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揺らぐポートレイト  連載第二回

 雪仁は、三年前からフリーのレコーディングディレクターをしている。レコーディングをするアーティストの録音現場を取り仕切る仕事と言えば、なんとなく想像つくかな、と美苗に説明したことがあるのだけれど、実際どんなことをしているのかがわからない、と言われた。おそらく大多数の人がそう言うだろうと雪仁も思っているのだが、他に上手い説明が思いつかなかった。ある日テレビを見ていると、新人アーティストのレコーディング風景が映っていた。

「雪仁は、どれ?」と美苗が大きな声できくので、雪仁は立ち上がって画面の前まで行き、アーティストが入っているガラスブースの外で椅子に座って何かと指示を出している男を指差して、「こいつ」と言った。

「偉そう」

「偉いよ、現場監督だから」

「へぇ、すごいじゃん」

「いまさら知った?」

「でも、大変そう。雪仁がオッケー、とか言わないとダメなんでしょ?」

「そうだよ」

「責任とれないよ、そんなの、あたしだったら」

「だから、売れなかったら、クビ。次はない」

「こわー」

「売れればいい」

「そうだけど、売れる売れないは、雪仁だけの責任じゃないじゃん」

「まぁ、そうだけど、一番責任取らせやすい。あんな風に偉そうだから」

「偉そうにしなければいいじゃん」

「偉そうにしないと、現場が締まらない。アーティストとかミュージシャンは、時間とか予算とか関係ないから、黙ってたらいつまででもやってる。だから、僕が適当なところで終わらせる為にいる。オッケーイコール終わりってこと。信頼感のある憎まれ役」

「かわいそう」

「だよね」

「やめちゃえば」

「なんで?」

「だって、なんだか理不尽よ」

「でも、音楽も録音現場も好きだから」

「売れるといいね、神倉さん」

「神倉さんの作品は、多分、十年後も聞かれると思うよ。普通にヒットするとかしないとかいう尺度じゃないところで残っていくと思う」

「でも、ヒットしないと雪仁はクビでしょ」

「そこが微妙なとこだな、神倉さんの仕事は」

「あたしも好きよ、彼女の歌」

「ありがとう」

美苗との会話は、いつも自由だ。雪仁には、その自由さが今の自分にとって救いになっていると思っている。

 その後、ヒロセカツミことktmhrs76からはメールはなく、美苗も「香津海じゃなかったのかな」と自分の推理に自信をなくしていた。六月になると雪仁が通っているジムのプールは、天気が良い日には開閉式の天井を開けるようになる。そのタイミングで美苗も気まぐれに「あたしも泳ぎたい」と言って、ジムについてくる。しかし、雪仁は、もっぱら朝早くに泳ぎにいくので、朝が弱い美苗とはなかなか一緒に出かけられない。それでも、月に三、四回は、二人で早朝のプールに行く。

「この前、綺麗なクロールの女性がいたって言ってたよね」

「残念ながら、あれ以降、見かけない」

「今日とかいないかなぁ、いたら競争するのに」

「競争?」

「どっちが綺麗か競争。雪仁が審判」

「フェアーなジャッジが出来かねます、身内なので」

「いいよ、別に、その人の方が綺麗だと思ったらそう言って」

「いや、美苗の方が綺麗だった」

「テキトー、あたしの泳ぎ、ちゃんと見てないくせに」

「見てるよ」

「うそつき」といたずらに笑って、美苗は更衣室に入っていった。

 雪仁は、着替えを済ませ先に泳ぎはじめていた。ターンをしてコースを反対方向に戻っていると、一番端のコースに女性が飛び込み、綺麗なフォームのクロールをしていた。そのコースは、前に見たあの女性が泳いでいたコースだったので、もしかしたらと思って美苗を探しつつ端のコースの女性が泳ぎ切って上がってくるのを待った。美苗の姿が見当たらないうちに、端のコースの女性が上がってきた。よく見るとそれが美苗だった。

「雪仁、見てた?あたしの泳ぎ」

「綺麗なクロールの女性かと思った」

「綺麗なクロールの女性じゃないの?あたし」

「いや、綺麗」

「テキトー」

「本当に、綺麗なフォームだった」

「アーウィンショーよ、それじゃあ」

「夏服を着た女たち」

「競泳水着を着た女たち、だよ」

「クロールで泳ぐ女たち」

「競泳水着でクロールする女たち。どれもイマイチ。やっぱり、夏服だね」

「サマードレスの訳なんだよね、あれ」

「サマードレスの女たちじゃ、なんか、いけ好かないね」

「いけ好かないって、いいね」

「なにが?」

「なんとなく、的を得ている」

「ありがと」

そろそろ混み始める時間なので、雪仁と美苗はいつものパン屋さんに寄ってから、家に帰って朝食にすることにした。

「やっぱりいなかったね、クロール美人」

「うん」

「雪仁、本当に見たの?もしかして、ぷかぷか浮いているうちに夢でもみてたんじゃない?」

「いや、見た、夢じゃない」

「クロールトラウマで、クロール美人が出てきたんだよ」

「・・・」そう言われると雪仁はそんな気もしてくる。もともとプールにぷかぷか浮いていたのは夢の中のことで、この前は誰もいないのをいいことに悪ふざけで浮いてみたのだ。それもほぼ徹夜明けだった。寝てしまっても不思議ではない。だとしたら、この前信号待ちの交差点で見かけた女性はなんだったんだろう。雪仁の中では日が経つにつれて、あの女性がクロールをしていたと確信を持って言えるようになっていた。でも、それが七瀬香津海なのかどうかは雪仁にはわからない。六年前にほんの数回、家に来て食事を一緒にしただけなので、正直、記憶が曖昧なのだ。ただ、七瀬香津海という名前は、女優さんの名前みたいだね、と会話をしたので記憶に残っているのだ。

 その日は、雪仁は午後からスタジオで美苗は、夕方から打ち合わせでそのままご飯を食べて帰ってくるという。なので雪仁の夕食は、外食か、スタジオで弁当か、早く終われば帰ってきて作る、という三択になる。自分の車での移動なので、前者二つは晩酌が出来ない。やはり晩酌はしたいので出来れば帰ってきて作りたいのだけれど、録音が予定通りに終わるかはやってみないとわからない。今日は、神倉さんの録音ではなく、急に今日中に一曲だけ仕上げてほしいという単発の仕事なので終わりの時間は全く見えていないのだ。ギャラがよかったので受けたのだけれど基本あまりやりたくない仕事だった。案の定、現場はアーティスト、事務所、レコード会社、タイアップのクライアント、代理店と録音作業には直接関係のない輩がわんさかといて、全くクリエイティビティのない録音だった。雪仁は、時間をかけたからといっていいものが出来上がる現場ではないと判断し、そこそこのところで終わらせるつもりで臨んだ。おそらく事務所の社長がキーマンだろうと判断し、基本、社長に意見を求めることにした。社長は、雪仁と同学年だということが途中から判明し、ただそんなことだけで雪仁のジャッジを百パーセント信頼し、作業は予定よりも早く終了し、みんな満足気に帰っていった。予定よりもずいぶん早く解散になったので、家で晩酌が出来るなと思い、途中買い物をして帰ろうと家に向かって車を走らせた。いつものジムが近づいて来て、まだずいぶん時間が早かったので、ちょっとだけ泳いでから帰ろうかと思いつく。もしかしたら、クロール美人がいるかもしれないし、とも思いつつ駐車場に車を停めた。いつもの受付けの青年は、雪仁が普段来ない時間に現れたので、「珍しいですね、こんな時間に」と声をかけてきた。

「仕事が思いのほか早く終わって。晩飯までちょっと時間があったから寄ってみた」

「ありがとうございます。ちょうどプール、ガラガラですよ」

「ラッキー」

 この時間は、いつもこんな感じなのかと水着に着替えて、プールに向かう。外は少しだけ暗くなり始め、照明が点いたばかりという雰囲気だった。天井も開いていて、とても気持ちがいい。早朝もいいが、夕暮れ時もありだなと思いながらクロールをする。誰かが現れる気配もなく、雪仁の一人の時間がゆっくり流れる。受付けの青年にクロール美人のことをきいてみようかと、考える。あれだけ綺麗なフォームでクロールをするのだから、知っているはずだと思う。しかし、もし、美苗が言うように本当に雪仁の夢だとしたら、変わり者だという噂がジムのスタッフ内に広がりかねない。それはリスキーだと考えて聞くのはやめた。一時間ほど泳いで、着替えを済ませて男子更衣室を出ると、同時に隣の女子更衣室に誰かが入っていくのがわかった。はっきり姿を見たわけではないのだが、なんとなくあの女性のような気がした。もう着替えてしまったし、また更衣室に戻って着替えるのもずいぶんおかしな行動だし、さっき男子更衣室にも一人これから泳ぐ為に着替えをしていた人もいた。雪仁が戻ってまた水着になったらなんと思われるだろう。どう考えても、プールに戻るのはやめたほうがよさそうだった。二階からガラス越しにプールが観れるはずだと思い、とりあえずロビーに出て階段で二階に上がった。手ぶらも変なので、自動販売機で水を買い、スマホを片手にガラスの前に立ってプールを見下ろす。撮影禁止のマークがあったのでスマホはポケットにしまった。しばらくすると、あの女性らしき人が帽子とメガネをかけて、プールサイドに現れた。二階からだと遠くてやはり顔は認識できないが間違いなく彼女だと思えた。この前と同じように一番端のコースに綺麗に飛び込んだ。まるで魚のように滑らかな入水だった。その後、あの綺麗なフォームでクロールをする。この前の美苗のクロールと区別がつかない程似ていた。美苗の言っていた綺麗競争をしたら、ジャッジできないくらいにどちらも綺麗だと雪仁は思う。しばらくぼんやりとそのクロールを眺めていると、泳いでいるのは美苗なのではないかと思えてきた。そう思い始めると見れば見るほど美苗にしか見えない。更衣室の入り口で感じた気配は、あの女性を探すことに囚われている自分の勘違いだったのではないか。プールサイドに上がった女性は、帽子とメガネを取り、首を寝かして耳に入った水を出している。よく見るとやはり、それは間違いなく美苗だった。打ち合わせと食事会と言っていたのにどうしてここにいるのだろうか。なにか事情があってキャンセルになったのだろうか。とにかくロビーで美苗が出てくるのを待つことにした。

「美苗」

「あれ、なにしてるの?」

「同じ質問を返すよ」

「編集長が急性胃炎とかでドタキャン」

「録音、早く終わらせたから」

「なるほど」

「なるほど」

「気があうね、私たち」

「でも、こんな時間に来たのは初めてだよ」

「あたしは、そうでもない」

「そうなの。買い物ついでに時々。いつもガラガラだからこの時間」

「そうだよね、ガラガラ」

「買い物した?」

「まだこれから」

「じゃあ、して帰ろう」

「うん」

 車に乗り込み、家とは反対方向の駐車場の広いスーパーに向かった。家の近所のスーパーは駐車場が小さいので、この時間はタイミングが悪いと駐車待ちになってしまうのだ。

「今日もクロール美人いなかったね」

「実は、僕、二階からずっと見てたんだ、クロール美人」

「えっ、いたの?」

「クロール美人だと思って見てたら、美苗だった」

「なにそれ」

「見分けがつかなかった、泳いでいる姿だと」

「そんなに似てた?」

「うん、一緒。綺麗競争しても勝負がつかないよ」

「なにー!」

「やっぱりさ、夢だよ。夢であたしが泳いでるのを見たんだよきっと」

「そんな気がしてきた」

「そういうことにしておきな。クロール美人は、実は妻でした、って。たぶんさ、あの絵、肖像画描いたでしょ。それでさ、夢に出てくる片思いの女の子もさ、あたしに入れ替わったんだよ。夢の中の過去を追認した結果。だから、残念ながら片思いの女の子の思い出は消えてなくなっちゃったんじゃない」

「なんと。美苗が片思いの女の子か」

「そう、雪仁は、中学生の時の片思いの女の子と結婚できた幸せな男でした。めでたしめでたし」

「微妙。淡い思い出が消えたか」

「叶わなかった恋はいつまでも美しいからね」

「歌詞みたいだな、売れない歌手の」

「だから、忘れていいの」

「なるほど。美苗、説得力ある」

「今日、なに食べる?」

「蒸し暑いから素麺?」

「いいね、ネバネバいっぱい買っていこう。納豆、オクラ、長芋、あと、なんだ?」

「もずく?とか」

「そんな感じ。あとビール」

買い物を終えてスーパーの駐車場に出ると、美苗が立ち止まり急に振り返って

「香津海?」と言った。

声を掛けられた女性は、振り返り美苗を見つめる。しばらくして、ようやく美苗だとわかり、

「美苗」と小さな声で言った。(続く)



by ikanika | 2017-09-02 23:13 | Comments(0)


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