き

それはもう恋とは呼べないものになった


代わりに

世の中にはソーダ水よりも

美味しいものがあることを知った

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マスターは、恋をしているのだろうか、と後で戻って来たら聞いてみようと思う。米を研ぎ、圧力鍋で炊き始めたらもうやることがなくなってしまった。カウンターにぼんやり座って二人の帰りを待った。



「里夏さん、どうタダユキ、書けてる?」とマスターはトマトの熟れ具合を確認しながら尋ねる。

「はい、たぶん。やっぱり古本屋にしたのが正解かと」

「よかった。まだ若いんだから、どんどん書いて欲しいな。里夏さんを射止めた時みたいにね」

「はい。私、タダユキには感謝してるんです。ああいう形でも、私の日常を壊してもらわなかったら今のこの生活は無かったと思っています。タダユキを受け入れないで排除していたら今頃どうなっていたのかなって」

「それもひとつの選択肢だから、わかんないけど。今が良いと思えるなら幸せだよ」

「マスターは?」

「ん?」

「いまの暮らし、どうですか?」

「満足してるよ。タダユキには、俺も物書きしたいから、とか言ったけど、本当はそうじゃない。逃げたんだ」

「逃げたって?」

「上手くいかない恋から」

「えっ?」

「嘘だよ」

「びっくりしたー」

「なんでよ、恋ぐらいするよ」

「いいですよ、マスターは、恋なんかしなくて。なんか違う」

「まぁ、いいけど」

「でも、逃げたって、何からですか?」

「まぁ、逃げたくなるものはいっぱいあるよ」

「誤魔化してますね、あとでタダユキと追求させてもらいますから」

「お腹空いたね」



 二人が野菜を抱えてカフェに戻るとタダユキはカウンターでうたた寝していた。里夏が肩を揺すると、ビクッとして起きた。

「あー、おかえり。寝ちゃった」

「暑かったからな、ご飯は?」

「炊けてます」

「よかった、炊かないで寝てたら、最悪だから。野菜はこれ。すぐ食べよう」

そう言って、マスターは手慣れた包丁さばきでサラダを作ってくれた。里夏は横でカレーを鍋で温めて、炊きたてのごはんにルーをたっぷりかけて準備が整った。里夏は、カレーのルーは、通常お店で出てくるものの二倍くらいないと気が済まないので、それを見ていたマスターは案の定、

「里夏さん、豪快にかけるね!」

という一言を言わずにはいられなかったようだった。やはり、カレーにはビールだな、ということで、酔いが覚めてから車で帰ればいいよ、とマスターが言うのでみんなでビールで乾杯した。みんな余程お腹が空いていたのか、黙々と一皿目を平らげ、おかわりは食べられる分だけ自分でよそいにいった。お腹が落ち着いたので、マスターがコーヒーを淹れにカウンターに立った。里夏は、さっきの続きが聞きたくて仕方がなくて、タダユキに畑でマスターと話したことを簡単に説明し、早速質問を投げかけた。

「で、何から逃げたんでしたっけ?」(続く)






by ikanika | 2017-07-13 13:04 | Comments(0)


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