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『ミルク』

ミルク




 冷蔵庫には、いつも牛乳がある。一人暮らしを始めた最初からそうなのは、実家にいた時から当たり前のようにそうだったからで、今も週に何度かは牛乳を買いにスーパーに行く。もう成長期の子供ではないのだから、毎日飲んだところで身長が伸びたりはしないし、カルシウム不足で骨折を心配しなくてはいけない年齢というわけでもない。それでも、基本、毎日牛乳を飲む。実家にいた時からずっとM社の牛乳だったからいまでも必ずそれを買う。他のメーカーのものが特売になっていたとしても浮気はしない。味がどうとか、ではない。パックの牛乳の味の違いなんて私にはよくわからないと思っている。ただ、母がそれをずっと買っていたから、それがいいんだろうというくらいの理由だ。しかし、今日はいつものM社の牛乳を手にした時に、ふと思った。母は、なぜいつもこれだったのか?と。他の食材などは、特売日を狙って買い物に行ったり、数円安いという理由で隣町のスーパーまで自転車で走って行ったこともあったのに、牛乳は特売とかは関係なく、いつもM社と決まっていた。もしかしたら、父がそれじゃなきゃダメだ、というようなことを言った可能性はある。父は毎朝、牛乳を飲んでいた。健康の為、だと言って「お前も飲め」と私にも勧めてきた。勧めるというより、ほぼ強制に近かったけれど。それで、未だに毎日飲むようになったのだ、きっと。会社帰りのスーパーで手にしたM社の牛乳を買い物カゴに入れながら、そんなことを考えていた。あとで母に電話してきいてみよう。「どうして牛乳はいつもM社なの?」と。

 最近は賞味期限の近いものを買うようにしている。今までは棚の奥の方から賞味期限の長いものを選び出していたのだけれど、食品ロスのニュースを見てからはそれをやめた。いつも必ず賞味期限が来る前には飲みきっているのだから。私がその賞味期限の近い牛乳を買わなかったら、もしかしたら廃棄になってしまうのかもしれない、と思うと自然とそうするようになった。おそらく私が買わなくても他の誰かが買っているのかもしれないけれど、私が買えば一つ何かが解決するのだという感覚がここちよいと感じている。それでも、持ち帰りの袋はもらってしまう。その度に「エコバッグ持って来ればいいのに」と自分に問いかけてみるのだけれど、朝、エコバッグを鞄に入れて出勤するということがなぜか出来ない。私がスーパーでもらった袋が、回り回って太平洋のクジラや魚の胃袋から発見される可能だってあるのに、ということまで想像できるのだけれど。中途半端なエコ感覚の持ち主である自分をどこかで許してしまっている。

 家に帰り、そのスーパーの袋から牛乳を取り出して冷蔵庫のいつもの場所に入れる時に、母に電話をしてきいてみようと考えていたことを思い出した。実家、という名でメモリーしているので「し」を検索して電話を掛ける。必ず留守電に切り替わる。切り替わったら私は「おかぁさん、私、文香、出て」と大きな声で呼びかける。すると「はいはい」と母が電話口に出る。いわゆるオレオレ詐欺対策でそうしているのだけれど、それが正しい対処法なのかは知らない。

「お母さん、今も牛乳買ってる?」とすぐに本題に入る。

「何よ、いきなり、買ってるわよ、お父さんが毎朝飲むから」

「M社の?」

「そうよ」

「なんでいつもM社なの?わたしがいた時もずっとそうだったよね?」

「なんでって、、」と母は言い淀む。

「お父さんがそれが良いって言ってるとか?」

「ちがうわ、お父さんはなんでもいいはずよ」

「じゃあ、どうして?」

「なんで、そんなこと急にきくの?」

「なんとなく、さっきスーパーで牛乳買ってる時に思ったの。なんでいつもM社買うんだろう、って。横に他のメーカーのが特売で置いてあるのに、って」

「文香も買ってるの?」

「そう、お母さんがそうしてたから自然とそうなってる。だからお母さんがM社にしてる理由はなんなのかなって単純な疑問よ」

「そう、じゃあ、今度帰ってきたら教えてあげるわ」

「なんでよー、今じゃだめなの?」

「そうね、今はちょっと」

「変なの」

その日の電話では、母は頑なに理由を言わなかった。あとになってわかったことだけれど、近くに父がいたから母は言えなかったのだ。



 母の日の週末に実家に帰る。電車で一時間くらいの距離だから帰ろうと思えばいつでも帰れるのだけれど、最近は、だいたい三ヶ月に一度くらいのペースで顔を出している。自分では頻繁に帰っているつもりだけれど、両親からすると、たまにしか帰ってこない娘、という認識みたいだった。三カ月くらいだと毎回そんなに真新しい話題があるわけはないから、どうでもいい世間話をして帰ってくることになる。でも、今回は牛乳の件をどうしても母にきいてみたかった。「どうしていつもM社買ってるの?」と。土曜日の昼に帰ったので、父はゴルフで夕方に帰ってくるようだった。聞き出せるチャンスだ。手土産に持っていった和菓子を母と食べながらおしゃべりをした。毎年訪れる母の日は、我が家ではもう何もプレゼントはしない。母も、ただ顔を見せてくれればいいと何年か前から言い始めたから。ひとしきり近況報告と世間話をして話題が尽きた時に、牛乳の件を切り出してみた。

「ねぇ、この前電話で話した牛乳の件、教えてよ、なんでいつもM社買ってるのか」

「そんなに知りたいの?」

「だってお母さんが教えてくれないから」

「お父さんがそばにいたから言えなかったのよ」

「どういうこと?それ、お父さんに聞かれたくない理由なの?」

「まぁ、もうどうってことないかもしれないけど、もしかしたらね、聞きたくないことかもしれないから」

「なに、気になる」

「お父さんと結婚する前にお付き合いしていた人がいてね、その人がM社に就職したのよ。もう、昔の話よ」

「それで?」

「まぁ、なんとなくね。彼の会社の商品を買ってあげようかなって」

「それで、ずっと?」

「まぁ、そういうことになるわね」

「えっ、もしかして、お母さん、ずっと好きだったとか?」

「まさか、それはもうないわよ、とっくの昔に。思い出よ、若かった頃の思い出よ」

「お父さん知ってるの?それ」

「知らないわよ、そんなこと」

「聞かれたことないの?なんでいつもM社なのかとか」

「お父さんは、どこの牛乳かなんて知らないんじゃない。わたしがコップに入れてあげてるんだから」

「そんなもの?毎朝飲んでるのに」

「そんなものよ、男の人なんて」

ちょっとびっくりした。母からこんなロマンティックな話が聞けるなんて思ってもみなかったから。母は、もう昔のこと、若かった頃の思い出だと言っていたけれども、ほんとうにそうだろうか。自分に置き換えて考えてみても何十年もずっと同じ牛乳を買い続けるなんて、思い出だけで出来るとは思えない。だからといって、これ以上母に何かを問いただしたとしても何も答えてはくれないだろうし、そんなことをする必要もないとは思う。では、父はどうなんだろうか。ほんとうになにも知らずに何十年も毎朝同じM社の牛乳を飲み続けていたのだろうか。男の人なんてそんなものよ、と言う母の認識は正しいのだろうか。



 父の日に、二人で飲みに出かけないかと父を誘った。父は嬉しそうに「いいよ」とだけ言った。実家のある駅前の商店街に、中学校の同級生が居酒屋をやっていたことを思い出してSNSで連絡を取ってみた。高松くんというその男子は高校までずっと野球をやっていて甲子園にも一度出場していた。父は少年野球のコーチをしていたから、高松くんは、父のことをコーチと呼んでいた。高校を卒業する時、ドラフト会議にのるまでではなかったけれど、プロの入団テストを受けて見事に合格してプロの世界にも足を踏み入れた。しかし一年目に怪我をしてしまって、あっけなく野球選手の夢は諦めて、実家の居酒屋を継いでいた。お酒を飲める年齢になりたての頃、その居酒屋には同級生と何度か行ったことがあったけれど、それも、もうずいぶん前のことで連絡をとってみても高松くんが覚えてくれているか不安だった。けれど、すぐに返事をくれて「コーチと二人だったらお座敷がいいよね」と言って小上がりの席を用意してくれた。私は中学校の時、高松くんが好きだった。好きと言っても、運動の出来る男子がカッコよく見えたということに少しだけ色が付いたという程度で、それを初恋と呼んでいいのかどうかは未だに分からない。たぶん、恋に似た何か、のようなものだったのだろうけれど、それをどう呼んだらいいのかわからなかった。だから高松くんにもその気持ちをどう伝えたらいいのかわからずに、何もせずに終わったのだった。昔、初めて彼の居酒屋でお酒を飲んだ時に「家で缶ビールをグラスに注ぐときは泡だてないようにすると美味しいよ、無理に泡を作ったりすると美味しくなくなるから」と言われて、いまでもそれをずっと守っている。そのことを不意に思い出して、これは母の牛乳のことと似たようなことなのではないかと、夜中にひとりで笑ってしまった。



「父の日、おめでとう。いつもありがとね」と言って、ありきたりだけれどゴルフウェアをプレゼントした。母の日のプレゼントはやめたのだけれど、父の日にはまだ何かしら渡すことにしている。それは、たぶん我が家では父の日を祝う習慣が母の日より後から始まったことだから、だと思っている。いずれ、父も母と同じように顔だけ見せてくれればいい、と言い出すかもしれないし、ずっと毎年プレゼントを楽しみにしているかもしれない。それは、父次第で私にはわからない。

「おっ、いいねぇ、早速、今度着るよ」と父は喜んでくれた。

父と娘の会話なんて、テンポよく続くわけもなく、お互いに、ぼそりぼそりと言葉を発しては、料理に手を伸ばし、グラスを傾け、淡々と時間が過ぎていった。途中、高松くんが料理を運んできてくれた時だけ昔話で盛り上がったくらいで、あとは側から見たら楽しいのかどうかわからないといった感じだっただろう。けれど、当事者二人はものすごく楽しかった。少なくとも私はそうだった。父も言葉には出さなかったけれど、こんなに長時間ツーショットがもったことは今までなかったのだから、楽しかったに違いない。母の牛乳の話題は、やはり最後に切り出すことになった。どう話を切り出せばいいのか、お座敷に案内されてからずっと考えていたのだけれど、これといったタイミングなんて訪れては来ず、唐突に話を切り出すしかなかった。

「お父さん、まだ毎朝牛乳飲んでるの?」と。

「ん?飲んでるよ」ちょっとだけ怪訝そうな表情を見せたので、後が続かない。

「なんでだ?なんでそんなことをきくんだ?」

まずい、何をいえばいいのかわからない。咄嗟に出たのは

「私も」だった。

「文香もか、それはいい、いい習慣だ。体の調子がいいだろ」

「まぁ、そのせいかはわからないけど、健康よ。会社の健康診断でも毎年なにも異常ないし」

「それは牛乳のおかげだよ」

まずい、このままだと単なる牛乳談義になってしまう。話したいのはそういうことじゃないのだ。

「私、いつもM社のなんだけど、お父さんは?」

「そうか、お母さんもM社しか買ってこないから」

「やっぱり、美味しいよねM社」

「どうなんだ?他のを飲んだことがないからわからないなぁ、正直」

「全然?」

「あぁ、全然ない、他のは」

「お母さん、徹底してるね、なんでだろうね?」よし、いい感じで外堀を埋めている。そして父の言葉を待つ。

「文香、知ってるのか?」えっ、想定外の質問返しだった。父は、なんのことを言っているのか、わからない。焦る。

「知ってるって、何を?」とりあえずとぼけてみる。

「母さんがM社の牛乳しか買わない理由」

「理由があるの?」さらにとぼける。まさか、父は知っているというのか。

「母さんが昔好きだった奴がM社なんだよ」

リアクションが出来ない。父は知っていたのだ。

「聞こえてるか?文香」

「うん、聞こえた、そんな理由?びっくり」下手な役者みたいな言い方しかできない。

父は話を続ける。

「母さんは知られてないと思ってるだろうけどね。どこの牛乳だか知らないで毎朝飲んでいるんだと」

「お父さん、それ知っててずっと黙って毎朝飲んでるの?いつから」

「いつ、ってもうたぶん最初からだよ、そのうちM社じゃない牛乳も出でくるだろうなって思ってたけど、今までずっとM社だ」

「嫌じゃないの?それ」

「もう気になんないよ、さすがに」

「そういうもの?」

「だってもう何十年も一緒にいるんだ、母さんとは。母さんがそうしたいならそうすればいい。父さんだって、この歳になっても昔好きだった子のことを思い出したりするしね。そういうもんだよ、いくつになっても。だからといって、母さんとの間になにかが起こるわけじゃない」

「そっかぁ、わたしには、なんだかわかんない世界かな」

子供には到底わからない夫婦の関係性があるのだろうと想像するしかない。

「母さんには、言うなよ、ずっと知らないことでいいんだから、な」分かっている。娘の私が立ち入れない二人の場所があるということなのだ。これ以上、ずかずかと娘だからといって踏み入るのは、やめなくてはいけない。母さんは、幸せだなぁ、と少し酔って上機嫌な父を見て思う。

「文香、知ってるか?高松くん、お前のこと好きだったんだぞ、昔」唐突に父が言う。

「えっ、何言ってんの?お父さん、酔ってる?」

「お前には言わなかったけど、相談されたんだよ、コーチ!文香ちゃんは好きな男子いるんですか?って」

「それで、なんて答えたの?」

「いるよ、お前だよ、って言ってやった」

「何それ?いつの話」

「中学生の時だよ、そしたら、ありがとうございます、がんばります、って帽子を取ってお辞儀してたよ。てっきり告白でもするのかと思ってたんだが」

「えぇー、なにもなかったよ」

「どうなんだ?今は」

「どうって?」

「決まってるだろ、結婚だよ」

「相手がいないと、できないよ」

そのタイミングで高松くんが締めのおにぎりとお味噌汁を持って登場する。間がいいのか悪いのか、どっちなんだろうかと、私は、お盆を持った高松くんを見上げる。そして、父がなにも口走らないようにと願っていたのだけれど、ダメだった。

「高松くん、文香はまだ一人だぞ、お前、文香が好きだったんだろ」と酔っ払いの父は言った。

「高松くん、ごめんね、お父さん、酔っ払ってて」

「コーチ、飲み過ぎですよ、いったい、いつの話してるんですかぁ」と高松くんは、少年のような笑顔をして持ってきたおにぎりとお味噌汁を私たち二人の前に並べていた。父は嬉しそうに高松くんの肩をポンポンと叩き「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と繰り返し言ってから、私の方に向き直って頭を何度か頷くようにもたげて何かを言うのかと思ったら、そのまま酔い潰れて寝てしまった。取り残された私と高松くんは、お互いに顔を見合わせて笑い合うしかなかった。そして、父の言った「ありがとう」は、ほんとうには、私に対して発せられるべき言葉じゃないのかなぁ、と思っていた。もし、そうじゃなくて高松くんに対してだとしたら、何に対してなのかを、私はずっと考えていた。




--------------------------------
あとがき

五月と六月は、母の日と父の日があって、普段よりも
家族のことを考えたりする機会があるように感じます。
父の日がどういう背景があるのかは知りませんが
(ウィキペディアを見ればわかるんでしょうが)
やはり母の日よりもまだマイナーな感じがします。
そんなことをぼんやり思っていて出来上がったストーリーです。
来週は、父の日。皆さんは、どんな父の日を迎えるのでしょうか。

cafeイカニカ
平井康二

# by ikanika | 2019-06-07 16:09 | Comments(0)


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